遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野小学校トイレの花子さん
遠野小学校松川姫の怪
遠野小学校の座敷ワラシ
菊池氏考
佐々木氏考
クワガタと遠野の自然
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
六角牛考
七つ森考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
遠野七観音考
鯰と地震
三女神伝説考
早池峯信仰圏
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
勾玉の女神
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
母子信仰と速佐須良比賣
七夕と白鳥
来内の違和感
瀬織津比咩(イタリア便り)
水神と日の御子
年越しの祓の女神
「七瀬と八瀬」
鉄の蛇
荒御魂
閉伊氏の正体
早瀬川と白幡神社
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
宮  古  物  語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
外部リンク
最新のコメント
カエルのような両生類と考..
by dostoev at 04:56
河童は冬眠しないのでしょ..
by 森のどんぐり屋 at 14:34
安来市と比べ、神代の歴史..
by dostoev at 09:42
 島根県の安来市あたりも..
by 名古屋特殊鋼流通倶楽部 at 13:57
いくつかの梨木平を見てき..
by dostoev at 18:39
梨木といえば、昔話の「な..
by 鬼喜來のさっと at 22:09
遠野まで来たら、キュウリ..
by dostoev at 07:06
河童はおる。わしが河童じゃ!
by 竜桜 at 20:55
観念や概念は、各民族によ..
by dostoev at 20:45
以前コメント欄にお邪魔し..
by 河童ハゲ at 18:12
最新のトラックバック
ライフログ
検索
人気ジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:「七瀬と八瀬」( 4 )

瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の四

f0075075_1573687.jpg

大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に、遠野を統治した阿曽沼が通ったという長谷寺がある。本尊は十一面観音で、開基は僧の道明とされる日本でも有数の観音霊場として広く知れ渡っている。何故に長谷寺と呼ぶかについては、現在初瀬山と呼ばれたものは、かつて泊瀬と表記されていたが、その泊瀬山からの谷は長い谷だったので「長谷(ながたに)の泊瀬」と呼ばれていたものが、長谷という枕詞の方が主となり、長谷を「はつせ→はせ」と読むようになったという。

ところで泊瀬はというと、地名からは「初めの瀬」だから初瀬(泊瀬)という簡単な意味もあるが、泊瀬山を蛇に見立て「蛇つ背(はつせ=蛇の背)」であるとか、初瀬川を蛇に見立て「蛇つ瀬」ともされている。しかし、泊瀬の枕詞である「隠國の」は、この地が神祀りの地=葬送の地であった事を意味するとも云われる。かつて竃が非業の死を遂げた者を祀るとされ、宮城県の塩竈神社に祀られる神が誰か?と書き、九頭竜を祀る戸隠神社もまた、天照大神の隠れた天岩戸の岩戸を天手力男神の手によって、九頭龍は隠されてしまった。その様に、この「隠國の泊瀬」もまた、同じ様な雰囲気を漂わせている。

その泊瀬の地は、雄略天皇時代に長谷朝倉宮が置かれたとされ、天武天皇の代には長谷斎宮が置かれたとされるが、その天武天皇の病気平癒を願って長谷寺が建立されたともされている。それほど重要な地が泊瀬であったようである。その長谷寺に奥の院と称する瀧蔵神社というものがある。古来より信仰が深い神社で「長谷寺へ参詣しても当社(瀧蔵神社)へ参詣しなければ御利益は半減する。」と云われている。
f0075075_15582213.jpg

その瀧蔵神社の祭神は伊弉諾、伊弉弥、速玉尊の三柱が祀られているが、その祀られた時期は不明とされている。ただ元々は瀧蔵神という地主神が主神であったようだ。この瀧蔵神社は「今昔物語」「瀧蔵礼堂倒数人死語第四十二」に登場している。瀧蔵の礼堂が地震で崩落し多くの死者が出たが、神と観音の加護を得て助かったとあるが、この時点で長谷寺の十一面観音だけでなく、瀧蔵神の力の権威も伝わっていたという事だろう。

鎌倉時代の編纂された「長谷寺験記」によれば、菅原道真が泊瀬の地に現れ、地主神であった瀧蔵神から社地を譲られ鎮座し与喜天満宮となったそうだ。

「我昔ヨリ此山ノ地主トシテ此河上ニ住キ。…我静ニ本居山ニ隠遁シテ遠ク此伽藍ヲ守リ、大聖値遇シ奉ント思。願ハ此山ヲ以てテ君天満天神に譲奉ル。」

今では天神様といえば菅原道真となるのだが、真壁俊信「天神信仰の基礎的研究」を読むと、その道真が非業の死を遂げたのが延喜三年(903年)であり、そのすぐ後に「菅家伝」が編纂され「あらひと神」として、全国の天神社に菅原道真が広まって行ったようだ。その影には比叡山延暦寺、つまり天台宗の後押しがあったようである。人が神として祀られる場合の大抵は、怨みを抱いて死んだかどうかであり、菅原道真は落雷と云う偶然が重なり、その生々しい怨みの現象が「あらひと神」として、今までの天神を追い払い、新たな天神として鎮座したのであった。これはつまり、今まで天神として祀られていた神々が、仏教である天台宗によって祭神の変更が成されていったという事だろう。それが現代となっても、菅原道真の座は揺るぎそうにない。

更に「長谷寺験記」には瀧蔵権現の化身は女となっている。白介という男が観音の使いである童子の教えに従い、最初に出逢った女性を妻とし長谷寺を建立したのだが、その9年後に本尊である十一面観音の左手が忽然と消えた夜半に「是長谷山ノ地主瀧蔵権現也。」と正体を明かす。

これとは別に「長谷寺密奏記」には、泊瀬の五神が鎮座しているとされている。その神々は、天照大神、天児屋、太玉、手力雄、豊秋津姫となっているが、その中の天手力雄神は、長谷寺への参道から北側の狭い路地を入ると、初瀬川にかかる朱塗りの橋があり、その橋を渡ると天手力雄神が祀られる長谷山口坐神社があるという。その長谷山口坐神社は山口の水の神とし、また祈雨の神として朝廷から深い崇敬を受けた神社で、それが瀧蔵神が菅原道真に場所を明け渡した与喜天満宮でもある(玄松子の記憶より)。その天手力雄神の鎮座した理由は、天照大神の勅命を受けてのものだった。それは「長谷寺験記 序文」に記されている。

天照太神宝石ノ瑞光ヲ御覧ジテ天手力雄ノ神ニ勅シテノタマハク。「此ノ山ハ我ガ本有相応ノ地…我山ヲ崇メムト共ニ此山を治シテ君臣ヲ守リ国土ヲ治セヨ」ト云。則天手力雄ノ命、深ク神勅受テ永ク此山ニ住シ、鎮護国家ノ崇神トシテ天照大神ノ冥慮ヲ本願上人ニ告ゲ、伽藍ヲ立ツ。
f0075075_1845992.jpg

ここでの天手力雄神は、まるで戸隠神社のそれと似通っている。天手力雄神を祀る神社は、全国にそう多くは無い。その天手力雄神の役割とは、戸隠神社と同じように国津龍である九頭龍を、天手力雄神の持つ力で封印しているかのようである。となれば、遠野の領主であった阿曽沼は、「九頭竜信仰と遠野と早池峰の神」書いたように長谷観音を参詣した後に戸隠神社に参詣しているという事は、天神でもあり、瀧蔵神としての地主神は戸隠神社と関連があるのかと思われる。長谷寺には、瀧蔵権現を本社として本堂脇に地蔵・虚空菩薩・薬師が祀られており、それを新宮三社というが、江戸時代の僧である隆慶「豊山伝通記」には、こう記されている。

「此神三社アリ。第一殿新宮権現。第二殿瀧蔵権現。第三殿石蔵権現。曰総名瀧蔵権現。日本記等無載此神。」

この「日本記等無載此神」という意味は「記紀」に載っていない神名であるという事だ。ここで「古事記」「日本書紀」などを引き合いに出し、瀧蔵権現の本当の神名を意図している。現在、瀧蔵神社に祀られる祭神は、先に紹介したように伊弉諾、伊弉弥、速玉尊の三柱となっており、過去の縁起から登場する神名を拾ってみても「記紀」に全て載っている神名しか登場していない。瀧蔵神は女神であるが、長谷観音である十一面観音と表裏一体であり、名の示す通り滝神でもあり、山口の水の神とし、また祈雨の神である瀧蔵神の本当の名は?…導き出される神名は瀬織津比咩でしかないだろう。

遠野を統治した阿曽沼氏の参詣は、長谷観音→戸隠神社→熊野本宮であった。既に熊野の那智の滝に坐すのは、養老年間の記録から熊野から運ばれてきた熊野神であり那智の瀧神であった瀬織津比咩であった事はわかっている。つまり、阿曽沼氏は遠野を統治するにあたって、その遠野の地主神である瀬織津比咩を崇める為、いや鎮める為の手段を学ぶものであったのだろう。
f0075075_19333690.jpg

ところで諸説様々な「泊瀬・長谷・初瀬・八瀬」だが、全て「はつせ」と読む。「長谷寺縁起文」には、その「はつせ」の意味が記されてあった。

「天人所造之毘沙門天王。古人喚為 天霊神。雷取登 空之時、御手宝塔流而泊 此山麓三神里神河瀬。」

つまり、天人所蔵の毘沙門天像を雷神が奪って空に昇る時、手から落ちた宝塔が流れ留まった故から「泊瀬」といい、その場所は「神河瀬」であるという。

中野美代子「仙界とポルノグラフィー」で、9世紀唐末の「西陽雑爼」には「龍の頭上には博山の形をしたものが一つあり、尺木と名付ける。龍は、尺木が無ければ天に昇る事が出来ない。」と記されている。それはつまり、龍が天に昇る時は依代が必要であるという事らしい。それは神の宿った樹木であるのだが、「長谷寺縁起文」に登場し依代となったのは神の憑依した樹木で造られた毘沙門天像である。陰陽の和合を示せば、毘沙門天の妻であるとされたのは、蛇神とも結びつけられるラクシュミー(蓮女)である吉祥天女であろう。恐らく雷神となった吉祥天女が夫である毘沙門天を抱いて天に昇ったと云う意味を持っているものと考える。

遠野に伝わる三女神伝説には蓮華が登場し、それを手にした女神は早池峯の女神である水神でもある瀬織津比咩となる。その瀬織津比咩は、養老年間に国家鎮護の為に、熊野から運ばれてきた。そしてまた、国家鎮護の為に坂上田村麻呂によって運ばれて来たのが毘沙門天であった。この瀬織津比咩と毘沙門天の力によってか、蝦夷国は平定されたのだった。そして泊瀬の地での龍が天に昇る為の依代となる樹木とは、神が宿った樹木から彫られた長谷観音像であろう。それ故に「今昔物語」で、長谷観音と瀧蔵神が表裏一体の様に語られたのだろう。

つまり「はつせ」とは「神の鎮座する河瀬の意味」であり、愛宕郡の北斗七星が降った霊山である比叡山の麓の八瀬は本来「はつせ」であったのは、その地が「神の河瀬」であったからだろう。八瀬に祀られる天満宮に祀られる祭神は、菅原道真以前は、純粋な雷神であり水神である瀬織津比咩では無かったろうか?兵庫県の井関三神社に祀られる瀬織津比咩は八瀬村出身の八瀬氏が、菅原道真が祀られる以前の天満宮から瀬織津比咩を分霊したものでは無かったのかと思えるのだ。
by dostoev | 2013-10-13 20:18 | 「七瀬と八瀬」 | Comments(0)

瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の三

f0075075_6154734.jpg

【画像は淀川】

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
 
玉敷きの都の内に、棟を並べ、いらかを争へる、高き、卑しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは、こぞ焼けて、ことし造れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり、残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

                                    「方丈記 序文」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長谷観音へ行こうと思ったが、少々寄り道を。上記は有名な「方丈記 序文」で、これは水の流れを人の動きに捉えての文章というのは広く知られている事。先に京都は水の都であり、水の霊力に頼ったのではないかと書いたが、人の流れは水の流れでもあると考えれば、京都には別の呪力が施されている可能性があるのかもしれない。

実は、平安時代後期の「大鏡」には、こういう一節がある。

「小一条の南、勘解由の小路には石だゝみをぞせられたりしが、まだ侍ぞかし。宗像の明神おはしませば、洞院小代の辻子よりおりさせ給しに、あめなどのふるひのれうとぞうけたまはりし。凡そその一町は人まかりありかざりき。」

洞院は東洞院の略で、南北に通じる路らしい。小代は、小代小路で、ともかく平安京に巡っている小路や辻に宗像明神がいるという事となっている。洞院小代の辻子は、東洞院大路と小代小路とを結ぶ東西の通路で「延喜式」の規定にない小路であり、宗像の神を祀る為に開かれたとされている。その宗像明神は「三大実録」によれば、貞観元年(859年)に筑前国から勧請されたようだ。平安京が造られてから、65年後の事となる。平安京の路は碁盤目の様になっており、これもまた京都全体に広がる川のようである。その川の様な平安京の内部に、水神である宗像神が祀られている。

この宗像神は「平安通志」によれば「皇居御内ニアリ、田心姫、湍津姫、市杵嶋姫命を祀ル、此地古昔小一條ト云フ、初藤原冬嗣宗像ノ教ニヨツテ此ニ居リ、社ヲ建テ祀ル、小一條宗像是ナリ」

この神社は筑紫より勧請され現在、京都御苑内の南西の林中にあると云うが「花山院家記」には、こう記されている。

「此所往古之霊地遷都以前之旧第也聖徳太子摂政之時衆星飛降現千霊石上其後有宗像大神之告閑院左大臣冬嗣公居干此」

つまり、この宗像大神を祀る地は、遷都以前から星が降って神霊が宿っている地であるという。元々神霊が宿る地に、後から宗像神を勧請したという事。遷都以前に星が降ったと云う地は、他に比叡山がある。恐らく時代的に、降った星とは北斗であり、北辰、つまり妙見神であったろう。そこに水神としての宗像神を勧請したのだが、それはつまり、星が降った地の神霊と水神である宗像の神との繋がりがあったからに違いないだろう。

また同じ時期に、桂川沿いに櫟谷宗像神社が勧請されているが、この櫟谷宗像神社には田心姫と市杵嶋姫命の二柱の神だけの勧請で、もう一柱の神は、渡月橋側にある大井神社で、この大井神社の神を含めて宗像三女神となると、櫟谷宗像神社の社伝にあるのだが、大井神社に祀られている神は、湍津姫では無くて八十禍津日神の分割神であり、つまりその正体は瀬織津比咩であった事。この水神である瀬織津比咩は遠野においては妙見神と結び付けられる事から、恐らく京都御苑の星が降臨した地に鎮座していた元々の神とは、瀬織津比咩では無かったろうか?

そうであるならば、天智天皇時代に琵琶湖の佐久奈谷に鎮座していた桜明神と呼ばれた瀬織津比咩が、その水の穢祓の能力から天智天皇時代に佐久奈度神社を創建し、「大祓祝詞」が造られ、橋姫神社に分霊され、そして水の穢祓の力によって、京都から宇治川経由で合流した淀川を伝い、摂津にまで七瀬の祓所が制定された。そして今度は、遷都された平安京に、水の流れを人の流れに見立てて、その穢祓の霊力を施そうとしたのではなかろうか?(続く)
by dostoev | 2013-10-12 13:06 | 「七瀬と八瀬」 | Comments(0)

瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の二

f0075075_4331761.jpg

万葉集で「たぎつ瀬」と表現された宇治川は、瀬田川→宇治川→淀川と名前を変えて大阪湾へと流れ込んでいる。そしてこの琵琶湖を水源とする宇治川であり淀川の支流の数は、日本一という事だ。つまり、京都を含める近畿地方は、この水系が毛細血管のように張り巡らされている。

「古事記」を読むと、伊弉諾と伊弉弥は日本列島である島々を生んだ後に、その島々を水で巡らせるかの様に、海神を生み、いくつもの水神を生み出している。これはつまり、日本列島の島々の禊を意味しているのではないだろうか。禊の原型は海水に浸る事から始まったようだが、どちらにしろ水の霊力に頼っての禊祓である。つまり、人が住む為に、その地を浄化するという意味で、誕生した日本列島を水で取り囲んだと考えて良いかもしれない。

この宇治川水系を含む京都は、794年の桓武天皇時代に山背国、葛野・愛宕両郡の地に、唐の都長安に見倣い造られた平安京という帝都であった。その平安京は、夢枕獏「陰陽師」「四神相応の都」として一躍有名になったが、田中貴子「安倍晴明の一千年」によれば、「四神相応」という熟語自体は12世紀になって造園法の「作庭記」によって記されているのが最初であるという事だ。田中貴子はその代り「伊勢物語」の注釈書である「和歌知顕集」を紹介している。

「この所聞きしよりは、見るはまさりたりければ、賀茂大明神を鎮守として、我が王法のすゑたへざらんかぎりは、末代にもこの宮こをほかへうつすべからず、と御心に祈請しつつ、土にて八尺の人かたを造りて、くろがねをもて鎧をし、ひをどして着せつつ、あしげなる馬の大なるに乗せて、王城を長く守護せよとて、東山阿弥陀が峰といふ所に、西に向かへて高く埋ませ給てけり。天下にわづらひあらんとては、かの塚、今も騒ぎはべるなり。」

つまり平安京は、賀茂大明神を土地の守りとしているという事。宇治川は確かに現在、京都府を流れるものの、平安京当時は属していない。ただ、桂川・賀茂川・宇治川が合流し淀川となっている為、その川の繋がりを意識した場合、一大水脈が京都全体を覆っているのがわかる。そう京都は、水の都と言っても良いのだろう。その平安京を守る賀茂は、八瀬のある愛宕(おたぎ)郡に属している。

「山城国風土記逸文」に、下記の話が伝えられている。

「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢川上より流れ下りき。乃ち取りて床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を堅て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七晩夜楽遊したまひて…。」とある。

この文には、七と八という数字が綴られている。七も八も聖なる数字であり、七は世界的にも聖なる数字となっており、日本国においては「神世七代で始まる国(日本書紀)」とされている。八は多いという意味を有し、つまり「山城国風土記逸文」には八を散りばめた神世の宴が繰り広げられている様を表している。
f0075075_5373999.jpg

また七といえば、平安京は長安の都に倣って築かれた帝都であるが、中野美代子「仙界とポルノグラフィー」によれば、その長安には北斗七星の呪術が施されていると云う。陰陽五行においての北斗は北であり、水を意味する。京都では死者を葬る時、七曜星形に並べた七個の丸い餅を七段、合計49個積んで供える風習が未だに残っているのは、京都には北斗七星を含んだ妙見信仰が根付いているという事ではなかろうか。北斗は死を司ると云われ、それに関連する七と云う数字は不吉な数字にもなる。仏事における七という数字は、初七日に始まり7×7=49として、四十九日の法要があり、7回忌、17回忌、27回忌など、7と云う数字を絡め、非常に死の匂いを感じる。

福永光司「道教と古代日本」での一節に「宇宙の最高神・天皇大帝である唯一絶対性の故に同一視され、この天皇大帝の住む天上世界の宮殿が紫宮もしくは紫微宮(紫宸殿)と呼ばれるに至る。」とある。上記の画像「妙見曼陀羅」を見ると中心に紫微宮がおかれ、それが下界と接するのが瀧であり水であり、水の女神のようである。それは延暦15年(796年)に桓武天皇が大衆が北辰を祀る事を禁じた勅令を見ても、いかに桓武天皇が妙見を信仰していたかわかるのである。

平安京は葛野郡と愛宕郡の地に築かれた帝都であるが、先に紹介した八瀬は愛宕郡にある。愛宕郡の八瀬は比叡山の麓と成る。その比叡山は「歓心寺縁起実録帳」によれば"北斗七星降臨の霊山"とて伝わり、恐らく桓武天皇はその比叡山を意識して、都を築いたのだろう。

九州における妙見とは、水神である。妙見曼陀羅を見てもわかる通り、妙見と水とは切っても切れない縁となっている。七は死の匂いがするとは書いたが、平安京を築いた桓武天皇は「近江大津の宮において制定された永遠不変の律令に従って万機を総攪する。」と宣言している。近江大津宮とは、父である天智天皇の築いた、未だ謎の都である。律令に従うとしているのは、その父である天智天皇の法体系を継承するという意味であり、恐らく桓武天皇は律令だけでなく、天智天皇の信仰の意識をも受け継いだのであると考える。何故なら、天智天皇時代に作られたのは「大祓祝詞」であり、その祝詞には天津罪、国津罪という、あらゆる罪に対する事が記されている。それを水の力によって流す、つまり罪や穢れを浄化しようという考えをも継承したのだと考える。

比叡山の麓の八瀬は、かって七瀬と呼ばれていた。七瀬が、いつの間にか数多い瀬を意味して八瀬となったとする説もあるが、その変遷の過程は曖昧であると思う。ただ七も八も、先に記した様に聖なる数字となる。七は妙見などの星に繋がり、八は多くの神々に繋がる。考えようによっては、七を以て八を支配するとも考えられる。その八瀬には天満宮が祀られているが、その創建は「洛北誌」によれば、道真公が幼少の頃であると云う。つまり菅原道真が怨霊になる以前であると云う。考えてみれば、今でこそ天満宮とは菅原道真の代名詞となるのだが、要は天満宮とは天神を祀るものである。後に菅原道真が天神として祀られたに過ぎないのだ。

それでは次は「瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の一」で紹介した長谷寺に戻って、泊瀬=八瀬の意味と天神などについて言及し終としよう。(続く)
by dostoev | 2013-10-11 06:34 | 「七瀬と八瀬」 | Comments(0)

瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の一

f0075075_1611060.jpg

森は、  

  殖槻の森。石田の森。木枯の森。

       転寝の森。磐瀬の森。大荒木の森。

          たれその森。くるべきの森。

立ち聞きの森。ようたての森といふが耳にとまるこそ、あやしけれ。
森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、なにみ゛とにつけけむ。

                   「枕草子(第百九十三段)」

f0075075_163367.jpg

「枕草子」では、何度か泊瀬詣でをしている中、その時の印象を綴ったのが、この「第百九十三段」となる。泊瀬大化の改新以降、更に盛んになった寺院建設の中、山や森の木が伐採され、森であった場所が名ばかりになったのを嘆いた清少納言の記述であった。

伐採禁止令の最古の記録は「日本書紀」天武天皇5年「勅すらく、「南淵山・細川山を禁めて、並に蒭薪ること莫れ。叉畿内の山野の、元より禁むる所の限りに、妄に焼き折ること莫れ」とのたまふ。(676年五月)」とある。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされている。天武天皇の伐採禁止令は、一部の地域であったが、その後も、伐採が広がった為に土砂崩れが頻繁に起き、この災害は木を伐採した為だと理解した朝廷は、山の樹木の伐採禁止令を発布した。
f0075075_1729121.jpg

長谷寺縁起に見られる図には、まだ観音堂が建てられる以前の様子と、観音堂が建立されて後の図の両方がある。長谷寺の開山は伝説の域を出ないようだが、清少納言の生きていた時代には既に長谷寺は建っていた。この図には、山には神霊が溢れ、その泊瀬山の木を伐って十一面観音が彫られようとする様が描かれている。
f0075075_17325117.jpg

長谷寺が山の頂に建立されると、山々に溢れていた神霊は影を潜め、長谷寺の周りには以前こんもりとした緑の山だったものが、ボコボコの岩山に変わっているように見える。これは開山に伴って、山の樹木を伐採した影響を描いているものだろう。樹木には神が宿るとされた古代、その樹木が伐採され、観音像などに変わった時から、神は仏に納められたのであろう。仏教が布教され始めてから、こう説かれた「この樹木には神が宿る。その神が宿った樹木から仏様を掘り上げるというのは、神と仏が一体である。」と。
f0075075_18595994.jpg

ところで、兵庫県の井関三神社に、瀬織津比咩が祀られている。当初は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊祀られていたが、後から中垣内の庄屋八瀬氏により、弘治元年(1555年)山城国京都より勧請合祀。そま八瀬氏の足跡は、京都府愛宕郡八瀬村に辿り着く。京都より勧請された瀬織津比咩は、どこから来たのだろうか?上記の地図を見ればわかるように八瀬村は比叡山に隣接する小さな村だ。「洛北誌(旧京都府府愛宕郡村志)」で八瀬村を見ると、神社は一つしか紹介されていない。それは天満宮社で、他にも境内社がいくつかあるだけだが、そこに瀬織津比咩の名前を見付ける事が出来ない。

ところで八瀬は「やつせ」と読むが、別に「はつせ」とも読むらしい。この地名の成り立ちは八瀬川があり、八つの瀬から来ているか、それとも八は数多き意であるからか、それとも「八」は「いや」の義であるから云々とあるが、実はそれ以前は「七瀬」と呼ばれていたようである。

また気になるのは、徳川綱吉時代に日光からの願により「山門結界之儀」を定めたと云う。それは「女人牛馬令往来、浄界就及汚濁、依日光准后御願…一切不可入」とあり、これによって山に入って薪などを刈取り商売にしていた八瀬村の村民は仕事を失う事になった。これは境争いから端を発したようであるが、何故に日光准后が口を挟んで来たのかは理由が記されていない。ただこれによって、八瀬村から比叡山にかける山は、不浄を嫌う山となった。
f0075075_2054112.jpg

琵琶湖を水源とする宇治川を中心に広がる「大七瀬祓所」は、琵琶湖畔の佐久奈谷から始まった。佐久奈谷は桜谷であり、天智天皇以前に桜明神と云われた瀬織津比咩が祀られていた。琵琶湖の大津に都を構えた天智天皇時代に、水による祓の力が推奨されたのか、天智天皇の命を受け中臣氏が「大祓祝詞」を完成させた。それから京都に広がる「大七瀬祓所」が制定された様であった。ここで考えるのは何故に七瀬であったかだ。

七瀬祓の成立は10世紀後半の様で、それほど古くは無い。「河海抄」では七瀬を「難波 曩太 河股(摂津) 大嶋 橘小嶋(山城) 佐久奈谷 辛崎(近江)」としている。その七瀬祓とは、陰陽師による人形に罪穢を移して七瀬の祓所で流す事をであったらしい。陰陽師の人形は、河童の説ともなった一つであった。

ところが「山城国風土記」には「宇治の滝津屋は祓戸なり。」とある。つまり10世紀後半に制定された七瀬祓所とは別に祓所はあったという事になる。その滝津屋は「万葉集3236」に詠われている。

「…山背の 管木の原 ちはやぶる 宇治の橋 滝津屋の 阿後尼の原を 千歳に闕くる事無く、万歳にあり通はむと 石田の社の 皇神に 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を」と。

また「万葉集3240」には、こうも詠われている。

「大君の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 早き瀬を 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡りの たぎつ瀬を 見つつ渡りて…。」と。

ここでの「ちはやふる」は「宇治」の枕詞となり、それだけの激しい流れであったようだ。その宇治の激流を「たぎつ瀬」と表現している事から、琵琶湖から流れる宇治川は、まるで滝のようであったという事だろう。それ故だろうか、宇治の橋姫神社に瀬織津比咩が祀られたのは。その「ちはやふる宇治川」が滝と見做され、その滝の水による穢祓が七瀬祓として定着したのたろう。そのちはやぶる宇治川は支流を経て広がっている。つまり京都全体に広がる水系が滝による祓所と見做された可能性はある。(其の二に続く)
by dostoev | 2013-10-08 23:03 | 「七瀬と八瀬」 | Comments(0)