遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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白鷺は飛んでゆく

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白い姿の鷺は、その優雅な姿とは裏腹に、農家の人達から忌み嫌われる存在。知り合いは、鷺を見つけただけで石を投げたりして追い払うという。それでも古来から歌にも詠まれ、否定できない味わい深い鳥となっている。普段は警戒心が強くてなかなか近付けないが、唯一近付ける時期が真冬の、かなり気温が下がった早朝である。底冷えのする寒さの為か、警戒心より、あまりの寒さに固まっている状態となっているようだ。以前の撮影画像が無くなった為、今年の冬は鷺の撮影をしてみようか。
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by dostoev | 2015-11-15 22:21 | 遠野の自然(秋) | Comments(0)

「遠野物語15(農業手伝神)」

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オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家と云ふ。此家にて或年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、僅ばかりの田を植ゑ残すことかなとつぶやきてありしに、ふと何方よりとも無く丈低き小僧一人来りて、おのれも手伝ひ申さんと言ふに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰り来て終日、代を掻きよく働きて呉れしかば、其日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には来て物を食ひたまへと誘ひしが、日暮れて又其影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あのたありて、段々に坐敷に入り、オクナイサマの神棚の所に止りてありしかば、さてはと思ひて其扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。

                                     「遠野物語15」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐々木喜善「遠野物語のザシキワラシとオシラサマ」によれば、その時代の田植えの日取りは、小正月の日に決められていたのだという。

「何の某の田植えは節句から、何日のいッかと取り定められてあっても、不意にお産か何かの故障のために、サセトリ(鼻取り)早乙女、トネ人、ボナリなどの、不意に欠くることがあった。家婦新嫁などが前夜寝ずに村中を廻り歩いても、もう何家でも日取りがあって如何ともならぬ仕義。」

この喜善の言葉の通り、小正月の時に田植えの日取りを決めても、春の田植え時期に、お産やら怪我やら、いろいろな事によって、人が欠けてしまうのは仕方ないが、周囲もそれを融通して、日程変更する事も無いというのが、少々驚きでもある。佐々木喜善が、何故に小正月に田植えの細かな日取りを決めたのか記していないが、もしかしてそれは、オシラサマの占によるものではなかったか?オシラ神による託宣であったからこそ、田植えの日を変更する事無く厳粛に受け止めていた可能性はないだろうか。

こうして田植えに人が欠けた時に主のなす仕事は、鎮守の神様に馳せ詣る事であったそうだ。佐々木喜善の家では、ダンノハナの北側にある熊野様に参詣する事になっていたそうである。
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オクナイサマ、もしくはオシラサマが田植えを手伝う話はいくつもある。泥の付いた小さな足跡を辿ると、オクナイサマやオシラサマのいた場所に行く着くので、田植えを手伝ってもらった話として昇華している。しかし、オシラサマには、足が無い。足跡というから、二つの足で歩んだ足跡がついていたのだろうから、これはおかしい。だがこれも、日々の信仰から来るものであった。神に対して、供物などの物を捧げるのは、神に対する感謝でもあるが、その供物を毎年安定して捧げれるよう、つまり毎年の五穀豊穣を神に対して願っているのでもある。その供物だが、それは作物や酒だけでなく、その作物を生み出す土もまた同じである。例えば、同じ五穀豊穣を願う稲荷神社の鳥居は赤色である。その赤色は火を意味し、陰陽五行の法則から火生土となり、野焼きの様に火の後には、豊かな土が生れると信じられていた。そして、豊かな土があるからこそ、豊穣がなせるのである。つまり、この泥の付いた足跡とは、主が神に対して土を捧げ、その土から生れる五穀豊穣を願った事を、神仏の手伝い譚として伝えられたものと思う。
by dostoev | 2015-11-12 21:11 | 「遠野物語考」10話~ | Comments(3)

「遠野物語拾遺76(オシラ神の名と形)」

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神の数は伝説その他から考えて、当然に二体であるべきであるが、四体または六体の例も稀では無い。気仙の盛町の近在には、十二体のオシラサマを持つ家もあるといい、二戸郡浄法寺村の野田の小八という家では、オシラは三体でその一つは小児の姿であるという。しかし普通には村々の草分け、即ち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。そうするとあるいは家を分けて後に出た家だけが、何か理由があって新たにその数を加えたものでは無かったか。土淵村五日市の北川氏は、今は絶えてしまったが土淵の草分けと伝えられていて、この家のオシラサマは二体であった。その分家の火石の北川家では四体、そのまた分家の北川には六体であった。その形像も火石北川の本家の四体にには馬頭のものも交っているが、分家の六体はすべて丸顔である。田の代掻きの手伝いをしたという柏崎の阿部家のオシラサマは四体であった。一体は馬頭で一体は烏帽子、他の二つは丸顔である。長はいずれも五、六寸で、彫刻は原始的だが顔に凄味を帯び、馬頭などはむしろ竜頭に似ている。

                                    「遠野物語拾遺76」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」を読むと、あらゆる事例が記されている。この「遠野物語拾遺76」に書かれている、数に関する話で気になったのは、気仙郡の鈴木家に伝わるオシラサマであり、祖父の代6体であったのが、父の代になって一体増やしたとある。その理由は"巫女以外の者には解き得ぬ事である"と結んでいる。つまり、増やすのは巫女・・・ここでは家巫女として存在した、祖母の事であろうか。ただ、衰退した家運の家では、オシラサマを増やす事は無かったようである。

また、この「遠野物語拾遺76」では、「草分け、即ち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。」とは書いているが、佐々木喜善によれば、大同の家にはオシラサマは無かったが、山崎の作右衛門という人の家から別れて、大同の家にオシラサマが来たという事らしい。となれば「遠野物語24」において、大同家の初めが坂上田村麻呂時代なのか、それとも南部時代なのかという歴史の混同の帰結が、どうも南部時代になりそうである。ただオシラサマの歴史がどれだけ遡るかはよくわからぬが、佐々木喜善の意見に何となくだが、納得出来るものがある。佐々木喜善は、オシラサマをアイヌの信仰からきている説を唱える学者に対し、こう言い放っている。

「我等が家には先祖代々の遠い昔から、この神があったのである。そして又我等の祖先の人達は、勿論これはアイヌの神の名残であるなどとは信じなかった。アイヌとは犬の事だと思ったり、犬と人間の合いの子だと考えていたり…。」

アイヌとエミシの混同は、未だに決着をみていない。ただエミシであろう奥州藤原氏のミイラのDNAを調べると、アイヌとは違っていたようだ。しかし、東北に拡がるアイヌ語地名から、アイヌがかって住んでいたとされる為、エミシとアイヌはどこかで繋がっていたのではないかとされている。また「古事記」の一文が理解不能であったのが、アイヌ語で訳して、やっと理解出来た事例もあった。ただ遠野という閉ざされた田舎は、口承伝承の存在は大きかった。現代とは違い、その土地に長く住み続ける事、その血を代々繋げ続いている事が自負でもあった時代、祖先から伝わるのは家系の矜持でもあった。つまりオシラサマを信仰し続けた事が、祖先の継承であり矜持であると思って良いだろう。そこにはアイヌという言葉が微塵にも入る込む余地は無いと思える。確かに、アイヌという知識が無い者が、突然"アイヌ"という言葉を聞いて「犬?」と思うのは自然な事ではなかろうか。

また佐々木喜善はオシラサマについて、こうも語っている。

「あったから祭っているという方がこの神の素質には自然であり、かつ遠い起源を自ら物語っている。何所に行っても我々が祀り始めたとは言わぬ。」

遠野には、ヒョウハクキリ(ホラ吹き)などが大勢いたという。そういう中で、ありもしない話を自慢げに話す輩が多かった時代でありながら、ことオシラサマに関しては、決して「我が家がオシラサマの起源だ!」などと語る者が無かったというのは、それだけオシラサマが崇敬され、また恐れられていた証ではなかろうか。実際に、喜善の親類の子供は、年頃になるまでオシラサマが奥座敷に居る為、怖くて奥座敷に行けなかったと。また、何も知らない者でさえ、オシラサマがいる奥座敷へ行くと寒気がしたという。そして喜善自身もまた、昼間でも気味が悪くて行けなかったと述べている。これは、オシラサマが様々な御利益の神であるとされているが、その本質が祟り神である事を裏付けているのではないか。
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奥羽では、概ねオシラサマは桑の木で作られた男女二体の像であるようだ。ただ、他の材質で作られたオシラサマもあるようだが、喜善は大同のオシラサマを見ている時、その家の巫女婆様が、この神は桑の木で作ったものだと言いながら、よく見ると杉か檜の材で作ったものであった事を報告している。やはり、本来は桑の木で作る事を基本としているのが真実なのであろう。その桑の木に関しての俗信は、旧暦6月1日に桑の木の下に行くと、人間は蛇の様に皮がムケ返るといって、その日は決して桑の木の下に行かなかったという。雷除けにもなった桑の木であるが、雷そのものが蛇であると伝えられている。古くは「日本霊異記」で少師部栖軽が雄略天皇に命ぜられ、雷神を捕まえたその姿が、目が赤カガチに輝く蛇体であった。雷が蛇神であるなら、桑の木もまた蛇神と繋がる樹木と考えて良いだろう。つまり蛇神=雷は、桑の木を忌み嫌うのではなく、庶民将来の様な護符と同じ意味だと考えるべきだろう。実は、オシラサマの伝承に、意外なものがあった。不動の変形をオシラサマとして崇敬し、その神体は桑の木で作るものだとされている。その不動は阿遮羅であるから、アシャラ尊がオシラサンとして祀られたというものだ。姉崎正治「中奥民間の信仰」には、「阿遮羅尊、即ち不動なるも、オシラサンとして祀れる者は、不動と同一なる事を知らざるなり。」という。不動は水との縁が深く、水神としても祀られている。水神の大抵は蛇神である事から、オシラサマという語源がアシャラソンから来ていたとしても不思議では無いかもしれない。ただどうしてもオシラサマは、女の手で綺麗な布を着せられ、白粉を塗られる事から、蛇神は蛇神でも、女神であるのだと理解できるのだが…。
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オシラサマの顔が、姫頭、馬頭、烏帽子、鳥頭、など様々あるが、佐々木喜善は暗示を受けたモノの形を彫刻して持つようになったのではとしている。実際に、菊池長四郎という男が初めて馬頭のオシラサマを見て、狐頭であるとずっと信じていたそうである。また、オシラサマはお知らせする神であるから、時を知らせる鶏もまたオシラサマであるとして、鳥頭が作られた可能性に言及している。ただ原初はやはり、姫頭と馬頭では無かったか。これはどうしても、今でも語られるオシラサマの話になってしまうが、本来は白馬に乗った女神を表したのが、オシラサマの原型である気がする。この辺は、別の機会に書く事としよう。
by dostoev | 2015-11-10 22:20 | 「遠野物語拾遺考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺78(縄文の女神)」

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オシラサマは決して養蚕の神としても祭られるだけでは無い。眼の神としても女の病を禱る神としても、また子供の神としても信仰せられている。遠野地方では小児が生れると近所のオシラサマの取子にして貰って、その無事成長を念ずる風がある。また女が癪を病む時には、男がこれを持ち込んで平癒を祈ることもある。二戸郡浄法寺村辺では、巫女の神降しの時にもこれを用いるそうだが、同じ風俗はまた東磐井郡でも見られる。

                      「遠野物語拾遺78」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
取子は、注釈によれば「呪術的親子関係ともいうべきもので、生まれた子の無病息災を願って山伏や巫女などの仮親となってもらい、その呪的霊力を得ようとするものである。ここでは、オシラサマが仮親となり、生まれた子はオシラサマの取子となるわけである。」これは昔、民間療法しか無い時代、子供とはすぐに死ぬものだと思われていた。その為に、生まれた我が子を死なせたくない親は、神仏への祈願や、呪術に頼らざる負えなかった。男に女の名前を付けるのも、女の方が強く、生き残る率が高かった事からきている。「南総里見八犬伝」に登場する犬塚信乃(しの)もまた、女の名を付け生きる事を願った呪術であった。

ところで、養蚕とは女の仕事であった。「日本書紀(継体天皇元年)」「女年に富りて績まざること有るときには、天下其の塞を受くること或り。」とあるが、要は女性が養蚕をしないと天下は凍えてしまうという事。つまり、養蚕という女性の仕事の奨励である。また取子にしてもそうだが、これは母性を訴えてのものだと理解する。烏帽子や丸顔、馬頭など、オシラサマにはいくつかの顔があるが、これらオシラサマの神性は、どう考えても女神である事が前提であるようだ。
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金子裕之「日本の信仰遺跡」で、出土する土偶を調べていると形だけでなくキラキラ輝く雲母を意図的に付けてあったり、黒光りするまで磨き込んでいたり、赤彩を施していたりするのは、呪術的意味合いより、オシャレ感覚からだろうと述べている。また、土偶の両耳、両胸、ヘソの部分、そして頭に孔があけられているのは、仮面を含む装飾を施す為のものだろうと。そして金子氏は、この様な土偶を見て連想されるのは、オシラサマであると述べている。

「現代の民俗例であるオシラサマには、仏教など、その後の時代の要素が多数混入している。しかし、それらを取り除き、土偶の出土状況や形態に見られる要素を重ねてみると、縄文時代の土偶の祭が彷彿とあらわれ出るようだ。」

縄文時代には、共同体に土偶をめぐる女性中心の祭祀があったという説がある。オシラサマもまた、女性中心の祭祀である事を踏まえれば、確かに縄文の女神である土偶とオシラサマは、どこか重なってしまう。神の神託を受けて来たのが巫女の歴史でもある。古墳時代の埴輪には、巫女像が出土し、神話には巫女の族長が登場し、大化の改新前後から奈良時代にかけて女帝が相次いでいるのは、巫女という女性を中心とした祭祀があった歴史の名残だと思う。その女性を中心とした原始の形態を引き継いだのがオシラサマ信仰であったとしても、何等不思議は無いだろう。俗に、男神は磐座に降臨する。女神は樹木に降臨するとも云われる説がある。完全に同意は出来ないが、確かに樹木に降臨した女神の例はいくつかある。

また伊勢神宮の心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないのだと。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。大物忌とはあくまで神を世話する存在であるが、その童女の年齢はまだ人間になりきっていない七歳までの神の子である童女であり、神が女神であるからこそ、同性である童女が世話をするのである。恐らく心御柱も、縄文の祭祀を引き継いだものではなかったか。そして、それも含めオシラサマもまた、縄文の女神祭祀を樹木に置き換えて引き継いだものであろうか。
by dostoev | 2015-11-08 19:06 | 「遠野物語拾遺考」70話~ | Comments(5)

橋姫と瀬織津比咩(其の六 結)

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「山城名勝志」「土民伝昔宇治川のほとりに夫婦すみけるが男竜宮へ財をもとめんとて行きて帰らざるを、女悲しみて彼橋辺に於いて死して神と成る。乃ち曰、橋守明神といへり。」宇治では古くから、渡船業や漁業を生業とする人々がいたと云い、そうした人々は水神を信仰すると共に橋姫を祭祀していたという。その時代に、宇治川で水死した人を「竜宮に財を求めに行った。」という言葉で表したという。つまり、宇治川もまた、竜宮への入口であったと認識されていたのだろう。水神信仰と共に橋姫を祭祀したのは、全て橋姫を通して水神の元へと連れて行って貰えると信じられていた為であろうか。ただ思うに、行った先が黄泉国であるのを竜宮に行ったという事にしたのは、一つの慰みであったのかもしれない。そういう意味では、民の心にはどこか竜宮=黄泉国という意識があったのではなかろうか。

「古事記」においては、伊弉諾の黄泉国の帰還後に誕生した八十枉津日神(瀬織津比咩)である事から、瀬織津比咩にはどこか黄泉国の匂いがする。橋姫が男に対する恨みから宇治川に浸かり鬼になったくだりは、「今昔物語」で、厠に入った女が鬼になって出てきた事から、川も厠も同じ黄泉国の入口であったという認識がなされていたのではないか。ところで、黄泉国・霊界・竜宮・根の国・底の国・常世国など、いろいろな人の行く末の名称があるが、観念的には殆ど同じものであったのだろう。ただ、宗教的意識によって、その名称が変わったと考えていただきたい。「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。」という言葉で表している。常世の「ヨ」とは、生命力を表し豊穣の源泉であるとされている。つまり常世とは、生命力が集まり、それが溢れ出る地であるという事か。そして、それらが伊勢に押し寄せるという。この天照大神の言葉の後、伊勢国に祠を建てるのだが、それは現在の伊勢神宮の地では無く、瀬織津比咩が祀られる滝原の地であった。となれば、崇神天皇時代に祟って放浪し、佐久奈谷の大石(忌伊勢)に立ち寄った神であり、伊勢国から常世の波を眺めた神とは天照大神ではなく、天照大神の荒魂であったと思えるのだ。
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宇治川は途中淀川となって、最後は海へと流れ注ぐ。しかし先に書いた様に、宇治は兎路であった。莵の隠語は、月を意味している。天武天皇時代から行われた大嘗祭が卯の日とされているのは、卯の方位は東方で太陽の昇る方向とされているが、月もまた東方から昇るものである。常世とは、常夜とも書き表す。天照大神の眺めた常夜の波とは、東方の海の彼方から押し寄せる波である。それは恐らく、太陽の明かりによって照らされた波では無く、月光に照らされた波を言ったものだろう。実際に太陽暦が採用されたのは、持統天皇時代以降であり、天武天皇以前は太陰暦が採用されていた。天武天皇時代から行われた大嘗祭が卯の日とされているのは、卯の方位は東方であり、それは太陽でもあり、豊穣を意味する月の昇る方角をも意識したのではなかろうか。満月の夜には、海辺に魚などが押し寄せ産卵行為をする事が古代から認識されていたのであれば、満月と豊穣は結び付けて考えられた事だろう。古代での死生観は、死して復活である。太陽は毎日、東から生れて西に死ぬ。それは、月も同じである。しかし太陽と違って、月は日毎の満ち欠けの姿から、復活・蘇生・誕生への意識を強くさせている。つまり宇治(兎路)とは、その生命力の路ではなかろうか。

人が水に呑み込まれて竜宮へ行くという観念は、先に記した。その人の生命力を呑み込んだ水であり川は、海へと注ぎ、常世国へと流されていく。その生命力が再び常世の波となって伊勢に押し寄せるという観念からだろうか、現在の伊勢神宮には宇治橋があり、またひっそりと隠れた場所に橋姫神社が祀られているのは、琵琶湖から宇治を経て伊勢に帰結する循環を意識してのものでは無かったか。先に述べた様に、橋姫は水神祭祀の神を迎える巫女としての玉依姫としての役割であり、それが琵琶湖・宇治橋という死との境界と、伊勢神宮・宇治橋という生の境界に祀られている理由ではなかろうか。
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貴船神社の社伝によれば、神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まると伝えている。その貴船の水神は、橋姫に対して「宇治の河瀬に行きて三七日漬れ。」と伝えたのは何故か。実は、伊勢神宮と鞍馬山を含む貴船には、共通するものがある。それは、六芒星である。

六が意味する事は、干支の子から始まって六番目の巳を意味する為に六つ連なる形とされた。つまり、六と言う数字そのものは、蛇を意図しているという事。それを形作れば、六芒星であり、籠目模様であり、亀甲紋となる。北の聖獣でもある玄武とは、蛇と亀の結び付きだというのが一般的に知られるが、その玄武は蛇を噛んでいる姿で表すのが正式である。古代中国では、蛇を悪しきものとしていた。疾病という漢字も蛇が体内に入り込んで病気になったという事を意味している。その蛇を噛む亀とは、ある意味魔除けとなるのであった。また籠とは、龍を竹で囲んで封印したという意味を有する。その籠を竹で編んで、籠目の形を作るのだが、その形が六芒星の様な籠目模様であり、それは魔除けを意味する。つまり、伊勢神宮の灯篭に刻まれている籠目紋様が本来、伊雑宮のものであったというならば、伊雑宮に蛇が封印されている印だと考えても良いだろう。その蛇とは何か?その伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱屋姫命の二座が祀られていたが、伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書では、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。そして同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある事から、伊雑宮には瀬織津比咩が祀られている。籠目紋から亀甲部分を抜き取ると、三角形だけが残る。この三角形だけで家紋としているので有名なのは、北条氏である。その北条氏が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願した時、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むというが、三角形は古代から蛇の鱗を意味している。つまり、籠目紋そのものは、亀と蛇の組み合わせであり、北に鎮座する玄武を意味しているのだ。

六という数字が蛇を意味し、その六つの角もまた蛇を意味する。もう一度、伊勢神宮の石灯篭を見れば、菊紋の下に籠目紋が刻まれている。その伊雑宮の鰹木と千木だが、千木は内削ぎで、鰹木は6本の偶数となっている。俗説ではあるが、女神を祀る場合は偶数の内削ぎだと云われるが、その鰹木が6本であるのも蛇神の女神である事を意味しているように思える。実際に祀られている瀬織津比咩が蛇神である事は、今更言うまでもない。そして、その六芒星であり亀甲紋が鞍馬にもあるのは、伊勢との共通性を意味するものだろう。つまり、伊勢神宮と貴船神社に祀られる水神は、同じという事。それ故に、貴船の神が橋姫に対し宇治川に浸かれという意味は先に記したように、宇治川が伊勢との繋がりが深い地である意味を有している為だろう。橋姫神社の祭神が、佐久奈谷(桜谷)に鎮座する瀬織津比咩である事から、宇治川に身を浸す女とは、黄泉国から帰還し瀬に下って穢祓をした伊弉諾を想起させるが、その本質は、穢祓の女神である瀬織津比咩の姿をイメージしてのものだろう。橋姫は、瀬織津比咩の霊(タマ)を依り憑かせる巫女であったのが、後に様々な人の意識が付着して、現代に伝わる姿となったのだと考える。
by dostoev | 2015-11-05 08:27 | 橋姫と瀬織津比咩 | Comments(0)

橋姫と瀬織津比咩(其の五)

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「神道集」の「橋姫明神事」には、こう記されている。

「抑橋姫ト申ス神ハ、日本国内大河小河橋守神也、而レハ摂州長柄ノ橋姫、淀ノ橋姫、宇治ノ橋姫ナント申シテ、其数多申、今長柄ノ橋姫事ヲ明奉…此時摂州長柄橋ヲ懸被、人柱ヲ立被、其河橋姫トハ、之河ニテ死ル人ハ依、皆橋姫眷属トハ成也」

要は、全国の架橋工事の際、人柱となった女性が橋姫の眷属となり、橋姫そのものでもあるという事。ここで思い出すのは、岩手県の横田町に鎮座する舞出神社だ。祭神は瀬織津比咩と一緒に、菖蒲姫が祀られている。社伝によれば、遠野の上郷村の娘が母と共に横田村に辿り着いた時、そこで人柱となる事を了承し、その後に舞出神社に神として祀られたものであった。つまり、遠く離れた岩手県においても、瀬織津比咩の名の元、橋姫信仰が伝わり、菖蒲姫が人柱になり、橋姫となったという事か。人柱が本当にあったか、それともなかったのかという論争は、今でも終息を見ないでいるが、遠野には人柱になった女性の墓が存在する。また現在、銀河鉄道をイメージされているめがね橋が以前、補修工事の際に、お歯黒の女性の骨が出土しているので、人柱となった女性ではないかと云われている。全国的にどうかだが、遠野地域では人柱があった可能性は高いのだろうと思っている。
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橋姫を有名にしたのは、恐らく「平家物語」の一節だろう。嫉妬に狂って鬼となってしまった橋姫の姿は、当時の感覚ならば衝撃的であったのではなかろうか。妬みで思い出すのは、山神の信仰だ。霊山の殆どは女人禁制となっている理由付けに、山神は女神であり、女神より美しい女性が山に登ると祟りを為すと云われるのは、女の嫉妬心からだという。それは磐長姫の意識が山神に投影された為だとも云われるが、山神は女神であるという認識が大半を占めている。わたしの住む遠野地方では、遠野三山全てに女神が配されており、各々に女人禁制を破った女性が女神の怒りに触れ、石になったという姥石(婆石)の話と、石そのものが存在する。古代において妬みが女性特有のものであると認識されていたならば、神の妨害によって船が進まなくなった船を進め様と、自ら人身御供になろうと水中に身を投じた弟橘姫は、その原因が女神の嫉妬とわかった為ではなかろうか。弟橘姫を失った日本武尊は最後に、伊吹山の山神の霊威によって命を失ってしまう。ただ、山と海が繋がっていると信じられていた時代、もしかして日本武尊を含めて、夫婦二神としての人身御供の完成が、同じ女神によって成された可能性があるのではないか。

「遠野物語拾遺28」での母也明神の中では、男蝶女蝶と夫婦揃って初めて人柱になれるというのだが、橋姫を相対的にみれば、水神祭祀の神を迎える巫女としての橋姫がクローズアップされている。つまり、妬んで鬼となる橋姫の姿よりも、前回述べた水神の霊(タマ)を依り憑かせる"玉依姫"としての橋姫が、本来の姿であろう。
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橋姫神社に佐久奈度神社の瀬織津比咩が勧請されたのだが、佐久奈度神社には、祓戸の神々が祀られているのに何故、橋姫神社には瀬織津比咩一柱の神が勧請されたのかは、やはり本来、桜谷には瀬織津比咩だけが桜明神として祀られていた為であろう。天智天皇時代に右大臣中臣金連が"大石佐久那太理神"を勧請したとある。

高橋亨「源氏物語の対位法」において、「大祓祝詞」の中に展開される世界と、桜谷から始まる宇治水系は対比される場所であると述べている。「大祓祝詞」の中に出てくる大津とは近江の大津であり、佐久那太理は佐久奈谷であって佐久奈度神社の鎮座する地であり、科戸は伊吹山の麓にあり、彼方は山城の地名で湖水の下り来る川添にあると。 「大祓祝詞」を作ったのは、天智天皇の右大臣であり、佐久奈度神社を建立した中臣金連であるという。となれば天智天皇の時代に作られた「大祓祝詞」は、佐久奈谷から宇治水系への流れで伊勢まで行きつく行程が初めから意図された可能性はあるだろう。

ところで、佐久奈度神社の鎮座する佐久奈谷の大石という地名は「忌伊勢」からきているのだという。これは、崇神天皇五年に、大殿に祀っていた天照大神と倭大国魂が祟り、この二柱の神を外に出し、天照大神は豊鍬入姫命に託され、笠縫邑まで運ばれ祀られた。そしてその後、倭姫に託され彷徨い、どうにか滝宮に落ち着いた経緯がある。実はこの倭姫と彷徨った天照大神の行程は、武力制圧であったとされる。これは「荒御魂」でも書いたが、崇神天皇が大殿で祀っていたのは、天照大神の荒魂であった可能性が強い。その武力制圧の行程の中の一つが、佐久奈谷の大石の地であった。恐らく、天照大神の荒魂によって武力制圧された為の「忌伊勢」であったのだろうか。これを佐久奈谷に当て嵌めれば、佐久奈谷に瀬織津比咩が祀られたのは崇神天皇時代という事になる。佐久奈谷を武力制圧した天照大神の荒御魂である瀬織津比咩は、死を運ぶ恐ろしい女神として、その地の支配の証に祀られた可能性があるのではなかろうか。
by dostoev | 2015-11-03 20:28 | 橋姫と瀬織津比咩 | Comments(0)

橋姫と瀬織津比咩(其の四)

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橋姫神社の社伝によれば、孝徳天皇の時代(646年)に、元興寺の僧である道登が宇治橋を架けるにあたって、その鎮護祈願から、宇治川の上流桜谷に鎮座する佐久奈度神社の祭神瀬織津比咩を勧請し、橋上に祭祀したとするが、佐久奈度神社そのものは天智天皇時代に創建されたものであるから、年代のズレが生じている。しかし本来、桜谷の桜谷明神として祀られていた瀬織津比咩であった事から、佐久奈度神社に祀られるのはその後であろうから、橋姫神社に瀬織津比咩が勧請されたのは、あくまでも桜谷の瀬織津比咩として勧請されたものと思える。

ところで、桜谷は鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、冥土の入口と思われていたようだ。「蜻蛉日記」にも、佐久奈谷へ行こうと言うと「口引きすごすと聞く(引き込まれる。)…。」とあるのは、桜谷=冥土(黄泉国)の入口と古くから伝わっている為であろう。琵琶湖畔に、伊弉諾と伊邪那美を祀る多賀大社が鎮座しているが、どこか琵琶湖そのものが黄泉国と通じるという意識があったのではないか。その為、琵琶湖を源流とする宇治川の流れに、似た様な意識が伺える。以前書いた「七瀬と八瀬」で七瀬の祓所に触れたが、佐久奈谷や宇治祓所でもあった。「古事記」において、黄泉国を千曳岩で閉じて現世に帰還した伊弉諾は、真っ先に中津瀬に下りたって禊をした。琵琶湖を源流とする宇治川水系に、こうも祓所が設けられるのは、琵琶湖からの水系が黄泉国との入口と見做されていたのではなかろうか。
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「撰集抄」という説話集に、「一条戻り橋」の話がある。祈祷僧浄蔵が吉野の修行から帰って来たところ、一条橋の畔で父の葬列に遭遇し、法力で父を蘇生させた事から、その橋を"戻り橋"と呼ぶ様になったという。俵藤太が百足退治を懇願する大蛇に会ったのは、瀬田の唐橋。橋とは「あちらとこちら」を結ぶ意があり、それがいつしか「あの世とこの世」を結び付ける様になってしまったのは、水そのものが霊的なものとされている為だろう。川から河童が出て来るのは、水から現れるのではなく、黄泉国から現れるものと考えた方が良い。厠の穴から河童の手が出て、お尻を撫でる話も同じである。厠もまた、霊界と繋がっていると信じられていた。「創禊弁」には「山城の風土記に曰く、宇治の滝津屋は祓戸なり。云々。」とあり、また「万葉集」にも「ちはやぶる 宇治の渡 滝つ屋の…。」とある事から、滝=祓所という意識があったのだろう。ただ、宇治橋近辺に滝は無いようだが、例えば遠野に砥森滝というものがあるが、これは落差のある滝では無く、激流を滝に見立てて砥森滝と呼ばれていた。つまり、古代の宇治川もまた、滝の様な激流であったのだと思える。事実、延暦16年(797年)に、宇治橋造営の為に、文室多麿が派遣されており、嘉祥元年(848年)には、大洪水の為に宇治橋がやはり破損しているようだ。

わすらるる身をうぢ橋の中たえて人もかよはぬ年ぞへにける  

                 又は、此方彼方に人も通はず      「古今集」


この歌は、宇治橋が破損して、誰も通らなくなった事を詠っている。ただ宇治橋だけでなく、全国的に橋が洪水で流され、破損していた筈である。ただ「万葉集」にも詠われている様に「ちはやぶる 宇治の渡」という形容から、宇治川は神威を感じる流れであったのだろうと察する。その宇治川の滝津屋と呼ばれた場所は、宇治の渡から約2・2キロに渡る範囲であるといい、つまり宇治全体が祓所である霊的な空間として認識されていたのだろう。そしてその中心は、やはり宇治橋であり、橋姫となる。

「古今集」で橋姫の歌に、下記がある。

さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫

  又は、宇治の玉姫


何故、橋姫が玉姫という異称で呼ばれたのか。それは恐らく、玉依姫を意味しているのだろう。玉依姫とは、霊(タマ)の依り憑く巫女の意であるという。つまり、祓所である宇治川全体の神の霊威を橋姫が一身に受けているという事。次は、その神の霊威の根源と橋姫を絡めて考えて見る事にする。
by dostoev | 2015-11-02 18:50 | 橋姫と瀬織津比咩 | Comments(0)