遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「トイウモノ」考( 36 )

沼御前トイウモノ(其の一)

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「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」の著者は、沼御前は館と結び付いて、全部で七か所あると記している。それは、下記の通りになる。

真立館(松崎町松崎 御前沼 荷渡観音 御前様)

小田沢館(青笹町中妻 荷渡観音 御前沼 御前様)

月山神社(上郷町字南田 御前沼 御前様 千手観音)

佐野館(上郷町佐野 御前沼 御前様 薬師観音)

御前(綾織町新田 御前沼 御前様)

天ヶ森館(附馬牛町安居台天ヶ森下 御前沼跡 御水神宮)

荒矢館(附馬牛町荒屋 御前様)


ただ著者は調査すれば、まだある可能性を示唆していた。そこで調べると二つの館跡と三つの沼御前があった。それが下記の通りとなる。

平倉の沼御前

鳥海館(トンノミ沼御前)

火鼻館(沼袋の沼御前)


平倉の沼御前は「上郷聞書」に紹介されていた。またトンノミが沼御前であるのは、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」でトンノミのある地域でトンノミを沼御前と呼んでいたと記されている。また沼袋の沼御前は、直接行って見て沼御前が祀られているのがわかった。そういう事から、遠野市内でわかっている沼御前と付随する館跡は、上記の分布図として表してみた。ただし火鼻館は、うっかりしていたので記載しなかった。

菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」でも、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」から引用して紹介し、沼御前とは何かを考えるも、結論には至っていない。ところで同時に、遠野七観音も分布図に載せているが、もしかして関連がある可能性を踏まえてのものだった。それは遠野七観音に付随する七つの井戸伝説と、もしかして沼御前が結び付くのではと考えてのもの。結論には至らないだろうが、のんびりと沼御前を考えて行きたいと思う。
by dostoev | 2017-06-27 18:52 | 「トイウモノ」考 | Comments(3)

三途縄トイウモノ

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又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄をおのれと木とのめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を堅に抱へてまどろみたるしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽ばたきして、某木の梢に蔽ひかかりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり・・・。                                       「遠野物語62(抜粋)」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上記は「遠野物語62」の抜粋だが、別に三途縄は「遠野物語拾遺83」でも紹介されている。ところで、こま三途縄は遠野のマタギの呪術になるのだが、遠野のマタギは日光マタギ衆に属する事から、「日光狩詞記」で、山での呪術や禁忌を調べてみたが、この三途縄と同じ様なものを発見できない。日本の文化は、まず穢れを祓う文化が、かなり根付いている。その穢れには、赤不浄や黒不浄などがある。赤不浄は、女性の月経や出産に関し、黒不浄は、人の死に関するものである。マタギはどちらの不浄も嫌う為、家族の出産や葬式が起きれば、猟は最低でも1週間は休む事になっているようだ。しかし三途縄とは、棺桶を結ぶ紐を利用する事から黒不浄そのものである為、マタギの習俗に反するものだと理解しなければならない。
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それでは、黒不浄を好むものとは何かを考えれば、思い出すのは金屋子神である。火を扱う蹈鞴の世界では、赤不浄は忌み嫌われるが、黒不浄に関しては歓迎するほどのものとなっている。八百万の神々とは言うけれど、不浄を歓迎する神とは金屋子神くらいではなかろうか。

三途縄は、葬儀の時に棺桶を結ぶ麻紐を人に見つからないように手に入れて使用するものであるが、似た様な習俗として蹈鞴では火の廻りが悪い時は棺桶の木切れを取って来て火を焚いたという。火の成就に、黒不浄が必要とされているのが蹈鞴。なんとなく三途縄は、マタギの習俗より、蹈鞴の習俗に近い。
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金屋子神は、狐に乗った姿で表されているが、それは荼枳尼天と習合した為だと云われる。金屋子神の縁起には、金屋子神が七か所の蹈鞴を巡っていた時に、犬に吠えられ驚いて逃げる時、麻苧の乱れに足を取られ、倒れて死んでしまった。それから鉄が涌かなくなって困っていると、金屋子神の託宣に、自分の死骸を葬らずに蹈鞴の押立柱に立てかけろの言葉通りにしたところ、鉄が吹けてきたという事から、蹈鞴では死体が好まれるとされた。金屋子神が犬に吠えられた理由は、荼枳尼天と同じに狐に乗っていた為だとされている。

死体を好む金屋子神であるが、荼枳尼天もまた死体を好む。インドの尸林という墓場には、必ずと女神のお堂が巫女によって祀られていた。巫女は、お堂に祀られていた女神の供養を主たる任務としていたのだが、ここで考えられるのは尸林という墓場とは死体が集まるという黒不浄の地でもある。そして狐もまた死肉を食い漁る獣とされた事から、金屋子神と荼枳尼天の眷属としての狐であろう。

ところで、三途縄は麻紐である。金屋子神は、麻苧に足を取られて死んでしまったという事から、麻を嫌うとされている。麻は朝に通じる。その朝の語源は「明日」から発生したという事だが、これは一日の始まりが太陽の沈んだ後の夜に始まった事に対比される。古代では、太陽が沈んだ後の夜とは、神や魑魅魍魎が闊歩する時間帯であり、人間にとっては生きた心地がしない時間帯でもある。これを"死の時間帯"と称して良いのかもしれない。その時間帯に三途縄という麻紐で結界を張るという事は、朝を作るという事になるのではなかろうか。麻=朝は、金屋子神が嫌うものであり、金屋子神が人の死を喜ぶものである事から、その死を免れる為の三途縄ではなかろうか。もしくは、麻紐の三途縄は金屋子神の死をもたらすものであろう。太陽と同じに、神は死んだ後に、再び蘇る。つまり「死と再生」が、三途縄に組み込まれていると考えて良いのでは無かろうか。死の習俗から金屋子神を登場させはしたが、ここでの三途縄の対象は、あくまでも自らに死をもたらすであろう魔物に対する恐怖であろう。それは、死の匂いが漂う夜に起きる。その夜の闇を殺して、太陽を再生させる呪術が三途縄なのだろうと思う。そして、この三途縄の呪術をもたらしたのはマタギ筋では無く、蹈鞴筋であろうと考えるのだ。
by dostoev | 2014-12-17 09:16 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

横田村トイウモノ

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ 遠野の古き三地名」を読んでいると「阿曾沼興廃記」の一文を紹介していた。「文治五年、阿曾沼四郎広綱、閉伊郡の内遠野十二郷を賜り、入部して横田村護摩堂山を守城に築き、横田城と称す。」とある。その横田村は、横田・鵢崎・新里の三か村を総ての一郷の中の一村となっている。その横田村の名称を「阿曾沼興廃記」では、こう記している。「護摩堂山の梺に田あり、四方え廻り見るに皆横に見ゆるなり。故に此処を横田村と称すといへり。」と。松崎の蓬田遺跡からは、奈良時代の土師器が発見されている事から、護摩堂下に流れる猿ヶ石川沿いには、既に田圃があり、米作りが成されていたのだろう。広く「横田」とは「横に突き出た田」を意味しているという。確かに「阿曾沼興廃記」での描写には、その様に記されている。ただ解せないのは、その横田という地名を以て、横田城と名付けたのはまだわかる。しかし、鍋倉山に移転してからも横田城を名乗り、その麓の町を横田町としている事だ。

実際は阿曽沼氏では無く、その家臣である宇夫方氏が遠野に派遣されて、開拓・開墾に勤しんだのだった。横田城は阿曽沼氏の遠野支配の拠点であったが、その家臣である宇夫方氏は、綾織の谷地館を築いた。他の館とは違い、谷地館は低湿地に築かれ、宇夫方氏は更なる開拓・開墾に勤しんだようであった。気になるのは、谷地という地名は谷内であり、種内でもあり丹内でもあるという事。綾織に鎮座している丹内権現堂の棟札に谷地舘11代当主、宇夫方守儀の名がある事から、丹内権現堂と谷地舘とは密接な関係にあったという事が理解できる。丹内権現堂の神は、東和の丹内山神社と同じで原住民の崇拝する土地神であろうとされているから、谷地館の信仰は丹内山神社にも繋がるのだろう。
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話を横田に戻すが、阿曽沼氏が遠野にもたらしたものは、農業法だけでは無く、その農地を耕す鉄製農具であったという。つまり、鍛冶職人を連れてきて、刀を打つよりも、農具を打ち作ったと云われる。実際に、護摩堂近辺には山螢の里と呼ばれる地名があり、そこで蹈鞴が踏まれていたらしく、年代は明らかでは無いらしいが、恐らく阿曽沼氏の頃からでは無かったろうか。上郷の佐比内に与衛門洞という鍾乳洞があるが、その鍾乳洞の入り口手前に石灰の産地があり、その石灰がこの山螢の里に運ばれたようである。

ところで横田城は護摩堂山に築かれたから護摩堂館とも呼ばれたようだが、護摩が焚かれたので護摩堂であったようだ。その護摩とはたいていの場合密教系であり、横田城跡に妙見の石碑もある事から、阿曽沼氏及び宇夫方氏は、密教系修験者の影響を受けていたと思われる。「遠野くさぐさ」でも伊能嘉矩が紹介しているが、横田地名の古くは、出雲の斐伊川沿いの横田郷であり、ヤマタノオロチ退治の舞台でもある。御存じの通り、ヤマタノオロチを退治した後、その尻尾から草薙の剣が現れる事から、そのヤマタノオロチが蹈鞴との関係が深いであろうとの説が一般的になっている。そして、その横田だが、修験者の間に伝わる用語では、田は鉱山そのものを意味する。横は横穴を意味し、つまり「横田」とは鉱山の坑道をも意味する。

遠野市に隣接する住田町から340号線を陸前高田に進むと、真っ先に辿り着くのが陸前高田の横田町である。遠野の横田と同じ地名であるが、この横田町で稲作が出来るようになったのは、昭和になってからであった。確かに山の谷間にある陸前高田の横田町の立地では、稲作は困難であったろうと思える。その横田町の歴史を調べると、その横田町に住む金野家の文書に「貞観十三年(871年)、安倍兵庫允為雄が気仙郡司に任ぜられ、横田邑に住し、しばしば朝廷に黄金を献上し金氏の姓を賜る。」とある。その横田町を見て回ると「御鍛冶場跡」「吉ヶ沢鉄山跡」「黄金山水天宮」など、金属に関する地が多々あるのに気付く。そして遠野との共通するのは、横田町の神社の半分以上が早池峯大神を祀っているという事だ。また、舞出神社などは、遠野の上郷から来た少女を人柱とした後に、神として祀り、一緒に早池峯大神を祀っているのであった。

先に紹介した谷地舘が丹内権現堂と関係があるのなら、それは東和町の丹内山神社との関係が深くもその丹内山神社の祭神は「谷内権現縁起古老伝」によれば、丹内山神社の神とは、その先にある滝沢の滝に出現した早池峯大神であるという事。の丹内山神社には御神体の岩があるのだが、磐座信仰を突き詰めれば、鉱物信仰に行き着く。遠野の伊豆神の由緒には、始閣藤蔵が早池峯大神に対して、金を見つけたらお宮を建てると祈願した後に、見事に金を発見し、早池峯山頂にお宮を建てた事から、早池峯大神とは鉱山の神でもあるという事だ。つまり、陸前高田の横田町もまた早池峯大神を祀る神社が多くあるのは、採掘の民が住み付いて鉱山開発した村であるから横田と名付けたのだと思うのだ。

阿曽沼氏は、元は小山氏であり、その小山氏は琵琶湖の瀬田橋での百足退治をした藤原秀郷の末裔としても名高い。その小山氏が琵琶湖の瀬田橋の傍らに館を建てて、その一帯を取り仕切っていたのだが、その領地内で祀られている神社は、佐久奈度神社であり、早池峯大神である姫神を祀る神社である。俵藤太の伝説は、大蛇と百足の戦いであるのだが、その大蛇と百足とは、採掘法の違う部族同士の争いを伝説化したものであるという説が一般的である。それらを考慮に入れれば、遠野の横田村は阿曽沼氏が入部する以前から横田村という名の村があったわけではなく、鍛冶師を遠野に連れてきた阿曽沼氏であり宇夫方氏が、採掘と産金を手掛けた事から、横田村と名付けたのではとの考えも成りつたのではなかろうか。全国の横田地名を調べても、田園地帯というよりも採掘産金に携わる民が多くいたようである。
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阿曽沼氏が遠野に入部した鎌倉時代であるが、その鎌倉時代に蒙古襲来という国家挙げての大事件があった。それに困ったのは都に住む朝廷であった。その時の書簡が発見されているが、その内容は「このままでは、都が飢え死にしてしまう。」との内容であった。どういう事かといえば、蒙古襲来によって九州からの船便が停止した為、都に送られる筈の米を中心とした食料が手に入らずに困っているとの意味であった。つまりその時代の食の殆どは温暖な九州に頼っていたという事。つまり、東北で採れる米など、たかが知れていたのである。それよりも、東北であり陸奥国は、採掘・産金が中心であり、それは坂上田村麻呂の蝦夷征伐以降に開発された歴史によるものであった。だが「日本書紀 継体天皇記」には、「男が耕作しないと、天下はその為に飢える事があり、女が紡がないと天下は凍える事がある。」と記されているので、確かに農業と養蚕は奨励されていたのだろう。ただし地域的な問題から、東北には農業に対しての多くの期待は無かったようである。いろいろな状況を考えてみても、遠野の横田という地名は、農業に関するものではなく、あくまで採掘に関する事から付けられた地名ではなかろうか。更に付け加えれば、阿曽沼氏の後に遠野を支配した南部氏も、農業主体と言うよりも、やはり鉱山開発であった事を踏まえれば、横田城を南部氏が受け継いだのも納得するのである。上に掲載した画像は、南部氏の「えんぶり」の踊りの衣装であるが、これを南部氏は農業に関係するものだとして踊っている。「えんぶり」の格好は烏帽子を被り、手には農作業用の道具「えぶり」を手にしているというのだが、その「えぶり」とは、元々蹈鞴製鉄の用具から発生したものである。どうやら、阿曽沼氏も南部氏も、農業を隠れ蓑として鉱山開発をしたのではなかろうか。そして、その鉱山開発がメインであったから、横田城を鍋倉山に移転しても尚「横田」という名に拘ったのではなかろうかと思えるのだ。
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そして以前にも書いたが、上の図の様に遠野の東西南北に聳える山を線で結んだ場合、その中心に来るのが横田城跡である。陰陽五行において、東西南北を各々玄武・朱雀・白虎・青竜とし、その中心は支配の地を表す黄龍となる。黄龍=横田=支配の地であるならば、その横田という地名を大事にし、新たに鍋倉の地へ横田の名称を移転したのも頷けるというもの。

横と云う漢字は、門を閉める閂を意図して発生したとも云われる。つまり、内部のモノを閉じ込めるとか抑える、確保する意がある。そして、横という漢字は、木偏に黄色。黄色は、橙など魔除けを意味し、火を意味する。木偏である事から、松明に近いものと考えて良いのだが、黄色は黄龍でもあり土と結び付く。それに木という春を示す万物が成長する意味がある事から、横という漢字は、その発生するモノを留める抑える意がある。黄龍が土であるのは、陰陽五行から土剋水で、水を抑制する意味も含んでいる。横田が田園地帯を意味するなら、水を抑制するのは当然であり、それに加えて金を確保する意でもある。だから、横田という名称を大事にして、鍋倉山に移転した後も、横田城という名称を残し、町も横田町としたのだろう。
by dostoev | 2014-11-06 20:45 | 「トイウモノ」考 | Comments(12)

神在月トイウモノ

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早池峯山頂の手前に、賽の河原と呼ばれる場所がある。親に先立って死んだ子供が、賽の河原で石を積む伝承が定番として広く全国に伝わるが、元々は山城国の鴨川と桂川の合流点の佐比河原で葬送が行われた事と塞ノ神が結び付いて作られた伝承でもある。しかし早池峯の賽の河原は本来「神々の集う場所」としてあったようだ。神々が集うと云えば、出雲が思い出される。10月は神無月で出雲に神々が集まる為に、他の地域では神無月だが、出雲では神在月となるという言い伝えが、古くから広まっていた。

伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、遠野の山神に関する伝説の一つが紹介されている。

婦人安産の後、先きに迎ひし山神を送りて、塞ノ神の鎮座する境土にまで到れば、此の時塞ノ神は山神を迎ひて問ふらく。

山神問ふ。

「女児なり。」

塞ノ神問ふ。

「如何なる女児か。」

山神答あること云々す。塞ノ神重ねて曰く。

「先きつ頃何の地何の処に一男生るる云々。此の児即ち其の女児の配偶者として好適せん。」

山神乃ち同意し、或は否認す。斯くて其の同意あるときには、此の男女児の上に未来の夫婦の縁結ばれたるにて偕老の契り固きも、若し然らざる者の結縁は必ず中ごろ破鏡の難ありと。今も結婚の媒介者を呼びて「サイノカミ」といふこと之に出づとかや。

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出雲大社は縁結びの神として広く全国に知られている。この遠野からも、わざわざ出雲大社まで赴き結婚式を挙げた者もいる程だ。ところが、この出雲の縁結び信仰は、出雲大社では無く、出雲路神の信仰から始まったという。その出雲路の神とは、京都の出雲路京極に祀られていた道祖神の事であった。

この道祖神は現在幸神社としてあり、祭神は猿田彦となる。道祖神は元々塞ノ神から始まり、この塞ノ神は「船戸神(ふなどのかみ)」「岐神(ふなどのかみ)」「来名戸祖神(くなどのさえのかみ)」「塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)」などとも書き表される。塞ノ神は「さいのかみ」「さえのかみ」とも読み、遠野では妻という漢字をあてて妻ノ神ともしている。この塞ノ神、要は路上の神であり、悪いものに対して「勿来(くな)」「勿経(ふな)」と防ぎ退ける神であった。そして後に、古代中国に伝わる旅の神であった道祖神と結び付き、今では道祖神の方が一般的になっている。ところが旅を続ける傀儡子や白拍子などが道祖神を信仰するようになり、その傀儡子や白拍子が一夜妻として男と結び付いた事から、いつしか道祖神は男女の縁結びの神ともなったようである。

ところがだ、その出雲において佐太神社の祭神が猿田彦となってややこしくなっている。神々は出雲に集まるのは古代からの伝承であるが、詳しくは最終的に七つの神社を経由して神々が移動したという事だ。その中には出雲大社と並んで佐太神社が含まれている。しかし、14世紀には出雲大社の名前が消え、佐太神社へ神々が集うと広まったようだが、15世紀頃からは再び出雲大社に神々が集うと改められたようである。それが現在まで続いているのだが、その佐太神社を広めたのは熊野の歩き巫女ではないかとも云われている。何故かといえば、佐太神社の祭神を見ると、ほぼ紀州熊野の神である事が理解できる筈だ。紀州熊野は本殿が三座で、祭神が十二座となっているが、出雲の佐太神社も同じになっている。佐太神社の正殿には、伊弉諾、伊邪那美、事解男、速玉男ならびに秘説一座としている。この秘説一座を佐田大神として、猿田彦が結び付いている為に、佐太大神=道祖神とされているようだ。それ故、出雲に神々が集い、男女の縁を決めていると伝えられている。
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先に紹介した遠野の伝承で、山神と塞ノ神が男女の縁を結んでいるのは、まさに出雲の神々の集いであり、早池峯はまさに神在月の場でもあったか。菊池照雄「山深き遠野の物語せよ」において、菊池氏もまた熊野の歩き巫女の存在を示している。熊野の歩き巫女は、熊野神と縁深い地を目指し、その途中で熊野信仰を広めて回ったという。その一つが、菊池氏が述べる傀儡坂の伝承で、早池峯に縁のある熊野の歩き巫女でもあった。つまり、早池峯の神々の集う地という伝承は、13世紀以前となるのだろうか。

熊野から歩いてくるなど今では途方も無い様に思えるが「延喜式」によれば、都から陸奥国まで二十四日と規定されている。これが陸奥国の入り口であるならば、おおよそ熊野から遠野の早池峯ので一か月を要して歩き巫女は来たのだと思える。以前泊まった事のある、日本縦断をした者に聞くと、一日の限界がだいたい40キロから50キロだという。これを一か月に換算すれば、約1200キロ~1500キロを歩くという事になるので、一か月で熊野から遠野へ歩く事は出来るのだろう。ただし、早池峯山頂手前の神々の集う場所を決めたのは熊野系修験者であろう。何故なら、早池峯そのものは当時女人禁制であった筈。細かな場所を歩き巫女が設定できる筈も無く、それは男である修験者であったのだろう。熊野では男の修験者を狼と呼び、巫女を兎と呼んだ。早池峯に伝わる狼の伝承もまた、熊野修験によるものであったろうか。

その熊野から室根山に運ばれ祀られた神が、早池峯と同じ神であるというのは、熊野の影響を受けている佐太神社の祭神である秘説一座もまた気になるところではある。何故なら、塞ノ神=岐神と荒覇吐(アラハバキ)神は同一視されているからだ。伊勢神宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂=瀬織津比咩は、アラハバキ姫とも呼ばれる。その伊勢神宮の本来の太陽神は猿田彦では無いかとも云われる。また三重一之宮の椿大社には猿田彦が祀られているが、その椿大社に合祀された石神社には天照大神荒魂が祀られている。佐太大神が猿田彦とも云われるが、出雲の佐太神社を含めて熊野との繋がりから、早池峯の信仰もまた複雑怪奇ではある。ただ言えるのは、神在月と呼ばれる地は他にもあり、それは二荒山であり、熊野であり、諏訪であると云われる。共通するのは蛇神を祀るという事だろう。当然それは、出雲大社の神事とも関わるが、全ては蛇神を呼ぶ信仰と神在月が重なるという事ではなかろうか。ちなみに、神社に飾られる注連縄とは蛇が交尾で交わっている姿を模していると云う。つまり注連縄を潜るという事は、男女の縁結びとも結びつく。その根底は、蛇の陰陽の結び付きから来ているのかもしれない。
by dostoev | 2014-11-03 18:31 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

捕鯨トイウモノ

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日本の捕鯨の歴史は、紀元前8000年になると云われる。遺跡から出土した絵にも、捕鯨の様子が描かれているのは、それだけ捕鯨が生活に密接していたという事なのだろう。ただ昨今、その捕鯨が残酷であると欧米諸国から叩かれているのが現状だが、果たして日本の捕鯨は残酷なのか?と疑問に思う。環境からの視点であれば、大きな鯨が沿岸に寄ると、その体を維持する為に、大量の魚を摂取するらしいが、それでは浜の猟師達は著しく減少する魚を守る。つまり、生活をも守る為に捕鯨をしていたという。

捕鯨が仏教的観念と結び付いてからは、その命を断った鯨に対し南無阿弥陀仏と念仏を唱え、その命に感謝した。また、漂着して死亡した鯨に対しては、その肉を食べる事無く、懇ろに埋葬し、その命を尊んだ。それは命の尊さを知っている故の行為であった。現在は、それが調査捕鯨となり、古代の日本の考えが通用しないではないかと云われそうだが、もう既に捕鯨は日本の文化となっている事実だけは否定できないだろう。
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日本人は、狼を神として崇めた歴史がある。狼は大神として伝わり、いつしか山神の使いに甘んじているが、紀元前の縄文時代には、その狼はまさに神であった。非力な人間が狼が集団で狩りをする行動に感化され模倣したと云われる。世界中で狼を神として崇めた地域は、ドイツやイギリスなどであり、そしてアジアで唯一日本だけであったとされる。実は狼が日本人にもたらしたものとは、集団での狩だけではなかった。その獲物という富を、平等に分配するという事を狼から学んだという。聖徳太子の言葉「和を以て貴しとなす」が有名だが、日本と云う国は古来から和を重んじる国であるのは、その狼に習った事が伝わっているのではとも云われている。

だが、同じ狼を神として崇めたヨーロッパ人は、いつしかキリスト教が普及し、全知全能の神として、それ以外の宗教を邪教として弾圧した。例えば北欧では日本と同じ様に樹木信仰が盛んであったが、それをキリスト教徒たちが森の樹木を伐採し、その信仰をも根絶やしにしようとした。ヨーロッパ人は、北欧だけでなくヨーロッパ全体の森を切り開き、草原とした。それはそこに羊を放ち、狩よりも手軽で効率の良い牧畜を作る為だった。しかしそのしっぺ返しか、森林の伐採によって多くの自然災害が増えたのは言うまでもない。日本もまた、大化の改新以降、古代中国に国として認めて貰う為、多くの寺院を建設しようと多くの樹木の伐採をしたが、平安時代には既に多くの土砂災害が起こるようになった為、平安の末期には山の樹木の伐採禁止令が発布され、それは明治時代まで続いたのだった。そして明治時代となり、今度は西洋建築のブームが訪れた。その時に、明治天皇がこういう歌を詠んだ。

狼のすむてふ山の奥までもひらけるかぎりひらきてしがな

今まで狼などが棲んでいた山の奥までも開発してしまえ!という号令の様な歌であった。それから山の開発が進み、多くの樹木が伐採されたが、西洋とは違い放牧地を作るわけでは無いので、伐採した後にも植林するよう、山の保全は考えられていた。

とにかくその狼に習った文化は、紀元前から捕鯨として現在も脈々と受け継がれている。人の自由の利かない海で、どうしてあれだけの大型の生き物を倒そうと思うのか。例えば、支那人や朝鮮人というものは、我が強くて、獲物を他の人と共有できる性質は持ち合わせていなかった為、一人でも捕獲できる小動物を捕獲し、食べていたという。その為に、日本人の様に集団で狩りをする捕鯨の様なものは、全く行わなかったという。富の分配よりも、富の独占を考える民族気質であった為だ。

そしてまた、ヨーロッパなどの欧米諸国人も、企業体としての富の独占をはかろうとした。それは家畜に始まり、海外に進出し、発展途上国などを植民地として支配した事に繋がる。アフリカやアジアの歴史を見れば、それは一目瞭然である。唯一免れていたのは、日本国だけであったのではなかろうか。狼の矜持を忘れた欧米諸国人は、食糧としての家畜を飼い、利益として人間を家畜化したのが植民地支配であり、そうして利益の独占に明け暮れた。
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日本の魚釣りの文化に、欧米諸国のゲームフィッシングが登場した。命を戴く日本の文化に、キャッチ・アンド・リリースという魚を釣るという事だけを楽しもうとする文化だ。それはそれで悪くないが、それ以外にも欧米諸国はハンティングそのものもゲーム化させている。画像は、ライオンを撃ち殺し、その獲物を手にして満面の笑みをたたえる姿。そこには、命に対する尊敬の念も無い。鯨の命を断つ時の日本人は、その鯨に対して念仏を唱え、そこには笑顔は全くなかったという。
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ところが銃社会で生きている欧米人は、その銃の性能を試す為の標的としてだけ動物を見ているのは、ハンティングを単なるゲームという娯楽として考えていないからだろう。まあ全ての欧米人がそういうわけでは無いが、捕鯨を野蛮な行為と非難する前に、自分たちの野蛮な行為を非難し、即刻やめるべきだ。狼の矜持を忘れた欧米人に、狼から教わった日本の文化を非難する権利は無い。
by dostoev | 2014-09-18 21:18 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「サキ」トイウモノ

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勝俣鎭夫「バック トゥ ザ フューチュアー」によれば、「サキ(先)」という言葉は過去を意味していたとする。

「日本の古代・中世社会においては、人々は未来(アト・跡・後)に背を向ける姿勢をとり、過去(サキ・前・先)と向き合い、過去から現在にいたる道を見据え、未来に向かって、後ずさりしているという歴史認識を持っていた。」

未来に背に向けるとは、ピンとは来ないが「続日本記(養老6年7月)」の条では、民衆を誑かす未来予知のような言葉などを禁じている。

「近在京の僧尼、浅識軽智を以て、罪福の因果を巧みに説き、戒律を練らずして、都裏の衆庶を詐り誘る。内に聖教を黷し、外に皇猷を虧けり。遂に人の妻子をして剃髪刻膚せしめ、動れば仏法と称して、輙く室家を離れしむ。網紀に徴ること無く、親夫を顧みず。或は経を負ひ鉢を奉げて、街衢の間に乞食し、或は偽りて邪説を誦して、村邑の中に寄落し、聚宿を常として、妖訛群を成せり。初めは修道に似て、終には姧乱を挟めり。永くその弊を言ふに、特に禁断すべし。」

これはある意味、現代の新興宗教の様なものを禁じているのだが、それは結局、国家の導きを否定するものだから、当然と言えば当然か。確かに歴史を振り返れば、新たな宗派は弾圧されていた事実はある。正しい事であれ間違った事であれ、国策を否定する発言や占いなどは禁止せざる負えなかったのだろう。そして更に、国家は神々が創造してきたものであった。それ故未来とは神の領域であった為、一人の人間が語るべき事では無かったのだと思う。

そしてサキである過去と向き合うとは、神々の軌跡を振り返る事なのだろう。人が神々に対して、どう向き合い対処して来たか。それが間違っていたならば、それを修正する為にサキを見たのだろうか。

「サキ」という言葉で、直ぐに脳裏を過ったのは「オミサキ様」という言葉だった。オミサキ様は先導の神でもある八咫烏を意味する。神話的には神武天皇を導いて救ったとのイメージがあるが、それがミサキであるならば、八咫烏は神武天皇を未来では無く、過去に導いたのであろうか?また、古代からあった鳥葬は、自然放置型の葬儀法ではあるが、具体的には死体に付着した肉をを鳥が啄み白骨化を助長させるものであった。空を飛ぶ鳥は、天と繋がるものであり、人間の魂を運ぶ存在として信じられてきた。それ故に啄まれた肉体は鳥によって天へと運ばれると思われた。その鳥の殆どは烏であり、烏こそが人の魂を運び導くオミサキ様でもあった。不吉な鳴き声の烏は忌み嫌われた存在でもあったが、時には農事とも結びついて、烏に対して餅を投げ与える風習が全国各地で見受けられる。つまり豊穣へとも導く存在が烏であった。
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とにかく、オミサキ様と呼ばれた烏からは、死の匂いが漂ってくる。実際に死肉を啄む様子をリアルに見てきた人々は多い事だろう。その死を凝視し見えて来るものとは黄泉の国である。伊弉諾と伊邪那美が二人で国造りを始めたが、火之迦具土神を産んで伊邪那美は死に、黄泉の国へと向かう。その伊邪那美を求めて伊弉諾は黄泉の国へと探しに行くのだがタブーを破り失敗し、逆に伊邪那美と黄泉津醜女に追いかけられ、千曳岩で離別する。その手前で登場するのは、白山に祀られる菊理媛神だ。

白山信仰は広く全国に伝わるが、その白山の白とは浄化の色でもある。古代の産屋の壁を全て真っ白にしたのは、生まれてくる赤子を浄化する意味合いもあった。そして太陽の色も白で表される場合が多々あるのは、白は太陽光の色でもあった為だ。葬式の白黒は、光と闇を表している。葬儀に参列する人々が何故真っ黒な喪服を着用するのかは、白装束に身を包んだ死人の魂が仲間である事を悟られない為だとも云われる。喪服では無くて白い衣装に身を包んで参列すれば、死人は仲間だと思い、その人物を引き込むからだとも云われる。

黄泉の国から出た伊弉諾は、千曳岩を隔てて、伊邪那美と相対する。伊邪那美が「愛しきあながせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」と言うと、伊弉諾は「愛しきあがなに妹の命。なれしかせば、あれ一日に千五百の産屋立てむ」と言い返している。恐らく産屋の壁一面を真っ白にしたのは、この「古事記」の話から来ているのだと思う。伊邪那美が殺すと言った人々を守る為に、産屋の壁を闇の黒と相対する、光である浄化の白色で染めたのは。
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陰陽五行の「陰陽」は、男と女であり、白と黒に別れる。そして一日の半分は明るい昼間であり、半分は黒い闇である。その黒い闇とは日没からの事を云い、陽が沈んでからの暗闇は神々の時間帯でもあった。伊弉諾と伊邪那美の国造りとは、あくまで人間の住む国造りであった事を踏まえれば、闇を意味する黄泉の国は黒であり、神々の国であったのだとも思える。「古事記」における神代の物語は、あくまでも神々の物語であり、神武天皇を導いた八咫烏は神々に仕える鳥でもある事から、黄泉の国の黒に対応する烏で無くてはならなかったか。神代記を過ぎ景行天皇の子であるヤマトタケルが死んだ後白鳥となって、その魂を導いた事を思えば、神でもある神武天皇を導いた八咫烏の黒と、人間であったヤマトタケルの魂を導いた白鳥の白は対照的だ。つまり「サキ」とは神々を崇敬する為の言葉であり、何故に「オミサキ様」が真っ黒な烏であるのかは、その神々に仕える霊鳥であるからなのだろう。そう「サキ」とは「神々の軌跡」を意味するのかもしれない。それを踏みにじらない様「アト」に背を向け「サキ」に向き合って、国家を運営していたのだろう。
by dostoev | 2014-04-05 08:03 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

太白トイウモノ

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「太白は悪神か?」で「月、太白を犯す」と書いたのは大きな光を輝く太陽や月が、太白である金星の光を包み消すものと考えた。しかし、金指正三「星占い星祭り」を読むと、古代の天文用語として「犯」というものがある事を知った。その箇所を引用すれば「太白星が他の星あるいは星座と見かけの上で接近したり、通過したりする現象を、合、犯、経、歴、舎、陵といった天文用語を使用して、これを異変として記している。」よって「太白、月を犯す」も「月、太白を犯す」も、どちらが主導として考えるかの違いだけのようだ。その犯すである「犯」の天文用語が二つある。

「犯」 二星が七寸以内に近寄り、光芒が相及ぶ事。

「犯」 下より行って触れる事。

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「犯」に七寸以内に近寄り、光芒が及ぶというのは、例えば画像は昂と木星が近く見える状態。昂は二十八宿で「昂星」と記され、木星は九曜に属し(歳星・木精)とも云われ東を示す星となる。もしもこれが肉眼で七寸以内に近付いた場合「歳星、昂星を犯す」という事になるのだろう。

九曜は、下記の通りになるのだが、その中で太白が何故重要視されるのかと考えた場合、宵の明星と呼ばれるのが大きいのではなかろうか。古代の一日の始まりは、太陽が沈んでからであった。その沈む頃の黄昏時に、西の方角に見える太白は、一日の始まりを象徴する星でもあった。

日曜(日星・日精) 北東
月曜(月星・暮太陽)北西
火曜(ケイ惑星・火精)南
水曜(辰星・水精)北
木曜(歳星・木精)東
金曜(太白星・金精)西
土曜(鎮星・土精)中央
羅睺星(黄幡星・蝕神頭・太陽首)東南
計都星(彗星・豹尾星・蝕神尾・月勃力)西南


太白は別に金精とも呼ばれるように、金は金色に輝く意味を持ち、精は勢いを意味し、金精神は男根でも知られる。遠野の山崎の金精様は、観光マップにも載っており有名だが、それ以外にも多くの金精様は遠野に分布している。その金精神は、稲荷神社や駒形神社にも同様に祀られる事から五穀豊穣も意味し、それは万物の発生源である山神と結び付いて、鉱物である金と結び付いているようである。
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現在、金星が月と接近し、ほぼ一直線となっている。今年の春には、更なる接近を果たしていたようだが、確認はしていなかった。

太白星は古代の天文道において、金の精で西方に位置し、秋を司ると。白帝の象であり、凶兵をも司る星であると伝わっている為、為政者は動乱などの戦事をチェックする時に太白星を常に意識していたのだろう。実際に、太白星の最大光度時に、平将門は蜂起したのも大きいだろう。

画像の太白星である金星は、西というより南に位置している。つまり西に位置しての太白星が、その位置にいない時は、しばしば兵乱が起こるとされている。その太白の異常と古代の事象を見てみると、火災が多く発生しているようだ。冬期間に火災が起きやすい事を天文と結び付けて、その権威を示していたようである。当時の陰陽寮に属するという事は、現在の政府でいえば閣僚という事。我が身の保全の為に、天体の運行と過去の事象を上手に照らし出して、その権威を示していたのは想像できる。しかし江戸時代になって算術が更に普及し、その当時の暦法の不正確さが露見し、新たな暦法が作られた事から、だんだんと迷信も失せてきたようだ。
by dostoev | 2013-12-06 17:55 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「おかばみ」トイウモノ(其の二)

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白髪の洪水の時、赤沢川に異変があり、この黒木沢にはオカバミという化け物が現れて暴れたという。そして荒神を祀り平和を願ったというが、元々神とは祟りを為す存在で、人々は祟らないでくれと願い、神の怒りを鎮めてきた。それは当然、オカバミもまた神の化身と考えられ鎮めようとしたのだろう。そのオカバミは足の生えた大蛇であったようだが、中国から渡って来た龍は手足が生えていた。よく前足に宝珠を持つ姿で描かれている場合が多いのでわかると思うが、あの手足が生えた姿も、また龍であり大蛇であった筈。つまり、オカバミも手足が生えて奇妙なイメージを持つだろうが、その本質は龍であり大蛇であったのだろう。
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その黒木沢に祀られた荒神とは、九頭龍であった。以前に書いたように、九頭龍とは国津龍でもあり、湯日本古来から土着している龍であり、神でもある。早池峯から起こった白髭洪水は、やはり龍神の祟りだと思ったのだろう。その為に、九頭龍が祀られたのも納得する。
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その九頭龍を中心として、その左右には牛頭天王と熊野大神が祀られていた。これを見て、一つの共通性が頭を過ったのだった。

この九頭龍が祀られる黒木沢は宮守地区に属する。その宮守地区には、いくつかの牛頭天王が祀られているのだが、それと共に祀られている神がいる。それを、ざっと紹介したい。

1.牛頭天王&早池峯大神

2.牛頭天王&撞賢木厳之御霊天疎向津媛命

3.牛頭天王&祓戸大神

4.牛頭天王&九頭龍大神


今のところ、宮守地区に祀られている牛頭天王と他の神の組み合わせは上記の通りである。おわかりいただけるであろうか?牛頭天王と一緒に祀られているのは、全て瀬織津比咩の別称となる。ここで牛頭天王に対して言及はしないし、たま牛頭天王(素戔嗚尊)と瀬織津比咩の関係を神の系図などから説明はしない。恐らく、遠野の田舎であるから正確なところは伝わっておらず、口伝での関係が伝わって宮守地区に定着したものと思える。そしてその宮守地区に一番多い石碑は何かというと、それは恐らく羽黒系の石碑である。出羽三山に関する石碑がいたるところにあるのが宮守の特徴となる。つまり宮守地区は羽黒修験の影響の強い地域であった事が理解できるのだ。
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更にもう一つ付け加えるなら、赤沢川上流にある「ベゴ岩」なのだが、それが以前滝となっており、そこから荒神が現れたと伝わっている。何故その岩が「ベゴ岩」と呼ばれるのかだが、それがもしも「牛頭天王」であるならば、それはいつしか単に牛を意味する「ベゴ岩」となってもおかしくは無い。滝から現れた荒神とは、そのまま滝神でもある早池峯大神である瀬織津比咩であろう。この宮守地区の法則に則れば、やはり「ベゴ岩」は「牛頭天王」を意味したものと考える事が出来る。
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とにかくここでは牛頭天王に関しては言及しないが、これを祀る様に指導したのは羽黒修験の関係だろう。奥州藤原氏もかなり寄進した羽黒は、岩手県内に鎮座している新山神社に祀られる瀬織津比咩と同体である事はわかっている。つまり羽黒大神もまた、瀬織津比咩の別称であるのだ。こうしてみると、瀬織津比咩という名は、その本名が隠され、いろいろな名前で広がっているのがわかる。このオカバミという化け物もまた龍神の怒りが具現化されたもので、その正体は早池峯に祀られる早池峯大神、別名瀬織津比咩の形を変えた存在であったのだと思う。

ところで、その九頭龍が祀られる遠野の場所がもう一つあった。九頭竜の好物は梨であるという。その為か、そこは九州から運ばれてきたもので梨木平と呼ばれ、古くからの梨の木が植えられている。梨木平は岩手県に5か所ほど確認され、そこに祀られているのは九頭龍・不動明王、そして早池峯大神である。それらが全て繋がるならば、この黒木沢の九頭竜大神もまた早池峯大神であり、瀬織津比咩の形を変えた姿なのだろう。
by dostoev | 2013-10-05 14:57 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「おかばみ」トイウモノ(其の一)

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白髭の大洪水の時に、川が赤い泥で埋め尽くされたので赤沢川と呼ばれてるようになりました。また、ちょうど同じ時代に黒木沢におかばみという化け物が出て暴れ回ったので、村人は荒神様を祀って平和を願いました。
                「猿ヶ石川流域の伝説・物語」

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まず「うわばみ」は知っていたが「おかばみ」とは知らなかった。うわばみは大蛇系なので”おかばみ”もヘビ系だろうとは予想できる。調べてみると怪異・妖怪伝承データベースに宮城県本吉に「蚕にやる葉を山に採りに行ったら、5尺(150㎝)もあるオカバミが出た。大蛇は煙草が苦手だと聞いていたので煙草を吸うと、オカバミはいなくなってしまった。」という記述を発見。具体的に150㎝とあるが、これじゃアオダイショウ並みの大きさで、恐ろしさが消え失せる。これなら”おかばみ”とは、人独りで退治できる程度の化け物?になってしまうからだ。

更に調べると、栃木県の民話「九平のオカバミたいじ」というものがあるのがわかったが、内容がわからない。しかし民話で伝わるくらいなので、やはり恐ろしい大蛇の姿がおかばみだろうと想定できる。その栃木県の日光のマタギには「おかばみとは龍のようなものだ。」と伝わっているのを知った。

「日光狩詞記」によれば「竜の如きものと云われているオカバミに襲われた場合、鉛弾はそれに射込んでも効かないが、鉄弾は堅くて強いので効くから魔除けだと云われており、猟には必ず一発はそれを持参せよと云われており、昔猟師は誰でもそれを持参した。」とある。しかし、これではおかばみの姿形が見えてこない。ところが「大蛇以外のものと思えぬものゝ草原を押し分け踏み付けて通った跡を見た。」という記述があり、それがどうやらおかばみらしい。

同じマタギでも秋田県仙北地方の話に「オカマミ」と云われる手足の生えた黒い蛇の話があり、大洪水は龍神の祟りとされ、贄を必要としたという。遠野市青笹の赤羽根の堤に、生贄としてニワトリが奉げられ、そのニワトリが食べられた際、ニワトリの血で羽が赤く染まり、それから赤羽根という地名となった話があるが、それも恐らく龍神に対する贄とした話だったろう。ところで秋田のオカマミは足の生えた黒蛇という事だが、ワニもまた蛇族であった。海神の娘である豊玉姫は、大蛇ともワニとも伝えられている。

また足の生えた蛇の話なら、戸川安章「羽黒二百話」にトカゲのようなアオダイショウそっくりな手足の付いた蛇の話が伝えられている。これを日光の「大蛇以外のものと思えぬものゝ草原を押し分け踏み付けて通った跡を見た。」と対応させれば、確かに手足の無い蛇に手足が付いて草むらを進めば、大蛇とは違った跡になるだろうと思う。
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実は「猿ヶ石川流域の伝説・物語」のマップにも、オカバミはワニのような姿でイメージされていた。つまり、遠野に伝わるオカバミもまた、手足が生えている大蛇という事なのだろうか。

白髭の洪水は、早池峯で起こったものと伝えられている。また、大洪水は龍神の祟りであるという事から、その祟りが具現化したのがオカバミの出現であったろうか?
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話しではオカバミは黒木沢で暴れたとあるが、赤沢川流域の古老から「ベゴ岩が滝であった頃、そこから荒神様が現れたと婆様から聞いた事がある。」と聞いた。ただベゴ岩の名の由来はわからないという事だったが、調べていくと、ある共通点を見い出したが、それは後に述べるとしよう。

そのベゴ岩へは、普通の車では難儀しそうな場所にあった。そのベゴ岩の下を歩いていたカナヘビを見付け、さっそくオカバミの登場かと笑ってしまったのだった。(其の二へと続く)
by dostoev | 2013-10-05 09:14 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「ウラ」トイウモノ

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吉備国に、温羅(ウラ)という鬼がいたが、吉備津彦に対峙された。しかし温羅の首を釜の底へ骨を埋めるも、地中より温羅の唸り声は響き、吉備津彦は困り果てた。ある日、吉備津彦夢の中に温羅が現れ「自らの妻のがいた阿曽の娘を巫女として釜を用いる神事を行うならば静まり、自ら吉凶を告げよう。」と告げた。この事を人々に伝え、神事を執り行ったところ唸り声は鎮まり、吉凶を占う存在となったという。

上田秋成「雨月物語」でも有名な「吉備津の釜」の起源が、この温羅という鬼から来ている。「吉備津の釜」は、女の果てしない怨みが男を髪の毛だけ残して殺してしまうのだが、その前に男と女は夫婦であった。しかしその夫婦にさせようと鳴釜神事を行ったが、凶兆であったが無視しての婚姻であった為の怨念劇となった。そもそも「占い」の「うら」とは「心」を意味し、占いそのものは「心合い」からきている。そういう意味では「吉備津の釜」に登場する磯良と庄太夫の心は、初めから合っていなかったのだろう。

「怨み」もまた、人の心を意味する。怨みは「心見(ウラミ)」であり、人の心や態度が期待に相反する場合の態度を意味している。人に期待して、その都度に相反する態度を取られ、怨みが募ったのは「吉備津の釜」の磯良であった。まさに「吉備津の釜」の物語は、占いによって人の心を見て裏切られ、直接人の心を見て裏切られ、二重の「怨み(人見)」の失敗によるものだった。

「うら」が「心」を意味するのなら、当然の事ながら「羨む」もまた人の心を意味している。「羨む(うらやむ)」の「うら」は「心」だが、「やむ」はそのまま「病む」であり、「羨む」とは「心が病む」の意となる。

韓国の女大統領が「日本を千年怨む」と大統領就任時に宣言したが、それはそのまま韓国の心が千年も病み続けるという宣言である。実際に、4人に1人は精神疾患を持つと発表された韓国は、このまま未来永劫、心病む民族を宣言した事になる。

冒頭に紹介した温羅という鬼も、実は新羅という朝鮮半島から来た皇子であるという事だが、殺されても尚、怨みの心が消えず未だに鳴釜神事に形を変えて伝えられているのは、病んだ心が治っていないという事だろう。つまり千年以上も経過しても温羅の怨みが消えないのであるなら、韓国の女大統領の千年怨む宣言とは、温羅から継続する治る事の無い心の病を持つ民族の代弁でもある。つまり鬼である温羅(うら)という名は、そのまま心を意味して付けられた名であろうから、温羅という鬼の伝説は、病んだ心は21世紀の未来となっても変わら無いだろうという予言の伝説にもなる。恐ろしや、恐ろしや。。。
by dostoev | 2013-07-24 11:07 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)