遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:「トイウモノ」考( 42 )

因幡の白兎トイウモノ

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前の記事で、朝倉は星見の座では無いかと書いた。実は「記紀」には明確に記されてないが、もしかして天体の話がかなりあるのでは無いかと考えてしまう。そこで気になるのは「因幡の白兎」の話だ。
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「月の兎」という認識が広まったのは、やはり古代中国だと云われる。紀元前4~3世紀の「天問」と云われ、また漢時代の「五経通義」「月中有兎」と記されている事から、それが日本にも伝わったのだろう。月には兎が棲んでいる。それがいつしか、月そのものが兎である様な認識にも変化している。
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「古事記」での「因幡の白兎」の話は、隠岐島から海を渡ろうと"わに"を騙し並べて渡ったものの、その寸前で騙した事を語り、"わに"の怒りを買い「あを捕へ、ことごとあが衣服を剥ぎき。」と、丸裸にされてしまった。兎が悲しんでいると、八十神が通り、兎は八十神の言う「海塩を浴み、風に当りて伏せれ」の通りにしたら兎の体は「あが身ことごと傷(そこ)はえぬ」と。

まず、海は「アマ」と訓むが、天もまた「あま」と読む。八十神に相対する大国主は、何度も死んでからの復活の話が多い中に登場する「因幡の白兎」の話も、死の境界を彷徨っている兎であり、その復活の話と捉えれば、大国主の流れに乗るものである。古代人が死と復活を意識したのは、やはり太陽であり、月だった。太陽は毎日、西の果てに死に、東から復活する。それと共に、月もまた同じ。ただ月の場合は太陽と違い、更に満ち欠けがあった事から、古代人にとっての神秘の度合いは、やはり月に注がれていたよう。やはり兎は月を意味して、渡ったのは海では無く天ではないのだろうか。

日本民族文化体系「太陽と月」には、三日月を見ると妊娠するという俗信が紹介されているが、へこんだお腹がまるで妊娠したように満ちる満月に、女性の妊娠を重ね合せている。更に兎が二重妊娠をする動物である為、極端な多産だ。月と兎と妊娠が重なるのは、必然であったか。

その月は、東から昇る時、また西へ沈む時は赤くなる。先の「因幡の白兎」も、兎の毛を全て刈り取れば、ピンク色の肌が見えて来る。それを、赤肌の兎と称しても良いだろう。現実的に、兎が毛をむしられるのは、人間が食べる時である。八十神の言う「海塩を浴み、風に当りて伏せれ」は、そのまま兎の肉に「塩をまぶして干し肉にしてしまえ!」という発言にも捉える事が出来る。恐らく「因幡の白兎」は、一度死んでいるのではないか?それが元の兎に復活する。
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石破洋「イナバノシロウサギ神話の新研究」の着眼点は、面白かった。ワニを並べて海を渡ったのは、兎の嘘だとしている。確かにワニを並べて海を渡ったとするシーンは、大国主に対して兎が一方的に話しているだけで、どこまで本当かわからない。石破洋は、兎は八上比売の使いで、大国主や八十神が八上比売と結ばれるに値するかテストする為だったと語っている。確かに兎の最後は莵神になっているのは、神の使役でもあったからとされている。もしくは八上比売は関係無く、兎そのものが初めから神であった可能性もあるだろう。何故なら出雲大社の宮司曰く「出雲大神とは大国主が崇敬する神である。」としている。その出雲大神とはやはり出雲にある熊野大社に祀られる神であろう。それは紀州の熊野と同じで「熊野権現御垂迹縁起」には、熊野神が三体の月になって天降ってきたという伝承がある事から、大国主が信仰した神は月神であった可能性はある。その大国主は何度も死に、最後には素戔男尊のいる黄泉国でもある根の堅州国へ行き、須世理姫を連れて地上に復活している。この大国主の命の復活劇の根底に、月信仰があったとしても不思議では無い。熊野では、兎の事を「巫女」と称する。つまり熊野神の使いという意味にも通じる。兎は月と結び付いて、その多産さから五穀豊穣と結び付いている。そしてそれが山神(サンジン)=産神(サンジン)という日本特有の語呂合わせでも結び付いているようだ。しかし突き詰めれば、その背景に熊野三山があったのだろう。だからこそ熊野の"歩き巫女"、つまり兎が伝え広めた「熊野権現御垂迹縁起」熊野神が三体の月になって天降ってきたとしたのではないか。
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中秋の名月に、ススキを供える風習がある。それは五穀豊穣と重なった月に対し、秋の実りとして稲穂の代わりに、ススキを供えると一般的に伝えられる。「因幡の白兎」では、蒲の穂を与えている。学者は蒲の穂は止血剤にもなるので、兎は毛が戻ったのではなく、単なる皮膚の損傷の治療行為と、現実的に考えているようだ。ただこれを大雑把に考えれば、月に対して穂(稲・蒲・ススキ)を供える風習ではとも思える。何故なら「穂」の語源は「ものの立ち上る意」「モノの現れ出る義」と「モノの生れ出る」意味を有している。つまり穂を月に供えるとは「月の復活」を期待してのものではないだろうか?兎は傷の治療を終えたのではなく、やはり元の白兎に復活したと考えた方が流れ的には自然かもしれない。
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【摂津国風土記】

ヲモトの郡に夢野というところがある。古老によれば、昔ここをトガ野といい、牡鹿が棲んでいた。その正妻の牝鹿もこの野にいた。

海を隔てた淡路島の野島に、その牡鹿の妾妻の牝鹿が棲んでいた。牡鹿はしばしば野島に泳いでいって、妾妻と愛し合っていた。牡鹿が正妻のところで一晩過ごした翌朝、彼は正妻に語った。夕べ、夢を見た。自分の背に雪が積もり、ススキという草が生えた、この夢はなんの前兆だろう、と。正妻は、夫がまた妾妻のところへ行こうとしているのを憎んで、いつわりの夢判断をして告げた。背に草が生えるのは、矢が背に突き立つ前兆です。また背に雪が降るのは、白塩を肉に塗るしるしです。あなたが野島に泳ぎわたろうとすれば、必ず船人に出会い、海の中で射殺されるでしょう、決して行ってはなりません、と。しかし牡鹿は恋心に耐えられず、また野島に泳ぎ渡って行く時、途中で船に出会い、射殺されてしまった。

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なんとなく「因幡の白兎」の話に似ているかと「摂津国風土記」を紹介してみた。夢診断が正妻の言霊によって最悪の話になっているのだが、海を渡るリスクと人によって殺される獣としての立場が、因幡の白兎と重複している。仏教説話に、帝釈天に対して何も食べ物を差出す事の出来なかった兎が自らを食べて欲しいと火中に身を投じ、その亡骸を月に納めた話がある。古代人は、月が欠けていくのは、月が死んでいくものと考えていたようだ。そして復活する永遠の存在が月であり、それが兎にも投影された為か、兎の死は復活の前ふりでもある。

鹿の海渡は理由が明確だが、因幡の白兎の海渡の明確な理由が不明のままになっている。ただ八上比売が大国主のものになると予言した事から、因幡の白兎が八上比売の使いであったとされている。現実として、古代においての渡海は、死を意味している。それを天空に移して見ても、天の川に対峙する織姫と彦星は、何故逢うのに一年も我慢しなくてはならなかったのか。それは大河を渡るというのは死を意味していたからだろう。確実に安全に、大河を、そして海を渡る方法は無かった。遣唐使や遣隋使で渡った船さえ、確実に安全に渡れる保証はどこにもなかった。それ故に、常に死を意識して海を渡ったようだ。また逆に、渡海が危険な行為であるからこそ、蒙古襲来において日本は救われたとも言える。渡海は、時代を遡れば遡るほど危険なものであった。その「アマ(海・天)」を悠々と渡れるものは太陽であり月であった。その太陽や月でさえ、毎日死ぬと認識されていた時代だった。
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「因幡の白兎」以外に白兎伝説が、八上比売を伝える地にもう一つあった。八上の霊石山を天照大神が行幸した時、行宮にふさわしい場所を探していたところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の装束の裾を銜えて道案内をした。白兎は霊石山の頂上付近の平地である伊勢ヶ平付近まで案内し消えたという伝説がある。この伝説を思うに、やはり太陽と月の運行の話だと思う。太陽と月は、同じ黄道に乗る天体。つまり、消えた白兎とは、先に昇っていた月が沈んで太陽が昇った話では無いだろうか。また別に言えば、太陰暦から太陽暦になった話としても言える。ただ消えた場所が「伊勢ヶ平」であった事からも伊勢神宮の祭神の交代を意味している可能性もあるだろう。実は気になったのは、伊弉諾が左目を洗った時に生まれたのが、日天子と月天子の場合がある。自然界の左と右、阿弥陀の左と右の法則などもある事から、この詳細に関しては別の記事で書く事にしよう。とにかく今回は、兎は月を意味し、白兎の伝説は、月の運行から作られた話であると思って書いた記事であった。
by dostoev | 2017-10-21 07:02 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

朝倉トイウモノ

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朝倉という苗字がある。遠野では珍しい方だが、浅倉も含めると、遠野の電話帳を見れば、そこそこ出て来る。ところで朝倉という苗字から気になったのは、「朝の倉」とは、何だろうか?という事だった。

朝倉氏を調べるとウィキペディアには、「開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる日下部氏が、平安時代から大武士団を形成し栄えていた。朝倉氏は、この日下部氏の流れをくむ氏族のひとつである。」日下氏の出自は九州であるから、血脈的には九州の血であろうか?

ところで日下については以前にも書いたが、谷川健一は「日下の草香」は「ヒノモトクサカ」と訓むべきで「クサカ」は太陽の昇る所であると述べている。しかし、それとは別に「クサカ」の「ク」は「カ・ウカ」の転訛であり月・月夜を意味し「サカ」は「下る」という語幹から利用されたものだという。つまり「日下(クサカ)」は「月坂」の意であると。日下氏は水神を祀っていたが、水は月の変若水にも関係する事から、月に関係の深い氏族でもある。その月に関係の深い日下氏の流れを汲む朝倉氏とは?
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「星堕ちて石となる」という記述は「日本書紀纂疏」にあったものだが、石であり磐座は星に関係の深いものだった。磐座(いわくら)の「座」は、今では星座(せいざ)という言葉に多用されようか。しかし古代における座とは「くら」とも訓んた。

筑前に、朝倉郡がある。この朝倉郡は、上座郡と下座郡が合併して朝倉郡となったのだが、ここでの「上座」を昔は「あさくら」と訓んだ。また星座と現代でも使うように、元々「座」は星宿の事でもあった。上座を「あさくら」と訓むのだが、ここでの上座・下座というものは皇帝の玉座に対応するものだろう。皇帝に向って左の左大臣が太陽の昇る東を意味し、右大臣が太陽の沈む(下る)西を意味する事から、上座とは太陽の昇る方向(東)の磐座であり、下座はその逆の西の磐座であろう。つまり、上座・下座を合せて「朝倉郡」となったのは、太陽の昇る方向に立つ磐座を意味するのだろう。
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長谷(はつせ)とは八節、即ち八季の異称であった。それが当てはまる星は、太白だとされた。雄略天皇の都は「長谷朝倉宮」であった。太陽の昇る方向の磐座に暁の明星である太白が重なるのは当然の事。考えてみれば、太陽暦が採用されたのは持統天皇時代以降。それ以前は、太陰暦が主流であった。太陽運行の軌道には、月が重なる。持統天皇時代以降に太陽暦が採用されたのなら、雄略天皇時代は、太陰暦であった筈だ。月もまた、太白と重なる。実は太白の異称に、長谷星、朝倉星があった。つまり雄略天皇の都は、太白の都でもあったという事か。そして朝倉は、そのまま太陽であり月の黄道に位置する磐座(いわくら)であり、その黄道に昇った太白を重ね合せた星座(ほしくら)という事になろうか。朝倉氏が日下氏の流れを汲む氏族という事だが、この月と星の関係をみると、そのまま日下氏と朝倉氏の関係に重なりそうだ。
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朝倉が星見の「朝の星座」で太白を意味するのなら、斉明天皇が崩御した朝倉宮もまた太白を意味するか。また「日本書紀」で斉明天皇の死後「朝倉山の上に鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る」という記述は、天体現象じゃないのか?つまり朝倉山は、星を見定める山だった可能性があるかも。
by dostoev | 2017-10-19 07:41 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

山トイウモノ

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「山」という言葉を語源辞典で調べてみた。

1.不動の意で、ヤムの転
2.どこにでもあるもので、不尽というところから、ヤマヌの意か。
3.弥間(ヤマ)の義
4.弥萌(イヤモエ)の約か。
5.弥盛(ヤモリ)の義
6.弥円(イヤマル)の義か。
7.弥土(ヤハニ)の義
8.弥穂生(イヤホナ)の義
9.ヤはいやが上に重なる意、マはまるい意
10.石群(イハムラ)の反
11.矢座(ヤマ)から出た語で、マは「場」と同じ。
12.アイヌ語から陸地の意

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何故か、どれもピンとこないのが正直なところ。秩父の三峯神社の宮司は、「ミネ」という言葉に拘り、当用漢字の「峰」では無く「峯」を使用している。それは「山」に対して尊敬の念を抱くから、山を頭の上に抱く「峯」という漢字を使用するのだと。時代に流されず、山を大切に思う気持ちからだ。その「山」というものが、上記の語源説にある「どこにでもあるヤマヌの意」である筈が無いと思われる。しかし決定打が無い為に、こういうとんでも説も語源辞典に記されているのが現状だ。

九州に、古代から星見の家系がある。その家系に伝わる文書には、「山はラマの転訛で、即ち水でもあった。」と伝えられていた。「ラマ」とは「lama」即ち「ラマ教」から来ているのだと。「la」は「生命の根源」を意味し「ma」は「託すもの」の意。生命の根源は水であり、それを託す存在が山であるとなったとしている。「ラマ」が「ヤマ」に転訛したというのは何とも言えないが、ただ山そのものが生命の根源であるという考えは納得するものだ。山は、動植物の故郷だと思われた節がある。そして人々に恵みを与えたり、人に災いをもたらす川の水を生み出すのもまた山である。つまり「山が水」という意は、「山が、生命の根源である水の器」であるという事になろうか。
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山で、思うところがある。伊弉諾と伊邪那美が「山と野の神」、つまり大山祇神と野椎神を生んだ後、軻遇突智を生み、伊邪那美はホトを焼かれて死んだ。その伊邪那美の血からいくつかの水神が生れ、また殺された軻遇突智の身体から、いくつかの山の神が生れている。その中の左手から生れた「志芸山津見神(しきやまつみのかみ)」に言及した話があった。

崇神天皇の都は「師木(しき)水垣宮」であった。垂仁天皇の都は「師木(しき)玉垣宮」であった。古代では、玉石は水を弾き土を固めるとして、波止めとして使用されたそうだ。つまり崇神天皇の都も、垂仁天皇の都も、水辺近くであったとされる。また安寧天皇の御名は「磯城(しき)津彦玉手(たまて)見命」で"玉手(たまて)"という意味は泊場の略とされている。師木(しき)玉垣宮に住む磯城津彦玉手見命とはつまり、湊の船の泊場を意味する名だとされる。となれば、崇神天皇の都は湊の水垣宮と考えてもおかしくはない。つまり「しき」とは湊を意味すると思って良いだろう。となれば山が水を意味するのならば「志芸山津見神」とは「水の湊」を意味するか。なれば、山そのものが水を意味するという事にも当てはまる。
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早池峯には、水神である瀬織津比咩が鎮座する。山に祀られるのは、山神では?と考えるのが普通だと思う。しかし、この瀬織津比咩という水神が祀られる場は、山中の滝か、山そのものに祀られる場合が多い。山が水の器であり、山そのものが水を意味するのならば、山に祀られるべきは水神でなくてはならないのだろう。
by dostoev | 2017-10-16 21:38 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

「青ノ木」トイウモノ

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以前「青ノ木」の意味という記事を書いた事がある。鬼が仰向けになって死んだ地であるから「仰向鬼」が「青ノ木)」になったとされる。その記事では、青には死の国に繋がるイメージがあり、鬼が帰る地でもあったのが「青ノ木」でもあった事から、恐らく「青」とは黄泉国の入り口を意味するのでは?とした。
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筒井 功「青の民俗学」を読むと、著者は全国の「青」の付く地名を巡り、「青(アオ)」とは「オフ・オウ・アハ・アワ」でもある事を知り、それが葬送の地と結び付く事に気付いた。ただ全ての青がそうである訳では無いが、多くの事例から結論は出ないものの、青の意味を導き出そうとしている意欲的な本でもある。
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「青(アオ)」が「アハ」でもある事から一番古い例が「古事記」での伊弉諾が黄泉国が脱出し、禊をしたのが橘小門の「阿波岐原(アハキガハラ)」だった。近江国も元は「淡海(オウミ)」で「青(オウ)」で同じであるようだ。「古事記」では死んだ伊邪那美が「淡海の多賀に坐すなり」と記されている事から、やはり「オウ」は、葬送の地の意味合いを持ちそうである。ただ著者は「橘小門」の意味を見つけ出せずにいた。「儺の國の星」によれば、「たちばな」とは「上昇する熱気と水気によって、上空に虹暈或は陽のごとく浮かぶ雲霞の類であり…。」と記され、また「をど」とは「水没した噴火口の古称」であるとしている。簡単に説明すれば「橘小門」とは、「霧立った池」という意味になろうか。確かに、映画などでもそうだが、スモークが焚かれたシーンは神秘的に感じる。それが自然の熱気と冷気で出来た霧の立つ池や川は、まさに神秘的な禊場に思える。そこで伊弉諾は、死の穢れを祓った。これはつまり、三途の川に渡る逆バージョンでもある。三途の川も橘小門の阿波岐原も、死の国、黄泉国との境界にあるものなのだろう。自殺の名所で有名な"青木ケ原樹海"もまた、黄泉国への入り口のようでもある。
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ただ「青」は、そのまま埋葬地などだけの意味では無いだろう。例えば「青面金剛」は中世に確立されたようだが、古代においての青は黒と同じ認識であったようだ。
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確かに太陽が沈んだ後の、空と色と雲の色のグラデーションは、青と黒から成り立っている。ただ中世の頃の青というものは「水」を意味する色として認識されたようだ。恐らく「青面金剛」の「青面」は水を意味する筈である。陰陽五行においての黒色は北を示す色と共に、水を意味する色でもあった。その黒と青が同じとされたものが、中世になって明確に分離したのが今にも伝わる青色なのだろう。
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青が水を意味するのではと書いたが「青の民俗学」では、青木地名を調べると最後は縄文遺跡に辿り着くようだ。ただの遺跡では無く、石棺が数多く出土している事から、縄文時代の墓地であったろうと。

「万葉集巻第16の3889」の歌がある。


人魂のさ青なる君がただひとり

         あへりし雨夜の葉非左し思ほゆ
  

人魂は、その時代青いと考えられていたようだ。また「今昔物語」には、冥土の使者が青い衣を着ていた。これは「雨月物語」の「青頭巾」がやはり死して鬼になった僧でもあった事から、やはり青色は死をイメージしているようだ。
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それでは、遠野から笛吹峠の頂を過ぎた所にある、世界遺産にも登録された青ノ木という地名は、どうして付けられたのだろうか?冒頭でも紹介したように、鬼が死んだ地でもあるが、鬼が死ぬ間際に帰った地でもある。つまり、青ノ木は地獄の鬼の棲家でもあったのだと思う。その鬼とは、灼熱の蹈鞴を踏み、また山に穴を掘る鬼たちの棲家という事だろう。「遠野物語」にも紹介されている様に、笛吹峠には魔物が出るとされたのは、そこで働く鬼たちが旅人を襲ったからだともされる。大槌町の十一面観音堂に納められる呪いの十一面観音を見つける為に占った巫女は、まるで西洋の魔女の様な女性だった。その血筋は、青ノ木で働く白人系外国人であった。まさに、昔の日本人にとって、笛吹峠で大きな白人系外国人に遭遇すれば、それはまさしく鬼と思ったに違いない。その鬼の棲家が青ノ木であれば、それはこの世では無くなってしまう。まさに笛吹峠に地獄の入り口があったという事になるのかもしれない。やはり青ノ木は地獄であり、死者の国と信じられた為に「青ノ木」という地名が付けられたのかもしれない。
by dostoev | 2017-10-14 21:59 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

猿ヶ石川トイウモノ

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猿ヶ石川の語源は、猿と石を見間違え「猿か?石か?」という稚拙な伝承となっている。古老によれば、猿ヶ石川源流に、その語源となった猿石があるというが、どうやら後付けであったようだ。

ところで猿と言えば「遠野物語」には、猿の経立、御犬の経立という化物が登場する。しかし考えてみれば、猿も御犬(狼)も、山神の使いである。ましてや猿は、比叡山の神の使いとなっている。元々比叡山は「ヒエの山」と呼ばれ、そのヒエは日枝、そして日吉でもある。東北を布教し、早池峯を支配した天台宗の総本山の比叡山。その"ヒエの使いとして猿の経立が伝わったとしても不思議では無いか。

ちなみに日吉大社の使いは「神猿(マサル)」で、昔「まさる」という名前の子供は、「サル」が付くからと馬鹿にされていた記憶がある。また遠野(とおの)高校は、略して「遠高(エンコウ)」と呼んでいた為に昔、他校から「猿猴(エンコウ)野郎!」と、やはり馬鹿にされていた。
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気になるのは、猿ヶ石川が早池峯連峰を源流としている事。その猿ヶ石川の流域に、附馬牛と呼ばれる地名がある事。何故に附馬牛という地名が気になるかと言えば、猿が牛馬の健康を守ると信じられていたからだ。また「西遊記」で有名な孫悟空は弼馬温として、馬を護る仕事をしていた。つまり、猿ヶ石川という河川名は意図的に付けられ、それに沿うように牛・馬も飼育された可能性も考えてみたい。ちなみに、その附馬牛の語源由来は下記の通りとなる。

【槻馬牛】

この地には槻の大木があり、その下に牛や馬が群息していたので、槻の木の下の馬・牛という意により【槻馬牛(つきもうし)】と云われたと。


【突馬牛】

多くの馬・牛を放牧していたが、ある時に馬の大群と牛の大群が衝突し、共に傷つき倒れたので、衝突した馬・牛の跡として【突馬牛(つきもうし)】とも云われたと。


槻、つまりケヤキを「遠野市植物誌」でチェックすると、峠か殆ど神社などの神域に現存しているというのは、意図的に植えられた樹木であっただろうか。附馬牛町でケヤキが現存し、その伝承が残るのが稲荷神社のある小倉であり、この地だけをピックアップして槻馬牛→附馬牛となったとは考え辛い。「突馬牛」の地名の由来は、有り得ない話である。

伊能嘉矩「遠野馬史稿」を読むと、早池峰を中心とする周辺は、最も牧馬に適しているとある。実際に、周囲には五か所の牧場が開かれ、また、遠野で一番古いとされる駒形神社が荒川高原の入り口にあるというのは、馬の生産地の中心が早池峰周辺であった事を意味するのだろう。 ところで、遠野で一番古い荒川の駒形神社は、阿曽沼氏が蒼前駒形明神を祀ったのが始まりともされている。御神坂から神社前広場にかけてが阿曽沼氏の御料牧場であったとされている。
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その阿曽沼氏だが、同族に小山氏なるものがいる。その小山氏は阿曽沼氏と争い、阿曽沼氏所領を自領と訴えている。その小山氏は、琵琶湖の瀬田橋での百足退治をした藤原秀郷の末裔としても名高い。その小山氏が琵琶湖の瀬田橋の傍らに館を建てて、その一帯を取り仕切っていたのだが、その領地内で祀られている神社は佐久奈度神社であり、早池峯大神でもある同じ姫神を祀る神社である。

俵藤太の伝説は、大蛇と百足の戦いであるが、その大蛇と百足とは、採掘法の違う部族同士の争いを伝説化したものであるという説が一般的である。以前に「蛇と百足(諏訪神社縁起の疑問)」を書いたが、それを南部氏と阿曽沼氏の軋轢のようにも表したが、もしかして阿曽沼氏の建立した諏訪神社の由緒に書かれている「蛇の妖怪退治」の話を今考えれば、小山氏の事を指していたのではなかろうか?蛇に味方し百足を倒した小山氏の祖を貶める事、つまり小山氏を否定する為に建立されたのが諏訪神社であった可能性もあるのかもしれない。いや、やはり同族であるから、祖である俵藤太を貶めるという事は無いか…。
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柳田國男「山島民譚集」などで柳田國男は、諸国の著名な猿まわしの頭に、しばしば小山を名乗る者がいたと指摘している。筒井功「猿まわし被差別の民俗学」によれば、猿地名を調べて、その地に猿回しがいた事から、猿地名になった所もあるという。江戸時代の有力な猿まわしの家筋が「小山」を姓として採用していた事実を重要視している。

猿回しの発祥は、近江国の小野氏からの様である。その小野氏の本拠地は、近江国で先に紹介した小山氏の近くとなる。そして何故か両氏共に、二つ巴の家紋を有するのは出来過ぎだろうか?その小野氏の一部は古代に、小山氏と同じ下野国へと移住している。二荒山に伝わる大蛇に味方した猿丸大夫が、小野氏の系譜である事から、小野氏は俵藤太伝説との関連から小山氏と繋がっている可能性が高い。

実は、遠野での猿回しというと、実はピンと来ていなかった。ところが柳田國男「巫女考」で、盛岡藩に「店屋猿引」と呼ばれる賤民がいた事を紹介している。そして「遠野古事記」によれば「この地方(遠野市周辺)の守子は代々テンヤという一種の神人と夫婦であって、二人して祈禱の札を配りまた春の始めには春田打ちという舞を舞って初穂を貰った。」と記されている。説明によればテンヤとは、僧や山伏の宗教者では無く、俗態にて祈禱の守札を配ると説明している。また守子(モリコ)は祈禱・託言を業とする巫女で、イタコなどを指すようだ。

猿地名は知る限り、陸前高田の横田町にある猿楽。この猿楽にも、何故か早池峯の神を祀る神社がある。そして遠野は地名では無く河川名の猿ヶ石川となる。しばしば猿を飼う者を「猿飼い」とも呼んだと云うが、猿回しに縁が深い小山氏が遠野に於いてもしも「猿飼い氏(さるかいし)」と呼ばれれば、その音は「猿ヶ石(さるかいし)」と結び付く。小山氏と遠野の接点は、阿曽沼氏もあるだろうが、同じ神を祀っている信仰上の理由が大きいのかもしれない。猿回しは牛馬、特に馬の厄払いに特化していたとされ、つまり猿回しとは牛馬を専門に祈禱する巫女であるとされる。当初、猿を神の使いとする比叡山の天台宗に支配された早池峯に猿の話が無いのが不思議なくらいだ。それが唯一「遠野物語」に登場する猿の経立だとしたら、それこそ比叡山の神使であり、山王信仰の介入だと考えるべきか。

とにかく附馬牛を流れる猿ヶ石川という河川名の源流が早池峯から始まる事になったのは、牛馬を守る為の呪術として、阿曽沼氏か小山氏による命名では無かったかと考えてしまう。ただハッキリしないのは、小山氏が遠野に定着していたか否かなのだが…。
by dostoev | 2017-10-10 17:45 | 「トイウモノ」考 | Comments(13)

蝶トイウモノ

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結婚式の杯事の時に使う銚子や提子につける、折り紙の雄雌の蝶の事。通例は金銀や紅白の紙を蝶の形に折り、そこに金銀の水引で蝶の触覚をつけて用いる。婚礼の式場が普通の家に設けられる場合は、両親のそろった男女の子供が選ばれて、そこで新夫婦の杯に同時に双方から酒をつぐ。このため雄蝶雌蝶の名称は、もとの意味から転じて、この2人の男女の子供をさしていう場合もある。
                               「大辞林」

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>もとの意味から転じて、この2人の男女の子供をさしていう場合もある。

「定本柳田國男集」に「雄蝶雌蝶」として、柳田國男自身が子供の頃、雄蝶役をやったと記している。「三々九度のお酌をする役を渡しは二度させられた。男の子が五つで女の子が七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はただお酌だけしていればいいのに、男の子の方にはちゃんというべき言葉が決まっている。私はませていて、それがいえるので選ばれた…。」

柳田國男は明治8年(1875年)生れなので、これは明治13年の事になろう。つまり明治時代には、雄蝶雌蝶の役割は、本来の意味から外れていたという事になるか。しかし婚礼での雄蝶・雌蝶役は、三々九度にかかるのだが、その三々九度の文化が庶民に広まったのは、明治時代になってからだという。つまり雄蝶・雌蝶が庶民に広まったのも明治時代であり、それが酒を注ぐ為の器なのか、酒を注ぐ者に対してなのかが混同したまま伝わったのかもしれない。そして三々九度も、名称が違うものとして時代を遡っても室町期のようだ。
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遠野の伝承で「雄蝶雌蝶」という言葉が登場している話は、二つほどある。一つは「遠野物語拾遺22」と内容は同じだが「附馬牛村誌」に紹介される「夫婦釜」の話に、その夫婦釜を雄蝶・雌蝶として表現している。

【夫婦釜の伝説】


昔、附馬牛の大萩に東禅寺という大きな寺があった頃、そこには二百人もの修行僧がおり、修行に明け暮れていたのだという。なので食事も大したもので、馬釜のような大きな雄蝶、雌蝶と呼ばれた二つの釜で、ご飯を炊いていたのだと。

ところが時代も変わり、江戸時代の初期に、南部の殿様がこの東禅寺を盛岡に移転する事としたのだという。その時にこの雄蝶、雌蝶の二つの釜を一緒に運ぶ事となったのだが、何故かこの淵の側を通りかかった時に、急に片方の雌蝶の釜が崩れ落ち、あっという間に淵に沈んでしまったのだと。そして雄蝶と呼ばれた釜は空中に舞い上がり、火の玉のようになって、元の東禅寺まで飛んでいったそうな。きっと今まで居た東禅寺から離れたくなかったのだろうと、人々は語ったのだという。雄蝶の釜は今でも大萩の常福院に残っており、寺宝となっている。

そして、淵に沈んだ雌蝶の釜は、何十人という人足をかけても、ついに引き上げる事が出来ないままであったと。それから、この雌蝶の釜の沈んだ淵を釜淵と呼んで近寄らず、またこの釜淵で魚を獲ると祟りがあると恐れられたそうである。

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そしてもう一つは「遠野物語拾遺28」の人柱の話で、そこから抜粋すると「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」と記されている。この「遠野物語拾遺28」は、大同年間の事としているが、もしも雄蝶・雌蝶が酒器、もしくは酒を注ぐ者として始まったとしたならば年代が合わない。元々「遠野物語拾遺28」は、大同年間では無いのでは、とされている。しかし、どちらの話も夫婦を雄蝶・雌蝶としている事から、本来は夫婦を意味するものが雄蝶・雌蝶で、後から酒器に変化し伝わったのではないかと思える。

気になるのは、紹介した「夫婦釜」の話も「遠野物語拾遺28」も、人柱の様な話になっている。「夫婦釜」は、人間では無く釜の話なのだが、釜淵に沈んでから、そこで魚を獲ると祟りがあるというのも、人間としての話の様になっている。モノには魂が宿るという付喪神ではないが「夫婦釜」の話は、本当に釜の話であったのか?もしかして人間を釜に例えて話したものであったか気になるところである。
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画像は、黒揚羽蝶が小動物の糞の水分を吸いに来ている場面である。蝶というものは、花の蜜を求め彷徨っている綺麗なイメージがあるが、実はいろいろな体液を吸っている虫でもある。そして蝶は、しばしば人間の死体にも群がる。現代は死体を火葬する場合が殆どなので、古代の鳥葬などにおいて、鳥だけでなく蝶が寄って来る場面を目撃する事がまず無い。ただ、山での遭難者の死体に蝶が群がっていたという報告がある事から古代では、蝿などと一緒に人間の死体に群がる蝶がよく目撃されたのだろうと思える。遠野地方での蝶の方言は「てびらっこ」である。「てびら」は「掌」の事であるから、掌をヒラヒラさせる事が、蝶の飛ぶイメージと重なった為の方言であろう。ただ画像の黒揚羽蝶は地域によって「かみなりてふ」「じごくてふ」「やまでふ」などという方言も伝わる。「じごくてふ」は、そのまま「地獄蝶」という意味だが、死体に群がる蝶のイメージをストレートに表現したものと思える。

ところで死の匂いは、即身仏の影響から山形県の羽黒に漂う。羽黒には八咫烏の伝説もある事から「羽黒」とはカラスを意味していると思っていたが、死をイメージする時、カラスと共に、黒揚羽蝶もまた重なってしまう。何故なら、里での死体にはカラスが群がるのだが、山の奥で発見される死体には、カラスでは無く蝶が群がっている事を思えば、山を支配した山伏が、修行の末、しばしば山で亡くなった時、その死体にはカラスではなく蝶が群がっていた可能性がある。それが黒揚羽蝶であった場合、人間の霊魂を運ぶ存在としての黒揚羽蝶が認識された可能性も僅かながらもあったのではないかと思える。となれば鳥葬(ちょうそう)は、そのまま蝶葬でもあったのかもしれない。「万葉集」に蝶の歌が無いのは、死体をついばむ烏同様、忌み嫌われていた可能性があるだろう。古代に白鳥が、魂を運ぶ存在として認識され歌にも詠われたが、黒い烏は黒不浄としての意味合いと重なり、それと共に黒揚羽蝶もまた、それに重ねられた為だろうか。しかし烏は八咫烏なども含め"オミサキ"として神の使役としての一面もあるのに、蝶はどうした事だろうか?
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梅谷献二「虫の民俗誌」では"義経籠手"なるものが紹介されていた。本当かどうかはわからぬが、義経が吉野に落ちる時、興福寺に籠手を残して行ったと。それが現在国宝「義経籠手」と呼ばれる。そのデザインは菊水模様の中央に蝶が配されているが、どうやらアゲハチョウらしいが、恐らく黒揚羽蝶なのかもしれない。菊水は不老長寿を意味し、蝶は魂をも意味する事から源義経は、魂の不滅を求めたか?とも感じてしまう。古代には死をイメージする事から忌み嫌われた蝶を採用した源義経には、やはり羽黒修験と同じ魂を感じてしまうのは自分だけだろうか。
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今井彰「蝶の民俗学」には、"蝶の妖怪"が紹介されていた。前九年の役の時、安倍氏の家来が源義家の投げた石に当たり、足を滑らせて沼に転げ落ち、そのまま息絶えたと云う。その死体は沼の中で大きな蝶になり、曇った日や夜になると沼から浮かび出て、空を飛ぶのだと。月夜の晩のその蝶の妖怪を目撃した話では、水で羽がキラキラと輝き、幻想の中にいるように感じたと云う。

この蝶の妖怪で気になるのは、何故に沼に落ちて蝶になるのかという事。先に紹介した遠野の話も、水神に対する人身御供の様な話で、どこかで蝶と水神が繋がる可能性を秘めている。そこで初めに戻ると、雄蝶雌蝶とは酒を注ぐ酒器、もしくはそれを注ぐ人という事になっている。酒とは「くし」とも訓じ"薬"でもあった。古今東西、酒の発生は不老不死を求めての副産物であった場合が殆どである。酒造りには水が必要で思い出すのだが、遠野には「河童の盗み酒」という大吟醸があった。河童はしばしば悪戯の詫びに、万能薬や酒などを提供する話がある。酒と河童を結び付ける延長上に、前九年の役の後、流刑された安倍宗任がいる。安倍宗任の子供は、九州の松浦水軍と結び付いて子孫を残していった。その安倍宗任の血の流れを汲む中に、酒造りと河童を結び付けるものもあると云う。そして奇しくも蝶の妖怪もまた、その安倍氏に関係する話であった。ところで「蝶の民俗学」の作者曰く、蝶に関する民話や伝説を探したところ、何故か新潟を含む東北にだけしか無かったという。東北へと落ち延びた源義経の使用していたという菊水と蝶の籠手。そして東北を支配した安倍氏の影が、何故か蝶と水を結び付ける。

考えてみれば「遠野物語拾遺28」の「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」という言葉は、陰陽の和合でもある。陽は太陽であり男であり、陰は水であり女となる。その陰陽の和合を果たすから物事が成されると考えれば、蝶が魂の象徴であり、それが後に夫婦の和合、つまり婚姻の儀式に採用されたとしても不思議では無い。今回、蝶を調べてみて逆に、蝶に対する謎が深まった感がある。古代に忌み嫌われた蝶が、どこかで秘された存在であった可能性はあるのかもしれない。

ただ唐突に感じたのは、蝶の妖怪が水に落ちた者から化生している事から怪談「番町皿屋敷」に繋がるか?というもの。「番町皿屋敷」の話は、下女の"お菊"が皿を割った事で縛られ井戸に落とされ、それから幽霊となっている。縛られた状態のお菊がまるで、蝶の蛹の様な事から蝶の蛹を"お菊虫"と呼び、忌み嫌われた。そして「番町皿屋敷」関連を調べると、菊の花を忌み嫌う話が伝わっている。先に紹介した源義経が使用したとされる国宝「義経籠手」のデザインは「蝶と菊水」忌み嫌われる蝶と、そして菊の花がデザインに使用されているのは偶然だろうか?「番町皿屋敷」の行く着く先は"白山信仰"だと云う。お菊が縛られ、それが蝶の蛹に見立てられたのは、「ククリ」が「縛る」と重なった事になっているようだ。蝶を調べての謎は、何故に「万葉集」で詠われて無いのか。何故に東北・北陸だけに蝶の民話と伝説があるのか。そしてだが、もしかして白山信仰との結び付きと、白山信仰そのものの謎に蝶が、どこまで関連するのか?とにかく、蝶がこれだけの個性と存在感を示していながら、それに関する伝承が余りにも少な過ぎるのは、どこかタブーに触れる為では無かったなどと、余分な事を考えてしまう…。
by dostoev | 2017-10-08 07:52 | 「トイウモノ」考 | Comments(2)

沼御前トイウモノ(其の一)

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「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」の著者は、沼御前は館と結び付いて、全部で七か所あると記している。それは、下記の通りになる。

真立館(松崎町松崎 御前沼 荷渡観音 御前様)

小田沢館(青笹町中妻 荷渡観音 御前沼 御前様)

月山神社(上郷町字南田 御前沼 御前様 千手観音)

佐野館(上郷町佐野 御前沼 御前様 薬師観音)

御前(綾織町新田 御前沼 御前様)

天ヶ森館(附馬牛町安居台天ヶ森下 御前沼跡 御水神宮)

荒矢館(附馬牛町荒屋 御前様)


ただ著者は調査すれば、まだある可能性を示唆していた。そこで調べると二つの館跡と三つの沼御前があった。それが下記の通りとなる。

平倉の沼御前

鳥海館(トンノミ沼御前)

火鼻館(沼袋の沼御前)


平倉の沼御前は「上郷聞書」に紹介されていた。またトンノミが沼御前であるのは、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」でトンノミのある地域でトンノミを沼御前と呼んでいたと記されている。また沼袋の沼御前は、直接行って見て沼御前が祀られているのがわかった。そういう事から、遠野市内でわかっている沼御前と付随する館跡は、上記の分布図として表してみた。ただし火鼻館は、うっかりしていたので記載しなかった。

菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」でも、「遠野市おける館・城・屋敷跡調査報告書」から引用して紹介し、沼御前とは何かを考えるも、結論には至っていない。ところで同時に、遠野七観音も分布図に載せているが、もしかして関連がある可能性を踏まえてのものだった。それは遠野七観音に付随する七つの井戸伝説と、もしかして沼御前が結び付くのではと考えてのもの。結論には至らないだろうが、のんびりと沼御前を考えて行きたいと思う。
by dostoev | 2017-06-27 18:52 | 「トイウモノ」考 | Comments(3)

三途縄トイウモノ

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又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄をおのれと木とのめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を堅に抱へてまどろみたるしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽ばたきして、某木の梢に蔽ひかかりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり・・・。                                       「遠野物語62(抜粋)」
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上記は「遠野物語62」の抜粋だが、別に三途縄は「遠野物語拾遺83」でも紹介されている。ところで、こま三途縄は遠野のマタギの呪術になるのだが、遠野のマタギは日光マタギ衆に属する事から、「日光狩詞記」で、山での呪術や禁忌を調べてみたが、この三途縄と同じ様なものを発見できない。日本の文化は、まず穢れを祓う文化が、かなり根付いている。その穢れには、赤不浄や黒不浄などがある。赤不浄は、女性の月経や出産に関し、黒不浄は、人の死に関するものである。マタギはどちらの不浄も嫌う為、家族の出産や葬式が起きれば、猟は最低でも1週間は休む事になっているようだ。しかし三途縄とは、棺桶を結ぶ紐を利用する事から黒不浄そのものである為、マタギの習俗に反するものだと理解しなければならない。
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それでは、黒不浄を好むものとは何かを考えれば、思い出すのは金屋子神である。火を扱う蹈鞴の世界では、赤不浄は忌み嫌われるが、黒不浄に関しては歓迎するほどのものとなっている。八百万の神々とは言うけれど、不浄を歓迎する神とは金屋子神くらいではなかろうか。

三途縄は、葬儀の時に棺桶を結ぶ麻紐を人に見つからないように手に入れて使用するものであるが、似た様な習俗として蹈鞴では火の廻りが悪い時は棺桶の木切れを取って来て火を焚いたという。火の成就に、黒不浄が必要とされているのが蹈鞴。なんとなく三途縄は、マタギの習俗より、蹈鞴の習俗に近い。
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金屋子神は、狐に乗った姿で表されているが、それは荼枳尼天と習合した為だと云われる。金屋子神の縁起には、金屋子神が七か所の蹈鞴を巡っていた時に、犬に吠えられ驚いて逃げる時、麻苧の乱れに足を取られ、倒れて死んでしまった。それから鉄が涌かなくなって困っていると、金屋子神の託宣に、自分の死骸を葬らずに蹈鞴の押立柱に立てかけろの言葉通りにしたところ、鉄が吹けてきたという事から、蹈鞴では死体が好まれるとされた。金屋子神が犬に吠えられた理由は、荼枳尼天と同じに狐に乗っていた為だとされている。

死体を好む金屋子神であるが、荼枳尼天もまた死体を好む。インドの尸林という墓場には、必ずと女神のお堂が巫女によって祀られていた。巫女は、お堂に祀られていた女神の供養を主たる任務としていたのだが、ここで考えられるのは尸林という墓場とは死体が集まるという黒不浄の地でもある。そして狐もまた死肉を食い漁る獣とされた事から、金屋子神と荼枳尼天の眷属としての狐であろう。

ところで、三途縄は麻紐である。金屋子神は、麻苧に足を取られて死んでしまったという事から、麻を嫌うとされている。麻は朝に通じる。その朝の語源は「明日」から発生したという事だが、これは一日の始まりが太陽の沈んだ後の夜に始まった事に対比される。古代では、太陽が沈んだ後の夜とは、神や魑魅魍魎が闊歩する時間帯であり、人間にとっては生きた心地がしない時間帯でもある。これを"死の時間帯"と称して良いのかもしれない。その時間帯に三途縄という麻紐で結界を張るという事は、朝を作るという事になるのではなかろうか。麻=朝は、金屋子神が嫌うものであり、金屋子神が人の死を喜ぶものである事から、その死を免れる為の三途縄ではなかろうか。もしくは、麻紐の三途縄は金屋子神の死をもたらすものであろう。太陽と同じに、神は死んだ後に、再び蘇る。つまり「死と再生」が、三途縄に組み込まれていると考えて良いのでは無かろうか。死の習俗から金屋子神を登場させはしたが、ここでの三途縄の対象は、あくまでも自らに死をもたらすであろう魔物に対する恐怖であろう。それは、死の匂いが漂う夜に起きる。その夜の闇を殺して、太陽を再生させる呪術が三途縄なのだろうと思う。そして、この三途縄の呪術をもたらしたのはマタギ筋では無く、蹈鞴筋であろうと考えるのだ。
by dostoev | 2014-12-17 09:16 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)

横田村トイウモノ

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ 遠野の古き三地名」を読んでいると「阿曾沼興廃記」の一文を紹介していた。「文治五年、阿曾沼四郎広綱、閉伊郡の内遠野十二郷を賜り、入部して横田村護摩堂山を守城に築き、横田城と称す。」とある。その横田村は、横田・鵢崎・新里の三か村を総ての一郷の中の一村となっている。その横田村の名称を「阿曾沼興廃記」では、こう記している。「護摩堂山の梺に田あり、四方え廻り見るに皆横に見ゆるなり。故に此処を横田村と称すといへり。」と。松崎の蓬田遺跡からは、奈良時代の土師器が発見されている事から、護摩堂下に流れる猿ヶ石川沿いには、既に田圃があり、米作りが成されていたのだろう。広く「横田」とは「横に突き出た田」を意味しているという。確かに「阿曾沼興廃記」での描写には、その様に記されている。ただ解せないのは、その横田という地名を以て、横田城と名付けたのはまだわかる。しかし、鍋倉山に移転してからも横田城を名乗り、その麓の町を横田町としている事だ。

実際は阿曽沼氏では無く、その家臣である宇夫方氏が遠野に派遣されて、開拓・開墾に勤しんだのだった。横田城は阿曽沼氏の遠野支配の拠点であったが、その家臣である宇夫方氏は、綾織の谷地館を築いた。他の館とは違い、谷地館は低湿地に築かれ、宇夫方氏は更なる開拓・開墾に勤しんだようであった。気になるのは、谷地という地名は谷内であり、種内でもあり丹内でもあるという事。綾織に鎮座している丹内権現堂の棟札に谷地舘11代当主、宇夫方守儀の名がある事から、丹内権現堂と谷地舘とは密接な関係にあったという事が理解できる。丹内権現堂の神は、東和の丹内山神社と同じで原住民の崇拝する土地神であろうとされているから、谷地館の信仰は丹内山神社にも繋がるのだろう。
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話を横田に戻すが、阿曽沼氏が遠野にもたらしたものは、農業法だけでは無く、その農地を耕す鉄製農具であったという。つまり、鍛冶職人を連れてきて、刀を打つよりも、農具を打ち作ったと云われる。実際に、護摩堂近辺には山螢の里と呼ばれる地名があり、そこで蹈鞴が踏まれていたらしく、年代は明らかでは無いらしいが、恐らく阿曽沼氏の頃からでは無かったろうか。上郷の佐比内に与衛門洞という鍾乳洞があるが、その鍾乳洞の入り口手前に石灰の産地があり、その石灰がこの山螢の里に運ばれたようである。

ところで横田城は護摩堂山に築かれたから護摩堂館とも呼ばれたようだが、護摩が焚かれたので護摩堂であったようだ。その護摩とはたいていの場合密教系であり、横田城跡に妙見の石碑もある事から、阿曽沼氏及び宇夫方氏は、密教系修験者の影響を受けていたと思われる。「遠野くさぐさ」でも伊能嘉矩が紹介しているが、横田地名の古くは、出雲の斐伊川沿いの横田郷であり、ヤマタノオロチ退治の舞台でもある。御存じの通り、ヤマタノオロチを退治した後、その尻尾から草薙の剣が現れる事から、そのヤマタノオロチが蹈鞴との関係が深いであろうとの説が一般的になっている。そして、その横田だが、修験者の間に伝わる用語では、田は鉱山そのものを意味する。横は横穴を意味し、つまり「横田」とは鉱山の坑道をも意味する。

遠野市に隣接する住田町から340号線を陸前高田に進むと、真っ先に辿り着くのが陸前高田の横田町である。遠野の横田と同じ地名であるが、この横田町で稲作が出来るようになったのは、昭和になってからであった。確かに山の谷間にある陸前高田の横田町の立地では、稲作は困難であったろうと思える。その横田町の歴史を調べると、その横田町に住む金野家の文書に「貞観十三年(871年)、安倍兵庫允為雄が気仙郡司に任ぜられ、横田邑に住し、しばしば朝廷に黄金を献上し金氏の姓を賜る。」とある。その横田町を見て回ると「御鍛冶場跡」「吉ヶ沢鉄山跡」「黄金山水天宮」など、金属に関する地が多々あるのに気付く。そして遠野との共通するのは、横田町の神社の半分以上が早池峯大神を祀っているという事だ。また、舞出神社などは、遠野の上郷から来た少女を人柱とした後に、神として祀り、一緒に早池峯大神を祀っているのであった。

先に紹介した谷地舘が丹内権現堂と関係があるのなら、それは東和町の丹内山神社との関係が深くもその丹内山神社の祭神は「谷内権現縁起古老伝」によれば、丹内山神社の神とは、その先にある滝沢の滝に出現した早池峯大神であるという事。の丹内山神社には御神体の岩があるのだが、磐座信仰を突き詰めれば、鉱物信仰に行き着く。遠野の伊豆神の由緒には、始閣藤蔵が早池峯大神に対して、金を見つけたらお宮を建てると祈願した後に、見事に金を発見し、早池峯山頂にお宮を建てた事から、早池峯大神とは鉱山の神でもあるという事だ。つまり、陸前高田の横田町もまた早池峯大神を祀る神社が多くあるのは、採掘の民が住み付いて鉱山開発した村であるから横田と名付けたのだと思うのだ。

阿曽沼氏は小山氏と同族であり、その小山氏は琵琶湖の瀬田橋での百足退治をした藤原秀郷の末裔としても名高い。その小山氏が琵琶湖の瀬田橋の傍らに館を建てて、その一帯を取り仕切っていたのだが、その領地内で祀られている神社は、佐久奈度神社であり、早池峯大神である姫神を祀る神社である。俵藤太の伝説は、大蛇と百足の戦いであるのだが、その大蛇と百足とは、採掘法の違う部族同士の争いを伝説化したものであるという説が一般的である。それらを考慮に入れれば、遠野の横田村は阿曽沼氏が入部する以前から横田村という名の村があったわけではなく、鍛冶師を遠野に連れてきた阿曽沼氏であり宇夫方氏が、採掘と産金を手掛けた事から、横田村と名付けたのではとの考えも成りつたのではなかろうか。全国の横田地名を調べても、田園地帯というよりも採掘産金に携わる民が多くいたようである。
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阿曽沼氏が遠野に入部した鎌倉時代であるが、その鎌倉時代に蒙古襲来という国家挙げての大事件があった。それに困ったのは都に住む朝廷であった。その時の書簡が発見されているが、その内容は「このままでは、都が飢え死にしてしまう。」との内容であった。どういう事かといえば、蒙古襲来によって九州からの船便が停止した為、都に送られる筈の米を中心とした食料が手に入らずに困っているとの意味であった。つまりその時代の食の殆どは温暖な九州に頼っていたという事。つまり、東北で採れる米など、たかが知れていたのである。それよりも、東北であり陸奥国は、採掘・産金が中心であり、それは坂上田村麻呂の蝦夷征伐以降に開発された歴史によるものであった。だが「日本書紀 継体天皇記」には、「男が耕作しないと、天下はその為に飢える事があり、女が紡がないと天下は凍える事がある。」と記されているので、確かに農業と養蚕は奨励されていたのだろう。ただし地域的な問題から、東北には農業に対しての多くの期待は無かったようである。いろいろな状況を考えてみても、遠野の横田という地名は、農業に関するものではなく、あくまで採掘に関する事から付けられた地名ではなかろうか。更に付け加えれば、阿曽沼氏の後に遠野を支配した南部氏も、農業主体と言うよりも、やはり鉱山開発であった事を踏まえれば、横田城を南部氏が受け継いだのも納得するのである。上に掲載した画像は、南部氏の「えんぶり」の踊りの衣装であるが、これを南部氏は農業に関係するものだとして踊っている。「えんぶり」の格好は烏帽子を被り、手には農作業用の道具「えぶり」を手にしているというのだが、その「えぶり」とは、元々蹈鞴製鉄の用具から発生したものである。どうやら、阿曽沼氏も南部氏も、農業を隠れ蓑として鉱山開発をしたのではなかろうか。そして、その鉱山開発がメインであったから、横田城を鍋倉山に移転しても尚「横田」という名に拘ったのではなかろうかと思えるのだ。
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そして以前にも書いたが、上の図の様に遠野の東西南北に聳える山を線で結んだ場合、その中心に来るのが横田城跡である。陰陽五行において、東西南北を各々玄武・朱雀・白虎・青竜とし、その中心は支配の地を表す黄龍となる。黄龍=横田=支配の地であるならば、その横田という地名を大事にし、新たに鍋倉の地へ横田の名称を移転したのも頷けるというもの。

横と云う漢字は、門を閉める閂を意図して発生したとも云われる。つまり、内部のモノを閉じ込めるとか抑える、確保する意がある。そして、横という漢字は、木偏に黄色。黄色は、橙など魔除けを意味し、火を意味する。木偏である事から、松明に近いものと考えて良いのだが、黄色は黄龍でもあり土と結び付く。それに木という春を示す万物が成長する意味がある事から、横という漢字は、その発生するモノを留める抑える意がある。黄龍が土であるのは、陰陽五行から土剋水で、水を抑制する意味も含んでいる。横田が田園地帯を意味するなら、水を抑制するのは当然であり、それに加えて金を確保する意でもある。だから、横田という名称を大事にして、鍋倉山に移転した後も、横田城という名称を残し、町も横田町としたのだろう。
by dostoev | 2014-11-06 20:45 | 「トイウモノ」考 | Comments(12)

神在月トイウモノ

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早池峯山頂の手前に、賽の河原と呼ばれる場所がある。親に先立って死んだ子供が、賽の河原で石を積む伝承が定番として広く全国に伝わるが、元々は山城国の鴨川と桂川の合流点の佐比河原で葬送が行われた事と塞ノ神が結び付いて作られた伝承でもある。しかし早池峯の賽の河原は本来「神々の集う場所」としてあったようだ。神々が集うと云えば、出雲が思い出される。10月は神無月で出雲に神々が集まる為に、他の地域では神無月だが、出雲では神在月となるという言い伝えが、古くから広まっていた。

伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、遠野の山神に関する伝説の一つが紹介されている。

婦人安産の後、先きに迎ひし山神を送りて、塞ノ神の鎮座する境土にまで到れば、此の時塞ノ神は山神を迎ひて問ふらく。

山神問ふ。

「女児なり。」

塞ノ神問ふ。

「如何なる女児か。」

山神答あること云々す。塞ノ神重ねて曰く。

「先きつ頃何の地何の処に一男生るる云々。此の児即ち其の女児の配偶者として好適せん。」

山神乃ち同意し、或は否認す。斯くて其の同意あるときには、此の男女児の上に未来の夫婦の縁結ばれたるにて偕老の契り固きも、若し然らざる者の結縁は必ず中ごろ破鏡の難ありと。今も結婚の媒介者を呼びて「サイノカミ」といふこと之に出づとかや。

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出雲大社は縁結びの神として広く全国に知られている。この遠野からも、わざわざ出雲大社まで赴き結婚式を挙げた者もいる程だ。ところが、この出雲の縁結び信仰は、出雲大社では無く、出雲路神の信仰から始まったという。その出雲路の神とは、京都の出雲路京極に祀られていた道祖神の事であった。

この道祖神は現在幸神社としてあり、祭神は猿田彦となる。道祖神は元々塞ノ神から始まり、この塞ノ神は「船戸神(ふなどのかみ)」「岐神(ふなどのかみ)」「来名戸祖神(くなどのさえのかみ)」「塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)」などとも書き表される。塞ノ神は「さいのかみ」「さえのかみ」とも読み、遠野では妻という漢字をあてて妻ノ神ともしている。この塞ノ神、要は路上の神であり、悪いものに対して「勿来(くな)」「勿経(ふな)」と防ぎ退ける神であった。そして後に、古代中国に伝わる旅の神であった道祖神と結び付き、今では道祖神の方が一般的になっている。ところが旅を続ける傀儡子や白拍子などが道祖神を信仰するようになり、その傀儡子や白拍子が一夜妻として男と結び付いた事から、いつしか道祖神は男女の縁結びの神ともなったようである。

ところがだ、その出雲において佐太神社の祭神が猿田彦となってややこしくなっている。神々は出雲に集まるのは古代からの伝承であるが、詳しくは最終的に七つの神社を経由して神々が移動したという事だ。その中には出雲大社と並んで佐太神社が含まれている。しかし、14世紀には出雲大社の名前が消え、佐太神社へ神々が集うと広まったようだが、15世紀頃からは再び出雲大社に神々が集うと改められたようである。それが現在まで続いているのだが、その佐太神社を広めたのは熊野の歩き巫女ではないかとも云われている。何故かといえば、佐太神社の祭神を見ると、ほぼ紀州熊野の神である事が理解できる筈だ。紀州熊野は本殿が三座で、祭神が十二座となっているが、出雲の佐太神社も同じになっている。佐太神社の正殿には、伊弉諾、伊邪那美、事解男、速玉男ならびに秘説一座としている。この秘説一座を佐田大神として、猿田彦が結び付いている為に、佐太大神=道祖神とされているようだ。それ故、出雲に神々が集い、男女の縁を決めていると伝えられている。
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先に紹介した遠野の伝承で、山神と塞ノ神が男女の縁を結んでいるのは、まさに出雲の神々の集いであり、早池峯はまさに神在月の場でもあったか。菊池照雄「山深き遠野の物語せよ」において、菊池氏もまた熊野の歩き巫女の存在を示している。熊野の歩き巫女は、熊野神と縁深い地を目指し、その途中で熊野信仰を広めて回ったという。その一つが、菊池氏が述べる傀儡坂の伝承で、早池峯に縁のある熊野の歩き巫女でもあった。つまり、早池峯の神々の集う地という伝承は、13世紀以前となるのだろうか。

熊野から歩いてくるなど今では途方も無い様に思えるが「延喜式」によれば、都から陸奥国まで二十四日と規定されている。これが陸奥国の入り口であるならば、おおよそ熊野から遠野の早池峯ので一か月を要して歩き巫女は来たのだと思える。以前泊まった事のある、日本縦断をした者に聞くと、一日の限界がだいたい40キロから50キロだという。これを一か月に換算すれば、約1200キロ~1500キロを歩くという事になるので、一か月で熊野から遠野へ歩く事は出来るのだろう。ただし、早池峯山頂手前の神々の集う場所を決めたのは熊野系修験者であろう。何故なら、早池峯そのものは当時女人禁制であった筈。細かな場所を歩き巫女が設定できる筈も無く、それは男である修験者であったのだろう。熊野では男の修験者を狼と呼び、巫女を兎と呼んだ。早池峯に伝わる狼の伝承もまた、熊野修験によるものであったろうか。

その熊野から室根山に運ばれ祀られた神が、早池峯と同じ神であるというのは、熊野の影響を受けている佐太神社の祭神である秘説一座もまた気になるところではある。何故なら、塞ノ神=岐神と荒覇吐(アラハバキ)神は同一視されているからだ。伊勢神宮の荒祭宮に祀られる天照大神荒魂=瀬織津比咩は、アラハバキ姫とも呼ばれる。その伊勢神宮の本来の太陽神は猿田彦では無いかとも云われる。また三重一之宮の椿大社には猿田彦が祀られているが、その椿大社に合祀された石神社には天照大神荒魂が祀られている。佐太大神が猿田彦とも云われるが、出雲の佐太神社を含めて熊野との繋がりから、早池峯の信仰もまた複雑怪奇ではある。ただ言えるのは、神在月と呼ばれる地は他にもあり、それは二荒山であり、熊野であり、諏訪であると云われる。共通するのは蛇神を祀るという事だろう。当然それは、出雲大社の神事とも関わるが、全ては蛇神を呼ぶ信仰と神在月が重なるという事ではなかろうか。ちなみに、神社に飾られる注連縄とは蛇が交尾で交わっている姿を模していると云う。つまり注連縄を潜るという事は、男女の縁結びとも結びつく。その根底は、蛇の陰陽の結び付きから来ているのかもしれない。
by dostoev | 2014-11-03 18:31 | 「トイウモノ」考 | Comments(0)