遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:民俗学雑記( 251 )

地獄の鉤付

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昨日の朝、車についた氷の結晶を撮影してみた。車のエンジンをかけて少し経過した後の撮影だった為、多少溶けてはいる。この結晶を見て、自分はスギナを思い出してしまった。

「つくし誰の子 すぎなの子」という歌詞の童謡とがあったが、伊能嘉矩「遠野くさぐさ」「杉菜の根」という題名でスギナの事が記してあった。

「木賊科植物なる杉菜の根(実は地下茎)は、尤も深く地下に入り、地により六尺七尺以上に及ぶことあり。されば此の特徴に本づきて杉菜の根は、地獄の鉤付となりつゝありと言ひなせり。」
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地下茎が深く、簡単に掘りだせない事から地の奥底深く根付いているという感覚が、地獄または根の国底の国、黄泉国、霊界などのイメージが重なったものと思われる。地獄の鉤付という名称は、どうやら地獄の閻魔大王が囲炉裏で自在鉤として使用しているのでは?というくらい深い事を強調した為の様。スギナは地下茎で増えるので、その駆除には難儀する様だ。今は除草剤などがあるが、昔は簡単に除去出来ない=退治できない、魔界の植物の様に思われていたのかもしれない。ただ今は、そのスギナさえ目にする事の出来ない、死の季節のようでもある。この冬の白い大地に、地獄の鉤付でもよいから緑色の植物が芽生える春が待ち遠しいものである。

by dostoev | 2018-01-16 12:39 | 民俗学雑記 | Comments(0)

キタガメ

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往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。

                    「遠野くさぐさ(キタガメ)」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阿曽沼氏以前の遠野は、土淵が中心であった。その土淵から北へ伸びるラインの先に、早池峯が聳えている。早池峯神社の末社であった常堅寺の近くには、早池峯古参道跡が今でも残っている。それは、早池峯へと延びる北への道であった。日高見という語は、「東日流外三郡誌」で多く使用される言葉であり、また史書や祝詞にも日高見という語は、いくつか登場する。気になるのは、例えば遠野では「ひろ子」という名前の女性の場合、この名が転訛した場合「しろ子」もしくは「すろ子」と「は行」が「さ行」に転訛され呼ばれる場合がある。これが「ひたかみ」であれば、「しだがみ」または「すだがみ」と濁音を含んでの転訛が有り得る筈だ。故に伊能嘉矩の説に、違和感を覚える。また「竈神」はそのまま「カマドガミ」と発音する。「神」が「ガミ」と発音するのは、例えばそれが「北亀」であった場合、やはり「キタガメ」となり、普通であろう。つまり「キタガメ」は、そのまま「北亀」でいいのではなかろうか。ただ問題は、「北亀」が何を意味するかであろう。北の亀で思い出すのは、北を護る玄武であろう。ただ昔の遠野に、いきなり玄武と話しても通用しないと思われる。ただ「北を亀が護っている。」と伝えれば、ある程度は伝わるとは思うが、それがそのまま地名になるとは思えない。

それでは「亀」ではなく「甕」であった場合はどうだろう。北は、早池峯の麓とする猿ヶ石川の源流で、昔の猿ヶ石川は水量も豊富で、かなり広大であったらしい。松崎の松崎沼も養安寺の下まで広がる広大な池であったようだ。また附馬牛の大出(オオイデ)と小出(コイデ)はどうやら「生出(オイデ)」という水が涌き出る地名が変化し、大出と小出に分けられたようだ。本来はどちらも「オイデ」であったよう。土淵村を中心と考えた場合、土淵を流れる小烏瀬川と猿ヶ石川を比較した場合、余りにも川の規模が違う。そう考えると、土淵側から見れば、北に位置する松崎から大出・小出は、まるで水をなみなみと湛える甕の様でもある。もしかして「キタガメ」とは「北の甕」を意味するのではなかろうか。
by dostoev | 2018-01-13 19:02 | 民俗学雑記 | Comments(0)

白見山は朝倉岳

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ(白見山の山男)」において、「白見山は、一に白美山と書し、本名を朝倉岳といふ(海抜一千二百メートル)」と記されてあった。これが正しければ、いろいろと思うところがある。また「白見山は、上閉伊(土渕金沢)・下閉伊(小国)両部の中間に横はる峰嶺にして、山勢幽深を以て名であり。山の中部を大白見といひ、一の大沼あり。」という記述の中の"大白見"という名称は、意味深である。

まず朝倉岳という山名だが、以前「朝倉トイウモノ」で、朝倉は星見・月見の意であろうと書いた。これを考え合せ、何故に白見山で"二十六夜待ち"という月の出を待ち見る習俗があったのか疑問であったものが解消される。
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この「白見山の山男」では、白見山の山男が二種類あると記している。「一をミツヤマと呼び、一身三頭を有し、一をヨツヤマと呼び、一身四頭を有すともいへり。」。普通であれば、こういう化物はいないものと誰もが思うであろう。しかし何か意図して書いているとすれば、その意図は何かという事。ここで思い出すのは北斗七星である。北斗七星の俗称に"四三の星(しそうのほし)"というものがある。野尻抱影「日本の星(星の方言集)」には四三の星の詳細が書き記してあるが、元々は双六の賽子の目から始まった言葉であるようだ。双六が伝わったのは文武天皇の時代と言う事から、7世紀には既に賽子があったのだろう。双六で四三の目は、そう出るものではないとされている。とにかく北斗七星の七星を、四つと三つに分けたのが四三の星という事。ここで画像の北斗七星を見ればわかるように、北斗七星の形は変わらずとも、北極星を中心として回転している。その北斗七星を山際で見た場合、三つの星だけが見える場合と、四つの星が見える場合がある。恐らく山男のミツヤマとヨツヤマは、この北斗七星を意図して想像された山男ではあるまいか。ただし、遠野側から東に聳える白見山を望んでも、北斗七星は見えない。これは遠野の反対側の金沢で作られた話であるかもしれない。
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また「白見山の山男」には、こういう化物も紹介されている。

其の他、仁科(土淵村に属す)の佐々木七右衛門(明治二十年六十余歳にて死す)といふ者、壮時或る夜中、同山の支脈なる梯子山の中にて山男に出会ひしことありしが、地上を抽くこと一丈余ある地竹の上に、尚ほ上体を一丈余りも高く挺んでて、頭上に方言オトコヤマといふ笠を被りつゝ往くを見たり。驚き恐れて其のまゝ家に逃げ帰りしことありともいふ。

大入道の話にも取れるが、この話は「日本書紀」で斉明天皇の死後「朝倉山の上に鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る」を模したものではないかとも思える。笠を被る天体としては、月が有名だ。この「白見山の山男」の話も「日本書紀」の話も、どちらも笠を被った大入道という事から、浮かび上がるのは月であろう。「古事記」では伊弉諾が左目を洗って誕生したのが月読尊という事だが、月は一つ目であるという事。世に多くの一つ目の大入道の話があるが、確かに月を目であるとした話もある事から「大笠を着て喪の儀を臨み視る」とは、笠を被った月の意であるのかもしれない。

先に紹介したように、白見山の本来の山名は朝倉岳であったよう。朝倉については「朝倉トイウモノ」で書いたが、朝倉には太陽の運行の軌道、もしくは月の運行の軌道に太白を重ね合せた思考があった。もしや冒頭で紹介した"大白見"とは、"太白"を意図してのものであろうか。そして朝倉が星見・月見を意図するものであるならば、月や星を擬人化、いや擬妖化したもので、白見山の怪異を表現したのかもしれない。確かに白見山は遠野側から見れば東に聳える山で、白見山近辺からの太陽や月の出を確認できる。また反対側の金沢からは、日の入り、月の入り、そして北極星と北斗七星を確認できる。それは古来から伝わる朝倉の意に対応するものであるから、朝倉岳と命名したのは、その知識があったであろう阿曽沼時代ではないか。
by dostoev | 2018-01-12 10:06 | 民俗学雑記 | Comments(0)

化け物馬

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、「南部大馬の事」という題名で、他の多くの馬を喰い殺した大馬の話があった。大馬とあるが、それは七尋の馬であったとされる。一尋は約180センチであるから、とんでもない大馬の伝説であるが「三戸手引草」では、尋では無く尺の誤であろうという訂正記事が載っているようだ。ただ林田重幸「中世の馬について」を読むと、古今要覧によれば「四尺(121センチ)の馬を世の常の馬とするがゆえに是を子馬といい、四尺五寸(136.4センチ)を中馬、五尺(151.5センチ)を大馬といい、五尺より上の馬は得がたがるべし」とある。であるから例え七尋が七尺の馬になったとしても、有り得ない大きさの馬の話という事になる。ちなみに、遠野市小友町にある源義経の愛馬の墓とされている小黒だが、恐らくは源義経の愛馬の大夫黒が、小黒になっているのではなかろうか。その大夫黒の大きさが五尺六寸であった事から、鎌倉時代の馬の殆どが四尺から四尺六寸であったとの記録から、源義経の愛馬小黒は、その時代ではかなりの大型馬という事になるのだろう。

ところでこの大馬、他の馬を喰い殺したので、さぞかし残虐かと思えば、さにあらず。悪馬種を絶やす為、明神の命を受けてのものとされ、今でも有戸村に大馬塚があって祀られているらしい。その明神の正体は不明だが、どうやら仏教思想の入り込んでいる事から、仏教説話として広まったものだろうか。ただその明神の正体だが、南部駒の産地としての六ヶ所村は、南部氏の本拠とは目と鼻の先である。その南部氏が信仰していた櫛引八幡宮であるが、その八幡大神が御神輿にてまず、御前神社の明神に挨拶に伺う神事がある事から、明神の正体とは御前神社に祀られる水神であろう。その水神の正体は「早瀬川と白幡神社」に書いている。
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中村禎里「ウマの神性と魔性」読むと、藁馬は、豊穣の神を招く馬であろうとしている。盆の行事で、祖霊を送迎するのが藁馬の元来の役割とされているが、時代を遡ると馬とは特権階級の象徴であり、もしくは神が乗るものとされていたようだ。それ故に仏教的に悪事を働いた人の堕ちゆく先は、馬では無く牛であったようだ。ただ室町期になって、人が馬に堕ちる話が登場するようになったという事であるから、遠野の善明寺に伝わる牛になった男の話「真似牛の角」は、鎌倉時代以前に作られた話であろうか。

それ以前の古代では、馬は水神と結び付いていた。水を支配し、水田耕作の豊凶を左右する神でもある水神と馬が結び付いていた。その豊穣神が馬に乗って、山と里を行き来する信仰が生まれた。これは山神が春になり田に降りて田の神になり、秋に山へと帰り、山神になるという話と同じである。早池峯神社の大祭では、神輿が担がれ、境内の外に出る前に駒形神社に寄るのは、早池峯大神が馬に乗る為でもある。つまり早池峯大神と馬は、セットでもあるという事。
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この大馬の産地は、陸奥国上北郡六ヶ所村は、古来から名馬を生産する地であり、源頼朝が所有した名馬”生食(いけずき)”の産地であるとしているが、生食の産地は、他地域の説もある。「いけづき」という名に生食という漢字があてられているが、池月という名が別にある。ただ「生食」は”生き物をも食らうほどの猛々しさ”を意図している事から、もしかしてこの六ヶ所村の仏教説話が「生食」の名の出所であろうか。草食の馬が肉をくらう事は無いのだが、人を喰らう馬の話は「小栗判官」の話にも登場する。この「小栗判官」に登場する人を喰らう馬は死後、馬頭観音として祀られる事から、もしかして有戸村の大馬塚には同じく馬頭観音碑があるのではなかろうか。遠野市小友町に入り口には、沢山の馬頭観音碑が並んでいる。ただこれは道路工事の際、散らばっていた馬頭観音碑をまとめたものであるというが、大抵の場合、馬頭観音碑は村境に置かれるものだとされる事から、元々は小友の町の入り口に建てられたものを一ヶ所にまとめられただけなのだろう。遠野市二日町の駒形神社の御神体は、巨大な石の男根である。一般的に勃起した男根は魔除けの力があるとされるが、人間の男根よりも巨大なのは馬の男根である。それ故に、二日町の駒形神社の御神体である男根は、馬の男根を意識しているものと思える。その疑似馬の男根が馬頭観音碑となるのならば、村境に魔除けとして置かれるのは当然の事だろう。コンセイサマで有名な山崎のコンセイサマもまた、より大きな自然石の男根が発見されれば、その御神体の座を譲るとも云われる。世に大きな男根は魔除けであるなら、人間よりも大きい馬。その馬の中でも巨大な馬はもはや神の領域であろう。先に紹介した大馬の話は、元々神馬の話が歪曲され伝わったのではとも思えてしまうのだ。そうでなければ、明神の意を汲んだ大馬が、その死後に塚が作られ祀られる筈もないではないか。
by dostoev | 2018-01-10 22:23 | 民俗学雑記 | Comments(0)

食べてすぐ寝ると牛になる

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自分が小さな頃から「食べてすぐ寝ると、牛になるよ!」と言われていた。要は、怠け者と言いたいのだと思っていた。確かに、食べて寝ると食べた物が体に蓄積され、太ってしまう。太っているのは、運動量の少ない=怠け者と思われがちだと理解していた。ネットで意味を検索すると「食事をした後に、すぐ、横になったり、眠ったりするのは、行儀が悪いので、 そのことをいましめた言葉。」とあった。確かに、行儀が悪いでもある。例えば正月なりに親族が集まり、飲み会が開かれると、男衆は酒を飲み、肴を食べ、のんびりとしている。酒の影響もあって、そのまま寝てしまう男衆もいる。しかし女衆は、酒を出したり、料理を出したり。そしてそれらを片付けたりと、なかなかのんびりと休めない。だから、この諺は、男衆に対しての言葉ではないかと思っていた。

ところが伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に「寝て食へば牛となるてふ物語」というものが紹介されていた。奥州の説話に、三浦浄心「名所和歌物語(1614年)」というものがあり、伊能嘉矩は、それが根源ではないかと述べている。「遠野くさぐさ」を、そのまま記せば読み辛いと思うので、解り易く簡単に訳して書いてみる事とする。
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栗原郡の筑川という所に、沼があった。その沼の中に島がある。そこに縫衛門という老人がいて、一人の僧を食わしていた。その僧は、読経もせず、墨染めのボロ法衣をまとって昼寝しながら貪り飲んでいた。すると、どこからか黒い牛が現れ畑を荒らしていたので、縫衛門が捕まえた。それより僧の姿が見えなくなったので探してみると、実は僧が牛になった事がわかった。その後、縫衛門も昼寝をした後に牛になったので、不思議に思った村人達は、沼を掘り、その沼に二匹の牛を沈めたと云う。この沼に二匹の牛を沈めて102年経つが、その牛は今でも時々現れるのだそうな。
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この話は、遠野の善明寺に伝わる「真似牛の角」の逸話を思い出すが、本来は宮城県小牛田町の「牛飼長者伝説」に似通っている。「牛飼長者伝説」では、孫右衛門という男が一人のみすぼらしい坊さんを家の中に招き入れ食事を与え、新しい小屋を建てて住まわせ、朝夕心を尽くして、食事や身の回りの世話をしていた。しかし、その坊さんは牛になってしまったのは、何もせずに世話になっていた罰だとして、孫右衛門の家畜として一生働くと近い、孫右衛門は村一番の長者となったという話だ。ただ時代的には恐らく、三浦浄心「名所和歌物語(1614年)」の方が古いようだ。

ここでわからないのは、何故牛を沼に沈めたのか。例えば「遠野物語55」では、生れた醜悪な河童の子を切り刻んで土中に埋めたという話に類似したものであろうか。102年経っても出るというのは、やはりそれは牛では無く、人間だと云う意識からであろう。それは半人半牛の"件"をもイメージしてしまう。ともかく「食べてすぐ寝ると牛になる」とは、仏罰を意図した諺であるのだろう。
by dostoev | 2018-01-04 18:30 | 民俗学雑記 | Comments(0)

初夢は?

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遠野の卯子酉神社へ行くと、沢山の恋の願いが成就されたいと、赤い布切れに結ばれ、それを待っているかのよう。平安時代は俗に王朝時代とも呼ばれ、沢山の恋の歌が詠まれていた。有名な、小野小町の歌がある。

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる

衣を返して着るとは、非日常にする事だと思う。つまり夢の中の恋くらいは、非日常として楽しもうという意味だろうか。これは夢を夢として楽しもうとする小野小町の気持ちを感じるが、この頃にはまだ夢と現実の境がまだわからない時代でもあった。例えば「蜻蛉日記」での道綱母の歌がある。

言絶ゆる現やなにぞなかなかに夢は通ひ路ありといふものを

これは、夢は夢と意識しつつも、夢では互いに意思の疎通がありながら、現実は言葉も交わせていない不条理を嘆いている。この歌には、どこか夢が現実に成りえるのではという期待を感じる。しかし、先の小野小町は、こういう歌も詠んでいる。

かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ

これは夜に女から出向くのははしたないが、夢であるから誰も咎めないだろうという意の歌。つまり、夢は夢と割り切っての大胆さを詠っている。こうして見ると、小野小町は夢と現実を使い分けて楽しんでいるかのよう。

初夢の歴史は鎌倉時代からだと云うが、良い夢を見る、見たいという意識は平安時代からのものであったろう。現代でも「一富士二鷹三茄子」が良き夢と伝わっているが、本来は自分が望む夢こそが、良き夢であると思う。その中には当然、恋の歌も含まれる筈。逢いたい人に、夢の中だけでも逢えれば幸せという人もいるかもしれない。そういう想いを強くする霊的な場所として、卯子酉神社があるかもしれない。夢とは、日常の印象的な事が出易いものだ。そういう意味では、卯子酉神社へ祈願しに行った人は、そういう夢を見易くなると思う。卯子酉神社に参拝する人は、殆ど女性だと云う。王朝文学での恋の夢の歌も殆ど女性であった事から、恋の夢は女性が時代を超えて引き継いでいるか。そういえば遠野三山の三女神も、寝ている間に蓮華が降りて来た娘に、早池峯山を与えるとなったのは、女神=巫女=女性が霊的なものに強く反応するからだとも思える。こうして思えば、強い霊性は女性に宿るものであるようだ。そして降りて来た蓮華を奪う事を許されるのも、早池峯の女神の様な女性である事から、正夢を見る事の出来るのは、男より女の方が有り得そうだ。そして座敷ワラシの性別が、殆ど女の子になっているのも、人に与え奪う事の出来るのが、女性という姓別である気がしてならない。男が夢を追い求め成し得る為にはもしかして、身近な女性を大切にするこそが第一歩なのかもしれない。
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by dostoev | 2018-01-02 18:21 | 民俗学雑記 | Comments(0)

笊と箕

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遠野地方では、子供に対して「笊を被ると背が伸びない。」と言って、子供に笊を触れさせないようにしていた。これは、子供が笊を魚獲りに持って行かせない為の言葉であったようだ。
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ところが「箕は被るな!」という言葉は、含む意味が異なっていた。遠野では「癲癇」を「ドス」または「ミカブリ」と呼んでいた。その為、癲癇を持った家系を「ドスのマキ」「ミカブリのマキ」と呼んでいたという。また「マキ」というのは別に「遠野物語拾遺249」で書いているので参考にして欲しい。

「ミカブリ」は「箕被り」である。昔、癲癇患者が死んだ時、その葬儀の棺の上に箕を被せる習わしがあった。その意味は、この癲癇が続かぬ様にという呪術でもあったようだ。いつしか「箕被り」という言葉が、いずれ死ぬ癲癇患者を指す様になった事から、子供達に「箕は被るな!」と戒めたという。ただ何故に箕であったのかは不明である。調べると箕には、豊饒と多産に関する呪術性があるらしく、九州を中心とする西日本では嫁入りの日に花嫁の頭上に箕を戴かせたり、不妊の嫁に箕を贈る習慣があるようだが、癲癇患者への呪術とは意味合いが違う。ただ箕は竹製であるから、竹の呪力であるかもしれない。

新紀元社「神秘の道具」によると竹の節の空洞は、神霊や霊魂が宿り、この世に現れ出て来る異界であるとしている。そして「箕」は、誕生や死の儀礼にしばしば用いられるという。嫁入りの日に一升桝を入れた箕を嫁の頭に載せると記されている事から、福岡の習俗はこれなのだろう。不妊の嫁に箕を贈るのは女性の生殖と受胎に関係すると記されているが、要は「竹取物語」と同じく、月の呪力と考えても良いのだろう。となれば癲癇患者の棺に箕を被せるのは、癲癇という悪しきモノを異界に封じ込めるという意図を含んでいたのだろう。逆に箕を遺族が被り「戻れや~!」と死者の名前を呼んで、蘇らせようとする呪術でも用いられるようだ。これは、願いの言霊を箕に宿る神霊に託すのだろうか。
by dostoev | 2017-12-30 12:10 | 民俗学雑記 | Comments(0)

「貉(MUJINA)」

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「貉(MUJINA)」といえば中学の英語の教科書に、小泉八雲「貉(MUJINA)」が載っていた。しかし何故か英語の先生は、その「貉(MUJINA)」をすっ飛ばして授業をしたものだから、残念な思いが残っていた。昔は、小泉八雲は普通に日本人だと思っていたが、ギリシア生まれの外国人で、名前をラフカディオ・ハーンというのは、後に知ったものだった。ところで小泉八雲は何故に、話に"のっぺらぼう"登場するのだが、タイトルを「貉(MUJINA)」にしたのだろうか?作品には"のっぺらぼう"という言葉すらない。一般的に"のっぺらぼう"は、貉や狸が化けていたとされるから、敢えて"のっぺらぼう"という名称を避け、妖怪の本体である貉を強調したのだろうか?
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貉といえば、私はまず歴代の住職を喰い殺してきた「遠野物語拾遺187」の貉が思い浮かぶ。今では貉はアナグマとされている為、狸と違ってどこか凶暴に思える顔付きであるから、アナグマが住職を喰い殺すイメージをどこかに感じていた。しかし、調べるとよくわからなくなるのが貉だった。
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中村禎里「動物たちの霊力」には、大正13年(1924年)栃木県で起きた、俗に云われる「タヌキ裁判」の詳細が書かれていた。自分は、ある猟師がアナグマを撃ったら、それは禁止されているタヌキを撃ったとして、裁判に負けて罰金が与えられたが、上告して無罪を勝ち取った話であると思っていた。しかし、よくよく読むと、そういうわけでは無かった。被告は「ムジナは撃ったが、タヌキは撃っていない。」との主張だったが、この被告はムジナとはタヌキであり、タヌキとはアナグマだと思っていたようだ。ところがその時代の動物学者の見解は「ムジナとタヌキは同一の動物である。」であった。ただ普通に、タヌキはタヌキと呼ぶ地域もあったようなので、この動物名の混同は、まだ学問的に確立されておらず、何となくの知識が伝わって、タヌキがムジナになり、またアナグマにもなっていたのかとも思える。似た様な話で、岩手県でのマガレイは、宮城県ではマコガレイと呼ばれ、岩手県と宮城県で、逆転して認識されている。また別に、岩手の海に生息するアナゴを岩手県の人達はハモと呼び、ハモを知っている人達からは「えっ?」という顔をされる。これは恐らく、河童の伝播も似た様なものでは無かっただろうか。「川にはこういうモノがいるらしい。」という情報を、適当に当て嵌めて地域に認識されたのが河童であるから、全国の河童の肖像がみな違っているのは、情報の混乱と適当な当て嵌めからきているのだと思う。
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「狸」という漢字は、古代中国から伝わって来た。中国では、山猫やジャコウネコなどに「狸」という漢字をあてた。それが日本に伝わり、「狸(ネコ)」と訓んだ。中国では、狐に次いで妖怪的な獣として狸がいたという。それが日本に伝わり「狸」とは、人を化かす獣であると思われた様だ。タヌキが人を化かす原型は、どうやらここから来たようだ。ところが「今昔物語」「宇治拾遺物語」に同じ話が伝わっているが、かたや狸が登場し、かたや野猪が登場している事から狸=猪という認識もあったのかもしれない。となれば狸とは、人を化かす獣であると認識はされているものの、それは固有種ではなく、広義的な意味合いとしての狸という意味になっている。「カチカチ山」の話も悪い狸が登場するのが一般的だが、タヌキの代わりにサルになったいる話もある。となればサルもタヌキでは無い、狸の仲間入りとなるのだろうか。
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そして、ここに厄介な貉も加わる。遠野には貉の妖怪の話がいくつか伝わり、似た様な話が三つほどある。それが暗くなると行燈を照らす女だが、いくら女を鉄砲で撃っても手ごたえが無い。そこで行燈を打つとギャッ!という悲鳴と共に貉が倒れる話だ。ところが、似た様な話が遠野以外にも多くあり、それが貉ではなく狸になっている。 これは化かすものが貉でもあり狸でもある事から、貉と狸が共有された話でもある。これこそ「同じ穴のムジナ」である。この諺の意味は「一見違っているように見えるが、実は同類である」という事になっている。

それでは貉とは何だ?狸とはなんだ?と問うても、まだ動物が学問的に確立していない時代、各地域ごとの判断や呼び名にまかせるしかなかった。だから地域ごとの混同が起きたのだろう。そして恐らく、小泉八雲もムジナを調べて、その正体が結局わからず、ムジナの顔が見えてこなかった。だからタイトルを「貉(MUJINA)」とし、「のっぺらぼう」という名詞を使用せず、ただ「顔が見えない存在」として「貉(MUJINA)ムジナ」としたのではなかろうか?
by dostoev | 2017-12-25 20:44 | 民俗学雑記 | Comments(0)

犬と山神の話

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来年が戌年だから…というわけではないが、ちょっと気になった犬の話をしよう。画像は、弥生時代の銅鐸に刻まれた、イノシシを取り囲む犬が五匹と、弓を引く人間の姿。恐らくこれ以前の古い時代から、犬は人間と共に狩りをしていただろうという事になっている。その狩で思い出すのは、山神である。例えば遠野では、「遠野物語拾遺84」の様にオシラサマが倒れた方角へ狩へ行くと良い成果があるなど、他にも「遠野物語拾遺81」「遠野物語拾遺82」「遠野物語拾遺83」などもオシラサマと山神との結び付きを示唆する話になっている。「遠野物語」や「遠野物語拾遺」には、マタギがそれなりに登場しているが何故か、狩猟の友である筈の犬の登場が「遠野物語」「遠野物語拾遺」には、殆ど無い。唯一「遠野物語拾遺134」に、もしかしてと思える話が紹介されている程度だ。

オシラサマは養蚕に関する神であるとしながら、狩猟にも関係する神と認識されているようだ。しかし「遠野物語」「遠野物語拾遺」の狩猟に関係する話に登場しない犬が、三河の地で養蚕に関係している話がある。それは「今昔物語」「参河国に犬頭絲を始めし語」である。養蚕で羽振りの良かった家が急に蚕が全て死んでしまった為にさびれてしまった。しかし、蚕が一つ桑の木に付いているのを見つけ大事にしていたところ、家で飼っていた白い犬が、それを食べてしまう。ところが蚕を食べた犬がくしゃみをした拍子に、犬の鼻から白い糸が僅かに出た。それを巻いているとキリが無いくらい巻き取ると、犬はそのまま倒れて死んだ。それは神仏が犬に変化して助けてくれたものと思い、犬を裏の桑の木の下に埋葬した。それから、その桑の木にはびっしり蚕が繭を作り、極上の糸をとる事が出来るようになった。それが犬頭糸の由来となったようだ。娘と馬の悲恋物語のようなオシラサマ譚では無いが、これもまたオシラサマ譚に似通った話で、白馬の代わりに白い犬となっている。これは恐らくだが、山神に関係するのではないかとも思えてしまう。
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秩父の三峯神社では、参詣者に御守の札を与える事を「犬を貸す」と言う。東北では狼の事を「御犬様」と呼ぶ様に、どこかで狼=犬という認識があるからだと思える。実際に、犬とは飼い馴らされた狼から発生したものとされている。画像は、秩父の三峯神社から江戸時代に分霊された岩手県は衣川の三峯神社で、参詣者に出す御眷属様と呼ばれる御札となる。これが「犬を貸す」、つまり狼と同等の霊力を持つ御札である。これはどういう事かといえば、つまり狼は山神の使いであるから、その山神に使いである狼(御犬様)を借りるに等しいものとなる。
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あまりにも有名な「花咲か爺」の話は、よくよく読んでみると、かなり象徴的である。花咲か爺には、優しい老夫婦と、性根の悪い老夫婦が登場する。話は、その優しい老夫婦が川で犬を拾う事から始まる。この川で犬を拾うという話は、別に「桃太郎」という御伽話で、川に洗濯に行ったお婆さんが、川上から流れて来た大きな桃を拾う事に似通っている。桃はどこから流れて来たのか。また、犬を何故川で拾ったのか。川の源流は、山である。山というものは、水を産み、獣を生み、樹木をも生み出し、その山そのものの金などの鉱物を内包する、人間の母親の様な存在である。だからこそ、山神は女神であるという認識も広く伝わる。「日光狩詞記」を読むと、山神は女の場合と男の場合と二通り認識されてはいるが、女神であると信じている割合が多いようだ。

ある時、犬は畑の土を掘り「ここ掘れワンワン」と鳴く。爺様畑を掘ると、金(大判・小判)が掘り出されるのは、やはり山に内包する金を、山神の使いである犬が見付けるというものであろう。その犬は、隣の悪い老夫婦に奪われ殺されてしまう。優しい老夫婦は、死んだ犬を引き取って庭に墓を作って埋め、そして雨風から犬の墓を守る為、傍らに木を植えた。植えられた木は短い年月で大木に成長し、やがて夢に犬が現れ、その木を伐り倒して臼を作るように助言する。

短期間で成長する話は「竹取物語」を思い出す。かぐや姫が3ヶ月で大人になるのは、何故か狼と同じ。その狼は、満月の晩によく狩をするという。そして、そのかぐや姫を見つけた竹は、金色に輝いていた。それから竹取の翁は、暫く竹の中から金を見つけて豊かになったとしている。かぐや姫もまた、その物語のキャラクター設定の背景に狼と山神が組み込まれているものと思えて仕方ない。

そして、臼だ。これは「遠野物語27」では山の沼に棲む主から臼を貰い、豊かになる話だが、似た様な話は全国にある。この「花咲か爺」でも、犬の墓の傍らの木から臼を作り、それで餅を搗くと、財宝が溢れ出た。この臼もまた、山神と関連するアイテムである。その臼もまた奪われ燃やされてしまうが、その臼が燃えた灰から、今度は花を咲かせる。全ては、山の内包する命に則った話でもある。
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オシラサマ譚も含め、先の桑の木と犬の話。そして「花咲か爺」も含め、実は山神による恵みの話であると思われる。その山神の使いである犬を大事にするという事は、山神の恩恵を受けるに等しいものだと、昔の人は考えたのかもしれない。まあその前に、人に懐き、狩の友となった犬に対する後付けとなるだろうが、白い犬を殺した「遠野物語拾遺134」「花咲か爺」を読めば、まるで座敷ワラシが出て行った様に、その家は没落してしまう。座敷ワラシも、遠野では早池峯という山の神と縁が深そうであるから、全ての根源が山神に結び付きそうでもある。ともかく犬は、山神からのプレゼントと思って良いのかも。

ちなみに「遠野物語」と「遠野物語拾遺」に何故に犬の話が少ないのかという疑問だが、明和八年(1771年)に南部藩が飼い犬禁止令を発布している。その禁止令の原因が、とんでもない。当時の南部藩主の妾が犬を嫌いだという理由から、飼い犬禁止令を発布したのだった。そしてその飼い犬禁止令から、とんでもない事件が起きている。南部藩の隣の伊達藩に、南部藩で飼われていた飼い犬をまとめて、数百匹を放したという。数百匹という数は、現代のペットブームの時代ではなく、江戸時代の話であるから、かなりの飼い犬が集められて、放されたのだと想像する。「遠野物語」「遠野物語拾遺」は江戸時代も含んだ明治時代中心の話であるが、約100年前に遠野から犬がまったくいなくなり、たまに遠野に迷い込んだ犬も、飢饉などの影響で食べられたり殺されたりすれば、犬はかなり貴重であったのか?…などと妄想をしたりする。そう犬は大事にもされたが、食糧にもされた歴史もあるので、山神の恩恵という幻想が崩れた時代は、犬を大事にしない人達も増えたようである。そういう意味から「花咲か爺」などの御伽話は、そういう事を伝える為に広まったのかもしれない。ただしこの現代、犬を可愛がる人は多いだろうが、山神の棲む山そのものをどうにかしなければならなくなっているのだろう。
by dostoev | 2017-12-24 21:26 | 民俗学雑記 | Comments(0)

河童と隠れキリシタン

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中村禎里「動物妖怪談」を読むと、中村氏は河童と隠れキリシタンが結び付く可能性を示唆している。

1805年に九州の日田代官が河童を調査し、河童を目撃した者の話を集めると、1667年に完成した用水の近くが三か所。川渕が二ヶ所。川堰の近くが一ヶ所。そして湧水から流れ出る小川のほとりが一ヶ所。これは江戸の町も含めて、河童を目撃した場所の共通の特徴は、人工的な水地という特徴があると述べている。その水地も、驚くほど小さな流れであるようだ。遠野の常堅寺裏を流れる河童淵と呼ばれる足洗川も、かなり狭くて浅い。

遠野の河童の共通した特徴は、河童淵と呼ばれるものが、まず民家の近くにあるという事。例えば河童が魚だけを食べる生物であるなら、人間の住む民家かから離れた山の淵でも、沢でも良い筈だ。しかし河童がいるとされる河童淵は、天敵になり得る人間の住む民家の近くにある。これはつまり、人間が近くにいてこその河童だとも考えられる。それは人間に依存している河童といっても、良いのではなかろうか。生物が"そこ"に棲む場合、餌を含む環境が重要となる。河童は、人間に関係する何かを求めて、民家の近くに住んでいる可能性は高いだろう。

実は座敷ワラシを調べていると、飢饉などが頻繁に起きた時代、小さな子供達は人の家に忍び込み、仏壇や神棚にお供えされたものをよく食べたと云う。それが座敷ワラシが仏壇などで目撃された話に繋がるものと思われる。それと似た様なものに、墓所に供える団子などもそうである。現代では、供え物をして放置すると、カラスなどに食い散らかされるので、皆で分けて食べるか、持って帰ったりもする。昔は神の使いとされたカラスなどにも意図的に与えた場合があるが、密かに墓所に供えられた供物を食べた者もいただろうと思える。ここで思い浮かぶのは、川から這いあがった河童は、家に入ると座敷ワラシとなるという伝承だ。これは河原に住まう何者かが、家に入り込み、食べ物を漁ったとも捉えて良いかもしれない。遠野に乞食がいたかどうかだが、通常は遠野の冬を乞食は越せないだろう。だから都会で見受けられる浮浪者は、遠野にはいない。それでも戦後に、河原に住む者達がいたという話を聞いた事がある。その冬を越す方法だが、やはり風と雪を遮る建物と暖は必要となる。それを兼ね備えているのは、厩だ。厩にイズナや狼が侵入して、馬が嘶いた話はよく聞く。しかし馬は余程が無い限り、警戒心を抱かないものである。河童を河原に住む者と考えた場合、そういう者が冬を過ごす為には、厩に忍び込むしか無いのではなかろうか。
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話は飛んでしまったが、画像は日田代官調書に描かれている河童の肖像である。この姿は、河童よりも猿。猿よりも人間に近いと、中村禎里は感じたようだ。明治時代になって文明開化と叫ばれるも、地方ではまだ原始的な生活をしていた場合が多い。一般庶民であっても衣類は高価な為に、滅多に着る事は無かったので男も女も、大抵は上半身裸で過ごしていたと云う。裸で髭はボウボウの姿は、まるで人間離れして見えたかもしれない。

日田代官が河童の調査を思いつき、その実施を豪商であった広瀬桃秋と森春樹に命じた。森春樹の随筆「蓬生譚(1810年)」に、河童の住まいを訪ねた報告書がある。それによれば「水の中かと言えばさにもあらず、家の中にもあらず。穴の中とおぼしき所にて、莚など敷きて居りし」と報告されている。中村禎里は「このような生活様式は、山窩と呼ばれる漂泊民のものと似ている。」と述べている。さらに中村禎里は、「九州の河童伝説濃密地帯は、かつてキリシタン大名が支配していた地域と重なると。仏教には帰依せず、山中にひっそりと隠れ住むと想像されたキリシタンの影もまた、河童にひそんでいた可能性を、完全に否定することはできません。」キリシタン大名は江戸時代に入り、慶長十八年(1613年)に禁教令も出された事から、それ以降はいなくなったが、隠れキリシタンは密かに独自の信仰形態に様変わりして明治時代まで続いていたようだ。妖怪は、神の零落したものだという見解を柳田國男を述べた。かって普通の民であったものが、山窩であり、隠れキリシタンに零落し、人間としての尊厳を奪われ、妖怪視された者達もいたのかとも感じてしまう。紹介した河童の肖像の頭が窪んでいるのは、所謂河童の皿というものであろうが、それがフランシスコ・ザビエルの宗教者と同じ、頭のてっぺんを剃っているものにも似通っているのは、もしかして河童がキリシタンをも内包して伝わったのかとも感じてしまうのだ。
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画像は、明治時代に瑞応院に持ち込まれた慈母観音像を聖母マリア像に見立てたものではないか?とされる像。全体に粒子の細かな砂が付いているが、それは坑内で祀られた像であるからとされている。遠野では、キリシタンの禁教令により、仙台領から逃れてきた後藤寿庵の門人やその系統の者達が。また元和、元文年中より寛永年中にかけて、志和郡佐比内より、金山経営者でキリシタン信者であった丹羽弥十郎の門人等が多数、上郷町の来内から小友町の平笹、長野にかけて移り住み、金山開発の採掘に従事したと云う。落盤事故の多かった金山開発は、死との隣り合わせでもあった。見つかれば死罪となる隠れキリシタンを、ただ殺すのは勿体ないと、南部藩も黙認したのかもしれない。ただ「盛岡南部家文書切支丹妻子御成敗目録」によれば、寛永十三(1636年)年三月二十五日、遠野においても隠れキリシタンが三人処刑され、数十人の改宗者があった事が記録されている。明治時代になっても明治政府による隠れキリシタンの迫害は続いたのだが、諸外国の非難・批判を招いた為に明治六年、江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれて、やっと信仰の自由が認められた。ならば明治時代に瑞応院に持ち込まれた像は、察するに明治初期の頃であったろうか。

河童は、仏教関係の事物を嫌うとされているのは、もしかして隠れキリシタンとの結び付きも指摘される。ただそれは遠野では聞いた事が無いので、恐らく河童と隠れキリシタンが濃密に繋がる九州限定であろうか。
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画像は、常堅寺に伝わる隠れキリシタン像と云われる。頭に罰点がついているのは、キリストのクロスを意図したものだと。こうして考えていくと、遠野の観光名所になっている河童淵傍の常堅寺には、隠れキリシタンの像があり、常堅寺から五日市よりの近くには、キリシタンの墓地がある。また常堅寺には、過去に隠れキリシタンとの深い因縁もある事から、常堅寺には何やら隠れキリシタンの匂いがしないでもない。先に紹介した供物を食べる話だが、お寺には供物が集まる場所でもある。また冬の寒さを凌ぐ為、家の無い者がお堂で過ごしたとの話も聞く事から、それらの条件を兼ね備えるのは、神仏習合時の寺院であったろうと思う。隠れキリシタンであった事から処刑され、その家族は追放されたとも聞く。行くあても無い追放された子供が、密かに民家近くのお堂などに住みつき、人間が妖怪に零落した存在として河童となったとしても、おかしくは無いかと思えた。あくまでも、河童の一つの形として有り得る話では無いかと、記事を書いてみた次第だった。
by dostoev | 2017-12-23 18:27 | 民俗学雑記 | Comments(0)