遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:遠野不思議(伝説)( 34 )

遠野不思議 第八百三十九話「片角様(遠野のハロウィン)」

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遠野南部時代に「片角様御開帳祭」という奇妙な祭があった。これは女殿様でもあった清心尼公が始めたものとされている。吉田政吉「新・遠野物語」によれば、遠野南部の先祖である波木井六郎実長が大の日蓮信者であり、片角様の起こりは、その南部氏の出身地である甲斐国の日蓮宗総本山である身延山の七面堂から発せられている。その七面堂で日蓮と七面大明神の絡みに、波木井氏が絡む伝説があるのだが、その伝説だけで終わらずに、尾鰭の様にくっついた伝説から片角様が出来上がったようだ。ところで七面大明神とは、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる龍の女神である。その七面天女が日蓮と波木井氏との別れの際に、自らの角を折って1本を日蓮に、1本を波木井氏に与えたそうである。つまり片角様とは、龍でもある七面天女の角という事として伝わっていた。
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「片角様御開帳祭」は、年に一度だけ片角様を拝観する行事で、遠野の鍋倉城では正月16日に行われていた。そのお祭りの日には、身分の低い者の中から祭男が選ばれて、その者に片角様が乗り移り、殿様を含めた者達の非行や不義を、片角様が叱るという行事であったようだ。確かに片角様は殿様よりも偉い神という立場ではあるが、声を出して叱るのは身分の低い家臣である。神が乗り移ったとは言っても、形だけではあるから、当初は殿様を叱るという事が快感であったろうが、殿様からしてみれば家臣が常日頃、どういう不満を持っているか理解できる祭りでもあった。ある意味、殿様が家臣を計る為の祭であったのかもしれない。

また殿様だけでなく、身分の低い者に叱られる家臣達はたまったものでは無い。叱る内容は、噂程度で聞こえるものが主体ではあったようだが、殿様の耳に入れたくない話もあった事から、年々片角様の評判がすこぶる悪くなっていったという。だが風儀維持には中々良い面もあるので細々と続いていたが、だんだん参加する者が居なくなったという。いくら神でも、参加者がいなくては神としての威光は成り立たない。今まで城内で行われていた片角様のお祭が、いつしか城外に進出し、叱り飛ばす相手を町人や百姓に対象を代えた為に、町中で大恐慌となったそうである。そうなると町人も百姓も、当初は物珍しさから集まっていたが、途中からは誰も集まらなくなってしまったという。すると、誰かが「それなら此方から出張して御開帳をやろう。」と言い出し、それからは金持ちである役人や町人の家に押しかけて、片角様の御開帳を行い悪口を並べ立て、金か酒が出ないまで帰らなかったという。「酒か金、それとも悪口?」・・・こうなれば、まるで西洋のハロウィンのように「Trick or Treat(トリック オア トリート)」「悪戯か、お菓子か?」である。しかし、西洋のハロウィン文化よりも、かなり性質が悪かったようである(笑)
by dostoev | 2014-12-09 19:28 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

遠野不思議 第八百三十三話「座敷少女?」

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佐々木喜善「遠野奇談」によれば、遠野市新町に奥田某という家の婆様が、用事で二階の座敷へ行くと、そこには非常に綺麗な17歳くらいに見える娘が赤い着物を畳んでいたが、婆様を見ると、慌ただしく立ち上がり、奥の部屋の方に隠れたという。これもまた座敷ワラシであろうとしているが、この前の座敷婆子も含め、屋敷に現れる物の怪を全て座敷ワラシにしてしまうのには無理があると思える。単純に幽霊でもよさそうなのだが、幽霊には足が無いという昔の定説に従えば、幽霊では無いとされる。「遠野物語」を含め、遠野の伝承などを読んでいると、座敷に現れるのは座敷ワラシで、怪しい出来事の殆どは狐の仕業と相場が決まってしまうのは何故か。それは、そうした方が無難であるというのも理由であろう。それよりも、幽霊と座敷ワラシとの境界線が曖昧な事が、一番の理由ではなかろうか。
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座敷ワラシの多くは5、6歳の少女とされている。7歳までは神の子とされた時代、7歳未満の子供というのは、人間を逸脱した存在であるとされていた。それ故に、7歳を過ぎて普通の人間に戻るのであれば、二階の座敷に現れた17歳くらいの娘は、座敷ワラシでは無い、別の存在という事になる。神話世界に少童神が登場するのだが、その少童神は歳を取る事無く、その姿を維持している。神という存在になった時点で、どうも成長は止まるようだ。それならば、座敷ワラシもまた神に準ずる存在であるならば、その成長は止まったままで、永遠に7歳未満の子供の姿を維持している筈である。

童とは、一人前に見做されない存在である。当然座敷童子とも書き記す事から、座敷ワラシは男にも女にも成りきれない、どちらかといえば中世的な存在となる。例えば、幼名というものがあるように、また昔は髪型が成長と共に変化していくように、子供から大人へと、体も含め、名や髪型を変えていったものである。「梁塵秘抄」に、こういう歌が載っている。

遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、

         遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ


子供の遊びは、いわば神の子の遊ぶ姿であり、それは傍目からただ眺めるだけだった。座敷ワラシが目の前に現れても、それは神の領域であろうから、ただ眺める、もしくは見つめるだけで、それを自然のものとして捉えるしかなかった筈だ。何故なら、神とは自然そのものでもあるからだ。ところが17歳というば生理が始まっており、もう既に大人の女性である。現代ならば、17歳はまだ少女であるとも云えそうだが、昔は既に嫁ぐ事の出来る年齢である。柳田國男は22歳の頃、16歳の少女に恋い焦がれたという。それは既に大人の女性と見做していたからであった。となれば、17歳の少女を座敷ワラシと見做すには、少々無理があるというもの。ただしかし、大物忌という存在が神社界には存在する。大物忌とは、神聖童女祭祀者であり、神に奉仕する少女であった。幼少の頃に選任されれば、父親の死に遭遇しない限り成女となるまで神に奉仕続けるのだった。漫画で恐縮だが、西森博之「鋼鉄の華っ柱」にも、この大物忌が紹介されている。代々続く古い家柄では、この制度を今でも採用しているものかもしれないと思えるような漫画であった。それはつまり、世間からは隠された存在。ある意味、奥座敷に閉じ込められているようなものであろう。しかし、神に奉仕するという大事な使命を帯びている事から、それを名誉として受け継がれてきた歴史がある。神に奉仕する存在が、限りなく神に近い存在であるならば、この奥田家に現れた少女もまた、人目については成らない、大物忌のような神の一人であったのかもしれない。
by dostoev | 2014-10-31 20:12 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百三十二話「お湯を飲め」

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佐々木喜善「遠野奇談」には、飢饉の悲惨な話がいくつか紹介されている。その信憑性には疑問符が付くものの、取り敢えず佐々木喜善の紹介した飢饉の話として残っている事実だけは確かであろう。

ある時、少年が年上の男に行き会った。その男は少年に向って「お前は飯を食べたのか。」と聞くと「食べた。」と答えた。「それならば、その後にお湯を飲んだか?」と聞くと少年は「飲んでねぇ。」と答えた。すると、その少年を殺して腹を裂き、胃の中の飯を取って食べたという。

それから「食後には、必ずお湯を飲むものだ。お湯を飲まぬと、食ったものがそのまま腹の中で崩れずにあるものだ。」これも生きる為の一つの術であったのだろうか?佐々木喜善とその同時代の子供達は、この話を聞かされた育ったという。この話は「遠野物語53」にも通じる話であるが、この「遠野物語53」と同じ話が鳥では無く、リアルな人間の話として伝わっていた。これは次の記事で紹介する事とする。
by dostoev | 2014-10-30 12:54 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

遠野不思議 第八百三十一話「座敷婆子(ザシキバッコ))」

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佐々木喜善「遠野奇談」には、座敷婆子なるものの紹介がある。座敷童子は家に棲み付き、その間家は繁栄すると云われるが、この座敷婆子には、そういう話は無いようだ。

土渕の大洞某という男が、上閉伊郡栗橋村の清水という家に泊まりに行った時の事であったと。奥座敷と表座敷の間くらいの部屋に泊まった時、何だか変に眠れない夜中の事、床の間辺りに何者かがゲタゲタと笑っていたのに、うつらうつらしていた意識が戻ったという。布団から頭を上げて床の間の方を見やると、そこには坊主頭の老婆が蹲って布団の男の方を見つつ笑っていたのだと。それからその座敷婆子は、四つん這いになってその男の方に這って来ては後戻りし、それを二三度繰り返すと、再び男に向って笑うのだそうな。男も恐ろしくなったのか、やはり四つん這いになって逃げだしたそうだが、それを家人に見つかり、大笑いをされたそうな。家人はその座敷婆子に慣れているようで「お客さんは、昨夜逆夜這いをされて、さぞお楽しみであったろう」と揶揄されたそうである。

座敷という名が付く婆子であるが、これを座敷ワラシと同列に扱って良いのか疑問になる。ただ言えるのは、座敷に現れる妖怪という意味では、座敷ワラシも座敷婆子も同じなのだろう。想像するに、実際その家に棲む老婆が、客に夜這いをかけにきたとしても、妖怪であろうが、実在の人間であろうが、どちらにしろ座敷婆子とは、恐ろしいものであるのだけは理解できる(^^;
by dostoev | 2014-10-29 12:59 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百三十話「真似牛の角と伝説の正体)」

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山口直樹「日本妖怪ミイラ大全」に、「真似牛の角」の話が取り上げられている。遠野の善明寺に伝えられる「真似牛の角」との違いを確認してみよう。

宮城県北部、栗原市栗駒にある浄土宗の名刹、往生寺には、奇妙な一対の角が残されている。西暦1200年頃、栗駒町から八里ほど南の小牛田町に、貧しいながら情け深く、信仰心に篤い農夫がいた。ある時農夫は、貧相な旅の僧を助け、手厚くもてなした。するとこの僧は居心地が良いので、いつまでも農夫の世話になり続けた。

ところがある夜、その僧が夢に現れ「念仏も唱えずに過ごした自分が恥ずかしい。この罪は免れないので、農業に務めて御礼がしたい。」と告げた。その言葉通り、僧は大牛に変わっていた。そしてこの大牛の働きにより、農夫は裕福になったのであった。

数年後、この話を聞いた栗駒の農夫が、奥州に浄土宗を広めていた金光上人を無理やり招き入れ、もてなした。しかし、金光上人は毎日のように念仏を唱えるから、一向に牛にならない。それどころか逆に、農夫自身が牛になってしまったのである。金光上人は京都の法然上人のもとへ走り、助けを請うた。すると法然上人は自身の坐像を自ら刻み、それを金光上人に託した。金光上人は栗駒へ戻ると法然上人坐像を祀り、農夫の家族らと念仏を唱えた。すると角も毛も落ちて、農夫は元の体に戻ったのである。

この角の逸話は、御利益のあった小牛田の小牛田の牛物語を真似た事から「真似牛伝説」と呼ばれ語り継がれている。その戒めとして真似牛の角は、今も往生寺に残されている。

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遠野市善明寺に伝わる「真似牛の角伝説」と善明寺の寺宝の「真似牛の角」


今の宮城県遠田郡に貧しいけれど、信心深い農夫がいた。ある時、通りかかった乞食僧を助け世話したところ、実は偽の坊主で、その罪業の深さにより、ある日大きな牛になってしまった。貧しい農夫は、この牛の働きにより次第に裕福になった。

近郷の栗原郡に住んでいた愚かな農夫は、その話を妬ましく思い、自分も旅の僧が来るのを待っていた。そこに通りかかったのが金光上人で、農夫は無理矢理上人を納屋に閉じ込めて、牛になるのを待っていたところ、逆に悪心の報いか、体には黒い毛が生え牛になってしまった。ただ顔は人間のままで頭には角が生えていた。金光上人の法力ではどうしようもなく、師である法然上人に救いを求め、京都に戻ったという。法然上人は自ら自分の木像を作られ、金光上人に手渡し「自分は助けに行けないが、これを私だと思い、念仏の功徳を広めるように。」と諭された。

栗原郡に戻った金光上人は七日間の法要を勤め、牛になった農夫を元に戻してやった。この農夫はその後悔い改め、金光上人の弟子となり、正牛坊と名乗り、金光上人を追って遠野に辿り着き、遠野の地で亡くなったと云う。その時の正牛坊の所持していた牛の姿の角の一本が、画像の角だという。

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実は、何故「真似牛」と呼ぶのか知らなかったのだが、宮城県小牛田町の「牛飼長者伝説」に類似している事からの命名であるようだ。その「牛飼長者伝説」とは下記の通りとなる。

牛飼村に伊藤孫右衛門という百姓が住んでいた。或る日の事、一人のみすぼらしい格好をした旅の坊さんが家の前で佇んで、食事を乞うていた。孫右衛門は坊さんを家の中に招き入れ食事を与えた。そして、その坊さんの為に、新しい小屋を建てて住まわせ、朝夕心を尽くして、食事や身の回りの世話をした。春が過ぎたある朝、孫右衛門がいつものように小屋に入ると、大きな牛が一匹横たえていた。その顔は間違いなく坊さんの顔であった。坊さんは「私はこれまであなたが汗水して手に入れた食物をたらふく食べ、無為徒食で生きて来た為に、罰が当たりました。これからはあなたの家畜となって一生懸命働きましょう。」と涙ながらに話した。牛の力によって、孫右衛門の田畑の開墾は進み、しかも収穫量も増えたので、孫右衛門は牛飼村一番の長者になった。
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まず小牛田の伝説は、その牛の顔が間違いなく坊さんの顔であったという事から、件のようである。「件」とは「人」と「牛」が組み合わさって「件」という牛人間であるが、戦や天変地異などの真実を語る神の神託を唱える巫女の様な存在でもある。そういう意味では、遠野に伝わるオシラサマと近いが、これは別の機会に書く事としよう。

遠野の善明寺に伝わる地名は宮城県の遠田郡であるが、「牛飼長者伝説」の牛飼村は小牛田町の大字に「牛飼」という地名がある事から、そこではないかと云われている。「和名類聚抄」では小田郡と呼ばれていたようだが、遠田郡も小田郡も同じである。小田治「山伏は鉱山の技術者」によれば、小田とは鉱山堀に繋がる地名であり苗字である事から、もしかして小牛田と岩手県に広く伝わるウソトキ伝説との関連も見出せるかもしれない。また遠田郡は聖武天皇時代に、にらの大仏の建造に必要であった金が初めて日本で発見された場所でもある。そういう事から、金と牛との関係が深いであろう。
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ところで牛の角だが、遠野に放牧されている牛は画像の様な短角牛であり、その当時の牛の品種はよくわからない。ただ、「件」の絵の角と短角牛の角が近いので、妙に角ばって見えるものの、その時代にいた牛の角であろうか。
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ただ、遠野の善明寺に伝わる角は、妙にほっそりとしている。これはカモシカの子供の角のように見える。普通の牛の角は、仔牛であっても、もっと太い筈だ。牛もカモシカも同じウシ科に属する為、似ているといえば似ている。
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カモシカは成長すると、画像の様に太くごつくなる。牛鬼は西日本で広く伝わるよ妖怪だが、そのモデルはカモシカであると云われている。東北に比べて西日本ではカモシカが少ない為に、たまに出現するカモシカを妖怪としてみたのかもしれない。そういう意味から考えれば、真似牛とは小牛田に伝わる伝説に似ているから真似牛伝説となったのだが、牛に似ているカモシカも真似牛であるとも云えるのか。ただ、小牛田の伝説には角が残っていないのに対して、栗駒の往生寺も、遠野の善明寺も角がしっかりと残って伝わっている。どちらも真似牛と呼ばれる事から、伝説の原型は小牛田の伝説であろうが、角を有する事で寺に伝わる伝説の方がリアリティが増す。それが布教の手段と考えてしまえば、角を持ち込んで小牛田の伝説に結び付けたとも考えられる。

栗駒の往生寺と遠野の善明寺に伝わる話は、ほぼ同じなのだか、往生寺には伝わらない後日譚が遠野の善明寺には伝わっている。邪な考えを持った農夫が自分に尽くしてくれた金光上人の弟子となり、遠野に来たと云う事だ。しかし、往生寺にも善明寺にも、その農夫の角が伝わるという事は、やはり浄土宗の布教活動の一環として「真似牛伝説」が利用されたのではなかろうか。何故なら寺そのものが伝説の起源を強く名乗らず、「真似牛」であると甘んじている事が、その真実なのであろう。
by dostoev | 2014-09-15 20:23 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

遠野不思議 第八百二十六話「仙人峠の由来 其の二」

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昔、仙人峠の麓で千人もの人夫が鉱山の採掘現場で働いていた。その中に孝太郎という若者がいた。孝太郎は、年老いた母と二人っきりの生活をしていた。

或る日、孝太郎が仕事を終えて帰ろうと山道を下りて行くと、数人の人が一匹の蛇を殺そうとしていた。孝太郎は蛇を可哀そうに思い、お金で蛇を買い取り逃がしてやったという。その日の晩の事であった。寝ていた孝太郎は何かにうなされて目を覚ますと、枕元に美しい女性が立っていた。

「今日は、助けて戴いて、何とお礼を申してよいかわかりません。せめてもの恩返しに、貴方にお知らせしたい事があります。決して明日は仕事に出てはなりません。若し仕事に出れば、貴方の命はありません。」

その知らせを言い終わると、煙の如くその女性は消えてしまったと。

翌朝、孝太郎氏仕事へ行くか行かないか迷ったが、どうしても夢とは思えないので、其の日は仕事を休んだと。すると昼近き頃に天地も割れようかという轟音が鳴り響いた。鉱山が爆発して、働いていた千人もの人々の命が消え去ったという。孝太郎に知らせた蛇とは、仙人峠の山奥に住んでいる音羽姫が蛇になった姿であったという。その千人もの人夫の命を失った事故以来、その峠を仙人峠と呼ぶようになったと云われる。

尚、今でも音羽姫が蛇になって現れる岩穴があり、今でも時々小さな蛇が出るが、人々はそれを音羽姫の子孫だと云われて殺さないようにしていると云う。                       

                                                   「上閉伊今昔物語」

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旧仙人峠のトンネルの脇に、その岩穴へと行く道がある。別の伝承では、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の後に、十一面観音を祀った事から観音窟とも云われている。当然、音羽姫の話もあるのだが、どちらが正しいのかは定かでは無い。岩穴を有する小高い山の壁は岩壁となっており、今ではロッククライミングの練習場になっている。穴はいくつかあるが、入り口から一番手前が観音窟であり、一番奥がウサギコウモリの繁殖洞窟と云われていたが、いつの間にか崩落して、そのウサギコウモリ自体を見なくなってしまった。

この話は「浦島太郎」にも似通った話で異類婚にも似ているが、蛇は孝太郎の妻にはならずに、ただ知らせを告げただけだった。そういう意味ではオシラサマが幸せを"お知らせする神"とも云われたものに近い。ただ、千人もの人夫がいたというのはあくまでも伝説であり、実際はそこまでの人夫を使った鉱山は存在しない。恐らく、仙人峠という名称があっての後に、語呂合わせ的に作られた話であると思う。
                
by dostoev | 2014-07-31 18:31 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十五話「化け猫の話」

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猿ヶ石川沿いに岩根橋という地があるが、その付近に人型の巨石があるという。その巨石のある下宮守字沢田に、岩森という屋号の旧家があった。いつの頃かはわからぬが、その家の老母が酷い腫物を患いあらゆる医者に診て貰ったが、治る様子が無く、益々病状は悪化するばかりであったと。

元々この家には長年飼っていた年老いた猫がいて、この老母の腫物を舐めていたという。老母も、この猫が腫物を舐めると快く感じていたので、いつも舐めて貰っていたそうな。ある夜の事、その家の近くの田端と云う屋号の家で「祭文語り」があると云うので、老母一人を家に残して家族の者達は出かけて行った。その時も、猫は家で老母の腫物を舐めていたが、俄かに様子が変わり、寝ていた老母の枕元に立ち上がって舞い踊り、祭文を語る真似を演じたという。老母は恐ろしくなり、家族の者達が帰って来た時に、その一部始終を話したのだと。すると、その猫の姿が見えなくなり、同時に老母も病状が悪化したのかすぐに他界したという。

老母を野辺送りしようと、遺体を収めた棺を家の外に出すと、今まで晴れていた筈の空は見る間に曇り、暴風雨になった。それと共に棺はたちまち空中に巻き上げられ見えなくなってしまったのだと。家族をはじめ、野辺送りに参加した人々は、ただ驚き騒ぐだけであったそうな。

野辺送りの時の導師は、宮守村の松涼寺の住職であったそうだが、その様を見るなり声を荒げて悪魔調伏の呪文を唱えると、棺が空から落ちてきたというが、老母の遺体は無かったそうである。止むを得ないので、空棺のままで葬式を済ませたという。後日、遺体に着せていた筈の白衣が人型の巨石にかかっていたそうだが、姿をくらました猫の仕業であったのだろうと語り伝えられている。

                                        「上閉伊今昔物語」

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この話は「遠野物語拾遺174」に似通った話で、猫の奇態を家族の者に話してしまった為、死んでしまう。ところが、この岩根橋の話は、死体を食らうと云われるキャシャという化け猫の妖怪の話にまで発展し、それが人型の巨石に結び付けられている。遠野だけではないが、広く姥石と呼ばれる石がある。それは禁足地である山に登った女性が山神の怒りに触れて吹き飛ばされ、落ちて石になるものだった。それを踏まえれば、二つの話が融合されて作られた話にも感じる。

「遠野物語拾遺174」と共通するのは、猫が家に居ながら祭文語りや浄瑠璃を再現するのと、それを別の人間に話した時に命が無くなるというもの。これはある意味、神降ろしをし神霊に取り憑かれた巫女の様でもある。猫は陰獣とも云われるが、陰の資質を持つというのは、多感な女性である巫女と同じである。

この前英彦山に遠足に行った高校生の中で、女子生徒だけが幽霊に取り憑かれたのか?という事件があったが、取り敢えず集団ヒステリーという事で落ち着いた。しかし、何故に女性だけがそういう状態になるのかは、ハッキリとはわからない。ただ女性には空間把握能力があると云われ、物が散乱した部屋を見た後に、その中の一つをずらしただけで、その違いを発見できるのだと。これは、赤ん坊の微妙な表情を見分けられる為の能力であり、男には決して有り得ない能力なのだと。それ故なのか、古代日本に卑弥呼という存在がいたのも、女性がそういう女性特有の男には無い能力を持っていた為だと思えるのだ。

また、女性の髪には霊力が宿ると云われるが「日本書紀(天武天皇記)」に、巫女は髪を結わなくても良いと云う事が記されている。髪は霊力が湧きだす源でもあるというが、髪は神という同義語でもあるにも由来しているのだろう。男の髪の毛と女の髪の毛の質が、今も昔も違うというのは女性ホルモンからであろう。しかし古代には女性ホルモンという言葉は存在しないので、その違いを神に対する資質の違いから認識していたようである。髪をザンバラにして祈祷するのは、その霊力を迸らせる為であり、普段はその髪を結うのは、日常と非日常を仕分ける為でもある。神と相対した時に結っていた髪をほどき、神に対して全精力を傾けて向き合うのが巫女でもあった。それから得る神の託宣は言葉となり、踊りなどでも表現される。そういう意味から考えてみても、猫の普段の奇妙な行動や、自らの体毛を一生懸命舐めてケアする姿は、まるで女性が髪を大事に梳く姿にも感じられる。しばしばキャシャが女性の姿で現れるのは、そういう人間の女性と猫の行動を結びつけた結果からのキャシャという妖怪なのだろうと思える。
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そして陰獣と呼ばれる所以は、その執拗な執念によるものが大きい。自分の本性を人に話しただけで殺されるというのは、昔から続く異類婚の話に基づくのだろう。「古事記」の伊邪那美が黄泉国で伊弉諾に対して「決して見ないでください。」という戒めを破り、それに怒った伊邪那美は鬼神のように伊弉諾を追いかける話に端を発し、鶴女房でも雪女でも「見てはいけない。」「人には言ってはいけない。」タブーを、常に破るのは男であった。女を裏切る男と云うものが定着した為か、江戸時代には怪談話が流行ったのも、その女と男の二つの要素が不滅の為でもあった。女を裏切った男に対して幽霊となって化けて男を苦しめる。腕力では男に勝てない、力の無い女性の復讐劇が怪談の中で語られていった。その古代からの女性の要素を猫に転化したものが化け猫の正体でもあるのだろう。怪談「怪猫伝」や「呪いの沼」でも、飼い主であった女性が殺され、その流れる血を飼い猫が舐めた事により化け猫になるくだりは、猫が女性の資質を受け取ったと云う描写でもあったのだろう。

猫と双璧を為す陰獣は、蛇であった。「田舎医者蛇を出したで名が髙し」という川柳は、よく女性の陰部から蛇が進入し、なかなか抜けなかったのを取り出す事の出来た医者は名医という称号を受けたものに由来する。しかし、蛇がよく女性の陰部から体内に侵入する事を、女性と蛇との同化と見做した場合があったようだ。それ故に、化け猫もいるのだけが、蛇女という存在もいた。抜け首やろくろっ首のように首が長く伸びる女性の妖怪は、その女性と蛇が重ねられて作り出されたものであるとも云われる。陰獣と云われる蛇と猫の戦いが「古今著聞集」に伝えられている。厠に潜む蛇が密かに、その家の娘を狙っていたのだが、、その娘を護ろうとしていた家の飼い猫が居た。しかし、その飼い猫を化け猫と思っていた家の主が、侍を雇って娘が厠に入ろうとする寸前に、その猫の頭を切り落としてしまったのだが、その猫は切り落とされた頭のまま厠に潜む蛇に飛びかかり、噛み殺してしまったという話である。

猫は狩の本能からか動くものに対してじゃれたり、挑みかかる。庭先に現れた蛇を捕る猫もいるのだが、猫の語源説の一つに、鼠を捕るのはネコ、鳥を捕るのはトコ、蛇を捕るのはヘコというのがある。「古今著聞集」の話も含めハンターである猫は、同じ陰獣であった蛇を狩ってきた歴史から、いつしか陰獣の代表が、かっての蛇から猫に移り変わったのだろう。養蚕を守護する神社での主神が蛇から猫に代わったのも"蛇より強い猫"と云う印象もあったのではなかろうか。今回の話の中の描写にある棺を空中に巻き上げる話も、本来は竜巻のようなもので、龍蛇の業であった筈だ。それが時代と共に、蛇から猫に変遷していったという事だろう。
by dostoev | 2014-07-04 09:25 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十四話「法印殺し」

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これも、前回の「呪い屋敷と発見された観音像」と舞台は同じ、能舟木である。

能舟木に、ある法印が住んでいた。法印とは、僧位の一つであり法印大和尚位の略となる。元は仏教における真理の印を意味し、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印とする事からきている。僧位としては貞観六年(864年)に設けられた僧正に与えられる階位であった。その法印が、諸国の霊山を巡礼している際、秋田県の仙北でたまたま博打をしてしまったという。ところが勝ちに勝ったりで、その座で独り勝ちしたらしい。そのままでは危ないと思ったのか、用を足しに行くとして、そのまま逃げてしまったのだと。その場を取り仕切っていた者は怒り、その仲間の二人が法印の後を追った。

法印は、どうにか能舟木まで逃げ延びて来たという。とにかく喉の渇いた法印は、持っていた杖代わりに使っていた桜の木の枝を小川のほとりに差して、その小川の水を飲んだという。しかし追っ手は、その能舟木まで来ていた。
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追いつかれた法印は、桜の枝をそのままにして逃げたが、ついに能舟木の塚で追いつかれ、追っ手の者はそのまま法印を惨殺し、金を奪い取った。その時、新城館の見張りが法印の叫び声を聞いて駆け寄ってくると、その法印の殺された姿を見つけたという。犯人はまだ遠くには行って無いとして、追いかけると、殺された法印が水を飲んだ小川で、その法印を斬った刀に付いた血を洗っていたという。館の見張りの者は、その二人の者達を取り押さえ首をはねたという。その時「仙北恋し。」という言葉を、息絶える寸前に吐いたのだと。

その追っ手の亡骸を小川のほとりに葬り。一基の石を墓石として立てたという。ところがその石が、いつも決まって仙北の方向に倒れるのは、二人の霊がこの石に籠ったのであろうとし、その石を地蔵石、叉は仙北石と名付けた。また別に、法印の差した桜の枝には根がついて、小川のほとりにある桜がそれであると伝えられる。その小川の水は、血を洗ったと云って、飲まないものだと伝えられる。
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この能舟木の小川とは「遠野物語拾遺32」で紹介される、坂上田村麻呂の大蛇退治の話に登場する川であり、坂上田村麻呂はその大蛇を斬った太刀を川で洗った事から太刀洗川と称されたとするが、異伝もあったのだ。太刀洗川とはあくまでも伝説の様で、その川の正式名称は能舟木川である。ただ画像の様に、今でも川に供物を捧げる風習がある事から、あるモノの死を供養しているのは確かのようだ。ただ解せないのが法印と云う高い身分の僧が、何故に博打に手を出したのか?そういう面では、創作も入っているかとも思える。それか、元来の生臭坊主であったかのどちらかだろう。名僧や高僧の手にしていた杖を地面に差したら、根がついて大木になっという話は、遠野界隈だけでは無く、全国に多く見受けられる伝説だ。その多くの主役は、弘法大使となっている場合が多い。

それよりも気になるのは、前回の六部殺しの話でもそうだが、余所者に対する警戒心である。よく余所者とは「幸福をもたらす場合もままあるが、大抵の場合不幸を持ち込む者である。」という認識が小さな集落では意識されていた。それが生き残る術でもあり、飢饉などで悲惨な時代を過ごした集落などでは、すこぶる強かった。方言などは、余所者を見分ける為に出来た言葉であるとも云われる。実際に薩摩藩は、余所者を見分ける為に言葉を作ったという。それは身形が同じでも、言葉が違えば余所者である事がハッキリ認識できる為であった。

女六部が殺されたのも、小さな集落に用事があるとすれば大抵の場合、盗みを働く為だろうという決めつけがあった為からの疑念からであったのだろう。または、六部などを殺して金品を巻き上げたのもまた、その悲惨な時代を生き残る術でもあった。ただ今回の仙北からの追っ手二人も殺した後に、懇ろに供養しているのは、日本に浸透する祟りと云う文化の一環であたのだろう。殺せば祟られる。なので神として祀るか、懇ろに供養する。神仏に対する恐れは、神罰仏罰となって返ってくる恐れである。これはつまり、どんな人間でも神であり仏になれるのだと信じていたからでもあるだろう。
by dostoev | 2014-06-23 21:39 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十三話「呪いの十一面観音像」

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今から約200年前、天明の頃であった。女の六部が観音像を背負い錫杖を持って霊場の巡礼の旅の途中、大槌町の滝ノ沢の岩窟を仮の宿としているところを賊に襲われたという。
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この岩窟の脇には滝が流れ、そこには山神が祀られていた。また、その滝は"おたきさん"と呼んでいたという。

その女六部は、賊に襲われた際、観音像を持って逃げたが奪われると思ったのか、近くの沼にその観音像を沈めて種戸峠を越えて能舟木まで逃げたという。種戸峠は現在廃道で、今では人の往来は皆無で、獣道となっている。
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能舟木まで辿り着いた女六部であったが、部落の人間に罪人と間違われ道之下敷地の老木である桧葉の傍で竹槍によって刺殺されたのだと。女六部は死の間際に「妾の夫は要職にあったが、拠無い事情で六部となり旅立ち、その後を追って西国から来た。観音像を身体から離したまま命を落とすのは無念だ。その観音像を探して拝め。更に経文と八幡様の霊魂は桧葉の老木へ乗り移らせたので、その桧葉には刃物を入れるな。」この遺言を残して死んでいった女六部であったが、能舟木の部落民は、身分の高い六部を殺したと知り、後の災難を恐れて、遺体を他の場所へと運んで焼却し、証拠を隠滅したが、その夜に能舟木では火災が発生した。
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それ以来、女六部が殺害された道之下敷地には、女六部の地縛霊が出ると恐れられ、今なお伝えられていると云う。地縛霊が出るとの道之下敷地に、当時豪傑で名の知られた字の神の屋号を持つ孫兵衛は、そんなのは迷信だと言って、部落民の反対を押し切って、その桧葉の木の下に家を建て、新たに「道之下」という屋号とし、自らも孫兵衛改め、初代平之丞と称し妻のマンとその家で暮らしたが、不幸が続いた為に部落民からは「呪い屋敷」と噂された。
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時代を経て、道之下家七代目八幡福太郎の頃、妻キノエと長女ウメ、次女ハナが祈祷師和田カツエに祈祷して貰ったそうな。その祈祷師和田カツエに女六部が憑いて話すには「能舟木から東方、祝田の洞窟を仮の宿としていたが、賊に襲われ、観音像を耕田に沈めてあるから、見つけ出して拝め。」と告げたという。また別に、釜石市根浜の宝来館主である岩崎昭二が「観音像は祝田団地の高清水製材所付近にあるから探してみろ。」という予言を告げた。しかし、それでも見つける事は出来なかった。
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ところが、昭和48年4月7日に、釜石共栄大槌店新築工事に関連する側溝掘削工事の際、観音像が無傷で見つかったという。それは女六部や祈祷師などのお告げの言う通りであったが、鉄製の観音像であった為、周囲に錆が広がり、分かり辛かったのであろう。その発見された場所には現在、石碑と五輪の塔が建っている。
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そして発見された観音像を祀る社殿が、昭和52年5月14日に建立され、それと共に道之下家で安置していた女六部の御魂を昭和53年3月23日に遷し、これによって女六部の遺言でもあった観音像と同じ社で祀られる事となった。これによって長きに渡った、道之下家の呪いの宿命の帰結と悲願が達成されたのだろう。
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別当から見せていただいた観音像の姿は、恐らくその造形から十一面観音であると思う。女六部が仮の宿とした滝のある岩窟もまた、その信仰が導いたものであろうし、女六部が逃げた能舟木の途中には熊野神社が鎮座している。恐らく、女六部は熊野修験の関係であり、その導かれるままの行程での不幸な出来事であったのだと思われる。面白い話として、しばしば女祈祷師に観音様が憑依するらしいが、かなりの凶暴な性格の様で、女祈祷師はその都度"荒ぶる女神"になったらしい。

その女祈祷師に関する話も面白く、髪は赤毛で、体系も含めて日本人には見えなかったという。その血筋は、橋野溶鉱炉に外国人が働いており、その外国人の血を受け継いでいたとしている。実際にその写真を見せられたが「遠野物語」に登場する山女や天狗を想像してしまうほどのものであった。天狗や赤ら顔の山男・山女の外国人説があるが、信憑性は高いのではなかろうか。
by dostoev | 2014-06-22 18:27 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百二十二話「仙人峠の由来」

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「遠野物語拾遺5」に、仙人峠の由来が記されている。その一つは、千人の金堀りが死んだから、仙人峠となったというものと、山に仙人が住んでいたからというものがある。その仙人の異伝が「上閉伊今昔物語」に伝わっている。

時は天正年間、上郷村字細越の佐生田に倉七という正直な、独り者の樵がいた。倉七の日課は、暗いうちに山に登って山頂と御来光を伏し拝み、枯木を採っては生計を立てていた。そんなある朝、同じ様に山で伏し拝んでいると、白雲に乗った白髪の老人が現れ、倉七に対し巻物を授けた。それから、その巻物に書かれている呪文を唱えると、怪我人や病人が治ったという。また、生まれてくる子供の性別をも間違いなく当てた事が評判となり、眼病で苦しんでいた遠野公の耳に止まり、倉七は御城へと呼ばれ、遠野公の病をもその呪文で治したという。しかし、不思議に思った遠野公がその巻物を見たいと言った。白髪の老人からは決して人には見せてはいけないと言われていたが、殿様の命令には逆らえず、その巻物を見せたところ、書き記されていた文字が全て消えてしまったという。

しかし倉七は恨む事無く、その巻物をくれた白髪の老人を仙人様として厚く信仰し、一尺五寸程の木像を彫り上げ祀ったのが、実は竜神であったという。現在、堂宇は朽ち果て、その跡のみが佐生田に残っている。また、白髪の老人の現れたところを仙人と呼び、現在の仙人峠の名の起こりであると云う。
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殿様の眼病が治ったというが、遠野には広く、泉などで目を洗うと眼病が治ったとする伝説が数多くある。この伝承の場合は、ただ呪文を唱えるだけではあったが、恐らくそのどちらにも山神が関わっているのだろう。「遠野物語108」では山神が乗り移って占が当たるようになった話は、倉七が子供の性別を当てるものに似ている。実際「遠野物語拾遺237」の話では、山神と出産が深く関わっていると信じられていたようである。また、山には水が湧き、薬草も豊富にある事から、病を治すには山のモノが必然となっていた。薬草などは大抵、山伏などが教えたようであったが、それもまた山神の御加護としてのものであった。竜神として考えられるのは、白髪の老人の顔と、体が蛇である宇賀神がいる。それが倶利伽羅不動として、不動明王にも繋がってくるのだが、そこに山神と水の繋がりを見いだせる。

ただ、倉七が登った山とは、どの山であったか。御来光を拝むとなれば、やはり歩いて登った旧仙人峠の頂きであったろうか?
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仙人堂があった場所は鬱蒼とした茂みの中で、とても御来光を拝める場所では無いから、更なる高みまで倉七は登ったのだろう。気になるのは「山頂を伏し拝んだ。」という事だが、自らが登った足元の山頂に対して伏し拝んだのであろうか?ただ、その頂の先には、仙盤山がある。仙盤山は、伝説の猟師旗屋の縫の伝承があり、神の鹿を千晩籠って待って撃った事から千晩山ともいうが、通常は仙人の「仙」の字をあてている。もしかして関係があるのかはわからないが、太陽の昇る方向に聳える仙盤山に向かって伏して拝んだとしても、何等不思議は無いだろう。
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ただ一つ気になるのは、山形の湯殿山方面に仙人沢という地があり、その山の景色がまるで仙人峠手前の方岩に非常に似ている。遠野は羽黒修験の影響を受けている事から、その湯殿山の仙人沢の景色を、遠野の仙人峠に投影したのでは?と考えてしまう。いずれ、その仙人沢は、詳しく調べる予定だ。
by dostoev | 2014-06-21 21:13 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)