不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:遠野各地の賽の河原
2022-09-19T13:50:21+09:00
dostoev
遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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遠野不思議 第八百九十五話「早池峯の賽の河原」
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2020-08-04T18:18:00+09:00
2022-09-19T13:50:21+09:00
2020-08-04T18:18:10+09:00
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遠野各地の賽の河原
早池峯山頂の手前にある、賽の河原。本来は祭礼の河原であったが、仏教の影響と共に賽の河原へと変化した。賽の河原というと、死んだ子供が行き着く場所というイメージが強いかもしれないが、こうした早池峯などの、山の頂などにある賽の河原は、特に子供というわけではなく、その地域の人々の死後の魂の行き着く場所という認識である。ただ地蔵信仰とも重なっている為に、子供の意識は確かに強いが、ある地域での賽の河原は「まだ花の咲かない人の行くところ」とも云われている。
現実的に河原とは、死者の集まる場所ではあった。「続日本後紀」には、承和九年(842年)に京都の鴨川の河原に髑髏五千五百余りを焼いて埋めさせたという記録がある。水が穢祓いの効力があると信じられていた為だが、遠野の宮の目もそうだが、後に河原は死者が集まるだけでなく、罪人の処刑場ともなったのは、中世以降となる。飢饉の時、乞食の親子が早瀬川の河原で、子供の頭を叩き割って殺した話も、川の水による穢祓いを期待してのものだったろう。ともかく河原には、死者が集まるという意識は、かなり古くからあった筈だ。それが山岳信仰と重なり、他界である山中は、あの世として賽の河原が作られたのだと思われる。ところで遠野三山と言いながら、早池峯と六角牛山には賽の河原があるのだが、石上山には賽の河原が無い。また、地獄山と呼ばれる賽の河原も、松崎をまたぐ栃内と貞任にあるというのは、昔の遠野の中心であった土淵と、早池峯への経路である松崎、附馬牛にあるというのは、賽の河原の成立が、阿曽沼以前と考えても良いのではなかろうか。
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遠野不思議 第六百一話「六角牛の賽の河原」
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2008-11-14T10:24:00+09:00
2015-09-01T07:05:46+09:00
2008-11-14T10:25:03+09:00
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遠野各地の賽の河原
天保六年、善応院愛染院宥庸(本教坊末崎三百太)は飢饉で餓死した人々の霊の供養の為、六角牛山頂に地蔵尊を奉建した。魂は山に登るという山岳信仰に基いているのだろう。
早池峰山の賽の河原は東向きで朝日が当たるようになっているが、この六角牛山の賽の河原は西向きとなり、西日が当たるようになっているのは、補陀落山信仰を意識してのものだろう。]]>
遠野不思議 第二百六十七話「貞任山の賽の河原(地獄山)」
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2007-02-15T22:44:00+09:00
2007-02-15T22:51:48+09:00
2007-02-15T22:44:40+09:00
dostoev
遠野各地の賽の河原
遠野に伝わる賽の河原は、遠野では別名、地獄山と呼ばれる場所だ。
これが遠野の各地の山々にある。
車が無い時代は歩いて山を登り、この地に小さくして死んだ子供の遺品
を飾り、供養したというが大変だぁ。多分歩いたとしたら2時間以上はかか
ってしまう。
ところが時代も過ぎ、今では僅かな人間が知っているだけ。それでも石は
積み上げられ、お賽銭もあがっていた。
ただ昔は、子供の遺品としてランドセルとか帽子やデンデン太鼓などが、
この地に飾られていたのだという。 そして沢山の風車も回っていたという
が、今では代わりに側で巨大な風車が回っている…。
実際は、子供の遺体は通常通りに墓地に埋葬されるけど、魂は高い山を登
って成仏するものだと思われた為か、この地で供養されていた歴史がある。]]>
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