遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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河童と座敷ワラシの王

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十和田市三本木の稲荷神社のあるところは、昔蒼前林と呼ばれて広い原野の中で、ここだけがこんもりと茂った林であった。その頃、この林の中に河童が棲んでいて、よく木々の梢に登っては遊んでいた。林の近くの畑で働く農夫達が、時々この様を見付けて騒いだものだという。それで、村の者達は、この林には入った事が無いと云われている。

青森県十和田市に伝わる話だが、ここでの河童は河や淵では無く、林に生息する河童という事らしい。そして。この河童は木登りをするという事で思い出したのは「遠野物語拾遺165」である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
綾織村の17歳になる少年、先頃二子山に遊びに行って、不思議なものが木登りするところを見たといい、このことを家に帰って人に語ったが、間もなく死亡したということであった。

                                      
                    「遠野物語拾遺165」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以前、この木登りをする不思議なものの正体を考えた時、見て死ぬものとして見付けたのがヒョウスベであった。また広島の「野呂山年表」には奇妙な記述があり「1819年。野呂山中に怪物が現われ、和七と新平、三吉、兵四郎などが怪物を見て逃げ帰る。和七は遂に発病して死ぬ。仁方の人『山笑う』」 とある。ヒョウスベは河童とも云われるが、河童が山に行くと、山童となると云われるのを踏まえれば、この広島の野呂山の「山笑う」も、山童(やまわら)の亜流であろう。遠野には、ヒョウスベとして伝わる話は、今のところ見つける事は出来ていないが、河童=ヒョウスベ=山童であるならば、「遠野物語拾遺165」に登場する不思議なモノとは、河童という事になるだろう。そして遠野では、川から這い上がった河童は、座敷ワラシになるとも伝えられる。
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昔、八戸の小中野新町の伊勢屋という遊女屋に、座敷ワラシが出たという。夜中になると、四、五歳の子供がどこからともなく出て来ては、客に腕相撲を挑んだ。綺麗なちゃんちゃんこを着ていた。何をこの子供がとたかをくくると、これが意外な金剛力で、どんな男もヘトヘトになってしまった。時には寝ていた男が朝になって気付くと、夜着を下に敷布団を着て寝ている事もあった。つまり、寝ている間に、ひっくりかえされてしまったのである。物好きな若者がおしかけたが、結局誰一人手が出ず、恐ろしくなって客足が止ってしまった。そんな或る日、家の者達が台所で夕飯を食べていると、二階で何やら人の気配がした。誰も居ない筈だと思っていると、見た事も無い女が赤い襷に白い手拭を姉さん冠りにして、長柄の箒を担いで階段を下りて来た。そしてそのまま外に出てしまった。伊勢屋は、これから次第にさびれてしまったのである。

これは青森県八戸市に伝わる座敷ワラシの話だが、興味深いのは、腕相撲を挑む事だ。河童は相撲好きで、よく人間に相撲を挑む話はよく聞くが、ここでは座敷ワラシが人間に対して腕相撲を挑む話となっている。となれば、河童が川から這い上がって座敷ワラシになるという話と結び付くではないか。河童と座敷ワラシの共通点は禿髪である。また、この八戸の話では、どうも座敷ワラシは女であるようだが、女と腕相撲はイメージ的に結び付かない人も多いだろう。しかし、古代の日本の相撲の歴史には女相撲もあった。「日本書紀(雄略天皇記)」には、采女らの衣服を脱がせて、褌姿で相撲をとらせたとある。つまり、古代の相撲に関しては、男と女の垣根が無かったようである。また女でも子供であるなら、相撲や腕相撲で遊んだ場合もあった事を踏まえれば、女座敷ワラシが腕相撲をしたとして、何等違和感はない。
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相撲や腕相撲などで好戦的な河童や座敷ワラシを考え浮かぶのが、やはり河童になったという伝説のある平家の落ち武者である。平家の栄華の象徴は、平清盛であった。その平清盛にとって、いや平家一門にとっての未来への希望は、孫である安徳天皇だったのだろう。その安徳天皇が福原に遷都してから物の怪の騒動がかなりあった事が「平家物語」には記されている。

そして安徳天皇の最後は、壇ノ浦の戦いとなる。平家が敗戦濃厚となり、船に乗っていた安徳天皇の傍にいた二位の尼前の言葉は、新潮日本古典集成「平家物語」では「これは西方浄土へ」と書かれているが、本当は「波の下にも都があるんですよ。」という言葉であったとも聞いた。つまり、新たな竜宮と云う都へ行こうと清盛の妻であった二位の尼前に抱かれて、平家の希望の象徴である安徳天皇は入水していった。ところで「平家物語(早鞆)」に、能登の前司教経の海での戦いの描写で「大童にて立ち」という箇所がある。髻を解き頭部を露出する姿は当時としては異様な姿であり、それを大人が童子の髪型になる事から大童と呼んだようだが、これも相手にとっては恐ろしい物の怪の姿であったようだ。

岩手県や青森県には、平家の落人の話がいくつか伝わっている。古代から、戦に破れた者達は、何故か北に逃げて来た事を考えても、平家の落人が来たとしてもおかしくはないだろう。そして、その落人の移動と共に、何を持って来たのかである。河童と座敷ワラシの共通は禿神であるが、平家の落人が河童になったという伝説を意識した場合、相撲などで相手に挑む形は、人間であった頃を継承しているとも考えられる。平家の落人の姿が髻が解かれた大童の姿であるならば、その大童の頂点に立つ安徳天皇もまだ禿髪の童であり、水の都(竜宮)に赴いて、神となった存在か、もしくは零落して河童、もしくは座敷ワラシとなったものであったか。

「平家物語(禿髪)」では、清盛が「禿髪」と呼ばれる童形の武力集団300人を置いたのは自らが病の床に臥してからだった。そして平家に対して悪口を言う者があれば、直ちにおしかけて家を取り壊し、家財道具を没収し、家人を連行して平家の拠点である六波羅にて処罰したという。この禿髪は禁中への出入りすらも自由であり、都の官人達の統制もきかない有様であったようだ。入道清盛に取り入れば、富は増えるが、反逆すれば禿髪の童子によって富を取り上げられる。まさに吉凶両極端の使者となっているのは禿髪の童子である。

「平家物語(平家一門大路私)」では、壇ノ浦に沈んだ三種の神器のうち、失せた宝剣だけが見つからなかった。それを「竜宮に納めてんげるやらい」と表現している。これは、安徳天皇が童子のまま宝剣を持って竜宮に奉納し、神となった事を意味しているのかもしれない。それはまさに、河童の王の誕生ではなかったか。福岡県久留米市に鎮座する水天宮は、全国にある水天宮の総本宮であり、その安徳天皇の霊を祀る為に建立された神社である。

遠野の川沿いの、いくつかの小さな社を見ていると、その内部に「水天宮」が一緒に祀られているのを目にする事が出来る。これは安徳天皇の霊が分霊された事を意味する。河童と座敷ワラシを調べると「平家物語」は避けて通れない。その平家一門の象徴であった安徳天皇が、平家一門の滅亡と共に平家の落人達の怨みに呑み込まれて、魔界の童子として担ぎ出された様にも感じる。まさに安徳天皇とは、河童と座敷ワラシの王という存在ではなかろうか。もう一つ付け加えれば、安徳天皇は八歳で死んだ。七歳までは神の子の領域である筈が、神の領域を離れて人間として死んでいった者であるから、神が零落したものとして捉えても良いのかもしれない。
by dostoev | 2015-01-31 17:49 | 民俗学雑記 | Comments(0)

赤い蛇

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画像のリクエストがあったので、貼る事にします。小友町にある、千本桂。樹齢1200年と伝えられる千本桂は、白蛇(大蛇)が棲むと伝えられ、長い間保護されてきた。今は遠野市指定天然記念物となっている。画像は、もうかなり前に撮影したもので、その当時は、オリンパスのコンデジを使用していた。逆光で千本桂を撮影した者の、モニターを見ると、何やらゴーストらしきが写っているた。同じ角度から何枚か撮影した中の一枚の写真が、上の画像。

家に帰ってPCのモニターを通して、何やら赤い蛇かとぐろを巻いている様にも見える。でも光の悪戯だろうとは思っていつつも気になってはいた。それから10年以上過ぎたのだけれど、その間に知り合った何人かのプロの写真家などに、この写真を見て貰っても、皆同じ事ばかり言う。「このような螺旋状のゴーストなど見た事も無い。」と。そして「確かに蛇に見えますね。」そう、誰が見ても蛇に見えるこの写真だが、不思議と怖いと思った事は無い。せいぜい、珍しい写真が撮れて良かった程度にしか思っていなかった。

とにかく古い写真を引っ張り出したが・・・〇〇さん、見てますか?画像をアップしましたよ。
by dostoev | 2015-01-29 14:55 | 民宿御伽屋情報 | Comments(0)

瀬織津比咩の封印

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役小角は17歳の時、孔雀明王経を学び修得したという。その孔雀明王だが、ウィキペディアにには、下記の様に孔雀明王について記されている。

「孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となった。後年になると孔雀明王は毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏という解釈が一般的になり、魔を喰らうことから大護摩に際して除魔法に孔雀明王の真言を唱える宗派も多い。また雨を予知する能力があるとされ祈雨法(雨乞い)にも用いられた。

この孔雀明王の力とは、まさに穢祓の力である。そして役小角は山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。これ以降、役小角は修験道の祖と崇められた。その修験道を表面から見れば、火の宗教である事は明らかである。野外で火を燃やす宗教は、修験道だけであるからだ。早池峰も修験が入り込んで、開発されているのは歴史が証明する事でもある。その早池峯には穢祓の女神である瀬織津比咩が祀られているのだが、役小角の修得した孔雀明王経と穢祓の観念は似ているのだが、唯一違うのは孔雀が蛇を食べるという事だろう。そして、瀬織津比咩と修験の違いは、水と火の違いである。
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「エミシの国の女神」を著した風琳堂氏は、慈覚大師円仁が、祀られている瀬織津比咩の上から不動明王を被せて行き、瀬織津比咩隠していったろうという見解で語っていた。しかし調べて行くと、不動明王は十一面観音の脇侍として十一面観音を護る存在であった。密教系では大日如来を尊び、その垂迹として天照大神を配置したのだが、その大日如来の仏教系垂迹は不動明王と為る為、伊勢神宮に祀られる天照大神とその荒御魂である瀬織津比咩に対応するものと思える。天台宗の慈覚大師円仁は、あくまで十一面観音を称える為に不動明王を配していったものと思えるのだ。世に、瀬織津比咩は封印されたという言葉が広がっているが、正確にはどうなのだろうという疑問も常々感じていた。

その瀬織津比咩だが、しばしば白龍、もしくは白蛇という形で言い表さられる。その白龍だが、瀬織津比咩を祀る九州の闇無浜神社に伝わる古縁起「豊日別宮伝記」に、こうある。

瀬織津比咩は、伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原に祓除し給ふ時、左の眼
を洗ふに因りて以て生れます。日の天子大日孁貴なり。天下化生の名を、
天照太神の荒魂と曰す。所謂祓戸神瀬織津比咩是れなり。中津に垂迹の
時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍と称し奉るなり。


これから始まったのかはわからぬが、九州では広く、瀬織津比咩は白龍であると信じられているようだ。そして「鉄の蛇」で暫くの間書いて来たが、二荒山の蛇神は中禅寺湖がその本拠地であり、滝尾神社の鎮座する地に降臨した。「日光山縁起」では、二荒山の主は白蛇の姿で示現すると説かれている。

そして、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる瀬織津比咩は、別にアラハバキ姫とも云われるのだが、やはりアラハバキは蛇神と云わざる負えないようだ。伊勢神宮は荒祭宮を祀っていた度会氏によって、天照大神を脇役に追いやり豊受大神を前面に押し出して、外宮の優位性を訴えた。御饌都神であった筈の豊受大神を水神の御気津神に昇格させたのだった。それは単に、内宮と外宮の勢力争いと表向きはされている。しかし、本来は荒祭宮を祀っていた度会氏が、何故豊受大神を重視したのか?

「豊受皇太神御鎮座本紀」によれば、「豊宇気毘売神・宇賀御魂命・保食神は、白龍を以て守護神となすなり。」と記されている。つまり、外宮の豊受大神とは外宮の祀られる神としての仮の神名ではないかと考えられる。豊受大神や宇賀御魂命の大元神とは白龍であり、その白龍と結び付く神は、荒祭宮に祀られる瀬織津比咩でしかいないだろう。つまり伊勢神宮においても、白龍とは瀬織津比咩の仮名という事であろう。
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早池峰に祀られる変化観音の十一面観音は、千手観音として強化された。事実、早池峯神社に祀られていた秘仏に千手観音がある。「千手観音造次第法儀軌」によれば、千手観音の眷属には、吉祥天と弁財天がいるが、どちらも同じものとして認識されていたようだ。その影響からか、早池峯には、吉祥天や弁財天に関係する伝承が出来たのだろう。しかし、いつから瀬織津比咩から十一面観音となったのはわかっていない。ただ、可能性を考えれば、やはり修験者が早池峯に介入してから変わったものと思われる。それは先に紹介した、孔雀明王経である。役小角が何故山に入る前に、孔雀明王経を修得したのか。それは、その時代に山を支配していたのが、龍蛇神であったからだろう。有名な「漢委奴国王印」の金印は、当時の奴国に竜蛇神信仰があるのを知って、後漢の洪武帝が洛陽の金細工師に彫らせたものだというが、それはつまり1世紀には日本に竜蛇神信仰があったという事だろう。その信仰が続いたのは役小角の現れる前までであったか。だが役小角の感得した蔵王権現は、竜穴から姿を現し、竜の口に消えたという。修験者は今でもその竜の口に向って護摩を焚き、祈りを捧げているという。それはつまり、1世紀にはすでにあった竜蛇神信仰が、形を変えて信仰されている事でもあるのだろうか。
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紫を尊んだのは道教であり、日本において紫の初見は、推古天皇16年(608年)に隋使裴世清を朝庭に迎えたとき、皇子・諸王・諸臣の衣服が「錦・紫・繍・織と五色の綾羅」であった。冠位十二階では紫が一番位の高い色としたが、其の中でも黒紫をより高貴な色とした。子供の頃、紫色は青と赤を混ぜると教わったが、本当に高貴な紫色は、黒と赤を混ぜるものであったようだ。それは陰陽五行から来ている。赤は陽であり、黒は陰。つまり、陰陽の和合が紫色という事。この陰陽の和合を意味するものに、太極、北極星、天皇大帝がある事から、紫は天皇が信仰した北辰でもある。そして、この紫を作り出す赤と黒は、陰陽五行で火と水を表す。先に書いた様に、修験道とは火の宗教である。何故に修験道が火に拘ったを考えれば、それは山を支配している竜蛇神は水神であるからだ。その山を満たす水であり黒色を炎の赤で和合させ、至高の紫に変える為の宗教であると思える。例えば、那智の火祭りにおいて、何故に那智の滝に対して火を掲げるのか。これが役小角から続いた宗教であるならば、それは水神である竜蛇神を孔雀明王経で抑え、火によって和合させて至高の紫、つまり北辰に導く為であると思えるのだ。

大海人皇子は吉野で挙兵し、天武天皇に即位した。古代最大の内乱である、壬申の乱の勃発である。その時、吉野では役小角が修験者を率いて君臨していた。ただし、天武天皇と役小角が接触したのかはわかっていないという。ただ言えるのは、天武天皇自身が役小角の君臨している吉野が、どうなっているかは理解していた筈である。いや、元々陰陽道に長けていた天武天皇である筈だから、役小角の行動は理解していたのかもしれない。
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あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

この歌は、大海人皇子と別れた後に天智天皇と結び付いた額田王が大海人皇子に向けて歌ったもので、不倫の歌では?とも云われる。「あかねさす」は「紫」にかかる枕詞という事だが、この歌全体を見ると、大海人皇子に対して紫をかけているように思える。つまり、天智天皇とは付き合ってはいるけれど「君(大海人皇子)は、天皇になる人であるよ。」という意味にならないだろうか。実際、表向きには諦めた筈の天皇に即位した大海人皇子であった。陰陽道に長けていたから紫の持つ意味をわかった筈の天武天皇であったから、もしかして吉野では役小角と結び付いて、助言を受けたのかとも思える。しかし、その天武天皇の統治時代は、度重なる天変地異によって揺るいでしまった。天変地異は龍脈の乱れであり、それは天武自身が天に認められなかった証でもあったと考えた筈だ。つまり天武天皇は、龍蛇神に呑まれてしまったと考えた筈だが、それを身近に感じていた天皇がもう一人いる。それは、持統天皇である。

持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるものであったから、当然「古事記」などの史書の編纂の完成を目指していた。男神であった筈の天照大神が女神になったのは、この持統天皇時代とも云われる。女帝の世を表す様に、その中心となるべき天照大神も女神になるべきとの考えからだったと。ただし、それだけでは無かったろう。天武天皇の時世が天変地異に呑まれたのは、龍蛇神に呑まれたからだと。その憎き龍蛇神を徹底して封印したのではと思えるのが「古事記」などの内容となる。役小角は竜蛇神を抑えつつ和合したのだが、持統天皇は、その竜蛇神を分解して抑えてしまったと思える。続きは、次の機会にて。
by dostoev | 2015-01-28 20:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

「遠野物語14(遠野の文明開化)」

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部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同と云ふ。此神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、之を上より通して衣装とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式に白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常の事なり。或は誰かに抱起され、叉は室より突き出さるゝこともあり。凡そ静かに眠ることを許さぬなり。

                                                        「遠野物語14」

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「オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同と云ふ。」大同は草分けの家とも云われるが、大同年号は、岩手県内の古い神社仏閣の殆どの建立年代になっている。そういう意味では、オクナイサマ、オシラサマを祀り始めた年代が大同であったと考えて良いのかもしれない。それは通常「草分けの家」が、その集落に初めて建った家との意味になるのだが、別に新たな文化の草分け、始まりと捉えて良いのではなかろうか。つまり、オクナイサマ、オシラサマという偶像を祀り始めた家の意味にも捉えられる。

「日本書紀(継体天皇記)」では、「女年に當りて績まざること有るときには、天下其の寒を受くること或り。」と記され、継体天皇が天下に養蚕を奨励したのが6世紀初頭であるが、遠野に養蚕が普及し始めたのが大同年間で9世紀初頭となるか。つまり、都で養蚕を奨励し、蝦夷国に普及したのは、やはり坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後という事になるか。養蚕で盛んな群馬県桐生の白滝姫伝説が遠野に伝わって清瀧姫伝説になったように、継体天皇時代から奨励された養蚕が都から関東へ伝わり、そして蝦夷国まで伝わったのが正しい経路であろう。仏教の布教においても、樹木信仰をする人々に対し、その樹木から仏像を彫るという事は、神と仏が同一であるという事として伝わった。オシラサマもまた、霊木であった桑の木からオシラサマという形を彫り上げて神としたのではと想像できる。

また古代の蝦夷の民は、山を霊山と見做して信仰していたが、その山を遥拝する為に神社が建てられたのも坂上田村麻呂以降の事であったから、大同という年号は蝦夷国にとって文明開化の年代であるという事ではないか。その文明開化が及ぼした影響が、神社を建て、オシラサマとオクナイサマを祀り、養蚕が普及した事か。

そして気になるのは、最後の一文「・・・大同の家には必ず畳一帖の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常の事なり。或は誰かに抱起され、叉は室より突き出さるゝこともあり。凡そ静かに眠ることを許さぬなり。」ここには"座敷ワラシ"という言葉が書かれてはいないが、枕返しなどの悪戯は、広く遠野で座敷ワラシの仕業とされている。これはつまり大同家は、座敷ワラシの草分けでもあるという事と共に、座敷ワラシは運ばれて来た文化の一つであった可能性がある。そしてもう一つ気になるのは、大同元年に建立されたという早池峯神社が、何故か座敷ワラシの発祥地という事だ。宮司に聞くと、ここまで宣伝されたのはどこぞの新興宗教と繋がってのものらしいが、その前に地域民に聞くと、境内の杉の大木から座敷ワラシが覗いていたというのが、どうも遠野で一番古い話のようでもある。しかし、大同元年(806年)に建立された早池峰神社とは山頂の奥宮であり、現在地に早池峰山妙泉寺が建立されたのは斎衢年中(854年~857年)で、大同の後であり9世紀の半ば以降となる。となれば、やはり座敷ワラシの一番古い記録は山口部落の大同の家という事になろう。とにかく大同年間とは、蝦夷国に様々な文化が流入し大きく変わった年であるようだ。
by dostoev | 2015-01-27 20:21 | 「遠野物語考」10話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺185(靑蜘蛛)」

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旗屋の縫が早池峯山へ狩りに行って泊っていると、大きな青入道が来て、縫に智彗較べをすべえといった。縫は度胸の据った男であったから、よかろうと答えて、まずその青入道に、いくらでもお前が小さくなるによいだけ、小さくなって見ろと言った。すると青入道は見ている間に小さくなったから、縫はそれを腰の火打箱に入れておいた。翌朝になって火打箱を開けて見たら、小さな青蜘蛛が中に入っていたそうな。

                                                    「遠野物語拾遺185」

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「遠野物語拾遺183」「遠野物語拾遺184」と、「賢淵」の類話が続いていた。この「遠野物語拾遺185」では、その怪異の主である青蜘蛛が早池峯山に登場しているが、この話は、佐々木喜善「老媼夜譚」でも紹介されているのだった。ところで、大入道に対して知恵を働かせ、小さくなるように仕向けて退治する話は、自分が子供の頃に観た「長靴をはいた猫」でも、長靴をはいた猫が魔王に対しても行っていた。
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蜘蛛の怪異は良いとして、何故に青蜘蛛なのかという事だろう。蜘蛛では無いが、小松和彦「日本怪異妖怪大辞典」によれば、茨城県では帯を後ろに締めて暗い夜道を歩くと、青鷺が入道となって後ろから顔を覗き込むという話が伝えられる。これは反日常を行う事によって物の怪に付け狙われる様な話ではある。また別に、鳥山石燕「画図百鬼夜行」に「靑鷺火」が紹介されており、小松和彦はその青鷺をこう解説している。
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「靑サギは夜間に光を放つ怪異となる。靑サギが飛ぶとその光は火の玉や月の様に光るという。また帯を後ろに締めて夜道を歩くと、青サギが入道となって後ろから覗き込むとも伝えられている。」

本来「青」とは水を称える色でもある。しかし「青」の旧字体は「靑」であって、植物の下に井戸を兼ね備えた漢字であり、赤を意味する「丹」という文字も含まれていた。そこで本来の水を意味する為、水の精でもある月が組み込まれ「青」となった。 靑鷺が月の様に光るように、青蜘蛛も恐らく月の靑が組み込まれたものではないだろうか。「賢淵」からわかるように、登場する蜘蛛は滝や淵の主とされている場合が多く、水神との関連性が指摘されている事から、青はやはり靑であり、月と水を意図して表現されているのだと思う。では、早池峯に登場した靑蜘蛛は、早池峯の主であろうか?確かに早池峯に祀られる神は水神である事から、青蜘蛛と結び付けられるのは当然であるかもしれない。また「ギリシア神話」では、女神ヘラの怒りに触れて罰せられた機織りの得意なアラクネが蜘蛛に変えられたが、古今東西蜘蛛が化けるのは殆ど女である事から、古代ギリシア時代からの神話が広く伝わったものであろうか。しかし、入道となれば女では無いという認識が一般的だろう。どちらかというと、"間抜けな男"を意図して作られた青入道であったのかもしれない。
by dostoev | 2015-01-26 16:00 | 「遠野物語拾遺考」180話~ | Comments(11)

「遠野物語拾遺161(死の水鏡)」

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青笹村生れの農業技手で、菊池某という人が土淵村役場に勤めている。この人が先年の夏、盛岡の農業試験場に行っていた時のことだかといった。ある日、あんまり暑かったので家のなかにいるのが大義であったから、友達と二人北上川べりに出て、川端に腰を掛けて話をしていたが、ふと見ると川の流れの上に故郷の家の台所の有様がはっきりと現われ、そこに姉が子供を抱いている後姿がありありと写った。間もなくこのまぼろしは薄れて消えてしまったが、あまりの不思議さに驚いて、家に変事は無かったかと手紙を書いて出すと、その手紙と行き違いに電報が来て、姉の子が死んだという知らせがあった。

                                                    「遠野物語拾遺161」

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北上川は、岩手県に流れる様々な支流が集まる大河であり、日本でも第五位となる大河である。「大祓祝詞」では、罪や穢れが川を伝って海へ流れ、その全てが呑み込まれる。「過去を水に流す。」という概念の根幹が、流れる川となる。「遠野物語拾遺106」では、山田湾に見える蜃気楼の話があったが、これは蜃気楼ではなく、リアルな実家の情景であり、菊池某の姉が子供を抱いているという印象的で象徴的な姿だった。

水鏡、というものがある。例えば宗像の大島の星祭の時に、盥に入れた水鏡に逢うべき人の姿が映るという。似た様な話は他にもあるが、未来予知の能力を持っているのが水鏡でもあった。しかし、水鏡をすると魔に魅入られるというが、明治時代にカメラが普及し始めの頃、写真を撮られると魂を抜かれると信じられたのは、水鏡への意識に対する影響もあったのだと思う。鏡は魔除けにもなるのだが、水鏡となれば水界である竜宮と繋がっていると云われる。琵琶湖の瀬田橋や佐久奈谷が黄泉国と繋がっているという伝承から、やはり水は死と繋がっているいるという考えがあったのだろう。

広大な北上川という水鏡に映しだされた映像は、死を象徴していた。水鏡に映ったのは、姉の後姿と子供の姿であったという事は、姉では無く子供が主体であったという事。その死を暗示する映像を、菊池某がたまたま見たしまったのは、北上川の魔に魅入られたという事であったか。
by dostoev | 2015-01-25 10:22 | 「遠野物語拾遺考」160話~ | Comments(14)

「遠野物語拾遺192(狐の石)」

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遠野六日市の鍛冶職人松本三右衛門という人の家に夜になるとどこからとも無くがらがらと石が降って来る。それが評判になって町中の者は見物にやって来たが、見物人のいるうちは何の変った事も無くて、帰ってしまうとまた降った。毎朝石を表に出して、昨夜もこんなに降りましたと見せる程であった。ちょうどその頃に、元町の小笠原という家の赤犬が、御城下で一匹の非常に大きな狐を捕った。尻尾が二本に岐れて、いずれも半分以上も白くなっている古狐であった。この狐が捕えられてから、松本の家に石の降ることは止んだという。それでも今でも遠野ではこの家のことを石こ鍛冶と呼んでいる。

                                                    「遠野物語拾遺192」

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松本家では平成初期頃まで、庭先に降って来た小石の山を置いていたそうだが、やはり邪魔なので処分したという事。

ところで、この「遠野物語拾遺192」と似た様な話が、綾織町赤坂にもある。やはり小石を降らせる狐の話だ。その石の降った方向を教えて貰ったが、そこには上の画像に示した稲荷の社があった。つまり、この稲荷に祀られる狐の悪戯という事だったか。松本家では、稲荷を祀ってはいないのだが、その敷地の裏方に、小さな稲荷の社がある。もしかして、この悪戯の正体は、その稲荷であろうか?

「遠野物語拾遺192」では、御城下で捕まった二股に分れた尻尾の狐の仕業という事になったようだ。「遠野物語拾遺196」では、鍋倉山と川にも近い大慈寺が、狐に丁度良い棲家であるような事を書いたが、この松本家の場所もまた、狐にとって立地の良い場所ではあるだろう。実は、この「遠野物語拾遺192」も若干省略され、改編されて記されている。

六日町に石コ鍛冶といはるゝ鍛冶屋あり。今の主人より二、三代以前の事也。家運傾きて思はしからず。されども当時の主人勤勉を以て近隣に知られたり。或日のこと屋根より家中に石の降りしことあり。家人大いに驚きさわぐ、その物音に隣人来りて覗ふに、降り落し石他の人には見えず。只家人の眼にのみこれを見るを得たりと、此の事しばしばありてより次第に栄たりといふ。この石今尚ほ神棚に供へて拝するといふ。

つまり、尻尾が二股に分れた狐の話は後付けであり、本来の話はあくまでも石が降ってきた後、家が栄えたという事になっている。石が降るのが他人に見えないのも、あくまで松本家の為に降った石である事を意味している。
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稲荷の社には、画像の様にしばしば石が祀られている場合がある。ただそれはコンセイサマの形をしている場合があるのは、五穀豊穣を願うからで、狐石信仰と、コンセイサマ信仰が結び付いたのだろう。画像は遠野の志田I稲荷。

石と狐の関係を探すと殺生石に辿り着いてしまう。殺生石が割れた時に、無数の狐靈が飛び出して全国に広まったという。秩父に伝わる話では、尾崎狐が憑くという家系では、その霊が憑いた小石を桐の箱に入れて神棚に置いて祀っているという。または、庭の池の小島に小さな祠を立てて、そこに小石を入れて屋敷神として祀っている例がある。なんでも、尾崎狐の家の者が、ある畑が見事に育っているのを見、小石も多く妙だなと思って畑主に聞くと、小石を肥料にしていると冗談を言ったら、一晩のうちに尾崎狐がその小石を尾崎狐家の畑に運んだという。これは、尾崎狐が家に好運をもたらす為に運んだという。一晩で石が集まる話は、「遠野物語拾遺192」と、この尾崎狐の話くらいだろうか。元々は殺生石が砕け飛び散った石という伝承から発生した信仰のようである。小さな石には、その家の守る狐が宿るという。松本家にも、狐が石に宿って降ってきたという事だろう。
by dostoev | 2015-01-23 07:28 | 「遠野物語拾遺考」190話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺217(犬の序列認識)」

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つい近頃のことであったが、土淵村和野の菊池某の飼犬が小屋の軒先に寝そべっていると、傍らでその家の鶏と隣家の鶏とが蹴合いを始めた。犬は腹這いになったままそれを見ていたが、自分の家の鶏が負けたと見るや否や、やにわに飛び起きて隣家の鶏の首筋を噛み殺したそうな。

                                                    「遠野物語拾遺217」

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犬が対象を認識するのには、嗅覚と聴覚によるものが殆どとなる。犬が人に飼われた場合まず、その家の家族とその序列を認識する。当然、敷地内のもの全てを認識するであろうから、同じく飼われている鶏も臭いで認識していたのだろう。人間の視力による認識力よりも、犬の嗅覚による認識の方が上であろう。だから犬は、同じ家に飼われている鶏を認識していたのだろうが、少しおかしいと思う事がある・・・。

蘇我氏と物部氏が戦をした時、聖徳太子の軍に枚夫という男がいたが、下僕から殺されそうになった時、飼犬が主人を襲おうとする下僕の喉に食らいついて殺してしまった話が伝わっている。また深山で大蛇に襲われそうな主人の危険を察知して、その大蛇を噛み殺した犬の話など、主人の危険を察知して助ける犬の話は多い。大抵は、主人に危険が及んだ時に助ける話だ。つまり、主人は死ぬ事も無く、怪我する事も無い前に、犬が助けてくれるのだった。

しかし「遠野物語拾遺217」の話は、仲間の鶏が負けそうになったので助っ人に出たわけでは無く、あくまで仇討となっている。そこには犬による、独自の感情があったか、それとも犬が認識した家族の序列の中で鶏が低かった為に、御主人とは違う対応をしたのだろうか?それこそ、犬による差別待遇である。ただこれが、勝利した方を倒す事による、犬の力の誇示であった捉えてもおかしくはないだろう。番犬として犬を飼うのなら、危険を事前に察知して欲しいもので、被害を受けた後の仇討・復讐は大抵の場合、犬に期待するものではないからだ。

犬に調教し、序列を教えない事によって大変だったのは、やはり「生類憐みの令」の時代であったようだ。「生類憐みの令」の庇護の元、犬とは序列された社会で生活する動物であるから躾されない犬は、噛みついても怒らない人間達を見ていて、自分達が人間達より上に位置するものだと思い込み、益々事態は最悪になっていったという。この「遠野物語拾遺217」では、あからさまに犬が鶏よりも序列が上という立場で高みの見物をしていたのがわかる。そして自分より下の鶏が負けた時に、序列外の鶏を平気で噛み殺してしまう。この話などは、まさに犬とはファミリーを守り、それ以外とは戦うという狼の血統にあるのだという認識を持たざる負えない。
by dostoev | 2015-01-21 19:43 | 「遠野物語拾遺考」210話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺216(犬の情)」

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佐々木君の幼少の頃、近所に犬を飼っている家が二軒あった。一方は小さくて力も弱い犬であったが、今一方の貧乏な家で飼っていたのは体も大きく力も強かった。近所の熊野ノ森に死馬などが棄ててあると、村の犬どもが集まってそれを食ったが、この小犬は他を恐れてそこに行くことが出来ないで、吾家の軒から羨ましそうに遠吠えをしているばかりである。これを大犬が憐れんで、常にその肉を食い取って銜えて来ては与え、小犬も喜んでそれを貰って食った。しかしこの大犬を飼っていた家は、もともと貧しかったから犬の食事も充分に当てがわれなくて、平常腹を空らしていることが多い。小犬はそれを知っていて、毎日自分に与えられる食事をしこたま腹の中に詰め込んで来ては大犬の傍でそれを吐き出して食わせていた。一度食った飯であるから、人が見ては汚くてならないが、大犬は喜んで食べた。じない(いじらしい)ことだと言って、村中の者の話の種にしたという。

                                                    「遠野物語拾遺216」

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死馬が棄ててあると記されているが、各村毎に死んだ馬を捨てる「馬の卵場」というものがあった。その馬の卵場には狐なども集まって、死肉を漁っていたという話を聞く。しかしそれらから死体を守る為に刃物を立てていたというが、果たして効果があったのだろうか。最近北海道で、ハンターに撃たれたエゾシカが処分されずに放置されている為、その肉を食い漁ったキタキツネが肥満化しているというニュースがあった。しかし、この時代の馬はそれほど頻繁に死んで棄てられたわけでもないだろうから、野犬や狐にとって、たまに振る舞われる御馳走であろうか。

ところで画像は、その死馬が棄てられた熊野ノ森だが、「遠野物語拾遺124」によれば、魔所として呼ばれている。熊野ノ森の中には粗末で古びた熊野神社があるのだが、既に信仰が廃れたのか、人が管理している状態ではない。死馬が棄てられる様になったのは、既に人が行かなくなったからだろう。そして、死馬が棄てられる様になった為、こうして野犬を含めて獣が集まるようになった為に、危険だという事から"魔所"の認定が成されたのではなかろうか?死馬だけでなく古代には、土葬された人をも食べてきた犬だった。「日本書紀(垂仁天皇28年)」では、倭彦命を葬った後「犬烏聚りはむ」とあるから、昔から死肉には野犬となった犬は群がっていたのだろう。恐らく、野犬が死体を掘り起こして、後から烏が寄って来る構図なのだろう。熊野神社のある熊野ノ森であるから、烏はつきものか。確かに、その情景を目の当たりにすれば、魔所となるのは当然なのか。ただ、犬も烏も生きるのに必死であるから、これは仕方ない事であろう。

「犬畜生」という言葉がある。「畜生」とは、苦しみ多くして楽少なく、性質無智にして、ただ食・淫・眠の情のみが強情で、父母兄弟の区別なく互いに残害する人間以外の禽獣虫魚など生類を云う。これらから昔は、畜生と同じ屋根の下で暮らすのは有り得ないという事があった。しかし、遠野で有名な曲家は、馬という畜生と暮らしている。これは江戸時代になって、狼が狂犬病にかかり、今まで山の獲物しか捕らなかった狼が、馬や人間を襲うようになった。その為、大事な馬を守る為に、同じ屋根の下に住まわせ保護した事から始まる。しかし犬は家の中には入れて貰えず、軒下で暮らすのが普通だった。そして、紐で繋いで置くのではなく、出入りが自由だったのは「遠野物語拾遺216」の記述からもわかる。

これは現代の話だが、琴畑の集落の外れを通る時、気を付ける事が一つある。車である家の前を通る時、吠えながら向ってくる犬がいる。こちらは車であるから、急に飛び出しても車で轢かないよう気を付けるのだが、これは恐らく獣対策から放し飼いにされているのだろう。普通の街で、犬を放し飼いにすると、いろいろ問題が起きるのだが、孤立した集落であれば、犬も集落の一員となるので、咎める人は誰もいないのだろう。つまり、獣も含め余所者をも見分ける事の出来る犬だと思われる。そういう意味で「遠野物語拾遺216」の犬も放し飼いになっているのは、佐々木喜善の住む山口という集落でも同じような感覚で犬が飼われていたのではなかろうか。

人間が勝手に「犬畜生」という言葉を造っても、「遠野物語拾遺216」の話の様に、こうして犬にも人情というものがあるのがわかる。人に仕える犬だから、それが人間だけでは無く、同類の犬に向けられてもおかしくはないだろう。つまり「犬畜生」という言葉は意味の無いもので、犬にも情があり、恩というものを忘れない動物という事だろう。だからこそ、縄文時代から犬は人間の友であった。縄文の遺跡から埋葬された人間の傍に犬も埋葬されていた事実を知ると、まさにそうであろう。ただ、弥生遺跡からは、そういう事が無く、逆に食べ物の棄てられている場所から発掘されていた。それを考えると弥生の遺跡がほぼ無かった岩手県では、犬は大事に扱われていたのだろうと安堵してしまう自分がいた。
by dostoev | 2015-01-20 14:58 | 「遠野物語拾遺考」210話~ | Comments(0)

言葉を理解する猫

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江戸の幕臣朽木徳綱の御先手与力矢野市左衛門の祖父は、隠居して三無といい、牛込榎町に住んでいた。その三無のところへ、いつのころからか一匹の野良犬が通ってくるようになり、食事どきにきては、三無の食事の分け前にあずかる日々が続いた。文化十年(1813年)、三無が八十九歳になったある日、病で二。三日伏せったことがあった。それで三無もおもうところがあり、その犬に向って、「お前はいつもやってくるから食事を分け与えてきたが、わしももう年でいつ死ぬかもわからない。そうなれば、食事を分け与える事も出来なくなる。だから、お前もそろそろ別の心ある家をさがし、そこへ通うようにするがいい。」と諭した。すると不思議な事に、その犬は翌日から現れなくなった。
                                                                           「耳嚢」

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江戸時代中期から後期にかけて南町奉行の根岸鎮衛が、天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った珍談、奇談などが記録された随筆「耳嚢」の中に、上記の犬の話が収められている。実は、この話に似た様な事を、犬では無く猫として体験している。
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上の画像は以前から見かけていた野良猫だが、寒くなった2014年の9月頃から店の前に顔を出すようになった。家の猫共も贅沢になったか、せっかく与えた餌を食べ残す事がよくあったので、その残りの餌を店の前に置いて、与えていた。ただその時「ここから中には入るなよ。」と云い聞かせたら、それから境界線をずっと守り続けた野良猫だった。

ところが寒くなった12月の初め頃に、私自身が倒れて入院する事になった。私と入れ替えになる様にその日の夕方頃、やはり店の前にその野良猫が来たらしいが、怪我をしたようで足を引きずりながら店の前に来たと言う。家のかみさんが可愛そうだからと、店の中に入れてやったそうだ。

私が退院して戻ると、ある場所にじっとしている野良猫だった。猫は怪我をすると身動きせずに、じっとして治すのがよく知られる。自然治癒力が強いのだろう。店も、食堂はまだ営業しておらず、泊り客も素泊まりが殆どだったので、野良猫一匹がいても大丈夫かと思っていた。

しかし、いつまでも食堂を休業するわけにもいかないので、12月の半ば過ぎには営業を開始しようと思っていた。野良猫も、傷が癒えたようで、どうにか普通に歩けるようになっていた。食堂を営業するにあたって、この野良猫の問題があった。体が臭過ぎたのだ。洗ってあげればいいのだろうが、野良猫を洗うというリスクは、かなりある。ましてや冬の寒い時期でもある為、洗うわけにもいかないだろう。そんなある日、餌を与えた後に野良猫を抱き上げて玄関の外へと置いた。

「もう、ここに置くわけにはいかないから、どこかへ行きなさい。」

すると、悲しい表情をしながらも理解したようで、店から去って行った。聞き分けの良い猫というより、人の言葉を理解する、頭の良い猫であった。まるで「耳嚢」の話と同じだなぁと感じたものだった。

数日後、かみさんが蔵の町通りの「タントタント」という店の付近を、この野良猫が歩いているのを見かけたという。あれから1ヶ月は過ぎたが、元気でいるだろうか?
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by dostoev | 2015-01-19 20:19 | 動物考 | Comments(0)