遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:閉伊氏の正体( 3 )

閉伊氏の正体(其の三)

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【尾崎縁起其の三】

「閉伊氏の祖為頼、後に閉伊武者所頼基といふ。身の長ヶ七尺二寸、勇力他に越え、眼目異相にして脇の下に鱗六枚あり。疑ふらく是れ水神の化身ならんといふ。承久二年六月十五日、根城に於て逝去(寿六十三歳)。翌年家族郎従等里老と議り、尾崎大明神と崇め奉る。閉伊崎(下閉伊重茂村音部の一角)に鎮座するもの是なり。宝治二年、神託によりて船越村田野浜に遷宮、今荒神と申す。正応二年、示現したまはく、「吾れ昔閉伊気仙の主たり。今それ両郡の界に跡を垂れて守護すべし。」と。依て両郡の界なる釜石浦白浜に遷宮す。白浜の出崎青出の奥五丁許にして御手洗流あり。神木は藤なり。田鎖氏の家に凶事があるときは藤の花開かず弓矢に遇ふときは御手洗流の水変じて紅色となり、祥端あるときは家鳴る。之を家鳴と伝へられきとぞ。閉伊七所の明神とは亦其の重臣七人の霊を崇め祀れるにて、下記の如し。

国堺明神 近能左七郎親良
小槌明神 大田島源五
老木明神 広沢平馬丞忠季
川井明神 阿蘇権太楼重休
小国明神 明石監物宗時
川崎明神 石関兵庫勝時

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「閉伊氏の祖為頼」と記されているが、"為頼"とは源為朝という伝説の武将源為朝の三男という事である。ところが「保元物語」によれば、源為朝は自害した時に、その息子をも殺している。それでは生き残って、陸奥まで逃げ延びたのか?となれば殆ど、源義経の北方伝説に似ている。似ているといえば、為頼の身長と容貌をこう評している「七尺二寸、勇力他に越え、眼目異相」と。これは為頼の父である源為朝は七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だったという事から、幼少の頃に死んだ為頼に、父の面影を重ねて表現しているのだとわかる。また「脇の下に鱗六枚あり。」とあるが、この脇の下に鱗があると知られた人物は、一人しかいない。それは豊後国の、尾形惟義である。尾崎神社に感じる蛇神の気配は、源為朝の家系からは感じられない。ところが緒方惟義は九州の大神氏系であり、祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫で、臼杵惟隆の弟となる。「義経記」には源義経が緒方惟義を頼って来たくだりがあるが、菊池氏と天秤にかけ尾形氏を選んだのが源義経の本意だったのは、緒方氏は古来から九州の大族であり、大宰府にあった平家が誘っても、拒絶する程の強さ背景とした信念を持っていたからではなかったか。もしもの場合、頼れるのは緒方氏であると踏んだのだろう。

この源義経の時代、緒方氏の部下には阿蘇氏などが従えていた。それで気になるのは、閉伊頼基と共に殉死した家臣で川井明神となった阿蘇権太楼重休だ。阿蘇氏という氏族は、九州に発生した氏族である。源為朝もまた九州で暴れたりはしたが、九州に根を張っていたわけではなかった。その阿蘇氏を配下に置けたのは、緒方氏でしかなかった。また気になるのは、閉伊郡であった今の宮古市に臼杵という地名が見えるが、臼杵という地名に関係するものに、ほぼ豊後国の臼杵氏が関係している。今の宮古市の臼杵地域は、臼杵氏が開拓した地であるとされているが、恐らく緒方氏と共に閉伊まで来たのが臼杵氏ではなかったか。緒方惟義の一つ上の兄は、臼杵次郎惟隆を名乗っていた。緒方惟義は、"緒方三郎惟義"が正確で、緒方家の三男であったのも、源為頼が三男であるのと被る。とにかく閉伊頼基とは、源為朝と緒方惟義を合成したような人物であるが、どうも緒方氏の割合が強そうである。

閉伊氏の菩提寺が、宮古市の華厳院であるようだ。岩手日報社「いわてのお寺を巡る」で確認すると、建久二年(1191年)、地頭閉伊頼基が父である源為朝の菩提を弔う為に建立された、宮古市最古の寺であるようだ。この菩提寺の由緒にも、父であると源為朝を取り上げている事から、あくまでも創建に関わったのは、伊豆で死んだ筈の息子である源為頼という事になっている。しかし、華厳院には戒名を写した文書がある。その写しは、下記の様に記されている。
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一代 頼基尾形陸奥守  承久弐庚辰年六月十五日 元光院殿竜嶽滄海大居士

二代 家朝尾形出羽守  承久三年九月十四日 静体院殿前羽州大守源姓家朝大禅定門

三代 義基尾形大膳太夫 貞応弐癸未年五月廿八日 常証院殿前大官令源姓義基大禅定門

四代 忠朝閉伊十郎大夫中務 康元元丙辰年四月十五日 霊聖院殿前大夫中書源姓忠朝大禅定門

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これによれば、初代から三代までは尾形を名乗り、四代目から閉伊氏を名乗っている。やはり源為頼の流れでは無く緒方氏の流れの様だが、戒名に源姓を採用しているのは"源氏党"を強く意識していたからでは無かったか。大宰府の平家の誘いに断じて乗らなかったのも、自らは源氏という強い意識があったからなのだろう。それとやはり、源義経に対する意識もあったのかもしれない。緒方惟義は、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、大物浦の嵐の為に一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられるが定かでは無いらしい。源義経に味方した緒方惟義であったが、緒方一族全てでは無いらしく、源頼朝に逆らい源義経に味方した緒方惟義だけが一族から浮いていたようだ。源頼朝の天下となっては一族に迷惑がかかる為、九州にも帰れなかった可能性はある。となれば行先は、北方しかないだろう。唐桑半島の御崎神社には、緒方氏が立ち寄った痕跡があるとされている。尾崎縁起に記される「吾れ昔閉伊気仙の主たり。今それ両郡の界に跡を垂れて守護すべし。」とは、釜石の尾崎神社と唐桑半島の御崎神社の事を云う様である。
by dostoev | 2016-06-18 18:45 | 閉伊氏の正体 | Comments(3)

閉伊氏の正体(其の二)

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閉伊氏に関係する、尾崎神社がある。その由緒は、どれが正しいという訳では無いが三つある。由緒が三つあるという事は、よくわからない意味でもあるのだろう。伊能嘉矩「遠野くさぐさ(尾崎明神の由緒)」から、その由緒を三つ抜き出して書いてみるが、取り敢えずそのうちの一つは、下記の通りとなる。

【尾崎縁起其の一】

「尾崎明神の御本体は、日本武尊なり。尊が東夷征討の際、身を相総の海中に投じて海神の犠牲となり、風涛を止めたまゐし妃橘媛の尊骸後に漂ひて釜石浦白浜の出崎に着く。里民乃ち之を祀る。依て明神の使者は白鳥なりとて氏子の家之を食はずとぞ。」(弘化年代尾崎明神御縁起)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
景行天皇時代、日本武尊の蝦夷征伐は記紀に記されてはいるが、あれは現在の茨城県辺りで終わっている。東北に来たという事は無かったようだが、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の影響からなのか、いくつかの神社で坂上田村麻呂の代わりに日本武尊を祭神としている。この由緒は、あくまでも古くて尊い神社だという意味を持たせる為の由緒であろう。ただし、上記の由緒を読めば、祭神は日本武尊というより弟橘媛になる筈だが、これはどうした事か。

現在の尾崎神社の由緒にも、この日本武尊説を採用している。それが、次の通り。「尾崎神社縁起によると、日本武尊が東征の折の足跡の最北端であり、最終地点がこの尾崎半島であり、その足跡の標として半島の中程に剣を建ておかれたものを、土地の人々が敬い祀った事が尾崎神社の起こりであり、御祭神は日本武尊であるとされている。」

弟橘媛の骸が尾崎半島に流れ着いた話が、いつしか日本武尊自身が東征に来た話となっている。これは尾崎神社の御神体が宝剣である事から、日本武尊の持つ天叢雲剣に準ずるものであるという事を示したかったのではないか。「日本書紀」の注釈には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気が掛かっていたため、かく名づけたか」とあるように天叢雲剣は、蛇を意識している。つまり、尾崎神社の御神体である宝剣は、蛇である事を意識して記された由緒であると思われる。弟橘媛の骸が流れ着いたという由緒も、恵比寿信仰を思わせるもの。恵比寿神も本来は蛇神である事から、尾崎半島全体に蛇が纏わりついている様である。
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【尾崎縁起其の二】

「閉伊武者頼基、夙に神仏を崇敬し、其の秘伝を仙人より得と称せられ、嘗て曰く、九山の権現八海の明神は、我が日本の守護神なれば、国の守護郡の地頭すべて武家たらん者は、此の神々を其の縁に随ひて信仰すること大切なりと。又、曰へらく、「我領地は海辺にして貢を納るゝに、田畑少ければ唯魚を貢ら備ふ。されば明神を深く祈らん。」と。年月良く久しく鹿島への参詣怠らず、深く信心の丹誠を払いひたまふ。鹿島にても神の告多く、神々も不思議を示しける。其の居住の庭に藤を植え色を交へ愛したり。蓋し鹿島明神深く藤を惜みたまふといふに因めるなり。

承久二年の春頃より頼基不例なり。乃ち重臣等を内席に召して遺言すらく、「吾れ鹿島明神の霊を崇敬し、心中に大願あり。今其の成就の期ならん。吾は誓を立てゝ海上守護の神となるべし。吾れ死なば陸地に葬ること勿れ。抑々日本の地形東南北の礒に於て釜石の浦尾崎ならでは長き崎なし。依りて藤布の装束を以て骸に着け、棺槨を此の崎の海中に納め、其処を廟所と仰ぐべし。植え置きし藤をば永く吾れと思ふやう子孫に告げよ。」と。終に同年九月二十八日未の刻に没したまふ。家族里民涙ながらに仰に随て亡骸を尾崎の海中に葬り奉る。夫より家臣居城に帰りて断食をなし中陰を送り、後釜石尾崎明神と祭り、海上安全の守護を祈りけり。

道俗男女釜石の湊より参詣の輩船にて渡航す。重臣七人あり。中陰の内断食日々重り終に即ち死す。里民共其の所の氏神に祈る。之を閉伊七社と号す。

頼基の子出羽守家朝、承久三年六月十五日自ら生害す。是れ即ち田ノ浜尾崎明神なり。(嘉永四年尾崎大明神縁起)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
尾崎明神の由緒のもう一つには唐突に、鹿島明神が登場している。現在の鹿島神宮の祭神は武甕槌となっていて、それが広く浸透している。武甕槌は、出雲の国譲り神話に登場する他、天津甕星の退治にも登場している武神のイメージが強い。それが武甕槌を称し"九山の権現八海の明神は、我が日本の守護神なれば"というには、そのイメージが結び付かない。だが以前「鉄の蛇」で調べた様に、本来の鹿島の神は花房社に祀られる竜蛇神であった。それは、二荒山との関係が深い竜蛇神でもある。山と海にまたがる神が竜蛇神であれば、それは理解できる事である。つまり、この縁起には、鹿島の神が、どういう神であるか記されているという事となる。

民俗学を齧っている人なら気付くだろうが、水や水神に関係の深いものに"藤"が常に登場する。それは地名であったり、氏名であったりだ。例えば。中臣不比等は元々火神を祀っていたのを、途中から水神に変更したという逸話がある。それに伴って、中臣姓から藤原姓に変更したのだろうか?となれば、鹿島神宮の花房社の花とは、藤の花であろうか?

気になるのは、閉伊頼基が死んだ月日である。この縁起によれば、9月28日とされているが、この8月28日とは、不動明王の縁日でもあり、竜蛇神でもある水神の縁日でもある。恐らく竜蛇神の意識が強いからこそ、亡骸を海中に葬ったとしたのだろう。ただ現在の尾崎神社の由緒には「亡骸は尾崎の宝剣の傍らに葬れ」との遺言」とある。宝剣の傍らとは尾崎神社奥ノ院の事であろうか、それとも尾崎半島の突出した奥ノ院傍の海中の事であろうか?どちらにしろ、龍蛇神を深く意識した由緒であろう。そして由緒は、もう一つある。
by dostoev | 2016-06-15 19:09 | 閉伊氏の正体 | Comments(0)

閉伊氏の正体(其の一)

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旧仙人峠に、観音窟と呼ばれる洞窟がある。別名沓掛観音窟と呼び、「上郷聞歩」では、こう説明されている。「早瀬川の源流、細越の沓掛付近の石灰岩地帯に発達した浸食洞窟で、坂上田村麻呂が観音像を祀ったという伝承から、早瀬観音窟と呼ばれるが、一説には中世に閉伊地方を支配していた閉伊頼基の夫人乙羽姫が観音像を祀ったともいわれている。」

東北に数多く拡がる坂上田村麻呂伝承だが、この観音窟での観音像は、戦に勝利した後に祀ったとされるものだ。それと連動するように、この観音靴へ行く途中に鎮座している日出神社に、坂上田村麻呂の戦の前日の伝承が伝わる。戦の前後で繋がっている事から、日出神社と観音窟が何等かの関係にあるのだろうと思われる。ところで、何の脈絡もなく、閉伊頼基の妻である”乙羽姫”が登場している。閉伊氏の出自は不明で、取り敢えず鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられる。その曖昧な流れから、閉伊氏の祖である閉伊頼基の妻は、佐々木高綱娘か?とされているが、佐々木高綱にそもそも乙羽姫という娘がいたかどうかも怪しいようだ。

閉伊頼基といえば釜石から海に突出した尾崎半島を思い出すが、何故に閉伊頼基の妻が仙人峠の洞窟に観音を祀った裏付けも不明である。恐らく、観音窟を中心に拡がる信仰と伝説が相まっての乙羽姫伝説であった可能性もある。乙羽姫で思い出すのは、藤原秀衡の妹である乙羽姫であるが、その乙羽姫は奥州信夫荘司佐藤元治の妻となる。その二人の子は佐藤継信、佐藤忠信となるのだが、源義経の郎党となり、義経とともに行動し討死したとされる。源義経と云えば、何故か上郷の日出神社にも義経伝説が伝わる。そして閉伊頼基を調べると、やはり共通するのは”源義経”であった。
by dostoev | 2016-06-13 19:13 | 閉伊氏の正体 | Comments(0)