遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:鯰と地震( 8 )

鯰と地震(其の八 結)

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鯰が水神の使役という事が分かり、本来の水神は竜蛇神であった。玄武は亀であり、本来は災害を招く龍蛇を抑える存在であり、古代中国などで大地を支える堅牢な亀の伝説が、そのまま堅牢な石に重ねられた節がある。つまり"要石"とは本来、"玄武"であった可能性がある。その玄武は北の守護獣である事から、不動の北極星、所謂"北辰"であり、妙見信仰と結び付いたようだ。陰陽五行である風水思想によれば、「龍神は天空から地上を窺う時、足がかりとなる北に聳える山を見つけて舞い降りる。」とされている。それが京都盆地では、北斗が降ったとされる比叡山となる。これを遠野盆地に置き換えれば、龍の降り立った山とは早池峯山となる。

陰陽五行では、北は黒色で示す。北を守護する玄武の玄は「玄(くろ)」である事から、やはり北となる。「遠野物語拾遺46」でのハヤリ神が当初、黒蛇大明神としていたのが後に早池峯山大神となったのも、北に位置する竜蛇神は黒色で示すからだ。つまり、遠野の早池峯大神も竜蛇神であり、妙見神でもある。

妙見神は亀に乗って来たと云われるが、日本の神々が大きく影響を受けたインドの神にも、亀に乗る女神が存在している。ヤムナー川の女神は、亀に乗る水神でもある。この水神の女神は、インド神話における太陽神スーリヤとサンジュナーの子で、死者の国の王ヤマの妹であるヤミーとされている。インドの死者の国は、日本での黄泉国に対応するのだろう。日本では、厠や井戸、そして枝垂れ桜、枝垂れ柳、更には桜谷(佐久奈谷)が黄泉国と繋がっていると信じられていた。地下から涌き出る水を考えると、水神が黄泉の国と繋がっていてもおかしくはないだろう。

そして、要石のある鹿島神宮の御神体は、海に沈む大甕であり、本来の祭神も本殿に祀られる武甕槌ではなく花房社に祀られる蛇神であった。甕(カメ)は亀(カメ)であり、カメによって竜蛇神を抑えるとは、そのまま要石でもある。つまり海中に沈む大甕には、本来の神である竜蛇神が封印されているのだろう。その竜蛇神は二荒山と結び付き、小山氏を通じて竜蛇神が近江国と繋がっていた。そして、原初であろう阿蘇の鯰伝説は、恐らく佐々木氏を通じて、琵琶湖と繋がったのは南北朝時代であろうか。その佐々木氏は、阿蘇地域に於いて菊池氏の家臣となっている。
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岩手県に、阿蘇から分霊された菊池神社の祭神は、水神姫大神であった。これは菊池郡を調べれば、水神であり、姫大神、もしくは乙姫と親しまれていたのは、日下部吉見神社から阿蘇へと嫁いだ阿蘇津比咩であり、別名瀬織津比咩であった。そして、佐々木氏が阿蘇地域の菊池郡に勧請した唐崎神社には、瀬織津比咩が祀られている。また日吉神社に到っては、「日吉社神道秘密記」によれば、竹生島は比叡山の奥ノ院であり、薬師を祀るとするが、薬師は妙見の本地である事から、北斗の降った比叡山の奥ノ院が竹生島であるならば、そこに妙見神が祀られている事になる。しかし仏教に帰依しつつあった聖武天皇は、天照大神の夢告を受けて、竹生島を弁才天女の聖地とした。しかし日吉神社本来の祭神は滝神であり、それが弁才天と結び付くかといえば否である。だが、阿蘇地域では乙姫であり天女と呼ばれるのは阿蘇津比咩である事から、阿蘇地域と琵琶湖周辺の信仰が何故か重なっている事が理解できる。古田武彦「まぼろしの祝詞誕生」によれば、「大祓祝詞」に描写される場所である地名は玄界灘を中心としたものであろうとしている。それらの地名がいつしか、琵琶湖周辺に移転されたのは、氏族の流れと信仰の流れからくるものであろうとしている。南北朝時代に、佐々木氏が阿蘇地域に水神を祀る神社を勧請してはいるが、その遥以前に九州から琵琶湖周辺に信仰が伝わって来ていたという事になろうか。それは阿蘇の水神と、八代の妙見女神と共に、水神の使役である鯰をも伴って。

地震を引き起こす鯰であったのは、実は竜蛇神であった。その竜蛇神は、蒙古襲来時に飛び出して日本と云う国土を守護したとも信じられている。しかし、日本と云う国土に災いをもたらすのも、また龍蛇である。地震だけでなく「肥後国誌」には、阿蘇の噴煙から龍が現れたという記述がある。水害・地震・火山の噴火にね龍蛇が関係していると考えられていた。その龍蛇は、日本の国土の地下に潜んでいる。だからこそ、それを抑える要石であり、玄武が必要とされてきた。しかし、どうやら、それと共に龍蛇の女神も歴史の闇の中に抑え込んでしまったようである。
by dostoev | 2016-05-14 20:28 | 鯰と地震 | Comments(6)

鯰と地震(其の七)

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鯰が水神の使役・眷属というのはわかったが、関東から東北にかけては鯰の生息は少なかった様だ。江戸の庶民も享保の大地震の時に大量発生した鯰を見て驚いたのは、鯰自体を初めて見たせいでもあった。それが東北になれば、まず鯰を見る事が無い。「岩手民話伝説辞典」で鯰を調べても、鯰の腹から小判が出て来る話など、江戸の瓦版に書かれた鯰絵の笑い話から作られた様な話が伝わっている程度だ。その代り、鰻の話が多く伝わっている。

遠野で有名なのは、沼の主である鰻を殺した祟りに見舞われ、蛇体となった松川姫の話がある。また、小友町では一般的に知られる、毒を川に流して雑魚を獲ろうとするする若者達をたしなめる坊主に化けたウナギの話が二つほど伝わっている。また別に、沼の主である鰻を退治したら暴風雨が起きた話。そして、沼の主の鰻が現れる時に、地震が起きる話が三つほどあった。やはり東北では、鯰の代わりに鰻が、その役割を果たしているようである。また別に、鰻はウンナン様の使いであるから獲れば罰がある話が伝わる。
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遠野の一日市にある宇迦神社は、運萬虚空菩薩を祀ると伝えられ、「遠野町古蹟残映」には、鰻に関する話が紹介されている。

「社前に清泉ありて鰻多く生息す。この鰻は片目にて神の御使と称せられ、捕りて食するときは神罰たちどころに至ると言ひ伝へられる。」

画像を見ると社前に小さな橋がかかっているのは、以前は小川が流れていたのか、はたまた暗渠であったのか?以前に書いた「早瀬川と白幡神社」でわかったのは、川を隔ててこの宇迦神社と白幡神社があったという事。そして昔の川は、現代の遠野と比較すれば想像を絶する程の水量と川幅を誇っていた。それから察すれば、この宇迦神社の境内にに泉があり、小川が流れていたとしても驚く事は無い。逆に言えば、水神に深く関係する社であった事が理解出来る筈。

宇迦御魂命は大抵の場合、稲荷神社に祀られている場合が多い。稲荷と云えば狐のイメージを強く感じるが、宇迦とは、梵語で"白蛇"を意味する。それは、伏見稲荷の神符を見ても明らかだろう。この遠野の宇迦神社の祭神が虚空蔵菩薩となっているのは、栃木県などに多い、星宮神社=妙見信仰の流れを汲むものではないか。栃木県に多い妙見系神社は茨城県にも影響を及ぼし、その神社に関わる多くの氏子は、鰻を食べる事を忌み嫌っているのは、鰻が妙見神の使いであるからだ。白蛇である宇迦だが、この遠野の宇迦神社は、妙見と龍蛇と鰻の深い関係を表している。
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妙見神といえば、星神のイメージがあるが、本来は水神である。妙見神の古くは、熊本県の八代妙見宮であるようだ。そこには大亀に乗って来た女神が、妙見神として祀られている。しかし下記の図を見て欲しい。八代妙見宮の祭に登場する亀蛇と呼ばれる絵である。絵は「妙見祭民俗調査報告書」より。
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大亀に乗った女神である筈が、亀蛇に変っている。古代中国の俗説に、亀には雄がおらず、蛇を雄とするというものがある。実際に、亀の篆書は、亀と蛇の合体文字であるようだ。つまり亀蛇とは、本来の亀である雌の姿となるか?となれば、大亀に乗って来た女神とは、亀蛇が分離した形であろうか?とにかくそれを具体化したのが、八代妙見宮大祭における亀蛇なのだろう。つまり、妙見神の使役は亀でもあり、蛇でもある。

妙見神が後から虚空菩薩と習合し、その使役として鰻が結び付いたのは、地域性の問題でもある。水神の使役が鯰であるのは、西日本に鯰が多く生息するせいでもあった。蛇を頂点としての、"鱗族"である魚類が、その同族と見做されたのは自然の流れであった。その魚類の中でも、蛇に近い形状でありヌメヌメとした、鯰であり鰻が蛇の代わりになったのは当然の事であろう。鯰であり鰻が水神の眷属となったのは、まず信仰が伝わり、後から地域性が加味されて変化したものであろう。例えば、千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」にも、山の神の使役の変化が証明されている。「古事記」と「日本書紀」での伊吹山の神の使役が、白猪や白蛇となっているが、関東から東北にかけての山の神の使役は狼となっているのも、東北には猪よりも狼の分布が多かったせいもあるようだ。大亀に乗った妙見の女神だが、関東から東北にかけては、「大亀(オオガメ)」という音であるが、東北では「狼(オオカミ)」が転訛し「狼(オオガメ)」として認識されている事から、大亀が狼に変換されて伝わったようだ。実際に妙見神として、狼に乗った女神が東北の一部に伝えられている。九州から始まり伝えられる信仰が、東北まで辿り着いた時、どのように変化したかの面白さは、まるで電線ゲームのようでもある。
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先に紹介したように、岩手県では鰻が地震を起こし、暴風雨を引き起こす。創建が明らかになっていない遠野の宇迦神社は、まだ現在の遠野町が人が殆ど住んでいなかった水多き時代に鎮座していた可能性から、災害を引き起こす水神を鎮め、町作りの為に創建された可能性があるだろう。現在の遠野の町が、今の様に人が多く住むようになったのは、17世紀後半からであった。そして、遠野の宇迦神社神社が栃木県に多く祀られる星の宮神社の流れを汲むものであるならば、この宇迦神社を創建したのは、やはり栃木県から来て遠野を統治した阿曽沼氏であろう。
by dostoev | 2016-05-12 17:56 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の六)

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奈良県明日香村に、亀石と呼ばれる奇妙な石がある。画像は、ウィキペディアから借用。この亀石は、恐らく土木好きと云われた斉明天皇時代に造られたものか、はたまたそれ以前に遡るか定かでは無いという。この亀石の伝説には、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻の蛇と、川原の鯰の争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。亀石の以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化すと伝えられているそうな。

この伝説にも鯰が登場しているが、ここでは蛇との争いの話しになっている。そして、そのとばっちりを受けた亀の話が語られているが、要はこの亀石を動かすと、奈良盆地は水没するという事らしい。阿蘇での伝説は、巨大な鯰が水の出口に引っ掛かっていた為に、湖の水が抜けきらないところを健磐龍命が鯰を引っこ抜いて、湖の水が無くなった事になっている。鯰は水神の使役であるが、亀もまた水神との関係が深い。つまり、奈良盆地が水没しない様に、亀石が防いでいるという事だろう。つまり、この"亀石""要石"でもあるという事ではないか。
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西山克「皇統と亀」には、称光天皇(1412~1428)が便所で用を足そうとした時、亀が現れて天皇に喰らい付いた話が紹介されているが、これは"霊石"の祟りであるとされている。中世宗教界の中には、しばしば亀が登場しており"金亀(こんき)"という概念上の亀は舎利塔や楼閣を背負う亀として認識されているのは、古代中国を含む様々な国に、大地などの根底には亀が居て、その大地を支えているなどの伝説が日本に上陸して定着した為であろう。これは亀そのものが堅牢さの象徴となり、磐に等しいものとして認識されているからだ。祝詞等などで読み上げられる中に「底つ磐根に宮柱太しり立て…。」という一文は、堅牢な社の建て方を謳っている。社寺の石垣などには亀甲の石垣を組んでいるのは、亀の堅牢性を具現化してのものだ。つまり亀は、堅牢な磐でもあり、それが発展し龍脈を抑え、災害を抑える要石となったのではなかろうか。

「日本書紀(巻一聞書)」には、「国中の柱つまり国軸として、常陸の鹿島動石(ゆるぐいし)、伊勢の伊勢大神宮…。」とある。ここでは要石ではなく動石と表記されている事から、要石という名称は後の事であろう。要石が国軸であるのはわかるが、それでは伊勢神宮の国軸とはなんであろう。それは"心御柱"と呼ばれるものであった。真言密教の秘伝によれば、心御柱は龍樹菩薩と呼ばれ、柱そのものは白蛇棲むとされ、それは龍でもあるとされる。またその心御柱は須弥山とも呼ばれ、白蛇が棲む須弥山は、龍が取り巻いていると。つまり、須弥山と呼ばれる琵琶湖の竹生島を七匝している大鯰は、龍でもあった。これは中世に記された「鼻帰書」に記されているものだが、これを記したのは独鈷を重視する修験によるものである。だからといって中世になってから、心御柱や竹生島、鹿島の動石が神聖視されたわけではなく、既に聖地とされていた場所に、御託を並べたものであろう。ちなみに竹生島を大鯰が七匝するくだりだが、南方熊楠「四神十二獣について」において「観仏三昧海教」という書が紹介されており、そこに「四海の中に須弥山あり。仏は山を繞こと七匝」と記されているから、「渓嵐拾葉集」は、これを採用したのだろう。

四神のうちの北に鎮座している亀に蛇が巻き付いた姿で表されている玄武は、「史記」によると「北宮、玄武」、つまり玄武は星でもあるが、その星は「日本書紀纂疏」にも記されている様に、古くから石・岩・磐・巌と信じられてきた。ここで、玄武=亀=星=石=要石との図式が成り立つか。

ところで、亀と蛇が一体で玄武というわけではない。大形徹「魂のありか」では、玄武の詳細であり、古代中国での亀の立ち位置が調べられており、亀とは「好んで蛇を喰らう」であるようだ。先程紹介した、南方熊楠「四神十二獣について」においても、熊楠は玄武が蛇を食べる亀である事を述べている。玄武の役割は、護衛であり、その堅い甲羅による防御である。玄武が鏡や墓室に描かれているのは、その主を悪神である蛇から守護する事であるからだ。「山槐記」には「地動は、龍動くところなり。」されている。それが日本にも伝わり、地震は地下に潜む龍が動いて起こるものであると認識されたようだ。それを別に龍脈とされ、その龍脈を抑える為に"玄武としての要石"が必要とされたのだろう。
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ところで前回、「日本書紀(斉明天皇元年 夏五月)」の記述「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」は、未だに謎となっていると紹介した。紀元前4510年頃の古代中国で、仰韶文化の西水坡遺跡から龍に騎る人の姿が造られていたのが発見されている。それは龍は魂を乗せて天界へと運ぶものとされていたようだ。上記の絵は、長沙子弾庫楚墓から出土した龍に乗る人物の絵である。これを龍船というらしいが、要は魂を天へと運ぶ船であるようだ。日本でも、これに影響されたのか補陀落渡海の思想があり、海の彼方に浄土、もしくはニライカナイがあると信じられていた。それが古代中国では、海の彼方、水平線の彼方は天の河と繋がっていると信じられていたようだ。古代中国において天河と繋がっていると信じられていたのは、南北に流れる漢水であったようだ。それは天の河がやはり南北に流れているのと重ねられているからである。つまり、葛城から膽駒山とは、北へ向かう天の河の流れを示しているものであろう。
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二度目の即位であった斉明天皇だが、この二度目の即位の後に何気なく記された龍に乗る者の意味とは、魂を賭して自らの信念を遂げ、天の河に到ろうとする斉明天皇の信念の表れではなかったか。となれば、香具山の西から石上山までに至る水路を掘ろうとしたのも、天河に繋げようとする意志であり、冒頭に紹介した亀石などの奇石も恐らく斉明天皇によるもので、天の河と繋がる、理想の都を目指したものでは無かったか。
by dostoev | 2016-05-11 19:47 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の五)

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上図の絵は、地震の前兆として、光物が飛んだという話から描かれたものである。「安政二卯年十月朔日夜虎刻、浅草寺五重塔の方より南方へ飛行の者あり、其疾こと矢を射ごとく」と紹介されているが、この安政地震の時、他にも多くの人達の証言があり「その光眼を射てすさまじかりし」と、表現している。菅原道真も編集に携わったという「日本三大実録」に、貞観11年(869年)7月13日に三陸沿岸でマグニチュード8.3クラスの地震が発生し津波が起きたとあるが、それと共に「流光昼のごとく隠映した。」と、流れる光が昼間の様に明るかったと記されているのも、安政の地震前に目撃された光物と似た様なものであろうか。実際に、現代でも地震の前後に発光現象は目撃されており、わたしもまた実体験として何度か、遠野の深夜の山中で発光現象を目撃した後に起きたのが地震であった。

「日本書紀(斉明天皇元年 夏五月)」にこういう記録が記されている。「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」この何気なく記された一文は、未だに謎となっている。ただ災害の前兆とも捉える事が出来るが、記録に記されている一番古い地震は、「日本書紀(允恭天皇 416年)」「五年の秋七月の丙子の朔巳丑に、地震る。」と記されているのが最古の様だ。ただ実際に地震はあったろうが、地震情報が広域から集まって来なかった可能性、もしくは積極的に地震を含む災害情報を「日本書紀」などの正史に記録して来なかった可能性も指摘されているようだ。

三陸はリアス式海岸であると、小学校の頃の地理で習った事がある。リアス式海岸はノコギリ状で・・・との説明はなんとなく覚えているが、どうしてノコギリ状になったのかは説明されていなかった筈。今考えるに、人類が住む以前から地震が起き、津波が押し寄せて大地が削られて、三陸のリアス式海岸になったのだと思う。つまり三陸は、津波によって出来た地形という事。そして2011年の東日本大震災での津波は、九州まで到達しており、高知県も1メートル~2メートル規模の津波が押し寄せ、被害が起きている。天武天皇時代の白鳳大地震で、土佐の津波被害が記されているが、東北を震源地とする地震でも土佐には津波が押し寄せている事から、古記録による地震の震源地は、あくまでも予測でしかないだろう。後は、古代の人々が災害をどう表現して記録したかになるのか。

例えば明治時代まで、伊勢神宮の御幣が倒れただけで、その神意がどうであったのかと考えられてきた。御幣が天災という地震によって倒れたのではなく、あくまで御幣が倒れた意味を考えて来た時代がかなり続いていた。あからさまな大地震は正史に記載されるのだろうが、僅かばかりの地震では、記録されない事もかなりあったのではなかろうか。逆に言えば、自然災害は「怪異」「霊異」として表現されてきた可能性もあるだろう。

冒頭の光物がもしも雷を表すなら、雨の前兆、水の前兆でもあろう。また電磁波による発光現象であるならば、それは地震の前兆にもなる。しかし昔には、電磁波というものは存在しない。あくまでも天空に光るのは雷でしかなかった。とにかく古から鯰が地震を起こすのであるのは、どこかで水神と繋がっていると考えていた人達がいるだろう。何故なら鹿島神宮には本来、武甕槌ではなく、蛇神が祀られていたからだ。それを抑える為に、後から武甕槌が祀られたのだろう。それがいつしか、要石を使って鯰と地震を抑える鹿島神として広まったに過ぎない。
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以前「鉄の蛇」を書いていて分かった事だが、鹿島神宮の竜蛇神は二荒神社に関わって来る。そしてその二荒神社の信仰は、琵琶湖に繋がっており、その琵琶湖での鯰伝説は、竹生島にあった。「竹生島縁起」では、龍蛇が変じて琵琶湖の主になったと。「和漢三才図会」では「八月中旬月明の夜に、鯰魚数千竹生島の砂上に出で踊躍顚倒す」と記されている。八月中旬の月の夜であるから、これは十五夜にかかる伝承であり、それはつまり竹生島に祀られる水神は、月に関係する神であるという事を示している。

竹生島は、伊吹山の神が、姪で浅井岳の神である浅井姫命と高さを競い、負けた伊吹山の神が怒って浅井姫命の首を切り落とした。その首が琵琶湖に落ち、竹生島が生まれたという伝説を持つ。菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」では、浅井姫の浅井岳は小谷山であろうとしているが、それは恐らく間違いで、一般的に云われる金糞山の事であろう。間違いではあろうが、その祭神が神武天皇の皇后である蹈鞴姫となっているのは日吉神道との繋がりもあろうが、実際に蹈鞴場であった山であるからだろう。その蹈鞴の重複から、神武皇后としての媛蹈鞴五十鈴媛命という名では無く、単に蹈鞴姫となり、後から神武の皇后と結び付けたのではないか。ただし、浅井姫であったこの金糞山が重要なのは、源流となる河川が琵琶湖へと流れ、そして伊勢へと流れている。つまり、伊勢と琵琶湖を結ぶ山が浅井岳であるからだろう。

田中貴子「渓嵐拾葉集の世界」を読んでいたら、竹生島に関する記述があった。「竹生島縁起」は、天台僧が琵琶湖を大海に、竹生島を須弥山に例えて記事を増補したと思われるとしている。その「渓嵐拾葉集」には「竹生島の明神は魚龍である。相伝によれば大鯰が七匝り島を繞っている。これ則ち七仏薬師の化現なのである。」と記されている。七薬師で思い出すのは七つ森である。七つ森信仰は、北辰信仰、つまり妙見信仰である。妙見菩薩の本地は、薬師如来であるからだ。北斗七星が降った霊山とされる比叡山との兼ね合いが、この竹生島にも見えている。つまり、比叡山の本地は、竹生島であるという事か。

また、黒田日出男「龍の棲む日本」でも、竹生島の存在と、龍と鯰について言及している。「龍の棲む日本」でも「渓嵐拾葉集」を引用して「竹生島は金剛輪際より出生した金剛宝石である。」という記述を紹介している。"金輪際"とは、地層・地下の最も深いところを意味している事から、要石を想定して展開している。また実際に「鹿島宮社例伝記」の記述を紹介し、それによれば「近頃の伝によれば、近江の湖の竹生島こそ、かくのごとく"不動の島"である。故に竹生島は地震があっても動かないという。」竹生島は、"金剛宝石である不動の島"という事らしい。不動明王は、不動金剛明王とも書き表す事から、不動の島は確かに要石を想定させるが、それとは別に北極星をも想定させるものだ。

この竹生島には宝厳寺が建てられているが、その由緒が、神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に"天照大神"が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし宝厳寺を開基させたという。聖武天皇は、仏教を信仰し、奈良の大仏の建立も始めたが、それ以前に妙見を強く信仰していた。天皇という名称は天武天皇から始まったが、天皇そのものが仏教に帰依いつつあると、仏教僧は天皇では無く"金輪聖王"という名称を使うようになっていた。仏教側によれば、天皇の本質が仏教の説く金輪聖王にあるとみなし、金輪聖王は俗世を統治する為に出現した仏の化身であるとしている。恐らく聖武天皇の名は、この金輪聖王を意識して名付けたのではなかろうか。その聖武天皇の夢に天照大神が登場しているが、神仏混合となった時には、天照大神の本地は大日如来とされている。しかし夢に登場したのは垂迹である天照大神でありながら、竹生島は"弁才天の聖地"としているのには違和感を覚える。恐らく正確には、宝厳寺に伝わる古文書「竹生嶋縁起略」「欽明天皇六年乙丑四月初巳日に弁才天女、大内に示現して曰く、我は竹生島の弁才天、天照大神の分魂なり」との神託があったとされている。聖武天皇よりも更に古い、欽明天皇時代に竹生島の祭祀が遡っている。そして天照大神の分魂とは、恐らく荒魂という事であろう。何故なら「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から常に不動であり、伊勢神宮に坐すのは和魂であり、先鋒として各地に進むのは荒魂の性格であるからだ。
by dostoev | 2016-05-08 23:08 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の四)

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室町幕府将軍足利義持の命により、如拙という僧が描いたのが、瓢箪で鯰を抑え捕る事が出来るか?という禅問答の様な絵が上記の「瓢鮎図」と呼ばれる有名な絵。通常では、瓢箪で鯰を捕まえるなんて出来ないと思うのだが、鯰は地震の元とも知られ、水神の使役とも知られている。

「日本書紀(仁徳天皇十一年冬十月)」では、瓢箪が水神を鎮める呪具として登場している。また有名な「西遊記」では、呼びかけた相手が返事をすると中に吸い込んで溶かしてしまう瓢箪の紅葫蘆で銀角を吸い取ってしまう。本来は水瓶であるから、やはり水神関係の呪具であったのだろうし、また瓢は魂の器という認識があった為、天皇陵などの前方後円墳も瓢を半分にした形を模したものであるという。
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ある鯰絵では、鹿島明神が要石の代わりに瓢箪で鯰を抑え込んでいる。
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また、別の絵では鹿島明神の代わりに、恵比寿様が瓢箪で鯰を抑えている。つまり瓢箪は、要石の代わりになるものであるのがわかる。考えて見れば、地震の後には津波が押し寄せる。地震と津波は、セットみたいなものである。当然の事ながら、鯰は暴れて地震を発生するが、それが水神の怒りにも似た津波に結び付くのは自然の流れであるのか。

鯰の伝説で一番古いであろう阿蘇地域に、もう一度目を向けてみよう。神武天皇の孫である健磐龍命は、阿蘇カルデラ湖の水源を護る鯰を退治した後に、祟ったその鯰を祀った。また、神武天皇の皇子である彦八井耳命が日下部吉見神社の元地にあった池を干し、襲ってきた大蛇を退治し祀った。どちらも本来は、阿蘇に関係無い神武天皇の子孫であり、その子孫たちが水神の使役らしきを退治している。ところで同じ、阿蘇に隣接する地域に菊池郡があり、そこにいくつかの乙姫神社が鎮座している。祭神は阿蘇津比咩であり、鯰と関係する伝説が伝わっている。それは、姫井という地で川に呑まれて流された阿蘇津比咩を、大きな鯰が助け出した伝説であ。阿蘇津比咩は本来、日下部吉見神社の水神であるから、水神の使役であるとされる鯰が助けるのは当然の話しだろう。ただしこの地域では、乙姫とは阿蘇神社の二ノ宮に祀る阿蘇津比咩の事であるとしている。また隣接する地域に男石乙姫神社があり、祭神は阿蘇大神となっている。しかし、その阿蘇大神とは乙姫である阿蘇津比咩を指す言葉であるという。また別に伊萩二宮神社があり、その名の通り阿蘇神社の二宮に祀られる、阿蘇津比咩を主祭神としている。どうもこの地域での阿蘇大神とは、健磐龍命ではなく、地主神であった水神の阿蘇津比咩という事らしい。また、阿蘇大神が阿蘇津比咩であるかのような伝承が「彦山流記」に記されている。行者が阿蘇山に登り、山上の宝池の本当の主を知りたいと様々な行法を駆使していると、女人が現れ行者の舌を食いちぎった後に正体を現し、それは大龍であり、娑婆では十一面観音であった。これはやはり、龍の女神である阿蘇津比咩が阿蘇大神という事であろう。

鯰を倒した健磐龍命であるが、水神である日下部吉見神社の阿蘇津比咩の使役が鯰であるなら、健磐龍命は阿蘇を開拓したというより、阿蘇で崇敬されていた水神である女神を力で従わせ、阿蘇の地を征服したとの見解が成り立つ。
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ところで、この菊池郡を調べていて気になったのは、地名に「大津」「瀬田」があり、そして近江国から勧請された「唐崎神社」そして「日吉神社」があった。「菊池郡市神社誌」によれば、男石乙姫神社は、高宮山城守高宮清房が阿蘇乙宮大明神を勧請したようだが、この高宮清房という人物は、近江国高宮の人であり、元は佐々木氏であり南北朝時代に征西将軍に従って菊池に下り、その子孫は菊池に仕えて居住し、地名はそのまま近江国の高宮を採用したようである。これではまるで、琵琶湖周辺の地名が移転したようでもある。ウィキペディアによれば、大津の名前の由来はよくわからないが、「肥後国誌」によると戦国期に有力国人である合志氏の一族が東嶽城(現 日吉神社)を築き、大津十朗義兼と名乗っていることから、既にこの頃には大津の地名があったようである。「合志川芥」には「此の所は「火児国大水(ヒゴノクニオオズ)」と呼ばれていた」とある。合志氏が登場しているが、元は近江国の佐々木氏であった。「肥後国志」によれば「佐々木四郎左衛門尉長綱、大友氏の裁許によりて当国に下向し、合志半国の地頭職となり、真木村に住し、氏を合志と改号す。」なのだと。元々は大水(オオズ)である地名に、近江国の大津から合志氏が来た事から「オオズ」の訓み名に「大津」をあてたのだろう。

しかし、この阿蘇地域の菊池郡に、多くの菊池氏と佐々木氏が住んでいるのだが、遠野の地もまた、菊池氏が多く、それに次ぐのが佐々木氏である。この菊池郡における菊池氏と佐々木氏のバランスは、遠野に何等かの関係があるのだろうか?そしてむもう一つ、琵琶湖を中心とする近江国との関係。この琵琶湖にもまた、鯰の伝説がある。
by dostoev | 2016-05-07 20:44 | 鯰と地震 | Comments(4)

鯰と地震(其の三)

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鯰と地震の関係についてなのだが、遠野に住んでいると、それが実感できない。何故なら、遠野には鯰が生息していないからだ。似た様な魚に"ギンギョ"と呼ばれるものがいる。ただしギンギョという呼び名は、この地方独自のもので、正確には"ギギ"と言い、、ナマズ目ギギ科の魚となる。子供の頃、川で初めてギンギョを捕まえた時は鯰だと思っていた。まあ鯰の仲間ではあるが、鯰ほどには大きくならない。だからか遠野においてのギンギョは、イワナやヤマメ、鯉やウナギ、そしてカジカに比べれば存在感が薄い魚である。

川の主として人間に化けて、川漁をやめさせようとする大鯰の話がある。または、阿蘇地方では阿蘇山のカルデラ湖の縁を健磐龍命が蹴り裂いて、湖の水を無くそうとした。しかし、そこに湖の主である大鯰がいた為に邪魔で、なかなか水が無くならない。そこで健磐龍命は、その大鯰を、どうにかどけて、湖の水は完全に干上がった。そこに稲作を始めようとしたが、上手くいかない。それは鯰の祟りだと知って、それから阿蘇の人々は鯰の霊を祀り、鯰を食べる事を止めたという。恐らく日本における鯰の古い伝説は、この阿蘇の話しだろう。何故なら登場する健磐龍命は、神武天皇の孫という設定だからだ。

また、その健磐龍命の妻である阿蘇津比咩は、日下部吉見神社の姫が嫁いだものであった。しかし、この日下部吉見神社もまた因縁がありそうだ。この神社は、阿蘇神社よりも6年程古い。社殿が鳥居より下にあるので、下り宮と云われ、日本三大下り宮の一つとなっている。ただこの下り宮は別に"忌宮"とも云われるらしい。その忌宮と呼ばれる理由は定かでは無い。この日下部吉見神社の由緒だが、神武天皇東征六十九年にに、彦八井耳命が日向高千穂より日下部に入り、暫くの間川走の窟に住んでいた後、日下部吉見神社の地にあった"池を干し"宮を定めてからだという。その時、襲ってきた大蛇を斬ったというが、恐らくその大蛇が、その池の主であったのだろう。これは、健磐龍命の湖の主である鯰を退治した話と似通っているが、つまり全ては、未開の地を征服し開拓するという神武天皇からの政策からなのだろう。

その阿蘇は現在、大地震による被害で苦しんでいるが、古代の阿蘇もまた大地震で苦しんでいた。天武天皇時代(在位 西暦373~686)には白鳳大地震を筆頭に、なんと19回もの大地震が起きている。これを知ると、まだまだ阿蘇では地震が続く可能性もあるのかもしれない。
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ところで遠野には、多くの要石を有する不地震地帯というものが存在する。これは古老による口伝ではあるが、古代に九州の地が地震などの天変地異で不安定な時に、安住の地を求めて遠野に移り住んだとの伝承がある。伊能嘉矩「猿ヶ石川流域に於ける不地震地」によれば、その不地震地は、全部で13ヵ所にもなる。しかし調べると、経塚もまた不地震地となる可能性があるので、あと4つは追加になるだろうか。それら不地震地帯を図にあてはめて見ると、早池峯神社の地だけが、北に飛び抜けて離れているのが分かった。不地震地の半数に天台宗が関係する場所がある事から、恐らく早池峯神社及び早池峯山を頂点として、不地震地が設定されたのではないかと考えた。この不地震地帯は何故か川側の盛り上がった丘の上に設定流されている場合が殆どである。つまり地震だけでなく、水害をも抑える意図があってのものだろうと思う。

日本で最大の湖である琵琶湖を調べると、琵琶湖の東岸に石造神社があり、他にも石造・玉作神社。瀬田には岩坐神社や石山寺など、琵琶湖を石と名の付くの神社仏閣が多い。また、琵琶湖の裏鬼門に位置する比叡山は、北斗七星が降った霊山であるとされる。星は石でもある事から比叡山もまた石としての呪術として、琵琶湖と何等かの関係があるのではなかろうか。大雨が降り続いて起きる山崩れや土石流を"蛇崩れ"や"蛇抜け"と呼ぶのは、水が龍蛇の象徴と捉えていたからである。健磐龍命は、岩を蹴り裂いて阿蘇のカルデラ湖の水を外に出した。つまり石が、水に対する防御となっているのが理解できる。

「日本書紀(天武天皇七年)」「筑紫國、大きに地動(なゐふ)る。地裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋、村毎に多く仆れ壊れたり。是の時に、百姓の一家、岡の上に有り。地動る夕に當りて、岡崩れて處遷れり。然れども家既に全くして、破壊るること無し。」

この「天武記」の話は、大地震が来ても岡の上の家はまったく安全で被害が無かったと記している。ここでは、その岡の詳細が記されていないが、恐らく大岩を含んだ安定した岡であったのだろうと予想する。何故ならば、神社仏閣の建つ地域はしっかりした岩盤の上に成り立っているものが多い。これは例えば「大祓祝詞」などにも記されている様に「底つ磐根に宮柱太しり立て…。」とあるのは、実際の建築様式である筈。実際に神社仏閣の土地が不地震地帯になっているのは、この様式に合わせて土地を選び、社を建てているからだろう。去年に早池峯神社へと行きドローンを飛ばそうとしたら、電磁波の干渉によりドローンを飛ばす事が出来なかったのも、早池峯神社の地盤が磁力を帯びた磐の上に建てられているからだろうと考えた。

この「天武記」の地震の際に無事だった百姓の家の検証が成されてはいないが、この天武時代に発生している19回にも及ぶ大地震の際、不安になった九州に住む人々は、故郷を捨て、安住の地を求めて遠野に辿り着いた可能性は無いだろうか。何故なら、阿蘇山に祀られる阿蘇津比咩とは、遠野の早池峰山に祀られる瀬織津比咩であるからだ。瀬織津比咩が阿蘇に嫁いだ為に、神名が阿蘇津比咩となっただけである。共通する神を祀る阿蘇と遠野、あながち伝説だけで済まない気がする。早池峯の由緒では、始閣藤蔵が金が採れたら、早池峯山にお宮を建てると祈願したのだが、つまり早池峯神社が建立する以前から、早池峯山には女神が祀られていたという事。それでは誰が大同元年(806年)以前、早池峯山に阿蘇山と共通する女神を祀ったかという事になる。(続く)
by dostoev | 2016-05-02 12:13 | 鯰と地震 | Comments(0)

鯰と地震(其の二)

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「いせこよみ」では国土を取り囲んでいるのが龍蛇であったが、「和漢三才図会」によれば、龍蛇が鯰に変身し、琵琶湖の主になったとの話がある。また、8月15日の月夜に竹生島の砂の上で数千匹の鯰が転げまわったとの記述があるが、これは恐らく月の変若水との関係を伝えるものだろう。要は、鯰は龍蛇と同じ水神の使いであると。
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江戸の町に鯰が登場したのは、前回にも書いたが享保十三年(1728年)の大水害の時であった。それまで江戸の庶民は、鯰を見た事が無かったようである。この大水害の時に、鯰の大群が出て、江戸の人々はこれを捕まえて不思議がったという。恐らくこの時から、江戸の人々の意識の中に、鯰が不吉の前兆と刷り込まれたのではなかろうか。

享保十三年の約100年後、文政十三年(1830年)京都で大地震が起きた。その時に、江戸時代後期の歴史家であり思想家、そして漢詩人でもあった頼山陽が地震の詩を書いている。

「大魚坤軸を負ふ、神有り其首を按ず、稍怠れば即ち掀動す、乃ち或は酒に酔へる無きか願欲一たび醒悟し、危を鎮めて其後を善くせんことを」

この詩における大魚とは鯰を指し、神は鹿島神であるのを意味している事から、鹿島神宮で龍蛇の首尾を抑え込んていた要石は、この詩の後から鯰の頭を抑え込むようになったのかもしれない。そしてこの詩の25年後、安政の大地震が起きる。安政二年(1855年)の事であった。
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大地震で被害を受けた人々は、どこに怒りをぶつけて良いか分からない。そういう時に描かれたのが、地震の原因である鯰をこらしめる事で、憂さを晴らすという絵。これが龍蛇の姿であったら、これほど滑稽に描かれたのかどうか。江戸の庶民が龍蛇でなく鯰を選んだのは、大地震という災害による悲惨な状況をも笑い飛ばそうという気質からきたのではなかろうか。大地震の後に描かれた、こういう鯰絵は様々な絵柄が大量に出回ったという。
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大地震によって損をしたのは、金持ち連中であったと。家屋敷を失い寄付金を強いられた金持ちは、背後に鯰がおぶさるように憑いて泣いている。しかし、商人であれば"損して得とれ"なのだろう。現代でも大地震の被害に対して、金持ちや企業は寄付をしたり、直接物資を届けたりしている。明治時代の三陸大津波の時に岩手県の新聞で紹介されたのは、「奇特な米商」と題して「西閉伊郡上郷村の米商細川熊吉なるものは此度の災害を聞くや同胞窮厄を救わん為、自宅より夜通しに米穀を釜石に運び来り海嘯以前よりも価格を引き下げて販売し又大工の不足を憾み自村より十二三名の大工を派遣して一時の急を救へり…。」と。無料では無かったようだが、車の無い時代に夜通し米を遠野から釜石へ運んだのは、とても大変な事だ。それを成し遂げたのは、津波で被災した人達にが困っているだろうという想いからであったろう。そして被災者も、その想いを感じた事だろう。江戸時代で損をし泣いたであろう金持ちの商人も、その後の復興で笑い顔に戻ったのではなかろうか。
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地震で家屋が崩壊すると、復興景気で職人の仕事が増え、手間賃が跳ね上がった大工をはじめとする職人は笑いが止まらず、鯰を讃えたと云う絵が上の絵となる。それは江戸時代に限らず現代でも同じで、破壊されれば再生する流れから、2011年の東日本大震災の後の好景気は"復興バブル"とも呼ばれた。
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地震後、仮設住宅ならぬ"仮設遊郭"が建てられたそうだ。通常、遊郭を利用する事を拒まれた大工をはじめとする職人達だったが、復興景気で儲けた職人をターゲットに、この仮説遊郭は繁盛したという。
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地震で家が崩壊し、我が家が無くなった人達は、今では国の主導の元に仮設住宅を当てがられるが、江戸時代の人達はもっと逞しく、使えなくなった襖や障子が貼られた扉で独自に仮設住宅を作り、住んだり商売を始めた様である。瓦版の絵からは、あまり悲壮感が漂っているようには見えないのは、やはり江戸っ子の気質なのだろうか。
by dostoev | 2016-04-23 12:31 | 鯰と地震 | Comments(2)

鯰と地震(其の一)

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昔から、鯰が暴れると地震が起きると云われていた。その感覚はまるで、ウルトラマンと戦う巨大な怪獣の登場シーンを彷彿させる。映画「ゴジラ」は放射能の脅威を具現化した怪獣であり、ウルトラマンなどに登場する怪獣たちは、災害や戦争を具現化した存在であったのだろうか。江戸時代の古書である「西遊見聞随筆」には、女が、とある堀で洗濯物をすすいでいたところ、堀の彼方に水波が激しく立ち、こちらへと近付いてくる。女ははじめカワウソかと思っていたが、目の前に迫った得体の知れぬものは、大きな口を開け、女を一呑みにするかのようであったと。その正体は、二間もある大鯰であったという。この大鯰の出現シーンはまさに、ウルトラマンに現れる怪獣の出現シーンのようでもある。在来の淡水魚で最大と云われるのが琵琶湖大鯰で、120センチにもなるそうだが、「西遊見聞随筆」に登場する大鯰は二間、つまり約360センチで有り得ない大きさだ。日本ではいる筈も無い大蛇騒動の話も多く、人の中にある"恐怖の意識"が、蛇や鯰を怪物かの如くに伝える場合がままある。まあこれは、遠野のひょうはくきりの話す事と同じで、自分の体験した話を面白おかしく大袈裟に伝えるのに似通っている。
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江戸時代の瓦版には、巨大鯰が人々を襲うシーンが描かれている。これはまさに、ウルトラマンやゴジラと同じ様な、災害の具現化であり、この頃には既に特撮の下地が出来上がっていたと思えて面白い。
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ただし、江戸時代にはウルトラマンは登場しないが、その当時もっとも親しみ易い神仏がウルトラマンの代わりをやっていた。地震=鯰を倒すとなれば、やはり鹿島の神(武甕雷男神)が登場する。科学が発達していなかった時代のヒーローは神仏であり、地震の様な災害だけでは無く、あらゆる病気にも、多くの神仏が関わって来た。例えば不動明王の背後にある火焔は、病魔を焼き尽くすとされた。その「紅蓮の焔=赤色」が魔を寄せ付けない、魔を倒すとされた事から、ウルトラマンのデザインに使用された赤色となったようである。
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鹿島の神が大地に要石を打ち付けて、日本全体を取り囲んでいる「地震蟲=大蛇=龍」の頭尾を抑え込んでいるから地震は起こらないと思われていた。しかし、鹿島の神がたまに留守をしたり、気を緩ませると大地震になるという言い伝えがあった。とにかく、外敵、災害を抑え込む要石信仰とでも言うべきだろうか、とにかく要石に対する意識が高まったのは江戸時代になってからのようだった。その要石を、水戸黄門でおなじみの徳川光圀が好奇心からなのか、現実主義者であった為か、鹿島神宮の要石を掘り起こそうとした話が「黄門仁徳録」に伝えられている。七日七晩、要石の周囲を掘り返したが、不思議な事に掘った穴は一晩のうちに元通りに埋まり、加えて怪我人が続出した為、作業は途中で頓挫してしまったという話になっている。内容から察すれば作り話ではあろうが、水戸黄門の迷信に惑わされない性格を意識した逸話となっている。ところで「遠野物語拾遺20&21」にも似た様な話があり、神木を切ろうとしても一晩で、その切った跡が元に戻るというものだ。要石も神木も神々しいものであるから、こういう話が作られたのだろう。
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浅井了意の仮名草子「かなめいし」には「俗説に五帝龍王この世界をもち、龍王いかる時は大地ふるふ。鹿島明神かの五帝龍王をしたがへ首尾を一所にくぐめて鹿目(かなめ)の石をうちをかせ給ふゆへに、いかばかりゆるとても人間世界はめつする事なし」とある。恐らくこれは、龍が実在するというものではなく地下に流れる龍脈を意図してのものだろう。つまり、龍脈の気が吹き出す龍穴が鹿島神宮であるとされていたのだろう。こういう陰陽五行に基づく風水思想は、神道世界を中心にかなりの広がりを見せていたのがわかる。
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寛文の頃から江戸で出版された「いせこよみ」には、日本の国土を囲む龍の絵が掲載されているが、その「地震蟲=大蛇=龍」が「鯰」に変ったのは、江戸時代になってからだという。「増訂武江年表」という書物に「昔江戸に"鮧魚"といふ魚なかりしが、享保十三年九月二日、江戸に大水出で、此魚長さ二尺計りなるもの多く、すなどりするをのこ此れを捕へしを、みな人見て怪しめり…。」ここで気になったのは、「鯰」という漢字を「魚」偏に「夷」で表す「鮧」を使用している事。例えば「夷狄」という言葉は、古代中国において未開な野蛮人だとする異民族に対する蔑称であった。元々鹿島神社は、蝦夷国との境界に建てられた神社であり、朝廷の外敵である野蛮とされた蝦夷に対する前線基地の意味合いがあった。まさに突如、江戸に現れた鯰は夷狄であると認識された文章であると思う。鹿島大明神は要石に宿り、国土を脅かす外敵を威圧するものであり、鯰だけでなく日本と云う国土安泰の要と考えられたようだ。それは幕末になり、黒船をはじめとする異国船が行き来するようになってから鯰を今度は「異国の鯰」という表現に変えたのは、まさに現実的な夷狄を目の当たりにした為の攘夷論からであった。
by dostoev | 2016-04-22 12:37 | 鯰と地震 | Comments(0)