遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:荒御魂( 6 )

荒御魂(其の六(結)熊野坐神)

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田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、田村圓澄は疑問を呈している。神功皇后時代以降から天武天皇時代前までは、伊勢大神と日神の名称が登場するが、天照大神という名称は登場しなかった。しかし天武天皇時代の初年に突如、天照大神の名称が二か所登場するのだが、その後は伊勢大神の名称が続くのには意図的に天照大神の名称が使われたのではないのかと。ただ、大海人皇子に従って吉野を出発した舎人の一人である安斗智徳の日記にも「廿六日辰時。於朝明郡迹大川上而拝礼天照大神」とある事から、天照大神を遥拝したのは信憑性は高いと云われる。

丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の邊にして、天照太神を望拜みたまふ。

天武天皇が遥拝した天照大神はこの時、滝原の地に祀られていた。神武天皇は太陽を背にする事によって戦に勝利する事が出来た。この時の天武天皇も、その太陽である天照大神を望んだ事によって壬申の乱の勝利を祈願したのだろうという意見が殆どである。では、その滝原という地は、どういうところであろうか。猿田彦神社購本部「神宮摂末社巡拝」によれば「滝原といふものは、この大内山川や頓登川に沿ふて大瀧、雄瀧、雌瀧などいふ瀧が四十八もあり、その間を縫ふた原野の地勢をそのまゝ名としたものである。」と説明している。遠野にも、藤沢の滝群というものがあり、その滝群の手前に応瀧神社が鎮座しており、那智の瀧神が祀られている。その藤沢の瀧もまた四十八瀧であり、全国に四十八瀧という名称の殆どが、熊野の四十八瀧からの影響を受けているのは言うまでもない。その滝原の地に祀られる神社の殆どは水神系神社であり、僅かに御饌都系神社が祀られているばかりだ。つまり滝原という地は、その名の通り水の溢れる聖地であるのが理解できるが、天照大神の性質である太陽信仰を見出せない地でもある。そしてその前に、この滝原の地は既に熊野の影響を受けた地では無いかと思われるのであった。

「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを言葉に表している。

「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜し國なり。是の國に居らむと欲ふ」とのたまふ。

この後に、この伊勢国に祠を建てるのだが、それが滝原の地であるのは言うまでもない。ここで気にしなければならないのは、常世信仰とは熊野から始まったものであるという事。後に補陀落とも呼ぶようになったが、要は黄泉国、死の国の入り口が熊野であるという事だ。死といえば不吉なイメージが纏わりつくが、古代では太陽は毎日東から生れ、西に沈み死ぬと思われていた。つまり死とは生との連続性の中にあるものであり、それを陰陽五行に当て嵌まれば陰となる。太陽の昇る東は陽であり、それが沈む方向は陰となる。天照大神の荒魂の異称に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名があるが、この神名の「天疎向津」とは、東から離れて西へと向かう月を意味している。その西である死の地がまさに熊野であり、この熊野の地こそ、天照大神荒魂にふさわしい地ではなかろうか。
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西国三十三所観音霊場の第一番札所である青岸渡寺の御詠歌がある。

補陀落や 岸うつ波は三熊野の 那智のお山に ひびく滝つ瀬

補陀落であり常世の波の音とは、那智の滝音でもある意味になる御詠歌であるが、垂仁記の天照大神の言葉は、まさに伊勢国には那智の滝音が響く地であるという意味合いにも取れる。その滝原の地は熊野の四十八瀧と同じものがあるのはつまり、那智の滝と同じものがあると考えて良いのではないか。だからこそ、天照大神はここに斎くと言ったのは、それは天照大神ではなく、水神である天照大神の荒魂の言葉では無かっただろうか。垂仁記の「常世の波」とは、熊野からの波が押し寄せるもの。つまり、那智の滝音が響く地であると考えるのが妥当であろう。
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室根山に勧請された瀬織津比咩は、熊野本宮神であるとされている。その熊野本宮だが、現在の本宮の地では無く、旧社地の大斎原とは「水霊の斎く霊地」の意であり、古くは大湯原と表記され、それは「聖水によって清められた聖地」との意であった。それは、熊野川の奥に坐す地主神である水神であったとされている。また、平安中期の仏教説話集である「三宝絵詞」には、その熊野川の奥に坐す神が熊野の「本神」と記され、それが熊野坐神であった。つまり熊野本宮神の本来が、水神を祀っていたのは疑いの無いものである。

それでは、その熊野川の奥には何があるかといえば、そこに鎮座するのは天河神社。菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」で、その天河神社が紐解かれている。天河神社の本来の祭神は「天照大神別体不二之御神」。つまり、天照大神荒魂とされる天河神社に祀られるこの神が、熊野本宮神、熊野坐神であったという事になる。

「エミシの国の女神」の著者である故風琳堂氏は、この天河神社の結びをこう書いている。「弁財天と習合する神を「地神」の位相で透視するなら、この位相は、そのまま熊野へ、そして伊勢へ、また白山へと、もう一つの祭祀の地肌を共有しているといえようだ。」この時点で、この位相は想定されるものの、決定的証拠が無く、まだ確信に到って無いようでもあった。しかし、こうして一つ一つ積みかせね検討していくと、その地神の位相が数珠繋ぎとなり広がって行き、一柱の神に帰結していく。この小さな発見を、風琳堂氏が生きているうちに報告出来なかった事が残念である。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」で、こう訴えている。672年(天武元年)の時点で大海人皇子が望拝したのは「天照大神」ではなく、滝原に祀られる「伊勢大神」ではなかったか、と。神武天皇は、熊野において軍勢を立て直す事の出来た地である。また、それに倣ってか、神功皇后もまた応神天皇を連れて熊野の地へと向かった。何故なら、その熊野の神とは「破軍星」に等しい神であった為だ。だからこそ、その神の力を持て余した崇神天皇はその神を手元から切り離し、先鋒として各地の武力制圧へと連れまわした。その果てに祀ったのが滝原の地であった。そして天武天皇もまた壬申の乱の勝利を祈願して、滝原の地に祀られる「伊勢大神」を望拝したのだろう。その伊勢大神は天照大神ではなく、滝原の地に祀られた伊勢大神である天照大神荒御魂である瀬織津比咩であった。歴代の天皇が頼ったその神威を信じたからこそ、天武天皇は望拝したのだ。天照大神の荒御魂、その神はその遥遠くの早池峯にも、その地域を平らげる為に祀られたのだろう。滝原の地は、別に遥宮(とおのみや)と呼ばれる。その更なる遥か遠い遥宮(とおのみや)が、現在の遠野市であり、その地に聳える早池峯ではなかろうか。
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こうして遠野の氏神様である瀬織津比咩について調べて書き連ねるのだが、その過程で新たな発見をした時に、以前はそれを聞いてくれる風琳堂氏がいた。風琳堂氏が死ぬ1か月前に電話で、こういう新たな発見をしたと報告し、それを喜んでくれた風琳堂氏の声が思い浮かばれる。今となって、瀬織津比咩を語れる相手が全くいなくなった事を痛感する毎日が続く。今更ながら、風琳堂氏の死を痛ましく思う自分がいたのだった。
by dostoev | 2015-03-26 17:12 | 荒御魂 | Comments(0)

荒御魂(其の五)

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「日本書紀(崇神天皇五年)」「國内に疾疫多くして、民死亡れる者有りて、且大半ぎなむとす。」崇神天皇五年に、疫病が流行って多くの民が死んだようだが、この記述と似た様なものが多くの風土記に記されている。その殆どは、荒ぶる女神の祟りによるものだった。「昔者、此の川の西に荒ぶる神ありて、路行く人、多に殺害され、半は凌ぎ、半は殺にき。(肥前國風土記)」「此の川上に荒ぶる神ありて、往来の人、半を生かし、半を殺しき。(肥前國風土記)」「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半生き、半は死にき。(筑後國風土記)」本来「半」という漢字は、牛を真っ二つに切り裂いて神に捧げる意味を持つ。つまり「半」という漢字を使用して表現している「風土記」や「崇神天皇記」などは、初めから民という生贄を神に捧げた意として表現していたのかもしれない。そしてその疾疫による多くの民が死んだ原因が、大殿に祀っていた天照大神と倭大国魂によるものだったとわかり、この二柱の神を外に出したという。これはつまり、祀っていた皇祖神が祟ったという事になる。これについては、皇祖神が祟るのはおかしいのではないか?という意見が多い。とにかくここから、天照大神は豊鍬入姫命に託され、笠縫邑まで運ばれ祀られた。

ところで気になるのは、天照大神と倭大国魂が並んで大殿で祀られていたという事実だ。古代の祭祀では、彦神と姫神が並んで祀られている場合が多い。ここでも天照大神を女神とすれば、倭大国魂は男神となるか。近藤雅和「記紀解体」によれば、倭大国魂は大物主、そして饒速日命という事になる。倭大国魂の説は様々あるのだが、倭大国魂=饒速日命の詳細は「記紀解体」を読んで貰うとして私は、この合理的な近藤雅和説を支持したい。
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近藤雅和「記紀解体」より借用

そして近藤雅和はもう一つ、気になる説を唱えていた。天照大神の遷座の旅は、武力制圧であったというものだ。遷座の旅に参加している者達は「皇太神宮儀式帳」によれば、安倍武淳川別、和邇彦国葺、中臣大鹿島、物部十千根、大伴武日の五人の名門豪族の長が部下を引き連れている事に加え、「倭姫世紀」において「阿佐賀の悪神を平らげた安倍大稲彦も共の中に加わった。」とする事が、その武力制圧の旅を裏付けるとしている。

ここで頭を過るのは、蝦夷平定を祈願して、最強の神であった熊野に祀られていた瀬織津比咩を、現在の岩手県室根山まで、わざわざ勧請した事。その最強の神としての裏付けは、菊池展明「円空と瀬織津姫(下)」で紹介されている。「白山大鏡」「白山瀬織津置倉宮は東馬場の麓の宮に坐す。東夷異国の征伐を為し神宮を東の麓に卜す。託宣記曰く、慶雲二年、我大将軍と為り兇賊の陣を誅し平ぐる。天慶年中、官軍鎮飽し、一乗の法味の勢力我に勝る。」とある。更に白山の「由来伝記」では、瀬織津比咩の本地である十一面観音を北斗七星の「破軍星」と見立てている。破軍星とは北斗七星の先端であり、それを剣先に見立てて,その方向に向って戦うものは勝ち,逆らって戦うものは負けるとされる。別名「剣先星 (けんさきぼし)」 とも呼ぶ。

また大和の斑鳩には伝説があり、四道将軍を派遣した崇神天皇は御幣岩の上で滝祭をご覧になったとされる。「神皇正統記」には「瀧祭の神と申すは瀧神なり。」とあり、その滝神は滝原宮に祀られている神でもあった。それはつまり、崇神天皇が大殿で祀っていた神という事になる。崇神天皇10年に四道将軍を各地に派遣して武力制圧をした崇神天皇であるから、最も欲した神とは戦神では無かったか。だからこそ、御幣岩の上で滝祭りを観た。実は、この御幣岩には他の伝説もあり、大峯山へと登る場合は、塩田の森の祓戸大神へと参詣し、御幣岩で身を清めてからでないといけないとされる。役小角もまた、これに従って大峯山へと登ったとされる。この祓戸大神は現在、車瀬の白山神社に遷されたようだが、元々は白山神社の祭神が祓戸大神であったようだ。そしてその祓戸大神とは、瀬織津比咩であり、どうも大峯山との関係が深い様である。
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ここで「日本書紀(神功皇后記)」を確認してみると「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。また別に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし、和魂を請ぎて、王船の鎮としたまふ。」事から実際、戦に率先して参加しているのは天照大神荒魂だけであった。そしてこの天照大神荒魂の性質はまさに、北斗七星の「破軍星」そのものではないか。

ならば、笠縫村から倭姫と共に武力制圧で彷徨った天照大神とは、和魂では無く荒魂であった可能性が高いのではなかろうか。となれば大殿に祀られていた二柱の神とは、倭大国魂と天照大神荒魂という事になる。倭大国魂が饒速日命であるなら、その属性は日神である。相対する神が今まで天照大神とされていたが、それでは日神の二柱となり、陰陽の和合とはならない。あくまで彦神と姫神を祀るのは、陰陽の和合を意識するからだ。ところが天照大神では無く、その荒魂となれば、それは笠縫村からの終着点である滝原宮に祀られた神であり、現在伊勢神宮の荒祭宮に祀られる水神である瀬織津比咩であるから、倭大国魂と瀬織津比咩という二柱の神は、陰陽の和合となり、合理的な祭祀である事がわかる。ただ何故に崇神天皇が大殿に祀ったのかは、定かでは無い。ただ考えられるのは、神功皇后時代から天武天皇時代の間、天照大神という名前は登場せず、ただ伊勢大神と日神という名前が登場しただけという事実がある。伊勢大神=日神=天照大神というイメージが強いのだが、天照大神という女神の正式な誕生が天武天皇時代から始まり持統天皇時代に完結したのなら、それ以前の伊勢大神と日神とは、もしかして瀬織津比咩と饒速日命の可能性もあるのではなかろうか。

更に気になるのは、上記の地図が武力制圧の行程であるなら、その武力制圧の地に熊野がまったく含まれていない。熊野は神武天皇時代に支配したといえばそれまでだが、神武天皇以来の拠点である大和でさえ未だに周辺の地を武力制圧しているのに熊野だけは全て全域平定されていたのか?という疑問が起こる。次は、熊野神と伊勢神、その共通性について書こうと思う。
by dostoev | 2015-03-25 17:15 | 荒御魂 | Comments(0)

荒御魂(其の四)

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熊野の牛王神は極端な話になってしまったが、とにかく熊野に祀られる神と天照大神が深い関係にあると考えている。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神では無かろうか。

また神武天皇の話も、神功皇后の話も7世紀後半の造作であるなら、「伊勢神宮の成立」に示されたデータから、神代記から神功皇后の話の中に天照大神という名が登場しているのは、意図的と言わざる負えない。何故なら皇祖神は天照大神であり、伊勢大神では無いからだ。現在の伊勢神宮は698年に建立され、その前に祀られていた滝原宮から遷宮したとある。しかし、伊勢神宮の建設中、持統天皇は滝原宮へは向かわず、真っ直ぐ建設中の伊勢神宮に行幸していたというのは、持統天皇の中で新たな天照大神を心待ちにしていたからであろう。つまり、滝原宮に祀られていた神は、天照大神では無いという事。滝原宮に天照大神が祀られているならば、自らの皇祖神を無視して伊勢神宮だけに通う筈が無い。天照大神の宮を造る事は天武天皇の発想だとされている。そして、その発想を実行に移したのが持統天皇であったが、完成したのは息子である文武天皇二年(698年)の時であった。

滝原宮に祀られる伊勢大神が天照大神では無い理由が、もう一つある。持統六年に、度会・多気の二郡から赤引糸が貢納するようになっているとの事だが、持統天皇は天照大神の皇孫であるから、天照大神を奉祭する立場なのだが、逆に天照大神側が持統天皇に貢納するのはおかしい。つまり、滝原宮に祀られる伊勢大神とは、天照大神では無いのだろう。その滝原宮の伊勢大神には未婚の王女が奉侍していたというが、これで思い出したのが、伊勢神宮内部に立てられている心御柱の祭祀である。心御柱は、伊勢神宮の謎であり「秘中の秘」であるという。

関裕二「伊勢神宮の暗号」で、この心御柱を解説している。心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないという。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。その恐ろしい神に相対する事の出来るのは、昔話などで鬼を退治してきた童子・童女の神秘に頼ったからであるとされる。酒呑童子や茨城童子など、鬼もまた童子であり、それを退治できるのも金太郎や桃太郎の、普通では無い童子であった。そして心御柱では童子では無く童女が採用されているのは、それは女神であるからではなかろうか。大物忌はあくまで神を世話する存在であるから、その神が女神であるからこそ、禰宜は近付かず、童女の大物忌が世話をするのだろう。

ここで滝原宮の伊勢大神に戻り、心御柱を照らし合わせて考えれば、滝原宮に祀られる伊勢大神とは女神であり、祟る恐ろしい神である事がわかる。だからこそ、未婚の王女が奉侍していたとの事は、それが大物忌であったのだろう。田村圓澄「伊勢神宮の成立」では、心御柱は元来、滝原における伊勢大神の憑代であり、神籬であったと考えられるとしている。実際、この心御柱の祭祀と荒祭宮と滝祭神でも同じ事が成されると云う。つまり伊勢神宮で祀られる神とは本来、天照大神では無く、恐ろしい祟り神という推測が成り立つ。ここで「日本書紀(神功皇后記)」での天照大神の言葉が甦る「我が荒魂をば皇后に近くべからず」祟り神である荒魂は、天照大神やそれを祀る者達にも恐ろしいと思わせる神だと理解できる。となれば、崇神天皇時代に、祟った神は天照大神では無く、荒魂の方だったのではなかろうか?それが笠縫村から倭姫に託され彷徨い、滝原宮に祀られたのが、本来の伊勢大神であり、天照大神では無かった事になる。
by dostoev | 2015-03-10 18:18 | 荒御魂 | Comments(0)

荒御魂(其の三)

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「日本書紀(神功皇后記)」で、神功皇后が応神天皇を神武天皇の道筋に立たせようとしているのは、既に理解されている事である。息子を抱いて紀伊水門に向い、熊野に立たせ再び大和に戻る事は神武天皇の再来を願っての事であり、更に「日本書紀(神功皇后記三年春)」では「誉田別皇子を立てて、皇太子としたまふ。因りて磐余に都つくる。是をば若櫻宮と謂ふ。」という事から、徹底した神日本磐余彦尊に対する意識である。そして、それと共に意識しているのは、熊野ではないだろうか。一般的に、天照大神が登場する神武天皇の熊野での物語は、七世紀後半の造作と考えられている。その七世紀後半の時代の主とは、やはり天武天皇であろう。

「日本書紀(神武天皇記)」での熊野において、高倉下の夢の中だが天照大神が登場する。「古事記」では、天御中主命と天照大神の二柱の神が登場しているのだが、ここでは天照大神の単独である。天照大神は武甕雷神を降らせようとした。また今度は直接神武天皇の夢に立ち、八咫烏を遣わし、その導きにより助かった話になっている。烏は太陽の使いであるから当然であるという風潮がある。確かに、ギリシア神話での太陽神アポロンの使いは烏であり、烏の黒色は太陽の黒点を意味すると云われる。「伊勢風土記」には金色の烏が登場して、神武天皇を導いたとされるが、金色が太陽の輝きを意味しているという事らしいが「伊勢国風土記」が後から成立したものであるから、金色の烏の登場は後付けである。また10世紀に編纂された「和名類聚抄」「陽鳥」として三本足の赤い烏が八咫烏ではないかとされ、いつの間にか八咫烏は三本足になってしまったようだ。赤色は金色に等しいと考えて良いだろうから「伊勢国風土記」に結び付く事でもある。
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しかしだ、ギリシア神話のアポロン以外に、烏を使役する神がいる。それは、北欧神話のオーディンだ。オーディンは戦の神であり、死の神である。息子に雷神であるトールがおり、フギンとフニンというカラスを使役とする。「日本書紀(神功皇后記)」に登場する天照大神は、武甕雷神を降らせようとし、八咫烏を遣わした。

また、熊野の起請文で知られる牛王宝印の烏は別に「牛王神(ゴオウジン)」とも呼ばれる。学者たちは、この「牛王」を様々な角度から調べてはいるが決定打は未だに無い。ただ気になるのは、熊野牛王宝印である起請文とは誓約である。その誓約を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に地獄に堕ちると信じられ、別に熊野誓紙と云われる。何故、熊野の誓約を破ると、破った相手では無く熊野の烏が三羽死ぬのか、まだ理解されていないようだ。起請文には多くの神々の名が連ねて書き込まれ、それに誓いを立てるのであるから命を賭す重いものである。それを破れば等価交換では無いが、命が無くなるものと思った方が良い。。西洋で言えば、悪魔の契約であり、それを破れは魂を奪われると同じである。しかし日本には護法童子や身代わり人形などがあり、自らの代わりにその攻撃や罰を受けてくれたり、護ってくれたりする。恐らく、約束が破られれば熊野の烏が三羽死ぬだろうが、当然の事ながら、誓約を破った相手も死ぬのであろう。仏教民俗学者の五来重は八咫烏の「八咫」を「忌まわしい」「憎々しい」などの古語で「あだ」と同じく「あだし野」「はかない」などの意で、不吉な死に関係する鳥だとしている。その死に関係する烏が、何故に太陽神の使いであろうか?
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ところで起請文である「牛王宝印」の絵となる烏の「牛王神(ゴオウジン)」「護応神(ゴオウジン)」としてはどうだろうか?誓約を破ると、応神天皇の身代わりに熊野の烏が三羽死ぬと考えれば、話はスムーズになる。そして先に紹介した北欧神話の「オーディン」と「応神(オウジン)」との語音の共通性は、どこからきているのか気になるところである。その熊野に祀られる神に家都御子神がいる。その家都御子神が気比神宮の伊奢沙和気神という説もある。何故なら、伊奢沙和気神の異称が御気津神でもある事に由来しているようだ。応神天皇は、気比大神と名前を交換している。その御礼として気比大神が応神天皇に食物を贈った。そこで応神天皇が「我御食の魚給へり」と言った事から御食津神と名付け、それが気比大神の名前になったという。気比大神の名前も別に笥飯(けひ)大神であるから、元々御気津と同じ意味を持つ名前である。その御気津神が応神天皇と名前を交換した後が不明となっている。だいたい、交換した名前をどうするのか、どうしたのかさえ不明となっている。あくまでも、応神天皇は応神天皇であるからだ。しかし、現代と違って古代における名前は重要であった。清少納言や紫式部さえ本名を名乗らないのは、その名前が呪いなどの悪しき事に使われるのを恐れたからだ。もしも、その本名を交換するとなれば、それ相応の事があったと理解できる。その可能性として考えられるのが、熊野に祀られる家都御子神が、実は応神天皇では無いのか。「記紀」は史書であるから、普通に応神という名前は出るだろうが、その時代の中ではどうだったのかは定かでは無い。もしも応神天皇が熊野に祀る為に名前を隠したのならば、その意味を探さねばならないが、先の「ゴオウジン」が応神を護る為のものであるならば、やはりその奥には深い闇があるのだろう。とにかく「日本書紀(神武天皇記)」と「日本書紀(神功皇后記)」は、深く熊野に関わるという事だとは思える。

ところで「遠野物語拾遺」にも、ほぼ北欧神話と思えるような話が伝わっている。どういう経路で誰が伝えたのかわからないが、古代日本にも北欧神話が密かに伝えられた可能性はないのだろうか?ここまで見事に重なると、意図的に北欧神話の神の性質を重ねた物語として作られたとも思ってしまう。ただ、それを行うとしたら天武天皇しかいないだろうとは思う。

今回は話が八咫烏と牛王宝印へと飛んでしまったが、実は「日本書紀(神武天皇記)」での一番の疑念は、ここに登場している天照大神とは、実は天照大神の荒魂の方では無いかという事。また別に、崇神天皇時代には、祟り神としての天照大神が登場するのだが、これも含めて「日本書紀(神功皇后記)」に登場する天照大神の荒魂が歴代の天皇を苦しめていたように思えてならない。次は、それらについて書こうと思う。
by dostoev | 2015-03-08 18:10 | 荒御魂 | Comments(0)

荒御魂(其の二)

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「古事記」の仲哀天皇記では、仲哀天皇の不慮の死の後に”国の大祓”の記述がある。その内容は、天智天皇時代に作られた「大祓祝詞」とほぼ同じである。「大祓祝詞」といえば、その舞台背景が琵琶湖周辺の地名に近似しているのだが、「日本書紀(神功皇后記)」で忍熊王を討つ舞台が、淡海である琵琶湖周辺となっている。忍熊王は敗戦の中、船に乗ったとされるのが瀬田であったようだ。そこで忍熊王は、五十狭茅宿禰と共に入水して果てたとされる。その時の歌がある。

いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 

             頭槌の 痛手負はずは鳰鳥の 潜せな


上記は「日本書紀」だが、「古事記」では下記のようになる。

いざ吾君、振熊が、痛手負はずは鳰鳥の淡海の湖に潜きせなわ

梅原教授は「シンポジウム東北文化と日本」において、それ以前に不明とされていた「吾君(アギ)」をアイヌ語で解釈できるとした。1980年代以前は「吾君」をそのまま「わがきみ」という解釈としていたが、それは意味を成さないとされていた。ところが「アギ」はアイヌ語の弟などを意味する「アキ」ではないかとした。忍熊王が琵琶湖に追い詰められ入水する時、家来の五十狭茅宿禰対しての歌が「吾君(わがきみ)」ではなく「わが弟よ」と解釈すれば、意味が通りやすくなったようだ。

ところで「吾君(アギ)」がアイヌ語だとすれば、仲哀天皇の正当な血筋である忍熊王がアイヌ語の「アギ」を使用したとは考え辛い。仲哀天皇の父はヤマトタケルであり、その父は景行天皇だ。景行天皇時代、武内宿禰の蝦夷の報告は、蝦夷を討ってしまえという程、蔑んだ酷いものであった。その景行天皇の息子であるヤマトタケルは蝦夷征伐へと赴き、そして最後には伊吹山で果ててしまう。その息子である仲哀天皇が、息子である忍熊王に対して、アイヌ語を教え伝えるだろうか?確かに景行天皇自体日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じたと記述しているが、その景行天皇の時代から仲哀天皇の時代の間に、アイヌ語だとする「吾君(アギ)」の言葉が自然に口から出るとは考え辛いのだ。

柿本人麻呂が、淡海を詠った歌がある。

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ

ささなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも


古田武彦「古代は輝いている」において、この歌は忍熊王の事件を詠ったものだとしている。実は、この柿本人麻呂の歌は、壬申の乱によって廃墟になったものを詠ったものとされていた。しかし、壬申の乱での大友皇子は山前で自決したのだが、柿本人麻呂の想いは、湖上と湖底へと向けられている。

淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほ

後藤幸彦「神功皇后は実在した」では、この柿本人麻呂の歌の「いにしえ」とは、やはり忍熊王の悲劇を想っての歌であろうとしている。「日本書紀」では、武内宿禰が瀬田の水に沈んだであろうその忍熊王の死体を探したところ、宇治で見つかったとある。その歌は下記の通りとなる。

淡海の海 瀬田の済に潜く鳥田上過ぎて兎路河に出づ

そして重なるのが、柿本人麻呂の歌。

もののふの八十氏河網代木にいさよふ波の行く方知らずも

網代木とは、魚を捕る為に両岸などに打ち込む仕掛けの網の杭であるらしく、まさに瀬田で入水し死んだ忍熊王が、宇治川で見つかったものが、網にかかった魚の様に表現されているようにも思える。この柿本人麻呂の歌は「もののふの八十」と「氏河」を分けて解釈される場合が殆どだ。しかし「もののふ」と「八十氏河」と分けて考える事も可能であろう。「もののふ」は戦で負けた忍熊王だとして、その死体が宇治川で見つかった。

宇治の橋姫神社に祀られる神は、琵琶湖畔の佐久奈度神社から勧請され、「大祓祝詞」の中心となる瀬織津比咩である。佐久奈度神社は、黄泉に引き込まれるという伝承のある桜谷に祀られていた桜谷明神であった瀬織津比咩を勧請したものであった。その別名を八十禍津日神と云い、やはり水による穢祓の神である。「八十宇治」とした場合、宇治がそのまま祓処としての機能を持つ事から「八十宇治」とはその死体の穢を祓う意味としても考えられる。これを強引に感じる人もいるだろうが、考えて見て欲しい。この忍熊王の死んだ舞台に見え隠れする神とは、瀬織津比咩ではないか。

瀬田は、佐久奈谷と並んで黄泉へ引き込まれるという伝承の地であり、七瀬の祓い所である。そして、俵藤太の逸話から竜宮への入り口でもある滝へと導くところ。それを導いた正体は白竜であった。この「日本書紀(神功皇后記)」の中の忍熊王の死への流れは、まさに「大祓祝詞」のそれであり。瀬織津比咩の掌の上での出来事であるようだ。

国家として「大祓」を採用したのは、天武天皇であった。それを踏まえれば、この「日本書紀(神功皇后記)」内の、仲哀天皇の「大祓」とアイヌ語の「アギ」はあからさまに時代のズレを感じ、それはもしかして、この「神功皇后記」を記させたのは天武天皇では無いかとの想定が成される。次は、天武天皇が恐れたであろう、荒御魂について書く事とする。
by dostoev | 2015-03-05 18:03 | 荒御魂 | Comments(0)

荒御魂(其の一)

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「日本書紀(神功皇后記)」を読むと天照大神が登場し「我が荒魂をば皇后に近くべからず、当に御心を廣田國に居らしむべし」という記述がある。どういう意味かと注釈を読むと「住吉三神や天照大神の荒魂は皇后の乗る船上にあって征船を導くとある。いま、その荒魂を皇后のみもとから離して広田の地にまつるのであろう。」と記されている。これは「日本書紀(神功皇后記)」で三韓征伐に出航する前「和魂は王身に服ひて壽命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」とある。「住吉大社神代記」でもほぼ同じ事が記されているが、その注釈に「荒魂は現魂の意があり、外に進み現れ出て神威を顕現する魂なり。」と説明されている。確かに、椿大神社に合祀されている石神社に伝わる「石神社略縁起并古書」では、倭姫命が、この霊巖は太神宮荒魂を奉斎し"石太神"と唱え、暫くした後に天照大神も影向したとあるから、どうやら天照大神の荒魂は、先導神のようでもある。先んじて、戦も含めその場の穢祓をする存在であると考えて良いだろう。実際にその後の文に「荒魂を撝ぎたまひて、軍の先鋒とし」とある事から、まさに戦の先人に立ち、神威を持って敵を威圧する為の荒魂か。この「日本書紀(神功皇后)」では、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と住吉三神の荒魂も登場しているが、その荒魂は穴門の山田邑に祭はしめよとされた事から、住吉三神の荒魂は航海の守護としてのものだろう。つまり戦船の船首に祀られた戦の先鋒神は、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。

ここで思い出すのが「室根神社縁起」だ。今から20年程前に「エミシの国の女神」の著者であった風琳堂氏が「熊野から最強の神が、室根山に運ばれてきたんだよ!それが瀬織津比咩なんだ!」と、興奮気味に話していた事を思い出してしまう。水神と思っていた瀬織津比咩が、最強の神であるとはどういう事だ?と思っていた。その室根神社縁起では、甚だ強力乱暴な東夷の征討の為、神明の霊威の加護に頼らんとし、霊験あらたかなる熊野神の勧請するのを決心し、当時の天皇であった元正天皇に奉請したとある。しかし、熊野神である瀬織津比咩が荒ぶる戦神という記録はまず無いだろう。恐らく、それを証明する唯一の記録が、「日本書紀(神功皇后記)」「住吉大社神代記」に記された天照大神の荒魂の記述になるのではなかろうか。

しかし、先に紹介した注釈では何故、神功皇后に天照大神の荒御魂を近づけてはならないのかの理由にはなっていない。ただ、征船を導くとは「戦の船」を意味するのであろうから、戦の荒ぶる神として荒魂があるのだろうか。仲哀天皇を祟った神で真っ先に名前が呼ばれたのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、天照大神の荒魂であると。その荒魂の名を一般的に「皇大神の御許を疎らせ御在坐て、遥かに向ひ居たまう義」という解釈が成されている。またこの荒魂の神名に使用されている「疎」は「荒い」という意味もある事から、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、戦神であり祟り神としての位置付けとなるか。いやそれよりも、祟り神としての撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に長く接するのは良くないという意であったろうか。

全国各地に伝承されている民俗芸能を調べると、あらゆる災害の根源になると信じられた荒魂を鎮める為のものが殆どだ。その荒魂は大抵の場合水神である竜蛇神とされ、また山神でもあり、その宗教的本質は祖霊神であるとされている。天照大神の荒魂は、荒祭宮に祀られる瀬織津比咩であり、その異称が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命となる水神である。「天疎」は、西へと向かう月を意味する。つまり、太陽の意がある東から離れ西へと向かう義が”天疎”であるなら、学者が一般的に解釈した「遥かに向ひ居たまう義」は、天照大神から離して荒魂を祀るべしとなろうか。ここに天照大神が、いや…天照大神を祀る者達にとって、その荒魂を恐れる意識を感じるのは自分だけであろうか?

「住吉大社神代記」や「日本書紀(神功皇后記)」での主役は神功皇后であり、住吉三神となっており、世の学者達も、それを中心的に取り扱い研究している。例えば、仲哀天皇を祟り殺した神はと問い、真っ先に登場したのが撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であったが、最後に登場した住吉三神を重視している風潮がある。これは武内宿禰が何度か「亦有すや」と問いて、意図的に最後の住吉三神を呼び出したのだろうとされている。また「住吉大社神代記」では仲哀天皇の崩御した後の記述が「是に皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)」と書かれたものだから、皇后と住吉三神の関係はただならぬものとされた。しかし最初に書き記した様に、わざわざ天照大神が登場し、荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を皇后に近付けるなと言葉の真相が、やはり気になる。

「日本書紀(神功皇后記)」には別伝も紹介しており、ここでは仲哀天皇を祟った神として真っ先に登場した神が住吉三神であり、その次に登場した神が「向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつおもそはふいつのみたまはやさのぼりのみこと)」という聞きなれない神であった。本文の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に対比させるように登場した神だとされるが、正しいかどうかはさて置いて、この神の正体は注釈に書いてあり、大野晋氏の説によれば、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊は「向ひ津をも押し覆ふ」であろうとしている。河村哲夫「神功皇后の謎を解く」ではそれを、香椎宮の鬼門の方角である向津国を意味し、その要約は「鬼門の方角である向津で死ね」という意味であろうとしている。これはつまり、仲哀天皇を殺すという暗示をした神であり、実際はその通りに仲哀天皇は死んでしまった。理解は出来るが、この説には若干の違和感がある。何故ならそれは、香椎宮を拠点として考えているからだ。
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「向津」とは、確かに向津国かもしれないが、津は港の意でもある事から、対岸の港の意味とも取れる。仲哀天皇は、熊襲平定の為穴戸豊浦宮に七年間政務を執っていた地であり、そこには現在、和布刈神事という秘祭がある忌宮神社がある。その海を隔てた対岸の福岡県には香椎宮もあるのだが、忌宮神社の向津には、やはり同じ和布刈神事が伝わる和布刈神社がある。今でこそ和布刈神社の和布刈神事は公開されてはいるが、以前は秘祭の為に密かに執り行われていたらしい。しかし、同じく対岸の忌宮神社では、今でも秘祭となっているようだ。その和布刈神社と海を隔てた忌宮神社を上空からの地図で見た場合、半島同士が交わり融合するようにも見え、まるで陰陽の和合を示す太極図のようにも思える。忌宮神社の地には仲哀天皇が拠点としていた。では和布刈神社の祭神はというと「和布刈神社志」によれば、第一殿に祀られる神は比売大神であり、「宗形坐三女神也 宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同躰ニ而天照大神之御荒魂三女神也 賊敵降伏之神ニシテ玉依姫ト奉称」とあり、つまり仲哀天皇の向津に鎮座しているのは、仲哀天皇を祟り殺した撞賢木厳之御魂天疎向津媛命だという事。和布刈神事に関しては、別記事で詳しく書いたのでここでは述べようとは思わないが、この忌宮神社の位置と、和布刈神社の位置は、何等かの意味があると思って良いのだろう。そして、「日本書紀(神功皇后記)」には、もう一つ気になる箇所がある。これは、次の機会にする事としよう。
by dostoev | 2015-03-04 18:24 | 荒御魂 | Comments(0)