遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:鉄の蛇( 42 )

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の四十二

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前回書いた様に、異界である黄泉国の入り口は、俵藤太が百足退治をした瀬田橋から佐久奈度神社の鎮座する佐久奈谷(桜谷)の間であった。佐久那太理とは、水の激しく落ち滾る様であり滝を意味する。その佐久那太理の滝壺がまさに黄泉国の入り口であった。そこを佐久奈谷という名が付いたのだが「近江国輿地志略」によれば、桜谷は「佐久奈止社の辺をいふ。此地即佐久奈谷なり。」とされており、桜谷の古名が佐久奈谷となっており、佐久奈度神社の辺りとなっている。「ラ」と「ナ」と読みは違うが、よくある音韻交代によるものらしいが、元々佐久奈谷は桜の名所でもあった為、自然と桜谷となった可能性もある。

春ならで桜谷をば見にゆかじあきともあきぬ道の遠さに

桜谷まことに匂ふころならば道をあきとは思はざらまし

にほてるや桜谷より落ちたぎる浪も花さく宇治の網代木


平安後期には、上記の歌が詠われていたようだが、落ち滾る浪と桜花が交じり合う美しい景観であったようだ。その桜の花びらと共に、滝壺に吸い込まれる様は、黄泉国というよりも浄土をイメージしたのだろうか?この桜の花びらも落ち滾る滝壺から白龍が現れた伝説があるが、まさしく瀬織津比咩が滝神であり桜神である例えではなかろうか。

ところで本居宣長の説によれば「佐久那太理」の「サ」は「真」と同じで「真下垂(マクダタリ)」の意であるとしているのだが、昨今スピリチュアル系の瀬織津比咩説に「マグダラのマリア」と結び付けて広めているのはもしかして、この本居宣長説を拡大解釈したものであろうか?とにかく「佐久那太理」の「ダリ」は「谷」であり「垂り」にも通じる事から、落ち滾る滝を意味しているのは明らかである。そして桜もまた水との繋がりが深く、桜は人間の依代ともなり、人間の代わりに穢を受けて吸い込み川へと流す役目があり、穢祓神である瀬織津比咩とも縁が深い樹木である。まさしく、その両方を兼ねた地が佐久奈谷であったのだろう。
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ところで佐久奈度神社の鎮座する地を大石龍門の地というのは、佐久奈谷の滝壺から竜宮の門に辿り着く伝承から来ているのもあるが、佐久奈度神社社記には「天瀬織津比呼尊者天照大神荒魂内宮第一の摂神也」と記されているのだが、この「大石」という地名も本来は「忌伊勢(おいせ)」に発した地名であるという。それがいつしか、大石となったらしい。古来から、伊勢神宮を参拝する者は、必ず佐久奈度神社でお祓いを受けるのが常であったようだ。その為か以前は祓戸大神宮と呼ばれ、別に元伊勢と呼んでいたという。

それでは、佐久奈谷の滝壺から龍門を潜って、どこに行くというのか。竜宮思想は平安時代に伝わったものだが、それがすんなりと受け入れられたのは元々常世思想が普及していた事もある。その常世思想と竜宮思想が結び付いた。伊勢と竜宮だが、「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。」という言葉で表している。常世の「ヨ」とは、生命力を表し豊穣の源泉であるとされている。つまり常世の波が押し寄せる伊勢とは、生命力の溢れる地であるという事だろう。
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しかし、常世とは常夜とも書き表す。常夜の波とは東方の海の彼方から押し寄せる波である。伊勢神宮には天照大神という太陽神が祀られている事から、その太陽が昇る海の光を浴びた波と云うイメージを常世の生命力と結び付ける場合が多い。しかし古今東西、満月の夜に魚が岸に寄って産卵し、狼は夜に狩をした。そして人間は、その狼の狩を満月の夜に垣間見、狼を師として仰いだ。生と死の交錯する夜は、月の光があってこその生命力を感じる時間帯であった。その常世国の伊勢国と同じ様な地がある。それが、日高見国であった。

月が東方から昇る意は何かというと「ヒタ」と云われる。常陸は「ヒタミチ」とされ「ヒタカの道」とされる。「日本書紀(景行天皇二十七年二月)」「東の夷の中に、日高見國有り。」とある。また「常陸国風土記」「この地は、本、日高見国なり」とあるのは、日高見国は、常陸国の東方を差していた。つまり常陸国とは日高見国の入り口の意でもあった。

「古今和歌集」の注釈に「ひさかたとは、月の異名也。此月、天にあるゆへに突きにひかれて、そらをもひさかたのあめと云へり。」とあるが、「久方(ひさかた)」の「かた」は「区切られた所、県・国」を意味する。そして常陸が「ひた+ち」であり、日高見が「ひた+か」の組み合わせであるが「か」は「場所」を意味する事から「ひさかた」も「ひたか」も同じ意である事がわかる。つまり「ひさ」も「ひた」も月の意であった。

長く日高見国は、伊勢国と似た様に太陽が高く差し込み照らす広く平らな国とも解釈されていたが、「ひた」を月の意に変えれば、日高見の「見」は「望む」でもあるので、常世思想の中に月が東の海辺に接する理想的な地という観念が、日高見ではないかとの説がある。つまり日高とは常世であり、常世辺でもあるという事から、日高見国とは、その理想的な常世辺を望む地の意ともなる。となれば、日高見国も伊勢国も、同じ観念上に立つ国であり、その国を包み込む神もまた同じ可能性はある。その日高見国と伊勢国とに共通する神とは、瀬織津比咩しかないではないか。
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とにかく追ってみれば、賀茂の地と琵琶湖畔の大石の地、更に伊勢と二荒山を結び附けている氏族は小野氏であるようだ。ところで常世と似た様な観念に補陀落というものがある。補陀落思想は、仏教色の強くなった二荒山にかかるものだ。その補陀落(ふだらく)が二荒(ふたあら)となった説は、少々苦しいように思える。ここで以前に紹介した歌の一部を、もう一度記そう。

天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根

この歌の中の「み谷 二渡らす」折口信夫「三谷を一渡しし、更にあちらから此方へ今一渡しするだけの畏るべき長大な御身を持たせられる」存在と解している。そして「記紀」においてヤマタノオロチの表現を「蔓延於八丘八谷之間」とするのは、蛇を意味するものだとされている事から、この歌の「み谷 二渡らす」は蛇を意味する事から、恐らく「二荒(ふたら)」とは補陀落では無く、蛇を意味しての命名では無かったか。とにかくこの琵琶湖の地から、賀茂・伊勢・二荒、そして日高見へと繋がるようである。
by dostoev | 2014-11-11 17:42 | 鉄の蛇 | Comments(2)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の四十一

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「太平記」に、俵藤太が小男の案内で湖水の中に入っていく描写がある。

「二人共に湖水の波を分けて水中に入ること五十余町あってひとつの楼門あり」

これを曽我一夫「田原籐太秀郷と龍宮」では、ほぼその距離にあたるのは大石の佐久奈度神社であるとしている。「興福寺官務諜疏」には、天智天皇の代に右大臣中臣金連が"大石佐久那太理神"を勧請したとある。佐久奈谷は、桜谷とも呼ばれる。桜谷の古名は佐久奈谷であって、「タニ」を「タリ」とも云う事から佐久那太理は佐久奈谷であるという解釈は成り立つ。また佐久那太理の「太理」は「垂り」でもあり、滝の落ちる様、もしくは水がなだれ落ちる様を意味する。つまり佐久奈度神社が創建される以前から佐久奈谷には、瀧神が祀られていたのだろう。

佐久奈度神社の旧社殿は水没したらしく、佐久奈度神社は現在の地に移されたようだ。その旧社殿の裏手には、やはり滝があったらしく、それこそ「さくなだりに落ちたぎっていた。」という。そして佐久奈度神社の宮司によれば、その滝壺に近付くと地の底に吸い込まれると云われていたそうな。これは「蜻蛉日記」と同じ伝承が続いていたという事だろう。ただその地の底とは、竜宮であったか、黄泉の国であったか。俵藤太は瀬田唐橋から竜宮へと案内された。その竜宮の水門は、佐久奈度神社の裏手にあった滝壺の底であった。その佐久奈度の滝の伝承が伝わっている。

「建武の頃、一人の僧が断食して佐久奈度の滝で七日間の行をした。満願の日、一匹の白龍が滝の中から現れたかと思うと、瀬田川を琵琶湖の方に向けて昇り始めた。不思議に思った僧は、川の西岸沿いにこれを追跡したが、瀬田唐橋のところで見えなくなった。」
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つまり、図で示せばA地点の瀬田唐橋から瀬田川の下流、赤丸で印をつけている佐久奈度神社までが、俵藤太の行程であり、瀬田唐橋と佐久奈谷が竜宮及び黄泉国の入り口でもあるのだろう。ただ、黄泉国は「古事記」には記されているが、竜宮という名称そのものの初見は、室町時代成立の「御伽草子」であるという。ただ竜宮という名称は、それ以前にも遡れる可能性があるが、せいぜい平安末期ではなかろうか。しかし、狩野敏次「昔話にみる山の霊力」によれば、竜宮という名称以前に、山などの滝や池が水界と繋がっている伝承も見受けられる事から、既に山に進出した安曇族などの海人族が伝えた伝承に、後から竜宮思想が結び付いたのだろう。

その竜宮思想を持ち歩いた一族に、小野氏がいる。小野氏は古代の氏族である和邇氏系であり、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。また、山城国愛宕郡小野郷も支配下にあったと考えられている。先に紹介した賀茂大神が初めに降臨した地には御陰神社が鎮座し、その式内社に小野神社がある事からも、小野氏と賀茂大神の関係も深いのだろう。実際、山城国愛宕郡には出雲郷、賀茂郷、小野郷があり、同じ愛宕郡で同居していたのだ。話は違うが、兵庫県の井関三神社に、瀬織津比咩が祀られているのだが、瀬織津比咩を勧請したハ瀬氏は愛宕郡からの勧請であるとされている。しかし、その愛宕郡からは、瀬織津比咩の名前を見つける事が出来ないでいる。可能性が高いのは、やはり賀茂の関係神社であろうと思われる。何故なら、比叡山の麓に属する愛宕郡だが、その比叡山の西側に賀茂建角身命と玉依姫が降臨している。そして、琵琶湖を挟んで対峙する形に、大ムカデの伝承がある三上山の御上神社がある。その構図を二荒山に対比させた場合、二荒山の大蛇が比叡山に重なるのだ。そして「類聚三代格」での官符に当時、左中弁兼攝津守であった小野朝臣野主が、猿女の養田が山城国小野郷と近江国和邇村にあったので、小野臣と和邇部臣が本来猿女を貢すべき氏でないのに、養田の利を貪って猿女を供給しているが、これはよくないから早くやめさして欲しいと訴えたので、小野臣、和邇臣が猿女を貢するのを廃し、猿女公の女一人を縫殿寮に貢進するように命じたとある。

猿女とは古代、神祇官に属し、祭祀などの時に、神楽の舞などの奉仕をした巫女でもある。つまり、神との間を取り持つ存在でもある事から、二荒山の大蛇を助けた猿丸に近い存在であり、その猿丸は正式に小野猿丸という。「日光神戦譚」によれば、小野猿丸の代わりに登場しているのは、唵佐羅麽女という、赤城の沼の竜神であるという。どうも、小野氏の進出により、本来は唵佐羅麽女であったものが、小野猿丸に書き換えられたという事らしいが、その唵佐羅麽女に重なるのが、御上神社に祀られる息長水依比売であろう。これは後で書き記す事とする。更に付け加えれば、創建は不明で再建が17世紀とされる事からそう古くは無いと思うが、その小野氏の膝元に猿丸神社が建立されている。祭神は、二荒山の大蛇を助けた小野猿丸である事から、二荒山の大蛇の伝承は小野氏が伝えたのは確実であろう。

その小野氏で思い出すのは、小野篁だ。小野篁は、井戸から地獄へと自在に出入りしていたという伝説があるが、その小野氏の本拠地には黄泉国の入り口があり、俵藤太のように出入りできたという伝説もまた小野氏によるものであった。
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ところで、遠野で俵藤太の系譜に属するのは、阿曽沼氏であった。阿曽沼氏は現在の栃木県の阿蘇郡に住んでいて小山氏と名乗っていたが、後に阿曽沼と改正している。その阿曽沼氏であり小山氏だが、先の佐久奈度神社の南東に「小山屋敷」と呼ばれる丘があるという。そこには八幡神社が鎮座しており、天文九年(1540年)の棟札には「時の地頭 小山源左衛門殿」とあるのだと。瀬織津比咩を祀る佐久奈度神社の地頭が阿曽沼氏である事から、遠野での早池峯祭祀にもかなり阿曽沼氏の信仰が入り込んでいると間違いないであろう。前にも記したように、栃木県の阿蘇郡の雨乞いは、二荒の神の本地である中禅寺湖の水を汲んで来る事が絶対であった事から、栃木県の小山氏は二荒の神を信仰していた。そして、佐久奈度神社の地である大石龍門の地を治めていた小山氏は、早池峯の神と同じ佐久奈度神社の神を信仰していたのだろう。ここで、佐久奈度神社・二荒神社・早池峯神社が、大蛇を中心に繋がってくる。しかし、阿曽沼氏が遠野で建立したと伝わる諏訪神社は、大百足退治ではなく大蛇退治の伝説として伝わる。しかしこれは恐らく、後に遠野を統治した南部氏の改竄によるものだと以前、「蛇と百足(諏訪神社縁起の疑問)」では書いた。また別に、遠野の猿丸として旗屋の縫の大蛇退治の話も、二荒山の大蛇伝説の亜流であり、恐らく南部氏の改竄によるものであったのだろう。他にも上郷町の日出神社の蛇神を平伏させている南部氏の伝承もまた、阿曽沼氏の影響を懸念しての改竄であったと考える。恐らく、早池峯に伝わる伝説もまた南部氏による介入によって、かなり変わったのではなかろうか。それ故に「遠野物語」や、遠野市内の各郷土史に伝わる早池峯伝承も疑ってかかる必要があるだろう。

話が脱線したが、今度はこの佐久奈度神社~瀬田唐橋の地が、伊勢へ結び付く事を書こうと思う。
by dostoev | 2014-10-22 20:11 | 鉄の蛇 | Comments(28)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の四十

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琵琶湖を挟んで、比叡山と三上山がある。その三上山には、大百足がいた。その大百足は、瀬田唐橋で水を飲む傍ら、付近を通った女性を襲っていた。ある時、俵藤太は龍姫という女性に、それを退治して欲しいと頼まれた。大百足を退治した後、その龍姫に竜宮へ案内された。これは三井寺に伝わる伝説を簡単に説明したものだが、一般的には下記の様に伝わっている。

近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆する事なく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を七巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取る事が出来たと云う。

これは二荒山と赤城山の大蛇と大百足の話と対比され語られるが、赤城山が三上山に対応するなら、二荒山はどこであろう?これは恐らく、比叡山では無いかと考える。出雲の御陰大神とは、天目一箇神だと前回述べたが、初め賀茂大神は、比叡山西麓の御蔭神社に降臨したと伝わる。その御陰神社の祭神は、賀茂建角身命荒魂と玉依日売命荒魂となっている。比叡山西麓に降臨した賀茂大神はその後、現在の下鴨神社の場所に祀られるが、その下鴨神社の前は御蔭通り。それを突き進むと、瀬田唐橋を渡って御上神社と繋がる。その御上神社の祭神は、天之御影神となる。しかしもう一柱の神が居た。その一柱の神を、息長水依比売と云う。
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御陰繋がりで、かたや比叡山側の御陰神社には、賀茂建角身命と玉依日売命が祀られ、かたや三上山側の御上神社には天之御影と息長水依比売が祀られる。これを、どう捉えるべきであろう。ちなみに、御上神社の名の本来は、御神であろうとされているが、別に水上だとも云われている。つまり三上山も本来は、御神山であり、水上山であったという事。

そして、もう一つ気になるのは、瀬田唐橋が黄泉の国と繋がるという伝説がある事。そして別に、佐久奈谷にもまた黄泉の国と繋がるという伝説がある。「蜻蛉日記」には、佐久奈谷が登場する。訳注には、佐久奈谷とは桜谷の古名であると。「蜻蛉日記」の文中では「いざ、佐久奈谷見には出でむ(さあ、佐久奈谷へ行こう)」と言うと「口引きすごすと聞くぞ(冥土に吸い込まれると聞く。)」と答えるくだりがある。「八雲御抄」によれば「佐久奈谷(桜谷)、是は祓の詞に冥土を伝ふと云へり。」とある。

佐久奈谷には佐久奈度神社が鎮座し、祓戸四神が祀られているのだが、その中の一柱の神は、早池峯の神でもある瀬織津比咩である。ところで曽我一夫「田原籐太秀郷と龍宮」を読むと、何故に遠野に百足退治の話が伝わるのか、何故に二荒山とは別に、琵琶湖に似た様な話が伝わるのか、そして黄泉の国と伊勢とが結び付くという、目から鱗が落ちそうな事が書き記してあった。
by dostoev | 2014-10-21 21:35 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十九

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ところで関東に大きな影響を与えていた二荒山だが、その二荒山の遥拝所でもある太平山には元々天目一箇神が祀られていたという。ところで「我国間記」によれば、豊受大神は天女として丹波経由で伊勢に祀られたとあるが、その丹波一之宮出雲大神宮の御神体は御陰山であり、その祭神は、三穂津彦大神、別名御蔭大神と三穂津比咩が祀られている。

美穂津比咩で思い出すのが、天女の羽衣で有名な静岡県の三保の松原だ。そこには御穂神社があり、祭神は大己貴命と美穂津比咩となっている。実は、丹波一之宮出雲大神宮に祀られる三穂津彦大神とは、大国主でもあるので、この御穂神社の祭神と同じという事になる。また御穂神社の離宮で、羽衣の松の傍らに鎮座する、駿河湾をのぞむ浜辺にある羽車神社という小さな神社がある。祭神はやはり三穂津彦命と三穂津姫命。 由来によれば三穂津彦命・三穂津姫命が羽車に乗って降臨し、羽車神社を経て御穂神社へ向かったという。天女が単体で飛来したとは別に、羽車にのって夫婦神が降臨したとい伝説だ。豊受大神という天女が飛来した丹波の一之宮に祀られる女神が、三保の松原の天女でもある美穂津比咩であるのは、豊受大神と関係があるのか無いのか。しかし、美穂津比咩とは別に、三穂津彦大神である別名御蔭大神が気になる。

御蔭大神を調べると「播磨国風土記 揖保郡」「品太の天皇のみ世、出雲の御陰の大神、枚方の里の神尾山に坐して、毎に行く人を遮へ、半は死に、半は生きけり。」同じ「播磨国風土記 揖保郡」の話で、稻種山で大己貴命と少彦名命名が「彼の山は、稻種を置くべし。」と国造りを行っている最中に、同じ大己貴命が神尾山で通る旅人をを殺していたとは、少々おかしい。そこで御陰大神を調べると、京都の舞鶴に彌伽宜神社があり、祭神が天御影大神、誉田別大神とある。「播磨国風土記」が「品太の天皇のみ世」とあったので、応神天皇である誉田別の時代であった為に一緒に祀られたのだろうか。由緒を見ると、下記の様にあった。

彌伽宜神社は通称大森神社と呼ばれ古来近郷によく知られたお宮でありまして、其の御祭神は天御影命亦の名は天目一箇命 と申し神代において刀、斧等諸道具を造り始められた産業の始祖で、皇孫命に仕えて天孫降臨になった三十二神の内の一神にして、創立年代は今から二千六十余年前即ち人皇十代崇神天皇の御宇十一年丹波道主之命の御親祭のなった延喜式内の御社です。

それでは出雲の御陰大神とは、大国主ではなく天目一箇神なのであろうか?その御陰をキーワードとして調べると、下鴨神社の前は御蔭通りと呼び、初め賀茂大神は比叡山西麓の御蔭神社に降臨したと伝えられる。その下鴨神社前の御陰通りを進むと、三上山の麓に鎮座する御上神社へと辿り着く。祭神は天之御陰大神=天目一箇神である。そして、三上山として有名なのは俵藤太のムカデ退治だ。
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実は、早池峯の麓で代々早池峯大神を祀る家がある。早池峯山を望むある山の中腹にある奥宮には一の権現とし、早池峯大神を祀っている。
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そして、その里宮には早池峯神社と並んで南宮神社が鎮座している。別当の方に聞くと、どちらも早池峯大神に欠かせない神社であるという事だ。その南宮神社は、美濃一之宮の南宮大社からの勧請であると云う。その南宮大社には、やはり金屋子神=天目一箇神が祀られているのだが、そこには何故か平将門伝説も伴っている。先程、御上神社は三上山に関係し、俵藤太のムカデ退治で有名だとしたが、実はその背景に、平将門の乱平定があると云われる。ここまでくれば恐らく、御陰大神を通して琵琶湖、そして二荒山と結び付くのだと思える。
by dostoev | 2014-10-20 18:05 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十八「籠目紋(ダビデの星)の意味」

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住吉大社の様な祭祀形態の六角牛山であるが、六角牛新山宮として建立された六神石神社の神紋は菊紋となる。何故に菊紋なのかはわかってないが、菊紋で思い出すものがある。それは伊勢神宮の石灯篭には、菊紋と籠目紋が刻まれている。籠目紋は、ダビデの星とも呼ばれ、日ソ同祖論を唱える者も多いが、以前に五角形を調べた時、古代の日本では星は丸で表し、尖ったものは魔除けの棘であろうとしている。つまり、それが五芒星であろうが六芒星であろうが、それは星では無く魔除けを意味しているのだろう。

以前、元六神石神社の宮司であった千葉正吾氏が、六角牛とは「むつのうし」と読み「陸奥の牛」を意味するのではないか?と述べていた。確かに「陸奥の牛」は語呂が良いのだが、それでは「陸奥の牛」とは、どういう意味を成すのか?については疑問符が付いたままだった。また神社庁が発行していて、一般には出回っていない書には、六角牛を「おろこしやま」としていた。「お」は「御」である尊称であろうから、「ろこしやま」と呼ぶのが正式なのかと思ったのだが、これは中世以降の読み名であり、山を省けば「ろこし」という意味を成さない山となる。だいたい漢字の「六角牛」とは、いつから始まったのかが皆目見当がつかない。社伝を読む限り、大同年間には既に六角牛となっていたようである。音読みは近世になって広まった読みである事から「ろこし」「ろっこし」もしくは、やはり「むつのうし」と読むのが正しいのだと思える。しかし「角」を「かど」と読んだらどうなるのか?これを六芒星に当て嵌めて考えてみれば、六つの角は「かど」であり「つの」でもある。
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現在の由緒によれば、大同7年に六角牛の頂に薬師如来を祀り、それと共に山麓に不動明王、住吉三神を祀ったとあるが、千葉正吾氏の書による年表によれば、坂上田村麻呂により住吉三神と不動明王が祀られたとしている。ここには薬師如来は入っていない。時代的には仏教色が強い時代である筈なので、不動明王は理解できるが、住吉三神もまた本地で表記されるべきである。

1189年、阿曽沼氏の時代に山頂の祭神を遷奉り六角牛新山宮として六角牛山善応寺を創設し祭事を司掌させたとある。その六角牛山善応寺が後に移転し、現在の六神石神社となっているようだ。その第一殿の本地垂迹の本地は、薬師如来とし、垂迹が天照大神としている。そして、第二殿の本地は大日如来とし、その垂迹が宇佐明神としている。通常、大日如来の垂迹が天照大神とされるか、密教系における本地垂迹は、大日如来が本地とされ、その垂迹が不動明王となる。ただ、第二殿の大日如来を天照大神の御心と解すれば、その垂迹が湍津姫である宇佐明神となるのは理解できる。ただ、薬師如来の垂迹を天照大神とする事は、全国の祭祀を見渡しても有り得ないのだ。また、住吉三神は第三殿に祀られ、その本地が弥陀となるのも解せないところ。そして第四殿には、本地が六角牛新山宮奉号住吉であり、その垂迹が神功皇后となっているのは、住吉神と神功皇后の関係から、住吉神に対する巫女としての神功皇后を祀ったという事か。しかし全体的に、この六角牛山善応寺の本地垂迹の祭祀は、理にかなっておらず、おかしいと言わざる負えない。
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再び、六と言う数字を考えてみよう。以前、二荒山の山頂から発掘されたものに六つ連なったサナギの鈴があった。それは諏訪での祭祀にも使われる、やはり六つ連なるサナギの鈴だ。その六が意味する事は、干支の子から始まって六番目の巳を意味する為に六つ連なる形とされた。つまり、六と言う数字そのものは、蛇を意図しているという事。それを形作れば、六芒星であり、籠目模様であり、亀甲となる。だが、六芒星は古代日本では星と見做さない為に、候補とはされない。残っているものが、籠目紋様か亀甲紋様となる。
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早池峯妙泉寺の末寺であった、土淵の常堅寺の境内の石垣は亀甲の形で組まれている。これが、たまたまなのか、意図的なのかは定かでは無いが、それ以外にも常堅寺には亀を見つける事ができる。陰陽五行において、北には玄武が鎮座している事になる。北に聳える早池峯としての信仰が常堅寺にも伝わっている事から、玄武を意味する亀があったとしても、驚く事ではないだろう。

その玄武とは蛇と亀の結び付きだというのが一般的に知られるが、その玄武は蛇を噛んでいる姿で表すのが正式である。古代中国では、蛇を悪しきものとしていた。疾病という漢字も蛇が体内に入り込んで病気になったという事を意味している。その蛇を噛む亀とは、ある意味魔除けとなるのであった。

また籠とは、龍を竹で囲んで封印したという意味を有する。その籠を竹で編んで、籠目の形を作るのだが、その形が六芒星の様な籠目模様であり、それは魔除けを意味する。つまり、伊勢神宮の灯篭に刻まれている籠目紋様が本来、伊雑宮のものであったというならば、伊雑宮に蛇が封印されている印だと考えても良いだろう。その蛇とは何か?その伊雑宮神職の磯部氏の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱屋姫命の二座が祀られていたが、伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書では、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれる。そして同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある事から、伊雑宮には早池峯山や六角牛山で祀られている瀬織津比咩がいるというのがわかった。
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籠目紋から亀甲部分を抜き取ると、三角形だけが残る。この三角形だけで家紋としているので有名なのは、北条氏である。その北条氏が江ノ島弁財天に子孫繁栄を祈願した時、美女変身した大蛇が神託を告げ、三枚の鱗を残して消えたことに因むというが、三角形は古代から蛇の鱗を意味している。つまり、籠目紋そのものは、亀と蛇の組み合わせであり、北に鎮座する玄武を意味しているのだ。

六という数字が蛇を意味し、その六つの角もまた蛇を意味する。もう一度、伊勢神宮の石灯篭を見れば、菊紋の下に籠目紋が刻まれている。その伊雑宮の鰹木と千木だが、千木は内削ぎで、鰹木は6本の偶数となっている。俗説ではあるが、女神を祀る場合は偶数の内削ぎだと云われるが、その鰹木が6本であるのも蛇神の女神である事を意味しているように思える。実際に祀られている瀬織津比咩が蛇神である事は、今更言うまでもない。

また、その籠目紋が坂上田村麻呂や義経にも関係する鞍馬寺や、籠神社と眞名井神社にあるのも意味深であると思う。これは後で書き記す事としよう。
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この伊勢神宮の別宮である伊雑宮と瀧原宮をまとめて、遥宮(とおのみや)と呼ぶ。伊雑宮もそうだが、瀧原宮にもまた天照大神の荒魂という形で瀬織津比咩が祀られている。つまり、遥宮とは瀬織津比咩を祀る別宮でもあるのだ。これを遠野の地に当て嵌めてみれば、籠目紋を有する伊雑宮を六神石山の六神石神社。そして又一の滝を有する早池峯山と早池峯神社を瀧原宮と考えてみれば、遠野盆地そのものが、伊勢神宮から遥か遠くに祀られた遥宮(遠野宮)とされたのではなかろうかと思える。そして六角が籠目であるのならば、六神石神社の表紋を菊紋とし、裏紋としての籠目紋が六角牛という山の名に隠されたのならば、六角牛山そのものに蛇神である瀬織津比咩が祀られているという事になろう。
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実際に、六神石神社の本殿中央などに、蛇の額が飾られ、まさに六角牛山というものは蛇を祀る山であるという事が理解できる。その蛇神が籠目によって封印されたのが、六角牛という山ではなかろうか。そして六角牛の「牛」とは、やはり星と関係するのだろう。
by dostoev | 2014-10-13 20:32 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十七

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前回、神功皇后の疑問について書いた。その疑問とは、仲哀天皇を祟った神で真っ先に呼ばれた神が、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、その後に呼ばれたのが住吉大神であった。どちらも仲哀天皇を祟った神でありながら、その後に天照大神が登場し、私の荒魂を神功皇后に近付けてはならないとした。つまり、ここでも尚、天照大神の荒魂は祟り神であるという事なのだろうか。しかし、この荒魂を天照大神の御心ともしている。天照大神の御心である筈の荒魂が、神功皇后を祟るとはおかしいではないか。そしてその荒魂から神功皇后を遠ざけようと、天照大神が語ったのであれば、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは天照大神の御心では無く、天照大神とは別人格の一柱の神であらねばならぬ。

天照大神の荒魂は、荒祭宮に祀られる撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であるが、その別名が瀬織津比咩である事はじゅうじゅう承知である。それは以前に、伊勢の祭祀権を奪われた度会氏が内宮に属している荒祭宮を支配していた事から、荒祭宮を中心とし外宮の豊受大神を根源的な御気津神という水神に昇華させて、伊勢神宮全体の支配権をものにした。それは恐らく、単なる御饌都の神であった豊受大神という仮名の神を前面に出し、その裏に隠れる荒祭宮に祀られるアラハバキ姫とも呼ばれる、瀬織津比咩を守る為の手段ではなかったか?とした。それは度会氏にしてみれば、元々の地主神を見捨てて、豊受大神に乗り換える筈が無いという判断からのものであった。何故なら、アラハバキ姫とは大元の神であったからだ。
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似た様な形で、宇佐氏が祀る姫神とは、三角池に潜む龍神であり、それは宇佐氏の聖地である御許山の頂に祀る、大元神である宇佐明神という姫神であった。しかしその後、三輪氏系の大神氏が宇佐に進出し、辛島氏を含めて三氏合同の祭祀が行われ、そこで八幡神が誕生した。八幡神はその後、応神天皇とされ、それに伴い神功皇后みまた祀られている。その八幡神は「ヤハタ」とも読むのだが、豊前・豊後国地方では「ヤハタ・ヤワタ」は蛇神の意味を持ち、大神氏を交えて宇佐八幡神宮とした時に、宇佐氏は竜蛇神の意味をも含めた八幡神とした為に納得したのではなかろうか。宇佐氏にとっての八幡神の本来は、御許山に祀る大元神である竜蛇神であった筈だ。この表向きの八幡神を祀る宇佐氏と、表向きの豊受大神を祀る度会氏がどうも重なって思えてしまう。いや思うというより、大元神が本当にアラハバキ神であるならば、度会氏も宇佐氏も時代の不遇の流れと共に、密かに同じ神を祀っていた事になる。
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「住吉大社神代記」によれば、第一殿から第三殿までは住吉三神が祀られるが、第四殿では神功皇后となっているが、本来は名前不明の姫神であったのを、後に神功皇后としたという。とろで六角牛の祭祀の原初は、住吉三神となっているが、もう一座は不動明王とされているが、その不動明王という名は、あくまでも仏教色を強く出してからのものであろう。その不動明王とは、六角牛山麓の不動の滝に祀られる神であり、その傍に不動の形で鎮座する大岩を不動岩とも呼ぶ事から、六角牛に祀られる不動明王とは、あくまでその神を守る為の脇侍である可能性が高い。その関係はすでに「十一面観音と不動明王、そして瀬織津比咩」で書き記している。つまり不動明王とは、六角牛に祀られた瀬織津比咩の脇侍であり、本来は瀬織津比咩と住吉三神が祀られる形が正式な祭祀であろう。そして、その祭祀形態を「住吉大社神代記」に重ねてみれば、住吉三神と姫神という形が瀬織津比咩になり変わってもおかしくはないだろう。つまり六角牛の祭祀とは、そのまま住吉大社の祭祀形態を当て嵌めたものと思える。ここで気になるキーワードである。
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ここで、遠野三山の一つ石上山が鎮座する綾織の七夕伝説を紹介しよう。
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機織の上手な娘がおり、今まで様々な織物を織ってきたが、天女の羽衣のようなものを織ってみたいと、毎日朝と晩に、神様へ御灯明と御神酒を供え願っていたという。すると二十一日目の晩に牛を連れた貴人が機織娘の前に立ち、こう言った。


「お前の願いを叶えてやる。牛に乗れ。」


貴人は娘を牛に乗せ、高い山の上の大きな石のある処へ連れて行き、そのまま何処かへと行ってしまったそうな。山の上で見る星々はまこと綺麗なもので、手を伸ばせば取れそうだと思わせる程の輝きを見せ、娘はその星々に見とれていたが、急に寂しくなり涙が流れてきたのだと云う。

其の時、夜空に流れ星が沢山流れたと思ったら、下方から牛に機織道具を積ませ、先程の貴人と美しい女性が娘に近付いて来たのだと。そしてまた何処からともなく、まるで昼間の様に周囲を明るく照らす美しい女性が現れた。そして三人で石の上に機織道具を組み立て、機織が始まったのだと云う。

周囲を明るく照らす女性が機を織り、他の二人はその手元となっていてた。織物は東の山の上に太陽が昇ると同時に織り上げられ、その見事な出来栄えに娘は驚きを隠せなかったという。



「この織物は、山桑の葉を食う蚕の糸で織った織物だ。残った糸と共に、

                  お前に全てやるから持って行くが良い。」


娘はふと気付くと、石の上に綾綿と糸があり、先程の三人はどこかへ消え失せてしまっていたそうな。しかし、何処からともなく声が響いてきたのだという。


「わたしは六角牛山の住吉三神の穴の上筒男命で、機織の道具を持って
 来られたお方は石上山の神である伊邪那美命、光を出して機を織られた
 方は、早池峰山の瀬織津比咩である。」

この時から、この機を織った石上山が鎮座する地域を綾織と呼んだと言うことである。そして、六角牛山の御祭神は牽牛星、早池峰山の御祭神は織女星、石上山の御祭神は白鳥で、これから石上神社の御条は旧七月七日となったと云う。
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この伝説には、光を放つ貴人が登場する。それは早池峯に祀られる瀬織津比咩であった。娘の織った機織りは、瀬織津比咩の放つ光の中で織られ、太陽が昇る時に織り上げたという事は、瀬織津比咩が放つ光とは、太陽の光では無く、星の輝きか月光のそれであったのだろう。夜は、魑魅魍魎と神々の時間帯であると云われるのも、本来は太陽の下では神々は姿を表さないものであるからだ。この伝説の登場する神に、瀬織津比咩と住吉神、そして牛が登場している。それは七夕に関する伝説には、織女と牽牛が登場するので当然であろう。その牛が、神功皇后伝説にも登場している。

奈良時代から平安時代に編纂された「備前国風土記」には、神功皇后の乗った船の前に大牛が登場し、舩が転覆しそうになった。その時に住吉神が登場し、その大牛を投げ飛ばしたという話がある。この伝説をどう捉えるかだが、神功皇后と住吉大神は結ばれたという伝承がある以上、これもまた七夕の変化形では無いかと考える。何故なら本来の七夕伝承とは、降雨の祈願に生贄として牛を殺したというものであるからだ。住吉大神によって投げられた大牛とは、犠牲の牛を意味しているのではなかろうか。今では牽牛を、織女と逢瀬を繰り返す相手として確立されているが、実は牽牛とは「牽引された牛」そのものであろうとされている。それはつまり、遠野に伝わるオシラサマの牛バージョンであるのが、七夕の話なのだと考える。また逆に、オシラサマの話も七夕に重ね合わせてできたのではなかろうか。

では牛を殺す雨乞い祈願において、どういう神が必要なのか?それは、雨をもたらす神(竜蛇神)であり、もしくはそれを呼ぶ巫女。そして、牛の死による穢れを祓う為の、穢祓の神であろう。こうしてみると、神功皇后伝説で大牛を投げ飛ばした住吉大神は、牛による穢れを祓ったものとも思える。それは住吉大神もまた、穢祓の神であるからだ。

奇しくも遠野三山において、何故か六角牛山の頂だけで、千駄木が焚かれ雨乞い祈願が行われて来た。それを知らない人々は昔、六角牛山の頂から煙が立ち上るのを見、六角牛山が噴火したと思ったらしい。遠野の町から見ても、遠野三山で一番目立つ山は六角牛山である。その山から煙が立ち上がれば、人々は当然驚いた事であろう。それでは何故、水神である瀬織津比咩を祀る早池峯山で雨乞い祈願が行われなかったのか?ただ、滝壺に牛馬の骨などを投げ入れ、その水を穢して神を怒らせて雨を降らせる方法があったそうだが、それは最終手段であったそうだ。恐らく、又一の滝でも行われたのかもしれない。しかし、早池峯山頂での千駄木だけは聞いた事が無い。それは標高の違いもあったであろうし、また山としての格の問題もあったのではなかろうか。
by dostoev | 2014-10-10 20:22 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十六

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宇佐明神を取り上げたが、ここでもう一度、伝説の寺院六角牛善応寺の祭祀を確認してみよう。「第一殿薬師 第二殿大日 第三殿弥陀 第四殿六角牛新山宮」とあり、神道の垂迹として「第一坐天照大神 第二坐宇佐明神 第三底筒中筒表筒 第四坐神功皇后」

そして、現在の六神石神社に伝わる由緒が下記の通りになっている。
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人皇第51代平城天皇の御代、大同2年(807)時の征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷地平定のため蒼生の心伏を願い神仏の崇拝をすすむ。時に六角牛山頂に薬師如来、山麓に不動明王、住吉三神を祀る。爾来陸奥の国中の衆民、衆団をなして登山参拝あとを絶たず、霊山として山伏の修行者も多く集まる。  

第54代仁明天皇の嘉祥年代(848-851)元住吉といえる地に社殿を建立し、住吉神を遷し奉り住吉太神宮と称す。  山頂の堂宇再三の山火事に被災し、後鳥羽天皇の文治5年(1189)阿曽沼公石洞の地に神地を寄進して神殿を建立。山頂の祭神を遷奉り六角牛新山宮と称し、六角牛山善応寺を創設し祭事を司掌させた。後に住吉太神宮の新座地を川向い(現在の六神石神社の地)に定め奉遷す。  

寛文年中(1661-1673)南部領となるに及び社領95石を寄納される。六角牛新山宮は住吉太神宮に合祀される事となり、享保10年(1725)奉遷。明治5年(1872)青笹村社六神石(ろっこうし)神社と改まる。大正4年(1915)9月、供進神社に指定される。

表筒男命 中筒男命 底筒男命:(住吉三神)  住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神であり神道でもっとも重要な「祓」のことを司る神です。また、住吉大神は海上安全の守護神であり、奈良時代、遣唐使の発遣には、必ず朝廷より住吉大社には奉幣があり、その海上無事を祈りました。(三陸の漁師の人々は、六角牛山を目印に漁をしたと言われ、昔は漁師の人々の参拝も多かったと言われています。) 産業商業・文化・貿易の祖神と仰がれ住吉大神の広大な御神徳はあまねく世に知られています。(家内安全、商売繁盛、交通安全) 息長帶比売命 息長帶比売命(おきながたらしひめのみこと)は、八幡神こと誉田別命を生んだ聖母神も呼ばれ、子孫繁栄のシンボルとして祀られています。そのご神徳は、安産子宝・子育てを中心として、勝運・開運・招福・悪病災難除け・方位除け、無病息災、延命長寿などです。 大己貴命  大己貴命は別の御名を大国主命ともうしあげ、縁結びで知られる出雲大社にお祀りされている神様です。いまも家運隆昌・事業繁栄の福徳の神として崇め祀られています。俗に大己貴命は“だいこくさま”として慕われ御神徳はまことにあらたかであります。                         「六神石神社の記載を抜粋」
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ところで、六神石神社の名は、明治時代の神仏分離の際、既に青笹村の六角牛神社があった為に、読みお同じとしてあてる漢字を「六神石」とした為であり、六角牛も六神石も同じである。その六角牛の祭祀を見れば、総体的に住吉大神を中心にしている事がわかる。その住吉大神だが、宗像大社の伝承によれば「宗像神の子が住吉大神で、住吉大神の子が八幡神(応神天皇)である。」という。

少し違うが田中卓「住吉大社神代記の研究」を読んでると、仲哀天皇の亡くなった晩に、神功皇后と大神は、夫婦の秘め事をしたという。この大神とはどの神を言っているのかわからぬが、その記述は下記の通りとなる。

「この夜に天皇惚に病発りて以て崩りましぬ。『是に皇后、大神と密事あり。』」

ところが「八幡宇佐宮御託宣集」では「住吉縁起」を紹介する中の記述に、大帯姫が敵を破りたいと神に祈ると、住吉大神が出現し神功皇后と結ばれ、その後に八幡が生まれたとされている事から「住吉神代記」に登場し神功皇后と結ばれたのは住吉大神と理解できる。この神功皇后と結ばれた住吉大神とは、武内宿祢の事を意味しているのではというのが一般的見解の様だ。まあ、これはさて置いて、六神石神社の由緒で気になったのは「住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神であり神道でもっとも重要な「祓」のことを司る神です。」という箇所だ。「鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十四」で、恐らく慈覚大師円仁の祭祀法から、遠野にも両宮方式が採用され、早池峯は本宮で、六角牛は外宮とされたのではないかと書いた。現在広く伝わる「大祓祝詞」には、瀬織津比咩の神名か祓戸大神の名で穢祓の祝詞が読まれている事から、大元の穢祓神とは早池峯に祀られる瀬織津比咩であり、住吉大神はそれに準ずるものであるという認識だ。
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ここで思い出したのが、仲哀天皇の死んだ後、その仲哀天皇を祟った神を神功皇后が呼び出し、真っ先に呼ばれた神名が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、住吉大神はその後であった。この順列はまるで「古事記」での伊弉諾が黄泉国から帰還した後に中津瀬で禊祓をした時に、真っ先に登場したのが、大禍津日神、八十禍津日神、別名を瀬織津比咩であり、その後に住吉三神が登場している。これは伊弉諾が死の国である黄泉国から帰還したのという死の匂いを祓う為のものであり、また神功皇后のそれは、仲哀天皇の死の穢れを祓うものでもあったと思える。つまり、神功皇后のした神事とは穢祓であったのだろう。しかし解せないのは、仲哀天皇の死後に住吉大神と結ばれた神功皇后であったが、その後に仲哀天皇を祟った神がやはり住吉大神であったという事。

また別に、神功皇后で解せないのは「日本書紀 神功皇后記」において天照大神が登場し「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。」と述べた事である。荒魂が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事は明白。ここで仲哀天皇を祟った神が、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、住吉大神であるのに、天照大神の荒魂だけを神功皇后から遠ざけようとしているのは何故なのか?だが、先に紹介した六角牛善応寺の祭祀をもう一度確認すれば、宇佐明神が天照大神の荒魂である事から「第一坐天照大神 第二坐宇佐明神 第三底筒中筒表筒 第四坐神功皇后」という祭祀は、それらが全て揃っているのである。中央から遠く離れた東北の遠野という地を考えみ、また遠野の語源の一つと考えられる、伊勢神宮の遥宮(とおのみや)遠野の語源に関わるのであるならば、遠野の六角牛の祭祀こそ、隠蔽すべき祭祀形態では無かったのだろうか。そして「日本書紀 神功皇后記」には興味深い一文が紹介されている。三韓征伐においての新羅王の誓いの言葉に「東にいづる日の、更に西に出づるには非ずは・・・河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)と為るに除ずして…。」と、太陽が昇る東を強調し、西へ向かうのを否定し、星辰(あまつみかほし)になる事を否定している。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは、月が西へと向かう意味であり、更に星辰=天津甕星(あまつみかほし)にならぬとは、天皇に逆らわないという意味である。「河の石の昇りて星辰と為る」とは、天津甕星が竜蛇神であり、それは石から為るという事である。これは「日本書紀纂疏」の「星堕ちて石となる」に対応する言葉である。また以前に甕=厳である事から、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは甕之御魂でもあるとした。つまり、「日本書紀 神功皇后記」において、天照大神が自らの荒魂を神功皇后に近づけては成らないと述べた事は、神功皇后にこそ瀬織津比咩とを結びつける何かがあるのでは思わせてしまうのだ。考えてみれば、瀬織津比咩を祀る早池峯であり六角牛には、宇佐の影響がある。その宇佐には第三殿に神功皇后が祀られ、六角牛にも神功皇后が祀られているのは、宇佐に祀られる宇佐明神と、遠野に祀られる瀬織津比咩との深い関係を意味しているのではなかろうか。それらは最後に大元神であるアラハバキ神の祭祀に関わるのだと思えるのだ。
by dostoev | 2014-10-07 20:09 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十五

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坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後に建立された早池峯神社であるという事から、宇佐明神が遠野に祀られた理由、そして宇佐からの宝剣の奉納とは、やはり宇佐八幡宮としての武力からきているのだと思われる。宇佐八幡神を後に応神天皇と神功皇后を据え置いたのは、三韓征伐を行った武神としてのものだろう。つまり、早池峯山と室根山とは、違った意識の元に瀬織津比咩が勧請されたのではなかろうか。

ところで「東日流外三郡誌」を世に送り出した和田家には、別に「和田文書」というものがある。その中に「北斗抄」というものがある。そこには宇佐の大元神社の事が書かれている。

筑紫の国に宇佐大神大元大神がある。これは出雲大神の遷宮という。出雲の宮はもと荒覇吐神であったが、倭神を入れて現在の場所に移したものであるという。古の風習で残っているのは荒覇吐神に拝する拝礼である、三礼四拍一礼なる荒覇吐神の拝礼に、三礼ではなく二礼をなすほか、四拍一礼は同じである。もとの荒覇吐神は門神として、内宮を外に出して残っている。

「東日流外三郡誌」に並んで、この和田文書も偽書の認定を受けているが、実際に宇佐には、その霊地である御許山に大元神社が鎮座している。鳥居から先は禁足地になっているようで不明だが、それが宇佐家に伝わる文書に記されている。

「神代上第六段の条に見える宇佐嶋の旧跡地と伝えられる御許山の頂上に、太古から宇佐氏族の氏上によって祀られていた比売大神(宇佐明神)を勧請した。この祭神は間違いなく宇佐家の母系祖神であって・・・。」

「和田文書」云々以前に、宇佐の大元の神とは宇佐明神であるという。大元の神とは竜蛇神であるいう事。また、それが早池峯山と六角牛山に勧請された事実だけは揺るぎ無いだろう。

「和田文書」に、宇佐の大神は出雲から遷宮されたというが、宇佐八幡宮の祭祀氏族である宇佐氏、辛島氏、大神氏の三氏族になるが、そのうちの大神氏は三輪氏系である為、出雲系氏族である事から、和田氏はそれを意識して出雲から遷宮されたと書いたのかもしれない。しかし、日本中の神社を見渡せば、天照大神を中心とする天孫系祭神よりも、出雲系の祭神が多く祀られている事実から、「古事記」などに記されている国譲り神話も実は嘘ではないかと疑ってしまう。藤原不比等がその藤原という名の、他の樹木に寄生する藤という存在を意識し、自らは決して表に出ず、天皇を傀儡する事で、その権力を行使したかのように、出雲族もまたその可能性は否定できないのではないか?
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宇佐の伝承を読むと、八幡を「ハチマン」と呼んだのは平安時代に入ってからで、それ以前は「ヤハタ」と呼んでいた。大神氏と妥協した宇佐氏と辛島氏の後に、官幣大社八幡宮が成立するが、何故か三氏族各々が八幡大神の発現伝承を唱え、その時期を欽明天皇の御代の事にしている。その中で、宇佐氏の場合は、下毛郡の三角池の主である龍神を八幡大神としていた。大分大学名誉教授富来氏によれば、三角は巳棲で三角池(みすみいけ)は龍神の棲む池であると。そして、この池の真薦(まこも)が隼人征伐の際の、八幡大神の御神験になったと解いている。つまり、三角池の真薦から御神体を作ったという事か。

その三角池があるのは、薦神社であり別名大貞八幡宮と呼ばれ、全国八幡宮の総本宮「宇佐神宮」と深い関わりを持つ、承和年間(834~848年)創建の由緒ある古社である。社内にある三角池を御神体としており、池を内宮、社殿を外宮と称している。 ところで、豊前豊後地方では、大蛇の事を「ヤータロウ」もしくは「ヤハタロウ」「ヤワタロウ」と呼ぶようである。これを考えみれば、宇佐氏にとっての「八幡(ヤハタ)」とは「龍蛇」を意味するのだろう。

例えば、岩手県花巻市東和町に丹内山神社があるが、その祭神は北東に離れた滝沢神社に顕現した瀬織津比咩であった。それと同じ様に宇佐氏の奉斎する宇佐明神は御許山の大元神社に鎮座するのだろうが、その顕現した姿は三角池の龍神なのだろう。それは、和魂と荒御魂の関係に等しい。和魂とは「ニギル」という言葉に関係し、握るとはその掌によって作られた空間にモノが一杯に満ち溢れる状態を「握る(ニギル)」という言葉の意味となっている。逆に荒御魂は外に顕現した生命であり、姿である。それはつまり、潮満珠と潮涸珠の関係に等しい。
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去年の事だが、宮崎県日南市の鵜戸神宮が、古事記編纂1300年を記念し「古事記」に登場する神宝「潮満珠(しおみつたま)」「潮涸珠(しおふるたま)」を戦後初めて一般公開した。画像の向って右が潮満珠であり、向かって左が潮涸珠である。神功皇后の伝説にも、住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉「潮干珠(しおひるたま)」「潮満珠(しおみつるたま)」があり、名称が若干違うが同じものである。

ここで、画像から潮涸珠の形に注目したい。珠といいながら、潮涸珠の形は円錐形をしている。それは造形から鏡餅にも似ているし、ある意味三輪山の形にも似ている。この三角錐の形の根源とは、蛇のとぐろを巻いた姿を表しているのである。つまり、和魂はその空間が満ち足りている潮満珠に等しく、潮干珠は、荒御魂と同じく外に顕現した生命の形をしている。つまり潮干珠とは、和魂が顕現した蛇と捉えても良いのではなかろうか。何故なら、その潮干珠と潮干珠を自在に操った神功皇后が「日本書紀」において、真っ先に呼んだ神名こそ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、天照大神の荒御魂であった。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、瀬織津比咩の異称である。それはつまり神功皇后が、和魂と荒御魂をも自在に操った存在と捉えて良いのではないか。宇佐氏の奉斎する武神としての八幡大神とは、和魂と荒御魂を一元とした大元の神であるから、それを自在に操る事の出来た神功皇后を、宇佐氏の聖地である小椋山の第三殿に祀ったのでは無かろうか。一般的には応神天皇を祀ったついでに神功皇后が祀られた様に云われているが、本来は宇佐明神の巫女としての扱いであったと想像する。その宇佐氏の聖地である小椋山だが、元々は宇佐氏の比咩神と北辰の神を祀る地であった事から、この宇佐の地でも、龍蛇神と妙見神が繋がって来るのだ。
by dostoev | 2014-10-04 21:00 | 鉄の蛇 | Comments(0)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十四

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早池峯山は何度も語ってきたように、北に鎮座してこその山であった。大迫の早池峯神社が遠野の早池峯神社に向けて建てられているのも方違えの呪法であり、遠野の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を拝む為であった。

奥州藤原氏の初代清衡が、出羽国、陸奥国両国の一万余りの村毎に一ヶ寺を建立したと云われるのは、新山寺であり新山神社だとされている。その新山神社に祀られているのは玉依姫という仮の名であり、本当の神名は瀬織津比咩であり、それは羽黒権現としても祀られていた。その羽黒権現を祀る山形の羽黒神社には、国宝となる平将門が建立したとも云われる五重塔がある。その内部には妙見神が祀られている事から、羽黒修験は北を重視していた事がわかる。

また、早池峯の麓にある又一の滝だが、恐らく太一の滝からの変化したものであると以前に述べた。それは妙見曼荼羅を早池峯に当て嵌めて見た時に、それがありありと理解できるのだ。そしてそれと同じ構造が、室根山にも見て取れた。山頂は天に通じるもので、滝は民に通じるものであった。

平田篤胤「古史伝」では「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺は、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからである。そして妙見では、五と三の数字を重んじる。北極五星は天上の最も尊貴な星とされるのだが、その中でも三星は特に尊い星とされている。その三と五の組み合わせに関する神話が「古事記」に登場する。それは天照大神と素戔嗚尊による誓約の場面だ。そこで三女神と五男神が生れるのだが、その後の扱いを見ても、三女神の扱いを重視しているのは、三女神と三星が結び付くからと考える。その三女神は宗像三女神で、水神である。その宗像三女神の中でも多岐都比売命を祀る中津宮である大島には星の宮があるのを知った。またその大島には星の信仰をしたであろう安倍一族の安倍宗任の墓も存在する。以前、多岐都比売命は瀬織津比咩であると書いたが、星を通してここでも繋がる。とにかく「古事記」に於いても、水神と星神の結び付きが成されていたのである。
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そして「早池峯山妙泉寺文書」によれば、筑紫の宇佐八幡宮から宝剣が伝わっている。

早池峰山大権現之御宝剣ハ 筑紫宇佐住八幡宮息細工スト伝 陰分ニ細工成就スルカ放ニ銘ハ陰光ト打 前代未聞之宝剣ト伝申

右御宝剣妙不思議数度有之由 由来伝ル者也 当時現在之密僧等信シテ可守護者也 拝見之砌者 十七日之間精進潔斎 早且 着浄衣スト  往古ヨリ伝之 猥リニ不可拝見伝々 当時現住未世之僧等謹テ可守護乃也


何故に宇佐八幡宮から宝剣が伝わったのか謎であり、その宝剣が今どこにあるのかも謎である。ただ一番の問題であり驚きは、蝦夷国であった遠野という田舎の地に鎮座する早池峯妙泉寺に宇佐八幡宮から宝剣が伝わっていたという事だろう。

また別に、六角牛山善応寺の由緒が「早池峰山妙泉寺文書」に記されている。六角牛山善応寺とは、かなり以前に廃寺となった伝説の寺院である。そこには住吉四社の本地として 「第一殿薬師 第二殿大日 第三殿弥陀 第四殿六角牛新山宮」とあり、神道の垂迹として「第一坐天照大神 第二坐宇佐明神 第三底筒中筒表筒 第四坐神功皇后」とある。取り敢えずの違和感は、薬師の垂迹に天照大神が坐し、大日如来の垂迹としてあるべきの天照大神の代わりに宇佐明神が坐している。密教系の教義によれば、大日如来の垂迹は不動明王となっている。それが六角牛善応寺よれば、宇佐明神となる。それでは、この宇佐明神とは何であろうか?
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早池峯山妙泉寺であり、早池峯神社の創建が大同元年、六神石神社の創建が大同二年と一年のズレがある。岩手県内には、広きに渡って多くの大同二年創建の神社仏閣があまたの如くあるのも、やはり坂上田村麻呂の蝦夷征伐と呼ばれたものに対応しているのだとは感じていた。当初の寺院の殆どが天台宗の影響を受け、その開祖に慈覚大師円仁が登場している。その円仁の誕生の地は常陸国である事から、その円仁の祭祀傾向を常陸国の祭祀から探して見てみる事にした。

常陸国の「金砂両山大権現縁起」では、主となる祭祀神社は二つあり、東金砂山と西金砂山の神社が一番古い形であるようで、やはり円仁が関わっていた。西金砂山が本宮らしく、創建が大同元年であり、そこには大己貴命であり千手観音が祀られ、東金砂山の創建は大同二年となり、そこには少彦名命であり薬師如来が祀られていた。陸奥国も含め、常陸国でも神社仏閣の創建年代が大同元年、大同二年とするものが多いが、一つの法則があった。

伊勢神宮に本宮と外宮があるように、どうも両宮方式を採用して祀っているようであった。何故に大同の年号が多いのかという理由も、恐らく坂上田村麻呂の功績を神懸りと考え、その神威を付随させる事によって東国の経営にあたったと考えられているのが一般的の様である。その坂上田村麻呂に関係する「清水寺建立記」には、陸奥国在任中の田村麻呂将軍が、大同元年十一月二十七日付の書状で、清水寺に氏寺の建立を願ったとあり、その清水寺の氏寺としての概念に坂上田村麻呂の神威を結び付け、陸奥国に多くの大同元年、二年の神社仏閣が建立された要因であったようだ。これらから早池峯と六角牛に結び付けてみると、本宮と考えられる早池峯には千手観音、もしくは十一面観音が祀られ、別宮であろう六角牛には、薬師如来が祀られたという事だろう。これは天台宗が国家鎮護の思想に則って考えられたもののようで、千手観音&十一面観音の垂迹である、大己貴命と少彦名命をみれば、国家の形成、新たな国造りを願っているのがわかる。

六神石神社には確かに少彦名命の伝承があり、薬師如来が祀られている。早池峯には十一面観音が祀られているが、大己貴命に対応するのは恐らく「遠野物語拾遺126」にも紹介されている、三面大黒の話がそれであろう。大己貴命は大国主の別名と云われ、その大国主は大黒様と重ねられ広まっている。国造りとしての少彦名命であり薬師如来は、薬師としての国の使命であったろう。薬の民俗を調べると薬は単に薬としてでなく、国民の命を護ろうとする国家思想の礎の一つであった。その国家形成の概念が、早池峯と六角牛の里宮に施され、恐らく二重構造として、早池峯山と前薬師と呼ばれる薬師岳に施されたのだと思う。
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ところで、宇佐明神に戻ろう。宇佐明神とは聞きなれない言葉だと思い調べると、「エミシ国の女神」の著者でもある風琳堂氏が自身のブログに、鹿児島の加紫久利神社を紹介する中に、宇佐明神が載っていた。「鹿児島県神社明細書」での加紫久利神社の項に「姫太神」と記され、その姫太神の下に「宇佐明神湍津姫命 胸肩明神田心姫命 厳島明神市杵嶋姫命」とある。

それとは別に、大分県の八津嶋神社の縁起書「影向山八石宮八津嶋大明神縁記」では「第一田心姫。筑紫胸肩神。第二湍津姫命筑紫宇佐嶋神。則是以湍津姫命為当宮降臨本神矣。第三市杵嶋姫命。安藝国厳嶋神也」と。「第二湍津姫命筑紫宇佐嶋神。則是以湍津姫命為当宮降臨本神矣」から、この八津嶋神社には宇佐嶋神として女神である湍津姫が降臨しているという事は、宇佐八幡宮で祀られる姫神とは湍津姫であったのか。

とにかく、宇佐明神が湍津姫であるならば、早池峯神社に奉納された宇佐八幡宮の宝剣と、六角牛に祀られる宇佐明神から、早池峯及び六角牛と宇佐との関係が見えてくる。以前「三女神伝説(多岐都比売命と瀬織津比咩)」において、櫟谷宗像神社の祭祀形態から、湍津姫は瀬織津比咩であると確認した。これらの情報から早池峯神社に祀られる瀬織津比咩という神は、宇佐八幡宮と宗像大社との縁が深い神である事が見えてこよう。何故に早池峯神社に宇佐八幡宮から宝剣が奉納されたのかは、宇佐八幡宮の姫神と同神が祀られていたからと考えれば納得するのだ。そしてそれは一年のズレが生じながら、天台宗の祭祀法に則って六角牛にも祀られた。つまり、早池峯&六角牛には、同じ神である宇佐の姫神であり、宗像の湍津姫である、瀬織津比咩が祀られたのだろう。
by dostoev | 2014-10-03 09:48 | 鉄の蛇 | Comments(3)

鉄の蛇(日高見とアラハバキ)其の三十三

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前に、常陸国には二荒山の影響があると書いた。鹿島神宮の御神体の大甕でさえ、二荒山からのものであった。その二荒山だが、下山衣文「古代日光紀行」では、男体山山頂遺跡から鉄鐸131個が出土しているという。この鉄鐸は「サナギの鈴」とも呼ばれ、「佐奈伎鐸」とも書き記す。

サナギとは「小蛇」の意であるようだ。「ナギ」は蛇の古語であり、イザナギ神もまた蛇であった。イザナギ、イザナミは「凪」と「波」を意味し、それがクネクネとうねる様が蛇の動きを彷彿させる事から来ている。そして、この「サナギの鈴」は、音響を以て神意を伝える重要な神呪のアイテムであるという。上の動画の様に、蛇は怒る時、その尾を振動させて、その振動する尾が振れるもの次第で、響きが変わる。その蛇の出す音を意識されて作られたのが、サナギの鈴ではないかと云われる。大抵の場合、サナギの鈴は6つ連なるのは、十二支の子から始まって6番目が巳である事から、蛇を意識して6つのサナギの鈴をつけるのだと云う。

古代では、蚕の守り神が蛇とされたのは蚕の繭玉を「竜精」と称し、竜蛇の子供でもあったからだ。その蚕は蛹(サナギ)でもあり、サナギの鈴の名称であり、その造形は蛹にも通じる。岩手県の浪分神社の祭神が瀬織津比咩であり、養蚕の守り神でもあるのは、瀬織津比咩が竜蛇神であるからだ。

そして再び「ナギ」だが、それはウナギにも通じ、ウネウネとうねる様は、蛇でもありウナギもまた同属とされた。そのウナギは栃木県に多く祀られる星宮神社に祀られる神の眷属とされるが、本来は蛇であったのだろう。何故なら、星宮神社は二荒山の影響を受けて建立されたからだ。蛇を祀る二荒山の神威は、栃木県や茨城県に影響を与え、そのサナギの鈴繋がりから諏訪との関係も深く関わる。その二荒山の蛇とは、以前に書いた通り、滝尾神社の祭神である田心姫に繋がるのだが、実は田心姫ではなく瀬織津比咩となるのは、過去に記した。
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もう一度、鹿島神宮へ戻ろう。鹿島神宮の御神体は、海中に沈む大甕であり、その甕とは蛇を入れる器である。それは出雲地方に伝わる習俗から見出せる。例えば出雲では、白蛇を甕に入れ初穂を供えて家の守護神としていたなどと、蛇を飼っていたようである。ただ飼うと言ってもペットとは違う。その甕に大元神である蛇の霊威を閉じ込めておくという事である。それを鹿島神宮に当て嵌めれば、二荒山の蛇を封じ込めたのが鹿島神宮である事になる。本殿に祀られる武甕槌より先に、花房社に祀られる蛇神を参拝しなければならないのは、その蛇神の霊異を鎮める為であろう。また鹿島神宮には、要石がある。地面下に潜むナマズを抑える為だとあるが、実際は龍脈を抑えるのが要石の役割である。つまり鹿島神宮の役割とは、竜蛇神を抑え封じ込める役割として建立された神社であると想定される。その一つは二荒の蛇神であり、もう一つは実は蛇神であった静神社の神であり、穢祓の意味を持つ「カカセオ」という名の蛇神。それは、滝尾神社と同じ瀬織津比咩であった。
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小野神社というものがある。一番有名なのは、武蔵国一宮の小野神社で、祭神は瀬織津比咩である。その小野神社の御札が、上の画像となる。青は水を表し、赤は火を表す。太一陰陽五行に則れば、陰陽の水と火は、太一において一元となる。その両方を兼ね備えた形で瀬織津比咩の御札があるというのは意味深であろう。そして、その小野神社は多摩においてはアラハバキ神を祀り、塩尻の小野神社では建御名方神を祀っている。また、町田の小野神社は小野篁を祀っているが、小野篁は冥界を自由に出入りした人間であり、それはつまり地下を移動するのは、諏訪の蛇となった甲賀三郎に通じる。

全国の小野という地名の殆どは、小野氏から発祥していると云われる。諏訪大社との関係の深い、塩尻の小野神社は不明であるが、恐らく小野氏との関連が見いだせるのではなかろうか。何故なら、列挙した小野神社の祭神は、瀬織津比咩であり、アラハバキ神であり、建御名方神という事は、大元神が竜蛇神である事から、全て関連してくるのだ。その竜蛇神である大元神だが、それが早池峯神社に関わるのは、大分県の宇佐神宮に関わってくる。次は、宇佐神宮へと飛ぶ事にしよう。
by dostoev | 2014-10-02 17:18 | 鉄の蛇 | Comments(0)