遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:遠野不思議(伝説)( 39 )

遠野不思議 第八百七十七話「とんでもない琴畑の娘」

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土渕の琴畑に、一人の長者がいた。一人の娘がいたが、縁あって小国の長者へと嫁がせたのだった。だが、その娘にとって嫁ぎ先がどうも気にくわない。それで、実家に帰ろうと思ったと。しかし昼間は人目があるので、皆が寝静まった夜中に小国の屋敷を忍び出たと云う。小国と琴畑の境には、白望山の高峰が聳えている為、そこを進むには鬱蒼とした樹木を掻い潜って進まねばならず、ましてや闇夜であるから先が見える筈も無い。意を決した娘は、小国の屋敷に火を放った。棟高く甍を連ねて建てられた長者の屋敷が燃え盛る様は、その火の明りが幾十里の遠き山々まで照らし、その明りを頼りに娘は無事に琴畑の実家に帰ったと云う。その娘の帰宅に合わせる様に、小国の屋敷も鎮火したのだと。

              「遠野くさぐさ(琴畑長者が娘の事)」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野くさぐさ」の話は、文章を若干修正して紹介している。そしてこの話を、どう言ったらよいのだろうか。ともかく、とんでもない琴畑の娘の伝説である…。
by dostoev | 2017-12-30 16:56 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百七十四話「上郷の獅子踊り」

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下郷に対して、上郷の獅子踊りの元祖は、松崎村駒木の角助と云う人になっている。

今は昔、この角助は遠野南部氏に仕えて鎗持ちをしていた。或る年の事、領主がお伊勢参りに出かけたのであるが、角助もまたこれに従った。旅の途中、遠州の掛川に着いた。そこには偶々大きな祭典があり、まことに賑やかであった。殊に勇壮にして珍奇なる踊りが、衆人の目を引いた。その踊りこそ、獅子踊りであった。鎗持ちの角助も之を見ていたが、興に乗じて帰るのも忘れて終日見ていたので、遂に領主の一行と別れてしまった。夜になって宿を求めたが、一晩中心配し通しで、眠る事が出来なかった。翌朝、宿の主人に事情を打ち明けて相談した。すると主人は、こう述べた。

「あなたが今になって、主人の行列に借りに追いついたとしても、罪は決して軽くならないで、かえって罰せられるだけだろう。それならば、その踊りを覚えて国へ帰り、この踊りを組織して、改めて領主に事情を話して謝ったなら、或は許す事もあるであろう。」

角助は宿の主人の教えに従って、決然意を堅くし、槍を宿主に託して、其の翌日から踊りの教えを受け、三年有余の年月を経て故郷へと帰った。

角助は領主へ事情を訴えて謝ったが、領主も偉い人で罪を問わず、直ちにその踊りを見たいと旨を申された。角助は喜んで居村であった駒木の若者を集め、数ヶ月にして習熟し、上覧に供した。領主は思いのほか喜ばれて褒美を与え、更に領内に広めるようにと仰せを出し、各村々にも伝わったとされる。従って別名を角助踊りとも云い、その時踊った場所を角助の踊り場として、今に伝えられている。

                        「上閉伊今昔物語」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前回紹介した「下郷獅子踊り」の続きでもある。しし踊りは現在の遠野に13団体があり、分派もあれば、独自に伝わったとの由緒もあり、正確にどうして遠野にしし踊りが伝わったのかは、不明であるようだ。私は角助とは、しし踊りの踊りををまとめた人だと、漠然と覚えていた。だから、この伝説を読んでも、ぴんとは来なかった。このしし踊りの由来は、あくまで「上閉伊今昔物語」に掲載されている伝説の一つとして読んで欲しい。

下郷としての綾織のしし踊りだが、伝えによれば中宿の金成という屋号の家の祖先が宮城県の金成村のしし踊りを伝えたという。その後、中宿だけではなく、日影や砂子沢にも伝わったが現在は、一つにまとまって活動していると云う。また、綾織の山口では、かってしし踊りがあったが、飢饉に連動して、それから踊られなくなったとの伝説もある。

例えば小友町の長野しし踊りは、西来院を開創した興庵篤隆和尚に同行してきた現在の一関の東山五書が、慶長二年(1597年)に子孫繁栄を願って伝えたそうだが、その遠野のしし踊りが、釜石の小川町に伝えられ今でも踊られている事から、しし踊りの魅力が岩手県の人々の心をとらえ、あちこちに広がっているようである。そして現在でも、しし踊りを習いたいと云う人達もいる事から、しし踊りの連鎖は、今でも続いているようだ。こうなってくると、しし踊りの元祖とか本家とかは、どうでもよくなってくるものだ。とにかく、古来から人々を魅了し熱狂させた踊りがしし踊りであり、それを垣間見た者達が、まだ伝わっていないオラが村に伝え広めてきたのだろう。その枝葉が無数に広がったのが、今に至っているのだと思える。
by dostoev | 2017-12-18 17:13 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百七十三話「下郷の獅子踊り」

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昔、綾織の新里に六助という者がいた。どうしたはずみか、カマドを返して村に居る事が出来なくなり、旅へ出たと云う。どこをどう旅しているかわからないまま、今の静岡県まで行ったそうである。ところが眼前に、大きな川が行く手を遮ったそうな。ただ橋はあるにはあったが、制札があり、そこには橋銭を支払って渡る旨が書いてあった。見ると橋守はおらず、橋銭を入れる箱が一つあるだけであった。六助は、はたと困った。無一文であったのである。暫く待っていると、橋守がやって来た。六助は事情を話し、一句詠むから渡らせてくれまいかとお願いした。橋守も気の毒に思い、許してくれたと云う。

家で 鍋かけかねて 旅かけて 又掛けかねる 掛川の橋

六助はこう詠って、橋を渡らせてもらった。橋を渡らせて貰ったが、無一文では旅が出来ないので、この掛川の農家に奉公したのであった。ところが、この掛川にはまことに勇壮にして面白い踊りがあった。これが所謂、獅子踊りであった。六助は農家に奉公している間に、この踊りを覚えてしまった。六助は、カマドを返して村に迷惑をかけたので、この踊りを村の人々に教えて、村の人達の明日への糧にしようと、綾織の生まれ故郷に帰って伝授したと云われている。それ故、獅子踊りの別名を掛川踊りとも云うそうである。その踊り場は、小枕山の裏側のシザンと云うところで、其処は草の生える暇が無かったと云う事である。  

                        「上閉伊今昔物語」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
現在の遠野市には、上郷町はあっても下郷町は無い。遠野の町には、上組町があり、下組町がある。それ故に、上郷町という町名だけが浮き出ているように思っていたが、どうやら綾織町を別に"下郷"と呼んでいたようである。

「竃(カマド)を返す」とは、竃は台所にあるものだが、それが財産だと転じて考えられた。そのカマドがひっくり返る事とは現代で言えば倒産であり、自己破産である。昔は、村単位の共同体でもあった筈だから、やはり同じ村の人達に、迷惑をかけたのだろう。

またこれは「上閉伊今昔物語」に紹介されている話だが、気になったのは橋銭の代わりに詠んだ歌が、三・七・五。七・七という歌になっており正しい形を成していない。出だしの「家で」は、もしかして別の言葉が削られていたのかとも思う。

小枕山は、天保年間に定められた、遠野八景の一つ「小枕暮雪」と云われた山で、今の桧沢山となる。小枕は昭和時代まで草刈場だったが、今では、利用する事もなくなったようだ。年の暮れに、雪で白くなる小枕は美しいと言われ遠野八景に定められたのだが、明治時代に定められた遠野八景からは、その姿を消している。 シザンの場所は、不明。
by dostoev | 2017-12-17 18:38 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百七十二話「諏訪神社の埋蔵金」

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昭和になった頃の事、和賀郡土沢村から法華宗の祈禱をする巫女が毎年、光興寺周辺へ来ては、各家々を廻って祈禱していたと云う。ある時、その巫女が諏訪神社を参詣した時に、社前の左右にある樹齢数百年を経たヒバの大木を眺め「ああ、此の木の根かたに小判が累々と埋もれているのが目に映る。私に所得の幾割かくれるならば、確実に其の場所を教えよう。」と言ったそうだが、未だに誰も掘り当てた者はおらず、今に至るようだ。「山屋長次郎氏談」
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実は、この諏訪神社の埋蔵金らしきは、贋金ではないかと噂される。慶長五年、阿曽沼氏が没落の後、南部氏の統治に代わった頃は、まったく政治が行われず、他領から悪者共が遠野地域に入り込み、暫く乱れた時代であったようだ。今は地名だけ残っている光興寺であるが、元はれっきとした光興寺という寺院があった場所である。東禅寺の無尽和尚の弟子が光興寺の住職を務めていたと云われるが、阿曽沼氏の統治する時代は繁盛し、かなりの裕福な寺であったようだ。

その乱れた時代になり、ある者が光興寺の住職を騙し、資金を出させて、仙人峠の窟で贋金を造り、間道をもって釜石に通じて、船で他領にその贋金を流したという事である。しかしそれが露顕し、悪者達は捕われ、御詮議された事から、光興寺住職の関与がわかったのだと。それから、光興寺が取り調べられたと云う。寺の床下には大きな木櫃があり、その中には沢山の贋金が入っていたそうである。それから光興寺の住職は追放、寺は廃寺となった。その光興寺の地続きに諏訪神社である事から、未発見の贋金が埋められているのではとの噂もたったようである。
by dostoev | 2017-12-16 21:02 | 遠野不思議(伝説) | Comments(4)

遠野不思議 第八百七十話「大日の牛」

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病人が出ると、特に重病であったり、又一家に続けて何人かの人が病気になると、八卦をおいたり、神社に願をかけたりして、その難を避けようとする事は、今も昔も変わりない事であるが、神様がその病人の生死をそれ以前に知らせたと云う話がある。

今は昔、遠野町の人々は大日様に病気平癒を祈念して、毎夕方薄暗くなる頃、人家を離れた大日山の石段を登り、杉林の鬱蒼たる中を通って神前に額ずく事であった。ところが或る人が何時もの様に、夕方祈念の為石段を登って行ったところ、丁度その石段の登りつめた所にちょっとではあるが、これから坂になる所に平坦地がある。不思議にもこの平坦地に、何処からともなく大牛が現れて、その行く事を遮ったのである。致し方ないので、回り道をして参拝して帰ったが、それから其処の病人は目に見えて良くなっていった。

この不思議な話が次々と拡がると、「俺のところも牛が出た後、すっかり良くなった。」と云う人が出ると思うと「俺のところでは、一向に出なかったので、それで死んだのだ。」と云う人も出た。要するに、大日様が牛を遣わして、祈念する人に生死の程を前もって教えてくれたものだと云われている。尚、病気平癒で神に祈願する場合は、裏道の近道を通っては効き目が無い。いくら遠くとも、表通を通らなければならないと云われている。     

                     「上閉伊今昔物語」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔の大日山の近辺には、人が住んでおらず、夕暮れに訪れるには、少々薄気味悪かったものと思われる。そして一般的に"大日様"と呼ばれる神社は、比叡山と関係する日枝神社なので、普通は猿が使役となるのだが、この話では牛という事になっている。恐らくたまたまだったのだろうが、神域で起きた事である為、こうして神様の仕業となった話ではなかろうか。
by dostoev | 2017-12-11 20:05 | 遠野不思議(伝説) | Comments(3)

遠野不思議 第八百三十九話「片角様(遠野のハロウィン)」

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遠野南部時代に「片角様御開帳祭」という奇妙な祭があった。これは女殿様でもあった清心尼公が始めたものとされている。吉田政吉「新・遠野物語」によれば、遠野南部の先祖である波木井六郎実長が大の日蓮信者であり、片角様の起こりは、その南部氏の出身地である甲斐国の日蓮宗総本山である身延山の七面堂から発せられている。その七面堂で日蓮と七面大明神の絡みに、波木井氏が絡む伝説があるのだが、その伝説だけで終わらずに、尾鰭の様にくっついた伝説から片角様が出来上がったようだ。ところで七面大明神とは、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる龍の女神である。その七面天女が日蓮と波木井氏との別れの際に、自らの角を折って1本を日蓮に、1本を波木井氏に与えたそうである。つまり片角様とは、龍でもある七面天女の角という事として伝わっていた。
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「片角様御開帳祭」は、年に一度だけ片角様を拝観する行事で、遠野の鍋倉城では正月16日に行われていた。そのお祭りの日には、身分の低い者の中から祭男が選ばれて、その者に片角様が乗り移り、殿様を含めた者達の非行や不義を、片角様が叱るという行事であったようだ。確かに片角様は殿様よりも偉い神という立場ではあるが、声を出して叱るのは身分の低い家臣である。神が乗り移ったとは言っても、形だけではあるから、当初は殿様を叱るという事が快感であったろうが、殿様からしてみれば家臣が常日頃、どういう不満を持っているか理解できる祭りでもあった。ある意味、殿様が家臣を計る為の祭であったのかもしれない。

また殿様だけでなく、身分の低い者に叱られる家臣達はたまったものでは無い。叱る内容は、噂程度で聞こえるものが主体ではあったようだが、殿様の耳に入れたくない話もあった事から、年々片角様の評判がすこぶる悪くなっていったという。だが風儀維持には中々良い面もあるので細々と続いていたが、だんだん参加する者が居なくなったという。いくら神でも、参加者がいなくては神としての威光は成り立たない。今まで城内で行われていた片角様のお祭が、いつしか城外に進出し、叱り飛ばす相手を町人や百姓に対象を代えた為に、町中で大恐慌となったそうである。そうなると町人も百姓も、当初は物珍しさから集まっていたが、途中からは誰も集まらなくなってしまったという。すると、誰かが「それなら此方から出張して御開帳をやろう。」と言い出し、それからは金持ちである役人や町人の家に押しかけて、片角様の御開帳を行い悪口を並べ立て、金か酒が出ないまで帰らなかったという。「酒か金、それとも悪口?」・・・こうなれば、まるで西洋のハロウィンのように「Trick or Treat(トリック オア トリート)」「悪戯か、お菓子か?」である。しかし、西洋のハロウィン文化よりも、かなり性質が悪かったようである(笑)
by dostoev | 2014-12-09 19:28 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

遠野不思議 第八百三十三話「座敷少女?」

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佐々木喜善「遠野奇談」によれば、遠野市新町に奥田某という家の婆様が、用事で二階の座敷へ行くと、そこには非常に綺麗な17歳くらいに見える娘が赤い着物を畳んでいたが、婆様を見ると、慌ただしく立ち上がり、奥の部屋の方に隠れたという。これもまた座敷ワラシであろうとしているが、この前の座敷婆子も含め、屋敷に現れる物の怪を全て座敷ワラシにしてしまうのには無理があると思える。単純に幽霊でもよさそうなのだが、幽霊には足が無いという昔の定説に従えば、幽霊では無いとされる。「遠野物語」を含め、遠野の伝承などを読んでいると、座敷に現れるのは座敷ワラシで、怪しい出来事の殆どは狐の仕業と相場が決まってしまうのは何故か。それは、そうした方が無難であるというのも理由であろう。それよりも、幽霊と座敷ワラシとの境界線が曖昧な事が、一番の理由ではなかろうか。
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座敷ワラシの多くは5、6歳の少女とされている。7歳までは神の子とされた時代、7歳未満の子供というのは、人間を逸脱した存在であるとされていた。それ故に、7歳を過ぎて普通の人間に戻るのであれば、二階の座敷に現れた17歳くらいの娘は、座敷ワラシでは無い、別の存在という事になる。神話世界に少童神が登場するのだが、その少童神は歳を取る事無く、その姿を維持している。神という存在になった時点で、どうも成長は止まるようだ。それならば、座敷ワラシもまた神に準ずる存在であるならば、その成長は止まったままで、永遠に7歳未満の子供の姿を維持している筈である。

童とは、一人前に見做されない存在である。当然座敷童子とも書き記す事から、座敷ワラシは男にも女にも成りきれない、どちらかといえば中世的な存在となる。例えば、幼名というものがあるように、また昔は髪型が成長と共に変化していくように、子供から大人へと、体も含め、名や髪型を変えていったものである。「梁塵秘抄」に、こういう歌が載っている。

遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、

         遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ


子供の遊びは、いわば神の子の遊ぶ姿であり、それは傍目からただ眺めるだけだった。座敷ワラシが目の前に現れても、それは神の領域であろうから、ただ眺める、もしくは見つめるだけで、それを自然のものとして捉えるしかなかった筈だ。何故なら、神とは自然そのものでもあるからだ。ところが17歳というば生理が始まっており、もう既に大人の女性である。現代ならば、17歳はまだ少女であるとも云えそうだが、昔は既に嫁ぐ事の出来る年齢である。柳田國男は22歳の頃、16歳の少女に恋い焦がれたという。それは既に大人の女性と見做していたからであった。となれば、17歳の少女を座敷ワラシと見做すには、少々無理があるというもの。ただしかし、大物忌という存在が神社界には存在する。大物忌とは、神聖童女祭祀者であり、神に奉仕する少女であった。幼少の頃に選任されれば、父親の死に遭遇しない限り成女となるまで神に奉仕続けるのだった。漫画で恐縮だが、西森博之「鋼鉄の華っ柱」にも、この大物忌が紹介されている。代々続く古い家柄では、この制度を今でも採用しているものかもしれないと思えるような漫画であった。それはつまり、世間からは隠された存在。ある意味、奥座敷に閉じ込められているようなものであろう。しかし、神に奉仕するという大事な使命を帯びている事から、それを名誉として受け継がれてきた歴史がある。神に奉仕する存在が、限りなく神に近い存在であるならば、この奥田家に現れた少女もまた、人目については成らない、大物忌のような神の一人であったのかもしれない。
by dostoev | 2014-10-31 20:12 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百三十二話「お湯を飲め」

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佐々木喜善「遠野奇談」には、飢饉の悲惨な話がいくつか紹介されている。その信憑性には疑問符が付くものの、取り敢えず佐々木喜善の紹介した飢饉の話として残っている事実だけは確かであろう。

ある時、少年が年上の男に行き会った。その男は少年に向って「お前は飯を食べたのか。」と聞くと「食べた。」と答えた。「それならば、その後にお湯を飲んだか?」と聞くと少年は「飲んでねぇ。」と答えた。すると、その少年を殺して腹を裂き、胃の中の飯を取って食べたという。

それから「食後には、必ずお湯を飲むものだ。お湯を飲まぬと、食ったものがそのまま腹の中で崩れずにあるものだ。」これも生きる為の一つの術であったのだろうか?佐々木喜善とその同時代の子供達は、この話を聞かされた育ったという。この話は「遠野物語53」にも通じる話であるが、この「遠野物語53」と同じ話が鳥では無く、リアルな人間の話として伝わっていた。これは次の記事で紹介する事とする。
by dostoev | 2014-10-30 12:54 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)

遠野不思議 第八百三十一話「座敷婆子(ザシキバッコ))」

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佐々木喜善「遠野奇談」には、座敷婆子なるものの紹介がある。座敷童子は家に棲み付き、その間家は繁栄すると云われるが、この座敷婆子には、そういう話は無いようだ。

土渕の大洞某という男が、上閉伊郡栗橋村の清水という家に泊まりに行った時の事であったと。奥座敷と表座敷の間くらいの部屋に泊まった時、何だか変に眠れない夜中の事、床の間辺りに何者かがゲタゲタと笑っていたのに、うつらうつらしていた意識が戻ったという。布団から頭を上げて床の間の方を見やると、そこには坊主頭の老婆が蹲って布団の男の方を見つつ笑っていたのだと。それからその座敷婆子は、四つん這いになってその男の方に這って来ては後戻りし、それを二三度繰り返すと、再び男に向って笑うのだそうな。男も恐ろしくなったのか、やはり四つん這いになって逃げだしたそうだが、それを家人に見つかり、大笑いをされたそうな。家人はその座敷婆子に慣れているようで「お客さんは、昨夜逆夜這いをされて、さぞお楽しみであったろう」と揶揄されたそうである。

座敷という名が付く婆子であるが、これを座敷ワラシと同列に扱って良いのか疑問になる。ただ言えるのは、座敷に現れる妖怪という意味では、座敷ワラシも座敷婆子も同じなのだろう。想像するに、実際その家に棲む老婆が、客に夜這いをかけにきたとしても、妖怪であろうが、実在の人間であろうが、どちらにしろ座敷婆子とは、恐ろしいものであるのだけは理解できる(^^;
by dostoev | 2014-10-29 12:59 | 遠野不思議(伝説) | Comments(0)

遠野不思議 第八百三十話「真似牛の角と伝説の正体)」

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山口直樹「日本妖怪ミイラ大全」に、「真似牛の角」の話が取り上げられている。遠野の善明寺に伝えられる「真似牛の角」との違いを確認してみよう。

宮城県北部、栗原市栗駒にある浄土宗の名刹、往生寺には、奇妙な一対の角が残されている。西暦1200年頃、栗駒町から八里ほど南の小牛田町に、貧しいながら情け深く、信仰心に篤い農夫がいた。ある時農夫は、貧相な旅の僧を助け、手厚くもてなした。するとこの僧は居心地が良いので、いつまでも農夫の世話になり続けた。

ところがある夜、その僧が夢に現れ「念仏も唱えずに過ごした自分が恥ずかしい。この罪は免れないので、農業に務めて御礼がしたい。」と告げた。その言葉通り、僧は大牛に変わっていた。そしてこの大牛の働きにより、農夫は裕福になったのであった。

数年後、この話を聞いた栗駒の農夫が、奥州に浄土宗を広めていた金光上人を無理やり招き入れ、もてなした。しかし、金光上人は毎日のように念仏を唱えるから、一向に牛にならない。それどころか逆に、農夫自身が牛になってしまったのである。金光上人は京都の法然上人のもとへ走り、助けを請うた。すると法然上人は自身の坐像を自ら刻み、それを金光上人に託した。金光上人は栗駒へ戻ると法然上人坐像を祀り、農夫の家族らと念仏を唱えた。すると角も毛も落ちて、農夫は元の体に戻ったのである。

この角の逸話は、御利益のあった小牛田の小牛田の牛物語を真似た事から「真似牛伝説」と呼ばれ語り継がれている。その戒めとして真似牛の角は、今も往生寺に残されている。

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遠野市善明寺に伝わる「真似牛の角伝説」と善明寺の寺宝の「真似牛の角」


今の宮城県遠田郡に貧しいけれど、信心深い農夫がいた。ある時、通りかかった乞食僧を助け世話したところ、実は偽の坊主で、その罪業の深さにより、ある日大きな牛になってしまった。貧しい農夫は、この牛の働きにより次第に裕福になった。

近郷の栗原郡に住んでいた愚かな農夫は、その話を妬ましく思い、自分も旅の僧が来るのを待っていた。そこに通りかかったのが金光上人で、農夫は無理矢理上人を納屋に閉じ込めて、牛になるのを待っていたところ、逆に悪心の報いか、体には黒い毛が生え牛になってしまった。ただ顔は人間のままで頭には角が生えていた。金光上人の法力ではどうしようもなく、師である法然上人に救いを求め、京都に戻ったという。法然上人は自ら自分の木像を作られ、金光上人に手渡し「自分は助けに行けないが、これを私だと思い、念仏の功徳を広めるように。」と諭された。

栗原郡に戻った金光上人は七日間の法要を勤め、牛になった農夫を元に戻してやった。この農夫はその後悔い改め、金光上人の弟子となり、正牛坊と名乗り、金光上人を追って遠野に辿り着き、遠野の地で亡くなったと云う。その時の正牛坊の所持していた牛の姿の角の一本が、画像の角だという。

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実は、何故「真似牛」と呼ぶのか知らなかったのだが、宮城県小牛田町の「牛飼長者伝説」に類似している事からの命名であるようだ。その「牛飼長者伝説」とは下記の通りとなる。

牛飼村に伊藤孫右衛門という百姓が住んでいた。或る日の事、一人のみすぼらしい格好をした旅の坊さんが家の前で佇んで、食事を乞うていた。孫右衛門は坊さんを家の中に招き入れ食事を与えた。そして、その坊さんの為に、新しい小屋を建てて住まわせ、朝夕心を尽くして、食事や身の回りの世話をした。春が過ぎたある朝、孫右衛門がいつものように小屋に入ると、大きな牛が一匹横たえていた。その顔は間違いなく坊さんの顔であった。坊さんは「私はこれまであなたが汗水して手に入れた食物をたらふく食べ、無為徒食で生きて来た為に、罰が当たりました。これからはあなたの家畜となって一生懸命働きましょう。」と涙ながらに話した。牛の力によって、孫右衛門の田畑の開墾は進み、しかも収穫量も増えたので、孫右衛門は牛飼村一番の長者になった。
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まず小牛田の伝説は、その牛の顔が間違いなく坊さんの顔であったという事から、件のようである。「件」とは「人」と「牛」が組み合わさって「件」という牛人間であるが、戦や天変地異などの真実を語る神の神託を唱える巫女の様な存在でもある。そういう意味では、遠野に伝わるオシラサマと近いが、これは別の機会に書く事としよう。

遠野の善明寺に伝わる地名は宮城県の遠田郡であるが、「牛飼長者伝説」の牛飼村は小牛田町の大字に「牛飼」という地名がある事から、そこではないかと云われている。「和名類聚抄」では小田郡と呼ばれていたようだが、遠田郡も小田郡も同じである。小田治「山伏は鉱山の技術者」によれば、小田とは鉱山堀に繋がる地名であり苗字である事から、もしかして小牛田と岩手県に広く伝わるウソトキ伝説との関連も見出せるかもしれない。また遠田郡は聖武天皇時代に、にらの大仏の建造に必要であった金が初めて日本で発見された場所でもある。そういう事から、金と牛との関係が深いであろう。
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ところで牛の角だが、遠野に放牧されている牛は画像の様な短角牛であり、その当時の牛の品種はよくわからない。ただ、「件」の絵の角と短角牛の角が近いので、妙に角ばって見えるものの、その時代にいた牛の角であろうか。
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ただ、遠野の善明寺に伝わる角は、妙にほっそりとしている。これはカモシカの子供の角のように見える。普通の牛の角は、仔牛であっても、もっと太い筈だ。牛もカモシカも同じウシ科に属する為、似ているといえば似ている。
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カモシカは成長すると、画像の様に太くごつくなる。牛鬼は西日本で広く伝わるよ妖怪だが、そのモデルはカモシカであると云われている。東北に比べて西日本ではカモシカが少ない為に、たまに出現するカモシカを妖怪としてみたのかもしれない。そういう意味から考えれば、真似牛とは小牛田に伝わる伝説に似ているから真似牛伝説となったのだが、牛に似ているカモシカも真似牛であるとも云えるのか。ただ、小牛田の伝説には角が残っていないのに対して、栗駒の往生寺も、遠野の善明寺も角がしっかりと残って伝わっている。どちらも真似牛と呼ばれる事から、伝説の原型は小牛田の伝説であろうが、角を有する事で寺に伝わる伝説の方がリアリティが増す。それが布教の手段と考えてしまえば、角を持ち込んで小牛田の伝説に結び付けたとも考えられる。

栗駒の往生寺と遠野の善明寺に伝わる話は、ほぼ同じなのだか、往生寺には伝わらない後日譚が遠野の善明寺には伝わっている。邪な考えを持った農夫が自分に尽くしてくれた金光上人の弟子となり、遠野に来たと云う事だ。しかし、往生寺にも善明寺にも、その農夫の角が伝わるという事は、やはり浄土宗の布教活動の一環として「真似牛伝説」が利用されたのではなかろうか。何故なら寺そのものが伝説の起源を強く名乗らず、「真似牛」であると甘んじている事が、その真実なのであろう。
by dostoev | 2014-09-15 20:23 | 遠野不思議(伝説) | Comments(2)