遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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<   2010年 12月 ( 259 )   > この月の画像一覧

2010年、今年最後の遠野の風景から…。

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今年もいろいろありましたが、毎日多くの人にアクセスしていただき、それが励みとなって、このブログを運営してきました。遠野を調べるにあたって、どうも遠野だけでは収まりきらないのが遠野世界のようで、来年もまた悪戦苦闘しながら遠野世界の歴史や景色を紹介し、このブログ書き続けていきたいと思います。それでは皆様、来年もよろしくお願い致しますm(_ _)m
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ところで去年の12月31日は大雪でしたが…今年の12月31日も、やはり大雪!(^^;


今日の景色を大きい写真で見るなら、不思議空間「遠野」別館
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by dostoev | 2010-12-31 15:18 | 民宿御伽屋情報 | Comments(0)

荒神様とは?

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遠野の観光スポットとして有名な、中沢という地の田んぼの中に、荒神様の御堂がある。荒神様は「アラガミサマ」と呼ぶ。これがもしも「コウジンサマ」と読むのなら竈の神となる。「ものがたり青笹」によると、ある地に大きな杉の木があり荒神様が夢に現れ「ここに住みたい!」と切望し、現在の地に御堂を建てて祀ったという。

以前「荒(アラ)」は山伏用語で「砂鉄」に通じる事を書いたが宝賀寿男「神功皇后と天日矛の伝承」によれば、近江の各地で「荒神」といえば「安羅・阿那」であり、穴師や兵主神に繋がり、それはスサノヲに通じるとある。そのスサノヲは天日矛と同族神と捉え、神功皇后にも繋がると記されている。遠野には近江商人が移り住み開拓したという話も多い事から、近江からの荒神を祀ったとも考えられるが、ここでこれらを詳しく言及しようとは思わない。ただ荒神様の御堂が、何故に東を向いているのかを考えてみたい。
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神社や御堂を建てる場合は大抵、南に向けて建てるのだが、立地的に叶わないのなら東に向けて建てると宮大工の棟梁から聞いた。この荒神様は東に向けて建てられているのだが、広い田園地帯である為に立地的な問題は無く、南に向けて建てても良いのである。それを敢えて東に向けて建ててるというのには、何か理由があったのだと思う。

この中沢の荒神様は、ある地に祀られていた権現様の耳の片方を食いちぎった伝承がある。「遠野物語」においても、瀬織津比咩を祀る新山神社の権現様が、八幡の権現様の片耳を食いちぎった話もある事から"荒ぶる"荒神様である事は確かだ。"荒ぶる神"として有名なのはスサノヲがいるのだが、スサノヲと荒神様は「荒」が砂鉄などの鉄に関する共通点がある。スサノヲが鉄に関係するというのは、スサノヲがヤマタノオロチ退治をして、その尻尾から草薙剣を取りだしたのが、製鉄に関する伝承であるという一般的な見解からだ。

ところで何故に荒神様は東を向いているのかだが、これは本来六角牛山へ向けているのでは?と思う。正確にこの御堂の向きは六角牛の山に対して向きが微妙にズレているのだが、南へ向けずわざわざ東に向けた理由が他には思い当たらない。つまり荒神様の御堂は、六角牛と対坐する形を意識して建てられたのだと思う。青笹町周囲の御堂を見渡し、やはり東に向けて建てられている社に、オオナムチを祀る社がある。ここは六角牛の語源にも登場する大八幡の傍であるから、基本的には六角牛の威光が届いている地域でもある。六角牛にはスクナビコナが祀られているので、それに対坐する形でオオナムチが祀られているのだと察するが、中沢の荒神様は、何に対坐しているのだろうか?
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千葉正吾著「六角牛山物語」では、六角牛山の原初の形が記されている。大同元年(806年)住吉神宮、不動明王の二社を山麓に祀るとあり、神体は坂上田村麻呂より授与されたものだとなっている。六角牛大権現が後に祀られた為、それから山名が「六角牛山」となったのであり、本来は住吉神を祀る山であったようだ。ただし、その当時の山の呼び名は不明である。しかし、かなりの古い時代に一直線に連なる五葉山・六角牛山・早池峯山は、沿岸地域の三山とされており、その信仰の形を解き明かせば、本来の六角牛山の形が見えて来るかもしれない。

ここで気になるのが、当初は「住吉神宮」となっている事だ。ウィキペディアによれば「神宮(じんぐう)は、社号として神宮号を名乗る神社である。天皇や皇室祖先神を祭神とする規模の大きな神社が多い。」とある。たかが村社レベルで"神宮"を名乗れる筈が無い。また住吉を祀っていた社は、不動の滝がある少し下にあったとある。つまり以前あった「大瀧神社」の下に「住吉神」を祀っていた事がわかった。つまりだ、六角牛の原初的な信仰が住吉神と不動明王であり、それらの神は、不動の滝から始まったものと考えても良いのだろう。そして上座に位置したのは不動明王であり、下座には住吉神であったという事実だ。

気になるのが「住吉神宮」という名称だ。とにかく"神宮"を名乗るという事は、有り得ない。ただ住吉神で思い出すのは、神功皇后(じんぐうこうごう)である。現在の六神石神社にも神功皇后は祀られているのだが、原初の住吉神宮というものは、実は住吉神と神功皇后を含めての名称では無かったのだろうか?

対坐する形で思い出すのは、東和町の大瀧神社には、天照大神と瀬織津比咩が対坐する形で祀られている。また遠野の来内地域にあった伝説の天台宗の寺であった積善寺は、滝を本尊とし不動明王が祀られており、その対坐する方向には太平山があり、そこには天照大神が鎮座していた。瀬織津比咩は天照大神の荒魂とされている為、対坐という形には何等かの意図が含まれているのだろう。中沢の荒神様は時代的に六角牛山に住吉神が祀られたかなり後に祀られたのであろうが、そこには何等かの意図があってのものだろうと思う。つまり形として、六角牛に祀られる神に関係する相対する存在としての神であり、権現であったのだろう。それはやはり鉄に関するものであり、鉄の荒ぶる神であるとするならば、やはりスサノヲ以外に考えられないのかもしれない。これに関しては、来年の宿題としよう。

*  画像の権現様は、実際に荒神様の御堂に祀られているものであるがレプリカであり、本物の権現様は別当の家で祀られている。
by dostoev | 2010-12-31 07:01 | 民俗学雑記 | Comments(0)

冬の夜の荒神様

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ここは田園地帯でもあるので、風がまともに当たって…凄く寒かった…。今回は約1分間の露光をしての写真ですが、雲の流れを見ると、風があるのがわかる筈です。明るいレンズであれば露光時間も、今回の半分で済んだものの…。つまり明るいレンズを採用すれば、防寒対策にもなるという事だけれど…今は無理!(TT)
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by dostoev | 2010-12-30 00:11 | 民宿御伽屋情報 | Comments(0)

蝦夷と和歌

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伊能嘉矩「遠野史叢」を読むと、不思議な伝承が紹介されている。猿ヶ石川の語源となる伝承であるのだが、古代の遠野では容貌麗しい14,15歳の少女を官女の教育を施す為に3年の間、和歌などを習わせていたという。その時に、現在でいう岩手県山田町から来た左内という男と、官女候補の清滝姫が恋に落ちての歌が記されている。

【左内と清滝姫の歌】

雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ(左内)

及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし(清滝姫)

かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ(左内)

よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん(清滝姫)



何が不思議かと言うと、一般的に東北はズーズー弁であり、清音では無く濁音が多い。しかしこれはあくまでも声を出して発音する場合なのだろう。言葉が訛っていても、書に記す時は"清音"となるのが普通なのだから。また、田舎と認識する遠野に於いて、官女を養成するなど考えられない。また文化的な和歌を教える地などある筈が無いだろうという先入観もある。しかしここで思い出したのは、安倍貞任が衣川の戦いに於いて敗走する安倍貞任を、源義家が馬で追いながら歌を投げつけたシーンだ。


「衣のたて(館)はほころびにけり」


と歌の下の句を貞任に投げつけたところ、安倍貞任は振り返り、にっこり笑い上の句を返した。


「年を経し糸の乱れの苦しさに」    


義家は貞任の返歌を聞いて、唖然としつつも感動したという。当時の蝦夷は、無知で卑しいというイメージがあったのが、この返歌により払拭されたのだった。ところでだ、言葉の統一は明治時代になってからだ。それも学校教育が徹底され、ラジオ放送が普及してやっとだ。現代においても、訛りが酷い場合、まったく理解できないのだが、不思議に手紙や…今であれば、メールで言葉を伝える事かができる。また訛りが酷い人間がカラオケで普及している歌を歌ったとして、そこには訛りは介在しない。つまり古代において和歌とは、そういうものではなかったのか?

今から100年以上前、会津と薩摩が同盟しようとしたが、言葉が通じない為に和歌を通して会話したという逸話がある。筆談でも出来たであろうが、確かに和歌の方が手っ取り早い。ただし、和歌の教養が無ければ出来ない事であった。

話しを貞任の時代に戻すが、何故に安倍貞任は和歌の教養があったのかという事だ。源義家は、日本の中央から…つまりある意味"都会"から来たという自負があり、その都会で受けた教養に、田舎者は答える事が出来ないだろうと思っていたに違いない。しかし、貞任は答えたのだが、それは何故か?

ここで少し前に書いた「大和国のアイヌ語」を思い出した。応神天皇の時代、吾君(アギ)という言葉がアイヌ語を通して、やっと理解できたと云う話だ。

この応神天皇であるが、気になる伝説がある。応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したという伝説だ。しかし、この8頭の馬が、どこから贈られてきたのかわからない。ここに騎馬王朝説が被るのであるが、それは無理と言う証明も成されている。ただ、可能性があるならば蝦夷の地から陸路で運ばれ贈られたという事になるだろう。

崇神天皇以来ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていないのは、和平協定があったのではないか?また雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない理由が定かではない。ここで気になるのは、東北の神功皇后伝説だが、ここでは省こう。ただし、神功皇后時代から応神天皇の時代にかけて、日高見国であり蝦夷国との何かの密約があったのかもしれない。また蝦夷国といっても東北だけではなく、出雲夷もいた事から、蝦夷国は、もっと幅広く考えて良いだろう。

ところで話を戻そう。応神天皇時代の言葉…「日本書紀」に出て来るアイヌ語であろう吾君(アギ)という言葉が、何故に応神天皇時代以前に使われていないのか?それはつまり、神功皇后&応神天皇の時代から蝦夷国との繋がりを持ったからではなかろうか?となれば伝説の馬8頭は、応神天皇に対し蝦夷国が敬意を表する為に寄贈したものだと解釈すれば納得できる。

また文字であるが、渡来系の人種は、その習慣に則って文章を書き表す場合、漢文で表していた。ところが「万葉集」などでの「防人の歌」は漢文では無いのは何故か?例えば、聖武天皇の時代に蝦夷国で黄金が発見されたのだが、それに対する歌が詠まれた。

天皇の御代栄えん東なる 陸奥山に黄金(こがね)花咲く

実はここにダウトがある。黄金を「こがね」と読むのはアイヌ語であった。黄金(こがね)銀(しろがね)鉄(まがね)と読むのも全て蝦夷の使う言葉であった。聖武天皇時代以前に、日本で黄金は産出されていなかったのに、大量の黄金が陸奥から贈られた時に、その呼び名も伝わったものなのだろう。つまり「吾君」や「黄金」だけではなく、蝦夷の言葉の影響と融合は、応神天皇時代から、ふつふつと伝わっていたのだと感じる。

また和歌に関してだが調べると、どうも朝廷内では長い間「和歌は淫歌」であると軽蔑していたきらいがある。ところが宮中で公然と和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇時代からであるのは、やはり蝦夷の文化が入り込んだと考えて良いのかもしれない。何故なら考謙天皇は、蝦夷である安倍の血筋であるからだ。単純な話…例えば岩手県に何故、新幹線の駅が沢山あるか、それは当時の総理大臣が岩手県の人物であったからだ。時の権力者がトップに立てば、今まで避けて来た文化などを強権的に取り入れる事ができる。であるから宮中で和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇の力であったと考えて良いだろう。極端にいえば、和歌の文化的ルーツは考謙天皇にあったという事になる。

またこれは、あくまでも伝説ではあるが、和泉式部(岩手県)も、小野小町(秋田県)も陸の奥出身であるというのも本来、和歌というものは蝦夷国で栄えた文化では無かったのか?だからこそ、安倍貞任は源義家に対して、あっさりと歌を返した。遠野に伝わる清滝姫の和歌の伝説も、有り得ない伝説では無くなるのかもしれない。
by dostoev | 2010-12-29 20:51 | 安倍氏考 | Comments(4)

茶室の謎

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もうすぐ今年も終わり、新しい年が迫ってきている。正直、今年は悪い年であったから、早く終わって欲しいというのが心情だ。年が明ければ、いろいろな行事があるが、フト思い出したのが初釜だった。

姉二人が茶道を習っていたのもあるし、同級生の家も茶道教室をしていたので、茶室に入った事がある。その広さとは、四畳半の、そして狭い薄暗い空間だった。遠野の曲屋にある竈も、どこか薄暗い空間であり、画像のような竈神などの面や、御札を貼っている場合がある。民家の竈と、茶道の茶室に関連があるかどうかわからないが…というか、茶室の方は昔の竈よりも明るいは明るいが、自分の小さな時の印象は暗い空間であった。その薄暗い空間で、新年の初めに、家の竈で料理を作り、茶道においては初釜を焚く。こうして比較しても、然程違いは感じない。

「茶の湯と陰陽五行」を読むと、茶室の狭い空間は突き詰めた日本人独自の思想が入り込んでいると解説されており、その中の陰陽五行に、スポットを当てて解説されている。その解説の中に「茶室の理想図として床の間を北に設け、東南に明かりを採り、北面して点前をする。貴人は南面の座に就かれる。北を壁で塞いで寒を防ぎ、客は陽に位して、主は陰に座を占める。南は躙口(にじりぐち)にして連子窓や下地窓、軒庇を深々とつけて暑を避ける。」とある。

中国では、皇帝の玉座は南面となるので、貴人を南面に就かせるのは、そういう意味合いがあるのだろう。また北に床の間を設けるのは、やはり北辰を意識しているのではないか?ところで陰陽は体にもあるとされ「上半身(陽)下半身(陰)外側(陽)内側(陰)背(陽)腹(陰)」とあるのは、地面に埋もれる大根や人参は陰気の野菜で、トマトやピーマンは陽気の野菜と同じ考えだろう。

ところで裏千家と限定しているが(いや、表千家はわからないので…。)「本勝手の場合、点前は右足から入り、畳の敷合せの踏越も右、すなわち陽の側を常に客付として足を運ぶ。」とあるのは、神前とはまったくの逆と成る。神前では左足から進み、右足を前に出してはいけないからだ。この辺の理屈も記してくれれば助かるのだが…。大抵、民衆の間では左は嫌われる。「左前」「左柄杓」「左マワシ」「左膳」とかだ。イザナギとイザナミもまた天御柱を左に回って、ヒルコという仇子を産んでいるので、左は忌み嫌われているのは"死"をイメージするからでもある。しかし皇帝が南に玉座を構えるのであれば、向かって左は東であり左大臣となって、位は右であり西の右大臣よりも高いとなる。それ故、貴人を南に座らせ、右で進むのには理解に苦しむ。何故なら皇帝は、神でもある為、それは神前でもあるからだ。

また四畳半という狭い空間も、未だに継続されているのは、どうなのであろう?実は、正式な切腹をする場は、四畳半であった。現代の四畳半は、半畳を決して真中に持ってこないのは、切腹の文化を忌み嫌ったからである。また俗信には「真中には、不吉な何かが起こる」とされ、八畳間や四畳半の真中は避けられてきた。それは真中の半畳が黄泉の国に繋がっているとも信じられたからであった。それ故に、現代の四畳半の畳の組み方は、半畳を決して真中に持ってこないようにしているのだが、茶室の場合は囲炉裏の問題もあって、そのまま真中に半畳が置かれている。ただし切腹とは違って、陰陽五行に富んでいるのが囲炉裏がある茶室でもある。もう一度「茶の湯と陰陽五行」を確認すると「炉の五行」が記されていた。「炉縁の木」「炭の火」「炉壇の土」「釜の金」「釜の水」と、五行のバランスが取れているのだという。そういう意味から察すれば、切腹場としての陰気な四畳半を上手く融和させ"陽気"として稼働している空間が茶室なのだろう。

またもう一度「真中の怪」を意識すれば、それは女性の股にも通じる。二股に分かれた木からは何かが生じると考えられたのは、ひとえに出産のイメージから来ているのだろう。それ故、茶釜を配した狭くも薄暗い空間で思い出すのは、火中出産を果たした"木花開耶姫"を想起させる。もしやだが、初めに紹介したように茶室には様々な思想が融合しているのだが、もしかして木花開耶姫の火中出産の思想も入り込んでいるのではなかろうか?ちなみに木花開耶姫は「竈の神」でもあるのだ…。
by dostoev | 2010-12-29 14:02 | 民俗学雑記 | Comments(0)

「遠野物語拾遺38(隠里)」

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昔橋野川を、神が石の船に乗って下ってきた。そうして早栃まで来て、ああ
ここが気に入ったと言って、川の岸の丘の上の岩穴に入られた。そこを隠里
といって、祠を建ててその神を祀った。石船は二つ、今でも遺っている。腰
かけなどで祟りがあるということで、村では堅く戒めている。

          「遠野物語拾遺38」

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この話を、どう捉えて良いのだろう。一つの天孫降臨の話でもあり、一つの落去の話でもある。この橋野の手前である笛吹峠から、早栃までの間には、鬼や鉱山関係の話に加え、平家の落ち武者譚など、密かに伝えられた話がある。遠野から笛吹峠の頂を過ぎた所には、鉱山で栄えた青の木という地がある。青の木は、鬼が仰向けに死んだ事から"仰の鬼"とも云われる。橋野は、金鉱などで有名な場所である。その橋野から下った奥の早栃には「遠野物語拾遺39」でも紹介される、やはり金山の話が伝わる。この一連の土地は山の谷間にある土地で、隠れ住むという言葉に当て嵌まる土地である。

白見山もそうだが、山に住む者の大抵は、採掘者であった。橋野とは、田畑を耕して生活する為には不便であるが、採掘や治金で生活するには適した土地である。この天孫降臨にも似た話とは大抵の場合、鉱山開発に被せられる伝説が多いのも確かだ。

現在、物語にあるような写真の隠里と呼ばれる地に、穴は無い。ただし岩穴を坑道と捉えた場合、採掘であるならば納得する物語となる。つまりこの物語に登場する神とは、この地の鉱山を開発した集団であると想定した方が、理解しやすいのだ。「古事記」おいても、まず神ありきだ。神が土地を開発して、人を呼び寄せ定着するのである。それ故、この橋野の町の起こりは、この隠里と呼ばれる地から始まったものと考えて良いのかもしれない。
by dostoev | 2010-12-29 08:59 | 「遠野物語拾遺考」30話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺146(烏啼きと起請文)」

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烏啼きのシルマシも否と言われるものだという。先年、佐々木君の上隣りに
ある某家でもこのことがあった。この家の親類の老婆が谷川の橋から落ちて
頓死した時、一羽の烏が死者のあった方角から、けたたましく鳴いて飛び来
り、ばさりと障子に翼を打ちつけて去った。その家では皆の者が驚いて、何
事も無ければよいがと話し合っているところへ、親類からこの老婆の死んだ
報らせが来たということである。

                                「遠野物語拾遺146」

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カラスが「ギャァー!」と鳴くと、不気味な感じがするが、夕暮れに「カァ…カァ…」と鳴きながら飛んでいく情景は、のどかに感じる場合もある。実はカラスが不吉な鳥であるというのは、中国から渡って来た俗信であるが、日本ではヤタノガラスがいるように、神の使いの鳥である。日本全国に、不吉な鳥としてのカラスと、幸せを運ぶカラスの俗信が混在しているのは、日本に定着している信仰と、中国から伝わって来た俗信が入り混じって点在したからなのかもしれない。また別に、黒猫に対する俗信も、カラスと同じように、吉凶両極端のようである。要は、植えつけられた先入観により、不吉なイメージに捉える場合が多いのだろうと思う。ただ全世界的に、カラスと死者は結び付けられているので、やはり神の眷属として認知されている鳥がカラスであるのだろう。

ところで起請文というのがあり、有名なのは紀州熊野から発行する午王札であり、午王護符ともいう。遠野の程洞神社にも烏を祀る祠があり、そこに烏の図柄を模った日大芸術学部の描いた起請文が飾られている。紀州熊野は、死霊の宿る他界の地と考えられた為、その熊野が発行する午王護符のカラスは神意を現す鳥であるから、死を知らせるカラスはやはり、神の使いだとなったのかもしれない。しかし午王護符にカラスが描かれたのは、どうも戦国時代からであるようで、特に起請文を使用したのは豊臣秀吉であり、その起請文の威力によって毛利氏を封じ込めたようだ。しかしそれ以前の起請文は那智の午王札を裏返して用いられ、その図柄には「印」という文字を中央に置き「那智」「滝宝」と配されているのが、どうも原初のようだ。

熊野権現とは狭義的に、那智の滝神を表すらしいが、原初的な起請文そのもの図柄を考えると、誓約を示す場合はつまり、那智の滝神に対して誓いを立てているのだと理解できる。つまり「義経記」において、義経が誓いを立てたのは「那智の滝神」に対してであり、また弁慶が書いたと云われる元歴二年(1185年)の米の借用証文に「熊野に掛けて約束状如件」というのも全て、那智の滝神に誓いを立てたものだろう。

江戸時代には、遊女と客の取り交わす起請文に熊野午王が使われ「誓神書くたび三羽づつ熊野で烏が死んだげな」と小唄にうたわれたように、戦国時代以降は那智の滝神からカラスへ意識が移行した流れがあったようだ。小唄の何故三羽づつ死ぬのか定かではないが、誓約をする事に掛け、カラスがその命を代償に掛けるのは、この誓いが守られなければ祟りを成すという事では無かっただろうか。それはやはり、カラスが人の生死に身近に接している生物という事なのだろう。

ただ恐らくだか、カラスと人の死を結び付けるに加え、狐が人を化かすや、人が天狗を騙すなどの定着は、太平の世となった江戸時代からであったろう。遠野でも、お伊勢参りや金毘羅講があったように、遠野という地から他地域へと頻繁に旅立つようになったのも江戸時代からであった。当然、熊野詣でにも行ったようである。その時の土産話としてカラスの俗信や、様々な俗信が持ち込まれて定着したのだろう。
by dostoev | 2010-12-28 10:25 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(2)

今日は暖かく…雪かき日和

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昨夜も雪は降り続き…。
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そして今日は、気温もそこそこ高く、晴れ間も見えた。となればする事は一つ…雪かきだ。店の前はまだしも、駐車場を一人で雪かきはかなり辛い。今回の雪は、水分を多く含んだ雪であった為に、かなり重い。水と同じ質量だから、1立方メートルで1トンの重さになる。とにかく広い駐車場を頑張って雪かきしないといけない。アスファルトの黒い路面が見えれば、日差しが当たれば、ジワジワと溶けてくれる。とにかく暖かいうちに雪かきをしなければ…だ。しかし精神力もだが、体力の問題もあり、駐車場全てを一人でするのはかなり辛い。仕方ないので、せめて気持ちが楽になればと一つの呪言を遠い地まで飛ばしてみたが…その言葉を浄化させてくれれば良いのだが、跳ね返されたらチト困る…(謎)(^^;
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by dostoev | 2010-12-27 16:26 | 民宿御伽屋情報 | Comments(7)

「遠野物語拾遺64(火防の神)」

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愛宕様は火防の神様だそうで、その氏子であった遠野の下通町辺では、
五、六十年の間火事というものを知らなかった。ある時某家で失火が
あった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶の水を小さな杓
で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。

翌朝火元の家の者大徳院に来り、昨夜は和尚さんの御陰で大事に至ら
ず、誠に有難いと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。
それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということが
解ったそうな。

                                 「遠野物語拾遺64」

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ここで、気になる個所がある。結果的には愛宕の神様が火消しをしてくれた事になったというが、柄杓で水をかけ…とある記述は「遠野物語拾遺67」にもある。ただ「遠野物語拾遺67」の場合は無尽和尚が高野山の火消しをしたとなっているが、どちらにしろ神霊的な話となっている。

愛宕神社には火之迦具土神が祀られているのだが、あくまでも火の神であり、この火の神を鎮める為に祀るのであり、火之迦具土神が火消しをするわけでは無い。綾織にある愛宕神社には早池峯の神である瀬織津比咩が祀られているが、瀬織津比咩は水神でもあり、早池峯周囲からは「お滝さん」と親しまれる水神でもある。実は「愛宕」とは「おたき」もしくは「おたぎ」とも読む。かっての山城国にあった「愛宕郡(おたきぐん)」という地があり「愛宕」が「おたき」と呼ばれていたのがわかる。

京都の愛宕を調べてみると、大森恵子「愛宕信仰と験競べ」には、愛宕山にある月輪寺の縁起が紹介されている。この寺の縁起は「愛宕山縁起」でもあった。月輪寺は「がちりんじ」または俗称「つきのわでら」とも呼ばれている。天応元年(781年)に慶俊僧都が開いた寺と伝えられ、その後能楽の「愛宕空也」に登場する空也上人も参籠したという。その月輪寺の祖師堂には空也上人が安置され、境内の龍王堂には、伝龍王像が祀られている。その龍王像は、月輪寺境内に湧き出る「清泉龍女水」の龍神を彫ったものだという。

この縁起を簡単に紹介すれば、愛宕山上に水が無く人々も困っていると龍神に懇願したところ、その願いを聞き届けたというのは、東禅寺で無尽和尚が早池峯の神に開慶水を願った譚と同じである。これと同じ事が能の「愛宕空也」でも演じられているのだ。つまり愛宕が火防であるのは、火災の難から免れる為に、水神の御利益を得る必要があったという事。水と火の関係は、陰陽五行でいう「水剋火」であり、火の神である火之迦具土神を鎮める為には、水神の助けが必要であるからだ。愛宕を「おたき」と読むが、それは「お滝」でもあり、水の姫神が祀られているからであろう。京都の愛宕山と、その周囲の地名には、水に関するものが多くあるというのもひとえに水神が愛宕山と、その周囲を覆い、火を鎮めているからであろう。

「遠野物語拾遺64」の場合は、愛宕の神様の火消しの話であるが、その媒介した存在は和尚であり、それは東禅寺の無尽和尚に繋がるものである。綾織の愛宕に水神である瀬織津比咩が祀られているのを考えると、遠野の愛宕神社自体にも水神が祀られていると考えて良いだろう。愛宕神社の入り口にある倉堀神社もまた水神を祀っており、片葉の葦の伝承に加え、早池峯との関連もある。とにかくその水神が、和尚の姿を借りて火消しをした。女神が和尚などの姿を借りた話は、全国に無数にある。ここはあくまでも愛宕という"水神"…突き詰めれば、早池峯の水神の霊験譚という事なのだと考える。
by dostoev | 2010-12-26 09:32 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(4)

今日は一日雪で、午後は猛吹雪…。

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とにかく大雨の反動か、大雪に変わってしまった。朝から降り続け、午後には吹雪になり、夜になった今なお雪は降り続いている。昨日撮影した愛宕近辺はどうかと確認に行くと白鳥がやはり雪を避け、小さな入り江っぽい場所に退避していてた。
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愛宕山の背後は、真っ白で何も見えず。画像で見る雪の流れより、実際に見た方が激しく見える。
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この後、山の方へと行こうと向かったが…車がまったく走っていない状態で、益々吹雪が酷くなった。その時…何故かワイパーが、動きを停止した…。

もう撮影どころでは無かった。フロントガラスに沢山の雪がぶつかるが、内部のヒーターでその雪も溶けるのだが、ワイパーでぬぐい去る事ができない為、殆ど盲状態に近い。しかしどうにか見える滲んだフロントガラスの下部から覗き込むように車を走らせたが、カーブを曲がるのと、対向車を避けるのに苦労した…。
by dostoev | 2010-12-25 18:14 | 民宿御伽屋情報 | Comments(4)