遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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虹と瀬織津比咩

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空にアーチを描く虹を見て、綺麗だと思う人は多い。しかし、古代の日本人に見えた虹は、どうであったろうか?虹が文献に登場する一番古い記述は「日本書紀(雄略天皇三年夏四月)」だ。

俄かにして皇女、神鏡を齋り持ちて、五十鈴河の上に詣でまして、人の行かぬところを伺ひて、鏡を埋みて經き死ぬ。天皇、皇女の不在ことを疑ひたまひて、恆に闇夜に東西に求覓めしめたのふ。乃ち河上に虹(ぬじ)の見ゆること蛇の如くして、四五丈ばかりなり。虹の起てる虜を掘りて、神鏡を獲。

これを読むと、五十鈴川の上流で皇女は神鏡を埋め死んだとある。雄略天皇が皇女を探す時に、虹を見つけ、それが蛇の様に見え、そこを掘ると神鏡があり、そして皇女の死体を発見したとある。ここでは虹を蛇の様だと書き記している。

安間清「虹の話」を読むと、虹の俗信の殆どは、虹は竜蛇であり、その多くは水辺で発生しているとある。突き詰めれば、水辺の竜が吐き出したものが虹であるという事だ。ただ、上の画像を見てもわかるように、たまに二重の虹の情景をよく見る事がある。画像ではクッキリとした虹の背後に、薄らと見える虹の二重だ。この二重の虹にもまた俗信があり、クッキリ見える虹は雄竜であり、薄らと見える竜を牝竜としているようだ。ただし牝竜には通常「虹」ではなく「霓」という漢字をあてるのだという。
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虹が蛇であり竜であるという概念は、古代中国からもたらされた。画像は「山海経海外東経」の虹の挿絵となる。ここでの虹は、アーチを描いた双頭の蛇で表されている。これは雌雄同体の蛇という意味を持つ。つまり日本には既に「虹は竜蛇である」とされ、伝わったものであろう。古代の民間での虹は、また違ったものとされたかもしれないが、国書である「日本書紀」に記されているものは、古代中国の思想や概念の影響を受けている筈だ。

また虹の俗信に「竜の女神が渡る橋である」というものがある。ここでもう一度「日本書紀(雄略天皇記)」を振り返ると、皇女が死んだ場所から虹が発生している。もしくは、鏡が埋まった場所から虹が発生したと捉える事が出来る。ところで、この皇女の名を「古事記」では萬幡豊秋津師比売命と言い、「日本書紀」では栲幡千千媛萬媛命という名となる。

この皇女の死んだという地を読み解くと、恐らく五十鈴川の川上の水辺であると考える。何故なら、皇女の腹を裂くと水があったとある。神霊的に腹の中に水が溜まったとも考えられるが、ここは素直に水辺で死んだ為に、腹に水が溜まっていたのだろうと捉える。そしてその水辺には、鏡が埋まっていた。山形県は羽黒神社の境内にある鏡池に、古代から鏡を沈める儀式が執り行われていたようで、ある時その鏡池に潜って調べたところ、無数の鏡が沈められてあったという。何の為に鏡を沈めたのか謎とはなっているが、恐らく「日本書紀(雄略天皇記)」に結びつくものではなかろうか。何故なら、羽黒神社に祀られる神は玉依姫とも云われるが、「日本書紀(雄略天皇記)」において、死んだ皇女は栲幡千千媛萬媛命であり、「日本書紀」第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命とされている。つまり、栲幡千千媛萬媛命が死に虹が発生したという事は、栲幡千千媛萬媛命そのものが竜の化身であり、その子供の玉依姫もまた竜である。それ故に、山形県の羽黒神社の鏡池において、母である栲幡千千媛萬媛命と同じ儀式を玉依姫に対して執り行ったものではなかったか。奇しくも、この「日本書紀(雄略天皇記)」に登場する鏡は解説によると八咫の鏡であるという。
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八咫烏、八咫の鏡の「八咫」とは五來重によれば「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」などの意味で、また「あだ」と同じく「あだし野」「あだしが原」など、「空しい」「儚い」の意味を持ち、どちらかというと不吉な死に関係する言葉となるようだ。

織女し 船乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る 「万葉集(3900)」

「万葉集」には多くの鏡の歌が詠われており、その全ては月の象徴としての鏡であった。考えてみても「古事記」において、天照大神が天岩戸に隠れ闇が広がった時、天照大神は鏡を見た後、天手力男神によって天岩戸から引き出され、世の中が明るくなったのは、鏡によって月から太陽へとバトンタッチされたものと考えて良いと思う。つまり闇を象徴するのが月でもあり、その闇は死の世界にも通じる。だからこそ、八咫の鏡とは不吉でもありながら暗闇に光る美しい月の象徴でもある。

「日本書紀(雄略天皇記)」において皇女を探す時「闇夜に東西に求覓めしめたのふ。」と記されているのは、月は闇であり黄泉にも通じ、そして水にも通じる。そこで「八咫」という不吉な意味を持った鏡は、夜の闇にその兆候が表れる為、夜の夜中に皇女を探したのではなかろうか。実際に夜の月明かりで発生する月虹(げっこう)というものがある。
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雨上がりの虹は一般的だが、月虹も含め虹の発生するのに不可欠なのは、霧状になった水滴である。それに光が当たって虹が発生するのだが、その殆どは滝の水しぶきによるものが多い。恐らく皇女である栲幡千千媛萬媛命が死んだ場所とは五十鈴川の上流にあった滝ではなかったろうか。画像の滝も、後ろに小さな滝があり、そこに太陽の光が差し込んで虹を常に発生させていた。そして虹が竜であるなら、滝もまた竜とされていた。
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栲幡千千媛萬媛命の娘が玉依姫とあるが、その玉依姫は羽黒神社で祀られ、その別名は瀬織津比咩とされている。つまり、滝神でもある早池峯の神である。その早池峯の麓周辺に何故か「万旗」という地名が二ヵ所程あり、安倍貞任と結び付いている。「万旗」は萬幡豊秋津師比売命の別表記であり、栲幡千千媛萬媛命でもある。

遠野来内の伊豆神社の伝承には「おない」が生んだ娘に「おはや」がおり、それが早池峯の女神となっている。五十鈴川の上流で死んだ栲幡千千媛萬媛命の意味するものは竜女であり、だからこそ虹が発生し、それに関連して水と鏡が結びつくのは、そのまま羽黒の伝承に重なったものと考える。つまり俗信の「虹は竜の女神の渡る橋である」というものは、竜神であり滝神である女神が発生させたものであるのだろう。何故なら虹は古代「虹(ぬじ)」と呼び、それは「主(ぬし)」とも同義である。つまり「川の主」「滝の主」としても意味は通じ、水であり滝から発生した虹が、竜そのものであるのだ。そしてその主であり虹は、早池峯において瀬織津比咩となる。
by dostoev | 2013-03-31 21:17 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

桜と雪女像

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たまたま古い画像を見ていたら、桜をバックに撮影した雪女像があった。この画像は、2年前の3.11の地震の後、天候がおかしくなり例年よりも遅く咲いた桜をバックに撮影したもの。データを見ると5月8日の撮影となっていた。いつもであれば、4月の末から連休にかけて咲く筈の桜が、この年は連休明けに咲いたのだった。

実は何故に、この画像を取り上げたかというと、今ではこれが、貴重な写真であるなと思ったからだ。何故なら、今では新しく建った観光施設が背後にある為に、桜を背景に雪女像を撮影するのは無理になったからだ。冬の寒い季節には雪をまとっての雪女像が、桜の咲く頃には桜を背景に、その艶姿を魅せてくれていたが、これも時代の流れには逆らえないものだ。
by dostoev | 2013-03-31 11:35 | 民宿御伽屋情報 | Comments(0)

藤沢の滝(2013.03.17)

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暖かい日が続いていたので、藤沢の滝までの道は、意外に雪が融けているかな?と、天気も良いので行って見た。
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しかし、まだまだ雪深く、公園まで車で行くのは無理な状態。車を乗り捨てて歩くしかなかった。
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公園には先行者の足跡があるものの、進むと足跡は消え、あくまで公園までの足跡であったよう。
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途中のキッチヶ滝?が見えたので、見に行って見たが、滝の周りは氷で覆われていた。
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滝の脇から、飛沫を眺める。
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滝傍の岩には、いびつな氷柱が密集していた。
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さて、女滝男滝へと行こうとしたが、さすがに雪が多くて、歩くのに難儀した。
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とにかく、歩いた道に、自分の足跡を残す。
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やっと目的の最終地点に到着。
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やはり、雪が多いために、パッと見た目には、滝があるようには見えない。
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この女滝と男滝の場所は、日当たりが悪いので、昼過ぎに合わせて行った方が、どうにか明るい滝の姿を見る事が出来る。
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男滝も周囲は雪が多いが、どうにか滝の水の流れを確認できる。
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ここでやっと、滝の上部に光が差し込んできた。
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せいぜい、太陽の光が当るのは、このへんまで。もう少し、太陽の光が当たる滝だと、もっと綺麗に見えるのに…。
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水は、まだまだ冷たそう。あと一月後なら、もっと気軽に、この場所に来る事ができるだろう。
by dostoev | 2013-03-18 14:00 | 遠野体験記 | Comments(0)

「遠野物語拾遺107(異形の者)」

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下閉伊郡の山田町へ、関口という沢から毎市日の様に出て来ては、色々な物を買って戻る男があった。顔中に髭が濃く、眼色が変わっているので、町の人はあれはただの人ではあるまいと言って、殺して山田湾内の大島に埋めた。その故であったか、その年から大変な不漁が続いたという。これは山田町へ駄賃づけに通うていた、土淵村の虎爺という老人の若かった頃の話である。

                              「遠野物語拾遺107」

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昔の話である。閉伊郡山田の関口の岩窟の中に、どこから来たか一人の大入道が来て住んでいた。桐の御紋のついた鍋などを持っていて、誰言うとなく島の坊と呼んでいた。

ある時土地の者どもが、坊の留守中に岩窟へ行って、鍋の中に糞などをして悪戯をして帰った。すると坊はひどく怒って、山田の町に下って来て放火をしたりして暴れ廻った。そこで捨て置けず捕手が差し向くと、坊は大きな棒を手にして一枚歯の高下駄を履いて、町屋の屋根などを自由自在に飛び歩き、その態はまるで神のようであった。けれども遂に衆人のために撲り殺されてしまった。

ところがそれからは浜に魚がなかった。誰言うとなく島の坊の怨霊の祟りだと言うようになって、大島という所に葬った屍体を掘り起して、大杉神社に移して祀った。後には専ら漁夫の神となった。

                              「聴耳草紙(島の坊) 」

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「遠野物語拾遺107」だけを読んでいると外国人のイメージが湧いてしまうが、佐々木喜善「聴耳草紙(島の坊)」を読むと、体の大きいまるで天狗の様な人物であった事がわかる。実際、呼び名に「坊」と付けられている事から、天狗のイメージに近かったものと思われる。ただ桐の御紋は皇室などに使われるものであるから、何者であったのだろうか?

この「島の坊」の考察だが、橘弘文「神になった無法者」が詳しい。ただ問題は、本当に島の坊は無法者であったのかどうかだ。小松和彦「異人論」を読むと、旅人・余所者・異形の者はえてして、村人の迫害に遭い、村人の正義に基づいて殺されるのだが、やはり祟りを恐れ神として祀られる。この感覚は、古くから菅原道真にみられるように、日本人の中に根付いた祟りに対する意識ではある。それ故に、異形の者であった為に、理不尽な殺され方をした可能性も否定できないだろう。

ただ疑問は、何故に大杉神社に祀ったのかだ。大杉神社の総本山は、茨城県の大杉神社となる。この大杉神社の創立は社殿によると767年で勝道上人によるものとされ、御利益は疱瘡除けと水上安全などで信仰圏は東北に及んでいる。ただし信仰圏が拡大したのは江戸中期からであったようだ。
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疱瘡除けが御利益となっているが、古来から疫病に対する恐怖は延々としてあった。例えば牛頭天王を祀る八坂神社など、得体の知れない疫病を恐れるあまり、それを駆逐してくれる存在は大事な神であった。上の画像は綾織の疱瘡神であるが、本来忌み嫌われる筈の疱瘡も神に昇格され祀られてしまう。しかし、幕末の医者である川田鴻斎「疱瘡の神とは誰が名付けん悪魔外道の祟りなるもの」と、疱瘡を神として祀る事を否定している。 

ところで「水戸紀年」享保十一年の条に「六月以来、常陸近国アンバ大杉躍流行シ、農民町人異形ノ体ニテ皆躍ル」とある。アンバとは茨城県の「阿波」という地名が由来とされているようで、そのアンバ大杉の祭りには神輿が各家庭を回り厄除けをするという。その祭りを盛り上げる際に「アンバ大杉大明神悪魔を祓って善はさ 嗚呼善や善や善はさ」と唄い踊って歓迎するのだと。似た様なものに「鹿島踊」というものがあり、やはり疫病が蔓延した時に、疫病退散の為、鹿島神宮の神輿を村送りした祭、人々が狂喜乱舞したのが鹿島踊となったらしい。つまり、人々を苦しめる疫病を退治する事で、人々は歓喜し狂気したのは戦に於いて相手を倒した狂気に近いのかもしれない。実は、享保十一年のアンバ大杉の歓喜の後、翌年6月に江戸の香取明神の神木に大杉明神が飛来したという事から、江戸は狂乱状態となり、余りにも常軌を逸した熱狂ぶりに幕府から禁止令が出された程だったという。

「島の坊」の話には疫病の話は記載されていないが、島の坊を殺した事により不漁になっている。漁民にとって疫病も大きいだろうが、不漁も命に関わる程の疫病であったろう。しかしその前に、山田の町に住み付く異形の者である島の坊そのものが、疫病と同等に見られたのではなかろうか。「聴耳草紙(島の坊)」においては、町の者が気に食わない島の坊に対して嫌がらせをする。その事に対して怒り狂った島の坊の暴れっぷりはまさに"疫病"の如くであった。それによって殺された島の坊だが、異形の者を神として祀る大杉神社の習俗から、神がかり、狂乱状態になった民衆に殺され神になったのではなかろうか…。
by dostoev | 2013-03-18 09:05 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(2)

平将門と瀬織津比咩(其の8)

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画像の絵は北斗曼陀羅。正確には「終南山曼陀羅」と呼ばれるものだ。そこには十二宮、二十八宿、北極紫微大帝の坐す妙見殿の天官、更に三尸、三魂、七魂、五臓、等々が描かれている。その中に注目したいのは、滝があり女神が佇み、そこに民が願いをしている姿がある。
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早池峯などの高山は、昔は修験者が登る程度で、民は恐れ多くて登る事は無かった。遠野では、人は死ぬと、その魂は滝で清められ早池峯に登って行くとされた。これは早池峯だけでなく、地域の高山全てにそういう信仰が伝わっていた。魂は天へと昇って行くもの。つまり、高山の頂は天に通じるか、天そのものと考えられていた。その早池峯の麓に、又一の滝がある。又一の瀧は、早池峯神社から更に奥へと進むのだが、又一の滝は旗屋の鵺などの話も伝わる事から、古くから又一の滝への道は開けていたのだろう。つまり、早池峯に登らずとも、直接早池峯の御神体に向かって祈願する事は容易であった筈だ。早池峰から繋がる天に対しての願いの入り口が、麓の滝である又一の滝であった可能性はあるだろう。
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「衣川伝説」においても、妙見は恐らく水神であろうという事だ。星の神といえば、建葉槌命に倒された香香背男が有名だが、日本海の沖に浮かぶ星神島において雨乞いの神として、何故か香香背男が祀られている。星の神と水神との結び付きは、未だに理解できない面があるが、安田宗生「熊本の妙見信仰」を読むと、熊本の妙見神の殆どは水神であるという。安田氏曰く、恐らく水神に後から妙見神が習合したのであろうという事だ。考えてみると、妙見神は亀に乗って海を渡って来た女神であり、それは竜宮思想にも結びつく。熊本県神社庁の妙見神の見解は「熊本神社庁誌」によれば「神仏混合の熟した平安末期から鎌倉初期にかけて広まった。」としている。

ところで熊本県の妙見神の中で気になる神社がある。白川吉見神社は水神を祀る草部吉見神社から分霊された神社だが、その白川吉見神社では、社殿の前の水源を妙見としている。まあ湧水や水源を妙見としている神社は多いのだが、白川吉見神社の祭神は國龍神。つまり阿蘇の龍神である健磐龍命に嫁いだ草部吉見神社の水神である阿蘇津比咩の事を言う。以前、阿蘇津姫は瀬織津比咩であると述べたが、この白川吉見神社ではその龍神である、阿蘇津比咩=瀬織津比咩が妙見神と結び付いている。
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つまりだ、何故に水神である竜神と妙見神が結びついたのかは、やはり亀に乗って来た女神がそのまま伝えているのだろう。亀に乗っているのは龍神である女神であり、つまり亀は船の代わりであり、女神を運搬しているのだ。植野加代子「秦氏と妙見信仰」によれば、妙見という地名と秦氏が結びつく事に着目し調べると、秦氏の扱う織物であり鉱物であり酒などを輸送する場合に船を使用していた。つまり、水上交通である。その水上交通を抑えていたのは秦氏であった。例えば淀川も秦氏の勢力範囲内であるが、琵琶湖から流れる宇治川水系の淀川に祀られる與止日女は瀬織津比咩と習合し、宇治川の橋姫も瀬織津比咩と並び祀られる。水上交通に秦氏が関わり、秦氏と瀬織津比咩が強く結びつくのを感じる。例えば、「遠野物語拾遺119(神業)」においては、遠野の琴畑渓流の社に祀られていたのは瀬織津比咩であり、そこでは木流しという、やはり樹木と言う物資を川を利用して流す事が行われていた。前にも述べたように、琴畑には秦氏の影が見え隠れしている。

もう一つ、妙見と水神の結び付きを示しそうな話がある。平田篤胤「古史伝」では「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺はも、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからである。そして妙見では、五と三の数字を重んじる。北極五星は天上の最も尊貴な星とされるのだが、その中でも三星は特に尊い星とされている。その三と五の組み合わせに関する神話が「古事記」に登場する。それは天照大神と素戔嗚尊による誓約の場面だ。そこで三女神と五男神が生れるのだが、その後の扱いを見ても、三女神の扱いを重視しているのは、三女神と三星が結び付くからと考える。その三女神は宗像三女神で、水神である。その宗像三女神の中でも多岐都比売命を祀る中津宮である大島には星の宮があるのを知った。またその大島には星の信仰をしたであろう安倍一族の安倍宗任の墓も存在する。以前、多岐都比売命は瀬織津比咩では無いかと書いたが、星を通してここでも繋がる。とにかく「古事記」に於いても、水神と星神の結び付きが成されていたのである。
by dostoev | 2013-03-07 20:52 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の7)

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早池峯神社の御神体は、早池峯そのものでもあり、または麓の又一の滝でもあるという。それは御祭神が滝神でもある為だが、御神体が二つと言うのもピンとはこない。まあ、山そのものに滝が含まれるわけであるから、まとめて御神体と考えてもいいのだろう。ただ、ここでは妙見神としての早池峯の神の姿と、滝神(水神)としての早池峯の神の違いがあるのか考えてみたい。
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神社の場合、里宮とか奥宮などと分散して神を祀る場合がある。早池峯の場合の奥宮は山頂になる為、簡単に奥宮参詣は出来ない事から、麓の里宮での参詣となる。この様に神社参詣方法は分離されているのだが、実は妙見もまた分離されている。

妙見という北辰信仰が輸入された古代中国の「天官書」には、こう記されている。

「中宮天極星、其一明者太一常居也。旁三星三公。或曰子属。後句四星末大星正妃。余三星後宮之属也。環之匡衛十二星藩臣。皆曰紫宮。」

つまり、天の中枢部に当る中宮の、そのまた中心が紫宮であり、そこに太一がいる。紫宮とは、例えば聖徳太子が紫の衣服を着た事からわかる様に、一番位の高い色である。中心部であり位の高い位置を紫色で示し、紫宮としている。古代中国において、天の中心とされ太一が居るところは紫宮とされる。中心という事は水の波紋のように、全ての不動の中心にいるという事だ。つまり、これを早池峯に当て嵌めた場合、その中心は恐らく又一の滝であろう。

以前にも書いたのだが、又一の滝の謂れが「一番の滝は熊野の那智の滝である。又、それに匹敵するのがこの滝である。」という適当な由緒のネーミングになっているのは、いかにも胡散臭い。恐らく"天の中心"である「太一の滝」を意味して付けられ、後に「又一の滝」となったものだと考える。何故かといえば、これは何度も書くが、大迫の早池峯神社は早池峯に向けて建てられておらず、遠野の早池峯神社に向けられて建てられている。その意味はつまり、方違いの呪法であって、あくまで早池峯が北に鎮座する存在であり、大迫の早池峯神社が遠野の早池峯神社に向けて建てられているのは、大迫からの祈りが遠野の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯に向けられるからであろう。
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岩手県で瀬織津比咩を祀る神社は上の図であり、この他に載っていない神社や遥拝所がいくつもある。早池峯より北には、早池峯を祀る神社の数は少ない。しかし、例えば早池峯の北西に位置する玉山村の多岐神社などは早池峯ではなく、早池峯と同じ瀬織津比咩を祀る姫神山に向けて建てられている事から、早池峰信仰圏というわけではなく、姫神信仰圏といって良いだろう。それ以外の神社は、あくまで北に鎮座する早池峯を意識しているような気がする。

姫神信仰圏とは書いたが、例えば秋田県の太平山は以前、姫神嶽と呼ばれ、早池峯と同じ瀬織津比咩が祀られていた。いや、今でも祀られている。後に太平山となったのは、恐らく常陸国から移転してきた佐竹氏によるものだろう。常陸国にも太平山があり、太平山神社は存在する。その太平山神社はそれ以前、三光神社と呼ばれ、やはり星を祀っていた。その太平山神社の末社は、上・中・下と合わせて63社あり、その中の下21社は何故か「往古ヨり神秘トシテ社号神明ヲイハス…。」とあり、謎のままである。常陸の国に居た佐竹氏は、奥州藤原氏とも繋がりを持っていた事を考え合わせても、信仰面でも繋がっていたようである。何より常陸国には、安倍貞任の伝承もある事から、蝦夷国の入り口の常陸国は、かなり古くから繋がっているのだろう。その常陸国には有名な星神である香香背男がいて、星に関する神社の数は全国一を誇るだろう。恐らく、古代の早池峯と常陸国は妙見を中心として関連があったのではなかろうか…。
by dostoev | 2013-03-06 17:05 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の6)

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秦氏の話を若干したのだが、秦氏が逃げ延び居ついたという琴畑部落とマヨヒガの伝承のある琴畑渓流と白望山がある。琴畑渓流の滝には、早池峰の神である瀬織津比咩が祀られているが、白望山はどうであろう?山頂にある石碑は「見真大師」であり、親鸞の事を言う。庚申講と同じように、地域の人々の絆を意図して始められた二十三夜講が行われ、沿岸域の人々がこの白望山に昇って月星を拝んでいたようだ。高橋忍南「二篆管窺」には「今の世に庚申塔と称する石碑夥多し。其庚申は即北斗七星尊を祀る也。廿三夜塔も亦同じ。」と書き記されている。要は、妙見も庚申も二十三夜も星祭という事だろう。妙見信仰の神紋に九曜紋が使われるのも、七つの星に太陽と月を加えたのが九曜である事から、全て天体の星であるという考えからだろう。
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ところで白見山の山名だが「白」を「見る」とある。「遠野物語」には「白望山」と記されてはいるが、「見る」も「望む」も、意味的には同じだろう。あくまで「シロミ」という音を意識してみたい。では、その白とは何であろうか?例えば太陽も白で表す。三重県鳥羽市神島の八代神社で行われる「ゲーター祭」は白い輪っかに長い竹を刺す。それは太陽の死を意味し、復活を期待しての祭りであるという。他に、もう一つ白を意味する星がある。それは太白であり、太白は金星を示す星となる。そして少し違うのだが、宮崎県にある銀鏡神社にも興味がいく。

銀鏡神社の祭神は、磐長姫。磐長姫は醜いとされ、天孫ニニギは姉妹であった美しい木花咲耶姫を妻と選び、醜い磐長姫を避けてしまった。自らの境遇を嘆いた石長姫が、自分の醜い姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡付近の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。それから、この地は白見(しろみ)と呼ばれ、後に現在の銀鏡(しろみ)という地名になったという。実はこの銀鏡の地には、秦氏と共に菊池氏も多く住み付いた地でもある。白見山の麓の琴畑に秦氏が関係するなら、白見山そのものにも秦氏が関係しているのかもしれない。人は、未開の地に移住した場合、故郷を懐かしがって同じ地名を付けるものだという。邪馬台国東遷説も、そこからきている。九州と近畿に、似た様な地名が重複する為だ。当然、秦氏が遠野の地に逃げ延びて未開の地を開発したとしたら、その周辺には故郷を懐かしんで、同じ地名を付けた可能性は否定できないだろう。
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「遠野物語33」に白望山が深夜に薄明るくなることがあると記されている。「聞き書き遠野物語」などの著者内藤正敏氏は、遠野側から見た場合、白望山の背後にある金糞平というタタラの地で起きた火によるものでは無いかと推察している。だが、マヨヒガのように秦氏が持ち込んだ伝承である可能性もあるのかもしれない。その伝承とは先程の銀鏡神社の月光を受けて白く輝いた鏡の伝承だ。奇しくも白見山の頂では、月を待つ二十三夜待ちをしていたという。何故、白見山の頂で二十三夜待ちが行われたのかは、未だ定かでは無い。いずれにせよ、白見山には謎が多い。ただ言えるのは、白見山の峰続きに新山という地があり、早池峯を望むには絶好の場所がある。その更に遠野よりの山は貞任山と言い、貞任山の裏側にあたる和山の地には貞任の末裔が住み付き、星宮神社を守ってきた。また貞任山の北東にある山を五郎作山といい、貞任の家来の名を取ったものだとも云われ、古文書によれば貞任はアラハバキ神社を祀っていたと記されている。つまり、貞任山から新山、そして白見山に渡って安倍一族の勢力範囲内であったのだと考える。
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舘跡を調べた先人の、菊池春雄氏荻野馨氏の調査によれば、安倍館の殆どから、早池峯が遠望できるといい、種山の安倍館の屹立した岩の間からは、丁度早池峯が入る様になっている事から、安倍一族は早池峰信仰を深く信じていたであろうという事だ。つまり白望山の頂からの二十三夜待ちとは月の出を待つと共に、一つの星祭であり、それは北に鎮座する北辰としての早池峯を拝む事でもあったのかもしれない。何故なら、明るい月が天空に昇れば、早池峯はその姿を現わすからだ。
by dostoev | 2013-03-05 20:07 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の5)

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ところで平将門が信仰した妙見だが、遠野には妙見という石碑は横田城跡にしかない。妙見信仰の名残としては、常堅寺裏の河童淵傍の祠内部にある伊勢から伝わった紅白の乳神くらいか。しかし妙見はなかなか無いものの、遠野中に庚申塔の石碑は、かなりある。庚申は庚申講の名残だと伝わるものの、正確に遠野で庚申講を過ごしたという記録は無い。いや無いといえば語弊があるが、恐らく妙見信仰の代わりに庚申信仰が広まったものと考える。
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庚申の日は、人間の頭と腹と足には三尸の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているのが庚申の夜に、その人物なりが寝ている間に天に昇り、天帝に対して、その人物の日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされる。そこで、三尸の虫が天に昇らないようにする為、庚申の夜は村中の人達が集まって夜を過ごしたという。

ところが妙見にも似た様な話がある。人間の体内には小神が住み着き、本命の日に北斗に対して、その人物なりの善悪の行為を告げるとされている。北斗は北斗七星であり、一切の人民の生死禍福を司る神とされている。したがって、北斗に祈れば、百邪を除き、災厄を免れて服が来る。もしくは、長生きできると云われるが、逆に悪行があれば魔王に魂を抑えさせ、地獄に堕とすとも伝えられる。つまり、この内容から庚申も妙見も同じものである事が理解できる。また庚申待で唱える「オンコーシンレイ、コーシンレイ、マイタリ、マイタリ、ソワカ」の呪文は北斗の総呪である為、恐らく妙見と庚申は、いつしか習合したのであろう。
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源実朝や北条政子は妙見を信仰し、鶴岡八幡宮の傍らに北斗堂を建立させるなど、武士の間にも妙見信仰が広がっていた。北辰信仰は元々北極星の信仰であったが、後に北斗七星も含まれてから、北斗七星は北方守護神である妙見の剱と見做され、その七番目の星が剣の切っ先とされ、敵を破る「破軍星」と云われ、これが武士の間に広まった要因であったろう。その北斗七星の剣は破邪の意味をも有し、穢祓としても尊重された。

「衣川伝説」によれば、安倍貞任と戦った源頼家・義家の親子は雨でどうしようもない時に、今の奥州市にある妙見神を祀る日高神社に祈願したところ、巳の刻に雨が上がり空が晴れ、戦に勝つ事が出来た事から「巳の妙見」と云われる様になったが、本来は水神であろうと云われる。不思議な事に、衣川にある三峯神社もまた、源義家が祈願して安倍貞任から勝利を得たと言うが、安倍貞任の信仰を顧みた場合、本来は逆転しているのでは無いかと思うのだが、もしかして勝者の都合により、話が変換されたのかもしれない。

ところで安倍貞任だが「華園山縁起」「安倍貞任、宗任は星ノ御門ノ子孫ナリ…。」とある。御門は神と解釈され、また別に安倍貞任が"魁偉"と称された事から北斗七星と繋がる神、つまり妙見神と繋がっていた。遠野の東の和山で貞任の末裔が星宮神社を守ってきた事からも、やはり星の信仰をしていたのだろう。その星を信仰している安倍貞任が、突発的に妙見神に祈願した源義家に敗れるというのは、勝者の歴史的作為を感じるのだ。
by dostoev | 2013-03-05 13:37 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の4)

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上の画像は妙見神であるが、妙見神の伝承では亀に乗ってやって来た女神であるという事だ。

ところで家紋や神紋には「竜紋」があるが、牝竜の場合は「雨竜紋」になっているのに注意したい。同じ竜でも牝竜は雨乞いに関係する竜であるからだ。牝竜はミヅチであり「水霊(ミヅチ)」とも書き表す。そのミヅチを表す雨竜紋の図形は、竜宮の亀の変形を表した図形であるという。
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妙見神を日本で最初に祀ったのは、熊本県の八代妙見宮である。そのお祭りには、上記の絵の様に「亀竜」が登場する。四神に玄武がいるが、その玄武の本当の姿は亀と竜が合体した姿で表される。熊本県八代の風俗に妙見神は亀を眷属としている為に、食べたり粗末に扱う事を禁ずというものがある。その風俗はまるで「浦島太郎」ではないか。子供達に虐められていた亀を助けた浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、乙姫と出逢う。その竜宮だが、その場所は海の彼方、もしくは海の底とも云われるが、日本国内においては山中にも竜宮は存在する。いや正確には竜宮に通じる穴や水場などが山中にあるなどという伝承が日本全国に伝わっている。

熊本県の八代もだか、秦氏が南九州に逃げて居ついたという歴史がある。それとは別に、遠野の琴畑のマヨヒガ伝承も逃げ延びた秦氏が住み着いてマヨヒガの伝承を伝えたとも云われる。秦氏は畑仕事の合間に琴を奏でた事から琴畑という地名が付いたも云われている。妙見の伝承は亀に乗って来た女神だが、マヨヒガの伝承は川から朱塗りの椀が流れてくる話となっているが、大まかに言えば「漂着伝承」とも云えるのだ。神的なものが水を伝って流れ着いて来るのは、女神が朱塗りの椀かの違いでしかない。亀と言えば、秦氏が祀る松尾大社の眷属もまた亀である。しかしその亀とは竜を内包している。遠野の新町に神明社が移転された後に、松尾神社が建立されたのは意味があると考えるが、これは後に書き表す事としよう。

ところで東北などに逃げ延びた秦氏は桓武天皇時代であると云われるのは、新羅仏教を伝える秦氏であったが、桓武天皇の時代には任那仏教に変わった為、用無しとなった秦氏は桓武天皇から追われたとも云われる。しかしそれとは別に、桓武天皇時代に、妙見信仰は皇族のものである為、民衆が妙見を信仰してはいけないという禁令が発布されたのもあったのかもしれない。しかし奇しくも桓武天皇の末裔である平将門が新皇と名乗り朝廷に対して謀反を起こしたのは、あまりにも皮肉ではないか。その平将門は、妙見菩薩(妙見神)を厚く信仰していたのだ。
by dostoev | 2013-03-05 06:20 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)