遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺91(ケエッチャ)」

f0075075_203408.jpg

附馬牛村のある部落の某という家では、先代に一人の六部が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者゛無かったなどという話がある。近頃になってからこの家に、十になるかならぬ位の女の児が、紅い振袖を着て紅い扇子を持って現れ、踊りを踊りながら出て行って、下窪という家に入ったという噂がたち、それからこの両家の貧富がケエッチャ(裏と表)になったといっている。その下窪の家では、近所の娘などが用があって不意に行くと、神棚の下に座敷ワラシが蹲まっていて、びっくりして戻って来たという話がある。

                                                      「遠野物語拾遺91」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、導入に六部の話があり、その後に座敷ワラシらしき話が続いているのは、先代からの時間差がある事を示している。そして、先代の時代に六部がその家に入ったが、時代が経った近頃となって、出て行ったのは六部では無く座敷ワラシとなっているのは、六部が殺された事を暗示している。六部である修験者は、金の探索者でもある旅人となる。つまり、金目の物を持ち歩く六部を殺して富を手に入れた為に、座敷ワラシも入ったという意図を含んだ文章になっている。そして、その座敷ワラシは踊りを踊って出て行った。踊りとは祭の様にハレの日を意味している。ある意味、座敷ワラシが居座った時の流れとはハレの持続を意味し、その座敷ワラシの踊りと共に、その家のハレの日の終焉を意味しているのではなかろうか。だが、座敷ワラシの入った下窪の家には、六部が入った話は無い。単に座敷ワラシだけの移動でケエッチャ(裏と表)となったのかは、何とも言えぬところではある。ただ、六部である修験者は、定住する土地を持たぬ流浪の民である。それに合わせる様にまた、座敷ワラシも家々を渡り歩く流浪の民でもあるという事を意味している話ではないか。
f0075075_20412923.jpg

ただ、「神棚の下に座敷ワラシが蹲っていて…。」というくだりを、この現代でイメージしてしまえば、どうしても映画「呪怨」俊雄君が思い浮かんでしまうのもまた、現代となって座敷ワラシから俊雄君にケエッチャとなったのかも。

ケエッチャは「裏と表」であると記しているが、要は表が裏に返ってしまう事。昔は厠に南天の実を飾ったというのは、「難が転じる」を期待してのものであった。厠は「今昔物語」に厠に入った者が、化物になって出てきた話がある事から、変身する場所でもあると云われている。それ故に、厠(トイレ)が別に化粧室とも云われるのは、「今昔物語」の逸話から始まっている。表から裏。裏から表に返る全てがケエッチャであるが、どちらにしろ吉凶両極端な話ではある。それ故に「平々凡々が一番良い」と云われるのは、変わりない生活が一番、心の平定を保てるので良いのだろう。
by dostoev | 2014-11-29 21:03 | 「遠野物語拾遺考」90話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺90(怪異の判断)」

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同じ綾織村の字大久保、沢某という家にも蔵ボッコが居て、時々糸車をまわす音などがしたという。

                                                     「遠野物語拾遺90」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは、あくまで蔵ボッコがいるという前提で語られている話である。姿を見たわけでは無く、あくまで糸車を回す音がするので、恐らく蔵ボッコだろうという事であろう。蔵ボッコとされている事から、この沢某という家は裕福であったのだと思う。

ところで昭和の時代であるが、青笹町の某所に稲荷の祠での話である。その祠に何故か古いミシンが入っているのだが、そのミシンが夜中の1時頃になるとカタカタと動き出し、それと一緒に女性の低い声が聞こえるのだという。誰か居るのかと思い中を覗いても誰もいないそうで、その音を聞いた者は何人もいるという事である。昭和の時代になると、糸車などは無くなり、洋服は買うものとなっていた。せいぜい毛糸玉を買って、自分で手編みのものを作るか、裁断した布をミシンで縫う時代となっていた。しかしそれも平成の時代になると、ミシンもまた旧時代の遺物と化してしまい、今ではミシンを持っている家も、殆ど無くなってしまったのではなかろうか。

「遠野物語拾遺90」で糸車を回すのは蔵ボッコの仕業となっているが、稲荷の祠でミシンを動かすのは、誰の仕業であろうか?家の中の怪異の大抵は、座敷ワラシ、蔵ボッコなどの仕業にされるが、稲荷の祠は家の様で、家では無い。また女の低い声が聞こえるというが、それが大人の声なのか、子供の声なのかははっきりしない。では、幽霊の仕業となるのか?となれば、沢某の家で糸車を回したのも、また幽霊の仕業となってしまいそうだ。誰もいない筈の場所での怪異を判断するのは、あくまで人間の考えによるものとなってしまう。となれば狐の仕業と捉えても、何等違和感が無くなってしまう。しかし、糸車を回す音も、ミシンが動く音も確実にあったという事。その怪異が、人の住む家なのか、人の住まない家なのかで、その正体が分類されてしまうようだ。しかし、付喪神となれば、それは物そのものに取り憑くものであろうから、人が住もうが住まなかろうが関係無くなってしまう。

例えば昔、山口部落で寝ていると、外から女の歌声らしきが聞こえて恐ろしかったという話がある。山口とは山の入り口の意味で、山口部落から峠を越えて沿岸へと向かう旅人も多かったようだ。急ぎの旅人は、満月の明るい晩などは夜であろうが、その峠を越えたという。ただ、夜の山であるから何が出て来るかわからない為、その恐怖を忘れる為に、歌を歌いながら峠を越えたという。立場が変われば、その女の歌声の取り方が違ってしまうのは仕方のない事である。

ある事象を怪異と感じるかどうかは、その人の判断になるものであり、その怪異の正体の判断もまた、人の判断でしかないだろう。それは、その土地と家を含む場所と、その時代の流れも影響するだろう。今の時代であれば、夜中にPCのキーボードを誰かが勝手に打ち込んでいるという怪異が発生するのだろうか。そしてそれも蔵ボッコの仕業と為れば、蔵ボッコも時代に合わせて進化したという事になるのであろうか。
by dostoev | 2014-11-28 16:38 | 「遠野物語拾遺考」90話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺88(足跡)」

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遠野の町の村兵という家には御蔵ボッコがいた。籾殻などを散らしておくと、小さな児の足跡がそちこちに残されてあった。後にそのものがいなくなってから、家運は少しずつ傾くようであったという。

                                                     「遠野物語拾遺88」

f0075075_20161082.jpg

自分だけではないが、よく子供の頃、まだ誰も足を踏み入れていない新雪に、足跡を付けたり、飛び込んで遊んだりするのが楽しい感じがしたのは、やはり「一番乗り!」という感覚が嬉しかったのだと思う。昔は、家の隣が映画館で、まだ娯楽が少なかった頃、怪獣映画やアニメなどが上映される時は、かなりの早朝から映画館に並んでいる子供達も多かった。やはり映画館に「一番乗り!」する事が楽しみであり自慢だったのだと思う。まあこれは、大人になっても全く無いわけではないが、子供は特に顕著である気がする。

この「遠野物語拾遺88」で「籾殻などを散らしておいた」という事は、家主が意図的に籾殻を撒いたのであり、御蔵ボッコがいるかどうか確認する為だったのだろう。そして籾殻も新雪と同じに、子供心を刺激するものであったろうから、籾殻を撒くのは確かに有効な手段だと思う。それは子供の妖怪にとっての格好の遊び場であった為、こうして足跡が残ったのだろう。

しかし、そうして御蔵ボッコが本当に居るのか居ないのかと足跡を確認しているうちはまだいいだろう。その足跡が残らなくなった場合、逆に不安が膨れ上がったのではないか。御蔵ボッコが居なくなったと感じた時に、その人の精神がマイナス思考に陥ってしまうのではないか。人がマイナス思考に陥った時は、更なる負の要素を呼び込んでしまうもの。相手は御蔵ボッコという、幸せを運ぶ妖怪(あやかし)である。その妖怪が居るか居ないかを確認するのではなく、我が家には御蔵ボッコが居るという意識を常に持続させる方が、精神的にも良いのだと思える。
by dostoev | 2014-11-27 20:44 | 「遠野物語拾遺考」80話~ | Comments(0)

「遠野物語69(十字架のイエス・キリスト)」

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今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れまる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。

昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を悪みて斧を以て後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首にたるまゝ天に昇り去れり。

オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村に在りと云へり。

                                                      「遠野物語69」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鈴鹿千代乃「神道民俗芸能の源流」を読むと、著者はオシラサマの本質を徹底して追及していた。オシラは白山信仰とも繋がるとしてはいるが、東北では「オヒナ」が転化して「オシラ」となったのは、N・ネフスキーの調査などによるものだった。確かに自分が子供の頃、「ひろ子」という名前の女の子は意外に多く、その「ひろ子」という名前を「シロ子」と発音する人が多かった。それ故に「オヒナ」が「オシラ」に転化するのは納得するものである。

鈴鹿千代乃は、日本人は穢れに対する意識が過敏であると考えていた。1年の中で、6月と12月に行われる穢祓の行事の他に、民間で行われる穢祓の行事は節句となる。

人日(じんじつ)1月7日七草の節句
上巳(じょうし)3月3日桃の節句・雛祭
端午(たんご)5月5日菖蒲の節句
七夕(しちせき)7月7日七夕
重陽(ちょうよう)9月9日菊の節句


これらの節句により、人々は少なくとも1年のうちに5回は、身の祓いをしなければならなかった。ところで知らなかったのは、3月3日が桃の節句であり、雛祭りであるのは有名な事ではあるが、それ以外の呼び名に「磯アソビ」「浜降り」という呼び名があった。これは本来、雛祭りが流し雛から始まった名残であろう。遠野の魔所に"人形森"があるが、穢れた人形が流された場所であった為に、穢れるので近付くなという意味の魔所であったのだろうと自分は介錯している。

衣は、天女の羽衣の様に、神との繋がりを持つ物ではあるが、それとは別に穢れの象徴にもなる。「古事記」において黄泉国から現世に帰還した伊弉諾が禊をする時に、真っ先に身に着けているものを次々に体から外していった。御杖・御帯・御嚢・御衣・御褌・御冠などを投げ捨て、その都度に神々が誕生していくのだが、御衣を脱ぎ捨てて誕生した神が和豆良比能宇斯の神(ワズラヒノウシノカミ)という病気の神である。衣には、病気と云う穢れが付着するのだという事だろう。「罪を着る」という言葉がまさに「穢れを着る」であり、衣そのものが罪や穢を吸収するものであった。つまり、オシラサマに衣を重ねていく行為とは、罪を着せ、罪を重ねる行為でもある。着せ替えでは無く、着重ねのオシラサマは、人々の穢れを溜め込む人形であった。
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鈴鹿千代乃は、古代貴族の出産時に用いられた天児(あまがつ)を紹介している。上の画像の右側が、その天児となる。天児の頭部は綿を白布で覆って作るのだが、意図的に皺を作り首のところでまとめて縛るという。その天児を出産の時まで、うつ伏せに寝かせて置くのだそうだが、皺とは苦悶を意味し、首で縛るのは絞め殺そうという意志の表れでは無いかと説いている。この時、梅原猛「隠された十字架」に紹介されている秘仏であった救世観音の頭部に光背が釘で打ち付けられているのは「呪詛の行為であり殺意の表現である。」という言葉を思い出した。出産は「あの世がこの世に突出する瞬間」であると云われる。母体の中の赤ん坊は、母親のお腹が大きくなるたびに、その成長度合いが理解できるのだが、あくまでこの世には生れていない存在である。つまりまだ赤ん坊は、人間の世である"この世"の者では無く"あの世"に生きる者であった。あの世とは、浄土であろうし黄泉国であろうし、常夜国であるかもしれない。つまり異界の住人である赤ん坊がこの世に誕生する時とは、生と死の狭間であると言っても良いのだろうか。だからこそ、その赤ん坊の身代わりとなる天児を置き、無事に赤ん坊が無事に生きて生まれて来る様に、その身代わりとして天児を殺すのが、古代の出産の呪術であったようだ。

この天児と同じ様にオシラサマもまた祓の呪具であろうから、人の罪や穢れを纏った衣を重ねていくのだろう。「大祓祝詞」には「畜犯らる罪」が記されている。これは、オシラサマ縁起での娘と馬の結び付きでもあるのだが、敢えてその罪を意図的に犯し添い遂げた娘とは、人々の罪を一身に引き受けた神に近い存在である。罪や穢を受けるとは、その娘に罪や穢を祓う能力があった事にも繋がるのではないか。養蚕の神であり、御知らせの神であり、狩の神であり、祟り神でもあるオシラサマと娘が結び付くのであれば、本来のオシラサマとは娘そのものであり、馬であり男神であるのは、その罪と穢を象徴するものではなかろうか。
f0075075_95473.jpg

画像は七夕雛であるが、両手を左右に広げている姿は、天児と同じ十字の形になっている。紙で作られる流し雛もそうだが、雛人形の一番古い形は立雛であり、この様に両手を左右に広げている形で作られていた。室町時代から、座り雛が登場したが、それでも座っていながら両手を左右に広げている。

七夕説話もいろいろな解釈があるが、七夕もまた「大祓祝詞」での、娘と牛との「畜犯らる罪」であったとも云われる。その七夕の源流を訪ねると、宗像の多岐都比売命を祀る大島であるようだ。その大島には七夕宮があり現在は、その七夕宮の前に流れる天の川に二枚の短冊に想う人の名を別々に記して流し、それが並んで流れると神が夫婦の契りを許した印であるとされている。想い人と添い遂げるとは、片思いでもあろうが、周りから認めて貰えない相手でもあった。その想い人と結ばれるのは罪と云われようが、それを振り切っての願いでもあり呪詛でもある。それが、牛であり馬との「畜犯らる罪」であろうともだ。つまり、願いを成就するという事は、罪と穢を着る行為であったのかもしれない。

その雛人形だが、両手を広げ十字の形を作っている。天児もまた、木を十字に組んで作っているのは、まるで十字架そのものではないか。木偶であり、偶人の発生は「十字形に齊串を交叉した形」が原型であるという事から、本来は神事から発達したもののようである。その十字の形の木偶であり、お雛様について鈴鹿千代乃は、こう語っている。

「ともあれ両手を真横に挙げた姿は、穢れに苦しむ神の姿であり、それは当然のことながら磔刑の姿である。ここまでしなければ、人間は気がすまない。いや、それほど穢れが積もっている存在ととるべきなのであろう。雛流しと言い、流し雛と言う民俗をみても、いずれにせよ、神を苦しめ、遂には殺す行為にほかならないのである。しかし、神を殺すことは、同時に復活せしめることだと信ぜられていた事も考え合わさなければならない。神は、苦しみ殺されるという試練の後に、より偉大な神・真の大神として復活する。」

この言葉を読めば誰しもが、いや恐らく鈴鹿千代乃自身も思ったのではなかろうか。それが、人の罪を一身に受けてゴルゴダの丘で磔刑になって死んでいったイエス・キリストの姿を。ただ、日本における歴史は、それを否定する。あくまでフランシスコ・ザビエルが伝えてからのキリスト教であったという歴史。ただ、今では架空の人物として捉えられている聖徳太子が、そのイエス・キリストと同じ逸話を持つのだが、何故似てるのか?という疑問を誰も言及はしていないし、証明もされてはいない。だからこそ鈴鹿千代乃も、敢えてイエス・キリストの名を出さなかったのではなかろうか。ただ、流し雛の歴史が平安時代まで遡り、それ以前が不明であるのは、人の罪や穢れを一身に受け止めて磔刑になって死んでいく神の概念が、どこからか持ち込まれて、神事から民間信仰へと流れて行った歴史は確実に存在している。お雛様も、オシラサマユもまた、イエス・キリストに近い概念の神である事は確かなのだろう。
by dostoev | 2014-11-26 10:51 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(6)

「遠野物語拾遺84(神木)」

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松崎村字駒木、真言宗福泉寺の住職佐々木宥尊氏の話に、この人の生家の附馬牛村大出などでも、狩の神様だという者が多い。昔は狩人が門出の時に、オシラ様に祈って今日はどの方面の山に行ったらよいかを定めた。それには御神体を両手で挟み持ち、ちょうどベロベロの鉤をまわす様にまわして、この馬面の向いた方へ行ったものである。だからオシラ様は「御知らせ様」であろうと、思っているということであった。今でも山の奥では胞衣を埋める場所などを決める為に、こうしてこの神の指図を伺っている者があるという話である。

                                                     「遠野物語拾遺84」

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「注釈遠野物語拾遺」によれば、佐々木宥尊氏の出身は、大出ではなく小出であるという。佐々木喜善と親しかったという事から、この話に登場したのだろう。

御知らせの神としては、観光向けに語られる「オシラサマ」の話に、馬と共に天へと昇った娘が両親の夢枕に立ち、桑の木の蚕が幸せを呼ぶものだと知らせた事からも、オシラサマは御知らせ神として伝わっている。ところでよく、行き先が定まらない場合、杖を真っ直ぐに立ててから、倒れた方向へと進むというやり方がある。杖は樹木から出来ている為、樹木信仰の名残だという話もある。杖を挿して、水が湧いた。杖を挿して、宝物を発見したなどと云う伝承が全国各地にはある。

真言宗福泉寺の佐々木宥尊氏が登場しているが、河内にある真言宗の金剛寺は、行基創建の古刹であり、平安末期に後白河法皇の援助を受けて再興されている。その時代の定め書きに、こう記されている。

「山は草木を以て庄と為し、人は才智を以て得と為す。草木無くんば即ち泥丸の如し。才智無くんば即ち木頭に似たり。」

これは、山における草木は人における才智でもあり、それが無ければ「でくのぼう」だと言っている。「でくのぼう」は「木偶の坊」と書き記し、役に立たない人や、気のきかない人、人の言いなりになる人の事を言うが、別に操り人形の事でもある。オシラサマもある意味、人に操られる木偶の坊の様でもあるが、実は神の才智が宿る木偶でもある。だからこそ、オシラサマに方向などのお伺いを立てているのは、オシラサマに神の才智が宿っているものとしたのだろう。
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上の画像は「春日権現験記絵」からだが、大勢の者達が神官の先導の元に、榊を持って歩いている。春日大社には樹木に関する伝承が多く、春日山と、其の周辺の山々の樹木が一斉に枯れる事件が起こっている。ある場合は風害であり、ある場合は虫害のようであるが、それを神威として捉えていたようだ。樹木とは神が愛するものであるから、その樹木が枯れるのは神の言葉の顕れであるとと思っていたのだろう。春日大社は藤原氏が祭祀権を持つ神社であるが、中臣連時風と中臣秀行が神々を山の上から麓の神殿まで移そうとした時、神の託宣によれば「榊を乗り物として移し申せ。」という。その理由は「後代に我が正体として崇を致すべき故也。」というものだった。そうして御告げの通りに榊に神を乗せ、神殿に移したという。三保の松原の天女もそうだが、樹木は神の依代となる。遠野は寒い為に、榊の生育は難しい為に、イチイの木が榊の代わりとなっている。早池峯大神を祀る奥州市の新山神社の宮司は、是非榊を育てたいと努力して、数年前から榊を境内に定着させていた。早池峯大神の異称が、撞賢木厳之御霊天疎向津媛命であった事も大きかったようだ。

ここでオシラサマ縁起を読み直すと、皮を剥いだ白馬を桑の木に吊るしている。つまり白馬は神に対する生贄であり、これは桑の木に神を依り憑かせる神事であるとも思える。そして馬だけでなく、更なる贄として娘をも捧げさせ、天に昇ったという事は、願いが成就されたと捉えても良いのだろう。だからこそ、桑の木に蚕が発生し、それによって豊かな生活が築く事が出来た。オシラサマの木偶が殆ど桑の木から出来ているというのは、桑の木に神を宿らせたという事であろう。春日大社の伝承からも、神を依り憑かせるのは神木となる樹木である。つまり「遠野物語拾遺84」での桑の木であるオシラサマは、神そのものであるという事。だから、その神の託宣を聴く為に、オシラサマにお伺いを立てたのだろう。

春日の神は鹿に乗った姿で伝えられるが、遠野の早池峯の神は、馬に乗った姿で伝えられる。オシラサマでも馬面のオシラサマを使うのは、神の乗り物であるからだろう。遠野全体でもそうだが、特に附馬牛に付属する、大出・小出で信仰する山は早池峯である事を踏まえれば、山神でもある早池峯の神がオシラサマの桑の木に依り憑いたのであろうから、狩の神と思うのは当然の事であろう。
by dostoev | 2014-11-25 11:46 | 「遠野物語拾遺考」80話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺83(狩の神)」

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オシラ様を狩の神と信じている者も多い。土淵村の菊池という狩人の家に、大切に持ち伝えている巻物には、金の丸銀の丸、オコゼ魚にオシラ様、三途縄に五月節句の蓬菖蒲、それから女の毛とこの九つを狩人の秘密の道具と記し、その次にはこういうことも書いてある。「狩の門出には、おしらさまを手に持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝」

                                                     「遠野物語拾遺83」

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多様性を示すオシラサマだが、その属性は山にある。山とは、水の源であり、樹木が発生する地であり、獣もまた発生する神秘の地であった。山中他界で竜宮伝説も付随する山であるから、海のオコゼを捧げたとして何等不思議では無い。そのオコゼもまた、ある地域では"イザナミ"と呼ぶ事から、そのオコゼの醜い顔は、黄泉醜女と同一視されたのかもしれない。山は、他界であり異界であり、補陀落や黄泉国に通じる入り口となる。その山を支配するのが山神となる。オシラサマが白山信仰と結び付いたとしても、それは山との結び付きであり、養蚕と結び付いても、結局は全て山に帰すのであった。後は、オシラサマを信じる者が、どの特異性を重視して信仰するかだけであろう。

【肥前国風土記】

郡の西に川がある。名をサカ川という。水源は郡の北の山から出て南
に流れ、海に入る。この川上に荒ぶる神があり、往来する人の半ばを
生かし、半ばを殺していた。そこでこの地の統治者の祖先であるオホ
アラタが、占いで神意をはかった。

時に土着人の女、オホヤマタメ・サヤマタメの二人がいて、下田の村の
土をとって、人形・馬形を作ってこの神を祀れば、必ず神は和められる、
と申し上げた。

オホアラタが、その言葉のままに神を祀ると、この神はそれを受け入れ
て、とうとう和められ、鎮まった。そこでオホアラタは、この女達はこのよ
うに、まことに賢し女である。サカシメによって国の名前としよう、と言っ
た。それでサカシメの郡と言ったが、それが訛ってサカの郡となった。

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荒ぶる山神を鎮めるのに人形・馬形を作って祀る形の古くは、上記の「肥前国風土記」であろう。それを担当した者は、女であった。女は、その長い髪に霊力が宿るとされ、それをザンバラの状態でいる事が、最も霊力を発揮できると信じられていた。だからこそ「日本書紀(天武天皇記)」で、巫女が髪を結わなくても良いという条例が発布された。つまり、女が神と通じる能力が長けていると判断された為であった。オシラサマを扱うのは、女だけで行われるのもその為であろう。しかし、後に修験が発達して、山から女は締め出された。別説には、山の魔物から女を守る為に女人禁制としたとも伝えられるが、原始形態の祭祀が卑弥呼であるのならば、本来は女が神と交流するのが普通であった筈だ。それを伝えているのが、オシラサマの祭祀であろう。
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オシラサマの祭日には、オシラサマに新しい衣を重ね着させる。これを「オセンダク」と呼び、穢祓であろうとする説もあるが、古い衣は穢れが付いているものであり、衣を重ねるという事は、穢れを重ねるに等しい。そしてその後に養蚕の由来を伝える祭文「シラア祭文」を唱え、少女がオシラサマの神体を背負って遊ばせたりするのだが、それを「オシラ遊び」と云う。夏祭りに穢祓の祭が多いのは、折口信夫が夏の語源は「撫づ」であるとし、人形などの祓の具が撫物に由来している事から、オシラ遊びもまた穢祓の行為であろう。

前回に書いた様に、オシラサマが狩と結び付くのは、動物の血による穢れが生じる為、それを引き受けるオシラサマが、穢祓の神の依代であるという事だろう。山に生まれた獣は、死した時に山である大地に土となって戻る。東から生れた太陽が、西に沈み死ぬと云われた概念と同じ様に、獣もまた死んだ後に山から生れるという循環。その循環を促す為に、穢れを取り除くのだと思う。「古事記」でのイザナミが黄泉国の穢れに遭った時、男神であるイザナギに対して「決して見てはならない。」としたのも、オシラ遊びが男子禁制で、女の間で行われる事と一致する。遠野の綾織で女だけの山神祭が行われるのは、本来の山神祭祀の形態が女の手によって行われているのを脈々と伝えているものではなかろうか。やはり、オシラサマが狩の神でもあるのは、本来が山神である為ではなかろうか。
by dostoev | 2014-11-24 17:13 | 「遠野物語拾遺考」80話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺82(鹿の禁忌)」

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栃内の留場某というのはこの神のある家の者で、四十余りの馬喰渡世の男であったが、おれは鹿の肉をうんと食ったが、少しも口は曲らなかったと威張って語っているのを聴いた。火石の高室某という人はこれに反して、鹿の肉を食って発狂した。これもオシラサマのある家であった。後に巫女を頼んで拝んで貰って宥された。浜の大槌町の某という人も、やはりこの神を持ち伝えた家であったが、鹿の肉を食って口が曲った。巫女の処へ行って尋ねると、遠野に在るオシラ神と共に祟っているということなので、山口の大同の家まで拝みに来たのを、佐々木君の母は見られたという。

                                                     「遠野物語拾遺82」

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「遠野物語拾遺81」では、口が曲るのは一種の病気であり、それがたまたまオシラサマを祀る家の者に偶然重なったのでは?とは書いた。しかし気になるのは、仏教思想が広がって四足を食べるなという禁忌もあったのは確かだが、鹿限定というのは解せない。例えば吉田政吉「新遠野物語」では、猪の丸焼きなどが紹介されており、明治時代の半ばまで猪もまた遠野に生息しており、それを捕えて食べていたようだ。鹿も猪もまた「四肢(シシ)」である事から同じと思うが、鹿限定で口が曲るとはどういう事であろう。

「遠野物語」では、白鹿は神の使いであるとも云われ、旗屋の縫はやはり神に近い存在の鹿を撃ち、ぼっちらし権現として祀った。また春日明神などは、武甕槌が鹿に乗った姿で表されるが、遠野では春日明神信仰は薄いと云わざる負えない。極端に、鹿だけが禁忌と成り得る特異性を見出せない。強引に考えれば、三峰様である狼の獲物が鹿である為、それを奪うのは良くないとなるのだろうか。
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小友町には古くから伝わる鹿除け石というものがあり、上の画像の奇妙な形をした石だが、その石にいくつもの鹿の足跡のようなものが刻まれている。この足跡らしきを黒塗紙に写して畑に立てれば、不思議に鹿に畑を荒らされる事が無くなると伝えらていた。現代の遠野では、ここ数年の間に鹿被害対策として畑の周りに電熱線を張り巡らし、何ともお金のかかる鹿被害対策となっている。つまり、今も昔も鹿は、畑を荒す害獣として農民の間で嫌われていたという事だろう。その鹿を食べると、何故に口が曲るのか。やはりそれは、オシラサマの出自に関係するのであろうか。

オシラサマは白山信仰とも関係すると云われる。白山神社は、被差別部落と繋がると中山太郎の調査でわかってはいるが、その被差別者とは穢多となる。穢多は人の嫌がる動物を解体したり、その動物の皮を使って毛皮やら太鼓やらを作ったりもする。つまり、動物の死と向き合っていたのが穢多であった。しかし古い遺跡からは、鹿の角による装飾品も数多く出土している事から、鹿は古代から狩猟され、その肉であり角などは人々に利用されていた。また東北が蝦夷国であった頃は、狩猟が多く成されており、当然の事ながら、その狩猟の対象にも鹿は居た。つまり、鹿を食べるのを禁忌とした年代は早くても泰澄が白山を開山した養老元年(717年)以降であろう。しかし養老元年はまだ蝦夷国が平定される以前である事から、蝦夷国に仏教思想が広まりつつあった大同元年以降であろう。そして白山信仰が被差別部落と結び付くのは、白山が穢れを嫌うからであった。蝦夷国の民が狩猟に長けていたのであれば、その獲物の解体は当然した事であろう。しかし仏教思想が入り込めば、それは穢れである事から"穢れ多き民族"が、その穢れを浄化する為に白山信仰に入り込んだのは自然な流れであったろう。そして「白山大鏡」によれば、その白山で祀られる神が早池峯に鎮座する穢祓の神であるのならば尚更であろう。

古代における遠野の民は、狩猟の対象として多くの鹿の血を流してきたのだろう。その反面、その鹿を神として祀り、シシ踊りという芸能まで発展させ、殺した筈の鹿を生き生きと蘇らせた。遠野には、シシ踊りを踊る多くの団体があり、その踊りは各自違う。それは、現在遠野市として存在するのだが、その文化は村単位で育んできた歴史からであろう。古代から続く各村々による鹿への鎮魂が、シシ踊りに顕れているのではなかろうか。多くの鹿を殺してきたからこそ、仏教思想の精神が反映されたのだと思えるのだ。ただ「遠野物語拾遺108」の様に、畑仕事より狩猟を好んだ者達がいたのは、蝦夷の血が脈々と流れていた証でもあるのだろう。恐らく、鹿を食うなというのは、蝦夷の血の、過去と現在のせめぎ合いであったろうか。
by dostoev | 2014-11-23 17:39 | 「遠野物語拾遺考」80話~ | Comments(5)

「遠野物語拾遺80(大同)」

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山口の大同の家のオシラサマは、元は山崎の作右衛門という人の家から、別れてこの家に来たものであるという。三人の姉妹で、一人は柏崎の長九郎、即ち前に挙げた阿部家に在るものがそれだということである。大同の家にはオクナイ様が古くからあって、毎年正月の十六日には、この二尺ばかりの大師様ともいう木像に、白粉を塗ってあげる習わしであったのが、自然に後に来られたオシラサマにも、そうする様になったといっている。

                                                     「遠野物語拾遺80」

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まず白粉の話だが、上組町の太子堂の太子様の像に白粉を塗る風習は、太子様は百日咳の霊験あらたかという事から太子様の顔に粉おしろいを塗り、願をかけて白粉を剥ぎ取り、その粉を子供の喉に塗ると1週間で治ると云われた。その通り画像の太子像の顔が異様に白いのは、その風習の通り"お白い"を塗って願を掛けていた為だ。

しかし、白粉の成分は鉛白か水銀であり、この白粉を塗る事により鉛中毒・水銀中毒となる場合が多々あった。今でこそ白粉に鉛白や水銀は使われる事は無くなったが、使われていた時代背景を探れば、金属加工をしていたからこそ、白粉は手に入った。大同という家は、大同元年に関係すると云われ、土淵では草分け的な家だと伝えられる。何故に蝦夷征伐が行われたのかだが、決定的なのは聖武天皇時代に金が発見された事だろう。それまで日本には金が無く、輸入に頼っていた為に奈良の大仏の完成が遅れていた。そんな時に、蝦夷国の小田郡から、金が発見された。それから多くの金属探訪者でもあった修験が東北に派遣され、金探しが行われた。それから東北に皆無だった神社が、坂上田村麻呂の蝦夷国平定の後、多くの神社が建立された。神社とは、その金の発見・採掘の為の前線基地であったと云われる。早池峯神社の建立されたのも大同元年と伝えられる。大同という年号は蝦夷国において、金の開拓の年号でもあった。つまり大同家というのは、金属加工に関係していた家では無かろうか。

井上鋭夫「山の民・川の民」によれば、北陸においてタイシと呼ばれる者達がおり、それを別に「退士」とも称し、「戦に敗れた落人」でもあったとされる。遠野だけでは無いが、鉱山の労働者には、脛に傷を持つ者達の集まりであった。その中には隠れキリシタンもおり、また確かに"退士"でもある落人もいたようである。井上鋭夫によれば、タイシと呼ばれる者は山の民であり採掘をする者達であると。それが川の民と結び付いたのは、採掘した鉱物を川を利用して運ぶ為の結び付きであると説いている。

大同家には大師様という木像を祀っているというが、通常大師様といえば弘法大師であり、太子様となれば聖徳太子になるのだが、ここでの"たいしさま"とは恐らく、大同家に伝わる採掘・治金の金属集団を"たいしさま"という名の元に隠し祀っていたのではなかろうか。「遠野物語69」では大洞家の養母は「魔法に長じたり。」と記されているが、それは「物部」と記された墨書土器が発掘されている事から、遠野の地にも物部氏が流れ着いたのではないかと以前に書いた。物部氏とは、蘇我氏との戦いに敗れた"タイシ"であった事から、大同と名乗る家に伝わる魔法とは物部の魔法の可能性もある。つまり、タイシ信仰と魔法とは、物部氏が伝えた信仰の一つではなかろうか。その物部氏は古くから金属に深い関わりを持っていた氏族である事から、大師様とオシラサマに白粉を塗る行為は、物部氏に関係すると考えられる。
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そして、オシラサマが三姉妹であり、それが三つの家に分かれて祀られているとの記述は、そのまま遠野三山に祀られる三女神に関係する話ではなかろうか。大同元年に建立された早池峯神社は、遠野で一番古い神社となる。それから六角牛神社などが続いて建立された年代が大同年代である事から、大同家がもしもオシラサマと遠野三山神話に関わるのであるならば、その信仰形態を持ち込んだのは物部氏では無いかとの想定が成される。大同年間である平安時代の遠野の中心地は、土淵から附馬牛にかけてであったという前提で考えれば、そのオシラサマでありタイシ様の信仰も、土淵から発せられたものであるだろう。
by dostoev | 2014-11-22 17:31 | 「遠野物語拾遺考」80話~ | Comments(6)

遠野三山を見渡す荒神様

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遠野三山を見渡せる事の出来る、荒神様を祀る場所は、冬の晴れ間が広がっていた。荒神様の御堂の右斜め背後には、石上山が。御堂側面の北方に、早池峯が。そして御堂左前方に、六角牛山が。しかし白かったのは、早池峯山だけであった。
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荒神様の御堂を斜めから見ると、白い化粧を施した早池峯の姿がクッキリと見える。
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早池峯が見えるのは知っていたが、白化粧をした事により、早池峯の存在感が浮き上がっている。
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この早池峯山が、これから更に白くなっていき、益々寒い冬が来る。
by dostoev | 2014-11-21 19:10 | 遠野の自然(冬) | Comments(0)

「遠野物語71(邪宗)」

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此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集りなり。其人の数も多からず。辷石たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈禱す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。

                                                        「遠野物語71」

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「遠野物語70」で書いた様に、オコナイは仏教の行法一般を意味する言葉であった。平安時代の半ば辺りから、密教寺院において、修正会・修二会といわれる年頭、あるいは二月初めの天下泰平・五穀豊穣の祈願行事が発達すると、このオコナイという言葉が行事の別名となって全国に普及したようである。しかし、密教である天台・真言は鎌倉仏教の普及により衰退し、それと共にオコナイも衰退した。それでも後醍醐天皇が真言宗立川流に夢中になったように、呪術的な密教系は密かに信仰されていたようだ。

土渕の常堅寺もまた当初は天台宗であり、途中で真言宗に推移したようだが、決定的なのは江戸時代になってからであろう。徳川幕府は曹洞宗を採用し、密教系を邪宗扱いし、特に真言立川流は徹底した弾圧を受けた。遠野もそういう影響があったのだろうか、過去に密教系寺院が延命の為に曹洞宗に改宗するなどしたのだろう。つまり、オコナイは平安時代に発生したものだが、江戸時代になり邪宗扱いとなった為、隠れキリシタンのように密かに、その信仰を伝え続けたのではないか。

家の中でオクナイサマを信仰し、それとは別に隠し念仏を行っていたと考えるよりも、オクナイサマと隠し念仏が一体であったと考えた方が自然ではないか。密教寺院が無くなった時代「寺とも僧とも関係はなくて…。」とは、そういう事であろう。ちなみに昭和の時代となって、真言宗の福泉寺が建立された為、密教系寺院は遠野で唯一福泉寺だけとなる。また、最近となって他地域から移り住んだ某氏が死去したが、宗派が天台宗であり、菩提寺が福島県であった為に家族が難色を示し、天台宗から曹洞宗へと改宗してしまった。江戸時代となり切支丹が御法度となり、宣教師が国外へ出された為、残った切支丹信者達は見よう見真似で、切支丹を信仰していたが、それは本来のキリスト教信者にとっては紛い物とされた。信仰を導く宣教師や僧がいなくなれば、土着的な要素が多分に入り込み、本来の信仰とは違ったものとなり、それは信仰を離れ、地域信仰・習俗と化したのが、オクナイサマであり、隠し念仏なのだと考える。
by dostoev | 2014-11-21 18:51 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)