不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:民俗学雑記
2023-12-17T19:44:59+09:00
dostoev
遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
Excite Blog
夜泣きと乳の粉
http://dostoev.exblog.jp/33716979/
2023-12-17T19:44:00+09:00
2023-12-17T19:44:59+09:00
2023-12-17T19:44:59+09:00
dostoev
民俗学雑記
遠野高校の敷地内の一角に、夜泣き神様(夜泣稲荷)の社が鎮座している。赤ん坊などが夜泣きすると、夜中でも行って参拝すると、不思議に夜泣きが止んだという。夜泣きは、今も昔も赤ん坊がするものだが、神様にすがるほど昔は夜泣きに苦労したのだろうか。赤ん坊の夜泣きの原因は、単純に言えば赤ん坊にとっての不快感だろう。蒸し暑い、寒い。煩い。お腹が減った。体調不良etc。不快感を親に訴える為に、泣く。そういう意味では、現代よりも昔の方が不快感は多かったろうと思う。沢山美果子「江戸の乳と子供」には、乳の出ない母親の代用品としての「乳の粉」の事が書かれている。「乳の粉」とは、寒ざらしにした米の粉を水で溶いで煮沸した乳の代用品との事。その乳の粉の宣伝文句は「ちゝなき子をそたてる薬」と書かれており、現代での過大広告を思い出す。値段を現代に換算すると、一袋が約563円になるそうである。それが高いのかどうかは、なんとも言えない。ただ成分に着目すれば、米問屋あたりが販売すれば、ぼろ儲けになったのではなかろうか。こういう乳の粉というものが売り出される自体が、それだけの需要があっての事なのだろう。この乳の粉は江戸を中心に、四国や東北まで広まっているようだ。「仙台郷土研究」には、一関藩(現在の一関市)の武士が、妻の産後の肥立ちが悪い事から、藩に対して乳の粉の支給願いを提出している事が記されている。遠野は南部藩であるが、恐らく遠野にも乳の粉は伝わっていたのではなかろうか。ところが、明和生まれの江戸時代後期の絶対主義的思想家である佐藤信淵が、その著である「経済要略」の中で、「世間で「乳の粉」と言って、乳の乏しい家で用いるものがあるが、これを長く用いると背中に酸汁を生じ、或いは癇癪を発す。必要の良法に非ルナリ」と乳の粉に警鐘を鳴らしている。事実、林俊一「農村の母性と乳幼児」によれば、貧しい東北の農村では昭和期になっても乳の粉が用いられ、それが乳児死亡の原因とする調査もなされているようだ。
医療技術の発達した最近では、あまり聞く事が無くなったが、昔は産後に死亡する母親もかなりいたらしい。そうなると、残された父親や、その祖父母が赤ん坊の面倒をみなくてはならない。そんな中、泣きわめく赤ん坊に取り敢えず乳の粉を与える人達がいたのではなかろうか。
以前某テレビ番組で、ある部屋に置かれている物を少しだけ移動して、それをそれぞれ複数の男女にそれを見つけてもらうという実験があった。そして、それを発見するのは全て女性であったと。その番組では、女性は"空間把握能力"が男性に比べて遥かに高いのは、赤ん坊の微妙な表情を読み取って判断できるからだと。だから子育ては、女性が適していると。ところが、それが江戸時代であれば、その母親が亡くなれば、その赤ん坊の死亡率がかなり高まるという事だろう。
もしかしてだがこの夜泣き神様には、貧しい遠野の民が様々な理由から乳の粉に手を出して、癇癪を頻繁に起こした赤ん坊が多く連れて来られたのではと想像してしまうのだった。泣き止んだのは、親に抱っこされ散歩した事から、その赤ん坊の機嫌が良くなったなどの可能性もあるだろうか。
]]>
本当は恐ろしい東北六県の謎
http://dostoev.exblog.jp/33611026/
2023-11-19T20:30:00+09:00
2023-11-21T00:42:20+09:00
2023-11-19T20:30:04+09:00
dostoev
民俗学雑記
往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。
「遠野くさぐさ(キタガメ)」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー遠野から車で107号線を走り北上市へ行く場合、北上の街の手前に北上川が流れている為に、珊瑚橋を渡っていた。ところが後から、日高見橋が造られ、今では普通に日高見橋を渡っている。日高見橋の完成は、平成五年(1993年)。翌年の平成6年には鬼の館がオープンしているので、この頃は北上市が大々的に歴史と民俗を宣伝し始めたのだと思う。ところで「北上(キタカミ)」は確かに伊能嘉矩の言うように「日高見」の可能性はあるだろう。しかし、その前に「北上」は「ホクジョウ」と読む。
例えば「上京(ジョウキョウ)」という言葉がある。以前の都は、平安京のある京都である事から、都を中心とした考えから上京とは、京都へと行く事だった。ところが、徳川幕府が江戸城を構え、中心が江戸へと変わっり、明治時代になり皇居がその江戸城となった事から、今の都は東京という事になり、「上京」するという事は、東京へ行くという事になった。ところが、紀元前から中国の定説であり、日本に輸入された考えが「天地玄黄(てんちげんこう)」であった。これは、東西南北を守護する四神という四方に拡がる水平軸の考えよりも単純な、天と地という垂直軸により成り立っているという観念。そして天とは玄であり、黒。これは陰陽五行において、北を表す。また地とは、黄で示すのだが、これは地面の更なる下の黄泉をも含むものとなる。つまり古代中国の天とは、北の事であった。厳密にいえば、北に聳える山。そして古代中国における玄武とは、水神を意味すると云う。これを日本に当て嵌めれば、北上とは東北・北海道へと向かう事でもある。辞書で「北上(ホクジョウ)」と調べても、ただ単に「北へ向かう事」とだけ述べている。ところが先程述べた「天地玄黄」に則って作られたものが地図である。地図の常に上は、北となっている。これはむ北が天を意味しているからであった。しかし、それでは面白くない人達が大勢いる。例えば、河北新報社の名称の由来は、明治時代の政府の人に「白河以北一山百文」と、東北を軽視した発言に奮起して名付けた社名となったのは、余りにも有名。そんな言葉を吐く明治政府の人間が「北上」が天を示す言葉であるのを、許せる筈も無かっただろう。
東北が軽視されていた明治16年、上野に駅が開設された。明治24年には、青森まで26時間で到達する線路が開通し、"東北の玄関"とまで言われた。しかし"東北の玄関"とは、奇妙な言い回しである。何故なら、風水により鬼門の玄関は不吉とされていたからだ。何故なら、江戸城(皇居)から上野の地は鬼門として扱われていた。その鬼門に"東北の玄関"を設置したのは明治政府だった。わたしはこれに対し、常々違和感を抱いていた。そしてもう一つの違和感は、何故に東北六県だったのか。明治四年(1871年)に、明治政府の行政改革である廃藩置県によって、東北の地は六県となった。
ところで遠野市小友町に、「六地蔵と冥道」という名所がある。謂れは明確でないが、全国に広がりを見せる話から来てるものと思われる。その話とは、「昔ある人物がに夜道を歩いていると、道の分岐点に差しかかったという。ところがどちらの道へ行って良いのか迷っていると、六体の地蔵さんが現れ、行くべき道を指してくれたという。」である。「遠野物語拾遺223話」に六道の石碑の事が書かれているが、"六道"とは「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」であるとされる。または、第六天魔王などがいる事からも、六という数字は不安をあおる数字である。これが西洋となれば、666は悪魔の数字となる。何故、東北六県なのだろうか。例えば個人的見解だが、津軽と南部の争いから、青森と八戸を分けても良かったのだろうが、同じ青森県に属したのは地形だけの話だったろうか。
東北六県の一般的な説は「陸奥(むつ)」だから「六つ(むつ)」に分けたとの事。しかし「六つ」という用法は、「暮れ六つ」「明け六つ」などで、酉の刻から卯の刻。つまり「六つ」とは、暗くなってから明るくなるまでの"闇の時間帯"に使用する。思えば古代、常陸の国から蝦夷国の境界に、境の明神と呼ばれるものが設置された。常陸国側には、「伊弉諾」が祀られ、蝦夷国であり現在の福島県側には、「伊邪那美」が祀られた。これは何を意味するのかと言えば、「古事記」では"千引きの石"によって、生きている人間の世と黄泉国である死者の世が分けられた。そう、伊邪那美が祀られた側は、黄泉国である闇の世であるという意味となる。まさに六つの時間帯は闇の世である。
東北の玄関である、上野駅に戻ろう。江戸城(皇居)から上野駅は、鬼門である。その鬼門からやって来るものとは誰か。それは、鬼である。さんさ祭の謂れは、坂上田村麻呂が悪い鬼を退治して、村人が「さんさ、さんさ」と喜んび踊った事からと伝えられるが、その悪い鬼とは蝦夷であった。宮元健次「江戸の陰陽師」によれば、青森県には北斗七星型に、七つの神社が建立されたという。神社そのものが、都の文化であった。その七つの神社から、蕨手刀が出土したという。蕨手刀は、蝦夷が使用した刀と認識されている。平安時代、神社は現世利益を唱えて、人を集め利益を上げようとした。現代でも、御利益を期待して神社を参拝する人が、後を絶たない。それが迷信の横行する古代ともなれば、それを信じてどれだけの人が訪れたのか。
「鬼を以て鬼を制す」という言葉がある。例えば、前九年の役で安倍氏が破れたのは、古代東北の蝦夷直径の在地豪族である清原氏の裏切りが大きかった。ある意味、清原氏の裏切りも、鬼を利用して鬼退治した話、つまり「鬼を以て鬼を制す」であった。相撲の四股とは、地鎮祭の原初でもある。つまり地面を踏み固めるとは、その地を鎮める行為である。それでは、青森県の神社に埋められていた蕨手刀は、どう意味だったか。つまり、現世利益を信じて神社に集まって来るのは、蝦夷国の住民。その大勢の住民が訪れる事により、その地が踏みしめられ鎮まる。その下には蕨手刀が埋められているという事は、蝦夷の反乱を鎮める意図があったと思われる。これもまた「鬼を以て鬼を制す」である。
そして、上野駅に戻る。明治政府の人間により「白河以北一山百文」と東北が軽んじられた時代、東北(鬼門)の玄関である上野駅に、何かしらの呪術が仕掛けられた可能性を考えてしまう。文明開化の時代に呪術?と思う人がいるかもしれない。しかし、昭和時代に建立された遠野市の福泉寺の初代和尚は、戦時中に日本軍に呼ばれ、その当時の対戦国であるアメリカのルーズベルト大統領を呪い殺す事を行っていた人物であった。福泉寺の和尚は、呪いという観念が、昭和の時代にも続いていたという生々しい事実の生き証人でもあった。古くは、蝦夷の反乱を恐れて。また新たな時代には、東北の民が常に従順であるように、何かの呪術を上野駅の下に埋められたと考える。ゆえに私は思う「上野駅の下には、何かが埋められている筈だ。」と。
]]>
照井さん
http://dostoev.exblog.jp/33589711/
2023-11-12T09:32:00+09:00
2023-11-12T09:32:56+09:00
2023-11-12T09:32:56+09:00
dostoev
民俗学雑記
千城央「エミシとヤマト」に、阿弖流為(アテルイ)の事が書かれていた。
「山道のエミシの代表は、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、延暦二一(802年)年に母禮とともに処刑された大墓公阿弖流為で、その本拠地は岩手県奥州市水沢の辺りにあって、実名は「照井」であったと推測されます。」
わたしは、阿弖流為(アテルイ)という名前に関しては調べる事も無く、ただ古代蝦夷独特の名前であり、単純にそうなのかと思っていただけだった。それが実名が「照井」となれば、遠野市にも何件かの照井さんがいる。遠野市の電話帳で確認すると、36件の照井さんがいた。その照井さんを悪く言うわけではないが、天平年間以降国家反逆罪を犯した首謀者は、斬首や島流しに加えて侮蔑的な姓名に改められた事から、阿弖流為(アテルイ)は「大馬鹿の頭領で安保の照井」という姓名に改められたとみられているそうである。
阿弖流為(アテルイ)という名前だが、以前に読んだ及川洵「蝦夷アテルイ」において、「アテルイ」の名前について述べていた。元は「アテリィ」という名かもしれないと。またアイヌ語で解釈しようと「アッテルイ(気前のいい)」ではないかなどと。また他には「アクルイ(弓の名人)」など、アイヌ語で試みるもどれもしっくりきていない様子。アイヌ語解釈は金田一京助「アイヌの生活と民俗」から、遠野にもかなり影響を及ぼしている。
また千城央は、他にも"照井"に関するものを示した。宮城県の迫川の昔は「照井川」だった。宮城県栗原市若柳に「照井様」という祠がある。宮城県大崎市小野田には「照井」の地名と6世紀後期古墳とみられる「照井塚古墳」。宮城県登米市南方町・東和町・東松島市赤井に「照井」の地名。岩手県一関市に「照井堰」。岩手県奥州市前沢区な「照井館」。これら照井の名のある場所から推察するに、照井は馬牧を持つと共に馬を使って船を上流に曳いていた可能性があると述べている。
この照井の元々は、物部系熟エミシに属していたとみられると述べている。坂上田村麻呂がアテルイを河内国へと連れて行ったのは物部の祖先神磐船神社の饒速日神に誓いをさせて助命嘆願させる為だったと。しかし、それも叶わず斬首され、そのアテルイの首は故郷である北へと飛んで行ったとの伝説が残っている。つまりアテルイにとっての故郷は、物部の祖先神を祀る地ではなく、東北の地であったという事か。しかし、アテルイの魂を引き継ぐ照井さんは、未だに東北に多く存在している。
]]>
駒木の周辺(妙見と秦氏)
http://dostoev.exblog.jp/33576483/
2023-11-06T15:03:00+09:00
2023-11-06T15:03:13+09:00
2023-11-06T15:03:13+09:00
dostoev
民俗学雑記
松崎町駒木であり、遠野馬の里の側に「マンコ長者の愛馬供養の…。」という標柱があり、その奥にマンコ長者の愛馬を祀った駒形神社(蒼前堂)がある。
この駒形神社には謂れが二つほどある。一つが、マンコ長者の愛馬が倒れ供養の為に神社を建立し、旧1月16日を縁日として参拝したとの説。もう一つは、八幡太郎義家が桔梗ヶ原にて狩をしている際に、秀馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀ったので「脛折り蒼前」と名付けたという、どちらも信憑性に欠ける伝説となっている。
ところでこの「マンコ」だが、現代ではいささか口に出し辛い名称となっているが、本来は目の上の女性に対する尊称であったようだ。また有名な「曽我物語」での曽我兄弟の母親の名は「満江(まんこう)」で、四国の果てまで旅をし伝説を作った事から、あちこちに「まんこ屋敷」と呼ばれる跡地があるらしい。民俗学者の松山義雄は「"まんこ"は、童子の霊の口寄せの巫女の名前であったかもしれない。」と述べている。可能性として、"まんこ"という女長者はいなかっただろうが、"まんこ"と呼ばれた高名な巫女は、この駒木の地にいたのかもしれない。この駒木の地に住んでいた巫女であるまんこの、一頭である愛馬を祀った蒼前堂であるならば、八幡太郎義家の馬を祀ったという話よりも信憑性は高くなるだろう。
ところで、この駒木の地に館跡がある。「遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書」によれば、この駒木地域では「館」とだけ伝わっており、地域を考慮して「駒木館」とはしているが、情報は一切不明としている。この報告書の調査員は、その理由として南部藩時代に「語部」を禁止した事をあげている。この語部とはつまり、敗者の伝承を禁止したという事。ここでの場合、南部氏以前に遠野を支配していた阿曽沼という事になるだろうか。しかし、それ以前となると奥州藤原氏や、その祖である安倍一族まで遡るのかどうか。ただ事実として、この駒木の地に誰かが住んでいた事が、調査でわかっている。
また、地域紙である「まつざき歴史がたり」でも「駒木の人々でさえ"駒木館"の存在を知る人は少ない。」と述べている。気になったのはその駒木館のある地形の記述だった。「後ろに高栖山を背負い」とある。これは「琴畑と妙見」でも書いたが、鷹は鍛冶の神でもあり、産金・冶金に深く関わる。その鷹をシンボルとしているのが、古代の豪族である秦氏である。大和岩雄「秦氏の研究」「河内・山城の鷹巣山。鷹尾山・鷹ヶ峰」の項で、「"鷹巣を名乗る氏族が秦氏系"であることからみても、秦氏が鷹をシンボルとしていることは明らかである。」と述べている。とにかく全国の、鷹巣・鷹尾の付く地名・山名に関係しているのが秦氏である。恐らく、駒木館の背後の山の本来の名は、鷹巣山であろう。
この駒木の駒形神社の額には「蒼前堂」と書かれている。この蒼前(そうぜん)は「勝善(しょうぜん)」とも言われ、福島県相馬地方の妙見信仰は、勝善神と習合し牛馬の守護となっている。この蒼前堂の狛犬が牛であるのも、その影響によるものだろう。そして馬は妙見の化生、使徒であるともされた。
恐らくだが、遠野で有名な旗屋の縫の「旗屋」も、秦氏の秦ではなかったか。「旗屋の縫物語(山の祟り)」に登場する暗い夜道に現れ、旗屋の縫を家まで導いた白馬は、暗闇から目的地へと導く星の役割を担っていた。その旗屋の縫の観音堂手前に白馬を祀る駒形社の根底は、妙見と馬との結び付きを意図したものであろう。駒木の地の蒼前堂も含め、鷹巣山など、ちらほせと秦氏の顔がチラつく。実際、阿曽沼氏が横田城を築く以前に、近くには奈良時代の遺跡とされる高瀬遺跡がある。その高瀬遺跡からは「物部」と記された須恵器が出土している事から、その物部氏の同族ともされる秦氏が遠野に来ていてもおかしくはない。いずれ言及するが、横田という名称も「横田物部」と云われた物部氏が遠野に移り住んでのものではないかと考えている。同じ、横田村である陸前高田に「猿楽」という地名があるのだが、猿楽の祖は秦氏である事からも、陸前高田の横田村も秦氏が移り住んだものと考えている。
]]>
三匹の白蛇(消えた蛇神)
http://dostoev.exblog.jp/33450678/
2023-09-24T08:35:00+09:00
2023-09-24T08:36:38+09:00
2023-09-24T08:35:08+09:00
dostoev
民俗学雑記
昔、遠野の六角牛と気仙の五葉山、そして小川の千晩山が兄弟であったと伝えられる。小川の寄松沢の寄松淵に兄弟の白蛇が棲んでいた。寄松淵は通称松淵といわれ大変深い淵だった。この淵の底には、白蛇の棲んだ大穴がいまでもあると云う。その白蛇がある時、三匹に増えた。寄松淵に白蛇三匹は狭い事から、それぞれの住居を見つけ移動する事となった。兄の白蛇は、小川の千晩山に棲み付き、山頂に大沼を造って住居とし、栗橋や小川、三陸方面見渡す限りの守護神になった。次の兄の白蛇は、遠野の六角牛山に棲み付き、遠野一円見渡す限りの守護神となった。弟の白蛇は気仙の五葉山に棲み付き、気仙の五葉一円見渡す限りの守護神となった。それから、千晩山、六角牛山、五葉山の兄弟は年に一度集まる事にしたそうである。その年に一度集まる日は、旧暦の六月十九日との事である。
寄松健一「山のむかし話」より。六神石神社の境内から外れた場所に、ポツネンと一基の石碑が建っている。そこには「白龍神」と刻まれている。そして、その「白龍神」の文字の下には蛇の姿が刻まれている。これは龍も蛇も同じであるとされていたからである。画像は、神泉苑での弘法大師空海の雨乞い法を行っているところ。その神泉苑から龍神が現れている、という絵である。見た目は大蛇であるが、龍と蛇の違いは無かった。だから白龍も白蛇も同じであった。つまり、六神石神社の「白龍神」の石碑は「白蛇神」でもある。また六神石神社の本殿には、蛇が描かれた額が飾られている。また、以前は六角牛山の山頂で雨乞いの為の護摩焚きが行われていた。また、六角牛山に登る時の登山ルートの昔は、大瀧神社が鎮座していた瀧を参拝した後に山へと登ったようである。その瀧にも龍神の伝承を聞く。ともかく六角牛山は、龍であり蛇との縁が深いようであるが、現在の祭祀には蛇の姿が見えてこない。六神石神社の前身である六角牛善応寺の祭祀を確認すると「第一殿薬師 第二殿大日 第三殿弥陀 第四殿六角牛新山宮」とあり、神道の垂迹として「第一坐天照大神 第二坐宇佐明神 第三底筒中筒表筒 第四坐神功皇后」とある。"宇佐明神"を調べると水神である事から、恐らくこの宇佐明神が白龍であり白蛇である可能性が高いだろう。その宇佐明神は、現在の六神石神社の祭祀に名を連ねていない。
ところで六神石神社の前身である六角牛善応寺の第一殿に祀られる神が薬師如来という事だが、慈覚大師円仁の誕生の地である常陸国で円仁が関わった祭祀傾向を確認してみた。常陸国の「金砂両山大権現縁起」によれば、西金砂山が本宮で創建が大同元年であり、そこには大己貴命であり千手観音が祀られる。また東金砂山の創建は大同二年となり、そこには少彦名命であり薬師如来が祀られていた。これを遠野に置き換えれば、早池峯神社の創建が大同元年で十一面観音を祀り、六神石神社の創建は大同二年で薬師如来を祀り、少彦名命の伝承が残っている。妙見信仰において、十一面観音と薬師如来は不二一体の関係となっている事からも、早池峯神社と六神石神社は創建の年代をみても関連して作られた神社であると思われる。]]>
髪切り
http://dostoev.exblog.jp/32963378/
2023-03-10T09:59:00+09:00
2023-03-10T09:59:22+09:00
2023-03-10T09:59:22+09:00
dostoev
民俗学雑記
ある日の午前中、遠野駅の脇にある飲み屋街を歩いていると、ザックリと切られた髪の毛が道路に落ちていた。その切り口から何やら事件性をも考えてしまったが、それとは別に妖怪髪切りが頭に浮かんでしまったのだった。その妖怪髪切りは、どこからともなく現れて、人が気付かぬうちに髪の毛を切ってしまう妖怪だとされる。そう、切られた事に気付かないという事。この道路に無造作に落ちている髪の毛の束を見て、もしかして気付かないまま切られた髪の毛ではないかと思ってしまう。例えば、その場で誰かに切られたとしたら、自分の肉体の一部でもある髪の毛をそのまま放置して行くだろうか?
江戸時代の説話集「諸国里人談」には、夜道を歩いている人達が髪を切られる怪異が多発した話が紹介されているようだ。その話でも、髪を切られた本人が気付かず、切られた髪はそのまま道に落ちていたという事も、遠野の飲み屋街に落ちていた髪の怪異に似通っている。また明治時代にも、召使であった女性が便所で髪を切られ「髪切りが現われた。」として騒動になったようだ。
そもそも髪を切るとは、どういう意味があるだろうか。上の画像は、遠野の八幡神社の奉納されている女性の髪の毛の束。恐らく戦時中に、家族の無事を願って奉納されたものだろう。つまりこの場合は、呪術として意図的に髪を切って神に供えたという事であろう。
戸部民夫「神秘の道具」によれば、髪は本人の意思に関係なく生えてきて、切ってもまた伸び、抜けても生え変わり、体から切り離しても腐る事無くその形態を保ち続ける。その神秘性から神に通じる神聖なもの、人の魂や生命力を象徴するものと考えられてきた。このように魂と生命力と結びつけられた髪には、古くから呪術的な力があるとされ、髪を切って神仏に供える願掛けの習俗は全国に見受けられる。
宇野久夫「髪形の知性」を読むと、世界中に髪を切る事をタブー視した民族や、時代があったようだ。その根底には、髪には髪が宿ると信じられていた事がある。この考えは日本にも伝わっており、髪(かみ)は神(かみ)と同じ意味を持つとされている。髪の毛の生える「頭(あたま)」とは、「天の霊(あまのたま)」であり、天から降って来た神の霊が憑いた所と考えられた。それ故なのか古代人は髪を切らずに、みづらなどのように髪を結うという事をした。
同じ髪でも、特に女性の髪は霊力に溢れると考えられてきた。女性の髪の毛は、例えば巫女が神降しをする時の依り代となり、危難除けの護符ともされ、神仏に対する祈願の呪物とされてきた。上の画像は、それを意味している。古代中国では、髪から魂が抜け出るとも考えられ、魂が抜け出ないように髪を結う習慣があったという。ただ「日本書紀」天武天皇13年「主として巫女の類の者は、結髪よりも垂髪の状態のまであることが望ましい…。」という御触れが出たのは、神霊を司る巫女は、長い髪を垂らしてこそ、その力を発揮できるものと考えられていたからだ。
その人物の魂ともいうべき髪を切る妖怪とは、とんでもない。髪の毛には古来から魔除けの呪力があると信じられてきた事から、その髪の毛を切られるという事は、その人の身に加護が無くなるに等しい。そこで思うのだが、仏門に入る場合は剃髪、つまり髪を剃り落す行為とは逆に自らを魔からの危険に晒し、修行の身に置くという事だろうか。そして髪の毛が魔除けの効果があるのならば、自然に髪の毛が抜け落ちた人というのは、魔に魅入られやすい人という事になろうか。
ちなみに上の画像は、歌川芳藤「髪切りの奇談」であり、髪切りに遭遇した話を元に描かれているそうである。つまり、髪切りとは黒い影のようなもの。その黒い影といえば、この髪の束が棄てられていた場所は、「感応院と子供の黒い影」に関係ある場所でもあった。
]]>
山怪(謎の音系)野生動物に対する知識の欠如
http://dostoev.exblog.jp/32935620/
2023-01-31T15:02:00+09:00
2023-01-31T15:03:53+09:00
2023-01-31T15:02:50+09:00
dostoev
民俗学雑記
田中康弘「山怪」というベストセラーになるほどに売れた本がある。その作者である田中氏のYouTubeチャンネルがあり、そこでも「山怪」について語っていた。その中で「謎の音系」というカテゴリーの中に、夜の山中で「ギャーッ!!!」という叫び声が聞こえるという話がある。その叫び声が聞こえるのは、複数の地域で聞こえるらしいが、その正体は未だに謎という事である。
それを聞いて思い出したのは、わたしが過去に体験した、まるで人間みたいなウサギの悲痛な叫びである。その動画は、下記に貼り付けたので、是非とも聞いて欲しい。
夜の山というのは、猛禽類であるフクロウの狩りの時間帯である。猛禽類の主だった獲物とは、ウサギである。そのウサギを捕獲し、生きたまま食べるフクロウ。ウサギは、捕食される時に悲痛な叫び声をあげる。それが動画の様に山中の暗闇に響き渡れば、それ聞いた人達はどう思うかである。生物は、感情によって発する鳴き声が変化するもの。それを全て把握している人というのは、殆どいないと思われる。
またキツネなどは、人間の子供のような、もしくは女性のような笑い声を発する。それを、やはり山中の暗闇の中で聞いたとしたら、どうだろうか。恐らくそれもまた、霊的な怪異譚となるだろう。また、その「山怪」の謎の音系の中に、太鼓のような音が聞こえるという話がある。地域によっては、それはタヌキの仕業だとされているが、それはタヌキの腹鼓の話があまりにも有名で、その認識からタヌキとされているのだろう。ところが実際は、ニホンザルがそういう太鼓のような音を発するという事は知られている事からも、山中の太鼓の音という怪異はニホンザルの可能性が高いだろう。大正13年(1924年)3月3日、栃木県で禁猟となっていたタヌキを殺した猟師に罰金刑が課せられた。しかし、その猟師は自分が撃ったのは、タヌキではなくムジナなだと主張して裁判となった。これが有名なタヌキ裁判。
この大正13年という時代を、現代に近い感覚で思う人も多いだろう。しかしこの時代の動物に対する認識は、現代と比較するととんでもない時代であった。遠野地域では、タヌキはクサイともよばれ、アナグマはマミ、もしくはムジナとも呼ばれた。ところが、タヌキ裁判が行われた栃木県では、タヌキとはアナグマであり、ムジナとはタヌキであった。そして裁判中に当時の動物学者の意見を聞いたところ、タヌキとムジナは同じだと述べた。つまり動物学者の見解が、タヌキとアナグマが同じだというとんでもない認識だから、混乱したのだろう。戦後に、動物が体系化されてタヌキはイヌ科、アナグマはイタチ科と分類されてからどうにか動物の見分けが出来てきた。そうは言っても、現代の一般人にとって野生動物の細かな習性や泣き声などを、知っている人がどれだけいるだろうか。
そういう生物の知識が皆無な人が、初めてアカゲラであるキツツキの木を突っつく不思議な音を聞けば、それは何とも言えない神秘体験となるだろう。それが夜の山に響く「ギャーッ!!!」という叫び声は、そのまま恐怖体験となって山の怪異譚に組み込まれるのは当然の事だろう。
]]>
手の怪異
http://dostoev.exblog.jp/32920972/
2023-01-11T07:13:00+09:00
2023-01-11T08:24:36+09:00
2023-01-11T07:13:45+09:00
dostoev
民俗学雑記
この「青森怪談」に奇妙な話が書かれている。本州最北端に、下北半島の大間という町がある。その大間にはフェリー乗り場があり、夏になるとよくバイカーなどが近くにテントを張って寝ているそうである。ところがテントで寝ていると金縛りに遭い、見るからに女のか細い白い手が現われるそうな。その白い手が股間を触り、男のナニを果てさせるそうである。この怪談話を書いた作家は、近くに弁天様を祀っているのでもしかして弁天様が?と述べていた。この白い手が神霊や心霊だとしても、何故手だけが現れるのだろうか?
この話は動画でも語られているので、興味のある方は聴いてみてください。
佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「奥州のザシキワラシの話(13)」では、土淵村字火石の北川という家の奥座敷の襖の隙間から、"細い長い手"が出て、
人を手招きするような話が紹介されている。また「奥州のザシキワラシの話(14)」には、やはり土淵村字火石の長田家に、長押から"細い赤い手"が一本垂れ下がっていたとの話が紹介されている。「奥州のザシキワラシ(13)」での手は、手招きする動きを見せる。しかし「奥州のザシキワラシ(14)」の手は、ただ長押から生えたかのように垂れ下がっていただけである。どちらも同じ土淵村の火石での話であるが、果して同じものであったのか。ただ同じ佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」の「ザシキワラシの話1」に、陸奥国八戸町の小学校の皁莢の古木から出る"アカテコ"と言う赤い小児の手のような物が下がっていたと書かれているが、これは皁莢の赤くなった果実の事を述べているのだと思う。恐らく「奥州のザシキワラシの話(14)」は、このアカテコにイメージが近いのかもしれない。ところで佐々木喜善は、白い顔をしたザシキワラシは大人しく、赤い顔をしたザシキワラシは怒っていると記している。手にも白い手、赤い手があるか意味があるのかもしれない。「遠野のザシキワラシ(13)(14)」に現れた赤い手の後に、津波などの被害に遭っている事から凶事の知らせの可能性もある。だからと言って、白い手が吉事とも思えないが。
また「ザシキワラシの話2」には、紫波町のザシキワラシが小さな手を人間の懐に入れて肌を撫でまわす悪戯をすると書かれている。股間を触るとは書かれていないが、青森県大間霊体験と似たような感じなのかもしれない。
ところで最近の話だが、遠野の風の丘の建物内部で足だけの霊体が目撃されている。それが幽霊だとしても、足だけが何をするわけがない。ただ歩くだけで世間にアピールする程度しかないだろう。これが人間丸ごとの姿であれば、足で蹴飛ばすというイメージが湧くだろう。ところが足だけでは、歩くという以外に何も無いと思われる。しかし、それが手だけの単体だとすれば、「手招き・触る・握る・叩く・殴る・突っつく」などをしそうなイメージが湧く。また船幽霊などは、白い手だけが現われる場合もあるそうだ。そして、船幽霊の手に柄杓を渡すと、海の水をすくって船に入れ沈没させる行為をする。とにかく足だけとは違い、手だけであっても、かなりのバリエーションある行為をするのが手である。その手のバリエーションの中から青森県大間の霊的体験は、男のイチモツを「触る・握る」に該当するのだろう。
男のイチモツを掴む話になれば、山形県に河童みたいなものにイチモツを掴まれた武士や坊主の話がある。正体はカワウソともされる。また、岩手県の二戸地方には「したがらごんぼ」と呼ばれる、やはり男のイチモツを掴む妖怪らしきの話がある。「したがらごんぼ」は「下川原のろくでなし」という意味で、その正体は古狸ともされるが、生息域から河童の変化とも云われる。山形県の奇妙なものも"河童みたいなもの"と云われるように、男のイチモツを掴む正体は、どうも曖昧のようだ。
河童のイメージは定着したキャラクターの絵などから、どこか人間に近くて体には毛が無いイメージがある。しかし宮崎県の河童の話に、毎晩湯屋に河童が入りに来る。河童の使った後の湯には毛が一面に浮いていて、大変臭くなるとの話がある。実は遠野の赤河童も、体が赤いというより体が赤い毛に覆われていて、赤く見える河童だとされている。この毛の生えた河童だが、見方によってカワウソとも古狸、または猿ともなる可能性があるだろう。
男のイチモツを触る怪異から、古狸やカワウソの話になってしまったが、青森県大間での体験談に登場する手とは「女のようなか細い白い手」であるから、毛むくじゃらの手は、やはり有り得ないだろう。
「青森怪談」の作者によれば、近くに弁財天の社があるので、弁財天が現われたのかとも話していたが、似たような神仏と肉体の交わりを紹介しているのは「日本霊異記」の「吉祥天像に魅せられた優婆塞」がある。恐らく夢の中で吉祥天と交わったのだろうが、起きてみると吉祥天像の腰のあたりに不浄(精液)が付いていたので、現代においてはオナペットとして吉祥天像を利用してしまったという話になろうか。有名な親鸞も「覚禅鈔」では神仏と愛し合うなどと書かれている。これらは人間の側から吉祥天に性的な想いを寄せているのだが、「宇津保物語」では逆に、吉祥天から人間の男に対する想いを懸ける可能性を示唆している。「想いを懸ける」とは「懸想」であり、いわゆるセックスである。つまり、神霊側から人間の男とまぐわう話もあって当然という事か。そういえば、早池峯の女神とまぐわった男の話があった。佐々木喜善はその話を伏字を多めにして紹介しているので、細かなところはわからなかったが、それは時代を反映したもので仕方なかったのだろう。
女が男のイチモツを触るで思い浮かべるのは、阿部貞事件ではなかろうか。男の大事なモノであり、自分の大切にしていたモノを切断して持ち運んだ阿部定。また、即身仏となった、湯殿山系の鉄門海上人がいる。俗名"砂田鉄"は、川人足で遊女と恋仲になった遊び人であり、人殺しでもあった。その砂田鉄が仙人沢で修業をしている時に、恋仲であった遊女が訪れ「下山して、一緒に暮らそう。」と懇願した。砂田鉄はそれを断り、自らのイチモツを切り落とし、その遊女に渡したそうである。そのイチモツの切断は、二つを意味しているだろう。砂田鉄にとって俗世との縁切りであり、遊女の想いの成仏である。阿部定も、この遊女も最終的な想いは、男のイチモツに帰結していたという事か。
これらから、「青森怪談」に書かれている青森県大間での霊的体験の話は、妖怪や獣の悪戯というよりも、男のイチモツに対する女の情念が見え隠れする。
「青森怪談」に紹介されるフェリー乗り場の近くには、春日弁財天の社があるらしい。ただ、そこには弁財天と一緒に画像の春日優婆塞が合祀されているようだ。その近くにテントを張って寝ていると、その手の怪異に遭遇するらしい。
ところで思うのだが、テントの中に寝る行為とは、体を布で覆う行為と同じではないか。つまり、白い布で体を覆う御霊うつしの儀などの、死者と関係する儀式と相通じるのではなかろうか。夜という暗闇の時間帯は、神霊や魑魅魍魎の時間帯でもある。つまり、神のみあれ神事や御霊うつしの儀など、神との交流をはかる時間帯でもある。グーグルマップで大間のフェリー乗り場と弁財天の社を確認すると、恐らく弁財天の鳥居と社があり、その背後に点在する野原にテントを張って寝たのだと察する。それはつまり、知らず知らず神霊の縄張りにテントを張って寝てしまうとは、我が身を捧げて神霊を呼ぶ行為ではなかろうか。
ところで、霊的な存在は触れる事が出来ないというイメージがある。それ故に、白い手が現れて実際に男のイチモツを触り果てさせるというのには疑問がある。ただ、佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」で、佐々木喜善はこう述べている。
「愛着恋慕の想いが凝結し、一種の声となり形に変ずる。」
実際には有り得ないだろう心霊体験であるが、もしもそれに理由をつけるならば、この佐々木喜善の言葉しかないだろう。
]]>
妙見の亀と子供(亀麿)
http://dostoev.exblog.jp/32896362/
2022-12-10T11:50:00+09:00
2022-12-10T11:50:40+09:00
2022-12-10T11:50:40+09:00
dostoev
民俗学雑記
遠野で七というと、遠野七観音を思い出す。この遠野七観音には慈覚大師(円仁)の伝説が付随するが、恐らく天台宗が北辰の信仰から早池峯信仰に重ねて付け足したものと思える。その慈覚大師は、天台宗に属する。その本山である比叡山延暦寺は京都府と滋賀県との境界になるのだが、平安京を造る時に鬼門の方向に比叡山が来るように設計されたとも云われる。その比叡山は北斗七星降臨の地という伝説が付随し、その比叡山の麓は七瀬と呼ばれ、穢祓いの地でもあったのだが、それは死体が棄てられた川原でもあった。その京都では死者を葬る時、七曜星形に並べた七個の丸い餅を七段、合計49個積んで供える風習が未だに残っている。古代中国に伝わっているものに「北斗は死を司ると」云われいる。それに関連する北斗七星の七と云う数字は、不吉な数字でもある。仏事における七という数字は、初七日に始まり7×7=49として、四十九日の法要があり、7回忌、17回忌、27回忌など、7と云う数字を絡め、非常に死の匂いを感じる。
七より一つ少ない六という数字は、山神の好む数だとされる。その六の倍で十二は、十二様などと呼ばれ信仰されている。そして12月12日は山神の日となっており、今でも神事が執り行われている。山神が六を好むのは、六人のマタギが山神を助けたという俗信からだとされる。そしてそれ以来、一つ増えての七という数を山神が嫌うとも云われる。もしもマタギが七人いる場合、同行した犬を足して七人では無い事を山神に示さなければならないとも。また、マタギの妻などが出産した場合"赤不浄"と云い、マタギは猟を七日間休まなければならないなど、七という数に対する禁忌がある。
ところで北斗七星の別名を「四三の星(しそうのほし)」とも云う。野尻抱影「日本の星(星の方言集)」には四三の星の謂れが書いているが、もしかして四三の星は「死相の星」を暗喩しているのではないか。「四三の星」の他の俗信を調べると、「四角い棺を引く三女神」というものがあった。そういう意識下で早池峯山&薬師岳を見ると、三角と四角の組み合わせの山に見えてくる。ましてや星の信仰である天台宗との縁が深く、三女神の伝説のある北に聳える早池峯であるから。妙見と三女神伝説は、埼玉県の秩父妙見にも伝わる。ただし秩父妙見の場合、その三女神とは宗像三女神となっている。
ちなみに山神の好む六という数字は、十二支でいう巳(蛇)にあたる。その山神だが、出生にも大きく関わる。「遠野物語拾遺237話」では、「この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産まれぬといわれており」と伝わっており山神にはどうも、生死が関わっているように思える。現在の京都である平安京は、長安の都に倣って築かれた帝都であるが、中野美代子「仙界とポルノグラフィー」によれば、その長安には北斗七星の呪術が施されていると云うが、それとは別に「生を司る」南斗六星の呪術をも施されている。古代において山の頂とは、星々が輝く天でもあった。当然、山に星の信仰が重ねられても不思議ではない。山神が好む六という数も、忌み嫌う七という数も、恐らく生死を意図して組み入れられたのではなかろうか。
日本最古の妙見宮とされる熊本県の八代妙見では「妙見が山の上から里にわたってきた。」と伝わるのは、秩父妙見と同じである。これもまた「山は天である」という認識からの伝承だろう。
七という数は、人間の年齢にも大きく関わる。これもまた俗信として伝わる「七歳までは神の子」であるとされていた。
【梁塵秘抄】「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動かるれ」
この「梁塵秘抄」の歌は、子供の遊びというより神の子供の遊びを歌ったともされる。神の子とはつまり、七歳までの子供である。ただ七歳を過ぎると、普通の人の子となるので仕事をさせられてしまうという区別がなされていた。また、その神の子が死ぬと、葬礼も仏事もされなかったそうである。
妙見神の一般的は、女神とされる。しかし他にも武将の姿など、その姿が一定しないのは、様々な要素が含まれている為だろう。その中に、童子型の妙見神がいる。小村純江「妙見信仰の民俗学的研究」で紹介されているが、山口県での大内氏(1446~1495)の妙見信仰において、「舞童」と称する二十二名の児童に舞を奉納させ、舞を通して大内氏の祖神といわれる妙見菩薩と領民を結び付けたと記されている。また大内氏は亀蛇を尊重しており、子孫の幼名に亀という字を用いていた。ところがこの大内氏は、京都を意識していたようで、その妙見信仰の根底もどうやら京都から来ているようだ。京都は都であるという事からも、東北にも様々な文化や風習、そして信仰が日本海側経由で、かなり入ってきていた。
幼名(童名)もそうだが、髪型もまた大人(人)と区別された。一般的な座敷ワラシの髪型は、オカッパと呼ばれる髪型だ。つまり結っていない髪型。髪を結うとは、霊力を閉じ込める意味を持つ。天武天皇時代に発布されたのは、女性は髪を結わなくても良いというものだった。これは神との交流を図る巫女に適用された。髪の毛から迸る霊力を振り出しながら、神との交流し託宣などを授かるので、髪の毛は結わなくともよいとされた。そして七歳までの子供もまた、霊力溢れる神の子。その子を大事に七歳まで育てるのだが、その童子から溢れる霊力が家を守る事にも繋がっていた。
先に紹介したように、七歳までの霊力溢れる童子がもしも亡くなった場合、その身柄は葬礼も仏事もされなかった。人を祀るのが寺。神を祀るのが神社である。七歳までの童子とは、人ではなく神そのものである。そしてこれらから思い出されるのが、有名な岩手県二戸市金田一温泉緑風荘に祀られている亀麿神社だろう。「亀麿」という名前そのものが童名であり、「亀」という字を含んでいる事から妙見系ではないかと思われる。早池峯を開山したとされる始閣藤蔵は、「金が採れたらお宮を建てる。」として早池峯に祈願した。妙見に祈願して栄えた代表は、世界遺産にも登録された石見銀山だろうか。早池峯もまた北に聳える山として知られ、その北の守り神は玄武=亀である。つまり「亀」とは妙見である北を意味し、それに願うという事は、金であり財を願うという事である。
恐らくだが、亀麿神社に祀られる存在とは、七歳にならぬ前に亡くなった子供の可能性があるだろう。神として祀る。もしくは、七天王塚のように神の霊力を保持するための存在としても童子は使われる。亀麿とは、妙見の童子ではなかろうか。
]]>
「全国旅行支援(全国旅行割)」
http://dostoev.exblog.jp/32838959/
2022-09-27T18:45:00+09:00
2022-09-27T18:51:21+09:00
2022-09-27T18:45:32+09:00
dostoev
民俗学雑記
全国を対象とした「全国旅行支援(全国旅行割)」は2022年10月11日から実施予定!…とある。国は何故に旅行会社を優遇するのか?という声も、sns上でチラホラと聞こえる。ところが江戸時代にも、今の政府の様に幕府は旅行を推奨し、支援していた。遠野のあちこちに建っている「西国順礼塔」は、幕府が推奨して建てられたものだった。ただし全国民というより、東北の各地域から旅行に出た事の無い民に対して「生きているうちに西の国へと旅をしなさい。」と推奨された。まあ目的は、人間の血液と同じで金の流れを良くする、つまり経済の流れの活性化だ。これによって、東北の村々では宗教的な講が行われ、村々でお金を貯めて代表者が、お伊勢参りや金毘羅参りなどへと旅に行くようになった。その時代は男社会であった為に実際は参拝だけでなく、宿に泊まって女を買い漁ったりと、男連中の楽しみとなった為に、かなり継続して行われたようだ。そして西国の人々は、東北の民が落としていくお金を毎年期待していたようである。確かに旅行の推奨は、経済の活性化になるのだった。
]]>
二つの小田越
http://dostoev.exblog.jp/32801236/
2022-09-05T20:20:00+09:00
2022-09-06T04:52:59+09:00
2022-09-05T20:20:22+09:00
dostoev
民俗学雑記
小田越というと、大抵の人は早池峯登山の一つの道筋を思い浮かべるのではなかろうか。小田越の「越」とは「峠」の意味で「小田峠」と書き記しても同じである。早池峯は北に聳える山であるが、その反対の南に聳える物見山の方向に、もう一つの小田越がある。遠野にはそれとは別に、貞任山もまた二つある。他にも伝説となっている地と同じ地名が二つというのものが、遠野にいくつもあるというのは何か意図的なものを感じてしまう。
北と南を意識した場合、例えば早池峯が聳える北は、陰陽五行で表せば水に縁が深い。その反対となる南は、火と縁が深い。この小田越は、上郷町の来内と小友町の土室や鷹鳥屋を結ぶ。ここで思い出いのは、菊池春雄「小友町史 ふるさとは語る」に、来内の伊豆権現と鷹鳥屋の伊豆権現の権力争いがあったとの内容が記されている。その要因が、火石金山に関する事ではないかとしている。来内の伊豆神社は、始閣藤蔵の開山だという。その始閣藤蔵は、早池峯縁起などで"猟師"として認識されている。しかし、菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」において、始閣藤蔵の子孫の家に伝わる文書に記されている内容から菊池輝雄は、始閣藤蔵は猟師というよりも金山師としての性格の方が強くうかがえると記している。その文書には、こう記されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「其頃、当所来内村に金山あり、此金山盛ニ御守リ被下度、能金ニ当給者。東岳ノ頂ニ宮を立、東岳三社ノ権現と奉貴へしと祈念仕、近村呼集め、東岳の不思議為語聞相談致し、金山掘給ひしに金沢山ニ出、心に任せ給ふ。此時近村集、祝事仕給ひて、来内ニ萱宮を建立し、三社権現之下宮と号奉敬、此時明年に東岳神坂を切立申筈ニ約束仕候
大同元年丙成 開山人 始閣藤蔵 助力 来内村中」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「来内金山の守り神となって金鉱脈を発見させて下さったなら、お礼に早池峯山頂にお宮を建て、東岳三社ノ権現として祭ると約束し、近村から人を呼び集め前祝をして金山を掘り進んだら、その通りに金脈にあたって村中が大喜びをした。それで、かねての約束通りに、来内に萱宮を建て、明年には山頂に宮を建てる為の登拝路を作る事を約束する。」と、本文と訳を掲載した。この文書の年代が大同元年と記されているが、全ての信憑性はさておいて、始閣藤蔵が「金を見つけたらお宮を建てる」と誓ったのは、本当だと思える。何故なら恐らく、早池峯信仰には妙見信仰が重なっている筈であるから。早池峯神社の神紋が九曜紋になっているのは、その表れだろう。早池峯と妙見信仰についてはいずれ「妙見と瀬織津比咩」で書く予定にしている。
その妙見信仰は、鉱山開発に関係している。例えば世界遺産登録になった石見山銀山は、妙見神の託宣によるものとされる。始閣藤蔵の場合は恐らく、当初から妙見神でもあった早池峯大神に対して誓ったのではなかろうか。早池峯には正式なお宮が無かっただけで、既に神が鎮座していた可能性があるのではなかろうか。それかもう一つの可能性は、始閣藤蔵の来内村を南の拠点とし、それに相対する北に聳える早池峯に対しての信仰の形を作ったという事。「朱鳥と玄武は陰陽を順う」という言葉がある。朱鳥は南を意味し、玄武は北を意味していた。古代中国の皇帝の玉座は南に置かれ、北と向き合う形になっていた。皇帝は男であり、陽であった。奇門遁甲に長けていたと云われる天武天皇は、元号を朱鳥と定めたのは、自らが古代中国と同じ皇帝の玉座に坐すという意志の表れと共に、北を重視し陰陽を調えようとした意志であった。奇しくも来内と小友の間には、火石金山と呼ばれるものがあった。更なる奥には、男火山と女火山が聳える。そう、来内より南には何故か火に関係する名前が付けられているのは、北の水を意識したものではなかっただろうか。
小田越は、「遠野物語27話」の石臼伝説にも密接に関わるだろう。「聞き書き遠野物語」などを書いた内藤正敏氏は、池端の石臼伝説は産金との関係を指摘している。その池端が石臼を手にした沼へ、この小田越は通じている。しかし内藤氏は、もう一つのキーワードに触れてはいない。ただそれに関しては「池之端」で展開していく事にする。そして「小田越」だが、辞書によれば「小田」とは、「小は接頭語で田んぼを意味する」と説明されるが、遠野の小田越は、田んぼには関係の無い山の奥にある。小田治「黄金秘説」によれば、修験の言葉で「おだ」とは「鉱山を掘る」意であるという。聖武天皇時代、奈良の大仏の金が足りなくて困っているところに、現在の宮城県の遠田郡から金が見つかり、奈良の大仏が無事に完成された。その遠田郡は、それ以前を小田郡であったようだ。また「小」は「ササ」とも読み、「砂金」を意味する。これらから遠野の南北にある小田越とは、先に紹介した「朱鳥と玄武は陰陽を順う」という言葉のように南北の連携による産金の道筋を意味しているようだ。もしかしてだが、物見山の小田越もまた、始閣藤蔵によるものだろうか。二つの小田越とはつまり、金を求める険しい道を意味しているのかもしれない。
]]>
宮沢賢治の銀河鉄道(霊魂の線路)
http://dostoev.exblog.jp/32752684/
2022-08-05T17:48:00+09:00
2022-08-05T17:48:33+09:00
2022-08-05T17:48:33+09:00
dostoev
民俗学雑記
「遠野の民が死んだら、魂は早池峯へと昇って行く。」という俗信は、過去に何度か書いてきた。だがそれは遠野だけでなく、正しくは早池峯の信仰圏内での俗信となる。その早池峯によく、宮沢賢治は登っていたようだ。それは蛇紋岩採集としてだけでなく、どこか早池峯に導かれるように足を向けていたところもあったようだ。遠野の南西の外れに、種山がある。そこに立石という地があり、よく宮沢賢治が登って星を見ていたという。「ここから眺める星が一番奇麗だ。」と。実は、宮沢賢治の妹トシが亡くなってから、この種山に登る事が増えたともいわれるようだ。その後に書き表したのが有名な「銀河鉄道の夜」だ。
気になる事がある。天の川は、霊魂の道である事は、「伊豆神社から早池峯への霊魂の道」に書き記した。賢治がよく星を見た種山は、早池峯の遥拝所でもある。種山からは、早池峯へと繋がる天の川が見える。もしかしてだが、宮沢賢治は天の川という早池峯へ繋がる霊魂の道に妹が乗るイメージを得たのではなかろうか。つまり天の川が霊魂の道であり、人の魂を汽車に乗せて早池峯へと向かう一筋の線路と見立てたのではないかと思ってしまう。
]]>
昨夜の月を見て
http://dostoev.exblog.jp/32748547/
2022-08-01T05:20:00+09:00
2022-08-01T05:20:24+09:00
2022-08-01T05:20:24+09:00
dostoev
民俗学雑記
昨夜の月は、日本画に出てきそうな雲を背景とした奇麗な月だった為に、思わず撮影してみた。月は単独でも奇麗だが、本当に美しいと感じる月は、必ず雲を纏う。人間でいえば、奇麗な衣装をまとった女性みたいなものだろうか。遠野には三日月神社がいくつかあり、月を見る風習があったと過去形になるのも、恐らく月のありがたみが現代になり失せてしまったと感じてしまう。それは常に農事と関係していた月が、技術の発達した現代となり、そういう信仰が単なる俗信に変わったのが大きいだろう。以前は、白望山にも二十六夜講が行われ、人々が月を見に白望山に登っていた歴史があった事を知る者は、いずれいなくなるのではなかろうか。
また綾織町の続石の背後の大垂山の"垂らし"は月に関係する言葉なので、信仰的にも何かあったのだろう。また同じ綾織の和野の胡四王を祀っていた月山は本来、槻山であったらしいが槻の木そのものも月と縁が深い樹木。やはり、月に関する信仰があったものと推察してしまう。
まあそれでも現代は、ブルームーンやブラッドムーンなどの新たな満月の名称で月を注目して見る機会も多くなっている。ただ、それ以外の月にも注目してみたいもの。何故なら、月の姿の変化に合わせた多くの言葉を古代人が考え出したのは、月に対する親しみでもあった筈だ。その親しみの発生は、毎晩月を見上げた事から始まったのだろう。
]]>
遠野早池峯神社座敷わらし人形に対する祈願
http://dostoev.exblog.jp/32724192/
2022-07-01T18:28:00+09:00
2022-07-01T18:28:27+09:00
2022-07-01T18:28:27+09:00
dostoev
民俗学雑記
平成の前半にバブルが崩壊し、世の中は不景気になった。その不景気になった世の中に、座敷わらしに助けられたなどの話が広がり、いつしか遠野の早池峯神社で4月29日に執り行われる年一回の座敷わらし祈願祭で座敷わらし人形を求める人が殺到するようになった。まあ単純に「金持ちになりたい」「幸せになりたい」などの欲求を満たしていただこうと座敷わらし人形という仮の存在に期待するのは理解できる。
「遠野今昔第二集」で、附馬牛の藤田氏が「座敷わらしの今昔」にこう書いている。「座敷童児とは、古くから早池峯大権現の化身として、その信仰厚き里人の家に宿り、幸せをもたらす神として敬愛されてきていると伝えられる。」と。座敷わらしを調べると、どうしても妖怪としての座敷わらしを調べ、その俗信を期待している人が多い。しかし、人形に入れる魂とは、あくまで早池峯大神の魂である。それを忘れている人が多いのではないか。
始閣藤蔵は、早池峯に対して祈願した。「もしも金が見つかったら、お宮を建てて祀ります。」と。一方的な祈願ではなく、等価交換の祈願である。神が求めるのは信仰である。附馬牛の藤田氏の言葉の通り「信仰厚き里人の家に宿り」とあるのは、座敷わわらしに対する信仰ではなく、早池峯大神に対する信仰である。常連客であった、妖怪マニアの方は、この座敷わらし人形を手にしたが、いつしか魂が消え失せたかのようになったと言っていた。細かな事はわからぬがそれは、その人形に対する接し方が、早池峯大神に対するものではなく、あくまで妖怪座敷わらしに対するものであったからなのかもしれない。
]]>
「6月6日は、ろくろ首の日」
http://dostoev.exblog.jp/32691960/
2022-06-06T11:31:00+09:00
2022-06-06T11:38:18+09:00
2022-06-06T11:31:41+09:00
dostoev
民俗学雑記
6月6日は、【ろくろ首の日】らしい。当初、候補は6月9日もあがっていたそうだが、6月6日に決まったそうだ。ところで、首が長くなるとはあり得ない話。有り得なすからこそ、首が長くなるろくろ首は妖怪なのだろう。
ところで、慣用句に「首を長くして待つ」との言葉がある。これは「待ち焦がれる想い」が具現化したもののようだ。例えば、プッチーニ「蝶々夫人」がある。アメリカ海軍のピンカートンと結婚した蝶々さんだったが、ピンカートンの日本での任務が終了し「コマドリが巣を作る頃には帰って来る。」の言葉を信じ、海の彼方を見つめながら待つ。その海の彼方の更なる遠くを見つめようとする気持ちが、首を長くさせる感覚を作り上げたのだと思う。映画「風とライオン」において、「私はライオンの如く、私の場所に留まるしかない。」という言葉の様に女性は、昔からその場を守る存在とされた。もしかしてだが、その待つ存在が殆ど女性である事と、ろくろ首の殆どが女性であるのに、何か関連性があるのだろうか?
心霊サイトに紹介された、一枚の心霊写真がある。どうやら結婚式でのスナップ写真らしいが、暗くなっている背後に首だけの女性が写っている。拡大した画像が、上の画像となる。これを心霊写真として紹介はしているが、「ろくろ首」でもいいのではなかろうか。ウィキペディアで「ろくろ首」を調べると、ろくろ首には、首が伸びるタイプと首が体から抜け出して、自由に飛行できるタイプがいるそうである。この一枚の心霊写真は、首だけが自由に飛行できるタイプという事になろう。先の「首を長くして待つ」がある人物を待つ気持ちや想いが、首を伸ばすのであれば、この画像は結婚式に出席できなかった人の想いが首だけを飛ばして、参加したという事になろうか。
昔一日市の某という家の娘は抜け首だという評判であった。ある人が夜分に鍵町の橋の上まで来ると、若い女の首が落ちていて、ころころと転がった。近よれば後にすさり、近寄れば後にすさり、とうとうこの娘の家まで来ると、屋根の破窓から中に入ってしまったそうな。
「遠野物語拾遺229」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「遠野物語拾遺229」の話とは別に、「上閉伊今昔物語」には下記のような話がある。今の新町の裏通り、智恩寺の向かい側に蕎麦屋があったのだが、その家の女房の首は毎晩抜けて、夜な夜な遠野の町を徘徊したらしい。いつの間にか、それが遠野中に知れ渡り"抜け首女房のいる蕎麦屋" と評判を呼び、繁盛したという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところでウィキペディアの「ろくろ首」の解説には、日本人の怪奇趣味を満足させる為に創作されたものという指摘があるようだ。となれば、遠野にも「抜け首」の女性の話が伝わるのだが、それもまた似たような背景から作られた話だろうか。
「上閉伊今昔物語」に書かれている知恩寺前の「抜け首女房のいる蕎麦屋」が気になったので、大正時代の地図で知恩寺前を確認してみると、医院の他に店屋らしきが数字で「74」「75」と記されている。その「74」「75」を確認してみた。
大正時代の地図における「74」は「多賀座」で多賀神社前にあった芝居小屋で、後に映画をも上映するようになった建物。そして「75」が「いく代」という蕎麦屋であったのが、この大正時代の地図の広告からわかった。そしてその代表者が「及川はな」という女性のようだ。現代の遠野の住宅地図で照らし合わせると、及川の場所なのだろう。「遠野物語拾遺」に話があるように昔の多賀神社前は、狐が出てくるような寂しい場所だった。そこに蕎麦屋を開業したのならば、それを逆手に取った宣伝として「抜け首女房のいる蕎麦屋」で繁盛したというのも、何となく納得してしまう。ましてや、その蕎麦屋の主人が女性であったのならば、いろいろな苦労があったものと思える。
ちなみに、現代の住宅地図に載る「及川」は、抜け首の蕎麦屋の主人「及川はな」の関係ではなく、たまたまひと時の住まいとしてその家を借りた、まったく関係のない及川さんであったようだ。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/