遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺172(大入道の出た通り道)」

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遠野新町の紺屋の女房が、下組町の親戚へ病気見舞に行こうと思って、夜の九時頃に下横町の角まで行くと、そこに一丈余りもある大入道が立っていた。肝を潰して逃げ出すと、その大入道が後から袖叩きをして追いかけてきた。息も絶える様に走って、六日町の綾文という家の前まで来て、袖叩きの音が聞えないのに気がついたのでもう大丈夫であろうと思い、後を振返って見ると、この大入道は綾文の家の三階の屋根よりも高くなって、自分のすぐ後ろに立っていた。また根限りに走って、やっと親戚の家まで行き著いたが、その時あまりに走ったので、この女房は脛が腫れ上がって、死ぬ迄それが癒らなかったそうである。明治初年頃にあった話だという。

                                                     「遠野物語172」

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見出しの画像は、「遠野物語拾遺172」の話と同じ、明治初期の頃の六日町の画像となる。この画像の手前あたりから紺屋の女房は走り、だいたい150メートル程走れば、綾文の三階建ての建物の場所まで行くだろう。ただ画像を見てわかるように、道は土の道でボコボコしており、走るのにはかなり難儀しそうな道ではある。ましてや当時は靴などは無いだろうから、草履か下駄であったろう。
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この話の位置関係などは「注釈遠野物語拾遺」が詳しく、新町から六日町にかけての図と、大入道の出た場所が掲載していた。また紺屋とは染物屋の事をいい、「検断勤方記」によれば新町に紺屋は四軒あったそうな。
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また別の図で、大入道の出た場所を見ると対泉院という曹洞宗のお寺で、なんとなく理解できそうだ。対泉院は南部氏ゆかりの寺で、寛永四年(1627年)に、南部氏が遠野へ入部すると共に移ってきた。その対泉院に大入道が出たというのも、何となく意図的なものを感じる。
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また、この「遠野物語拾遺172」は明治時代初期の話ではあるが、三階建てであった綾文の家とは、かなり珍しかったのではなかろうか。その綾文の三階建ての家の画像は、上の通りである。ただしこの画像は大正時代末期に撮影されたものであるので、その間約50年間、同じ建物であったものかは定かではない。

モノの尺度を語る場合、対比するモノを必ず入れて話すと分かり易いもの。この話でも、たまたま走って一息ついた場所が三階建ての家の前で、大入道の大きさを語るには、綾文の三階建ては格好の尺度となる。逆に言えば、それだけ当時では綾文の三階建ては有名であったという事だろう。

岩手日報社発行「いわてのお寺を巡る」で確認すると対泉院は、かなり富豊な寺院であったようだ。それもその筈か、対泉院を開基したのが南部政持(新田政持)は甲州にいた頃から南部氏の勤王、忠臣として数々の軍功を挙げたと云う。南部氏の菩提寺は大慈寺だが、それに匹敵する寄進を受けたようである。明治時代になって、南部氏の支配が終わっても、対泉院は名高い寺院であったようだ。
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ところで六日町は昭和時代もそうだったが、夜になるとかなり暗く感じた通りであった。今でこそ街灯は増えたものの、女性が夜に一人で歩くには怖い思いをしたのではなかろうか。その六日町が明治の初期をイメージすれば、冒頭の画像を見てわかるように街灯は全くない。つまり、紺屋の女房は真っ暗な夜道を歩いたのか?

ただ真っ暗であれば、大入道さえ見えなかったのではと思える。つまり紺屋の女房は、手に提灯が何かを持って歩いていたと想像できる。その時、対泉院の辺りで振り返った時、そこに誰かが立っていたのではなかろうか?それは当然、紺屋の女房より背の高い男が。つまり紺屋の女房は、下から背の高い男を提灯で照らしたものだが、それが大入道に思えて逃げ出した。何故なら、お寺という死人を扱う場所で誰かに遭遇した為、気が動転したのではなかろうか。いくら高名なお寺であっても、庶民にとっては幽霊などをイメージしてしまうのが、お寺でもあるのだ。

その時紺屋の女房は慌てていた為に何かを落とし、それを拾った誰かが届けようと追いかけて来たが、余りに必死に逃げるので、その誰かは追いかけるのをやめた。つまり紺屋の女房が綾文の家に着いた頃は、当初より若干の距離が離れた事だろう。そして恐らく、紺屋の女房は手にしていた提灯を途中に落としたのでははなかろうか。地面に落とした提灯が追ってき誰かを下から照らした場合、その姿はかなり大きくなっている筈だ。これらの話のパーツを上手に組み替えて、面白恐ろしく伝えたのが、この「遠野物語拾遺172」ではなかったろうか。
by dostoev | 2014-05-31 18:53 | 「遠野物語拾遺考」170話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺173(狐への意識)」

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佐々木君の友人中館某君の家は、祖父の代まで遠野の殿様の一の家老で、今の御城の一番高い処に住んでいた。ある冬の夜、中館君の祖父が御本丸から帰宅すると、どこからどこまで寸分違わぬ姿をした二人の奥方が、玄関へ出迎えに立っていた。いくら見比べてもいずれが本当の奥方か見分けがつかなんったが、家来の者の機転で、そこへ大きな飼犬を連れて来ると、一人の方の奥方は狼狽して逃げ去ったそうな。

                                                  「遠野物語拾遺173」

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御城のあった鍋倉山は、昔からいろいろな動物がいた。画像は、本丸の裏側に位置する行燈堀付近で撮影した狐だが、遠野は山で囲まれている為に、いろいろな動物の通り道にもなっている。そして当然、熊も出没する。今は公園になっている場所に展望台があるのだが、ある年の早朝に管理人が行ったところ、展望台から熊が出て来た為に、今では夜に鍵をかけて、翌朝まで中には入れないようにしている。
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狐に騙された話は、遠野だけでなく全国に広がり、それだけ狐が人間にとって身近な存在でもあったという事だろう。鍋倉山に御城があったとしても、城から個人宅へ行くのにも、獣は蠢き、鳥などの鳴き声は響き渡っていた筈だ。恐怖心からの妄想は、際限なく涌き出た事だろう。現代となっては狐が人に化けるという事は有り得ない事と認識されているが、どこかで狐の神秘さと恐怖さを抱いている日本人の姿を垣間見てしまう。例えば、立ちションベンが多い場所に、鳥居の絵を描いただけで立ちションベンをする者がいなくなるというのは、その典型だろう。赤い鳥居を見て真っ先に思い浮かべるのは、稲荷様である。何故なら日本で一番多い神社であり、遠野の中でも、個人の庭に稲荷を祀る家が、どれだけ多いのか。
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ところで、古い地図を見るとわかるように、鍋倉山の中での中館家の下には稲荷神社がある。遠野の街から中館家へ帰るとしても、意識は稲荷へ行くのではないか。常に中館家の下に位置する稲荷であるから、中館氏の中にも稲荷であり狐に対する意識が強くなり、笑い話としてこの様な話を作ったのではなかろうか。稲荷に好かれ、狐に好かれた中館家としての話を。
by dostoev | 2014-05-30 18:10 | 「遠野物語拾遺考」170話~ | Comments(0)

佐々木氏の謎(其の一)

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佐々木氏を調べると、全国での佐々木姓の分布が何故か岩手県と秋田県で、その半数以上を占めている。かくゆう自分も、その佐々木姓の一人でもある。遠野で「菊池、佐々木は馬の糞」と呼ばれていたのは、今では車となるが遠野の町を普通に馬が往来していた時代、あちこちに落ちていた馬糞と同じ様に、菊池と佐々木が、また多い土地であった事からの言葉であった。ただ、自分には遠野の血は無く、両親がどちらも久慈市出身である。しかし海の血かというと、親父の実家は久慈市でも山中に属し、子供の頃に行った親父の実家というのはいつも囲炉裏に魚がかけられ、その周辺には兎などの毛皮があったのを記憶している。収入はどこかに勤めていたというわけではなく、恐らく漁師であり猟師であったのだろう。その佐々木家の詳細を聞く事無く、その親父もかなり前に他界してしまった。その大川目にはやはり佐々木姓が多く、今から10年以上前に知り合った水沢の建築屋の部長というのがやはり大川目出身で佐々木さんと言ったが、その風貌はまさに親父の面影を宿していて、親戚か?と見間違う程であった。聞くとやはり代々、大川目という土地に住んでいたという。そこで思い浮かんだのは、元々同じ血が流れているのではないか?というものだった。
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「続日本記(宝亀元年八月)」「蝦夷宇漢迷公宇屈波宇等。忽率徒族。逃還賊地。差使喚之。」とあるのは、宇漢迷公宇屈波宇等が中央政府に服していたが反抗して賊地に逃げ込み城柵を侵略すると豪語したという記述となる。ここでの宇漢迷公宇屈波宇は、宇漢迷公、宇屈波宇と分けられるが「宇漢迷公」は正しくは「宇漢米(ウカノベ)」である。この宇漢米は「日本先住民俗史」によれば、こう記されている。

思ふに宇漢米公は宇漢米と称する地方の酋長なるべし、その宇漢米は今の岩手県九戸郡大川目村ならん。久慈川の久慈湾に注ぐ流域にありて、今は上大川目、下大川目に分たれあれど、地方にてはオカメと発音す。

宇漢米は一族の名であり、宇屈波宇はその族長の名となる。宇漢米に「公」が付くのは、恐らく天平年間には朝廷側に帰順していただろうという事の様だ。その宇漢米は「類聚国史」によれば「十一月甲寅。陸奥の夷俘爾散南公阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚吉弥候部荒嶋等を朝堂院に饗す。阿波蘇、隠賀に並に爵第一等を。」とあるのは、朝廷側による蝦夷の懐柔策であるようだが、宇漢米は入京を果たして爵位を戴いたという事になる。

ところで蝦夷というと狩猟民族のイメージが強いが、やはり蝦夷の族長でもあった安倍氏は肥沃な土地を利用し、多くの米作りに励んでいた。しかし岩手県の米作りも、安倍氏が支配していた奥六郡が中心であり、それ以外の地での米作りは、まだまだ無理であったよう。当然、大川目に住んでいた宇漢米の一族も、狩猟民族であったろうと推測できる。

その宇漢米は「続日本記」によれば承和5年(838年)に「宇漢米公毛志に外従五位下を授く。」とあるのは蝦夷国の朝廷側に対する帰順に貢献した…ある意味蝦夷征討に協力した証であろう。つまり「蝦夷を以て蝦夷を制する」に協力したのが宇漢米でもあった。その宇漢米は「続日本記(承和十四年四月条)」によれば、近江国に移された事が明らかになっている。どうやら率先して朝廷に帰順した蝦夷は、集団的に内国に移す政策が成されていたようだが、これは蝦夷に対する教育の一環でもあったようだ。

近江国というのは、佐々木氏発祥の国でもある。岩手県と秋田県とは蝦夷国の中心でありながら、何故に近江国発祥である佐々木という姓が多いのか?もしかして、この宇漢米の近江国への集団移民が、何らかの影響があったのではないのか…。(続く)
by dostoev | 2014-05-29 08:02 | 佐々木氏考 | Comments(0)

朝露の輝く遠野

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遠野の朝が霧に包まれる事は多い。その霧は水分を含み、それが朝露となる。
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こうして、山全体が霧で包まれる。
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太陽が昇ると、朝露の水滴が光を浴びてキラキラ輝いてくる。これを見るのが、遠野の朝の楽しみでもある。
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そして、その時の遠野盆地は雲海に覆われていた。
by dostoev | 2014-05-29 05:26 | 遠野不思議(自然) | Comments(0)

天の川(2014.05.27)

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昨夜は空が晴れ渡り、天の川が良く見えた。
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雲の上に昇る天の川。
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遠野盆地は雲海に覆われており、その上に天の川が昇っていた。雲海のおかげで、遠野の街の灯りをカットしてくれたので、天の川が良く見えた。
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遠野盆地は、厚い雲海に覆われていた。
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遠野盆地の雲海は、1月に一回、4月に一回の記憶があり、5月もこれは初めての雲海の気がする。
by dostoev | 2014-05-28 19:33 | 遠野の夜空 | Comments(4)

朝露に濡れた野菊

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朝露に濡れた野菊が輝いて綺麗だった。
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by dostoev | 2014-05-28 16:33 | 遠野不思議(自然) | Comments(0)

「遠野物語拾遺188(懸ノ稲荷様)」

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安政の頃というが、遠野の裏町に木下鵬石という医師があった。ある夜家族の者と大地震の話をしていると、更けてから一人の男が来て、自分は遊田家の使いの者だが、急病人が出来たから来て戴きたいと言うので、さっそくその病人を見舞って、薬をおいて帰ろうとすると、その家の老人から、これは今晩の謝儀だと言って一封の金を手渡された。翌朝鵬石が再び遊田家の病人を訪ねると、同家では意外の顔をして、そんな覚えはないと言い、病気の筈の人も達者であった。不思議に思って家に帰り昨夜の金包みを解いてみると、中からは一朱金二枚が現れた。その病人は恐らく懸ノ稲荷様であったろうと、人々は評判したそうである。

                                                    「遠野物語拾遺188」

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懸ノ上稲荷は、遠野では古い稲荷社で、文禄年間に葛西の家臣である欠下茂左衛門が阿曽沼に仕え、旧領の石巻日和山の稲荷社を勧請し崖の下に祀り、後に懸ノ下稲荷から上に祀り懸ノ上稲荷なったという。

ところで木下鵬石だが「上閉伊今昔物語」にも似た様な話が紹介されており、そこでは木下鳳石という名になっていた。これは「注釈遠野物語拾遺」によれば、新町の常福寺が木下家の菩提寺であり、過去帳には「鳳石」とあるそうなので「鵬石」という名は間違いの様である。また物語の中で一朱金を二枚を貰ったとあるが「遠野史料」には一朱銀とあるので、どうも一朱銀の方が正しいようである。
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ところで「上閉伊今昔物語」に紹介されている話では、時代が明治12年頃となっている。「遠野物語拾遺188」では安政の頃となっているが、木下鵬石の生れはどうも天保6年(1835年)らしいので、安政年間が1854年~1860年の僅か7年間であり、その間に懸ノ稲荷の話があり、明治12年は1879年であるので、約20年後の明治時代にも、稲荷様とのやり取りがあったようだ。

その「上閉伊今昔物語」で紹介されている話は、やはり急病人が出て呼び出され一番良い薬を出したら治ったので、御礼に黄金を山と貰ったそうである。しかし多過ぎるので辞退したが、無理に押し付けられて帰ったという。しかし同じ様にその病人は実在せずに、やはり稲荷様であったかとなっている。しかし前回よりも多くのお金を貰ったので、そのお金で家を建てたという話となっている。そしてその後日談として、稲荷様のお金で建てた家は昭和3年の大火でも焼けず、昭和13年の大火でも焼けずに残り、稲荷様の御利益で焼けないのだろうと評判になったようである。また似た様な話ではあるが、穀町の朝倉家にも稲荷があるが、やはり大火の時にその手前で火が止まったので、お稲荷様のおかげだとなったそうである。こういう稲荷に関する伝承・伝説が日常に伝わる為に、稲荷様の地位は益々広がったのだろう。現在、日本で一番多い神社が稲荷神社であるのは当然の事なのかもしれない。
by dostoev | 2014-05-27 18:07 | 「遠野物語拾遺考」180話~ | Comments(0)

岩手県と関東の地名の類似点

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この前登った大槌町の鯨山は、大津波の時に雌鯨と雄鯨が潮のまにまに寄せて来て、二つの山に留まったので、その名が付いたという伝説がある。また別の伝説では、クジラ和尚が登ったので鯨山と呼ぶようになったとの話もあるようだ。クジラは「鯨鯢」とも書き表し、雄のクジラは鯨で、雌のクジラは鯢と書き表す。その雌雄二体が、大津波によって二つの山に留まったという事だろう。鯨山は雄のクジラなので、鯨山。小鯨山は雌のクジラで体が小さいので小鯨山になったのだろう。「鯢」は別に小魚の意味もあるので、小さい意味を有している。また別に「サンショウウオ」とも読むのは、山椒魚の形がクジラに似ていると思われた為であろうか。しかし、その山椒魚もまたクジラよりは小さい為に、やはり小さいという意味があるのだろう。

「常陸国風土記(久慈郡)」に、こうある。

久慈の郡、東は大海…。古老いへらく、郡より南、近く小さき丘あり。體、鯨鯢に似たり。倭武の天皇、因りて久慈と名づけたまひき。

大槌町を見てみても、東には大海と呼べる太平洋が広がっている。そして内陸側に鯨山が聳えるというのは、視点と思考が同じという事。そして岩手県には、北限の海女で有名な久慈市がある。「久慈市史」を読むと、久慈の名の由来は不明とあった。久慈市は南部氏の支配下にあった為、南部時代の歴史はある程度はわかるが、それ以前になれば不明のようである。

天喜5年から約5年間、支配下である筈の陸奥は安倍氏を中心とする蝦夷によって、なすがままの状態であった。「陸奥話記」によれば源頼義は、それを打開する為に「遠交近攻」「以夷討夷」を画策した。配下の金為時、下毛野興重等に、安倍氏に対して甘言を以て働きかけるよう命じ、銫屋、仁土呂志、宇曽利地方に勢力を持つ安倍富忠を抱き込んだ。安倍氏を裏切った安倍富忠を説得に向かった安倍貞任の父である安倍頼時であったが、伏兵を迎えられ、その時の流れ矢で深手を負い、引き上げる途中、鳥海柵で死去した。

下毛野氏は名前の通り、元々は下毛野国の者である。それが前九年の役には、現在の宮城県にいたという事は、それ以前の戦いにおいて既に蝦夷国へと進出していたという事だろう。この前書いた、遠野の清瀧姫伝説が本来、桐生の白滝姫伝説の模倣であった事を考えても、坂上田村麻呂による蝦夷征伐の時代頃以降に下毛野氏の進出があったのだろう。実際、今では岩手県中に広がる駒形神もまた、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後に、下毛野氏が持ち込んだものであった。ただ、その頃の岩手沿岸部での実情はわかっていない。ただ可能性として、下毛野氏を含む関東であり、周辺の…云わば常陸国の氏族も坂上田村麻呂の蝦夷征伐に参加して、蝦夷国に根を下ろし、新たな地名を付けた可能性はあるだろう。

鯨山、久慈、そして岩手沿岸には常陸国にある山田と同じ地名があるが、この山田と云う地名が、桐生白滝姫伝説と遠野清瀧姫伝説を混同させた。ただ、この常陸国の山田は伊勢との繋がりを考えれば、元々は伊勢の山田、つまり伊勢神宮の外宮の地を意味しているものと思える。

「古事記」には、今まで倭言葉だけでは理解しえない文があったのだが、アイヌ語を導入してやっと理解できた一文もある。常陸国は蝦夷国の入り口の意もある事から、恐らく常陸国が朝廷に支配されるあたりから、倭言葉とアイヌ語の交流が始まったと考えても良いだろう。となれば、それはやはりヤマトタケルの時代あたりだろうか?とにかく、支配が広がる事により、今までの蝦夷国の地に倭言葉の名称が散りばめられていったと考えても、何ら不思議はない。恐らく、久慈・山田、そして鯨山は持ち込まれた地名であろう。そういう地名を探せば、まだまだ出てくるものと思われる。
by dostoev | 2014-05-26 10:57 | 民俗学雑記 | Comments(2)

遠野不思議 第八百二十一話「毘沙門天神神社」

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詳細は不明。わかり次第書き記す予定。
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by dostoev | 2014-05-26 06:23 | 遠野各地の神社(その他) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十話「天照皇太神宮」

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詳細は不明。わかった後に書き記す予定。
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by dostoev | 2014-05-26 06:20 | 遠野各地の神社(その他) | Comments(0)