遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:民俗学雑記( 232 )

矢立松(松が遠野に持ち込まれた時代)

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綾織村字山口の羽黒様では、今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしていたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名が矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。

                  「遠野物語拾遺10」

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「遠野物語拾遺10」が語る様に、今現在も、その地に大岩と松ノ木が並んでいる。岩は古来から変わらなくあるのだろうが、松ノ木は伝説の何代目かにあたる木になるのであろうか。ところで矢立杉の伝説というものが全国に点在している。矢立杉の謂れは「矢を射立てて神に奉る」という事から矢立杉と云われるようだ。つまりこれは、神木とする神事と考えて良いだろう。ただし杉以外の樹木の伝説もある事から「遠野物語拾遺10」の場合は、矢立杉が松ノ木に代わる亜流譚になるか。

ところで松ノ木は、弥生時代に輸入された樹木である。ところが岩手県、もしくは遠野地域には、弥生遺跡は殆ど無い。遠野から沿岸域にかけての遺跡は、縄文遺跡の上に平安遺跡が重なっている場合が多い。これらから、弥生時代に輸入された松ノ木は、いつの時代に東北、もしくはもっと限定的に岩手県及び遠野地域に持ち込まれたのか?と考えた場合、この「遠野物語拾遺10」が、かなり重要な意味合いを持つ伝説では無いかとも思えるのだ。歴史家は、この「遠野物語拾遺10」を、有り得ない取るに足りない伝説と考えているふしがあるが、遠野に松ノ木が持ち込まれた時代を考えた場合、やはり坂上田村麻呂以降であった可能性があるのではないか。
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古い画像だが、これは六神石神社に屹立していた「神座の松」と呼ばれた、巨大な松ノ木である。名前の通り神が降り立つ意味を持つ松ノ木だ。有名な伝説に、天女の羽衣の話があるが、あの伝説でも天女は松ノ木に天の羽衣をかけたという事から、松ノ木は神の斎く樹木であると古くから伝わる。例えば遠野地域でも、歩いていると高く聳えたつ杉の木や松ノ木が密集した杜を見つけると、その下には大抵の場合、社がある。矢立杉も矢立松も、どちらも神の斎く神木であると伝わっている証拠だろう。しかし神社という社を造る文化はいつからかとなれば、やはり坂上田村麻呂以降となる。岩手県の多くの神社の建立年代が揃って大同元年もしくは大同二年になっているのは、"坂上田村麻呂の蝦夷征伐"の後に平定され天台宗が布教に訪れてからとなる。画像の六神石神社の松も恐らく、神社が建立されて植えられたものの何代目かの松になるのではなかろうか。

「遠野物語拾遺10」の話は、坂上田村麻呂が遠野に来なかったにしろ、神域の松ノ木に矢立神事をして、神に奉った事実を伝えるものと考えても良いだろう。その矢立松の隣にひびが入っている「とがり岩」と呼ばれる大岩がある。「遠野物語拾遺10」では、「石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。」とされているが、この大岩の少し下がった場所には、縄文遺跡があった。縄文人は巨石信仰をしていたと伝えられるが、まさに「とがり岩」は、その縄文人、いや蝦夷征伐される以前の遠野に住む民の信仰の証ではなかっただろうか。かたや松ノ木は輸入された樹木であり、それを好んだのは当時の朝廷以前からのものであったろう。それ故に、縄文人の聖地に屹立していた「とがり岩」の隣に松ノ木を植え、後に矢立神事を行い神木とし、元々あった「とがり岩」よりも「矢立松」の方が位が上だとし、作られたのが「遠野物語拾遺10」の伝説ではなかろうか。
by dostoev | 2017-06-12 17:44 | 民俗学雑記 | Comments(0)

ぬりかべ

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画像は、続石側の泣石に木漏れ日が目の様に当たり、まるで妖怪ぬりかべの様に見えたものを採用。妖怪ぬりかべがいるかどうかはさて置いて、それを体験した人の話は聞いた事がある。真っ暗闇であったが、いつも通る道なので感覚で進んでいたが、壁の様なものにぶちあたり進めなかったことがあると。つまりその人物は、非日常と遭遇したと云う事になる。

なんというか、自分の住んでいる家は長年暮らしている事から、感覚でどこに何があるかわかるもの。例えば停電になったとしても、懐中電灯の置いている場所や、配電盤の位置などは目を瞑っても辿り着ける人は多いだろう。ところがその途中に、予期せぬものがあって進行を邪魔立てすれば、それは非日常との遭遇という事になる。

そういう意味では、去年の台風の後、土砂崩れが起き道が崩壊すれば、それは日常いつも歩いている道の行く手を塞ぐものとなる。ましてや道を塞いだものが画像の様な大岩であれば、まさに日常を遮る"妖怪ぬりかべ"になってしまう。

また結界の場合も、妖怪ぬりかべの様でもある。ここでいう結界は、家の囲いや外壁など。これらは、他人の侵入を防ぐ為の物理的結界でもある。いつもは無かった筈の隣の家の境界に、突如コンクリート塀などが作られたのなら、それは今までの日常からの逸脱でもある。
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先年土淵村の村内に葬式があった夜のことである。権蔵という男が村の者と
四、五人連れで念仏に行く途中、急にあっと言って道から小川を飛び越えた。
どうしたのかと皆が尋ねると、俺は今黒いものに突きのめされた。一体あれ
は誰だと言ったが、他の者の眼には何も見えなかったということである。

                     「遠野物語拾遺163」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この「遠野物語拾遺163」もまた、日常歩き慣れている道で、目に見えないものに突き飛ばされている。もしかしてこの話も、自ら見えないものにぶつかった表現を"突き飛ばされた"としているだけかもしれない。「遠野物語」および遠野界隈に、妖怪ぬりかべの話を聞いた事が無いが、唯一可能性が高いとしたら、この「遠野物語拾遺163」だろう。
by dostoev | 2017-06-01 12:14 | 民俗学雑記 | Comments(0)

熊除けの鈴

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五月の連休中に、遠野の山々を登る為に泊った客がいた。最終日、石上山に登りたいからと、登山口まで車で送って行き、下山したら電話をくださいと話して別れた。その3時間後に電話で連絡が来たので迎えに行った。すると、熊と遭遇したという。

熊と遭遇したのは沢の所という話だったので、馬留の手前辺りかと思う。それか、幻の滝の辺りだろうか。それなりに距離があったそうだが、熊除けの鈴を持っていたので、鈴を鳴らせば熊が逃げるかと思い、熊除けの鈴を鳴らしたと。しかし、その鈴の音には全く反応せず、暫くして、やっとこちらの存在に気付いて睨めっこが始まったそうだが、その後すぐに熊は去って行ったそうな。

遠野の朝、学校へと通う小学生が通ると「チリン♪チリン♪」という鈴の音がする。どうやら熊除けの鈴を付けて登校しているようだ。以前、遠野駅から歩いて5分程度の幼稚園にも、熊が出没したくらいであるから、山がそばにある遠野小学校も、熊対策からの熊除けの鈴を付けての登校推奨であったか。とにかくホームセンターへ行っても、釣り具屋に行っても、必ず熊除けの鈴が売っている。また、山へと山菜キノコ採りへ行く人々にとっての必須アイテムが熊除けの鈴となっているようだ。「鈴を鳴らせば熊は人間が来たと思って逃げる」「存在を知らせる為に必要」とは云われるが、今回の石上山での熊との遭遇に、全く役に立ってないのはどういう事か。

以前、北海道で知り合った自然保護協会の会長さんに、さんざん熊の恐ろしさを聞かせられた事がある。そういう会話の中、個体によって性格が違うという事を言っていた。鈴の音を聞いて逃げる熊や、逆に好奇心旺盛な熊は寄って来ると。つまり、熊の個体によって反応が違うというのが正解か。確かに自分の兄弟や子供も、同じ血を分けていながら、性格が違う。あとは確率論だけになろう。

ところで家の猫の話になるが、そういえば何度か家の猫に向って鈴を鳴らした事があったが反応があった記憶が無い。鈴の音よりも、手でガサガサと音を立てるか、風で木々が揺れる音、人々の足音など、自然な音に反応している。自然界に無い鈴の音を学習する場合は、パブロフの犬の様に人為的なすり込みが必要ではなかろうか。そういう意味では、常時熊除けの鈴を付けて歩くのは悪いわけじゃない。ただし、経験豊富な熊には有効でも、子別れ、親離れををしたばかりの熊には影響が無いのかもしれない。例えば雪融け後の春先に、山へ行って見ると、子ぎつねや子テンが車の前に出て来る時がある。子テンなどは過去に二度程、車に向って威嚇してきた。つまり怖いもの知らずとは、経験不足でもある。猫も、車の怖さを覚えないと、車に轢かれて死んでしまう場合が多々ある。生き残ってきた個体とは、勇敢な個体では無く、警戒心が強く臆病な個体であると思うのだ。

結局熊除けの鈴とは、効果の無い訳では無いが、過信は禁物だという事だろう。逆に、熊除けの鈴の音に魅かれて寄って来る熊の方が怖い気がする。それ故に自分は、熊除けの鈴を付けたいとは思わないし、今までも付けた事が無い。それでも生身で熊と遭遇した事は幾度とあるが、襲われた事は無かった。ただそれは、運が良かっただけだろうか?
by dostoev | 2017-05-09 09:54 | 民俗学雑記 | Comments(0)

大同年間の事などなど

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岩手県だけでなく、東北全体に建立された神社仏閣の年代の多くが坂上田村麻呂に縁を持つもので大同二年、もしくは大同元年とされている。それが現在も奇妙だとされ、まともに扱われてはいないのが現状だ。それは大同年間に坂上田村麻呂は、既に東北の地を去っている為に、おかしいとされているのだ。

大同年間に建立されたという神社仏閣が東北に多いのは、大同年間が恐らく東北の文明開化の年では無かっただろうか。蝦夷国では、山は直接拝むものであって、神社を建立して拝む文化は無かった。それが蝦夷国が平定されて落ち着いた頃に、朝廷側の文化である神社仏閣建立の波が押し寄せたのが大同年間では無かったか。

江戸時代後期の町人学者である山片蟠桃(1748~1821年)は、過去の歴史上の聖山の開山及び神社建立は、下記の様に私利私欲の為であると批判している。

「役小角・空海・行基・最澄をはじめ、その他の高僧、貴僧と称らせれているものは、みな無鬼のことをよくわきまえてのち、人主を欺き、権家を偽り、堂社を建てさせ、本地垂迹そのほか、さまざまの偽飾をのべて自分の私欲をはたし、開山・祖師と尊ばれて、千年の後に至っても祭祀され…。」

奈良の大仏を建てようとしていた聖武天皇時代に、東北で金が発見された。それまでの金は輸入に頼っていたものが、国内で発見された事は大きかった。まあ発見されたというか、既に東北には採掘・治金の技術が合って、その金を献上したという事になるのだろう。しかしそれによって東北は、大きな注目を浴びる事になり、多くの宗教人が東北に足を向けた。山の沢沿いに、不動の滝や不動岩と名付けられているものがあるのは、かって山伏が山道を開発した名残りだと云われる。山伏を中心に、東北の山々は調べられ、採掘されていった。故に山片蟠桃の言葉は、間違いでは無かった。

話は飛んでしまったが、延暦21年(802年)に坂上田村麻呂は、アテルイ・モレを降伏させ、処刑までに至っている。つまり蝦夷のボスを倒したのが坂上田村麻呂だ。蝦夷国平定後でも、反逆の火はくすぶっていた様だが、サル山のボスザル争いでは無いが、アテルイを降伏させた坂上田村麻呂はある意味、蝦夷国のボスの座に就いたとの判断がなされたのかもしれない。そのボスの威光を借りて神社仏閣の由緒に坂上田村麻呂の名を組み込んだのは、アテルイを降伏させた坂上田村麻呂の生々しい力の記憶を呼び起こさせる為、つまり坂上田村麻呂の名とは、建立された神社仏閣を守る為の魔除けの意味合いを持っていたのではないか。
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ところで、遠野側と大迫側の早池峯神社の由緒に若干の違いがある。遠野側は、あくまで大同元年に始閣藤蔵が早池峯山頂に奥宮を建てたとするが、大迫側の由緒には遠野の始閣藤蔵を登場させ、同時であったと云う由緒にしている事から、あくまで遠野側を意識した由緒としている。ただ気になるのは、大迫側の由緒に二荒山の伝承らしき記述がある事から、後の時代に拝借し創ったものではないかという疑念が生じる。

早池峯山頂の奥宮は、背後を北とし、前方には遠野が広がる。早池峯妙泉寺という里宮は、斉衡年中とされる事から、奥宮建立の約五十年後の事になるのだろうか。その建立に名を連ねるのが慈覚大師円仁であるが、それが正しいかは別として、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗が、早池峯妙泉寺に関わったと云う事が重要だろう。天台宗は星の宗教とも云われる様に、北辰を重要視する。かの比叡山も北斗七星が降った霊山とされている事から、この早池峯にも北辰という信仰を重ねただろうと推測される。何故なら、大迫の田中神社側も認めている様に、大迫の早池峯神社は、遠野の早池峯神社の遥拝所として建立されている。事実、早池峯を信仰する神社であるなら、その背後に早池峯が来なくてはならないのだが、大迫の早池峯神社は、遠野の早池峯神社側に向けて建てられている。これは、遠野の早池峯神社経由で、北に聳える早池峯を拝むと云う方違いの呪術でもあるのだと思える。つまり、遠野側の早池峯妙泉寺が建立された後に、遠野側に向けて大迫の妙泉寺が建立されたものであろう。だからこそ、由緒にも遠野側が大同元年としているのに対し、大迫側が大同二年としている年代のズレは、大迫側が遠野側より遅く建立したという証明を暗に認めている為であろう。

「遠野の社寺由緒考」を記した大川善男氏が指摘していが、南部氏は各藩の由緒を南部藩の歴史に組み込んで改竄しているという。例えば上郷町に伝わる中井明神と云う龍神を従える伝承もまた、南部藩の威光を伝える為に捏造したものであろう。早池峯と関係ある寺社に、東禅寺というものがある。その東禅寺は臨済宗であるとされるが、大川氏は東禅寺の礎石などから推測して、それは天台宗のものであると断定した。その東禅寺の無尽和尚とは、ある意味謎の人物ではあるが、盛岡の東禅寺との関係も指摘されている。しかし、東禅寺跡が天台宗であったならば、それは恐らく早池峯妙泉寺の別の里宮であった可能性がある。そして、天台宗において"無尽"とは北辰を意味する言葉でもある事から、やはり無尽和尚とは、天台宗の僧であると思わざる負えない。それでは東禅寺という寺社名はどこから来たものかと思えば、やはり南部氏の介入を疑ってしまう。
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東禅寺跡の側に、何故か南部守行の墓がある。南部守行(1359~1437)は、三戸南部氏第13代当主であり、しばしば遠野にも出勤したと伝えられる。1437年、大槌孫三郎との戦で流れ矢に当り死に、その遺体は遠野の東禅寺まで運ばれ埋葬されたというのが常々疑問だった。その南部守行の墓は、南部守行の墓を中心に殉死者十二名の墓が左右に配置されている。いわゆる十三塚となっている。殉死者という事は、南部守行を埋葬した後に家臣が後を追って自決したという事になるか。しかし、それは有り得ないだろう。恐らく本来は、薬師如来と十二神将の信仰を、南部守行に変えて被せたものではなかろうか。何故なら薬師如来は、妙見神の本地でもあるからだ。この東禅寺跡が星の宗教と呼ばれる天台宗の地であったならば、当然の事ながら北辰を中心とした信仰形態であったと考える。道路を隔てて、この南部守行の墓と東禅寺跡は向かい合わせとなる。これは早池峯と山師岳の関係にも似通っている。そして阿曽沼氏の居城であった、旧横田城跡に薬師堂と妙見の碑がある事を考え合わせると、阿曽沼氏を裏切る形で為政者となった南部氏は、あくまで盛岡南部を中心とする基礎を作る為、信仰面の改竄を施した結果が、創られた遠野東禅寺の伝承では無かっただろうか。南部守行を、意図的に不動の北極星に据えようと考えたのだろう。とにかく岩手県の歴史は、かなり南部氏によって改竄されたような気がする。阿曽沼氏もまた、同じ事をしたのかもしれないが、最終的に残っている文献は南部氏の息のかかったものであるから、阿曽沼氏の意図までは断片的にしかわからない。早池峯という山を巡っての支配の遍歴が、あらゆるものを隠している可能性はあるだろう。岩手三山の伝説に、男山は岩手山で、本妻は姫神山、妾は早池峯。いやそれば逆であるなどというものがあるが、これもまた支配の遍歴の名残からのものであろう。遠野の町も、時代と共に変化していった。恐らく当初は、土淵から附馬牛にかけてが遠野の中心であり、支配していたのは安倍氏であったろう。そして奥州藤原氏滅亡の後に、遠野を統治した阿曽沼氏が松崎の山に、横田城を築き、町を作ったのが鎌倉時代。その後の17世紀後半に、鍋倉山に横田城を移転させ、その城下に遠野の町を作り、現代に至っている。為政者の交代による信仰的支配の変遷が、遠野の伝承を複雑なものにしているのかもしれない。九州の俘囚の者達の記録に、瀬織津比咩の名を呼ぶ記述の古文書がある事から早池峯信仰は、山の女神である瀬織津比咩への信仰が、観音信仰より早かった可能性がある。天台宗の布教により、神への信仰が観音信仰に変化したのかもしれない。とにかく、岩手の歴史と信仰の、あらゆるものの見直しが必要であろう。
by dostoev | 2017-05-08 22:38 | 民俗学雑記 | Comments(0)

荒御魂としての桜

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サクラの「サ」は、主に"田の神"を意味する"神霊の「サ」"と一般的に云われるが、あくまでも大和朝廷など主体の概念かとも思える。何故なら、遠野だけでなく岩手県全般に弥生遺跡は殆ど無く、縄文遺跡の上に奈良・平安の遺跡が重なっている。つまり、岩手県には弥生時代は殆ど無かったという事になろうか。温暖な秋田においては弥生遺跡はあるものの、縄文と混雑する斑状態であったという。例えば遠野周辺の地域を見てみても、山村の集落などでは昭和になってどうにか米が栽培されるようになったという地域もある。つまり岩手県の気候は米作りに適しておらず、現代となって米の品種改良により、寒冷地でもじゅうぶん育つ事の出来る米が開発された。それ故に今ではどこでも米作りが行われている。それでも米は貴重で重要な食料である為、大事な田植え時期と桜の開花が重なる事から、関連付けて考えられたのだろう。
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平安時代に花といえば桜を意味していたが、奈良時代の花といえば梅であったようだ。それでは奈良時代に桜は無かったのか?というと、そういうわけではないようだ。中国文化の影響により、梅の花を愛でる傾向があり、どうもそれに則って桜をさて置いて、梅の花を称賛したようだ。梅の花といえば、前九年の役の後に都へと連れられた安倍宗任に対して、都の人々は梅の花を見せ「奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろう。」と侮蔑し嘲笑したところ、安倍宗任は「わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と答え、都の人々を驚かせたと云う。これが史実化どうかはわからぬが、とにかく東北には桜も梅も古くから咲いていたのだと思われる。

東北における神社などの建設は、坂上田村麻呂以降になる。それまでは、山なら山に対して、ただ手を合わせるだけであったと伝えられる。そして恐らく、桜に対しての信仰の概念が存在していたのではないかとも思われる。8世紀前半に成立した「古事記」には、アイヌ語も含まれ使用されている事がわかっている。

「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした事により、忍熊王が神功皇后に琵琶湖に追い詰められ、入水する時、家来の伊佐比宿禰に対して「いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ」と歌った歌があるのだが、今まで家来に対して「吾君(わがきみ)」と呼びかけるのは不可解とされてきたが、それをアイヌ語の「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなった。これは「応神紀」で天皇が大山守命と大雀命に対し「汝等は兄の子と、弟の子といづれか愛しき」と問うのだが、大雀命は、弟の子に譲りたい心情を察していたので「兄の子は既に人と成りて、是れ悒きこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、是ぞ愛しき」と答えたのに天皇は反応し「佐邪岐、阿芸(アギ)の言ぞ、我が思うが如くなる」の阿芸も以前は「わが君」と解釈されていたが、不可解だとされていたのを、アイヌ語の「アキ」と解釈すれば、先ほどの天皇の言葉は「佐邪岐、弟の言った事が、自分の思う言葉だ」と、すんなり理解できるようになったという。

また「万葉集」の人麿の歌に「跡位浪立(あといなみたち)」というのがあり「とゐ波立ち」「あとい波立ち」と読んできたが意味が通じなかったそうで、そこでアイヌ語の「アトイ(海)」を採用してみると「海波立ち」とスンナリ理解できるようになったという。

アイヌ=蝦夷=陸奥というわけではないが、言語も含め蝦夷の思想や信仰も組み入れられた時代が8世紀であったのかもしれない。そして坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後、天台宗などが布教に勤めたのが8世紀後半から9世紀になってからとなる。
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サクラの「サ」には、「栄える」「盛ん」「幸」という正の力を表す言葉であるが、「クラ」はその神が斎く台座という一般的な解釈になっている。先の述べた様に「サ」は田の神を意味する神霊の「サ」である事になっている為、山の神は稲作を守護する為に桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となると信じられ、これが一般的なサクラの認識となっている。ただ、これから桜とは山に咲く花であり、やはり日本の桜の始めは山桜から始まったと理解できる。そして、山神と密接な関係にあるのが桜であるという事。古代の山岳信仰の中心となっていたのは、山神である。人々はその山神の棲まう聖なる山に咲く桜を、神の依代として欲した。桜を庭先に植え始めたのは後年の事。つまり、田の神となる山神を里に導く為に行われたのは、信仰の深さからくる桜の植樹であったのだろう。
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画像は、6月11日に撮影した早池峯に咲く桜。既に葉桜になっているが、その年にもよるのだろうが恐らく満開は6月前後となるだろう。遠野の桜の開花は、やはり年によるが5月前後となる事から、早池峯の桜の開花とは1ヶ月違う。しかし早池峯は遠野で一番の高山であるから、山桜はもっと低い山にも咲くものである。それでも里より桜の開花時期は、遅いのである。これからもわかるように山桜から始まった日本の桜の本来は、田植えの時期とは結び付いていない。
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画像は、6月の早池峯に散っていた桜の花びら。

古代の日本では、風で桜の花びらが桜吹雪として舞い散る時期は、疫病が流行る時期と重なったと云う。そこで、疫神として恐れられた三輪山の麓の大神神社では「鎮花祭」がおこなわれたのだと。ただ「鎮花祭」は大神神社に限定されるものではなく、他の多くの神社でも行われている。

「季の春、花鎮めの祭り謂ふ。大神・狭井の二つの祭りなり。春の花の 飛散の時にありて。疫神分散して癘を行なふ。その鎮遏の為、必ず この祭りあり。故に鎮花といふ。」【養老律令】

桜の花が飛び散る事により、疫病もまた広がると考えられた為「鎮花祭」では、桜の花が散らないように願った。当時の人々にとって、桜の花の呪力は相当のようで、桜の花に疫病の退散を願ってきた。そしてその鎮花祭では、歌が添えられる。

幣として桜の花を枝ながら 山の主に今ぞ手向くる

この歌は、疫病を穢れとみなし、桜の小枝は神の依代となるので、それに神を宿し、疫病を山の主に託して祓ってもらうというもの。また時期的に、稲の花の落ちない為の願いも込められていた。山の神が春に里に降りてきて、田の神となる。その田の神に稲の花が落ちないようにも託したのであったようだ。 つまり、山神とは"穢祓の力"を有する神という事になる。そしてこれは、遠野に伝わるオシラサマに通じる観念でもある。遠野のオシラサマは、顔の彫られた桑の木に着衣を重ねていくものであるが、古着とは穢れたものであるから、オシラサマに着衣を重ねるとは、穢れを重ねる事でもある。そしてその穢れを、オシラサマが祓うという事。つまりオシラサマには山神と同じ霊力が備わっているという事になる。
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遠野の白望山の背後に、金糞平という蹈鞴場がある。そこには長い樹齢を誇る山桜が咲いているが、採掘・治金の場にも桜が何故か植えられているのは、やはり山神への感謝の意であるか、山神を憑依させる依代としての桜であったのか。こういう蹈鞴場から作られるものに、諏訪大社で有名になった佐奈伎(サナキ)鈴がある。これは二荒山にも奉納されているものだ。

この「佐奈伎(サナキ)」「サ」を蹈鞴界では「表面が何も吸着していない純粋無垢の素肌の形容」として伝えられる。そして「佐奈伎(サナキ)」「ナキ」「精錬されたばかりの眞金、即ち純粋成分の金属」を意味するのだという。

サクラの「サ」の意味も、サナキの「サ」の意味も、どちらも純粋で正の力を示すものであるようだ。しかし「クラ」には神の座という意味の他に、古代の縄文人は「影」という意味を込めて使っていたようだ。
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闇龗神(クラオカミ)、高龗神(タカオカミ)は、貴船神社の祭神にもなっているが、闇(クラ)は谷あいの意味であり、高は闇(谷)に対して山峰を指している。龗・淤加美は、古来より雨を司る龍神とされている。つまりこの高龗神と闇龗神を合せて、山に棲む龍神を意味している。陰陽五行においては、この世には陽と陰があり、男と女がいて、光と影がある。山にもまた、突き出した峰があって、窪んだ谷がある。「闇(ヤミ)」という、夜を意味する言葉を「クラ」と訓じるという事は、即ち「クラ」が影を意味するという事でもある。

日本の神は、和魂と荒魂の二つの魂を持つと考えられていた。儀礼的には、和魂をうまく導入し、荒魂を退けると言っては語弊となるか。一層の繁栄を求める場合は和魂を求め、災難除けには荒魂を願うというのが正解か。つまり米と桜の関係は、米が和魂であり、桜が荒魂という事になろう。天皇と米は新嘗祭などからみても結び付きが強い。天皇の家紋が菊の御紋であるのも、その形状が太陽を示しているかのようで、まさに和魂を意図しているのではと思える。
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梶井基次郎「桜の樹の下には」という作品で有名になった"桜の樹の下に死体が埋まっている"という都市伝説らしきは、間違ってはいない。梶井はインスピレーションで書いたかのようであるが、桜が人間などの死体から滲み出る液体を吸い取って、あの妖しくも美しい花を咲かしていると感じたようだ。実際、桜の樹齢(ソメイヨシノ)が人間の寿命と近いと思われた事から、子供が生まれると庭先に桜を植え、その生まれた子供の痛みや苦しみ、そして悲しみまでもを吸い取って貰えるよう願った"人間の依代"と認識された桜でもあった。

桜は、人の穢れを地面の下へと水と共に吸い取り、黄泉国であり、根の国底の国へと流す役割を担う。祓戸四神の一柱である速佐須良姫は、本居宣長が須世理姫姫と比定している。同じく根の国に赴いた建速須佐之男命と「速」で重なるのが速佐須良姫である。その速佐須良姫に流し送る役割の初めが桜であり、桜の女神ともされる瀬織津比咩である。

佐久奈度神社に当初、一柱の神として祀られていた瀬織津比咩は、桜谷(佐久奈谷)において桜谷明神として存在していた。桜谷は、黄泉国に引き込まれるという死の匂いを伴った俗信を持つ谷であった。先に紹介したように、谷は闇であり、影でもある。その桜谷(佐久奈谷)は、桜の名所と言うわけでもなかったらしい。それはつまり、「サクラ」そのものが樹木としての桜だけではなく、闇でもあり影でもある荒御魂を意味する言葉であったからだ。正なる「サ」の影となるのが「サクラ」。神に例えればまさしく、和魂に対する荒御魂がサクラとなる。
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by dostoev | 2017-03-07 19:33 | 民俗学雑記 | Comments(2)

久慈星

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遠野生まれの遠野育ちでありながら、自分には遠野の血はまったく入っていない。両親がどちらも、久慈出身な為だ。久慈といえばもう数年前になるか、全く観てはいなかったがNHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の舞台で有名になった、岩手県の北に位置する海の街でもある。

自分の知っている有名な久慈は、柔道の三船十段か琥珀くらいだった。その「ひさしくいつくしむ」「久慈」の語源はどこから来ているのか謎になっている。「久慈市史」を読んでも不明とされていた。もしかして、茨城県の久慈と関係があるのでは無いかとも考えたが、確証が無い。ところがある時、星に関する民俗の本を読んでいると「久慈星」というものを発見した。どうやら、天文暦象の諸事一般を載せた書を「日爾雅(くにが)」というらしいが、古事記編纂の時代に北辰が天上天下の根源を為す信仰が広がり、いつしか斗極(北辰)に久慈星という名が冠せられたのだと。つまり「日爾雅(くにが)」の「日爾」「くじ」とも読む。しかしこれでも、久慈市の久慈がここから来ているかといえば、少し弱い。ところが久慈という名称に、また別の説があった。

「儺の國の星」によれば筑紫では亀の呼称を「鼈龜(ぐず)」あるいは「渠師(ごうず)」と呼んでいたようだ。倭人はその音を「宮子(くうし)」と書き、陸奥九戸久慈などに伝わったとされている。ところが、古代中国では卜占の女人を宮子(ぐうず)と崇めたらしいが、それを宮姑(みやこ)とも呼び、陸中閉伊宮古に伝わったともされている。ただし根源が亀であるから、それが卜占としての「宮姑(みやこ)→宮古(みやこ)」と、北を玄武とする斗極の「鼈龜(ぐず)→宮子(くうし)→久慈(くじ)」の違いはある。つまり、岩手県の久慈市と宮古市は、どちらも北を意味する言葉であったという事。先の「日爾→久慈」も、北を玄武とする事で重なる。簡単に訳してしまえば「久慈」とは「北の亀」、つまり「玄武」という意味の地名となる。これは朝廷側の立ち位置により、岩手県の地名の多くは朝廷の北に位置する地域であるとして付けられたものであったか。
by dostoev | 2017-01-30 14:58 | 民俗学雑記 | Comments(0)

岩手山の噴火と芭蕉

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昨夜、秋田県を震源とする地震があり、位置を確認すると、岩手山に近いと事から一瞬火山性地震か?などと思ってしまったが、そうではなかったようだ。岩手山の噴火は、大正時代まで遡るが最近は噴火の気配を出した時もあったが、どうにか噴火までは至っていない。ところで火山の噴火は神の怒りとされ、古代の人々は、その神の怒りを鎮める為に苦労したようだ。その火山の噴火を別に"天泣"と呼ぶ。確かに火山の噴火は、天を覆うほどの激しさであるから、イメージが湧く。そしてその天泣の別名を"魚涙"と云うそうだ。火山の噴火で、川の中に棲む魚も被害に遭って泣くという意味だろうか?

行く春や 鳥啼魚の 目は泪

上の句は、松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちの時に詠んだ句である。一般的なこの句の訳は「うららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。」しかし、火山の噴火の別名を「魚涙」と知ってしまうと、別の考えが浮かんでくる。

芭蕉が奥の細道に旅立ったのが1689年(元禄二年)の桜が咲く頃であったと。しかしそれが新暦でいえば5月16日という事から、疑問が残る。桜前線は、南から北に移動するように、必ず時差が生ずる。現在の東京での桜は4月前後に咲くのであるが、岩手県の桜は5月前後が一般的だ。春の花といえば桜の事で、「花の色はうつりにけりないたずらにわがみ世にふるながめせしまに」という小野小町の歌に登場する花は桜を意味している。それ故、芭蕉の句の訳として「花咲き揃う別格の春」とは、桜満開の春を詠っているものと思われるが、5月の東京での桜は、既に散っている。つまりこの芭蕉の句とは、これから向かう先の春を詠んでいる句ではないだろうか?

岩手山は1686年に噴火して、更に1687年に噴火している。恐らく岩手山が噴火したという情報は、芭蕉の耳にも入っていた事だろう。しかし、現在の情報伝達時代とは違い、冬をまたいだ1689年の春において芭蕉は未だ岩手山が噴火しているものと思っていたのではないか。それ故の俳句が「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」とは、これから自分が向かう先の春は、岩手山の噴火で鳥啼き魚も泪しているに違いないという意味の句では無かっただろうか。
by dostoev | 2017-01-29 11:08 | 民俗学雑記 | Comments(0)

馬に関する早池峯七不思議

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早池峯七不思議の中に「龍ヶ馬場の駒の声」「安倍貞任の軍勢の音」というものがある。安倍貞任の軍勢の音は、騎馬の音であるようだ。どちらも馬に関するものだが、現実には有り得ないもの。では何故、早池峯に馬に関係する話があるのか。

「遠野物語」に馬の登場する話は少なくないが、怪異譚となると「オシラサマ」の話か、もしくは「遠野物語拾遺264」になるのではなかろうか。「オシラサマ」は有名過ぎて、今更紹介する話でもないかもしれない。「遠野物語拾遺264」は、出棺時の話になる。
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出棺の時に厩で馬が嘶くと、それに押し続いて家人が死ぬといわれ、この実例もすくなくない。必ず厩の木戸口を堅く締め、馬には風呂敷を頭から冠ぶせておくようにするのだが、それでも嘶くことがあって、そうするとやはりその家で人が死ぬ。また葬送の途中に路傍の家で馬が嘶くような場合もある。やはり同じ結果になる。こういう際の異様な馬の嘶きを聞くと、死人の匂いが馬にも通うものであるかとさえ思わせられるという。

                     「遠野物語拾遺264」

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柳田國男「山島民譚集」によれば、葦毛は最も霊異なるものなると同時に、又最も厄災に罹り易いと述べており、その葦毛馬には、神も妖怪も乗るとされる。これには昼と夜との関係が深いようだ。人間の活動する昼は、太陽光の下であるが、神や妖怪の活動する夜は、月光の下となる為、馬は太陽光と月光の影響によって特性が変わる様である。夜の闇であり月光は、冥界であり黄泉国との繋がりが深いと信じられている。テオドール・シュトルム「白馬の騎士」に出現する月光を浴びて疾走する白馬の騎士は、水害を象徴するかのような存在だった。また、コシュタ・バワーという首無し馬の引く馬車に乗るデュラハンは、死を予言する存在。馬というものは人間が制御する乗り物でもあるが、その馬は夜になると、逆に人間を意図的に誘導する存在に変化する伝承が多い。「遠野物語拾遺264」においても、馬に風呂敷を被せるのは、死へ導く馬の鳴声を阻止する為。つまり馬は、黄泉国にも近い事が「遠野物語拾遺264」によっても証明される。
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古代には、方位が逆転して示される方位観があったそうだ。それ故に、北辰を"馬脛"とも呼んだ時代があったという。"馬の足"という夜道に出現する妖怪がいる。福岡県の那珂川沿いには、遅くまで遊んでいる子供に対し「馬の足の化物が来るぞ!」と言ったらしい。昼間は大人しい馬も、夜になると恐怖の存在に移り変わったようだ。先に紹介したテオドール・シュトルム「白馬の騎士」の物語では無いが、夜の馬を怖がるのは単に怪奇譚というだけでは無い。水辺に馬の怪奇譚があるのは、水害との関連があるようだ。「白馬の騎士」は津波との関係があったが、福岡県の那珂川でも川の氾濫と馬の関係が結び付いての怪奇譚であったよう。それは九州では、夏の大風は南方、方角でいえば午から襲来すると伝えられている。自然災害が、方位と結び付いて考えられた怪奇譚なのだろう。世界的にも「闇夜に聞こえる馬蹄は、洪水の前兆である。」とされている事から、北に聳える早池峯は、方角として子となるが、方位逆転の時代もあった事から午にもなる。更に白髭の洪水伝説が伝わるのも、早池峯に祀られる神が龍神であり水神の為であろう。早池峯神社の大祭では、神を乗せた神輿は真っ先に、早池峯神社境内にある駒形社へと行くのは、早池峯大神を乗せる為でもある。神というものは、自然災害を引き起こす存在でもある。それを乗せるのが馬でもある事から、早池峯に伝わる七不思議での馬の話は、水害に関係するものではなかろうか。つまり「龍ヶ馬場での駒の声」や「安倍貞任の騎馬軍勢の音」がもしも聞こえた時は、水害が起きるのだと伝える為の七不思議ではなかっただろうか。
by dostoev | 2017-01-24 20:43 | 民俗学雑記 | Comments(0)

兎亀(とき)のかけっこ

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足の速いウサギと、足の遅いカメが競走をし、最終的にはカメが勝利する「ウサギとカメ(兎と亀)」の物語がある。

ウィキペディアによれば「イソップ寓話やラ・フォンテーヌが書いた寓話詩にも所収されている。 同じ素材の話がジョーエル・チャンドラー・ハリスの「リーマスじいやの話」にもあるが、内容は大きく異なる。日本には西欧との貿易が盛んになった室町時代後期以降に流入したとみられ、イソップ寓話を翻訳した伊曽保物語などによって近世以降に知られ始めた。一般に知られるようになったのは、明治になって教科書に採録されてからである。明治時代の初等科の国語の教科書には「油断大敵」というタイトルで掲載されていた。」

とにかく「油断大敵」という寓話で有名となった「ウサギとカメ」だが、俊足の象徴としてのウサギと、鈍足としての象徴のカメに、誰も違和感を抱いていなかった。しかし、俊足はオオカミでもシカでも良かったのではなかろうか。「ウサギとカメ」はイソップ寓話にも載っているものの、その話の原型がどこまで遡れるかわからないのではなかろうか。

実は「ウサギとカメ」の組み合わせで、気になるものがある。それは、亀占だ。亀占の歴史は紀元前の最古の王朝と云われる殷代後期が際立った時代だと云われる。その殷代では、亀占によって天道を占っていたというが、その時代の概念に「月に莵在り、日に亀在り」と信じられていた。毎日昇っては沈む月と太陽は、時間の運行に関与していた。その月と太陽を間接的に表現した生物が、兎であり、亀であった。それ故に、時間を示す「"時(とき)"」とは、「兎亀(とき)」から始まった言葉でもある。

そこでもう一度イソップ寓話の「ウサギとカメ」を思い起こして見る。ウサギとカメの到達点は同じなのだが、辿り着くまでの速度が違う。しかし、太陽は安定した速度と形で進むのだが、月は不安定な形に変化して、一旦消えてしまう(新月)存在でもある。その月の不安定さは、まさしく寓話のウサギの行動にも重なる。また時計の長針は、短針よりも見た目が派手に速く動いている様だが、到達する時間は同じとなる。つまり長針はウサギと同じ様に、いくら速く動いても、短針でありカメに勝てない存在でもある。この月日の兎亀の関係と、時計の長針と短針の関係が、何故か寓話「ウサギとカメ」に重ねてしまうのは、自分だけだろうか?
by dostoev | 2017-01-20 19:43 | 民俗学雑記 | Comments(0)

鳥の雑文

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酉年という事で、鶏などについて雑文をば少々。ニワトリというと、夜明けを知らせる鳥として有名となっている。昔話で、鬼などの魔物に襲われていても、ニワトリの鳴声によって夜明けが近い事を知ると、魔物たちは慌てて逃げていく様が、よく描写されている。夜明けを嫌う者は西洋になると、吸血鬼になるのだろうか。太陽光線を浴びると、身体が崩壊するのだと、子供の頃によく見た吸血鬼の映画で認識している。しかし、西洋の吸血鬼映画にはニワトリは登場しない。考えてみれば吸血鬼映画とは、基本的に吸血鬼退治映画であるから、前もって日の出を知らせるニワトリは邪魔な存在になってしまうのかも。
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とにかくニワトリの鳴声は、朝を知らせる。それを利用して魔物を撃退する物語は、どこかでホッとするものだが「伊勢物語」では、そのニワトリの鳴声を口実に、まるで魔物から逃げるかのように女から逃げる男を表現している。しかし、女の歌を知ると、その女は確かに魔物であったかのよう。

夜も明けば水桶にはめなで腐鶏の まだきに鳴きてせなをやりつる

(夜が明けたらこの腐れ鶏を水桶にぶちこんでやろう! この鶏が夜も明けないのに、あんなに鳴いてあの人を帰してしまったから。)

逃げた男とは、色男で有名な在原業平であった。どうやら、田舎女に興味を示したものの、"用を済ませた"ので早く立ち去りたい在原業平が意図的にニワトリを鳴かせたようにも思える話である。上の歌は、女の気性の激しさは、まるで正体を隠す魔物の様。話を変換すれば、在原業平が知恵によって、魔物から逃げた話にもなり得る。ところで田舎とは陸奥国なのだが、この田舎の女が在原業平に恋い焦がれ詠んだ歌が、下記の歌。

なかなかに恋に死なずは桑子にぞ なるべかりける玉の緒ばかり

(なまじ恋焦がれて死ぬよりも、いっそ夫婦仲の良い蚕になった方がまし。蚕の命は短いけれど…。)


蚕は虫であるから人間より寿命は短いもの。ここで気になったのは、"夫婦仲の良い"と詠っている事だ。もしかしてだが、オシラサマの話が伝わってのものではないかと勘繰ってしまう。オシラサマの話は、若い娘が許されない恋心から白馬と共に、天に昇る(死んでしまう)という話だが、生前は確かに若くしての死であるから寿命は短いと思われている。もしかしてこの時代にオシラサマの話は、陸奥国に留まらない形で広まっていたのだろうか。
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再び「伊勢物語」になるが、雁の鳴声を娘の心情(実は母親の心情)に重ねている歌がある。

みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる

(三吉野の田の面に降りている雁でさえも、ひたすらあなたに慕い寄るという気持ちで鳴いております。娘も同じ心であなたを頼りにしておりますよ。)


雁の鳴声さえも総動員して、身分の高い在原業平を引き留めようとする歌だが、生粋の女好きの在原業平は、一人の女に留まる事が出来る筈も無く、ただ渡り鳥の雁の様に去って行く。ここでは鳥の鳴き声を、どう捉えるかだが「伊勢物語」は在原業平の女性遍歴の作品みたいなものだから、鳥の鳴声=女の泣声にも感じてしまう。その前に、泣くという行為そのものが、男よりも女に与えられた行為の様で、男も泣くは泣くのだが「男なら泣くな」という言葉が、かなり昔から伝わっている様に、逆に「女なら泣いても良い」という認識があったのだろうと思える。だからこそ、鳥の鳴き声は女の泣き声に重ねて表現しているのだろう。
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角田川(隅田川)で船に乗った在原業平は、白い鳥を見て船頭になんという鳥なのか聞く。「これなむ都鳥」と聞いて、なんと京の都にいる二条の后を思い出す。都鳥とはユリカモメの事だが、その都鳥の白い肢体から妻を連想する在原業平は、さすがとしか言いようがない。また、鶉(ウズラ)も登場する。それは別れ際に女が鶉になるという歌を詠んだ。

野とならば鶉となりてなきをらむ 狩にだにやは君来ざらむ

簡単に言えば、別れたとしても鶉になれば、今度は狩としてあなたが来てくれるかという切ない望みの歌で、まあ作者が在原業平であるから、脳内が鳥だろうが花だろうが、「伊勢物語」は、全て女に結び付けて作られている作品である。まあ鳥と言っても、ここで鷲とか鷹が出て来たなら、それは女より男を連想すると思うので、作品上猛々しい鳥を登場させないようにしている。少し気になったのは、鶯の花の歌のくだりだった。

鶯の花を縫ふてふ笠もがな ぬるめる人に着せてかへさむ

鶯の花を縫ふてふ笠はいな おもひをつけよ乾してかえさむ(返歌)

濡れる人を"思ひ(思火)"という炎で乾かそうというやり取りだが、月形半平太の有名なワンシーンを思い出した。思い出したと言っても、小学校の時に買ったかくし芸関係の本に、有名なセリフのくだりがいくつかあった中の一つが、この月形半平太のワンシーンのセリフを未だに何となく覚えているので、ちょっと書いてみよう。

雛菊「月様、雨が…。」

半平太「雛菊か。花を散らす心無い雨よのぉ…。」

雛菊「鶯の羽が濡れましょう。」

半平太「雛鶯か」

雛菊「帰りましょうか、もし。」

半平太「春雨じゃ、濡れて行こう。」


このワンシーンで、恐らく雛菊と雛鶯をかけているのは、最後に"思火"で乾かすという意味を含んでいるのではととっさに思ってしまった。もしかして月形半平太のこのシーンは「伊勢物語」から来ているのかなぁと。とにかく、鳥と女性が、よく結び付けられているのが「伊勢物語」であった。そういや、家の婆様も酉年だったなぁと、何となく思ったりもする。
by dostoev | 2017-01-04 22:41 | 民俗学雑記 | Comments(0)