遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺179(大蛇)」

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遠野の下組町の市平という親爺、ある時綾織村字砂子沢の山に栗拾いに行って、一生懸命になって拾っているうちに、たまらなく睡くなったので背伸びをして見ると、栗の木の枝から大きな蛇が、下を睨めていたという。たまげて逃げて帰って来たそうである。

                                                    「遠野物語拾遺179」

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大蛇と云う概念は、この現代となって世界のあらゆる情報が身近になった為か、大蛇のイメージは恐らく、動物園などで見るニシキヘビやアナコンダなどの外国産の大蛇になるのだと思う。今まで発見された最大の蛇としてはオオアナコンダが16・5メートルであるというから、ここまでくれば大蛇というより怪獣に等しい。恐らく遠野で最大の蛇はアオダイショウであろうが日本のギネスでもせいぜい2メートル。しかしその2メートルのアオダイショウでも間近に見れば大きく見えるだろうし、ましてや蛇嫌いの人間が目撃すれば、その大きさは倍以上になって伝わるのだろう。
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ところでこの話は、恐らく東禅寺の開祖である無尽和尚の逸話からではなかろうか。無尽和尚が遠野に来たのは、無尽の師匠が白幡を飛ばして、その落ちた場所に庵を建てろというものだった。その落ちた白幡は大蛇であったとか白竜であったと云われるが、それを見た村人は恐ろしくで近寄れなかったという。また、東禅寺での修行から逃げ出そうとした修行僧を、無尽和尚が蛇となって驚かしたという話も伝わっている。その場所はやはり、綾織の砂子沢近辺であった。
by dostoev | 2014-06-30 18:57 | 「遠野物語拾遺考」170話~ | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十五

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鹿島神宮の社殿は北向きに建てられ、何故か神坐は東向きとなっている。その理由は定かで無いとされながら、出雲大社に似た様な造りであると云われている。その鹿島の語源に甕島説があり、甕山を起こりとする香山(かしま)が鹿島に代わったというものだ。また神島という神の鎮まる島という説もある。「常陸国風土記」には、こう記されている。

「高天の原より降り来し大神のみ名を、香島の天の大神と偁ふ。天にては則ち、日の香島の宮と號け、地にては則ち、豊香島の宮と名づく。」

ただ「香島」は「かぐしま」と呼んでいたともされている説があるのだが、そこで思い出すのが鹿児島である。その鹿児島に聳える霧島山を天孫降臨の地としている事から、この鹿島の地との重複性がある。その霧島山の麓に鎮座するのが鹿児島神宮で、鹿島神宮と同じ北向きであると云うが、この共通点はなんであろうか。北向きとして考えた場合、つまり鹿児島神宮の背後には霧島山では無く、桜島に向けて参拝するという事にもなる。桜島は古代に鹿児島とも呼ばれた説がある事から、本来は桜島の神を祀る神社であった可能性があるかもしれない。鹿児島は隼人の本拠地でもあり、その隼人の信仰する地主神が桜島に祀られ、その神が伊勢神宮にも祀られている可能性はあるのだろうか。だがこれ以上の鹿児島神宮の詮索は、別の機会にする事にしよう。

鹿島神宮は北向き社殿で神坐は東向きであると書いたが、東は海である事から神坐の武甕槌は海を睨んでいる形となる。北上川の支流であり、早池峯を水源とする猿ヶ石川の下流に、坂上田村麻呂が猿ヶ石川を交通路として移動する蝦夷を睨む形にして兜跋毘沙門天立像を祀ったとされているのに近いのでは無かろうか。鹿島の御神体は大甕であるというが、武甕槌も甕の字があるという事から、武甕槌の御神体とも云われるが、武甕槌はいつしか甕を外され建御雷神となった。しかし甕も雷も蛇神のイメージにはあるが、本来の蛇神は鹿島の海にある甕であり磯であり、蛇神である磯良神ではないだろうか。その蛇神を睨むように建御雷神は、鹿島神宮に鎮座していると考えるのが普通であろう。
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伊邪那美が火之迦具土神を産んで死んだのだが、その火之迦具土神の迦具は「カグ」で輝く意を持っている為か火の神とされているが別に、母親を殺した忌子ともされている。古代からの習俗に、鬼子を見分ける方法が伝わっている。生後1年の赤子に、一升餅を背負わせる方法だ。これは生れて1年の赤子は、一升餅を背負って歩けるわけがないという前提であった。過去に、一升餅を背負って歩いたのは、酒呑童子であり、茨城童子という鬼子であった事から、それらと同じ子を鬼子として間引きしたと云われる。つまり忌子であり鬼子は、両親から離されたのであった。

香香背男であり、天津甕星には何故「天」が付くのか。それが天孫族の一員であったなら、それは親に逆らった忌子でもあり鬼子でもあったのかもしれない。それ故に排除されたのが、香香背男であり天津甕星だったのか。聖武天皇時代に妙見信仰は、庶民が祀るのを御法度にされた。江戸時代になっても星の信仰は邪教とされたのは、太陽も月も無い夜というのは、星は輝いてはいるが、真っ暗な夜という事に加え、石川五右衛門が庚申の日生まれという事から、星の輝く夜というのは泥棒の暗躍する夜であるとされた。しかしそれは、それ以前から天津甕星という星の惡神の影響が無かったとは言えない。
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古代に何があったのか、なかなか知る術は無いのだが、香香背男であり天津甕星が封じ込められたのだけは理解できる。その香香背男は神名に「男」が付けられている為に男神と思ってきた。しかし香香背男をカカセオとし「カカ」が蛇の古語とし、「セオ」を考えた場合、遠野の大蛇退治の伝説が頭を過った。

遠野の土淵に流れる小烏瀬川は、早池峯から転げ出した石が滝に落ちて、そこが小烏瀬川の滝となり、その川が小烏瀬川となったとの伝承がある。その小烏瀬川に、大蛇の舌出岩、大蛇の胴体である続石、そして大蛇の尾石の三分割に分かれて点在している。その大蛇の尾石がある地を現在は大樽という地名になってはいるが、どうも古くは大垂であったようだ。大垂は大きく垂れる意でもあり、大きく水が垂れ落ちる意でもあって滝の意にもなる。その大樽の地に鎮座する神社は、水破大明神を祀る神社となっているが、別当に聞いてみると本来は白龍神社であったそうな。小烏瀬川の瀬の尾に大蛇であり白龍の尾石を祀っている。流れの速い瀬は滝にも通じる事から、瀬の尾とは滝の意にもなるようだ。つまりカカセオのセオとは、滝の意でもあるよう。そこで思い出すのが二荒山の麓に祀られる滝尾神社だ。
by dostoev | 2014-06-29 16:22 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十四

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「文徳実録」に、鹿島の磯に大己貴命と少彦名命が現れた逸話が紹介されている。先に紹介した、鹿島と大甕の話も全て海であった。その海に関する神事が、鹿島を含む常陸国に多い。「会瀬旧述」には、会瀬浦の地名由来が紹介されているが、それは海の磯場に天の川の信仰が展開されていた。

「其より磯つたへに女浪、男浪を左右より打合せ、渚岸まで寄せ来れば、自然と陰陽和合の地にして、二星それぞれ相賀し給ふ。磯の瀬にして会するが故に、地名会瀬の浦と名付けしもの也。(抜粋)」

この会瀬浦は別名七夕磯ともいうようだが、それとは別に須弥山磯、または蓬莱磯とも呼ばれ、山岳信仰との関わりを持っているのはひとえに、天(アマ)は海(アマ)でもあるという事だろう。そしてそれは、アマである磯場に星が降り立つことを示唆している。

また常陸国には別の祭礼として、多くの磯出神事がある。これは、神迎えの神事でもあるようだ。それは磯に出現した神を再現する神事でもあった。神事の対象は磯である石。例えば物部氏の祀る石上神宮も、磯上神宮であるように、磯と石は同じものであった。これが陸地の石に神が降り立ったという伝承が付随する石を影向石とも云う。所謂、磐座信仰でもある。しかし常陸国でのこの磯出神事に出現する神は、殆ど大己貴命であるのは、どうやら日光と関係してくるようだ。

関東平野の灌漑用水には、利根川、鬼怒川、那珂川、久慈川などの川が利用されるが、その水源は那須岳、男体山、赤城山、榛名山など群馬県や栃木県の山々になっている。その中でも日光連山は奈良時代には、その山々を観音の浄土である補陀落の地として認識されたようだ。その日光連山には大己貴命、田心姫、味耜高彦根が祀られている。その神々の中心となる大己貴命が磯に出現するのは、常陸国と日光二荒山との関連が深いと云う証であろう。そしてそれはまた、山と海の関わりが深いという意味にもなる。その山と海とを繋ぐものは、川という水の流れであった。
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山岳信仰では、人々の魂は山に登るとされる。しかし灯篭流しでは、魂の依代の灯篭が川下へと流れていく。しかしこれは、山である天(アマ)と海(アマ)が連動しているという事でもある。つまり山に登った魂は川の流れを伝って海へと向かうのは、その信仰の循環を意味する。その海で出現した神は雲となって登り、山に雨を降らせる。そういう自然の循環から竜神が想像された。その為、海に出現する神は竜神でなくては成らない筈だ。常陸国の自然と信仰に影響を与える二荒山には、星の信仰と蛇の信仰が存在する。
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勝道上人が7歳の時に明星太子に仏法を興すことを訓えられ、日光開山は明星太子の導きであるとして、男体山開山後に川の南岸に星の宮を祀ったと云う。香香背男の別名が天津甕星であり、その天津甕星は金星であると今ではそう認識されている。これは天台宗になどの三光信仰の頂点に立つものが金星である事に関連している。その勝道上人が川岸に星の宮を祀ったというのは、やはり川の流れを意識していたものと思える。それは、川は山と海とを繋げる一筋の流れでもあり、それは一筋の竜蛇でもあるからだ。天空に広がる天の川もまた竜に見立てられたのは、川そのものが竜として認識され、それを天空に投影されたものであった。会瀬浦の別名七夕磯にある二つの磯(石)は星として表現されている。それは星堕ちて石となり、それは金の散気であるという信仰が定着しているからであった。
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ところで「いわき市史」によれば、胡摩磯に白山神社の神と二荒神社の神が出現したとあるが、両神は同じ神であるのだろうか?このいわき市の白山神社の縁起書は皆無で、一体どういう神を祀っているのかはわからないそうだ。しかし、日光二荒山神社から勧請された、同じいわき市の二荒神社の神と同じく胡摩磯に出現する事から、同じ神であると想定される。

また、常陸国では神の出現する磯をサクともオンネ磯とも云われる。「オンネ磯」は「御根磯」であろうとされ、「根」は「よりどころ」の意もある事から、神の依代としての磯であり石の意であろう。ところが「サク」は正式には「咲浪」であり「サクロ・サクラ」とも呼ばれるようだ。春に咲く桜が「サク・ラ」「サ・クラ」と分割して思索されているが、結局は咲浪と同じ神の依代の意であろうと思う。その咲浪に関する伝承には、海に潜った海士が鮑を抱いて現れたという。「海中ノ事ヲ云ハズ、只此レ以降、鮑ヲ取ル事ナカレ」と告げ、仏門にはいったという。また別に「西金砂山縁起」によれば、延暦25年に西金砂の神が鮑の小舟に乗って水木の海に着いたとある。鮑は磯に付着して生息するもので、磯に出現する幣物として使われている実際、山に囲まれた遠野にある神社の祭壇に、鮑の殻を祀っているのをよく見かける。鮑は幣物であり、神の乗り物でもあると知られている為であろう。そして、その鮑などが付着する磯そのものが神格化されて作られたのが、安曇磯良であるのは理解できる。「八幡愚童訓」「八幡宮御縁起」によると磯良は「常陸国または筑前の海に住む。」これは「琉球神道記」に記されている「鹿島の明神は、元はタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に、顔面に牡蠣を生ずること、磯の如し。故に磯良と名づく。」に対応するものだ。磯良の本来は、白龍であり白蛇と説明したが、これらを全て結び付ければ、鹿島神宮の神とは蛇神であり、それは二荒山の蛇神であろうと想定でき、それに加え金星が関係するのが理解できる。
by dostoev | 2014-06-28 12:40 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十三

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大和岩雄「神社と古代王権祭祀」では鹿島神宮の建御雷神の本来は、甕を使用する武甕槌であったとしている。それは、鹿島を表現する歌にも読み取れる。

神さぶる かしまを見れば 玉たれの 小かめはかりそ 又のこりける「扶木抄(藤原光俊)」

この歌からも鹿島の本来は、かめ(甕)は神代より留まっている壺であるという意であり、それが鹿島を表しているともとれる。「新編常陸国風土記」では「常陸国の海底に、一つの大甕あり、その上を船にて通れば、下に鮮やかに見ゆるといへり。古老伝えいふ。此の大甕太古は豊前にありしを神武天皇大和に移したまひき。景行天皇当国に祀りたまふ時、此の甕をも移したまへるにこそあれといへり。」この記述から察すれば、この大甕は九州から運ばれてきたものなのたろうか?いや、別の言い方をすれば、九州の海神族が常陸の国へ進出し、その御神体を海に沈めて祀ったとも取れる。

鹿島神宮摂社息栖神社の伝承にも、海中に瓶があったと伝える。また阿波国の甕浦神社の御神体は大甕で、海の底にあった大甕が一夜海鳴りをさせて上がってきた伝承がある。また「琉球神道記」には鹿島明神について書かれており「鹿島の明神は、元はタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に、顔面に牡蠣を生ずること、磯の如し。故に磯良と名づく。」鹿島神宮の御神体が甕であるらしいのがわかるのだが、それがどうも磯良となるのは、海神族の影響が鹿島にもあったという事だろうが、それでも武甕槌からは、そのイメージが浮かばない。あくまでも悪しき荒ぶる神々を平らげる為の存在のイメージが強すぎるせいか。ただ磯良であるなら、安曇族の進出が常陸国にあったという事になる。
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大庭佑輔「竜神信仰」には、対馬に安曇族の祀った和多都美神社があり、それと共に多くの関連する神社を調べた詳細が記されている。それよ戸は白蛇であり白龍であり、白い水を伴う存在であると。その対馬と同じ九州の闇無浜神社に伝わる古縁起「豊日別宮伝記」には、下記のような伝承がある。

瀬織津比咩は、伊奘諾尊日向の小戸の橘の檍原に祓除し給ふ時、左の眼
を洗ふに因りて以て生れます。日の天子大日孁貴なり。天下化生の名を、
天照太神の荒魂と曰す。所謂祓戸神瀬織津比咩是れなり。中津に垂迹の
時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍と称し奉るなり。


伝承の最後に記されている「太神龍」だが、常陸国での竜神の表記に「妙泉太神龍」もしくは「妙泉大龍神」というものがちらほら見かける。妙泉といえば、遠野の早池峯神社の前身が妙泉寺である事を考え見れば、この影響を受けて命名されたのが早池峯妙泉寺なのだろうか。そしてもう一つ気になるのは、対馬の白龍に付随する白い水だ。中国地方に祀られる瀬織津比咩と白い水が何故か結び付けて語られ、遠野の六角牛の天人児伝承にも白い水が付随する。また、岩手県の花巻地域にはり早池峯を中心とする三女神伝承があるのだが、その一つ呼び石の地に鎮座する水白神社があるのだが、地域の古老に聞けば早池峯の神であると云う。

鹿島の大甕が磯良と結び付くのであるならば、その大甕は器であろうが、それは白い水を入れる甕でもあろうか。大甕から注がれる水は一筋の滝をイメージしてしまうからだ。

対馬周辺では磯良=白蛇=白龍であり、その依代は白い布であり白い水でもあるようだ。これは宗像のみあれ祭りでの神の依代が白い布であるのと一致する。白い布は水の流れにも重なり、瀧の落ちる水を瀑布と表現するのと同じである。湍津瀬(たぎつせ)とは、激しく流れる水でありそのまま白い水をも意味し、瀧そのものでもあるとされる。落差が僅かでも滝であるとするのは瀧の概念の一つでもあるが、瀧をイメージする激しい流れもまた瀧と同一視されている。それは遠野にも釜淵の瀧が、それと同じである。
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茨城県静神社には天羽槌雄神が祀られているというが、その神社に伝わる伝承では、静神社の神は蛇体の女神で、その昔に出雲の神殿を七巻半も巻いて集まった神々を驚かせたと云う。その為なのか、静神社を祀る地も神無月では無いそうである。これは早池峯も神無月では無い事に対応するものであろうか。その静神社の神は、何故か鹿島神宮の高房社に祀られ、昔から鹿島神宮では本殿より先に高房社を参拝しなければならないしきたりになっているという。静神社の祭日は申酉の日となってというが、陰陽五行では申は水気であり水の発生を意味し、酉は金気で盛んになるという。つまり祭神の蛇体の女神は、水気と金気を纏う女神でもあるという事だろう。

静神社で古来から有名なお守りは「蛇除の御守」つまり静神社は本来、蛇神を祀っていたが、その神を抑える為に天羽槌雄神が祀られたのだろう。その正体は恐らく香香背男。カカは蛇の古語であり、女になった伝承もある事から、本来は蛇体の女神であると思わる。何故なら蚕を食べる鼠を捕食するのは蛇だからだ。その養蚕の保護をする蛇を排除する蛇除けの御守があるとはどういう事だ。となれば、静神社の祭神の本来は、蛇神でもある香香背男であった可能性は高い。天羽槌雄神をどう見ても、蛇神とは重ならないのであるから。

養蚕の守護は、いつしか蛇から猫に変わったようだ。しかし、その共通点は陰獣であり、女の性質を持つという継承のようでもある。猫が死ぬと、その死体は三叉路(辻)に埋めるのは、多くの人に踏み固めて貰い、その怨霊を封じ込める意図からだという。これを神社に適用させれば、蛇神である祟り神は、人の多く参拝する神社に合祀せよという事か。となれば、静神社に祀られた蛇神の女神が何故に鹿島神宮にも祀られているのか想像がつく。いや、静神社と同じ蛇神が鹿島神宮の本来の祭神である可能性もあるだろう。そして香香背男の名前をもう一度見直す必要性があるだろう。今まで香香背男には「男」という漢字があてられていた為に男神であるという認識が一般的であったが、それを純粋に「カカセオ」という音表記から考えてみたい。香香背男の別名天津甕星である事から、鹿島神宮との繋がりが想定できるからだ。
by dostoev | 2014-06-27 04:50 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十二

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自書「古代蝦夷を考える」高橋富雄は日高見に対する想いを学会に向けて、こうぶつけている。

祝詞日高見国の定説的理解は、日高見国の問題の歴史化の芽を摘んでしまった。日本古代国家成立史上の謎解明の道も塞いでしまった。わたくしはそうおもっている。祝詞の日高見も景行紀のそれも同じものだったはずなのに、祝詞学者たちは両者を別々のものと考える定説をつくりあげてしまった。この人たちは、すべて権威ある国学者たちであった。そのために、この人たちの権威のもとにつくりあげられたオオヤマト国家学説も、権威ある歴史学説として、今なお支配的である。われわれは今その全面的な再検討を迫られている。
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問題となったのは「六月晦大祓詞」「還却崇神詞」の両方に日高見が登場する事からであった。景行紀において、武内宿祢の甘言によって始まった蝦夷討伐の中に日高見国が含まれていた。それは恐らく、陸奥国の日高見国であろうと思われてはいたが「還却崇神詞」にも登場する日高見国の扱いから、まつろわぬ民であり国の総称としての日高見国となってしまった。それは「還却崇神詞」が天照大神の命により、天穂日葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされた話の流れが「還却崇神詞」に記されている為、その舞台が出雲であろう事から、日高見は景行紀の「東夷の中、日高見国あり」の狭まれた中の存在から「大倭という名の日高見国」と漠然とした存在になった事を高橋富雄は嘆いていた。

しかし、この神話の舞台が出雲では無く関東であるならどうなるだろう?話の終わりには、高天原からの返し矢によって死んだ天若日子とそっくりな味耜高彦根が登場し、天若日子とそっくりな事を憤慨している。この物語で注目すべきは、味耜高彦根は天若日子と似て非なる存在であるという事を訴えている。それを考慮して思うに、人だけでなく、その舞台となった地も似て非なる場所では無かったのか?と思うのだ。

誰かの書にて「記紀」に対する疑問を述べていた。日本で一番高い筈の霊峰富士が、何故に「記紀」に登場しないのかと。天智天皇時代に、鹿島神宮の修復に人などを派遣している。また天武天皇時代には、天武天皇が伊豆で発生した大地震をしきりに気にしている。朝廷側が気にする東国の記述が何故少ないのか。ましてや近畿からも遠望できる富士山が登場しないのはおかしいと。高天原は遠い彼方の存在であるが、それは海の彼方であり山の彼方でもある。人がなかなか辿り着けない地を高天原とした可能性から、何故に富士山が除外されているのか。関東には多くの富士見台と呼ばれる地名があるのは、そこから富士山が見えるからだ。古代人の思考からも富士山を高天原と見做さないのは確かに不自然な事でもある。

そしてだ、味耜高彦根を祀る神社の多くは関東にある。また天地開闢の神とも云われる天御中主命を一番多く祀る地は茨城県である。その茨城県の「我国間記」では「天地開闢の地」と記されている。しかし古代史の中心は近畿以南となっており、東国軽視の風潮が蔓延している。その為に「還却崇神詞」の舞台が出雲であるという定説から高橋富雄も嘆いた。しかしその嘆きも「還却崇神詞」の舞台が東国になれば歓喜に変わる事だろう。
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鶏が鳴く 東の国に 高山は さほにあれども 二神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波の山を 冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞ我が来る                                       「万葉集382」

東の国に高い山は沢山あれど、中でもとりわけ男神と女神のいます貴い山で二つの嶺の並び立つさまが心を惹きつける山とと、神代の昔から人が語り継いで、春ごとに国見の行われてきた筑波の山よ、それなのに今はまだ冬でその時期ではないからと国見をしないで行ってしまったら、これまで以上に恋しく思われるだろうと、雪融けのぬかるんだ山道を苦労しながら、私はやっと今この頂まで登って来た。   「万葉集382訳」

この「万葉集382」をどう解釈するか。筑波の山は筑波山であり、伊弉諾と伊邪那美を祀る山でもある。この筑波山が神代・・・つまり神の時代から語り継がれていたとされた山であった。また謎の境の明神というものがある。筑波山が聳える茨城県側に、伊弉諾が祀られ、福島県側に伊邪那美が祀られている。それがまた、宮城県の多賀城側に伊弉諾が祀られ、それ以北の蝦夷国に伊邪那美が祀られている。火之迦具土神を産んで死んだ伊邪那美は黄泉の国へ行き、黄泉津大神となった。それによって伊弉諾の現世とは、千曳岩によって区切られてしまった。それをそのまま、朝廷の支配側と被支配側にわければ、その境の明神の示すものが何であるか想像がつく。

実際の話、関東近辺に広がる一大古墳郡が発掘されているが、誰も歴史に照らし合わせて説明できていない。実情は関東の古墳群は学会から無視されている形で「記紀」の神代の話が進められている。だが関東の古墳群は、一つの王国の証であるのは間違い無いだろう。神話の舞台を東国に当て嵌めて考えても、なんらおかしくは無いと思えるのだ。
by dostoev | 2014-06-26 13:22 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十一

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皇祖神を祀ると云われる伊勢神宮に、アラハバキ姫とも云われる瀬織津比咩が祀られているのは何故なのか。伊勢神宮は、内宮と外宮に分かれる祭祀形態ではあるが、外宮の豊受大神は複雑怪奇な神であり、そもそも本当に伊勢神宮に祀るべき神なのかを考えても疑問符が付く。何故なら、出自の怪しいものは神であろうと人間であろうと、"そういう場所"には入れる筈も無いからだ。だが、荒御魂という形で、内宮と外宮に瀬織津比咩の姿があるのは、そもそも本来の祭神を背後に置いて、表面を取り繕った作為が行われたとしても不思議ではない。

外宮の豊受大神は、天女としてどこからか飛んできた存在であり、それ以前の足取りが不明ではある。しかし常陸国の「我国間記」において「我国ノ御山ハ日本開始メの峰ニシテ、豊受産ノ神社有リ、後に尊ノ号ヲ常立ノ尊ト奉称。…即チ太神宮ナリ後に丹州、今ハ伊勢ニ移リシ給フ。伊勢の外宮、近江多賀大社御同神体ナリ。」と記されている事から、常陸国に着目してみる事にする。しかしこの「我国間記」の描写は、常陸国がまるで高天原であるかのような記述である。ただ高天原の解釈は、先人の学者たちが築いた軌跡でもあるから、簡単には否定もできないが、考古学の見地から言えば、関東周辺の古来からの古墳群を歴史上であり神話上どう説明するのかという疑問点が残る。景行天皇記のヤマトタケルの伝説によれば、未開の地であった筈の関東であり吾妻が、これほどの古墳群を有する国である記述は「記紀」に無い事が大きな疑問である。
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「伊勢國風土記 逸文」にはこうある「天津の方に國あり。其の國を平けよ。」と天日別命に命令する。その天津方とは、伊勢国から数百里の遥か彼方であり、それは恐らく関東近辺を言っているのだろうとされる。しかし天津という表現は、天そのものであり、それは高天原を意味していても不思議ではない。辺鄙な場所を夷とも云い、蝦夷国は都から遥か遠く離れた辺鄙な地であり、夷の地だ。「日本書紀」の一書に歌が詠まれている。

天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根

天離る 夷つ女の い渡らす迫門  石川片淵  片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵

この歌は天照大神が、天雅彦に命令し「豊葦原中國は、是吾が兒の王たるべき地なり。然れども慮るに、残賊強暴横惡しき神者有り。故、汝先づ往きて平けよ。」恐らく、この「日本書紀」の話に合わせてできたのが「遷却崇神詞」という祝詞であったのだと思う。この祝詞には日高見という名称が登場するが、それは後で書く事としよう。その前にだ、この歌の解釈は先人も苦労していたようで、簡単に訳せば下記の通りになる。

「天上の機織女が首に掛けている首飾りの玉、穴が開いた玉のように、谷に渡る 味耜高彦根 」

「田舎女が瀬戸を渡り魚を捕るため、石川の片岸に網を張り渡したが、 その田舎女が網目を引き寄せるようにこちらへ渡って来なさい。石川の片淵よ」


簡単に訳せば意味があるような無いような歌である。ところで夷が辺鄙な意味を持つ事から田舎に住む女とも訳されるが、これは天を隔てた遠い所にいる女と訳せば、前歌の弟棚機と結び付く事となる。細かい解説は抜きにして、持論を云う事にする。まず東国に荷渡・二渡・などという神社や観音があるが、それは別に鶏とも鬼渡ともいろいろな漢字があてられているが、この歌に登場する「二渡らす(ふたわたらす)」とは、二荒山を指すと考える。

古代の秘伝の薬に関する本を読んでいると、とにかく簡単に解明されないよう、意味の無い漢字をあてたり、句読点を違う箇所につけたりして難解としている。その技法はわらべ歌にも伝わっており、真意を誤魔化して伝えるのは、歴史書であろうが、あるものと思っている。まあ「古事記」などでは今まで大和言葉で解明できなかったものがアイヌ語を適用してみると理解できたものもあるので、史書であろうが、いろいろな視点から見るべきだとは思っている。中途半端ではあるが、今回この辺とする。(続く)
by dostoev | 2014-06-24 18:01 | 鉄の蛇 | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十四話「法印殺し」

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これも、前回の「呪い屋敷と発見された観音像」と舞台は同じ、能舟木である。

能舟木に、ある法印が住んでいた。法印とは、僧位の一つであり法印大和尚位の略となる。元は仏教における真理の印を意味し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印とする事からきている。僧位としては貞観六年(864年)に設けられた僧正に与えられる階位であった。その法印が、諸国の霊山を巡礼している際、秋田県の仙北でたまたま博打をしてしまったという。ところが勝ちに勝ったりで、その座で独り勝ちしたらしい。そのままでは危ないと思ったのか、用を足しに行くとして、そのまま逃げてしまったのだと。その場を取り仕切っていた者は怒り、その仲間の二人が法印の後を追った。

法印は、どうにか能舟木まで逃げ延びて来たという。とにかく喉の渇いた法印は、持っていた杖代わりに使っていた桜の木の枝を小川のほとりに差して、その小川の水を飲んだという。しかし追っ手は、その能舟木まで来ていた。
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追いつかれた法印は、桜の枝をそのままにして逃げたが、ついに能舟木の塚で追いつかれ、追っ手の者はそのまま法印を惨殺し、金を奪い取った。その時、新城館の見張りが法印の叫び声を聞いて駆け寄ってくると、その法印の殺された姿を見つけたという。犯人はまだ遠くには行って無いとして、追いかけると、殺された法印が水を飲んだ小川で、その法印を斬った刀に付いた血を洗っていたという。館の見張りの者は、その二人の者達を取り押さえ首をはねたという。その時「仙北恋し。」という言葉を、息絶える寸前に吐いたのだと。

その追っ手の亡骸を小川のほとりに葬り。一基の石を墓石として立てたという。ところがその石が、いつも決まって仙北の方向に倒れるのは、二人の霊がこの石に籠ったのであろうとし、その石を地蔵石、叉は仙北石と名付けた。また別に、法印の差した桜の枝には根がついて、小川のほとりにある桜がそれであると伝えられる。その小川の水は、血を洗ったと云って、飲まないものだと伝えられる。
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この能舟木の小川とは「遠野物語拾遺32」で紹介される、坂上田村麻呂の大蛇退治の話に登場する川であり、坂上田村麻呂はその大蛇を斬った太刀を川で洗った事から太刀洗川と称されたとするが、異伝もあったのだ。太刀洗川とはあくまでも伝説の様で、その川の正式名称は能舟木川である。ただ画像の様に、今でも川に供物を捧げる風習がある事から、あるモノの死を供養しているのは確かのようだ。ただ解せないのが法印と云う高い身分の僧が、何故に博打に手を出したのか?そういう面では、創作も入っているかとも思える。それか、元来の生臭坊主であったかのどちらかだろう。名僧や高僧の手にしていた杖を地面に差したら、根がついて大木になっという話は、遠野界隈だけでは無く、全国に多く見受けられる伝説だ。その多くの主役は、弘法大使となっている場合が多い。

それよりも気になるのは、前回の六部殺しの話でもそうだが、余所者に対する警戒心である。よく余所者とは「幸福をもたらす場合もままあるが、大抵の場合不幸を持ち込む者である。」という認識が小さな集落では意識されていた。それが生き残る術でもあり、飢饉などで悲惨な時代を過ごした集落などでは、すこぶる強かった。方言などは、余所者を見分ける為に出来た言葉であるとも云われる。実際に薩摩藩は、余所者を見分ける為に言葉を作ったという。それは身形が同じでも、言葉が違えば余所者である事がハッキリ認識できる為であった。

女六部が殺されたのも、小さな集落に用事があるとすれば大抵の場合、盗みを働く為だろうという決めつけがあった為からの疑念からであったのだろう。または、六部などを殺して金品を巻き上げたのもまた、その悲惨な時代を生き残る術でもあった。ただ今回の仙北からの追っ手二人も殺した後に、懇ろに供養しているのは、日本に浸透する祟りと云う文化の一環であたのだろう。殺せば祟られる。なので神として祀るか、懇ろに供養する。神仏に対する恐れは、神罰仏罰となって返ってくる恐れである。これはつまり、どんな人間でも神であり仏になれるのだと信じていたからでもあるだろう。
by dostoev | 2014-06-23 21:39 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十三話「呪いの十一面観音像」

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今から約200年前、天明の頃であった。女の六部が観音像を背負い錫杖を持って霊場の巡礼の旅の途中、大槌町の滝ノ沢の岩窟を仮の宿としているところを賊に襲われたという。
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この岩窟の脇には滝が流れ、そこには山神が祀られていた。また、その滝は"おたきさん"と呼んでいたという。

その女六部は、賊に襲われた際、観音像を持って逃げたが奪われると思ったのか、近くの沼にその観音像を沈めて種戸峠を越えて能舟木まで逃げたという。種戸峠は現在廃道で、今では人の往来は皆無で、獣道となっている。
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能舟木まで辿り着いた女六部であったが、部落の人間に罪人と間違われ道之下敷地の老木である桧葉の傍で竹槍によって刺殺されたのだと。女六部は死の間際に「妾の夫は要職にあったが、拠無い事情で六部となり旅立ち、その後を追って西国から来た。観音像を身体から離したまま命を落とすのは無念だ。その観音像を探して拝め。更に経文と八幡様の霊魂は桧葉の老木へ乗り移らせたので、その桧葉には刃物を入れるな。」この遺言を残して死んでいった女六部であったが、能舟木の部落民は、身分の高い六部を殺したと知り、後の災難を恐れて、遺体を他の場所へと運んで焼却し、証拠を隠滅したが、その夜に能舟木では火災が発生した。
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それ以来、女六部が殺害された道之下敷地には、女六部の地縛霊が出ると恐れられ、今なお伝えられていると云う。地縛霊が出るとの道之下敷地に、当時豪傑で名の知られた字の神の屋号を持つ孫兵衛は、そんなのは迷信だと言って、部落民の反対を押し切って、その桧葉の木の下に家を建て、新たに「道之下」という屋号とし、自らも孫兵衛改め、初代平之丞と称し妻のマンとその家で暮らしたが、不幸が続いた為に部落民からは「呪い屋敷」と噂された。
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時代を経て、道之下家七代目八幡福太郎の頃、妻キノエと長女ウメ、次女ハナが祈祷師和田カツエに祈祷して貰ったそうな。その祈祷師和田カツエに女六部が憑いて話すには「能舟木から東方、祝田の洞窟を仮の宿としていたが、賊に襲われ、観音像を耕田に沈めてあるから、見つけ出して拝め。」と告げたという。また別に、釜石市根浜の宝来館主である岩崎昭二が「観音像は祝田団地の高清水製材所付近にあるから探してみろ。」という予言を告げた。しかし、それでも見つける事は出来なかった。
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ところが、昭和48年4月7日に、釜石共栄大槌店新築工事に関連する側溝掘削工事の際、観音像が無傷で見つかったという。それは女六部や祈祷師などのお告げの言う通りであったが、鉄製の観音像であった為、周囲に錆が広がり、分かり辛かったのであろう。その発見された場所には現在、石碑と五輪の塔が建っている。
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そして発見された観音像を祀る社殿が、昭和52年5月14日に建立され、それと共に道之下家で安置していた女六部の御魂を昭和53年3月23日に遷し、これによって女六部の遺言でもあった観音像と同じ社で祀られる事となった。これによって長きに渡った、道之下家の呪いの宿命の帰結と悲願が達成されたのだろう。
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別当から見せていただいた観音像の姿は、恐らくその造形から十一面観音であると思う。女六部が仮の宿とした滝のある岩窟もまた、その信仰が導いたものであろうし、女六部が逃げた能舟木の途中には熊野神社が鎮座している。恐らく、女六部は熊野修験の関係であり、その導かれるままの行程での不幸な出来事であったのだと思われる。面白い話として、しばしば女祈祷師に観音様が憑依するらしいが、かなりの凶暴な性格の様で、女祈祷師はその都度"荒ぶる女神"になったらしい。

その女祈祷師に関する話も面白く、髪は赤毛で、体系も含めて日本人には見えなかったという。その血筋は、橋野溶鉱炉に外国人が働いており、その外国人の血を受け継いでいたとしている。実際にその写真を見せられたが「遠野物語」に登場する山女や天狗を想像してしまうほどのものであった。天狗や赤ら顔の山男・山女の外国人説があるが、信憑性は高いのではなかろうか。
by dostoev | 2014-06-22 18:27 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十二話「仙人峠の由来」

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「遠野物語拾遺5」に、仙人峠の由来が記されている。その一つは、千人の金堀りが死んだから、仙人峠となったというものと、山に仙人が住んでいたからというものがある。その仙人の異伝が「上閉伊今昔物語」に伝わっている。

時は天正年間、上郷村字細越の佐生田に倉七という正直な、独り者の樵がいた。倉七の日課は、暗いうちに山に登って山頂と御来光を伏し拝み、枯木を採っては生計を立てていた。そんなある朝、同じ様に山で伏し拝んでいると、白雲に乗った白髪の老人が現れ、倉七に対し巻物を授けた。それから、その巻物に書かれている呪文を唱えると、怪我人や病人が治ったという。また、生まれてくる子供の性別をも間違いなく当てた事が評判となり、眼病で苦しんでいた遠野公の耳に止まり、倉七は御城へと呼ばれ、遠野公の病をもその呪文で治したという。しかし、不思議に思った遠野公がその巻物を見たいと言った。白髪の老人からは決して人には見せてはいけないと言われていたが、殿様の命令には逆らえず、その巻物を見せたところ、書き記されていた文字が全て消えてしまったという。

しかし倉七は恨む事無く、その巻物をくれた白髪の老人を仙人様として厚く信仰し、一尺五寸程の木像を彫り上げ祀ったのが、実は竜神であったという。現在、堂宇は朽ち果て、その跡のみが佐生田に残っている。また、白髪の老人の現れたところを仙人と呼び、現在の仙人峠の名の起こりであると云う。
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殿様の眼病が治ったというが、遠野には広く、泉などで目を洗うと眼病が治ったとする伝説が数多くある。この伝承の場合は、ただ呪文を唱えるだけではあったが、恐らくそのどちらにも山神が関わっているのだろう。「遠野物語108」では山神が乗り移って占が当たるようになった話は、倉七が子供の性別を当てるものに似ている。実際「遠野物語拾遺237」の話では、山神と出産が深く関わっていると信じられていたようである。また、山には水が湧き、薬草も豊富にある事から、病を治すには山のモノが必然となっていた。薬草などは大抵、山伏などが教えたようであったが、それもまた山神の御加護としてのものであった。竜神として考えられるのは、白髪の老人の顔と、体が蛇である宇賀神がいる。それが倶利伽羅不動として、不動明王にも繋がってくるのだが、そこに山神と水の繋がりを見いだせる。

ただ、倉七が登った山とは、どの山であったか。御来光を拝むとなれば、やはり歩いて登った旧仙人峠の頂きであったろうか?
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仙人堂があった場所は鬱蒼とした茂みの中で、とても御来光を拝める場所では無いから、更なる高みまで倉七は登ったのだろう。気になるのは「山頂を伏し拝んだ。」という事だが、自らが登った足元の山頂に対して伏し拝んだのであろうか?ただ、その頂の先には、仙盤山がある。仙盤山は、伝説の猟師旗屋の縫の伝承があり、神の鹿を千晩籠って待って撃った事から千晩山ともいうが、通常は仙人の「仙」の字をあてている。もしかして関係があるのかはわからないが、太陽の昇る方向に聳える仙盤山に向かって伏して拝んだとしても、何等不思議は無いだろう。
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ただ一つ気になるのは、山形の湯殿山方面に仙人沢という地があり、その山の景色がまるで仙人峠手前の方岩に非常に似ている。遠野は羽黒修験の影響を受けている事から、その湯殿山の仙人沢の景色を、遠野の仙人峠に投影したのでは?と考えてしまう。いずれ、その仙人沢は、詳しく調べる予定だ。
by dostoev | 2014-06-21 21:13 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の十

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続けて豊受大神について書いてきたわけだが、中世に新たに作られた神話によって豊受大神は、崇高な神となった。その新たな神話の下敷きが、「日本書紀」の一書の所伝であった。その中で化生したのは倉稲魂命であった。

「又飢しかりし時に生めりし兒を、倉稲魂命(ウカノミタマ)と申號す。」

古代史系の本を読むと、殆どが豊受大神は「トヨウケ」であり、「ウケ」は「ウカ」と同じものであるから、トヨウケもウカノミタマも同神である。そして保食(ウケモチ)神も、大宜都(オオゲツ)比売も同じだとされている。更には、国常立尊=天御中主命=豊受大神は同神とされている為に、かなりの混乱が生じる。例えば日本で一番多く祀られている稲荷神社の祭神は倉稲魂命の場合が、その殆どであるのだが、それではそれは豊受大神でもあり、天御中主命でもあるのか?これは豊受大神を最高神に仕立て上げようとした弊害だったのではなかろうか。何故なら御饌都神である止由気であり保食神と、天地開闢の神である筈の国常立尊や天御中主命は分けるべきであるからだ。

鎌倉時代に行われた伊勢神宮の遷宮の時、倉稲魂命の御神体が移動途中で誤って落とされ、御神体であった「瑠璃の壺」が露顕してしまったそうな。その為に奉仕者の物忌は責任を取らされ解任されたそうである。現実としての外宮は、御食や御酒を司る神々がひしめいているいる為に、その御神体の殆どが甕や壺であるという。しかしここで、非常に気になる神名が浮かぶ。その名前は、天津甕星であり、別名香香背男という神だ。
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確かに甕(ミカ)は「カメ」とも読み、水や穀物を入れる容器でもある。しかし平田篤胤「古史伝」では「甕は甕速日神の甕と同じく、伊迦と通ひて厳く大なるを云ふなり。」とある。つまり「厳めしい」「威力」の意味をも持つのが「甕」であった。

その天津甕星であり香香背男は常陸国に居た。ここで気になるのは先に紹介した「我国間記」の一文である。「我国ノ御山ハ日本開始メの峰ニシテ、豊受産ノ神社有リ、後に尊ノ号ヲ常立ノ尊ト奉称。…即チ太神宮ナリ後に丹州、今ハ伊勢ニ移リシ給フ。伊勢の外宮、近江多賀大社御同神体ナリ。」信憑性を疑う「我国間記」ではあるが、まったく無意味に書かれたものでもなく、何かの意図を以て書かれたものだろうとは察する。ただ恐らくだが一文の最後「近江多賀大社御同神体ナリ。」は、伊勢神宮の多賀の宮の間違いであろう。それは、多賀の宮の祭神が豊受大神の荒御魂である事から確実であろう。
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一気に天津甕星へ行きたいが、その前に少し寄り道をする事としよう。実は以前から「日本書紀(景行天皇記)」に気になっていた箇所があった。

「神宮に獻れる蝦夷等、晝夜喧り譁きて、出入禮無し。」

これは捕虜とした蝦夷を伊勢神宮に放つのだが、昼夜構わず大声を出して騒いだとされている。その前に、何故に捕虜を伊勢神宮に放したのかの理由がわからない。それと似た様なものに「続日本記(和銅六年)」の隼人に関する記述に、こうある。

「隼人、昏荒野心にして、憲法に習はず。因りて豊前国の民二百戸を移して、相勧め導かしむ。」

この隼人に関する記述は「日本書紀(景行天皇記)」における、武内宿祢の蝦夷に対する記述に近似している。それは平らげようとする意図から、蝦夷も隼人も同じようなものだというのだろう。それにあたって朝廷側は5000人もの人を移住させ隼人の指導にあたったとされるが、その時一緒に運ばれて来たのは八幡神であったそうだ。その時の祭神は三柱の神で、応神天皇、神功皇后、豊受大神であったと云われる。

確かに隼人は何度も反乱を起こしているが、それは蝦夷も同じだ。その反乱なのだか、蝦夷も隼人も同じ養老四年に反乱を起こしている。養老四年の蝦夷の反乱は五ヵ月で落ち着いたのだが、その反乱の要因は上毛野氏が蝦夷の信仰する水神を祀る山に駒形神を勝手に祀った事からであった。しかし大野東人は「蝦夷を以て蝦夷を喩」政策から、反乱が広がる事も無く五ヵ月で懐柔している。その同じ養老四年に、隼人も反乱を起こしている。この時、朝廷側にある迷信が蔓延っていた。それは「庚申年には蝦夷の反乱が起こる。」というものだった。庚申とは近代となって星待ちの民間信仰の印象が強く思われているが、実際は北辰であり、妙見信仰との繋がりの深いものである事を付け加えておこう。隼人の住んでいた大隅に八幡神が祭祀された。今では鹿島神宮とも云うが、その鹿島神宮は北に向けて建てられている。東北での北向き神社で有名なのは胡四王(こしおう)神社であるが、それは本来「星王(ほしおう)」であり、妙見信仰からのものであろう。
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大迫の早池峯神社が何故に早池峯に向けずに、遠野の早池峯神社に向けて建立されたのかは、遠野早池峯神社の遥拝所であったという説明も間違いではないが、正確には北辰を頭の上に抱く早池峯こそが真の姿であるという事を重視してのものだった。つまり、妙見と早池峯は繋がって信仰されていた。また早池峯神社の御神体の一つである又一の滝もまた本来は太一の滝であり、これは伊勢神宮の太一信仰と繋がってくる。

宇佐八幡が北辰殿を採用したのは、聖武天皇時代であった。思えば八幡神社が稲荷神社と一位二位を争う程にこれだけ全国に広がっているのは、まず朝廷側の方針に沿うような祭祀を行い、国家神を目指していたのだと思える。それ故に妙見を採用し、蝦夷や隼人・熊襲を平定する為に、それらがひれ伏するする神を祭神としたと考えるのが妥当であるだろう。養老二年において、蝦夷平定を祈願し、熊野から熊野神が蝦夷国に運ばれた。同じ時代、九州の地では隼人の反乱を抑える為に、八幡神が用いられた。「鬼を以て鬼を制す」という言葉を実践するには、ある神を信仰する民俗を説き伏せるには、同じ神を以てするのが有効であったのだと思う。大野東人の「蝦夷を以て蝦夷を喩」が個人の政策方針ではなく、国家である朝廷側の方針であるならば、それは同じ養老四年の隼人の反乱にも採用された筈だ。ただ蝦夷側には熊野神であり、隼人側には八幡神の違いはある。しかし、遠野の六角牛神社に祀られている宇佐明神を紐解くと、それは宗像の湍津姫であり、それは瀬織津比咩でもあった事を踏まえれば、蝦夷も隼人のどちらも、同じ神の力によって平定されたという事になるのである。
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となれば、景行天皇時代に蝦夷が伊勢神宮に連れてこられた理由は、蝦夷を大人しくさせる意図があってのものだったのだろう。しかし、蝦夷は騒いだ。だが、隼人もまた騒いだという。ただその騒ぎ方は「日本書紀」によれば「吠狗」「狗吠」と云われるものであった。しかしその「狗吠」の発動は、神聖なものに対しても発動された。その「狗吠」の正確さはわからぬが、要は犬の遠吠えであったろうと云われる。狼は山神の眷属と云われるが、隼人は天皇の行列の守護役にもなり、国の境や道路の曲がりなどで狗吠を発していた。行列の先払いとして、邪気・邪霊を払っていたとされるのは露払いであり、それは貴人や神霊などの高貴な者を先導する事である。それは朝廷側に服属してからのものではなく、元々隼人が有していた呪術であり、恐らく隼人が信仰する神に対するものを行ったという事であろう。そして隼人がそれを行った場所とは、伊勢神宮での事であるのは、隼人の信仰する神が伊勢神宮にも居たという事であろう。その神域を護る為の狗吠であったのは、理解できるのだ。
by dostoev | 2014-06-20 17:21 | 鉄の蛇 | Comments(0)