遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「遠野物語拾遺229(抜け首)」

f0075075_0224773.jpg

昔一日市の某という家の娘は抜け首だという評判であった。ある人が
夜分に鍵町の橋の上まで来ると、若い女の首が落ちていて、ころころ
と転がった。近よれば後にすさり、近寄れば後にすさり、とうとうこ
の娘の家まで来ると、屋根の破窓から中に入ってしまったそうな。

                     「遠野物語拾遺229」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野物語拾遺229」とは別に、遠野に伝わる「抜け首」の話として、下記のようなものがある。


今の新町の裏通り、智恩寺の向かい側に蕎麦屋があったのだが、その
家の女房の首は毎晩抜けて、夜な夜な遠野の町を徘徊したらしい。

いつの間にか、それが遠野中に知れ渡り"抜け首女房のいる蕎麦屋"
と評判を呼び、繁盛したという…。



上記の話は恐らく「遠野物語拾遺229」と同じものだと思う。「遠野物語拾遺229」での鍵町の橋から、知恩寺の向いまで歩いてせいぜい1、2分程度だ。ただ「遠野物語拾遺229」が怪奇譚の様相を示すのに対し、別の伝承では、どことなくカラッと明るい話になっている。それは本来抜け首という話そのものが有り得ない話である為に、大人の間で伝わった話と、子供に話して聞かせ伝えた違いの差なのかもしれない。

次には、何故に抜け首の話が広まったか考えてみたい。
f0075075_024321.jpg

話は少しズレるが、臭いの分子が空中を漂って鼻の粘膜に付着し、その刺激を信号として脳に送って脳に記憶・記録されるという。つまり"ウンコ"をウンコと認識できるのは、いつの間にかウンコの分子が、鼻の粘膜に付着しているからなそうだ(^^;

鼻の粘膜だけでなく、例えば眼の粘膜、舌の粘膜、性器の粘膜などは敏感で、それが永続的に認識されるという。完全に人間に当て嵌まるかどうか定かではないが、鮭が何故に故郷の川に帰って来るのかは、その故郷の川から発せられる情報…土壌の質や無機物、その土地に生える木や藻などの有機物が朽ちて発する臭いの情報が鮭の脳にインプットされるのだという。その臭いと同じに、眼の角膜から入った情報もまた、永続的に脳にインプットされているのだと思う。

何を言いたいのかと言うと、「抜け首」という架空の存在…いわゆる「ろくろ首」と云われる存在は、誰かが独自に創造した妖怪では無くて、日本人の脳にインプットされた情報から創造された妖怪であると考えるからだ。

普通であれば、身体から頭が切断されれば、その時点で人は死ぬ。そういうものを古代人は見、そういう意識を古代から語り継がれ、実際に戦や公開処刑などで、人々は、目の当たりにしてきた筈だ。しかしここで思う、何故に人が死ぬ公開処刑を人々は、見続けて来たのか?

処刑の場合、遠野でもあったが、強制的に処刑を見せた歴史もある。また別に、一人一人罪人の首に"のこ"を引いて、強制的に処刑に参加させられた場合もあるようだ。とにかく日本人もまた、長い歴史の間に、多くの身体と頭を切断されるシーンを見て来た歴史がある。

その斬首という処刑で、ひと際有名なのが伝説と化した、アテルイと平将門の斬首である。どちらも怨霊と化して、頭だけが空中を飛んで行った。それだけ怨みが深いのだ、という事を示すように。

ところで何故に「判官びいき」という言葉が広まったのかというと、反朝廷、反権力と思う人間が大多数を誇っていたからだと思う。関東から東北にかけて菅原道真を祀る天満宮などが多く建立された理由も、朝廷が恐れる存在が、菅原道真であったからだ。これは、西日本にも言える事。つまり全国の大半が、反権力思想を持つ者であった為であろう。


怨みを持って殺された、死んだ人は怨霊となる。これは御霊信仰ともなるのであるが、実際に怨みを抱くのは大抵"それ"を殺された一族であり、民族であると思う。また封建的な専制君主に対するものは、全国民が怨みを持つのは、現代でも続いているのが現状。この前のエジプトの暴動に死神が映った!!!とされるのも、そういう反権力の思想が働き、それを怨霊化させる事によって反政府の行為を正当化しようとする意図が、死神を作り出したのだと思う。

要は、過去のアテルイや平将門の首が斬首された時に、人々の心が怨霊化され、その伝説が日本中を縦断したものと考えてしまう。そして、何故に公開処刑を民衆は見続けて来た歴史があるのかも、それは第二・第三のアテルイや平将門を、人々が脳の一部で期待していたのでは無いか?と考えてしまう。

処刑を見てしまう行為というものは「怖いもの見たさ」なのかもしれない。確かに「怖いもの見たさ」という感覚は人間に潜む感覚で、否定できないもの。しかし処刑を見てしまうという行為の奥にある深層心理には、別の何かがあるのではと考える。西洋でいえば、死んだ後に復活するキリストを意識して、人々は処刑を見て来たのかもしれない。それを日本に当て嵌めれば当然、斬首された後に怨霊となり首だけ飛んで行ったという伝説となったアテルイや平将門に重ねるのは当然のような気がする。つまり西洋では、死後の復活という奇跡を信じたのに対し、日本では斬首の後に怨霊として復活する事に期待した深層心理があったのではなかろうか。

「怖いもの見たさ」と「奇跡を信じる」の根底には、似たようなものが流れているのだと思う。そしてそれには、その処刑される人物の存在が大きいのだろう。

遠野では、女の殿様となった清心尼公時代、現代で言うところの「不倫」をしただけで処刑された。しかしその程度で処刑されても、それは庶民の間では怨霊にはなれなかったろう。中世という時代に、天武天皇の御陵が暴かれ、頭蓋骨が盗まれた事件が起きた。犯人はどうも、その天武天皇の 頭蓋骨を呪術に使用する為、盗み出したようである。

これは呪術に際しての頭蓋骨も、能力を持つ者か聖職者か、血筋が高貴な者でこそ、その呪術が発動されるという定義があったようだ。つまり処刑におけるその後の伝説を作る存在も"そういう存在"ではいけなかったのだろう。

頭と身体を切り離されても怨霊として生きるというものは、アテルイに始まり、平将門でピークに達し人々にインプットされた魂の記憶が時代を経て、後は「化ける=女」という図式に当て嵌められて「ろくろ首」という妖怪が発生したものと考える。

それともう一つ、人々に恐怖をもたらすものに「遠野物語拾遺229」の文に、下記のようなものがある。


「屋根の破窓から中に入ってしまったそうな。」


恐怖心を呼び起こす場合の大抵は、闇である。闇とは、先の見えない状態であり、予測のつかない状況である。理解できないものの前では、人はそこに恐怖するものだ。例えが悪いがキチガイを恐ろしいと感じるのは「何をするかわからない。」からだ。海に潜って、底の見えない海に接した場合も、大抵の人々は怖くなるという。

この「遠野物語拾遺229」での「破窓」とは通常で無い状態。そして恐らくだが、人間の頭だけがどうにか通り抜けられる大きさの破窓だと察する。

例えば日常において、自分が寝る部屋の押し入れの扉に、少しの隙間があった場合。もしくは、窓や窓を覆う筈のカーテンがきちんと閉まっていない場合。そういう時に人は、その奥にあるかもしれない可能性を考えてしまうもの。その可能性とは非現実的なものであり、大抵の場合は恐怖を生み出すモノだと思う。

自分も小学生の頃、恐怖映画を観た後に、カーテンを開けるのが怖い時があった。もしかして、カーテンを開けたら、そこに誰かが立っているんじゃないか!?という恐怖の想像力が、カーテンを開ける勇気を無くしていた。とにかく、見えない場所にこそ恐怖の想像力は広がるもの。

この「遠野物語拾遺229」に表される破窓も、一つの恐怖の出入りする空間であると思う。つまり、その破窓から、もしかして人の顔が出てきたらという恐怖の想像力を醸し出す小道具としての破窓であったと思うし、そういう認識を持っている人が多いという意識もあったのではなかろうか。
by dostoev | 2011-02-28 01:00 | 「遠野物語拾遺考」220話~ | Comments(2)

「遠野物語90(山の怪異譚)」

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松崎村に天狗森と云ふ山あり。其麓なる桑畠にて村の若者何某と云ふ者、
働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畠の畔に腰掛けて居眠りせんと
せしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出で来れり。

若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立
ちはだかりて上より見下すやうになるを面悪く思ひ、思はず立上がりてお前は
どこから来たかと問ふと思ふに何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらん
と思ひ、力自慢のまゝ飛びかゝり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方
が飛ばされて気を失ひたり。

夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず。家に帰りて後人に此事を話
したり。

其秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を苅りに行き、さて
帰らんとする頃になりて此男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の
奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ。

今より、二三十年前のことにて、此時の事をよく知れる老人も今も存在せり。
天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり。

                             「遠野物語90」

f0075075_1081543.jpg

遠野の民俗学者伊能嘉矩は「遠野くさぐさ」において、この「遠野物語90」と、似たような話を紹介している。


【天狗森の山男】


天狗森の麓に、鷲ノ巣といふ一集落あり。昔、山男ありて夜夜此の地の農家を
襲ひ、婦女を掠め去らんとして止まざりければ、家主なる某は剛力もて聞えし
人ゆゑ、一日利器を提げて、退治の為にと天狗森山深く分け入りしに、山上の
一岩角に、件の山男は赧面白髭、悠然ととして憩ひ居たるに出て会へり。其の
威容の尋常ならざるに打たれけん某は、身体すくみて手を出し得で、空しく帰
りしことありき。


【天狗森の山女】


駒木村の豪農、半四郎といふ者の下男、山桑の葉を採らんと志度峠より天狗森
に入りたるに、さる桑林の中にて山女出で来り。珍しき若者よとて之を捕へ去
らんとせしかば、下男も怖ぢず手向ひ、共にしばしの間格闘せしが、山女の力
や勝りけん。下男は斃れて気絶しぬ。

天明の比ほひ露に潤ひて甦り、身を起して見廻はせば、図らざりき、天狗森の
山上に横はれり。軈て、辛うじて山を下り、晴山に出て、夢の如き有りし事ど
も、村民に物語り、後に二三の壮夫と共に前日遭難の桑林の器物が其のまゝ残
しありしも、山女の姿は見えざりし。

幾もなく、下男は大出山にて萩刈りの際、水を飲まんとて谷川に下りし後、返
り来らざりしにぞ。同行の人々跡を尋ぬれば、何者にか咽を喰ひ破られて死し
ありけり。人々先きに見こまれし山女の執念ならんと言ひ合へり。天保初年の
事なりとぞ。

f0075075_10114588.jpg

伊能嘉矩によれば「遠野物語90」とは、いろいろなものが複合されて伝わった物語であると伝えたかったのだろう。【天狗森の山女】の顛末が咽を喰い破られというのは、山女では無く山犬という判断で良いものを、敢えて山女の仕業にしているのも、山の恐ろしいものに山男と山女を筆頭にしたかったのでは?と思ってしまう。

ただ「遠野物語」全般を読んでいると、奇怪な出来事は全て狐狸の類の仕業とされている場合がある。これはそれだけ狐などの神秘性の普及であると思うが、山中においての奇怪な出来事殆どは、山男・山女の縄張りとなっている。そして里から山にかかる範囲は、狐狸の類。こうして怪奇ゾーンをどこかで区切っている精神状態が、里人にはあったのでは無いだろうか。

一連の山での怪奇譚は、山に対する里人の恐れから発生しているものだという事がわかる。つまりそれは、今では車などで簡単に登れる山でも、昔は全て歩いて行くしか無かった。車の中と違い、歩いて行く山道というものは、自然の息吹を直接感じるもの。

例えば夜の山道を歩いていて気付くのは、意外に煩いという事がわかる。鳥などは日中に鳴く鳥から、夜のミミズクやフクロウにバトンタッチされるような気がするけれど、夜でも「ホーホケキョ!」とか「カッコー!」とか、実はかなり鳴いていて煩い。また風が草木を揺らす音の他に、小動物の動く音などが聞こえる。つまりそこには、二足歩行で歩く自分以外の音がひしめく世界だ。

ただたまに自分の歩く足音が妙に反響する場所に遭遇する。山に対する異常心理が働いている場合、この山を歩いているのは自分一人であろうという時に、他の二足歩行の足音が響いた場合、どう感じるであろうか?

「遠野物語90」などの物語が実話では無いものだとしても、古来から伝わる山に対する恐怖から、作り語られてきた怪奇譚である事は、じゅうじゅう納得できるものだ。
by dostoev | 2011-02-27 10:15 | 「遠野物語考」90話~ | Comments(4)

「サク」トイウモノ

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【kanaka提供、富士山上空画像】


ネット上を眺めていると、咲き誇る桜の花を背景に富士山が聳え立つ画像をたまに目にする。静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社には木花咲耶姫が祀られているのだが、一般的に木花咲耶姫は、桜の花と結び付けられている。しかしだ、富士山は桜の名所というわけではない。その浅間大社の由緒はウィキペディアで調べると「社伝によると、第7代孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと伝える。」となっている。浅間大社には御神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されており、春には桜花祭が開催されているようだが、本来は浅間大神が主祭神であり、木花咲耶姫は噴火を鎮める水神として、いつからか習合され主祭神となったようだ。

以前「荒川の道」で書いたように、木花咲耶姫の「木花(コノハナ)」とは「粉の花」でもあり「火粉の花」でもある。また「咲く」は「裂く」でもあり、それを谷川健一は「四天王寺の鷹」において、裂蹴伝説に繋げている。裂蹴伝説とは、湖沼であった処を神が蹴り裂いて水を流し土地を開墾した話で、それから「裂く(サク)」とは開墾の意もあるようだ。

ところで下野国には、室八嶋神社というのがある。八嶋とは釜を意味しているのだが、室の釜で竃の意味であると。その室八嶋神社の祭神は、コノハナサクヤヒメ。火中出産を果たしたので、竃の神と信仰されたようだ。画像は富士山の噴火口だが、噴火口は別名「ホト」とも言い「女陰」を表すのだが、別に「溶鉱炉」も意味する。タタラでホトといえば「炉」であった為、真っ赤な溶岩を噴き出す火山の噴火口が、タタラの炉と結び付けられたのだろう。ところでその溶鉱炉は別に、釜とも言う。

つまり裂蹴伝説が湖沼を開墾したという意味だけでなく、溶鉱炉の中で真っ赤になりドロトドロに溶けた鉄の塊を鋳に流し込む作業も裂蹴伝説に通じるのだと考える。鋳に流し込む場合、真っ赤なドロドロに溶けた鉄は、それこそ火の粉を放つ。つまりこのタタラの作業もまた、コノハナサクヤであろう。それ故に、木花咲耶姫が何故に富士山に祀られたのかと考える場合、やはり富士山の噴火に伴って流れだした真っ赤な溶岩の流れから木花咲耶姫に結び付けられたものが本来では無かったかと考える。

木花咲耶姫に使用される「咲く」は、蕾を裂いて花が咲くのだから、やはり「咲く」と「裂く」は同義だとわかる。ところで「サク」が「裂く」であり思い出すのが「佐久奈太理(サクナダリ)」という言葉だ。この「サクナダリ」とは「滝」を意味する。また滝とは「水に潜む竜」を意味するという。ここでもう一つ気になるのが「汝」という言葉だ。出雲の主である大己貴命は、大汝命とも書き表される。松前健「出雲神話」では、大汝命は山の神の女神としても伝わると述べている。ここで大汝命の「汝」の意味を紐解くと滝と同じように「水に潜む女」の意味でもある。つまりこれを「サクナダリ」に当て嵌めて考えれば、「ダリ」は「垂り」であろうから「裂く汝垂り」とすれば「湖沼を蹴り裂いて垂れる水に潜む女」の意となり、滝の女神の意味になる。つまり滋賀県の佐久奈度神社は滝を意味する「佐久奈太理(サクナダリ)」から来ており、滝の女神である瀬織津比咩を祀るのは当然の事であろう。
by dostoev | 2011-02-26 03:56 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「ちはやふる」トイウモノ

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漫画「ちはやふる」を読んで、まず思った事。競技かるたとは、単なる百人一首じゃなく、自分には出来ないと悟った事…(^^;

漫画「ちはやふる」の11巻に「ちはやふる」という言葉が綺麗に表現されていた。「千早振る」と「荒振る」とを対で考えるという説を紹介し、「荒振る」が悪い神の力なら「千早振る」は正しい神の力であり、どちらも勢いの強さを表してはいるが、その性質はまったく違うと。「荒振る」がバランスの悪い不安定なグラグラな回転の独楽だとするなら、「千早振る」は、高速回転するまっすぐな軸の独楽であり、何が触れても弾き返される安定した世界で、まるで止まっているように見えながら前後左右上下、どこにも偏りが無く力が集中している状態であると。つまり「荒振る」が怒りにまかせて回っている独楽で、「千早振る」は、邪心の無い物事に対して一点に集中している研ぎ澄まされた状態と思っていいのだろう。

学研「禅の本」には、弓聖と称えられた阿波研造を紹介している。ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが、この弓聖である阿波研造に師事したという。阿波研造がヘリゲルに求めたのは、的に当てる事では無く、矢の方が勝手に当っていく、そのような射であったと。その極意を見せる為に阿波研造は、数十メートル先の的が見えない夜の暗い弓道場で、その的の前に蚊取り線香を立てて無言で矢を二本射たと。すると一本は的の中央に当たり、もう一本は先に射た矢筈に当たって、先の矢を真っ二つに引き裂いていたという。この後に阿波研造がヘリゲルに対して言った言葉が紹介されてある。


「私は的が次第にぼやけて見えるほど眼を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になる事を意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在る事になる。矢は中心から出て中心に入るのである。それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなた自身と仏陀と的を同時に射当てます。」

禅であるから、これぞまさしく無我の境地であろう。いわゆる仏教思想であるが、「千早振る」とは、一つの神を示す言葉であるが、これは共通する意味を有しているのだと感じた。つまりこの阿波研造邪が放つ矢とは邪な心で放つ「荒振る矢」では無く、純粋に研ぎ澄まされた真理を貫く「千早振る矢」であるのだと。

漫画では、主人公がその「千早振る」という真の意味に何かを感じ取って、今後の展開となるようだが、多分この弓聖である阿波研造の境地にまで行き着く展開になるのだろうか?…と言っても、殆ど悟りの境地で誰でも簡単には行き着けない境地であるのだが…。

この「ちはやふる」に描かれている競技かるたという世界は、まず歌を詠み理解するという言霊の世界観をうたっており、そして眼前に置かれた下の句の歌のかるたを、まるで"千早振る神"のように取り去る競技でもある。簡単に百人一首かるたの競技系か?と思っていた自分を嘲笑うかのような、烈しくも奥の深い競技であったのを理解したが…興味を持ったので、一度はトライしてみたいものだ(^^;
by dostoev | 2011-02-23 02:05 | 「トイウモノ」考 | Comments(6)

「遠野物語109(風の神)」

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盆の頃には雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐に送り
行きて立つ。紙にて顔を描き瓜にて陰陽の形を作り添へなどす。虫祭の
藁人形にはかゝることは無く其形も小さし。雨風祭の折は一部落の中に
て頭屋を択び定め、里人集りて酒を飲みて後、一同笛太鼓にて之を道の
辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。之
を高く吹く。さて其折の歌は『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭
る、北の方さ祭る』と云ふ。

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「遠野物語」の補注には「雨風祭は本来、二百十日(陽暦九月一日頃)に行われる雨風鎮めの共同祈願である。」という。別称として「風祭・風日待・風神祭」と云い、基本的には風神に対する祭であったのに、後から虫祭の習俗が重なっ伝わっているようだ。伊能嘉矩「遠野の民俗と歴史」によれば、伊能嘉矩はこの祭を広瀬竜田祭と同じであるとしている。

「大忌風神の祭といふ是なり、風水の難を除きて、年穀の豊なる事を祈申さるゝにや。」


また伊能嘉矩は、大忌風神祭、道饗祭、御霊絵、即ち辻祭に関する観念が混同の姿をもって奥州に伝えられ、それには風雨の厄と鬼疫の禍が結び付けられていると説いている。

風の神が農業神というのは後の一般的なもので、原初の風の神とはタタラに関しての神であったよう。これは風の神だけでなく「古事記」などを読むと大抵の神は"鉄"に関するものが多い。神社や密教系の寺社などの大抵も、鉄に関係するもの。つまり鉱山開発や製鉄に関する前線基地が神社や寺社であったようだ。

別に紹介した南部氏の「えんぶり」も、表向きは豊作祈願であっても、本当のところは製鉄に関する行事であるのだと思う。こうして製鉄に関するものが後から、農事を重ねて隠されてきたものが殆どのような気がする。まあ隠したというよりも、百姓たちに農作業を推奨する場合「この神を祀りなさい」と指導してきたものだと思う。つまり神には、製鉄に関する面と農作業に関する二面性があるものだと思う。ただし日本国の絶対多数は農作業に従事する為、為政者が「金」を求めつつ「作物」も求める為に、神の性質の表向きは絶対多数の農作業に関するものを出しているのだと思う。

遠野の民俗を調べるとやはり「早池峰」の「ハヤチ」は風の意味を持ち、東北ではヤマセという冷たい風が吹くと困るので、早池峰に対し風鎮めの祈願をする。しかし早池峰神社には、鉄を模った絵馬があるように、産鉄を祈願して出来た神社でもあったようだ。

面白いものに陸前高田の宝竜神社は雨風を司る神社でもある為、農民は雨風が吹かないように祈願するのだが、漁民は雨風が吹くように祈願する。農民・漁民どちらにも崇敬されている神社であるようだが、この宝竜神社の宝竜とは「ヒリュウ」から来ており、飛龍権現である那智の滝神であるよう。早池峰の瀬織津比咩は那智の滝神でもあるように、やはり早池峰と同じく風を司る。それは本来属性が竜であるから、風神である竜田の風の神と同義であり、竜田の風神は、大忌風神であるから穢れ払いの神でもあるのは、瀬織津比咩と性質を同じくする。

「遠野物語109」に紹介されている歌『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る』での「北の方さ祭る」というのは早池峰を意識してのものであって、早池峰に祀られている瀬織津比咩という神の性質は龍の性質を持つ為に、当然「雨・風」を司る神でもある。

風は農事においては忌み嫌われるが、遠野の綾織地方の風俗に稲刈りを終えたら夜に口笛を吹くというものがある。これは稲刈りにより田畑が汚れたので、それを綺麗にする為、つまり清める為に敢えて口笛を吹いて忌み穢し、早池峰の神に風を吹かせる行為である。風というものをタタラ筋や漁民゛好むのだが、農民もまたこうして風の神でもある早池峰の神を、上手に利用してきたようだ。

また伊能嘉矩はこの風俗が奥州に運ばれてきたと述べているが、奥州に根付く風俗の殆どは、北陸経由が普通であった。その大半は、羽黒修験が運んできたものであり、古来においては越の国経由であったよう。

風の神として有名なのは龍田の神に諏訪の神であるが、これに加えて弥彦神と気比神となる。気比神は、神功皇后で有名となり、その神功皇后は出羽の国にも伝説がある為に、古代に蝦夷国と繋がる何かがあったのかもしれない。また弥彦神はヤサブロバサの伝承でもわかるように、遠野の「サムトの婆」に、影響を与えた可能性はある。またキャシャの伝説からも越の国との繋がり、伝播ルートは否定できないものだと考える。

話は脱線するが、気比神と応神天皇の名前交換は有名な話である。その応神天皇の母と呼ばれる神功皇后出生地は、近江国の坂田郡だと云われている。その近江国には三大神社が鎮座し、風の神である級長津彦命と級長津姫命が祀られている。実は級長津彦命と級長津姫命は、息長宿禰王、高額比賣とも呼ばれ、二人の間にこの地で生まれた女子が息長帯比賣命、つまり神功皇后であり、神功皇后とは"風の神の子供"でもあった。

その風の神の子供でもある神功皇后が、何故に気比神宮まて行って参詣するのか。ここで推測するに、大元の風の神が本来、気比神では無かったのだろうか?

「日本書紀」神功皇后13年に、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝したとあるが、気比神宮の奥宮である常宮神社というのがある。その神社の由緒に「仲哀天皇即位2年に天皇・皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり、気比の行宮を営み給うた。」とあり、また「神功皇后は2月より6月まで此の常宮に留まり給い、6月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再開あそばせ給うた。」とある。

また気比神宮の奥宮である常宮神社の由緒によれば、神功皇后には二人の御子がいたとされる。応神天皇とされる誉田別命は有名だが「日本書紀」によれば、大酒主の娘、弟媛の子であるとされる誉屋別命が、実は神功皇后の御子であるという。「日本書紀」においては、ただ一か所記されている誉屋別命であるから、早くに亡くなったものだと云われている。

もしもこの誉屋別命が神功皇后の御子であり、早くに死んだとするならば、常宮神社に籠ったとされる神功皇后は、その悲しみの果ての行為であったのかもしれない。

ところで気比神の気比(けひ)とは、ウィキペディアなどによれば「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようであるとされている。しかしここでもう一つの「けひ」を考えてみたい。それは「誓約(うけひ)」の「けひ」では無かったのか?という事だ。例えば、気比神宮には「御誓祭(みちかいまつり)」というのがある。誓いとは、いわば誓約(うけひ)だ。

「誓祭 旧暦二月六日 社記伝仲哀天皇御字二年二月六日此地ニ行宮ヲ興テ
居之同日自ラ笥飯大神ヲ拝参シ玉ヒ反賊退治ノ事ヲ祈リ且ツ天皇深ク此地ヲ
愛慕シ玉フヲ以テ永ク皇居ヲ此地ニ定メ玉ハントノニ事ヲ誓ヒ玉ヘリ故ニ本
日神事ヲ修業シ号ケテ誓祭と伝」(敦賀郡神社誌)



これは神功皇后が、此の地に逃げ延び離れたくないというのを仲哀天皇が、それではこの地に皇居を持ってこようという気持ちの表れの誓いであり、つまりこれほどまでに仲哀天皇は、神功皇后を愛していたのだという証であった。また神功皇后自身も、この地に来たのは何かの誓いをもってきたのかもしれない。それは、名前だと考える。

名前とは霊魂に付けられるもので、人間の生存にとっては極めて重要なものと考えられていたようだ。特に生れたての子供はいつ他界に引き込まれるかわからない為に、すぐに名前を付けなければならなかったようだ。また名前を付ける人も重要であり、両親や祖父母だけでなく、村の長老や神官・僧侶・産婆などが付ける場合もままあった。

そしてまた家長を相続するものは代々、同じ漢字を一つ付けるというものがある。それは"その後を継ぐ"という意志の表れでもあった。しかし後を継いだ者が亡くなると、次の者が名を継ぐ。そして亡くなった者の名は返され、そして正式な名前である諱(いみな)が公然と知られるようになる。しかし死んだ者が成人を迎える前であった場合、幼名ならば、あくまでも幼名で終わってしまう。

ここで考えられるのは、気比神宮の奥宮に籠った神功皇后は、死んだ誉屋別命の名を一旦気比大神に預け、次の子である誉田別命が成人するまで仮の名として神の名である伊奢沙和気という名を借りたのではと考える。恐らく神功皇后は「記紀」によれば、神懸りの場面が度々ある事から幼少時から頻繁に神懸りする女性では無かったのだろうか。つまり神に仕える身であるから、身籠った我が子の名はやはり信仰する神から授かったものだと思う。その我が子である長男であろう誉屋別命が死に、次の子供が"強くあるように"一旦、神の名を借りたのだと思う。誉屋別命と誉田別命と一字違うのは、次男である誉田別命が長男の意志を継いだという意味にも考えられる。そしてそこには、神と神功皇后の間で、何かの誓約があったのではなかろうか?成人したからこそ、気比大神と名前を交換したのは、一旦借りていた名前を気比神に反し、兄である名前の一字を継いで"誉田別命"と名乗ったのだと考えてしまう。

だからこそ誉田別命が成人される頃、武内宿禰を伴い、若狭国の気比神を参詣した。そして若狭から戻ると、祝の宴が用意されており、そこで神功皇后は御神酒を勧め、御歌を賜った。


  
  この神酒は吾が神酒ならず。  

  酒の司、常世にいます 石立たす 少御神の

  豊祷ぎ祷ぎもとほし、神祷ぎ祷ぎくるほし、

  祭り来し神酒ぞ。乾さず食せ。ささ


この歌は、今は亡き常世にいる兄と共に成人の祝いを歌ったものと考えてしまう。

ところで仲哀天皇が倒れた後、神功皇后の活躍により応神天皇の時代になり変わった事がある。実は崇神朝となって以来、ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていない。また間の雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない。

ここで気になるのはやはり、神功皇后が気比神と誓約をしたとしたなら、どういう誓約をしたのかだ。憶測になるが、日高見国との誓約があったのではと考える。気になる伝承に、応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したというものがある。つまりこれを日高見国である蝦夷から贈られた馬であるならば納得するのだ。つまり神功皇后と蝦夷との間で気比大神を通して誓約があり、崇神天皇時代から続いていた日高見国の侵略をやめるというものではなかったのか?

「日本書紀」には「応神冬10月」に「伊豆國に科て、船を造らしむ。長さ十丈…。」とある。この伊豆という地域は当時、東国であり、蝦夷の国でもあった。突然に造船を蝦夷の国に頼む筈が無い。つまりそれ以前から、蝦夷の国との交流があったからこそだと思う。となれば、神功皇后の三韓征伐においては、大船団を組んだ。その造船には当然、蝦夷の国との交流があり、その船は蝦夷の国で造られたものではなかったのか?と考えてしまう。

気比(けひ)を誓約(うけひ)では無いかと書いたけれど、例えば日本には略する言葉というのがあって、こういう考えに至った。例えば彌彦神社は「やひこ神社」と呼ばれるが、本来は「いやひこ神社」であるよう。れは例えば「イヤダ!」が「ヤダ!」という省略形か?などと思ってみたり。頭が省略される言葉は、いくつか思い当たるので、もしかして「気比」も本来は「誓約」から来ているのではという思いつきでもあった。
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とにかく気比神の姿がよくわからない。本来は伊奢沙別命であるとされているが、この伊奢沙別命(いざさわけ)の名前の説に天日矛が朝廷に献上した宝物の中に胆狭浅(いささ)太刀から名付けられたという説があり、となればやはり鉄に関する神でもある為、タタラに通じる風の神とも結び付く。

また気比神宮の祭に男神である気比神宮の神が、女神である常宮神社の神に船を乗り継いで逢いに行く、総参祭というのがある。気比神宮の奥宮である常宮神社に古くから祀られる神は、天八百萬比咩(あめのやおよろずひめのみこと)になっているが現在は、神功皇后に逢いに行く祭として定着しているようだ。ただし写真で見る限り、この総参祭というものは宗像の「みあれ祭」のようでもある。宗像のみあれ祭でも本来は、白い布な゛をたなびかせて海を渡るといもの。実はこの白い布であり、白い紙が神を依り憑かせるものでもある。

画像は、遠野の雨風祭の人形だが、人形の周りに沢山の白い紙がたなびいているのもまた、神を依り憑かせる為のものであるからだ。こういう布や紙を掲げるとうものは、あくまで風を意識してのものである。つまり風が吹いてこその、雨風祭の人形である。

つまり気比神宮から船に乗って女神に逢いに行くという行為とは、船で進む事によって受ける風を白い布に依り憑かせるというもので、気比神宮の奥宮である常宮神社に坐す天八百萬比咩は、養蚕の神でありながら、海の神、風の神でもあるのだろう。
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神功皇后にまつわる伝承の多くには、船に乗ってのものが多い。船を操る海洋民にとって、風は大きな意味を持つ。九州に伝わる傀儡舞の舞には、霊鎮めが篭っているというのは、ひとえに風の霊を鎮めるというものも含まれているのだろう。海洋民においても、農民にとっても、悪しき風は鎮めなければならないからだ。しかしまた逆に風を自在に操るのは海洋民で無くてはならない。

細男舞、もしくは磯良舞と呼ばれるものがある。安曇磯良神が神功皇后三韓征伐の折に、その水先案内に立ち、海中より浮き上がった時に舞ったと伝えられる舞が、磯良舞であり、細男舞だ。これはやはり、風に関係する舞であったのだろう。

そして気になるのが「神功皇后が天皇に神威を垂れ給うた神の名を請はれると先ず”神風の伊勢の国の、折鈴の五十鈴宮に居る神、撞賢木厳之御霊天疎向津媛命”…以下の神名が告げられ、最後に”日向国橘小門の水底にゐて、水葉も雅やかに出でゐる神、名は表筒男・中筒男・底筒男神有す”」とある。ここでも神功皇后は、風の神を意識している。この撞賢木厳之御霊天疎向津媛命と気比神が結び付くのかはわからないが、神功皇后の生れた地は気比神の信仰圏内であり、神功皇后自身が気比神宮の奥宮に籠るというのは、それ相応の思い入れがあったのだろう。その風の神でもある気比神をさて置いて、撞賢木厳之御霊天疎向津媛命の名前を筆頭に呼ぶというのは、同神の可能性もあるのではなかろうか?これら風の神が、遠野まで伝えられ雨風祭として定着したものと考える。
by dostoev | 2011-02-21 19:02 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(2)

遠野不思議 第六百七十一話「氷筍」

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「氷筍(ひょうじゅん)」とはよく言ったものでも確かに「氷」で出来た「筍」が、地面からニョキニョキと生えているよう。自然に出来る氷の造形は、予想だにしないもので、変わった氷の造形を見つけるのもまた、冬の楽しみでもある。
by dostoev | 2011-02-19 10:15 | 遠野不思議(自然) | Comments(2)

「遠野物語24(南部氏)」

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村々の旧家を大同と云ふは、大同元年に甲斐国より移り来たる
家なればかく云ふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代な
り。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざるか。

                    「遠野物語24」

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南部氏は、各地の伝承をまめて南部氏に有利になるよう改竄した疑いがあり、それが大川善男「遠野の社寺由緒考」でわかりました。遠野の歴史と伝承の真実は、本当のところはよくわからないというのが現状です。つまり、この南部氏が曲者である。

奥州藤原氏が滅ぼされ、今の青森県の殆どは北条氏の所領となった。しかし何故か、その青森の一部である糠部と呼ばれる八戸地域に南部氏が進出した。建久二年(1191年)、源頼朝から糠部郡を賜った甲斐国の南部光行が、由比ヶ浜を出港し八戸港に到着したと云われる。

南部氏は、清和源氏系で、新羅三郎義光(源三郎義光)を祖先とし、その出身地は、金山に囲まれた富士の裾野であったよう。新羅三郎義光は、安倍貞任と戦った源頼義の三男で、甲斐源氏の祖となった。新羅という名からわかるように、義光が崇拝したのは新羅明神だった。義光が元服する際、わざわざ滋賀県大津の園城寺(三井寺)の新羅明神堂の前で新羅義光と自ら名乗ったとされている程、新羅明神を崇拝していたようだ。

新羅明神は、天台宗の円珍を海路において嵐から救ったとされ、その新羅明神の導きで円珍は貞観元年(859年)三井寺に至ったとされている。この新羅明神は別に"鉄"を意味するとも云われているようだ。確かに南部氏は遠野においても鉱山の開発を手掛けており、伊達氏ととの金山争いは有名な話となっている。古来「金」は「きん」と呼ばず「かね」であって、「黄金=金」「白金=銀」「赤金=堂」「黒金=鉄」「青金→鉛」と認識されていた。それらの総称として「金」と呼んでいたに過ぎない。その金の開発と結び付く信仰に、妙見信仰があった。蝦夷をしきりに攻め立てた桓武天皇も、妙見信仰を崇拝し、この妙見信仰を民が信仰するのを禁じたのも桓武天皇だった。それだけ重要だった妙見信仰は、やはり「金」と結び付いていたせいなのだと思う。

その妙見信仰を南部氏も崇拝していたのは、家紋を見れば理解できる。一般的に南部氏の家紋は「向い鶴」であり、上の画像を見れば、その向い鶴の胸には、小さいながら九曜紋が刻まれている。これから南部氏は、新羅明神と共に妙見信仰を崇拝していたのが理解できる。
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八戸地域の長者新羅神社で南部氏が伝える「えんぶり」と云われる正月に行われる"豊作祈願"の行事がある。写真は去年の五月の連休に、鍋倉山にある遠野南部神社の祭に駆けつけた八戸の「えんぶり」である。

鉄に関係が深い新羅神社で、何が"豊作祈願"であろう?恰好も、立烏帽子を被っているというのも、豊作は豊作でも"金"の豊作ではなかろうか?
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示した画像は出雲に伝わる「金屋子神とたたらの図」で、タタラに携わる人間というものは皆、立烏帽子を被る。画像の中で唯一立烏帽子を被っていないのは、飯炊き女だけである。タタラ作業は聖なるるもので、立烏帽子を被って作業するのが習わしでもあったようだ。しかし農作物の豊作を祈願するもので、立烏帽子を被るとは聞いた事が無い。

「えんぶり」とは、農作業の道具「えぶり」から生じたと云われているが、「えぶり」と呼ばれる道具の殆どは、タタラに関係するものが多い。鈴木卓夫「たたら製鉄と日本刀の科学」には、10項目の「タタラえぶり」が紹介されている。「えぶり」とは「柄振り」であり、柄を振る動作からきているようだ。

この南部氏に伝わる「えんぶり」の起源は、甲斐国の南部実長の家来である橘藤九郎守国から始められたとされているが、刀匠の多くは名前に「国」が付く事から、この橘藤九郎守国も本来、刀鍛冶に携わる人間では無かったのだろうか?

タタラ製鉄の技法は門外不出の重要機密であり、それを知る為に伊達藩が、遠野の南部の経営する上郷町の佐比内鉱山にスパイを放った話「喜助沢」が伝わっている程、藩の生命がかかっていたのが製鉄の技術であっように、簡単にタタラに関するものを表には出せない。しかるにその文化の一つを"豊作祈願"と称して祭の一つに組み入れる事は、南部氏が世間を欺く行為であったのだろう。歴史を改竄し捏造した南部氏は、どうも強かな一族であったようだ。
by dostoev | 2011-02-18 03:49 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺242(子供と鏡)」

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生子の枕もとには必ず刃物を置かねばならぬ。
そうせぬと、独りきりでおく様な時に、生子
の肌の穴から魔がさすという。

やや大きくなってからは、嬰児に鏡を見せる
と魔がさすといって忌む。

                     「遠野物語拾遺242」

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刃物といえば、今でも遠野の風習として残っているものに、死体の入った棺に刃物を置くというもの。まあこれも実際に行っているのは、ほぼ無いと云われているが、一部ではまだあると云う。自分は直接見た事は無いが…。

この棺に刃物は、やはり魔物に死体を奪われない為にというものであり、それに該当する物の怪は「キャシャ」という化け猫とも云われる。剣には破邪の能力があるとされるが、剣というか日本刀などを持っているのは武士などに限られる為、ここでの刃物とは鎌だと思う。長野県では風除けに鎌を使用するようであるのは、風もまた魔物が起すものと考えられていたようだ。とにかく刃物は、魔を寄せ付けないものと考えられていたのだと思う。ただし「赤子の肌から魔がさす」というのは、やはり生れたての子供は人間となっていないから…となるのだろうか?

ところで子供とは7歳になるまでは神の子だと云われ、大事に扱われる。これが7歳になるとやっと人間の子となって、逆に下の兄弟の面倒を見させられる事になったりして、子供にとっては7歳になるというのは厄介だという事になるのだろう。天神様の歌に「この子の七つのお祝いに…。」と喜んでいるのは「やっと人間の子になれた!」に加え「やっと"こき使える"!」というのを含んでいるのかもしれない(^^;

1歳になると一升餅を背負わせる風俗が全国にある。1歳になって一升餅を背負って転ばないといけないというのは、近藤直也「鬼子論序説」に詳しく書かれている。これはつまり、子供というものは昔、一歳になっても普通は歩けないものだった。しかしそれでも歩く子供がいたのならば、それは人間の子供では無く、鬼の子であるとされたようだ。そうして鬼子となった子供は、間引きされたという。なのでせっかく産んだ子を生かして置きたい為に、是が非でも転ばさせなければならない。だから一升餅を背負わし、それでも歩くなら、二升餅にし、それでも歩くなら後から押して倒したという。とにかく本来は「鬼子」を見分ける方法が、1歳で歩くかどうかだったようだ。ちなみに茨城童子などは1歳で歩いた為に、やはり鬼となったという伝承がある。こういう伝承が風評となって全国に広がったのだろう。

とにかく子供は7歳になるまで、人間では無く、神か魔の領域に存在するものであったようだ。だから、生れた赤ん坊の傍に刃物を置いたのだと考える。

また、鏡を見せると魔がさすとあるが、鏡そのものには人の魂を取り込んで異界に導くという力も備わっているという。恐らく、鏡の中の世界は無限の広がりを持つので、それが不安を導くのだと思う。よく砂漠に暫く放置されると、夜の砂漠は無限の宇宙が広がり、大地と空の感覚を失わさせ、空間恐怖症になるというものに近いのかもしれない。

また目で見えないものが鏡を通す事により見えるのでは?という不安要素が鏡にはある。元々鏡には、真の姿を映し出す能力があると昔から思われており、それは九尾の狐の姿を見破った照魔鏡の力が延々と伝わっているのかもしれないし、昔のドラキュラ映画に…例えばロマン・ポランスキーの映画「吸血鬼」では、吸血鬼のダンスパーティー会場に鏡が置かれており、主人公達以外は逆に姿が映っていなかったという、鏡がそういう能力を持っているという意識が、古今東西未だに人間の意識に刻まれているからなのかもしれない。

そういう鏡の能力が逆に不安要素となって、鳥山石燕の「雲外鏡」という妖怪を作ったのかもしれない。だから7歳に満たない子供と鏡のセットで魔がさすという考えに至るのは、何となく理解できる。
by dostoev | 2011-02-17 03:41 | 「遠野物語拾遺考」240話~ | Comments(4)

「遠野物語拾遺267(飯豊)」

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戦争場とは昔この村にあった臼館と飯豊館との主人達が互いに
戦った処であると伝えられており、真夜中になると、戦う軍馬や
人の叫びなどが時々聞こえたといわれている。

                                「遠野物語拾遺267」

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遠野に、飯豊という地名がある。以前は簡単に「豊かな飯」と思っていて、田舎らしい地名だと勝手に思っていた。しかしだ、飯豊という地名を調べると、避けて通れない人物として飯豊皇女がいる。ここで飯豊皇女の細かなプロフィールを書くつもりは無いが、渡辺豊和「扶桑国王蘇我一族の真実」では元々近江に住んでいたのが、追われて越国に逃げ延びた推論を述べている。ただし「扶桑国王蘇我一族の真実」は、著者の自分勝手な推論が多く、胡散臭さも目に付く。ただし興味深い視点からの推論もままある為に、興味は持てる本でもあった。

ところで「飯豊」は「イイトヨ」「イイドヨ」が東北では訛って「イイデ」となっているようだ。また古語で「イイトヨ」は「フクロウ」を意味する。

飯豊皇女は青海皇女とも言われ、福島県から越国にまたがる飯豊山連邦があり、飯豊皇女はそこに物部臣を使わして幣帛を奉納させたので、飯豊山となったという。この地名としての飯豊という名は、何故か東北と北陸地方にしかなく、やはり飯豊には意味があるのだと考える。ただ地名として"飯豊"と名付けられるのは伝説だけが伝わったのでは無く、伝説を伝える人間が移り住み、定着してこそのものだ。つまり東北・北陸にある飯豊という地名は、それを伝え移り住んだ者が名付けたのだと考える。それは当然、遠野の「飯豊」もそうであろう。

「遠野物語拾遺267」を読むと、臼館と飯豊館の主人が争ったとされている。この物語に登場する飯豊館とは「花館」もしくは「鼻館」と呼ばれるものだろう。近接した花館と臼館が戦をするとは、境界争いでもあったのだろうか?と考えてしまうが、ここでもう一度振り返って考えたいのは、物部臣が飯豊皇女の手足となって東北に赴いたという事だ。物部氏が蘇我氏の戦いに敗れて秋田に落去した後も、戦の度ごとに朝廷側に付いたのは、未だに中央である朝廷の中に立つ夢を抱いていたのは「秋田物部文書」に書かれている。これを遠野に当て嵌めれば、例えば前九年の役において安倍一族が朝廷側である源義家との戦いにおいて、もしも飯豊館に物部氏が居付いていたのならば、安倍一族に逆らってまでも朝廷側に付き、近接した臼館との戦を起すのも納得してしまうのだ。

またその陰には、北陸から陸奥にかけて物部氏と強く結び付いていた秦氏の存在もあるのだと思う。飯豊皇女の時代は、雄略天皇没後(479年~)であり、物部氏が蘇我氏に敗れた後(587年~)。そして新羅仏教から任那仏教に転換して用無しとなり追われた秦氏の、桓武天皇時代(737年~)。これらの時代のいずれかの時に、遠野に飯豊という地名をもたらしたのではと考える。飯豊皇女は、巫女としての性質が強かったようであるり、ある意味卑弥呼に近く、ある意味神功皇后に近い存在であった為に崇敬者もいた為に、雄略天皇没後に摂政となり事実上の女帝となったのだろう。その崇敬者の筆頭が、物部氏の関係であったのだろう。つまり飯豊皇女という存在は、物部氏の御神輿みたいなものと考えれば良いのかもしれない。そういう時代に、北陸から陸奥にかけて飯豊という地名が伝えられ定着した。

可能性が高いのは、やはり物部氏が蘇我氏に敗れた後なのかもしれない。それは、飯豊に隣接する地に飛鳥田という地名がある。この飛鳥という地名に関しても、東北にいくつも散らばるのは、やはり物部氏が関係するようだ。つまり遠野の飯豊は隣接する飛鳥田をセットで考える事によって、物部氏の関係がより強く感じるのだ。実際に高瀬遺跡から物部に関する墨書土器が発掘されている為に、物部氏は遠野に住んでいたのがわかっている。その物部氏の痕跡を、墨書土器意外に何を見いだせるのか?と考え浮かび上がるのはやはり飯豊と飛鳥田なのであろう。
by dostoev | 2011-02-16 08:59 | 「遠野物語拾遺考」260話~ | Comments(0)

和泉式部の墓

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日高見(北上)に和泉式部の墓あり。出生が謎の和泉式部の墓が、岩手県北上市にある。謎であるがゆえに、所説入り乱れて、こんな岩手県の果てまで伝説が伝わっているのかとも思うが、以前蝦夷と和歌で書いたように、和歌の発症は蝦夷国の可能性も否定できない為に、和泉式部の出身が岩手県であったもおかしくないのかとも思う。
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「和泉式部日記」を読んでみると、唯一蝦夷国に関わる衣川の関の歌が出て来る。


もろともに たたましものを みちのくの

              衣の関を よそに聞くかな



解説によると、この歌の意は「お別れする事がなければ、御一緒に都を立つ事もできたのでしょうが、今となっては、本来肌身に添うている筈の衣の名を持つ、あの陸奥の衣の関の事も、私とは全く無縁のものとして耳にするようになってしまいました。」これは前夫である橘道貞の陸奥赴任に際し、別れる事が無かったらついて行ったとの嘆きとも取れる。解説では「たたまし(立つ)」が「衣」の縁語「裁つ」にかけられており、また「関」は「塞き」で、塞き止めるものであり、二人の仲を"裁ち塞き止める"衣川の関という表現で使われている。実は和泉式部の「和泉」とは、橘道貞の赴任国「和泉」を使用したと云われるが、実は北上の「泉」という地に重ねた為とも云われるようだ。なので別れた後にでも、陸奥国に赴任した夫との縁が立ち切れた嘆きもあるのだが、もしかして故郷に帰れる縁をも断ち切られた意を含んでいたのかもしれない。
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みるほども散らば散らなん梅の花しづごころなく思ひをこせじ

梅の香におどろかれつゝ春の夜のやみこそ人はあくがらしけれ

春はたゞわが宿にのみ梅咲かばかれにし人も見にときなまし

みるままにしづ枝の梅も散はてぬさも待どをにさく櫻かな


和泉式部には、いくつものむ梅の花を歌ったものがある。梅の花で何故か思い出すのが安倍宗任だ。前九年の役で敗れ降伏した安倍宗任は都に連れて行かれ、そこで都人が安倍宗任に対して梅の花など知るまいと見せたのに対して歌を返したという。


わが国の梅の花とは見たれども 大宮人は何といふらむ

この安倍宗任の言葉によれば、梅の花は東北でも普通に咲く花であり、蝦夷国ではその名前を"梅"と言ったのだろう。自分の住む、山岳地域でもある遠野より、東北本線沿いの平野部では、かなり梅の花が咲く。梅の花に思いを馳せる和泉式部の歌には、どこか蝦夷国を想う気持ちが見え隠れしてならない。また橋姫と瀬織津比咩で書いたように、和泉式部の怨歌はどこか崇敬する神である瀬織津比咩に繋がる気がして、やはり蝦夷国との接点があったのではと考えてしまう。
by dostoev | 2011-02-15 03:02 | 民俗学雑記 | Comments(0)