遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:民俗学雑記( 235 )

みちのおく

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宿六を「宿の六でなし」という言い方がある。しかし「ろくでなし」の正しくは「陸でなし」が正式の様だ。「ろく」は「陸」と書き記し「平ら」、もしくは「真っ直ぐ」という意味となる。これは地平線が、平で真っ直ぐある事からきているよう。つまり「陸でない」と言う意味は、平らでない、真っ直ぐで無い事を意味していた。それがいつしか、人の性格にも重ねられ、歪んでいる物や正常ではない物が「ろくでもないもの」に転じたようだ。とにかく本来「ろくでなし」は「六」とは無関係だと知られている。

ところで陸奥は本来「道の奥(みちのおく)」に「陸奥」という漢字をあてて「むつ」になったというが、「むつ」は「六つ」という音に重なる。だいたい「道の奥」に何故「陸」をあてたのか?確かに「陸」は「道」の意でもある。「道の奥」という意味は「遠い」「僻地」などの朝廷からの視点であろうから、確かに遠い奥地という感覚から「道の奥」であったのは理解できる。しかし敢えて「道」を「むつ」とも読める「陸」に変えたのは、意図があるものかと勘繰ってしまう。
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辻などに建てる石碑に道祖神があるが、道祖神は別に"道陸神(どうろくじん)"とも云うようだ。陸は道でもあるのだが、そうなると道が重ねた表記が「道陸」で、強調の意味になるのだろうか?有り得ない表記の様な気がする。やはり「陸」には、「六」の意味を秘めている気がしてならない。画像は、青笹町の飛鳥田にある、南無阿弥陀仏と刻まれた"六道神"の石碑。これはそのまま、仏教の六道を意図した石碑である。また別に、小友町にも"冥道"として六体の地蔵が置いている地がある。それもまた、六道を意味するものである。六道は、六種の苦しみに満ちた地獄世界でもある。

「六つ」という表記は「暮れ六つ」「明け六つ」で、本来の1日は陽が沈んでから始まったものであるから、この場合は酉の刻から始まり卯の刻までという事。簡単に言えば、太陽が沈んでから昇るまでの暗闇の時間帯でもある。闇というのは魑魅魍魎が跋扈する時間帯と考えれば「陸奥」が、奥に「六つ」を秘めているならば、「六道」という冥界であり地獄の「六つ」を指すものと考えて良いのではないか。また別に岩手県には奥六郡と呼ばれる地がある。その奥六郡を統べたのが安倍氏であるが、近畿以西には七や八という聖数に溢れているが、何故か東北には六という数字が目立つと思うのは考え過ぎだろうか。実は古代に、常陸国の境界に、境の明神としてイザナギとイザナミが向かい合わせで祀られた。これは朝廷の力の及ぶ場所にイザナギを祀り、及ばざる場所にイザナミを祀った。そして、朝廷が多賀城を築いた後の事、今の宮城県と岩手県の境界辺りに、やはりイザナギとイザナミを祀った。これは「古事記」での現世と黄泉国を分け隔てる話を意図したもので、力の及ばぬ地は"黄泉国"であるという意識があってのものだったろう。

明治になってからの廃藩置県で、東北は六県となった。しかし、何故に六県にしたのだろうか?それこそ「六道」の地獄を意図しているかのよう。例えば「左遷先は東北六県の中でどこがいい?」という打診も「どの地獄がいい?」と聞いている様にも感じる。東北を、聖数の七県、もしくは八県にしても良かったのではないか。

また東北は「日高見」とも云われた。つまり陽が高みに昇る地の意味もある。そこに「六つ」という太陽が沈んでから昇るまでの音を与えたのは、一つの呪いではないかとも思える。考えてみれば、古来からの流刑地に四国がある。「し」は「死」を連想させる。「むつ国」と「し国」は、意図的に朝廷が呪いを付与したのかのよう。数字遊びのようであるが、ある意味本質を突いているのかもしれないと思ってしまう…。
by dostoev | 2017-08-07 12:48 | 民俗学雑記 | Comments(5)

光る化け雉

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「遠野今昔」に、阿部愛助氏の書いた「光る雉」の話がある。その話を簡単にまとめてみた。

綾織の阿部さんは、鉄砲撃ちであった。ある月明かりの淡い山の峰の下で獲物を待っている時の事であったそうな。冬山の冷たく澄んだ空気の中、峯のあたりから雉が下方向かいの峯へと番で移動している時の事であったという。この雉の峯下りの時、雉の体が光ったのだという。冬山の澄んで乾いた空気の為だうか、雉の体に静電気が起こった為の発光なのかもしれないと。

雉が光るとは有り得ない話ではあるが、いろいろな状況が重なると、そう見えるのかもしれないとも、どこかで思っていた。ところが「村誌たまやま」に、光る雉の話があった。

炭焼きを営んでいる男が夜遅く帰って来ると、山の方から大きな声で「行くじぇー、行くじぇー」と叫ぶものがある。そしてそれが毎晩続いた。炭焼きの男は気味が悪くてしょうがない。しかし気を取り直し「人間でないものが何で人間をおどすだろうか。山の仕事をする人間は、これに負けてなるものか。」と、ある日朝から仕事を休んで、炭焼く木を斬る大きな鉈を一日中鋭く研いだ。そして晩方、炭焼き小屋から家路にかかった。果たせるかな、闇夜に山の方から「行くじぇー、行くじぇー」と声がした。炭焼きの男は、大きな鉈を振り上げながら「来るなら、来ねかぁー」と云った。すると箒星のような大きな光り物が大きな音を立てて、飛んできて炭焼きの男の足元にどさっと落ちた。炭焼きの男は「このやろう、負けるものかー」といいながら、鉈でその光り物をめちゃくちゃ斬った。その晩、炭焼きの男は青くなって「今夜は、化け物を斬った。」と言って寝た。翌朝そこへ行ってみたら、大きな雉の雄が、さんざん斬られて死んでいた。

この話は"光り物の正体"を暴いたような話でもある。遠野でも、多くの"光り物"の話がある。ただし、多くは浮遊する人魂の様な話であるが、唯一小友町の菊池某氏の体験した、彗星の様な光り物の話が、この雉の話に近いのかもしれない。岩手県では、昔から歳取った雄の雉の尾の節模様が十二以上あるようになると人を騙すと云われる。この化け雉と綾織の阿部さんが目撃した雉は、決して同じものでは無いだろうが、雉が光ると云う共通点と、岩手県の雉についての伝承の共有意識からの話であったのか、とも思えてしまうのだった。
by dostoev | 2017-08-01 06:20 | 民俗学雑記 | Comments(0)

ボナリ考

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画像は母也明神。実は、この母也明神について「注釈 遠野物語拾遺(上)」の解説に、興味深い事が記されている。

「綾織町新里根岸の屋号を日光という家に不思議な伝承がある。日光家は鈴木姓である。昔、参宮の帰りに杖にしてきたヒバの木を、上下を逆にして立てておいたところが根付いて育った。枯れかかっているが、今でも水田の中に目立った林となってある。その鈴木家から松崎矢崎に行ったイタコがあり、矢崎でも鈴木を姓としていて、そこで母也の伝承が始まった。」「解説より抜粋」

「遠野物語拾遺28」は母也明神の話が紹介されているが、柳田國男「妹の力」では、宮城県や岩手県にいくつかある"ボナリ石"を文書には"巫女石"と書いていると紹介している。となれば恐らく遠野の母也明神は、音の「ボナリ」に後から「母也」とあてたものではなかろうか。

また柳田國男「山島民譚集二」では、八百比丘尼であり白比丘尼について書かれているが、そこに「この比丘尼が訪れてきて箸を立てたり、杖を突きさして去った跡に大木が成長したという伝説の語られる地域が見られる。」と記されている。これは解説に紹介されている鈴木家の伝承に重なる事から鈴木家は、この比丘尼の信仰を携えた家系ではないかと想定される。ここで思うに「遠野物語拾遺28」と「注釈 遠野物語拾遺」の解説で交錯するキーワードは「ボナリ」「白」「杖」「鈴木」であると思われる。

「遠野物語拾遺28」は、大同年間の頃とされているが、「注釈 遠野物語拾遺」の解説では、参宮した時代と考え合せ、そんなに古くない時代だと考えているようだ。まあ実際にもしも大同の頃であるなら、それは丁度坂上田村麻呂によって蝦夷が平定されてすぐの頃となり、まだ稲作は行われていなかったろう。恐らく遠野で本格的な稲作が始まったのは、阿曽沼時代からではなかろうか。

ところで「ボナリ」を「巫女」と捉えた場合、六角牛山にも六角牛の神が与えた"巫女石"というものが伝わる。少し前に「河童の座石」の記事を書いた。この「河童の座石」の詳細が「まつざき歴史がたり」での「猿ヶ石川物語」の中に記されていた。早池峯の麓、又一の滝から始まった石が下流へと流れ広まる様を、子供向けの民話の様な語り口で書いている為、誰もが作り話だろうと思いそうだが、かなり注目したい内容である。それは「谷内権現縁起古老伝」に記されている「当に今此石を以て礫に擲げ、其の落ち止まる地を以て我が宮地と為すべし。」という文章から発生した下記に紹介する「逃げ石」の伝承というものがある。

昔早池峰山に、白髭が膝まで届く老翁が住んでいたという。或る時の事、この老翁が小石を足で蹴り落とし、早池峰山を下っていったという事である。ところが、この石の取り除かれた所から、水が湧き流れ出て、今の猿ヶ石川になったと云う事である。この老翁が蹴り落とした石は、綾織の根岸の里で動かなくなったと。それを確認した老翁は、そのまま再び早池峰山に帰ったのだという。しかしその石は不思議な事に、その土地から逃げ出し、一夜のうちに和賀郡丹内村のヤツアナのガコに行って止まったと云う。今でもその石はその淵の中にあって、権現頭のような形をして、常に早池峰山を睨んでいるという事である。

和賀郡丹内村のヤツアナのガコとは、丹内山神社の事であった。丹内山神社は早池峯山の方向に向いて建立された神社で、その間にある瀬織津比咩を祀る滝沢神社が丹内山神社の神が顕現したところとされている。つまり丹内山神社も早池峯山に関する神社という事である。そして丹内山神社の石がそれ以前にあった地が、綾織の根岸という事になる。ボナリ石が巫女石であるなら、それは逆に信仰を伝えた巫女が住みついた場所に巫女石の伝承が出来たとも考えられる。柳田國男「玉依姫考」を読んでいると"神が石を生んだ"とする信仰が深く根付いていたようだ。そしてその石は、更に石を生むと。全国的には、熊野または伊勢より携えた石が子を生む話が広がっている。「猿ヶ石川物語」にも石が三分割になった話が紹介されているが、その中の一つは子供の石であった。その母親である石は、猿ヶ石川の落合の女ヶ渕へ行ったとあり、その石を守ったのは河童とある事から、落合の河童座石と重なる。そしてその母親の正体は、白蛇という事だ。ここでも白色が登場する。
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画像は、矢崎の猿ヶ石川沿いにあり、ひっそりと佇む巫女の墓。

鈴木家に伝わる伝承が白比丘尼系に属するものである様だが、その正体は恐らく熊野の歩き巫女であるのだと思う。まず鈴木という姓だが、今では日本で一番多いとされる姓の一つとなっているが、その発生は熊野であり、熊野三党の一人が鈴木氏となる。その熊野三党の由緒が記されている「三党縁譜」には、こう記している。「人皇十代崇神天皇六十五年熊野神邑に行幸ましませし時路の危難に惑ひ給ふ。国霊日女一形の手には水晶の玉の器を持ち給ひ…玉の鈴を祭りあげて鈴木氏の紋(榊の枝に鈴なり)」ここには熊野三党である宇井氏、榎本氏、鈴木氏の家紋を紹介しているが、その大元となるのは日女神が手にしていた水晶、つまり霊石から作られたという事。熊野の歩き巫女もまた霊石の伝承を携え、地方へと散った可能性がありそうだ。その中の一人が、綾織の根岸に辿り着き、鈴木を名乗ったとしてもおかしくは無いだろう。その根岸の鈴木家から出た巫女が矢崎へ行っても鈴木姓を名乗るという事は、鈴木姓が大事であったと思われるのも、全てはその発生が信仰を携えた熊野の歩き巫女であったからではないか。母也明神の年代が大同という説だが、大同年間は早池峯神社の建立された時代と重なる。熊野の本宮神は早池峯大神と同体の可能性は、「瀬織津比咩祭」でも書いたが、その本宮神の祀られている早池峯山の麓に、熊野の歩き巫女が集まっても不思議では無いだろう。その中の一人が、綾織根岸の鈴木家であったのかもしれない。そして恐らく母也明神が大同年間と伝えられたのは、早池峯神社の建立年代が混同され伝わったものではないだろうか。

川原で巫女は、水神に対する祈願をしたという。その巫女の装束は、白装束であった。「遠野物語」や「遠野物語拾遺」に伝わる川の大石に乗る白装束の女とは、熊野の歩き巫女の可能性が高い。「白い石は死に石」という伝承は、死への旅立ちを意識した巫女や山伏の白装束からきているものではなかろうか。白装束は、死に装束でもあるからだ。「猿ヶ石川物語」にも、川の主に娘を捧げる話がある。また陸前高田の瀬織津比咩を祀る舞出神社には、遠野から来た娘を川の主に捧げている。現代よりも、更に恐ろしいと思われていたであろう川は、常に死への旅路に繋がると考えられていたのではないか。琵琶湖の俵藤太の伝説もまた、川底に竜宮の入口があり、そこにも早池峯の神がいた。娘が嫌がる事無く川の主に身を捧げるのは、その竜宮へと入れるという希望があったのかもしれない。これは平安末期の末法思想に近いものではなかろうか。進んで入水するのは現世に落胆し、死んで浄土へと向かい、魂の救済を受けようとした末法思想の感覚に近いような気がする。

今回「遠野物語拾遺28」の作り話のような伝承が、実は様々な事を教えてくれるのだと感じた。
by dostoev | 2017-07-12 07:09 | 民俗学雑記 | Comments(7)

矢立松(松が遠野に持ち込まれた時代)

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綾織村字山口の羽黒様では、今あるとがり岩という大岩と、矢立松という松の木とが、おがり(成長)競べをしていたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天狗が石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名が矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃は光明寺に保存せられている。

                  「遠野物語拾遺10」

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「遠野物語拾遺10」が語る様に、今現在も、その地に大岩と松ノ木が並んでいる。岩は古来から変わらなくあるのだろうが、松ノ木は伝説の何代目かにあたる木になるのであろうか。ところで矢立杉の伝説というものが全国に点在している。矢立杉の謂れは「矢を射立てて神に奉る」という事から矢立杉と云われるようだ。つまりこれは、神木とする神事と考えて良いだろう。ただし杉以外の樹木の伝説もある事から「遠野物語拾遺10」の場合は、矢立杉が松ノ木に代わる亜流譚になるか。

ところで松ノ木は、弥生時代に輸入された樹木である。ところが岩手県、もしくは遠野地域には、弥生遺跡は殆ど無い。遠野から沿岸域にかけての遺跡は、縄文遺跡の上に平安遺跡が重なっている場合が多い。これらから、弥生時代に輸入された松ノ木は、いつの時代に東北、もしくはもっと限定的に岩手県及び遠野地域に持ち込まれたのか?と考えた場合、この「遠野物語拾遺10」が、かなり重要な意味合いを持つ伝説では無いかとも思えるのだ。歴史家は、この「遠野物語拾遺10」を、有り得ない取るに足りない伝説と考えているふしがあるが、遠野に松ノ木が持ち込まれた時代を考えた場合、やはり坂上田村麻呂以降であった可能性があるのではないか。
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古い画像だが、これは六神石神社に屹立していた「神座の松」と呼ばれた、巨大な松ノ木である。名前の通り神が降り立つ意味を持つ松ノ木だ。有名な伝説に、天女の羽衣の話があるが、あの伝説でも天女は松ノ木に天の羽衣をかけたという事から、松ノ木は神の斎く樹木であると古くから伝わる。例えば遠野地域でも、歩いていると高く聳えたつ杉の木や松ノ木が密集した杜を見つけると、その下には大抵の場合、社がある。矢立杉も矢立松も、どちらも神の斎く神木であると伝わっている証拠だろう。しかし神社という社を造る文化はいつからかとなれば、やはり坂上田村麻呂以降となる。岩手県の多くの神社の建立年代が揃って大同元年もしくは大同二年になっているのは、"坂上田村麻呂の蝦夷征伐"の後に平定され天台宗が布教に訪れてからとなる。画像の六神石神社の松も恐らく、神社が建立されて植えられたものの何代目かの松になるのではなかろうか。

「遠野物語拾遺10」の話は、坂上田村麻呂が遠野に来なかったにしろ、神域の松ノ木に矢立神事をして、神に奉った事実を伝えるものと考えても良いだろう。その矢立松の隣にひびが入っている「とがり岩」と呼ばれる大岩がある。「遠野物語拾遺10」では、「石の分際として、樹木と丈競べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。」とされているが、この大岩の少し下がった場所には、縄文遺跡があった。縄文人は巨石信仰をしていたと伝えられるが、まさに「とがり岩」は、その縄文人、いや蝦夷征伐される以前の遠野に住む民の信仰の証ではなかっただろうか。かたや松ノ木は輸入された樹木であり、それを好んだのは当時の朝廷以前からのものであったろう。それ故に、縄文人の聖地に屹立していた「とがり岩」の隣に松ノ木を植え、後に矢立神事を行い神木とし、元々あった「とがり岩」よりも「矢立松」の方が位が上だとし、作られたのが「遠野物語拾遺10」の伝説ではなかろうか。
by dostoev | 2017-06-12 17:44 | 民俗学雑記 | Comments(0)

ぬりかべ

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画像は、続石側の泣石に木漏れ日が目の様に当たり、まるで妖怪ぬりかべの様に見えたものを採用。妖怪ぬりかべがいるかどうかはさて置いて、それを体験した人の話は聞いた事がある。真っ暗闇であったが、いつも通る道なので感覚で進んでいたが、壁の様なものにぶちあたり進めなかったことがあると。つまりその人物は、非日常と遭遇したと云う事になる。

なんというか、自分の住んでいる家は長年暮らしている事から、感覚でどこに何があるかわかるもの。例えば停電になったとしても、懐中電灯の置いている場所や、配電盤の位置などは目を瞑っても辿り着ける人は多いだろう。ところがその途中に、予期せぬものがあって進行を邪魔立てすれば、それは非日常との遭遇という事になる。

そういう意味では、去年の台風の後、土砂崩れが起き道が崩壊すれば、それは日常いつも歩いている道の行く手を塞ぐものとなる。ましてや道を塞いだものが画像の様な大岩であれば、まさに日常を遮る"妖怪ぬりかべ"になってしまう。

また結界の場合も、妖怪ぬりかべの様でもある。ここでいう結界は、家の囲いや外壁など。これらは、他人の侵入を防ぐ為の物理的結界でもある。いつもは無かった筈の隣の家の境界に、突如コンクリート塀などが作られたのなら、それは今までの日常からの逸脱でもある。
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先年土淵村の村内に葬式があった夜のことである。権蔵という男が村の者と
四、五人連れで念仏に行く途中、急にあっと言って道から小川を飛び越えた。
どうしたのかと皆が尋ねると、俺は今黒いものに突きのめされた。一体あれ
は誰だと言ったが、他の者の眼には何も見えなかったということである。

                     「遠野物語拾遺163」

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この「遠野物語拾遺163」もまた、日常歩き慣れている道で、目に見えないものに突き飛ばされている。もしかしてこの話も、自ら見えないものにぶつかった表現を"突き飛ばされた"としているだけかもしれない。「遠野物語」および遠野界隈に、妖怪ぬりかべの話を聞いた事が無いが、唯一可能性が高いとしたら、この「遠野物語拾遺163」だろう。
by dostoev | 2017-06-01 12:14 | 民俗学雑記 | Comments(0)

熊除けの鈴

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五月の連休中に、遠野の山々を登る為に泊った客がいた。最終日、石上山に登りたいからと、登山口まで車で送って行き、下山したら電話をくださいと話して別れた。その3時間後に電話で連絡が来たので迎えに行った。すると、熊と遭遇したという。

熊と遭遇したのは沢の所という話だったので、馬留の手前辺りかと思う。それか、幻の滝の辺りだろうか。それなりに距離があったそうだが、熊除けの鈴を持っていたので、鈴を鳴らせば熊が逃げるかと思い、熊除けの鈴を鳴らしたと。しかし、その鈴の音には全く反応せず、暫くして、やっとこちらの存在に気付いて睨めっこが始まったそうだが、その後すぐに熊は去って行ったそうな。

遠野の朝、学校へと通う小学生が通ると「チリン♪チリン♪」という鈴の音がする。どうやら熊除けの鈴を付けて登校しているようだ。以前、遠野駅から歩いて5分程度の幼稚園にも、熊が出没したくらいであるから、山がそばにある遠野小学校も、熊対策からの熊除けの鈴を付けての登校推奨であったか。とにかくホームセンターへ行っても、釣り具屋に行っても、必ず熊除けの鈴が売っている。また、山へと山菜キノコ採りへ行く人々にとっての必須アイテムが熊除けの鈴となっているようだ。「鈴を鳴らせば熊は人間が来たと思って逃げる」「存在を知らせる為に必要」とは云われるが、今回の石上山での熊との遭遇に、全く役に立ってないのはどういう事か。

以前、北海道で知り合った自然保護協会の会長さんに、さんざん熊の恐ろしさを聞かせられた事がある。そういう会話の中、個体によって性格が違うという事を言っていた。鈴の音を聞いて逃げる熊や、逆に好奇心旺盛な熊は寄って来ると。つまり、熊の個体によって反応が違うというのが正解か。確かに自分の兄弟や子供も、同じ血を分けていながら、性格が違う。あとは確率論だけになろう。

ところで家の猫の話になるが、そういえば何度か家の猫に向って鈴を鳴らした事があったが反応があった記憶が無い。鈴の音よりも、手でガサガサと音を立てるか、風で木々が揺れる音、人々の足音など、自然な音に反応している。自然界に無い鈴の音を学習する場合は、パブロフの犬の様に人為的なすり込みが必要ではなかろうか。そういう意味では、常時熊除けの鈴を付けて歩くのは悪いわけじゃない。ただし、経験豊富な熊には有効でも、子別れ、親離れををしたばかりの熊には影響が無いのかもしれない。例えば雪融け後の春先に、山へ行って見ると、子ぎつねや子テンが車の前に出て来る時がある。子テンなどは過去に二度程、車に向って威嚇してきた。つまり怖いもの知らずとは、経験不足でもある。猫も、車の怖さを覚えないと、車に轢かれて死んでしまう場合が多々ある。生き残ってきた個体とは、勇敢な個体では無く、警戒心が強く臆病な個体であると思うのだ。

結局熊除けの鈴とは、効果の無い訳では無いが、過信は禁物だという事だろう。逆に、熊除けの鈴の音に魅かれて寄って来る熊の方が怖い気がする。それ故に自分は、熊除けの鈴を付けたいとは思わないし、今までも付けた事が無い。それでも生身で熊と遭遇した事は幾度とあるが、襲われた事は無かった。ただそれは、運が良かっただけだろうか?
by dostoev | 2017-05-09 09:54 | 民俗学雑記 | Comments(0)

大同年間の事などなど

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岩手県だけでなく、東北全体に建立された神社仏閣の年代の多くが坂上田村麻呂に縁を持つもので大同二年、もしくは大同元年とされている。それが現在も奇妙だとされ、まともに扱われてはいないのが現状だ。それは大同年間に坂上田村麻呂は、既に東北の地を去っている為に、おかしいとされているのだ。

大同年間に建立されたという神社仏閣が東北に多いのは、大同年間が恐らく東北の文明開化の年では無かっただろうか。蝦夷国では、山は直接拝むものであって、神社を建立して拝む文化は無かった。それが蝦夷国が平定されて落ち着いた頃に、朝廷側の文化である神社仏閣建立の波が押し寄せたのが大同年間では無かったか。

江戸時代後期の町人学者である山片蟠桃(1748~1821年)は、過去の歴史上の聖山の開山及び神社建立は、下記の様に私利私欲の為であると批判している。

「役小角・空海・行基・最澄をはじめ、その他の高僧、貴僧と称らせれているものは、みな無鬼のことをよくわきまえてのち、人主を欺き、権家を偽り、堂社を建てさせ、本地垂迹そのほか、さまざまの偽飾をのべて自分の私欲をはたし、開山・祖師と尊ばれて、千年の後に至っても祭祀され…。」

奈良の大仏を建てようとしていた聖武天皇時代に、東北で金が発見された。それまでの金は輸入に頼っていたものが、国内で発見された事は大きかった。まあ発見されたというか、既に東北には採掘・治金の技術が合って、その金を献上したという事になるのだろう。しかしそれによって東北は、大きな注目を浴びる事になり、多くの宗教人が東北に足を向けた。山の沢沿いに、不動の滝や不動岩と名付けられているものがあるのは、かって山伏が山道を開発した名残りだと云われる。山伏を中心に、東北の山々は調べられ、採掘されていった。故に山片蟠桃の言葉は、間違いでは無かった。

話は飛んでしまったが、延暦21年(802年)に坂上田村麻呂は、アテルイ・モレを降伏させ、処刑までに至っている。つまり蝦夷のボスを倒したのが坂上田村麻呂だ。蝦夷国平定後でも、反逆の火はくすぶっていた様だが、サル山のボスザル争いでは無いが、アテルイを降伏させた坂上田村麻呂はある意味、蝦夷国のボスの座に就いたとの判断がなされたのかもしれない。そのボスの威光を借りて神社仏閣の由緒に坂上田村麻呂の名を組み込んだのは、アテルイを降伏させた坂上田村麻呂の生々しい力の記憶を呼び起こさせる為、つまり坂上田村麻呂の名とは、建立された神社仏閣を守る為の魔除けの意味合いを持っていたのではないか。
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ところで、遠野側と大迫側の早池峯神社の由緒に若干の違いがある。遠野側は、あくまで大同元年に始閣藤蔵が早池峯山頂に奥宮を建てたとするが、大迫側の由緒には遠野の始閣藤蔵を登場させ、同時であったと云う由緒にしている事から、あくまで遠野側を意識した由緒としている。ただ気になるのは、大迫側の由緒に二荒山の伝承らしき記述がある事から、後の時代に拝借し創ったものではないかという疑念が生じる。

早池峯山頂の奥宮は、背後を北とし、前方には遠野が広がる。早池峯妙泉寺という里宮は、斉衡年中とされる事から、奥宮建立の約五十年後の事になるのだろうか。その建立に名を連ねるのが慈覚大師円仁であるが、それが正しいかは別として、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗が、早池峯妙泉寺に関わったと云う事が重要だろう。天台宗は星の宗教とも云われる様に、北辰を重要視する。かの比叡山も北斗七星が降った霊山とされている事から、この早池峯にも北辰という信仰を重ねただろうと推測される。何故なら、大迫の田中神社側も認めている様に、大迫の早池峯神社は、遠野の早池峯神社の遥拝所として建立されている。事実、早池峯を信仰する神社であるなら、その背後に早池峯が来なくてはならないのだが、大迫の早池峯神社は、遠野の早池峯神社側に向けて建てられている。これは、遠野の早池峯神社経由で、北に聳える早池峯を拝むと云う方違いの呪術でもあるのだと思える。つまり、遠野側の早池峯妙泉寺が建立された後に、遠野側に向けて大迫の妙泉寺が建立されたものであろう。だからこそ、由緒にも遠野側が大同元年としているのに対し、大迫側が大同二年としている年代のズレは、大迫側が遠野側より遅く建立したという証明を暗に認めている為であろう。

「遠野の社寺由緒考」を記した大川善男氏が指摘していが、南部氏は各藩の由緒を南部藩の歴史に組み込んで改竄しているという。例えば上郷町に伝わる中井明神と云う龍神を従える伝承もまた、南部藩の威光を伝える為に捏造したものであろう。早池峯と関係ある寺社に、東禅寺というものがある。その東禅寺は臨済宗であるとされるが、大川氏は東禅寺の礎石などから推測して、それは天台宗のものであると断定した。その東禅寺の無尽和尚とは、ある意味謎の人物ではあるが、盛岡の東禅寺との関係も指摘されている。しかし、東禅寺跡が天台宗であったならば、それは恐らく早池峯妙泉寺の別の里宮であった可能性がある。そして、天台宗において"無尽"とは北辰を意味する言葉でもある事から、やはり無尽和尚とは、天台宗の僧であると思わざる負えない。それでは東禅寺という寺社名はどこから来たものかと思えば、やはり南部氏の介入を疑ってしまう。
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東禅寺跡の側に、何故か南部守行の墓がある。南部守行(1359~1437)は、三戸南部氏第13代当主であり、しばしば遠野にも出勤したと伝えられる。1437年、大槌孫三郎との戦で流れ矢に当り死に、その遺体は遠野の東禅寺まで運ばれ埋葬されたというのが常々疑問だった。その南部守行の墓は、南部守行の墓を中心に殉死者十二名の墓が左右に配置されている。いわゆる十三塚となっている。殉死者という事は、南部守行を埋葬した後に家臣が後を追って自決したという事になるか。しかし、それは有り得ないだろう。恐らく本来は、薬師如来と十二神将の信仰を、南部守行に変えて被せたものではなかろうか。何故なら薬師如来は、妙見神の本地でもあるからだ。この東禅寺跡が星の宗教と呼ばれる天台宗の地であったならば、当然の事ながら北辰を中心とした信仰形態であったと考える。道路を隔てて、この南部守行の墓と東禅寺跡は向かい合わせとなる。これは早池峯と山師岳の関係にも似通っている。そして阿曽沼氏の居城であった、旧横田城跡に薬師堂と妙見の碑がある事を考え合わせると、阿曽沼氏を裏切る形で為政者となった南部氏は、あくまで盛岡南部を中心とする基礎を作る為、信仰面の改竄を施した結果が、創られた遠野東禅寺の伝承では無かっただろうか。南部守行を、意図的に不動の北極星に据えようと考えたのだろう。とにかく岩手県の歴史は、かなり南部氏によって改竄されたような気がする。阿曽沼氏もまた、同じ事をしたのかもしれないが、最終的に残っている文献は南部氏の息のかかったものであるから、阿曽沼氏の意図までは断片的にしかわからない。早池峯という山を巡っての支配の遍歴が、あらゆるものを隠している可能性はあるだろう。岩手三山の伝説に、男山は岩手山で、本妻は姫神山、妾は早池峯。いやそれば逆であるなどというものがあるが、これもまた支配の遍歴の名残からのものであろう。遠野の町も、時代と共に変化していった。恐らく当初は、土淵から附馬牛にかけてが遠野の中心であり、支配していたのは安倍氏であったろう。そして奥州藤原氏滅亡の後に、遠野を統治した阿曽沼氏が松崎の山に、横田城を築き、町を作ったのが鎌倉時代。その後の17世紀後半に、鍋倉山に横田城を移転させ、その城下に遠野の町を作り、現代に至っている。為政者の交代による信仰的支配の変遷が、遠野の伝承を複雑なものにしているのかもしれない。九州の俘囚の者達の記録に、瀬織津比咩の名を呼ぶ記述の古文書がある事から早池峯信仰は、山の女神である瀬織津比咩への信仰が、観音信仰より早かった可能性がある。天台宗の布教により、神への信仰が観音信仰に変化したのかもしれない。とにかく、岩手の歴史と信仰の、あらゆるものの見直しが必要であろう。
by dostoev | 2017-05-08 22:38 | 民俗学雑記 | Comments(0)

荒御魂としての桜

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サクラの「サ」は、主に"田の神"を意味する"神霊の「サ」"と一般的に云われるが、あくまでも大和朝廷など主体の概念かとも思える。何故なら、遠野だけでなく岩手県全般に弥生遺跡は殆ど無く、縄文遺跡の上に奈良・平安の遺跡が重なっている。つまり、岩手県には弥生時代は殆ど無かったという事になろうか。温暖な秋田においては弥生遺跡はあるものの、縄文と混雑する斑状態であったという。例えば遠野周辺の地域を見てみても、山村の集落などでは昭和になってどうにか米が栽培されるようになったという地域もある。つまり岩手県の気候は米作りに適しておらず、現代となって米の品種改良により、寒冷地でもじゅうぶん育つ事の出来る米が開発された。それ故に今ではどこでも米作りが行われている。それでも米は貴重で重要な食料である為、大事な田植え時期と桜の開花が重なる事から、関連付けて考えられたのだろう。
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平安時代に花といえば桜を意味していたが、奈良時代の花といえば梅であったようだ。それでは奈良時代に桜は無かったのか?というと、そういうわけではないようだ。中国文化の影響により、梅の花を愛でる傾向があり、どうもそれに則って桜をさて置いて、梅の花を称賛したようだ。梅の花といえば、前九年の役の後に都へと連れられた安倍宗任に対して、都の人々は梅の花を見せ「奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろう。」と侮蔑し嘲笑したところ、安倍宗任は「わが国の梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と答え、都の人々を驚かせたと云う。これが史実化どうかはわからぬが、とにかく東北には桜も梅も古くから咲いていたのだと思われる。

東北における神社などの建設は、坂上田村麻呂以降になる。それまでは、山なら山に対して、ただ手を合わせるだけであったと伝えられる。そして恐らく、桜に対しての信仰の概念が存在していたのではないかとも思われる。8世紀前半に成立した「古事記」には、アイヌ語も含まれ使用されている事がわかっている。

「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした事により、忍熊王が神功皇后に琵琶湖に追い詰められ、入水する時、家来の伊佐比宿禰に対して「いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ」と歌った歌があるのだが、今まで家来に対して「吾君(わがきみ)」と呼びかけるのは不可解とされてきたが、それをアイヌ語の「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなった。これは「応神紀」で天皇が大山守命と大雀命に対し「汝等は兄の子と、弟の子といづれか愛しき」と問うのだが、大雀命は、弟の子に譲りたい心情を察していたので「兄の子は既に人と成りて、是れ悒きこと無きを、弟の子は未だ人と成らねば、是ぞ愛しき」と答えたのに天皇は反応し「佐邪岐、阿芸(アギ)の言ぞ、我が思うが如くなる」の阿芸も以前は「わが君」と解釈されていたが、不可解だとされていたのを、アイヌ語の「アキ」と解釈すれば、先ほどの天皇の言葉は「佐邪岐、弟の言った事が、自分の思う言葉だ」と、すんなり理解できるようになったという。

また「万葉集」の人麿の歌に「跡位浪立(あといなみたち)」というのがあり「とゐ波立ち」「あとい波立ち」と読んできたが意味が通じなかったそうで、そこでアイヌ語の「アトイ(海)」を採用してみると「海波立ち」とスンナリ理解できるようになったという。

アイヌ=蝦夷=陸奥というわけではないが、言語も含め蝦夷の思想や信仰も組み入れられた時代が8世紀であったのかもしれない。そして坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後、天台宗などが布教に勤めたのが8世紀後半から9世紀になってからとなる。
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サクラの「サ」には、「栄える」「盛ん」「幸」という正の力を表す言葉であるが、「クラ」はその神が斎く台座という一般的な解釈になっている。先の述べた様に「サ」は田の神を意味する神霊の「サ」である事になっている為、山の神は稲作を守護する為に桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となると信じられ、これが一般的なサクラの認識となっている。ただ、これから桜とは山に咲く花であり、やはり日本の桜の始めは山桜から始まったと理解できる。そして、山神と密接な関係にあるのが桜であるという事。古代の山岳信仰の中心となっていたのは、山神である。人々はその山神の棲まう聖なる山に咲く桜を、神の依代として欲した。桜を庭先に植え始めたのは後年の事。つまり、田の神となる山神を里に導く為に行われたのは、信仰の深さからくる桜の植樹であったのだろう。
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画像は、6月11日に撮影した早池峯に咲く桜。既に葉桜になっているが、その年にもよるのだろうが恐らく満開は6月前後となるだろう。遠野の桜の開花は、やはり年によるが5月前後となる事から、早池峯の桜の開花とは1ヶ月違う。しかし早池峯は遠野で一番の高山であるから、山桜はもっと低い山にも咲くものである。それでも里より桜の開花時期は、遅いのである。これからもわかるように山桜から始まった日本の桜の本来は、田植えの時期とは結び付いていない。
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画像は、6月の早池峯に散っていた桜の花びら。

古代の日本では、風で桜の花びらが桜吹雪として舞い散る時期は、疫病が流行る時期と重なったと云う。そこで、疫神として恐れられた三輪山の麓の大神神社では「鎮花祭」がおこなわれたのだと。ただ「鎮花祭」は大神神社に限定されるものではなく、他の多くの神社でも行われている。

「季の春、花鎮めの祭り謂ふ。大神・狭井の二つの祭りなり。春の花の 飛散の時にありて。疫神分散して癘を行なふ。その鎮遏の為、必ず この祭りあり。故に鎮花といふ。」【養老律令】

桜の花が飛び散る事により、疫病もまた広がると考えられた為「鎮花祭」では、桜の花が散らないように願った。当時の人々にとって、桜の花の呪力は相当のようで、桜の花に疫病の退散を願ってきた。そしてその鎮花祭では、歌が添えられる。

幣として桜の花を枝ながら 山の主に今ぞ手向くる

この歌は、疫病を穢れとみなし、桜の小枝は神の依代となるので、それに神を宿し、疫病を山の主に託して祓ってもらうというもの。また時期的に、稲の花の落ちない為の願いも込められていた。山の神が春に里に降りてきて、田の神となる。その田の神に稲の花が落ちないようにも託したのであったようだ。 つまり、山神とは"穢祓の力"を有する神という事になる。そしてこれは、遠野に伝わるオシラサマに通じる観念でもある。遠野のオシラサマは、顔の彫られた桑の木に着衣を重ねていくものであるが、古着とは穢れたものであるから、オシラサマに着衣を重ねるとは、穢れを重ねる事でもある。そしてその穢れを、オシラサマが祓うという事。つまりオシラサマには山神と同じ霊力が備わっているという事になる。
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遠野の白望山の背後に、金糞平という蹈鞴場がある。そこには長い樹齢を誇る山桜が咲いているが、採掘・治金の場にも桜が何故か植えられているのは、やはり山神への感謝の意であるか、山神を憑依させる依代としての桜であったのか。こういう蹈鞴場から作られるものに、諏訪大社で有名になった佐奈伎(サナキ)鈴がある。これは二荒山にも奉納されているものだ。

この「佐奈伎(サナキ)」「サ」を蹈鞴界では「表面が何も吸着していない純粋無垢の素肌の形容」として伝えられる。そして「佐奈伎(サナキ)」「ナキ」「精錬されたばかりの眞金、即ち純粋成分の金属」を意味するのだという。

サクラの「サ」の意味も、サナキの「サ」の意味も、どちらも純粋で正の力を示すものであるようだ。しかし「クラ」には神の座という意味の他に、古代の縄文人は「影」という意味を込めて使っていたようだ。
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闇龗神(クラオカミ)、高龗神(タカオカミ)は、貴船神社の祭神にもなっているが、闇(クラ)は谷あいの意味であり、高は闇(谷)に対して山峰を指している。龗・淤加美は、古来より雨を司る龍神とされている。つまりこの高龗神と闇龗神を合せて、山に棲む龍神を意味している。陰陽五行においては、この世には陽と陰があり、男と女がいて、光と影がある。山にもまた、突き出した峰があって、窪んだ谷がある。「闇(ヤミ)」という、夜を意味する言葉を「クラ」と訓じるという事は、即ち「クラ」が影を意味するという事でもある。

日本の神は、和魂と荒魂の二つの魂を持つと考えられていた。儀礼的には、和魂をうまく導入し、荒魂を退けると言っては語弊となるか。一層の繁栄を求める場合は和魂を求め、災難除けには荒魂を願うというのが正解か。つまり米と桜の関係は、米が和魂であり、桜が荒魂という事になろう。天皇と米は新嘗祭などからみても結び付きが強い。天皇の家紋が菊の御紋であるのも、その形状が太陽を示しているかのようで、まさに和魂を意図しているのではと思える。
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梶井基次郎「桜の樹の下には」という作品で有名になった"桜の樹の下に死体が埋まっている"という都市伝説らしきは、間違ってはいない。梶井はインスピレーションで書いたかのようであるが、桜が人間などの死体から滲み出る液体を吸い取って、あの妖しくも美しい花を咲かしていると感じたようだ。実際、桜の樹齢(ソメイヨシノ)が人間の寿命と近いと思われた事から、子供が生まれると庭先に桜を植え、その生まれた子供の痛みや苦しみ、そして悲しみまでもを吸い取って貰えるよう願った"人間の依代"と認識された桜でもあった。

桜は、人の穢れを地面の下へと水と共に吸い取り、黄泉国であり、根の国底の国へと流す役割を担う。祓戸四神の一柱である速佐須良姫は、本居宣長が須世理姫姫と比定している。同じく根の国に赴いた建速須佐之男命と「速」で重なるのが速佐須良姫である。その速佐須良姫に流し送る役割の初めが桜であり、桜の女神ともされる瀬織津比咩である。

佐久奈度神社に当初、一柱の神として祀られていた瀬織津比咩は、桜谷(佐久奈谷)において桜谷明神として存在していた。桜谷は、黄泉国に引き込まれるという死の匂いを伴った俗信を持つ谷であった。先に紹介したように、谷は闇であり、影でもある。その桜谷(佐久奈谷)は、桜の名所と言うわけでもなかったらしい。それはつまり、「サクラ」そのものが樹木としての桜だけではなく、闇でもあり影でもある荒御魂を意味する言葉であったからだ。正なる「サ」の影となるのが「サクラ」。神に例えればまさしく、和魂に対する荒御魂がサクラとなる。
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by dostoev | 2017-03-07 19:33 | 民俗学雑記 | Comments(2)

久慈星

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遠野生まれの遠野育ちでありながら、自分には遠野の血はまったく入っていない。両親がどちらも、久慈出身な為だ。久慈といえばもう数年前になるか、全く観てはいなかったがNHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の舞台で有名になった、岩手県の北に位置する海の街でもある。

自分の知っている有名な久慈は、柔道の三船十段か琥珀くらいだった。その「ひさしくいつくしむ」「久慈」の語源はどこから来ているのか謎になっている。「久慈市史」を読んでも不明とされていた。もしかして、茨城県の久慈と関係があるのでは無いかとも考えたが、確証が無い。ところがある時、星に関する民俗の本を読んでいると「久慈星」というものを発見した。どうやら、天文暦象の諸事一般を載せた書を「日爾雅(くにが)」というらしいが、古事記編纂の時代に北辰が天上天下の根源を為す信仰が広がり、いつしか斗極(北辰)に久慈星という名が冠せられたのだと。つまり「日爾雅(くにが)」の「日爾」「くじ」とも読む。しかしこれでも、久慈市の久慈がここから来ているかといえば、少し弱い。ところが久慈という名称に、また別の説があった。

「儺の國の星」によれば筑紫では亀の呼称を「鼈龜(ぐず)」あるいは「渠師(ごうず)」と呼んでいたようだ。倭人はその音を「宮子(くうし)」と書き、陸奥九戸久慈などに伝わったとされている。ところが、古代中国では卜占の女人を宮子(ぐうず)と崇めたらしいが、それを宮姑(みやこ)とも呼び、陸中閉伊宮古に伝わったともされている。ただし根源が亀であるから、それが卜占としての「宮姑(みやこ)→宮古(みやこ)」と、北を玄武とする斗極の「鼈龜(ぐず)→宮子(くうし)→久慈(くじ)」の違いはある。つまり、岩手県の久慈市と宮古市は、どちらも北を意味する言葉であったという事。先の「日爾→久慈」も、北を玄武とする事で重なる。簡単に訳してしまえば「久慈」とは「北の亀」、つまり「玄武」という意味の地名となる。これは朝廷側の立ち位置により、岩手県の地名の多くは朝廷の北に位置する地域であるとして付けられたものであったか。
by dostoev | 2017-01-30 14:58 | 民俗学雑記 | Comments(0)

岩手山の噴火と芭蕉

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昨夜、秋田県を震源とする地震があり、位置を確認すると、岩手山に近いと事から一瞬火山性地震か?などと思ってしまったが、そうではなかったようだ。岩手山の噴火は、大正時代まで遡るが最近は噴火の気配を出した時もあったが、どうにか噴火までは至っていない。ところで火山の噴火は神の怒りとされ、古代の人々は、その神の怒りを鎮める為に苦労したようだ。その火山の噴火を別に"天泣"と呼ぶ。確かに火山の噴火は、天を覆うほどの激しさであるから、イメージが湧く。そしてその天泣の別名を"魚涙"と云うそうだ。火山の噴火で、川の中に棲む魚も被害に遭って泣くという意味だろうか?

行く春や 鳥啼魚の 目は泪

上の句は、松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちの時に詠んだ句である。一般的なこの句の訳は「うららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。」しかし、火山の噴火の別名を「魚涙」と知ってしまうと、別の考えが浮かんでくる。

芭蕉が奥の細道に旅立ったのが1689年(元禄二年)の桜が咲く頃であったと。しかしそれが新暦でいえば5月16日という事から、疑問が残る。桜前線は、南から北に移動するように、必ず時差が生ずる。現在の東京での桜は4月前後に咲くのであるが、岩手県の桜は5月前後が一般的だ。春の花といえば桜の事で、「花の色はうつりにけりないたずらにわがみ世にふるながめせしまに」という小野小町の歌に登場する花は桜を意味している。それ故、芭蕉の句の訳として「花咲き揃う別格の春」とは、桜満開の春を詠っているものと思われるが、5月の東京での桜は、既に散っている。つまりこの芭蕉の句とは、これから向かう先の春を詠んでいる句ではないだろうか?

岩手山は1686年に噴火して、更に1687年に噴火している。恐らく岩手山が噴火したという情報は、芭蕉の耳にも入っていた事だろう。しかし、現在の情報伝達時代とは違い、冬をまたいだ1689年の春において芭蕉は未だ岩手山が噴火しているものと思っていたのではないか。それ故の俳句が「行く春や 鳥啼魚の 目は泪」とは、これから自分が向かう先の春は、岩手山の噴火で鳥啼き魚も泪しているに違いないという意味の句では無かっただろうか。
by dostoev | 2017-01-29 11:08 | 民俗学雑記 | Comments(0)