遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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「大祓祝詞」の移し世

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源氏物語の解釈本である「河海抄」には「七瀬所々」として「難波 量太河股(摂津) 大島  橘小嶋(山城) 佐久奈谷 辛崎」とある。先の記事である「遠野七観音考」において、近江の佐久奈谷と辛崎は紹介したが、大島と橘小嶋は山城国…つまり現在の京都の宇治川沿いにあるようだ。そしてもう一つ挙げなければならないのは、橋姫神社だろう。

橋姫神社の社伝には、孝徳天皇御宇大化二年(646年)に元興寺の僧である道登が宇治橋を架けるにあたり、その鎮護を祈る為に、宇治川の上流である桜谷に鎮座する佐久奈度神社に祀られる瀬織津比咩を勧請し、橋上に祭祀したとされている。ただ佐久奈度神社の創始は天智天皇8年(669年) である為、この社伝を疑問視する声が多いようだ。

しかしだ、天智天皇以前に桜谷には既に瀬織津比咩が祭祀されており、後に社殿を建立し佐久奈度神社としたものを、わかり易く後で社伝に付け加えたとしたら、何ら問題は無いだろう。調べてみると「興福寺官務諜疏」には、天智天皇の代に右大臣中臣金連が"大石佐久那太理神"を勧請したとある。

桜谷の古名は佐久奈谷であって、「タニ」を「タリ」とも云う事から佐久那太理は佐久奈谷とも解釈は成り立つ。また佐久那太理の「太理」は「垂り」でもあり、滝の落ちる様、もしくは水がなだれ落ちる様を意味する。つまり佐久奈度神社が創建される以前から佐久奈谷には、瀬織津比咩が祭祀されていた歴史があるのだろう。それ故に「大石佐久那太理神」という地名的な名前として瀬織津比咩が勧請されたのだと思う。また「大石」の意味は忌伊勢(伊勢詣での祓所の意)「おいせ」が「おおいし」に訛ったものとされているよう。つまりこの佐久奈谷は伊勢まで繋がっていると考えれば、宇治という地名が気になる。

宇治の語源は「内(うち)」とされているのが一般的だが、南方熊楠は宇治は兎路であり、意味はそのまま解釈すべきだと述べている。つまり兎の路が宇治であり、兎は裏伊勢とも呼ばれる熊野では巫女を意味する事から、神の依代でもある巫女が佐久奈谷で神憑きとなり、伊勢へと向かうとも解釈できる。その巫女を称し神名を与えるなら玉依姫であり、その玉依姫が佐久那太理に坐す瀬織津比咩の霊を依り憑かせ伊勢に向かうとも解釈できるのだ。その伊勢神宮の前にかかる橋を宇治橋というのも意味深ではある。ただ普通に考えれば神武天皇を案内したウヅヒコの名が宇治の地名であるそうだが、その辺は今後の課題としよう。

ちなみに奥州市の新山神社の宮司の先祖は、京都の宇治から瀬織津比咩を羽黒に運んだ後、現在の新山神社に祀ったという。羽黒権現とは玉依姫であり、別名瀬織津比咩であると述べている。となれば、兎路(うじ)が巫女の路であると解釈し、それが玉依姫であるとも重なってくるのだ。まあこの辺の検証も課題ではあるが…。

ところで高橋亨「源氏物語の対位法」において、「大祓祝詞」の中に展開される世界と、桜谷から始まる宇治水系は対比される場所であると述べている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「大祓祝詞」


高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて八百萬の神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は豊葦原 水穂の國を安國と平けく知ろし食せと事依さし奉りき 此く依さし奉りし國中に荒振る神等をば神問はしに問し賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根樹根立 草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ 天の益人等が過ち犯しけむ種々の罪事は 天つ罪國つ罪許々太久の罪出でむ此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打切りち末打ち斷ちて千座の置座に置足らはして天つ菅曾を本苅り斷ち末苅り切り 八針に取辟て天津祝詞の太祝詞事を宣れ 此く宣らば天つ神は天の磐門を押披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて聞こし食む 國つ神は高山の末短山の末に上り坐して 高山の伊穂理 短山の伊穂理を掻き別けて聞こし食さむ此く聞こし食してば 罪と云ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き払う事の如く 大津邊に居る大船を舳解放ち艫解放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以ちて打掃ふ事の如く遺る罪は在らじと祓へ給ひ淸め給ふ事を 高山の末 短山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と云ふ神 大海原に持ち出なむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に座す速開都比賣と云ふ神 持可可呑みてむ此く可可呑てば 氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神 根の國底の國に氣吹放ちてむ 此く氣吹放ちてば 根の國 底の國に坐す速佐須良比賣と云ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ淸め給ふ事を 天津神 國津神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

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「大祓祝詞」の中に出てくる大津とは近江の大津であり、佐久那太理は佐久奈谷であって佐久奈度神社の鎮座する地であり、科戸は伊吹山の麓にあり、彼方は山城の地名で湖水の下り来る川添にあるなどと説明されてはいるが、実情は「大祓祝詞」が実際の地名によって書かれたとは到底考えられない後世の附会であろうと述べている。しかし「大祓祝詞」を作ったのは、天智天皇の右大臣であり、佐久奈度神社を建立した中臣金連であるという。となれば天智天皇の時代に作られた「大祓祝詞」は、佐久奈谷から宇治水系への流れで伊勢まで行きつく行程が初めから意図された可能性はあるだろう。

そうして考えてみると、天智天皇が何故に、佐久奈谷に佐久奈度神社を建立したかであると思う。大津という地は白村江の戦いに敗れた後、多くの渡来人が移り住んだ地でもあり、日本海側に近く水運の拠点でもあって重要な地であるのは政治的にも理解できる。しかしそれ以外にも行幸を重ねる天智天皇と額田王に加え、天智天皇系の天皇(桓武天皇など)が近江国に行幸するのは、水の霊力を得ようとしているのではないかと考える。それ故に天智天皇は「大祓祝詞」の世界を、初めから佐久奈谷からの宇治水系に具現化したのではないかと考える。
by dostoev | 2012-02-21 22:24 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

「現代遠野物語」 第百三話(狼の遠吠え)

某さんは、平成20年早池峰に登り、翌朝の御来光を拝む為に山頂の避難小屋に
泊ったという。その早池峰山頂での夜中、犬の遠吠えと共に、犬の吠え声が近付
いて来たので、誰か犬と一緒に、この夜中に登って来たのか?と疑問に思ったと
いう。辺り一面真っ暗闇の早池峰山頂の外に出てみたが、先ほど聞こえた筈の犬
の吠え声は途絶え、静寂が辺りを包んでいたという。

考えてみると、早池峰山は糞尿問題などから犬連れは禁止となっており、もしも
本当の犬が近付いたのなら、犬だけが早池峰山に登って来た事になる。早池峰山
頂では、たまにカモシカやツキノワグマも目撃される事から、間違って登ってく
る犬がいてもおかしくは無いだろうと某さんは思ったそうであるが、後から思い
起こしてみると、あの遠吠えはもしかして狼であったのかもしれないと思ったそ
うである。
by dostoev | 2012-02-20 17:44 | 「現代遠野物語」100話~ | Comments(10)

「現代遠野物語」 第百二話(狼被害?)

昭和40年代半ばに、岩手日報に狼の仕業か?という記事が紹介された。遠野市農協
では、その頃貞任高原の辺りに羊を放牧したという。しかし、その羊が獣によって殺
害されているのが発見された。その頃には狼は絶滅しているものと皆が思っていた為、
野犬の仕業であろうとなった。しかし平成の世となっても、未だに日本狼ではないか?
という目撃情報がある為、もしかしてその羊を襲って食らった獣とは、やはり狼であ
ったのかもしれない。
by dostoev | 2012-02-20 17:35 | 「現代遠野物語」100話~ | Comments(0)

「現代遠野物語」 第百一話(狼)

明治時代に、狼は滅亡したというのが日本国内での一般的見解となっている。
しかし遠野では、昭和初期に狼の遠吠を聞いたという人は、何人もいる。狼
の絶滅の理由の一つに、狂犬病があった。その狂犬病により、無差別に攻撃
する狼被害を重要視し、岩手県では狼に懸賞金を出して、狼退治を奨励した
のも大きかったのだろう。

ところで狼の遠吠えを聞いたというのは和山辺りであり、あの地域は昔から
狼が多かった。その多い理由に、本州で一番餌となる鹿が生息していたから
でもあった。畑を荒らす鹿を捕食する狼は、その地域の人々にとっては神で
あった。その神であった狼を、お金の為に簡単に殺せる筈も無い。可能性と
して狼がもしも生きているとしたら、和山周辺であったのかもしれない。そ
の和山周辺には調べる限り、狼を神とする三峰の石碑が、一番多いのだ。
by dostoev | 2012-02-20 17:28 | 「現代遠野物語」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺236(喜善の寂しさ)」

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昭和二年一月二十四日の朝九時頃には、この地方を始めて飛行機が飛んだ。
飛行機は美しく晴れた空を六角牛山の方から現れて、土淵村の空を横切り、
早池峯山の方角に去った。

村人のうちには飛行機を見たことは無論、聞いたことも無い者が多かったか
ら、ブロペラの音が空に響くのを聞いて動転した。

佐々木君兼ねて飛行機について見聞していたので、村の道を飛行機だ、飛行
機だと叫んで走ると、家々から驚いた嫁娘らが大勢駆出し、どこか、どこかと
これもあわてて走り歩いた。そのうちに飛行機は機体を陽に光らせて山陰に
隠れたまま見えなくなったが、爆音はなおしばらく聞こえ、人々は何か気の
抜けた様になって、物を言うこともしなかった。

また同じ年の八月五日にも、一台の飛行機が低く小烏瀬川に沿って飛び去った。
その時は折柄の豪雨であったから、たいていの人は見ずにしまったという。


                               「遠野物語拾遺236」

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平成の世になって、今さら飛行機が珍しいという事は無くなった。しかし文明の利器というものは、いつ何時現れるかもしれないが、今ではマスメディアの情報やネットの情報などで、突然遭遇したとしても、どんなものでも何となくイメージできるようになっている気はする…。

ところで「山深き遠野の里の物語せよ」などの著作がある菊池照雄氏は、雨乞いの為に六角牛山の頂で千駄木を焚いた時、里の子供達は噴煙が上がる筈が無いと思っていた六角牛から煙が立ち昇るのを見て「山が噴火した!」と大騒ぎになった事を書き記している。

日常から、突然転換する非日常。しかし同じ日常とは、長くは続かないもの。科学は常に発達し、一昔前では考えられない物が沢山発明され、少しづつ日常である筈のものは、想像できなかった非日常に変化している。ところがやはり、飛行機というものを知らない里の人々の前に突然飛行機が轟音をあげ空を飛んでいるとなると、それこそ驚天動地の出来事であったと思う。

古代の人々は、突然現れる非日常…例えば、地震や津波、竜巻や、かって経験した事の無い雷を伴う大雨などを"神の祟り"などと考えた。現代では発達した科学と言う名の元に、それを納得している。しかし以前は「神の祟り」として納得していた歴史がある。

以前にも書いたが、昭和の戦時中、遠野の隣町である釜石が武器を製造していた為に、アメリカ艦隊から艦砲射撃の一斉攻撃を食らった。しかし、その頃、釜石には捕虜収容所があった為に、釜石の人達は「捕虜収容所に逃げれば、助かるぞ!」と、大勢の釜石市民は捕虜収容所に逃げたという。

ところが艦砲射撃の真っ最中、遠野では地鳴りのような大砲の音に、みんなで怯えていたという。そんな中、遠野上空を飛び交うアメリカ軍の飛行機を見て、遠野の人々は枝垂れ柳や、枝垂れ桜の木の下に隠れたという。枝垂れ系の樹木は、天から霊が降って来て、枝垂れ系樹木の枝を伝って、地面の奥深くにある黄泉の国に向かうと信じていた。その為に、枝垂れ系樹木の下に隠れていれば、アメリカ軍の飛行機から攻撃されないと信じていた者が大勢いたという。

考えてみても、日本の動力飛行機の歴史は明治時代から始まっている。「遠野物語拾遺236」における昭和2年という時代には、日本国内でかなりの飛行機が飛び交っているのが現状だった。そんな中、遠野の人々には未だ、飛行機を聞いた事も見た事も無い人が大勢いたというのは、それだけ遠野が閉ざされた田舎であったという証明だろう。

明治時代、秋田県の将校が日本帝国軍の一小隊を授かったという。しかし、その当時は、標準語というものがまだ制定されておらず、言葉の日本統一にはまだまだであったよう。そんな中、一つの事件が起きた。その秋田県人の将校は、秋田弁丸出しで、いくら部下に命令しても半分近くは理解できない部下が多かったという。そこで秋田県人の将校は、思い悩んだ。天皇陛下の部隊を統率できない自分の非力さ、情けなさに。そして思いつめ、ピストル自殺をはかったそうな。

その事件を重んじた日本帝国軍は、半強制的に方言を禁じたという。ただ、ある程度の訛りには目をつむったという。それから国は、学校教育に力を入れ始め、共通に皆が理解できる言葉…所謂「標準語」というものが考案されたという。

日本と言う国は、他国に比べて算数や国語の普及が、実は世界トップクラスであったようだ。しかしそれでも、まだ文字も書けない人々は大勢いたらしい。また本というものも、読むというより、本を読める人間に聞かせて貰っていたようだ。

「古事記」でもわかるように、太安万侶が稗田阿礼の唱える言葉を文字にしたのが、日本最古の書物「古事記」である。つまりそれまで、物語とは語り伝えるものであったという事。それも文字を書く事の出来る人の中での話であるから、遠野のような閉ざされた田舎では、なかなか文字の読み書きができるものもいなかったろう。

奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされ、遠野を阿曽沼が統治したという。その後、阿曽沼は南部に追われ、遠野を追われたというが、それでも多くの阿曽沼の家臣は残っていたという。当初、南部の家臣だけで遠野を統治しようとしたが、南部には読み書きできる家臣も少ないのに加え、算術に長けている家臣が殆どいなかったという。そこで仕方なく、読み書き・算術のできる阿曽沼の家臣をかなりの数を登用したそうな。考えてみると、南部は甲斐の国…今で言う山梨県から何故か青森へと移動して住み着いた。青森県もまた、閉ざされた田舎であった。南部の情けなさは、そういう読み書きや算術などの教育をないがしろにしてきたツケが回って来たのだろう。そこには情報が届かないという本州の北の果てという立地も大きかったのかもしれないが…。

ここで「遠野物語拾遺236」に立ち返るが、飛行機の存在を知っていたのは文章を読む限り、周囲には佐々木喜善しかいなかったようである。佐々木喜善は東京の大学まで行き高等教育を受けてきた人物であり、当然の事ながら飛行機についても知っていた。ましてや佐々木喜善は、山口部落の村長にもなった人物でもある。人望がある者であるのなら、人は大勢寄って来るもの。ましてや東京の大学まで行った人物なら、東京の話…「聞いた事も見た事も無い話」を聞きに、大勢集まると思うのだが、飛行機という今世紀最大の発明というべき物を、山口部落に戻っていながら伝えないでいる佐々木喜善の存在が、少々寂しく感じてしまう。つまり佐々木喜善なら、山口部落の周辺、遠野の人々にその飛行機の存在を教え広める事ができたのに、それをやっていなかったのは、どこかで部落の人達との壁があったものと考えてしまうのだ…。
by dostoev | 2012-02-19 20:56 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「現代遠野物語」 第百話(電話)

関東に住んでいる某さんの弟が、数年前に病気で死んだという。その死んだ時、
何故か某さんの家の電話が不通になり、なかなか連絡が取れなかったという。
その時は、ただ単に『何故だろう?』と思っていたに過ぎなかったそうな。

ところが今年、3回忌を迎えるその弟の命日の日に、某さんの携帯電話に着信
があり、その番号を見ると、関東に住んでいた弟の家の電話からであったそう
な。実は丁度同じ時間帯に、遠野の実家でも死んだ某さんの弟の法要をしてい
た最中であったそうだが、やはり弟の住んでいた関東の家でも、同じく法要を
している真っ最中の電話であった事がわかったそうな。つまり、弟の住んでい
た家から、誰も某さんの携帯電話に電話をかけた者も、かける時間も無かった
というのがわかったという。つまり、誰が某さんの携帯電話に電話をかけたのか?

某さんは、もしや弟が…と思ったそうだが、やはり身内であっても、あの世か
らの電話と考えると、背筋がゾッとしたそうである。
by dostoev | 2012-02-16 07:54 | 「現代遠野物語」100話~ | Comments(0)

遠野七観音考(其の四)

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祓戸神として瀬織津比咩を祀る佐久奈度神社は、天智天皇8年(669年)に勅願により、中臣金が祓戸の神を祀ったのが創始であるとされる。以来、「七瀬の祓い所」の一つとして重んぜられたという。

また唐崎という、やはり七瀬の祓い所がある。天智天皇挽歌にも歌われ、「源氏物語」にも唐崎の歌が出るなど、七瀬の祓い所としては、筆頭になるほどの唐崎は重要な場所であったようだ。その理由は、大津京の外港であるとともに、大宮人の船遊びの船が発着する特別な場所であり、また渡来系氏族の居住地があった事もあるようだ。

その唐崎には唐崎神社があるのだが、大津京が遷都される以前は大川神社として鎮座しており、天智天皇はここで穢祓をした事から、本来は瀬織津比咩を祀っていたのではないかという事のようだ。

また、七瀬の祓い所の一つに佐久奈谷があるが、佐久奈谷は桜谷の古名であり「八雲御抄」によれば「さくらだに、是は祓の祝詞に冥土を伝ふ」とある。つまり「大祓祝詞」の神が鎮座し、黄泉の国へといざなう地の意味でもある。


ところで、もう一度「七」という数字を考えてみようと思う。例えば八乙女は巫女の総称と思っていたが、調べてみると、天智天皇は大津において七乙女に舞を舞わせていた。また遡ると「古事記(神武記)」神の巫女七媛女と記されている。つまり八乙女よりも、七媛女の方が古い巫女の総称であったようだ。

また「神功記」にも七枝刀や七子鏡、または「万葉集」にも七種の宝とあるように、不定な多数の意味の他に、七は神聖なものを意味するのだとも理解できる。

他にも「鎮火祭祝詞」ではイザナミの言葉に「夜七夜、昼七日、吾をな見たまひそ、吾が奈妋の命…。」とあり「播磨国風土記」では天目一命に献酒しようとし「七日七夜之間、稲成熟…。」という水稲の豊穣を願う言葉がある。有名な「常陸国風土記」での杵嶋の唱曲は七日七夜歌われ賊を油断させて滅ぼしている。

また七夕には織姫が天川に臨み、松浦川での「七瀬の淀」には神功皇后や淀姫が縁を結んでいる事から、「七」という数字は神秘的な呪術を含んでおり、どうも七瀬の意味には水辺の穢祓と女神が関与しているようだ。これらから思うに、岩手県に定着していた江刺七観音や二戸七観音はどうも七福神などの、やはり七という数字の目出度さ、ご利益に期待しての七観音であるように思える。そして遠野の七観音は原初的な聖数である七という呪力と穢祓に加えて、女神の息吹を感じるものである。

先に述べたように、古代において井戸水を使用するのは神迎えの神事でもあった。そしてその水によって観音像を洗う行為は、穢祓の呪術でもある。12世紀の「禁秘御抄」においては七瀬の祓いには陰陽師の人形を使い穢祓をするという。恐らく遠野七観音は北斗七星の星々が点在するようにあるのも、北斗七星と水の結び付きを意味している筈だ。これらから考えられるのは、井戸水が早池峰山より流れ出でる水を使用する事から、早池峰の女神であり水神でもある瀬織津比咩の霊力を受けると共に、その穢を祓う意図があるのだろう。

更に遠野七観音に携わったのは天台宗の慈覚大師であるが、学研「天台密教の本」によれば「帰命檀伝授之事」では「我らは天の七星の精霊くだりて五体身分と成る也。報命尽れば虚空の七星に帰る。」とあり、これは「我々は北斗七星の精から生まれ、北斗七星に帰る」という解説が成されている。井戸とは地面に穴が開いているのは黄泉の国と繋がっていると云われる。その為に、井戸には幽霊の話が多いのだが、この「帰命檀伝授之事」では魂の生まれ変わり、つまり輪廻転生を謳っている。

また「帰命檀伝授之事」はこう続ける「わが祖師の知者大師が御誕生なさって七日ほどの間、七星のうちの一星である破軍星が消えてなくなった…。」ここにも聖なる七の数字が連なる。そしてその北斗七星は我々の故郷であると説いている。つまり遠野七観音とは、聖なる七つの星で輝く北斗七星を遠野郷に点在させ、蝦夷の民であった民衆の魂を浄化させる意図を含んでいるものだと考える。それはやはり、蝦夷平定の後の、俗化の一環であった可能性は否定できないだろうと思う。
by dostoev | 2012-02-15 07:58 | 遠野七観音考 | Comments(0)

遠野七観音考(其の三)

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七観音巡りを調べてみると、元々は平安末期に成立した西国三十三所巡礼が鎌倉時代には修験山伏が中心となって過酷な修行を基盤とするものであったらしい。それが15世紀から民衆化し始めて、その中から七観音が選定されて、七観音巡りが定着したようだ。それが江戸時代という太平の世となってピークを迎え、全国のあちこちで七観音巡りが流行ったよう。

岩手県においては、奥州三十三所、江刺三十三所、または明治時代に気仙三十三所が作られた中から七観音が更に選定されて、七観音巡りが一時の間、定着したようだ。つまり、岩手県内における七観音と、遠野の七観音の発生は、意義からしてどうも違うようだ。

遠野の七観音は慈覚大師が開祖と伝えられ、早池峰山麗で桂の木から七体の観音を彫ったとも、物見山の桂の木から七体の観音を彫ったとも伝えられる。そのどちらにも共通するのは、桂の木という事だ。桂の木とは水に深い関わりのある樹木であり、山幸彦が綿津見神の宮殿に降り立ったのはまず桂の木の上であり、桂の木とは水神との関係が深いものである事がわかる。つまり水の霊力に溢れた樹木が桂の木である為に、その桂の木から七体の観音を彫ったという事は、伝承であるにせよ、何等かの意思が伝わっているという事だろう。

また彫り上げた七体の観音像を附馬牛町の沢の口という場所で、七井戸を掘って、七体の観音像の産湯として使ったと云う。附馬牛町に流れる川は全て早池峰の麓の山々から発生する水源からのものである。つまり早池峰の水の霊力によって観音像を洗い清めようという意思が働いたと考えて良いだろう。ただ何故に七つの井戸を掘ったのかという事。普通であれば、一つの井戸を掘って、その井戸水によって七体の観音を洗えば良いだけなのだが、何故か1対に1つの井戸を掘ったというのも意味があるのだろう。

七という数字を調べて浮かび上がったのは、七瀬と呼ばれる穢祓所だ。七瀬の祓とは、神話にも登場する穢祓の系譜を受け継ぐものであり、水場における重要な呪術でもあった。

また「七」という数字というものを調べると、八百万の神という沢山を意味すると同じに、七という実数では無くて不定の多数の意味を有していた。つまり七瀬とは水場での穢祓を意味するもので、それが実際に七か所制定されたのが滋賀県の琵琶湖湖畔であり、天智天皇が大津京という都を定めた周辺であった。

金子裕之「律令期祭祀遺物集成」によれば、七瀬祓の芽生えは藤原京に求めうるが、本格的な展開は平城京に始まり、長岡京を経て平安京に受け継がれ、儀式化したと述べているが、自然の穢祓所としての発生の根源は、琵琶湖のある近江からであったようだ。

青木生子「萬葉挽歌論」を読むと、挽歌の確率は天智天皇の崩御の際に確立されたよでもある。歴代の天皇の挽歌を読み取っても、水の霊力に対する意識をもった挽歌があるのだが、その初めを考えてみても琵琶湖周辺に点在する七瀬祓の一つである唐崎がある事から、七瀬祓の原型は近江の国からではないかと推察する。
by dostoev | 2012-02-14 06:17 | 遠野七観音考 | Comments(0)

多賀という語源

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多賀神社は、遠野の町の縁結びの神として名高かったらしいが、違和感を覚えていた。何故ならば、祀られる祭神はイザナギとイザナミは、イザナミがカクツチを生んだ時に死んでしまい、黄泉の国の住人となる。それから夫婦でありながら、現世と黄泉の国に別れてしまうからだ。確かにイザナミが生前の頃は、仲睦まじく多くの神々を生んでいたが、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。その時に岩を挟んで二人が会話するのだが、イザナミが「お前の国の人間を1日1000人殺してやる!」と言うと、「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう。」とイザナギは言い返す。現世と黄泉の国に別れた二人は、互いに反目するのだが、それが縁結びの神として祀られるには少々不可解ではある。

古代の「タカ」は神の坐所としての「高」を意味していたと推測されており、後に「多賀」となったと、ある。伊能嘉矩「遠野くさぐさ」においては、伊能はアイヌ語をあてて説明している。アイヌ語「tuk」「上に拡がる」の意で、これに「wa」を加えて「タクワ」となると説いているが、これにも疑問符は付く。また別に「タガ」は「タカ」の語源でもあるので、遠野の「多賀の里」は「鷹の里」でもある説もあるが、確かに「鷹」は「高」と同義で「タカ」である為に、確かに神の坐所の意味にも繋がるが、いまいち納得はできない。
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ところで栃木県那須町に境の明神という社があり、また別に福島県白河町に、やはり境の明神の社があるのだが、栃木県にはイザナギが祀られており、福島県にはイザナミが祀られている。また宮城県と岩手県の間にも、境の神としてイザナギとイザナミがそれぞれ祀られている。御存じ、宮城県の多賀城は蝦夷国を攻める為の前線基地であり、その先は蝦夷国である岩手県となる。

考えてみると、イザナミは死んで黄泉の国に住むようになり、夫婦でありながら、別々の世界に住んでいるわけだ。つまり栃木県の境の明神にはイザナギが祀られている事から、大和朝廷側に属する地であり、イザナミが祀られている福島は、蝦夷国であった事から考えれば、「多賀」とは夫婦でありながら「互(たがい)」に違う国に住んでいる意味を含むのかとも考えてしまう。

また滋賀県の多賀大社の先には、伊吹山がある。その伊吹山の先は、越の国であり、当時で言えば異国である蝦夷国となる。この事から考えても「多賀」とは「互」も意味するのかとも思えてしまう。「大言海」では「互」を「違の義」もしくは「手交(タカヒ)の義」という説明がなされているが、別に「違(たが)う」という漢字の意味でもあてはまるかもしれない。しかし、どちらにしろ遠野の多賀神社が「縁結び」にご利益があるとは考え辛いのだが…。
by dostoev | 2012-02-13 11:08 | 遠野・語源考 | Comments(4)

遠野七観音考(其の二)

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日本には、偶像崇拝というものがあるのか、ハッキリはわからない。原始信仰における土偶は、偶像というよりもシャーマン人形であったと考えられている。土偶が意図的に損傷されているの事に対し、民俗学的見解では「死と再生」を意味するという説は、どことなく観念的であり、曖昧な表現だと思う。

例えば古くから桜の木を敷地内に植える風習は、桜の木が人の身代わりになってくれると信じられていたからだ。桜…一般的にはソメイヨシノだが、樹齢はほぼ人間の寿命と同じで、樹木の様々な名称は、目(芽)歯(葉)鼻(花)指(細枝)耳(実)腕(枝)頭(梢)胴(幹)足(根)と、人間の体の部位に対比させられていた。つまり桜の木とは"人間の身代わり"になると信じられていたからだ。その為に、子供が生まれると一緒に桜の木を植えて、子供の病気など、悪いモノを桜に移し替えてきた。その根底には、人間の持つ純粋に、病気や怪我が無く、無事に過ごしたいという気持ちからであった。

土偶も人型に似せて造ってある事から、そういう意味合いを込めてのものであった可能性はあるだろう。「出雲国造神賀詞」を読むと…。

「豐葦原乃水穂國は、晝は五月蠅如す水沸き、夜は火瓫如す光く神在り、石根・木立・青水沫も事問ひて、荒ぶる國あり…。」とあり、古代の日本は跳梁跋扈する国であったようだ。そういう中、人間が我が身を守りたいと切実に願ったのが、うかがい知れる。その為に、様々なマジナイが誕生したのだろう。その一つが、生贄であったのかもしれない。そしてその生贄という概念を土偶に転化させれば、身代りとしての呪物になったのだろう。

「延喜式」の禊祓には、「金銀塗人形」が使用されたのは、やはり人間の代用品であり、身代りだと思う。有名な流し雛もまた、人間の身代わりに流されたものであるのを考えれば、日本に伝わる人形の殆どは、偶像では無く身代り人形であるのが理解できる。

また、観音像や地蔵などを橇遊びにして遊ぶ子供達を叱った大人が逆に祟りに遭う話が多いのも、あれは子供の保護も含める、一つの身代わりであるのだと考える。その遊びの行為は、呪術の最中でもあった為に、その行為を中断させた大人に、呪いが返ったものと考える。つまり本来、神仏像もまた人間の身代わりとして造られたのかもしれない。

林屋辰三「日本の古代文化」には、「涌出宮遺跡」に関しての記述が、下記のようにある。

「この祝園の第一日は、明らかに井水よりの神迎え神事である。」と。そして「3日間の神事の最終日を終えると、居残った若者が裸になって小川に飛び込み、火で暖を取る事を7度繰り返して垢離を取り、次に釜を縄ぞろというもので7度洗い、7掴みの白米を入れて、7把の肉桂の枝で炊き…。」とあり、7という数字と水との関係が見て取れる。「遠野七観音」に付随する七井戸の伝承だが、恐らく似たような概念の元に伝わったものでは無いかと考えている。
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不動明王の背後にある火炎は、悪鬼を焼き殺すと云われる。つまり炎による穢祓となる。水による穢祓が一般的になりつつも、炎の穢祓もまた存在する。コノハナサクヤヒメが3人の男神を火中で出産したのも、産屋の浄化としての機能を果たしていたものと考える。神であったから、炎の中でも無事に出産できたのだが、これが人間ならば焼け死んでしまう。実際に死体というものは、黒不浄と呼ばれる穢れの元だった。それを炎によって穢れを祓う。

また黄泉の国で死んだイザナミが復活する途中、腐敗している死体を雷が囲んでいた記述があるが、あれも死体に対する穢祓であったのだと思う。鍛冶技術集団の祖神は「天目一神」という「火雷神」と表記される事から、火と雷は同一と信じられていた。実際に、原初の火とは恐らく、落雷による火災からでないかとの考えもある。

ところで神以外に、火中で無事なものがある。それは土偶などの土人形と鉄などの金属である。これらはコノハナサクヤヒメが生んだ神々と同じに、炎の中で穢れが祓われ、神聖なものになる。

日本神話において、支配する神とは、殆ど火の神となる。当然の事ながら、火の神は日の神でもある。神楽歌を調べると、伊勢に「日霊女歌」というのがある。



如何ばかり 良き業してか 天照るや 日霊女の神を    

              しばしとどめむ  しばしとどめむ




また「湯立歌」というのがある。


伊勢志摩の 海人の  刀禰らが 焼く火の気  おけ おけ

焼く火の気  磯良が崎に  薫りあふ おけ おけ



この湯立の歌は「伊勢風土記」の伊勢国の火気(ほのけ)という火の信仰にも関わってくる。また別に「十一月中寅日鎮魂祭歌」の歌に気になる箇所がある。



あちめ おおお  おおお  おおお 上ります

豊日霊女が 御霊ほす  本は金矛 末は木矛



一般的に、天照大神は「古事記」などによれば、八咫の鏡に憑依したとあり、天照大神の依代は矛では無く、鏡である筈。矛は槍であり剣でもあり、それは蛇にも男根にも例えられるものであるから、本来は男神の依代が矛であるべきが、日霊女の依代になるとは有り得ない歌となる。まあ今では天照は男神であったという説は珍しいものではないのだが…。 

ところでもう一つ「日本書紀」「神代(第九段)」にて猿田彦を紹介するくだりに「眼は八咫鏡の如くして、てり然赤酸醤に似れり」という、現代で云うところの"目力"を強調する猿田彦の眼力に、他の神々は怯えてしまったが唯一、天鈿女だけが平気であったのは何故かという事。

ふと思い出したのは「ギリシア神話」においてのペルセウスのゴルゴン退治だった。ペルセウスはアテナの助力を得て、ゴルゴン退治をするのだが、アテナは本来、グラウコーピス・アテーネーと呼ぶが、それには「輝く瞳を持った者」という意味がある。ペルセウスはアテナから授かった鏡により、ゴルゴンの邪視を避ける事ができたのだが、これはある意味、ペルセウスがアテナの霊力を受けた巫女と同じと考えてもいいのではないだろうか。つまり天鈿女もまた、天照大神の霊力が憑依した存在の巫女であった為、神々の中で唯一猿田彦の邪視が通じなかったのだと考える。

猿田彦の眼の輝きの表現から、猿田彦は太陽神の称号を受けているが、天鈿女もまた天照大神の霊力が憑依した巫女であるならば、太陽VS太陽の戦いとなったのだろうか?その太陽同士の戦いに、天鈿女が勝ったのはやはり女性の魅力に男神が誘惑された為だろうか?

実は内宮所伝本「倭姫命世記」というものが、三浦茂久「古代日本の月信仰と再生思想」に紹介されていた。


「伊弉諾尊、筑紫の日向の橘の檍原に到りて、祓徐まするの時、亦右目を
洗ひて、月天子を生みます。亦天下り化生ますみ名は、天照皇太神の和魂也。」




「古事記」などでは右目から月読命が生れ、天照は左目から生まれているのだが、この内宮所伝本「倭姫命世記」では、天照大神は左目から生まれた月天子が天下って天照となつたとある。これをそのまま信じれば、天照とは月神であるという事になる。ただこれにより納得してしまうのが、天照の霊力を受けた巫女のような天鈿女が猿田彦に打ち勝った事だ。それは陰陽五行の五行相剋において「水は火に勝つ」からだ。

右手の「み」とは「水」を意味し、左手の「ひ」とは「火」を意味する。つまり太陽神でもある猿田彦は「火」であり、それに打ち勝った天鈿女は天照の霊力…つまり水の霊力を受けた為に「火に打ち勝った」と考えれば納得するのだ。

日本の神々の原初は、彦神と姫神の二人合わせたものだった。出雲において、二礼四拍一礼というものは「パンパン」と手を叩くのは、よく「お~い酒!」などと人を呼ぶ時に手を叩くのと同じだ。つまり「パンパン」「パンパン」と四拍するというのは、神殿にいる神霊を二人呼ぶ行為である。その原初の礼拝が出雲がそのまま伝えているのであった。そしてその彦神と姫神の組み合わせというのは、陰と陽の組み合わせであり、それは火の神と水の神の組み合わせが基本であった。

となれば、天照大神の本来とは、月神であり、月とは水に繋がりの深いものであるから、水の神であったのだろうか?

神には「和魂」「荒魂」があるというのはわかっているが、本来同一神から分離した魂であろうと、本体と同じ魂を有すると云われている。つまり火の神の荒魂は、あくまでも火の神であって水の神には成り得ないという事。内宮所伝本「倭姫命世記」が天照大神が月神が本当ならば、天照の荒魂も水神である事になる。この「倭姫命世記」には別に、こうある…。


荒宮一座  皇太神宮の荒魂。伊邪那岐大神所生神。八十禍津日神と名づくる也。一名瀬織津比咩是れ也。


ここで天照大神の荒魂が、早池峰に祀られる水神である瀬織津比咩であると。つまり天照が月神であり水神であって、その荒魂はやはり水神の瀬織津比咩となれば、水の霊力によって猿田彦に打ち勝ったのは納得できる。水は、火に打ち勝つのだ。だからなのか、火による穢祓よりも、水の霊力による穢祓を重視しているのが神道世界でもある。神社の本殿内を歩く時も、右足が決して左足の前をいかないように歩くのも、左である水を重要視しているからなのかもしれない。太陽も月も東から昇るのを考え合わせれば、南に向かって左側である東を重視するのは、相撲世界で東の正横綱が上位であるのや、右大臣よりも左大臣の方が位が上なのと同じだからだ。

その水の霊力を取り入れたであろう遠野七観音の呪法は、どこから来たのか次は考えてみたい。
by dostoev | 2012-02-11 22:32 | 遠野七観音考 | Comments(2)