遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:「トイウモノ」考( 45 )

「九」トイウモノ

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菱川晶子「狼の民俗学」を読んでいくと、金沢のオイノ祭が紹介されている。自分は一度も見た事は無いのだが、地元の方に聞くと、ただ行列を組んでお供え物をあげてお終いの祭りだから、見て面白いものじゃないよとは聞いていた。この金沢は「遠野物語64」において「金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。」と紹介されている。遠野から行く場合は、340号線から川井の手前から土坂峠を越えていくか、貞任高原を走る舗装道路を道なりに走り、標識のある大槌との境界から左へ曲がり窓貫峠を抜け、小槌川沿いの林道を下る難所を通らねばならない。土坂峠は冬場はどうにか行けるが、窓貫峠経由は貞任高原への道が冬季閉鎖となる為に、まず無理であろう。その金沢で毎年2月19日に"オイノ祭"が行われている。ただ19日にはなっているが、それは毎年限りなく19日に近い日曜日に行われる様になったという事である。となれば来月2月のオイノ祭は、2月18日の日曜日になろうか。

この金沢には、三峯山の碑が25基確認されている。その石碑の建立日の殆どが19日になっているのは、本山である秩父三峯神社での御焚上の神事が、毎月10日と19日に行われている事に対応しているようだ。その中でも19日は、全国へ遣わされた眷属へ向けられている事から、三峯山碑の建立日、及び祭礼が19日に設定されているようである。つまり19日は、狼の縁日と思って良いのだろう。しかし、ここでフト頭を過ったのは「遠野物語拾遺275」にも記されている、神仏の御縁日だ。その中で9日は、稲荷様。29日は蒼前様となっている。新しい時代であれば、稲荷様は狐を意味し、蒼前様は馬を意味する。これに狼を加えれば、何故か9のつく日は動物神があてられている事に気付く。これは、何故なのか。単純な発想で考えれば、例えば狐と9の数字を組み合わせれば、九尾の狐が思い浮かぶ。漫画「ナルト」にも九尾の狐は登場していたが、それ以上の数の尾獣は登場していない。それは、9という数字が最高数でもあるからだった。数字は、1から始まって9で終わり、その繰り返すをする。

古代中国では、九天のもとに、九野、九州、九山、九塞、九藪がある九地が広がっていると考えられたようだ。以前「九重沢」という記事で書いたので重複するが、韓 愈(768年~824年)は、古代中国の唐中期を代表する文人であった。その韓愈の詩の一節の一部に、こう記されている。

一封朝に奏す 九重の天

この「九重の天」とはどういう意味であろうか。それについて、星見の家系に伝わる話がある。古代の星見の仕事をしていた人間を、天官と呼んだ。天官は、いつも夜空の観測をしていた。その星見の仕事をする者達の間では、観星台の事を「隈元(くまもと)」と呼んでいた。その星見系に伝わるのには、天であり夜空であり、宇宙の空間を「九間(くま)」と記していたと云う。「隈なく見渡す」の「隈なく」とは、空の隅々までという意味となる。その九間の成立は、八方と玄天から成り立つと。即ち、八方の中心となる北辰の座が九間であった。韓愈の詩に書かれる「九重の天」とは、この八方と北辰から成り立つ「九間」であると。この「九間」なのだが実は、魔方陣で構成された九つの間でもあるようだ。初めの九天からなる世界は、古代中国の創世神話に登場する伏犠と女媧によって作られた世界であり、伏犠は3×3の合計九個の桝目から出来る魔方陣を考え出したという。つまり九間とは、その魔方陣である。この魔方陣から誕生したのが、九星占術であり、九天を意味する。九字護身法と呼ばれるものがある。これは漫画や時代劇などでもよく登場するもので「臨兵闘者皆陣烈在前」と唱えて九字を切るというもの。この九字の根源が、伏犠の魔方陣でもあるようだ。
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妙見神の始めは、熊本の八代にある妙見宮が古いとされる。その妙見神は「大亀にのって来た女神」とされている。しかし北へ行くに従い、海の無い地域では、なじみの薄い亀に対しては反応が薄い様で、関東から北ににかけては白馬になったり、狼にも変化している。しかしこれは裏付けがあるもので「西の真言、東の天台」と云われた様に、関東から北へと布教したのは天台宗であった。その天台宗の秘法に尊星王法がある。武田和昭「星曼荼羅の研究」には、その尊星王法の曼荼羅も紹介されているが、「阿娑縛抄」によれば、妙見の形は不同であるとしている。つまり、同じ形に固定されるものではないと。一般的な妙見神とは、大亀に乗る女神と龍に乗る女神の二つに分けられるが、その変化は鏡によるものであるという。
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鏡は、月を見立てたものだとされる。その鏡には、自分と鏡に映る別の自分の投影されている。月を介して和魂と荒魂の概念は、ここに集約されるようだ。神社の御神体に鏡が多く採用されているのは、一つの鏡に和魂と荒魂があるとされたからだろう。ところが天台宗の秘法に尊星王法には、ありとあらゆるものが集約された存在であるよう。その中には九曜もあり、当然月や太陽も含まれる。千葉氏で有名になった九曜紋のデザインは恐らく、曼荼羅からであろう。その天台宗の秘法に尊星王法の曼荼羅によれば、月の使役は狼となるようである。九曜に獣を配している事からも、九という数字を付けるのは、妙見神の使役という事になろうか。それ故に、9日、19日、29日が各々獣の縁日にされているのは、妙見神を意識してのものであったか。

by dostoev | 2018-01-17 19:23 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

嫁トイウモノ

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かみさんから「そんな無駄なブログなんて、やめてしまえ。」と言われた。まあ、仕事に直結していない事から、無駄といえば無駄。だからといって、ここまで積み上げたものを簡単にはやめられない。ここでフト、子供の頃に覚えた歌のフレーズが出て来た。「いやじゃありませんか家の山の神…。」ドリフターズの「ほんとにほんとにご苦労さん」という歌の中にある歌詞の一節だ。この時は、ただ歌詞を覚えただけで、「家の山の神」が、どういうものかを理解していなかった。ところがそういう場合、子供同士で情報交換があり、山の神とは母親の事を言うのだと、何となく理解した。それが明確に理解出来たのは、自分の父親と母親の力関係を子供視点で見ていくと『なるほど。』となるのに、そう長くはかからなかった。そういう流れの中「刑事コロンボ」というドラマが始まり、主役のコロンボ刑事の口癖に「家のかみさんがね…。」というがあった。やはり、常に"かみさん"を意識している刑事コロンボは、かみさんに頭が上がらないようであったのは、古今東西同じなのだとも理解できた。ただそれでも、本来の山の神がどういうものかは、まだわかっていなかったが…。
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ところで、山の神は別に略して「かみさん」とも言われるが、別に「妻」とか「嫁」とも言われる。「妻」は「古事記」にも記されているのでわかるが、「嫁」とは「女」と「家」の結び付き。これは、他人の家に入る女という感覚で思っていたが、取り敢えず「日本語源大辞典」で調べてみた。

嫁とは「息子と結婚してその家の一員となった女性」と説明されている。それでは、その語源はというと、下記に一覧を書く事にしてみる。

1.「呼女(よびめ)」家に呼んだから。
2.「弱女(よわめ)」立場が弱いから。
3.「吉女(よめ)」良女(よきめ)の義。良い女、幸運をもたらす女と解釈か。
4.「世継女(よつぎめ)」世継ぎを生む女。
5.「夜女」夜の殿に仕える女の意か。


まあいろいろあるが、どれも確定ではないようだ。ところで別に「嫁が君」という言葉がある。これは何故か、鼠の異称とされている。「遠野物語」で有名になったオシラサマの話は、馬と娘が結び付いた話になっているが、古くは「日本霊異記」に人間の男と子供までもうける「狐女房」という異類婚の話もある。鼠になると、室町時代成立の「鼠の草子」では逆にオシラサマと同じく、人間に化けた鼠と人間の娘が婚姻を果たす話になっている。ただ、正体がばれて娘は逃げ出してしまう事が、オシラサマとは違ってくる。だが、オシラサマの別譚では、馬を嫌っていた娘を強引に連れて行く話もあるので、一概にオシラサマは馬と娘の恋物語では無い。そして仏教思想が蔓延すれば、畜生類と結び付くのは畜生道に堕ちるとも考えられていた筈である。動物との異類婚を認める事は、普通有り得ないだろう。
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ところで鼠で思い出すのは、地下の住人という事である。「古事記」では、大国主を素戔男尊が放った火から地下へと導いて助けたのが鼠であった。そこでもう一度「嫁」を調べると「夜目(よめ)」という言葉がある。これは先の鼠が「嫁が君」とは本来、夜に行動する鼠を意味して「夜目が君」ではないかとしている。ただ鼠は、そんなにも夜目がきくわけでは無いらしい。その「夜目」とは「夜モノ」の転であるようだ。「夜モノ」とは「名前を呼ぶ事を忌はばかる恐ろしいもの」。これは夜行性の獣全般に言えるようだが、ようは夜と云う時間帯は人間では無く、神や魑魅魍魎の時間帯となる。つまり夜モノとは闇のモノと考えても良いだろう。闇が広がるのは、黄泉国もそうである。鼠が「嫁が君」と呼ばれる背景には、もしかして黄泉津大神(よもつおおかみ)がいるからではなかろうか?鼠は、黄泉津大神の使いであると。闇の国である黄泉国を支配するのは、女神だ。「嫁が君」とは暗に黄泉津大神である伊邪那美を指している可能性があるだろうか。

津は「~の」の意であるから黄泉津は「よもの」とも読める。黄泉津は闇世界であるから、そこに君臨する黄泉津大神とは、伊邪那美の変化である。伊邪那美は黄泉津大神となって伊弉諾に対して「一日、千人の人間を殺す」と宣言した恐ろしい女性である。となれば、「家の山の神」も「嫁」もまた、恐ろしい存在として認識されたという事になるか。
by dostoev | 2017-12-28 12:42 | 「トイウモノ」考 | Comments(13)

マリオネット(中森明菜)トイウモノ

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「マリオネット」

「マリオネット(別バージョン)」
中森明菜は昔、たびたび見かける歌番組で、他の歌手と比較して『何となくいいなぁ。』という存在だった。だからといって、特別に聴いていたわけでもなかった。それがひょんな事から、たまたまネットで中森明菜を検索している最中、この「マリオネット」という動画にぶち当たった。この動画を観た瞬間、衝撃が走ると共に脳裏に浮かんだのが、澁澤龍彦「少女コレクション序説」と、藤田和日郎「からくりサーカス」だった。動画を観た後に、本棚の奥にあった澁澤龍彦と藤田和日郎の本を取り出したのだった。

この「マリオネット」という歌を調べると、1986年8月11日に発売された中森明菜の9枚目のアルバム「不思議」の中に収録された曲であった。この時の中森明菜は、21歳。動画は、歌番組でもある「夜のヒットパレード」での収録で、中森明菜「不思議」のアルバムの中から「Back door night」と「マリオネット」が歌われている。この動画の歌では、中森明菜の声にエフェクトがかかり、少々聴き辛くなっている。ただこれは、中森明菜「不思議」のアルパムでの声の表現がやはりエフェクトがかっている為、この「夜のヒットスタジオ」でそれを再現したのだろうが、それが残念だ。出来れば、同じ衣装で同じ振り付けで、そして同じ表現とテンションで、エフェクトがかからない中森明菜の生の声を聴いて観たいものだ。
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中森明菜「マリオネット」の動画を観て思い出した藤田和日郎「からくりサーカス」だが、連載されたのが1997年からであるから、この中森明菜「マリオネット」よりも時代は、後の事になる。この藤田和日郎「からくりサーカス」は、どこか悪魔的な漫画であった。作中では、人間を絡めた中に、懸糸傀儡(マリオネット)と自動人形(オートマータ)の戦いが描かれている。実は中森明菜「マリオネット」の歌詞「ゆるやかに踊る 月照かりのなか」という歌詞の一節を動画の中で見た瞬間に「からくりサーカス」の絵が浮かんでしまったのだった…。

マリオネットは糸で操る人形だが、オートマータは糸無しでも自在に動ける悪魔的な人形となる。このオートマータは「ギリシア神話」にも登場するダイダロスのウェヌス像を取り入れて、藤田和日郎が漫画の設定にしたのだろう。ダイダロスは鍛冶の神であるヘパイトスの真似をして、独りでに動く木製のウェヌス像を造った。ウェヌス像は、体内の水銀によって動く仕掛けになっていたという事から、「からくりサーカス」でフランシーヌ人形が造り出した、自動人形(オートマータ)に意志を与える水銀のような液体とは、そのまま水銀でよいのだろう。自分が観た中森明菜の踊りは、どこか「からくりサーカス」の自動人形(オートマータ)が月明かりで踊る様に感じた。といっても漫画には動きは無いので、あくまでそう感じただけだ。ただ「からくりサーカス」のアニメがあったかどうかはわからない。アニメを見れば、自動人形の(オートマータ)の踊りを見る事が出来ただろうか。

自動人形(オートマータ)には意志があり、その人形が意志を成しての行動は、日本において安倍晴明が人形を作って占術を施し、用済みとなった人形を、一条大橋の河原に棄てたところ、その人形が人間と交わって子供を産んだという話にも近い。「からくりサーカス」の人形も安倍晴明の人形も、悪魔的な人形でありながらも人間に近い心を持っていた事から、人間と接しなければ生きていけない悲劇的な側面も持ち合わせている。
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そして、何故に澁澤龍彦「少女コレクション序説」が脳裏に浮かんだのかというと、マリオネットなどの人形の背景がいろいろと書いていた筈だと思ったからだった。そして何故、中森明菜が魔女の様な歌い方にし、魔女の様な衣装と振り付けで黒魔術を彷彿させるような表現にしたのかという事が気になったからである。とは言っても、恐らく当時21歳の中森明菜は劇的に忙しくて、澁澤龍彦を知る暇も無かったのではないかと思える。また、中森明菜が歌っている時の振り付けも、調べると振付師によるものではなく、自分で考えた振り付けをしていたようだ。付け加えれば、衣装もまた中森明菜が曲に感じたものをスタイリストなどと一緒に再現していたという。更に加えれば、演出もそうであったようだ。とにかく中森明菜は、歌のイメージを直感的に捉えた振り付けと衣装と演出をしていた事になるだろう。だから、ここで澁澤龍彦なんちゃらを語る事は無意味なのだが、それでも気になった事を書き記そうと思う。

澁澤龍彦「少女コレクション序説」の中の「人形愛の形而上学」に、こう記されている。「そもそも遊びや玩具のなかで、その起源に、"魔術的"ないし宗教的な意味を見出すことができないようなものは、ほとんど一つもないのである。」。これはつまり、どんな人形の背景にも魔術的要素が含まれているという事。また「ヨーロッパの魔術の歴史を通覧すれば、いわゆる「愛の呪い」や「憎悪の呪い」のために人形が使用されたという例は、それこそ枚挙にいとまがないほどであろう。」。愛に関する歌を多く歌う中森明菜が、「マリオネット」という曲で魔術的に演じた事は、まさにはまった感が強い。こういうマリオネットの背景を知らず、天性の感性で「マリオネット」を表現した中森明菜は、感性の天才であると思う。漫画「ガラスの仮面」的に表現すれば、当時二十歳そこそこだった中森明菜は「明菜、恐ろしい子…。」である。

ちなみに動画で「マリオネット」の前に歌われている「Back door night」も、主体を人形に置き換えてみれば、同じ人形としての歌にも思える。つまり、この「夜のヒットスタジオ」で表現した歌は全て、人形の愛と呪いという事になろうか。例えば、人形やロボットを人間が表現する場合、この時代でもカクカクッとした表現で、パントマイムやダンスで見事に人形やロボットを演じる人は多かった。しかし中森明菜は、そういう表現をせずに自分的な人形の在り方を表現している。それは、澁澤龍彦的に言えば自由意志を持った"愛の呪い人形"という事になろうか。ここでもう一度思うのは「明菜、恐ろしい子…。」である。

とにかく中森明菜の歌は"歌謡曲"として捉える方が多いと思うが、最近いろいろとYouTubeで観て来たが、そんな思い込みは吹っ飛んでしまった。中森明菜は、稀代のアーティストであった事を今になって、改めて感じた次第で、この記事を書いたのだった。
by dostoev | 2017-12-12 11:43 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

因幡の白兎トイウモノ

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前の記事で、朝倉は星見の座では無いかと書いた。実は「記紀」には明確に記されてないが、もしかして天体の話がかなりあるのでは無いかと考えてしまう。そこで気になるのは「因幡の白兎」の話だ。
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「月の兎」という認識が広まったのは、やはり古代中国だと云われる。紀元前4~3世紀の「天問」と云われ、また漢時代の「五経通義」「月中有兎」と記されている事から、それが日本にも伝わったのだろう。月には兎が棲んでいる。それがいつしか、月そのものが兎である様な認識にも変化している。
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「古事記」での「因幡の白兎」の話は、隠岐島から海を渡ろうと"わに"を騙し並べて渡ったものの、その寸前で騙した事を語り、"わに"の怒りを買い「あを捕へ、ことごとあが衣服を剥ぎき。」と、丸裸にされてしまった。兎が悲しんでいると、八十神が通り、兎は八十神の言う「海塩を浴み、風に当りて伏せれ」の通りにしたら兎の体は「あが身ことごと傷(そこ)はえぬ」と。

まず、海は「アマ」と訓むが、天もまた「あま」と読む。八十神に相対する大国主は、何度も死んでからの復活の話が多い中に登場する「因幡の白兎」の話も、死の境界を彷徨っている兎であり、その復活の話と捉えれば、大国主の流れに乗るものである。古代人が死と復活を意識したのは、やはり太陽であり、月だった。太陽は毎日、西の果てに死に、東から復活する。それと共に、月もまた同じ。ただ月の場合は太陽と違い、更に満ち欠けがあった事から、古代人にとっての神秘の度合いは、やはり月に注がれていたよう。やはり兎は月を意味して、渡ったのは海では無く天ではないのだろうか。

日本民族文化体系「太陽と月」には、三日月を見ると妊娠するという俗信が紹介されているが、へこんだお腹がまるで妊娠したように満ちる満月に、女性の妊娠を重ね合せている。更に兎が二重妊娠をする動物である為、極端な多産だ。月と兎と妊娠が重なるのは、必然であったか。

その月は、東から昇る時、また西へ沈む時は赤くなる。先の「因幡の白兎」も、兎の毛を全て刈り取れば、ピンク色の肌が見えて来る。それを、赤肌の兎と称しても良いだろう。現実的に、兎が毛をむしられるのは、人間が食べる時である。八十神の言う「海塩を浴み、風に当りて伏せれ」は、そのまま兎の肉に「塩をまぶして干し肉にしてしまえ!」という発言にも捉える事が出来る。恐らく「因幡の白兎」は、一度死んでいるのではないか?それが元の兎に復活する。
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石破洋「イナバノシロウサギ神話の新研究」の着眼点は、面白かった。ワニを並べて海を渡ったのは、兎の嘘だとしている。確かにワニを並べて海を渡ったとするシーンは、大国主に対して兎が一方的に話しているだけで、どこまで本当かわからない。石破洋は、兎は八上比売の使いで、大国主や八十神が八上比売と結ばれるに値するかテストする為だったと語っている。確かに兎の最後は莵神になっているのは、神の使役でもあったからとされている。もしくは八上比売は関係無く、兎そのものが初めから神であった可能性もあるだろう。何故なら出雲大社の宮司曰く「出雲大神とは大国主が崇敬する神である。」としている。その出雲大神とはやはり出雲にある熊野大社に祀られる神であろう。それは紀州の熊野と同じで「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野神が三体の月になって天降ってきたという伝承がある事から、大国主が信仰した神は月神であった可能性はある。その大国主は何度も死に、最後には素戔男尊のいる黄泉国でもある根の堅州国へ行き、須世理姫を連れて地上に復活している。この大国主の命の復活劇の根底に、月信仰があったとしても不思議では無い。熊野では、兎の事を「巫女」と称する。つまり熊野神の使いという意味にも通じる。兎は月と結び付いて、その多産さから五穀豊穣と結び付いている。そしてそれが山神(サンジン)=産神(サンジン)という日本特有の語呂合わせでも結び付いているようだ。しかし突き詰めれば、その背景に熊野三山があったのだろう。だからこそ熊野の"歩き巫女"、つまり兎が伝え広めた「熊野権現御垂迹縁起」熊野神が三体の月になって天降ってきたとしたのではないか。
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中秋の名月に、ススキを供える風習がある。それは五穀豊穣と重なった月に対し、秋の実りとして稲穂の代わりに、ススキを供えると一般的に伝えられる。「因幡の白兎」では、蒲の穂を与えている。学者は蒲の穂は止血剤にもなるので、兎は毛が戻ったのではなく、単なる皮膚の損傷の治療行為と、現実的に考えているようだ。ただこれを大雑把に考えれば、月に対して穂(稲・蒲・ススキ)を供える風習ではとも思える。何故なら「穂」の語源は「ものの立ち上る意」「モノの現れ出る義」と「モノの生れ出る」意味を有している。つまり穂を月に供えるとは「月の復活」を期待してのものではないだろうか?兎は傷の治療を終えたのではなく、やはり元の白兎に復活したと考えた方が流れ的には自然かもしれない。
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【摂津国風土記】

ヲモトの郡に夢野というところがある。古老によれば、昔ここをトガ野といい、牡鹿が棲んでいた。その正妻の牝鹿もこの野にいた。

海を隔てた淡路島の野島に、その牡鹿の妾妻の牝鹿が棲んでいた。牡鹿はしばしば野島に泳いでいって、妾妻と愛し合っていた。牡鹿が正妻のところで一晩過ごした翌朝、彼は正妻に語った。夕べ、夢を見た。自分の背に雪が積もり、ススキという草が生えた、この夢はなんの前兆だろう、と。正妻は、夫がまた妾妻のところへ行こうとしているのを憎んで、いつわりの夢判断をして告げた。背に草が生えるのは、矢が背に突き立つ前兆です。また背に雪が降るのは、白塩を肉に塗るしるしです。あなたが野島に泳ぎわたろうとすれば、必ず船人に出会い、海の中で射殺されるでしょう、決して行ってはなりません、と。しかし牡鹿は恋心に耐えられず、また野島に泳ぎ渡って行く時、途中で船に出会い、射殺されてしまった。

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なんとなく「因幡の白兎」の話に似ているかと「摂津国風土記」を紹介してみた。夢診断が正妻の言霊によって最悪の話になっているのだが、海を渡るリスクと人によって殺される獣としての立場が、因幡の白兎と重複している。仏教説話に、帝釈天に対して何も食べ物を差出す事の出来なかった兎が自らを食べて欲しいと火中に身を投じ、その亡骸を月に納めた話がある。古代人は、月が欠けていくのは、月が死んでいくものと考えていたようだ。そして復活する永遠の存在が月であり、それが兎にも投影された為か、兎の死は復活の前ふりでもある。

鹿の海渡は理由が明確だが、因幡の白兎の海渡の明確な理由が不明のままになっている。ただ八上比売が大国主のものになると予言した事から、因幡の白兎が八上比売の使いであったとされている。現実として、古代においての渡海は、死を意味している。それを天空に移して見ても、天の川に対峙する織姫と彦星は、何故逢うのに一年も我慢しなくてはならなかったのか。それは大河を渡るというのは死を意味していたからだろう。確実に安全に、大河を、そして海を渡る方法は無かった。遣唐使や遣隋使で渡った船さえ、確実に安全に渡れる保証はどこにもなかった。それ故に、常に死を意識して海を渡ったようだ。また逆に、渡海が危険な行為であるからこそ、蒙古襲来において日本は救われたとも言える。渡海は、時代を遡れば遡るほど危険なものであった。その「アマ(海・天)」を悠々と渡れるものは太陽であり月であった。その太陽や月でさえ、毎日死ぬと認識されていた時代だった。
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「因幡の白兎」以外に白兎伝説が、八上比売を伝える地にもう一つあった。八上の霊石山を天照大神が行幸した時、行宮にふさわしい場所を探していたところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の装束の裾を銜えて道案内をした。白兎は霊石山の頂上付近の平地である伊勢ヶ平付近まで案内し消えたという伝説がある。この伝説を思うに、やはり太陽と月の運行の話だと思う。太陽と月は、同じ黄道に乗る天体。つまり、消えた白兎とは、先に昇っていた月が沈んで太陽が昇った話では無いだろうか。また別に言えば、太陰暦から太陽暦になった話としても言える。ただ消えた場所が「伊勢ヶ平」であった事からも伊勢神宮の祭神の交代を意味している可能性もあるだろう。実は気になったのは、伊弉諾が左目を洗った時に生まれたのが、日天子と月天子の場合がある。自然界の左と右、阿弥陀の左と右の法則などもある事から、この詳細に関しては別の記事で書く事にしよう。とにかく今回は、兎は月を意味し、白兎の伝説は、月の運行から作られた話であると思って書いた記事であった。
by dostoev | 2017-10-21 07:02 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

朝倉トイウモノ

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朝倉という苗字がある。遠野では珍しい方だが、浅倉も含めると、遠野の電話帳を見れば、そこそこ出て来る。ところで朝倉という苗字から気になったのは、「朝の倉」とは、何だろうか?という事だった。

朝倉氏を調べるとウィキペディアには、「開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていた。朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつである。」日下氏の出自は九州であるから、血脈的には九州の血であろうか?

ところで日下については以前にも書いたが、谷川健一は「日下の草香」は「ヒノモトクサカ」と訓むべきで「クサカ」は太陽の昇る所であると述べている。しかし、それとは別に「クサカ」の「ク」は「カ・ウカ」の転訛であり月・月夜を意味し「サカ」は「下る」という語幹から利用されたものだという。つまり「日下(クサカ)」は「月坂」の意であると。日下氏は水神を祀っていたが、水は月の変若水にも関係する事から、月に関係の深い氏族でもある。その月に関係の深い日下氏の流れを汲む朝倉氏とは?
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「星堕ちて石となる」という記述は「日本書紀纂疏」にあったものだが、石であり磐座は星に関係の深いものだった。磐座(いわくら)の「座」は、今では星座(せいざ)という言葉に多用されようか。しかし古代における座とは「くら」とも訓んた。

筑前に、朝倉郡がある。この朝倉郡は、上座郡と下座郡が合併して朝倉郡となったのだが、ここでの「上座」を昔は「あさくら」と訓んだ。また星座と現代でも使うように、元々「座」は星宿の事でもあった。上座を「あさくら」と訓むのだが、ここでの上座・下座というものは皇帝の玉座に対応するものだろう。皇帝に向って左の左大臣が太陽の昇る東を意味し、右大臣が太陽の沈む(下る)西を意味する事から、上座とは太陽の昇る方向(東)の磐座であり、下座はその逆の西の磐座であろう。つまり、上座・下座を合せて「朝倉郡」となったのは、太陽の昇る方向に立つ磐座を意味するのだろう。
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長谷(はつせ)とは八節、即ち八季の異称であった。それが当てはまる星は、太白だとされた。雄略天皇の都は「長谷朝倉宮」であった。太陽の昇る方向の磐座に暁の明星である太白が重なるのは当然の事。考えてみれば、太陽暦が採用されたのは持統天皇時代以降。それ以前は、太陰暦が主流であった。太陽運行の軌道には、月が重なる。持統天皇時代以降に太陽暦が採用されたのなら、雄略天皇時代は、太陰暦であった筈だ。月もまた、太白と重なる。実は太白の異称に、長谷星、朝倉星があった。つまり雄略天皇の都は、太白の都でもあったという事か。そして朝倉は、そのまま太陽であり月の黄道に位置する磐座(いわくら)であり、その黄道に昇った太白を重ね合せた星座(ほしくら)という事になろうか。朝倉氏が日下氏の流れを汲む氏族という事だが、この月と星の関係をみると、そのまま日下氏と朝倉氏の関係に重なりそうだ。
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朝倉が星見の「朝の星座」で太白を意味するのなら、斉明天皇が崩御した朝倉宮もまた太白を意味するか。また「日本書紀」で斉明天皇の死後「朝倉山の上に鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る」という記述は、天体現象ではなかったか?つまり朝倉山は、星を見定める山だった可能性があるかもしれない。
by dostoev | 2017-10-19 07:41 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

山トイウモノ

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「山」という言葉を語源辞典で調べてみた。

1.不動の意で、ヤムの転
2.どこにでもあるもので、不尽というところから、ヤマヌの意か。
3.弥間(ヤマ)の義
4.弥萌(イヤモエ)の約か。
5.弥盛(ヤモリ)の義
6.弥円(イヤマル)の義か。
7.弥土(ヤハニ)の義
8.弥穂生(イヤホナ)の義
9.ヤはいやが上に重なる意、マはまるい意
10.石群(イハムラ)の反
11.矢座(ヤマ)から出た語で、マは「場」と同じ。
12.アイヌ語から陸地の意

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何故か、どれもピンとこないのが正直なところ。秩父の三峯神社の宮司は、「ミネ」という言葉に拘り、当用漢字の「峰」では無く「峯」を使用している。それは「山」に対して尊敬の念を抱くから、山を頭の上に抱く「峯」という漢字を使用するのだと。時代に流されず、山を大切に思う気持ちからだ。その「山」というものが、上記の語源説にある「どこにでもあるヤマヌの意」である筈が無いと思われる。しかし決定打が無い為に、こういうとんでも説も語源辞典に記されているのが現状だ。

九州に、古代から星見の家系がある。その家系に伝わる文書には、「山はラマの転訛で、即ち水でもあった。」と伝えられていた。「ラマ」とは「lama」即ち「ラマ教」から来ているのだと。「la」は「生命の根源」を意味し「ma」は「託すもの」の意。生命の根源は水であり、それを託す存在が山であるとなったとしている。「ラマ」が「ヤマ」に転訛したというのは何とも言えないが、ただ山そのものが生命の根源であるという考えは納得するものだ。山は、動植物の故郷だと思われた節がある。そして人々に恵みを与えたり、人に災いをもたらす川の水を生み出すのもまた山である。つまり「山が水」という意は、「山が、生命の根源である水の器」であるという事になろうか。
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山で、思うところがある。伊弉諾と伊邪那美が「山と野の神」、つまり大山祇神と野椎神を生んだ後、軻遇突智を生み、伊邪那美はホトを焼かれて死んだ。その伊邪那美の血からいくつかの水神が生れ、また殺された軻遇突智の身体から、いくつかの山の神が生れている。その中の左手から生れた「志芸山津見神(しきやまつみのかみ)」に言及した話があった。

崇神天皇の都は「師木(しき)水垣宮」であった。垂仁天皇の都は「師木(しき)玉垣宮」であった。古代では、玉石は水を弾き土を固めるとして、波止めとして使用されたそうだ。つまり崇神天皇の都も、垂仁天皇の都も、水辺近くであったとされる。また安寧天皇の御名は「磯城(しき)津彦玉手(たまて)見命」で"玉手(たまて)"という意味は泊場の略とされている。師木(しき)玉垣宮に住む磯城津彦玉手見命とはつまり、湊の船の泊場を意味する名だとされる。となれば、崇神天皇の都は湊の水垣宮と考えてもおかしくはない。つまり「しき」とは湊を意味すると思って良いだろう。となれば山が水を意味するのならば「志芸山津見神」とは「水の湊」を意味するか。なれば、山そのものが水を意味するという事にも当てはまる。
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早池峯には、水神である瀬織津比咩が鎮座する。山に祀られるのは、山神では?と考えるのが普通だと思う。しかし、この瀬織津比咩という水神が祀られる場は、山中の滝か、山そのものに祀られる場合が多い。山が水の器であり、山そのものが水を意味するのならば、山に祀られるべきは水神でなくてはならないのだろう。
by dostoev | 2017-10-16 21:38 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「青ノ木」トイウモノ

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以前「青ノ木」の意味という記事を書いた事がある。鬼が仰向けになって死んだ地であるから「仰向鬼」が「青ノ木)」になったとされる。その記事では、青には死の国に繋がるイメージがあり、鬼が帰る地でもあったのが「青ノ木」でもあった事から、恐らく「青」とは黄泉国の入り口を意味するのでは?とした。
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筒井 功「青の民俗学」を読むと、著者は全国の「青」の付く地名を巡り、「青(アオ)」とは「オフ・オウ・アハ・アワ」でもある事を知り、それが葬送の地と結び付く事に気付いた。ただ全ての青がそうである訳では無いが、多くの事例から結論は出ないものの、青の意味を導き出そうとしている意欲的な本でもある。
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「青(アオ)」が「アハ」でもある事から一番古い例が「古事記」での伊弉諾が黄泉国が脱出し、禊をしたのが橘小門の「阿波岐原(アハキガハラ)」だった。近江国も元は「淡海(オウミ)」で「青(オウ)」で同じであるようだ。「古事記」では死んだ伊邪那美が「淡海の多賀に坐すなり」と記されている事から、やはり「オウ」は、葬送の地の意味合いを持ちそうである。ただ著者は「橘小門」の意味を見つけ出せずにいた。「儺の國の星」によれば、「たちばな」とは「上昇する熱気と水気によって、上空に虹暈或は陽のごとく浮かぶ雲霞の類であり…。」と記され、また「をど」とは「水没した噴火口の古称」であるとしている。簡単に説明すれば「橘小門」とは、「霧立った池」という意味になろうか。確かに、映画などでもそうだが、スモークが焚かれたシーンは神秘的に感じる。それが自然の熱気と冷気で出来た霧の立つ池や川は、まさに神秘的な禊場に思える。そこで伊弉諾は、死の穢れを祓った。これはつまり、三途の川に渡る逆バージョンでもある。三途の川も橘小門の阿波岐原も、死の国、黄泉国との境界にあるものなのだろう。自殺の名所で有名な"青木ケ原樹海"もまた、黄泉国への入り口のようでもある。
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ただ「青」は、そのまま埋葬地などだけの意味では無いだろう。例えば「青面金剛」は中世に確立されたようだが、古代においての青は黒と同じ認識であったようだ。
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確かに太陽が沈んだ後の、空と色と雲の色のグラデーションは、青と黒から成り立っている。ただ中世の頃の青というものは「水」を意味する色として認識されたようだ。恐らく「青面金剛」の「青面」は水を意味する筈である。陰陽五行においての黒色は北を示す色と共に、水を意味する色でもあった。その黒と青が同じとされたものが、中世になって明確に分離したのが今にも伝わる青色なのだろう。
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青が水を意味するのではと書いたが「青の民俗学」では、青木地名を調べると最後は縄文遺跡に辿り着くようだ。ただの遺跡では無く、石棺が数多く出土している事から、縄文時代の墓地であったろうと。

「万葉集巻第16の3889」の歌がある。


人魂のさ青なる君がただひとり

         あへりし雨夜の葉非左し思ほゆ
  

人魂は、その時代青いと考えられていたようだ。また「今昔物語」には、冥土の使者が青い衣を着ていた。これは「雨月物語」の「青頭巾」がやはり死して鬼になった僧でもあった事から、やはり青色は死をイメージしているようだ。
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それでは、遠野から笛吹峠の頂を過ぎた所にある、世界遺産にも登録された青ノ木という地名は、どうして付けられたのだろうか?冒頭でも紹介したように、鬼が死んだ地でもあるが、鬼が死ぬ間際に帰った地でもある。つまり、青ノ木は地獄の鬼の棲家でもあったのだと思う。その鬼とは、灼熱の蹈鞴を踏み、また山に穴を掘る鬼たちの棲家という事だろう。「遠野物語」にも紹介されている様に、笛吹峠には魔物が出るとされたのは、そこで働く鬼たちが旅人を襲ったからだともされる。大槌町の十一面観音堂に納められる呪いの十一面観音を見つける為に占った巫女は、まるで西洋の魔女の様な女性だった。その血筋は、青ノ木で働く白人系外国人であった。まさに、昔の日本人にとって、笛吹峠で大きな白人系外国人に遭遇すれば、それはまさしく鬼と思ったに違いない。その鬼の棲家が青ノ木であれば、それはこの世では無くなってしまう。まさに笛吹峠に地獄の入り口があったという事になるのかもしれない。やはり青ノ木は地獄であり、死者の国と信じられた為に「青ノ木」という地名が付けられたのかもしれない。
by dostoev | 2017-10-14 21:59 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

猿ヶ石川トイウモノ

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猿ヶ石川の語源は、猿と石を見間違え「猿か?石か?」という稚拙な伝承となっている。古老によれば、猿ヶ石川源流に、その語源となった猿石があるというが、どうやら後付けであったようだ。

ところで猿と言えば「遠野物語」には、猿の経立、御犬の経立という化物が登場する。しかし考えてみれば、猿も御犬(狼)も、山神の使いである。ましてや猿は、比叡山の神の使いとなっている。元々比叡山は「ヒエの山」と呼ばれ、そのヒエは日枝、そして日吉でもある。東北を布教し、早池峯を支配した天台宗の総本山の比叡山。その"ヒエの使いとして猿の経立が伝わったとしても不思議では無いか。

ちなみに日吉大社の使いは「神猿(マサル)」で、昔「まさる」という名前の子供は、「サル」が付くからと馬鹿にされていた記憶がある。また遠野(とおの)高校は、略して「遠高(エンコウ)」と呼んでいた為に昔、他校から「猿猴(エンコウ)野郎!」と、やはり馬鹿にされていた。
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気になるのは、猿ヶ石川が早池峯連峰を源流としている事。その猿ヶ石川の流域に、附馬牛と呼ばれる地名がある事。何故に附馬牛という地名が気になるかと言えば、猿が牛馬の健康を守ると信じられていたからだ。また「西遊記」で有名な孫悟空は弼馬温として、馬を護る仕事をしていた。つまり、猿ヶ石川という河川名は意図的に付けられ、それに沿うように牛・馬も飼育された可能性も考えてみたい。ちなみに、その附馬牛の語源由来は下記の通りとなる。

【槻馬牛】

この地には槻の大木があり、その下に牛や馬が群息していたので、槻の木の下の馬・牛という意により【槻馬牛(つきもうし)】と云われたと。


【突馬牛】

多くの馬・牛を放牧していたが、ある時に馬の大群と牛の大群が衝突し、共に傷つき倒れたので、衝突した馬・牛の跡として【突馬牛(つきもうし)】とも云われたと。


槻、つまりケヤキを「遠野市植物誌」でチェックすると、峠か殆ど神社などの神域に現存しているというのは、意図的に植えられた樹木であっただろうか。附馬牛町でケヤキが現存し、その伝承が残るのが稲荷神社のある小倉であり、この地だけをピックアップして槻馬牛→附馬牛となったとは考え辛い。「突馬牛」の地名の由来は、有り得ない話である。

伊能嘉矩「遠野馬史稿」を読むと、早池峰を中心とする周辺は、最も牧馬に適しているとある。実際に、周囲には五か所の牧場が開かれ、また、遠野で一番古いとされる駒形神社が荒川高原の入り口にあるというのは、馬の生産地の中心が早池峰周辺であった事を意味するのだろう。 ところで、遠野で一番古い荒川の駒形神社は、阿曽沼氏が蒼前駒形明神を祀ったのが始まりともされている。御神坂から神社前広場にかけてが阿曽沼氏の御料牧場であったとされている。
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その阿曽沼氏だが、同族に小山氏なるものがいる。その小山氏は阿曽沼氏と争い、阿曽沼氏所領を自領と訴えている。その小山氏は、琵琶湖の瀬田橋での百足退治をした藤原秀郷の末裔としても名高い。その小山氏が琵琶湖の瀬田橋の傍らに館を建てて、その一帯を取り仕切っていたのだが、その領地内で祀られている神社は佐久奈度神社であり、早池峯大神でもある同じ姫神を祀る神社である。

俵藤太の伝説は、大蛇と百足の戦いであるが、その大蛇と百足とは、採掘法の違う部族同士の争いを伝説化したものであるという説が一般的である。以前に「蛇と百足(諏訪神社縁起の疑問)」を書いたが、それを南部氏と阿曽沼氏の軋轢のようにも表したが、もしかして阿曽沼氏の建立した諏訪神社の由緒に書かれている「蛇の妖怪退治」の話を今考えれば、小山氏の事を指していたのではなかろうか?蛇に味方し百足を倒した小山氏の祖を貶める事、つまり小山氏を否定する為に建立されたのが諏訪神社であった可能性もあるのかもしれない。いや、やはり同族であるから、祖である俵藤太を貶めるという事は無いか…。
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柳田國男「山島民譚集」などで柳田國男は、諸国の著名な猿まわしの頭に、しばしば小山を名乗る者がいたと指摘している。筒井功「猿まわし被差別の民俗学」によれば、猿地名を調べて、その地に猿回しがいた事から、猿地名になった所もあるという。江戸時代の有力な猿まわしの家筋が「小山」を姓として採用していた事実を重要視している。

猿回しの発祥は、近江国の小野氏からの様である。その小野氏の本拠地は、近江国で先に紹介した小山氏の近くとなる。そして何故か両氏共に、二つ巴の家紋を有するのは出来過ぎだろうか?その小野氏の一部は古代に、小山氏と同じ下野国へと移住している。二荒山に伝わる大蛇に味方した猿丸大夫が、小野氏の系譜である事から、小野氏は俵藤太伝説との関連から小山氏と繋がっている可能性が高い。

実は、遠野での猿回しというと、実はピンと来ていなかった。ところが柳田國男「巫女考」で、盛岡藩に「店屋猿引」と呼ばれる賤民がいた事を紹介している。そして「遠野古事記」によれば「この地方(遠野市周辺)の守子は代々テンヤという一種の神人と夫婦であって、二人して祈禱の札を配りまた春の始めには春田打ちという舞を舞って初穂を貰った。」と記されている。説明によればテンヤとは、僧や山伏の宗教者では無く、俗態にて祈禱の守札を配ると説明している。また守子(モリコ)は祈禱・託言を業とする巫女で、イタコなどを指すようだ。

猿地名は知る限り、陸前高田の横田町にある猿楽。この猿楽にも、何故か早池峯の神を祀る神社がある。そして遠野は地名では無く河川名の猿ヶ石川となる。しばしば猿を飼う者を「猿飼い」とも呼んだと云うが、猿回しに縁が深い小山氏が遠野に於いてもしも「猿飼い氏(さるかいし)」と呼ばれれば、その音は「猿ヶ石(さるかいし)」と結び付く。小山氏と遠野の接点は、阿曽沼氏もあるだろうが、同じ神を祀っている信仰上の理由が大きいのかもしれない。猿回しは牛馬、特に馬の厄払いに特化していたとされ、つまり猿回しとは牛馬を専門に祈禱する巫女であるとされる。当初、猿を神の使いとする比叡山の天台宗に支配された早池峯に猿の話が無いのが不思議なくらいだ。それが唯一「遠野物語」に登場する猿の経立だとしたら、それこそ比叡山の神使であり、山王信仰の介入だと考えるべきか。

とにかく附馬牛を流れる猿ヶ石川という河川名の源流が早池峯から始まる事になったのは、牛馬を守る為の呪術として、阿曽沼氏か小山氏による命名では無かったかと考えてしまう。ただハッキリしないのは、小山氏が遠野に定着していたか否かなのだが…。
by dostoev | 2017-10-10 17:45 | 「トイウモノ」考 | Comments(13)

蝶トイウモノ

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結婚式の杯事の時に使う銚子や提子につける、折り紙の雄雌の蝶の事。通例は金銀や紅白の紙を蝶の形に折り、そこに金銀の水引で蝶の触覚をつけて用いる。婚礼の式場が普通の家に設けられる場合は、両親のそろった男女の子供が選ばれて、そこで新夫婦の杯に同時に双方から酒をつぐ。このため雄蝶雌蝶の名称は、もとの意味から転じて、この2人の男女の子供をさしていう場合もある。
                               「大辞林」

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>もとの意味から転じて、この2人の男女の子供をさしていう場合もある。

「定本柳田國男集」に「雄蝶雌蝶」として、柳田國男自身が子供の頃、雄蝶役をやったと記している。「三々九度のお酌をする役を渡しは二度させられた。男の子が五つで女の子が七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はただお酌だけしていればいいのに、男の子の方にはちゃんというべき言葉が決まっている。私はませていて、それがいえるので選ばれた…。」

柳田國男は明治8年(1875年)生れなので、これは明治13年の事になろう。つまり明治時代には、雄蝶雌蝶の役割は、本来の意味から外れていたという事になるか。しかし婚礼での雄蝶・雌蝶役は、三々九度にかかるのだが、その三々九度の文化が庶民に広まったのは、明治時代になってからだという。つまり雄蝶・雌蝶が庶民に広まったのも明治時代であり、それが酒を注ぐ為の器なのか、酒を注ぐ者に対してなのかが混同したまま伝わったのかもしれない。そして三々九度も、名称が違うものとして時代を遡っても室町期のようだ。
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遠野の伝承で「雄蝶雌蝶」という言葉が登場している話は、二つほどある。一つは「遠野物語拾遺22」と内容は同じだが「附馬牛村誌」に紹介される「夫婦釜」の話に、その夫婦釜を雄蝶・雌蝶として表現している。

【夫婦釜の伝説】


昔、附馬牛の大萩に東禅寺という大きな寺があった頃、そこには二百人もの修行僧がおり、修行に明け暮れていたのだという。なので食事も大したもので、馬釜のような大きな雄蝶、雌蝶と呼ばれた二つの釜で、ご飯を炊いていたのだと。

ところが時代も変わり、江戸時代の初期に、南部の殿様がこの東禅寺を盛岡に移転する事としたのだという。その時にこの雄蝶、雌蝶の二つの釜を一緒に運ぶ事となったのだが、何故かこの淵の側を通りかかった時に、急に片方の雌蝶の釜が崩れ落ち、あっという間に淵に沈んでしまったのだと。そして雄蝶と呼ばれた釜は空中に舞い上がり、火の玉のようになって、元の東禅寺まで飛んでいったそうな。きっと今まで居た東禅寺から離れたくなかったのだろうと、人々は語ったのだという。雄蝶の釜は今でも大萩の常福院に残っており、寺宝となっている。

そして、淵に沈んだ雌蝶の釜は、何十人という人足をかけても、ついに引き上げる事が出来ないままであったと。それから、この雌蝶の釜の沈んだ淵を釜淵と呼んで近寄らず、またこの釜淵で魚を獲ると祟りがあると恐れられたそうである。

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そしてもう一つは「遠野物語拾遺28」の人柱の話で、そこから抜粋すると「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」と記されている。この「遠野物語拾遺28」は、大同年間の事としているが、もしも雄蝶・雌蝶が酒器、もしくは酒を注ぐ者として始まったとしたならば年代が合わない。元々「遠野物語拾遺28」は、大同年間では無いのでは、とされている。しかし、どちらの話も夫婦を雄蝶・雌蝶としている事から、本来は夫婦を意味するものが雄蝶・雌蝶で、後から酒器に変化し伝わったのではないかと思える。

気になるのは、紹介した「夫婦釜」の話も「遠野物語拾遺28」も、人柱の様な話になっている。「夫婦釜」は、人間では無く釜の話なのだが、釜淵に沈んでから、そこで魚を獲ると祟りがあるというのも、人間としての話の様になっている。モノには魂が宿るという付喪神ではないが「夫婦釜」の話は、本当に釜の話であったのか?もしかして人間を釜に例えて話したものであったか気になるところである。
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画像は、黒揚羽蝶が小動物の糞の水分を吸いに来ている場面である。蝶というものは、花の蜜を求め彷徨っている綺麗なイメージがあるが、実はいろいろな体液を吸っている虫でもある。そして蝶は、しばしば人間の死体にも群がる。現代は死体を火葬する場合が殆どなので、古代の鳥葬などにおいて、鳥だけでなく蝶が寄って来る場面を目撃する事がまず無い。ただ、山での遭難者の死体に蝶が群がっていたという報告がある事から古代では、蝿などと一緒に人間の死体に群がる蝶がよく目撃されたのだろうと思える。遠野地方での蝶の方言は「てびらっこ」である。「てびら」は「掌」の事であるから、掌をヒラヒラさせる事が、蝶の飛ぶイメージと重なった為の方言であろう。ただ画像の黒揚羽蝶は地域によって「かみなりてふ」「じごくてふ」「やまでふ」などという方言も伝わる。「じごくてふ」は、そのまま「地獄蝶」という意味だが、死体に群がる蝶のイメージをストレートに表現したものと思える。

ところで死の匂いは、即身仏の影響から山形県の羽黒に漂う。羽黒には八咫烏の伝説もある事から「羽黒」とはカラスを意味していると思っていたが、死をイメージする時、カラスと共に、黒揚羽蝶もまた重なってしまう。何故なら、里での死体にはカラスが群がるのだが、山の奥で発見される死体には、カラスでは無く蝶が群がっている事を思えば、山を支配した山伏が、修行の末、しばしば山で亡くなった時、その死体にはカラスではなく蝶が群がっていた可能性がある。それが黒揚羽蝶であった場合、人間の霊魂を運ぶ存在としての黒揚羽蝶が認識された可能性も僅かながらもあったのではないかと思える。となれば鳥葬(ちょうそう)は、そのまま蝶葬でもあったのかもしれない。「万葉集」に蝶の歌が無いのは、死体をついばむ烏同様、忌み嫌われていた可能性があるだろう。古代に白鳥が、魂を運ぶ存在として認識され歌にも詠われたが、黒い烏は黒不浄としての意味合いと重なり、それと共に黒揚羽蝶もまた、それに重ねられた為だろうか。しかし烏は八咫烏なども含め"オミサキ"として神の使役としての一面もあるのに、蝶はどうした事だろうか?
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梅谷献二「虫の民俗誌」では"義経籠手"なるものが紹介されていた。本当かどうかはわからぬが、義経が吉野に落ちる時、興福寺に籠手を残して行ったと。それが現在国宝「義経籠手」と呼ばれる。そのデザインは菊水模様の中央に蝶が配されているが、どうやらアゲハチョウらしいが、恐らく黒揚羽蝶なのかもしれない。菊水は不老長寿を意味し、蝶は魂をも意味する事から源義経は、魂の不滅を求めたか?とも感じてしまう。古代には死をイメージする事から忌み嫌われた蝶を採用した源義経には、やはり羽黒修験と同じ魂を感じてしまうのは自分だけだろうか。
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今井彰「蝶の民俗学」には、"蝶の妖怪"が紹介されていた。前九年の役の時、安倍氏の家来が源義家の投げた石に当たり、足を滑らせて沼に転げ落ち、そのまま息絶えたと云う。その死体は沼の中で大きな蝶になり、曇った日や夜になると沼から浮かび出て、空を飛ぶのだと。月夜の晩のその蝶の妖怪を目撃した話では、水で羽がキラキラと輝き、幻想の中にいるように感じたと云う。

この蝶の妖怪で気になるのは、何故に沼に落ちて蝶になるのかという事。先に紹介した遠野の話も、水神に対する人身御供の様な話で、どこかで蝶と水神が繋がる可能性を秘めている。そこで初めに戻ると、雄蝶雌蝶とは酒を注ぐ酒器、もしくはそれを注ぐ人という事になっている。酒とは「くし」とも訓じ"薬"でもあった。古今東西、酒の発生は不老不死を求めての副産物であった場合が殆どである。酒造りには水が必要で思い出すのだが、遠野には「河童の盗み酒」という大吟醸があった。河童はしばしば悪戯の詫びに、万能薬や酒などを提供する話がある。酒と河童を結び付ける延長上に、前九年の役の後、流刑された安倍宗任がいる。安倍宗任の子供は、九州の松浦水軍と結び付いて子孫を残していった。その安倍宗任の血の流れを汲む中に、酒造りと河童を結び付けるものもあると云う。そして奇しくも蝶の妖怪もまた、その安倍氏に関係する話であった。ところで「蝶の民俗学」の作者曰く、蝶に関する民話や伝説を探したところ、何故か新潟を含む東北にだけしか無かったという。東北へと落ち延びた源義経の使用していたという菊水と蝶の籠手。そして東北を支配した安倍氏の影が、何故か蝶と水を結び付ける。

考えてみれば「遠野物語拾遺28」の「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」という言葉は、陰陽の和合でもある。陽は太陽であり男であり、陰は水であり女となる。その陰陽の和合を果たすから物事が成されると考えれば、蝶が魂の象徴であり、それが後に夫婦の和合、つまり婚姻の儀式に採用されたとしても不思議では無い。今回、蝶を調べてみて逆に、蝶に対する謎が深まった感がある。古代に忌み嫌われた蝶が、どこかで秘された存在であった可能性はあるのかもしれない。

ただ唐突に感じたのは、蝶の妖怪が水に落ちた者から化生している事から怪談「番町皿屋敷」に繋がるか?というもの。「番町皿屋敷」の話は、下女の"お菊"が皿を割った事で縛られ井戸に落とされ、それから幽霊となっている。縛られた状態のお菊がまるで、蝶の蛹の様な事から蝶の蛹を"お菊虫"と呼び、忌み嫌われた。そして「番町皿屋敷」関連を調べると、菊の花を忌み嫌う話が伝わっている。先に紹介した源義経が使用したとされる国宝「義経籠手」のデザインは「蝶と菊水」忌み嫌われる蝶と、そして菊の花がデザインに使用されているのは偶然だろうか?「番町皿屋敷」の行く着く先は"白山信仰"だと云う。お菊が縛られ、それが蝶の蛹に見立てられたのは、「ククリ」が「縛る」と重なった事になっているようだ。蝶を調べての謎は、何故に「万葉集」で詠われて無いのか。何故に東北・北陸だけに蝶の民話と伝説があるのか。そしてだが、もしかして白山信仰との結び付きと、白山信仰そのものの謎に蝶が、どこまで関連するのか?とにかく、蝶がこれだけの個性と存在感を示していながら、それに関する伝承が余りにも少な過ぎるのは、どこかタブーに触れる為では無かったなどと、余分な事を考えてしまう…。
by dostoev | 2017-10-08 07:52 | 「トイウモノ」考 | Comments(2)

沼御前トイウモノ(其の一)

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「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」の著者は、沼御前は館と結び付いて、全部で七か所あると記している。それは、下記の通りになる。

真立館(松崎町松崎 御前沼 荷渡観音 御前様)

小田沢館(青笹町中妻 荷渡観音 御前沼 御前様)

月山神社(上郷町字南田 御前沼 御前様 千手観音)

佐野館(上郷町佐野 御前沼 御前様 薬師観音)

御前(綾織町新田 御前沼 御前様)

天ヶ森館(附馬牛町安居台天ヶ森下 御前沼跡 御水神宮)

荒矢館(附馬牛町荒屋 御前様)


ただ著者は調査すれば、まだある可能性を示唆していた。そこで調べると二つの館跡と三つの沼御前があった。それが下記の通りとなる。

平倉の沼御前

鳥海館(トンノミ沼御前)

火鼻館(沼袋の沼御前)


平倉の沼御前は「上郷聞書」に紹介されていた。またトンノミが沼御前であるのは、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」でトンノミのある地域でトンノミを沼御前と呼んでいたと記されている。また沼袋の沼御前は、直接行って見て沼御前が祀られているのがわかった。そういう事から、遠野市内でわかっている沼御前と付随する館跡は、上記の分布図として表してみた。ただし火鼻館は、うっかりしていたので記載しなかった。

菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」でも、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」から引用して紹介し、沼御前とは何かを考えるも、結論には至っていない。ところで同時に、遠野七観音も分布図に載せているが、もしかして関連がある可能性を踏まえてのものだった。それは遠野七観音に付随する七つの井戸伝説と、もしかして沼御前が結び付くのではと考えてのもの。結論には至らないだろうが、のんびりと沼御前を考えて行きたいと思う。
by dostoev | 2017-06-27 18:52 | 「トイウモノ」考 | Comments(3)