不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:遠野不思議(史跡)
2023-09-11T15:55:06+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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遠野不思議 第五百七十四話「たたら神剣」
http://dostoev.exblog.jp/8754912/
2008-08-02T08:11:00+09:00
2017-05-29T11:48:41+09:00
2008-08-02T08:11:37+09:00
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遠野不思議(史跡)
日出神社に大神剣が祀られている。これは安政四年、南部藩士大島高任が大橋鉱山に様式溶鉱炉を造り、そこで上郷町の日出神社に「たたら神」として祀る為に造られたのだと。飢饉による精神的な安定を信仰を「たたら神」に求めたというのだ。
在郷の人々が、この大鉄剣を運ぶ集団に参加して、その時歌われた歌があり「剣引きたたら唄」と呼ばれる。
ヨーイショ、ヨーイショ
おらがたたらの神様じゃ
せいの、せいの、それ引っ張れや
たたら神様森の下
大黒ちゃちゃ、福チャッチャッ
たたら神様、福チャッチャッ
たたらさまだぞう、福チャッチャッ
ただこの歌は、口伝で伝えられ歌詞に差異があるというが、原型の歌詞という
事らしい。
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遠野不思議 第五百六十八話「遊井名田番所跡」
http://dostoev.exblog.jp/8733563/
2008-07-30T07:07:43+09:00
2008-07-30T07:08:10+09:00
2008-07-30T07:08:10+09:00
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遠野不思議(史跡)
伊達藩に対する押さえとして、街道の往来の取締りと警備の為に設けられた
番所だった。しかし今では建物などは存在せず、ただ写真の通りの案内板が
存在するのみだ。]]>
遠野不思議 第五百二十五話「沢里屋敷跡」
http://dostoev.exblog.jp/7859038/
2008-04-16T14:01:00+09:00
2023-09-11T15:55:06+09:00
2008-04-16T14:01:23+09:00
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遠野不思議(史跡)
本丸の北よりの下手に、沢里氏の屋敷跡がある。沢里氏は、内丸上部北郭の防衛を担っていたのだという。そして、この沢里屋敷跡には以前、尾崎神社を祀っていた。
遠野南部氏が八戸根城より転封後、釜石の尾崎神社に参詣し、海防の海岸警備及び巡視したのだという1635年に幕府は鎖国令を発し、全国に行き渡ったのは1639年。事件として1643年にオランダ船ブレスケン号が飲料水補給のために山田湾に浮かぶ大島に入港した事件があったという事実以外に、江戸時代には、かなりの外国船の往来や難破などがあり、三陸の人々と外国人の交流があったという話もある。中には外国人と結ばれ、その子供を産み落とした女性もかなりいたのだとか。もしかして、聴耳草紙に紹介される「島の坊」の話も、それに関わるのかもしれない。
内丸上部北郭の防衛を担っていた沢里屋敷跡には、海岸の防衛を担っていた尾崎神社を祀っていたという事は、内陸と沿岸両方の防衛を意識してのものとして、沢里氏に期待してのものだったのだろうか?]]>
遠野不思議 第三百五十二話「地蔵の殺傷場」
http://dostoev.exblog.jp/5206728/
2007-04-22T21:04:00+09:00
2019-04-08T07:23:57+09:00
2007-04-22T21:04:07+09:00
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遠野不思議(史跡)
首切り場だったという場所には、今では石碑が二つだけ並んでいる。ここには、何か宝物が埋まっているとの伝説もあったようだ…。]]>
遠野不思議 第二百十二話「三峰神社跡」
http://dostoev.exblog.jp/2288542/
2006-05-25T08:56:00+09:00
2007-02-17T05:07:32+09:00
2006-05-25T08:56:55+09:00
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遠野不思議(史跡)
昔は祠もあったらしいが、今ではこの石碑だけの三峰様。
安政二年(1855)に狼が村里に出て来て、人や家畜に危害を加える
ので、村人が三峰様の祟りでは?という事から衣川から分霊して貰い
祀ったら、それから狼が村に出る事は無かったという。]]>
遠野不思議 第二百話「清心尼公の碑」
http://dostoev.exblog.jp/2214245/
2006-05-18T23:10:00+09:00
2017-03-21T13:13:48+09:00
2006-05-18T23:10:39+09:00
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遠野不思議(史跡)
盛岡南部信直の娘と、遠野南部十九代直栄の間に生まれた娘で、名を子子(ねね)と称した。長じて八戸南部二十代直政の夫人となったが、29歳の時に直政早逝し未亡人となり、跡継ぎが無かった為に封建時代では異例の、女性の殿様となった。
遠野南部では、相続人無き時は、家老職の一族より選ばれる事で、新田政広の子、直義を養子に迎えた。慶長6年、八戸から遠野の転領にあたっては、養子直栄を補佐して遠野郷の統治に勤め、遠野南部250年の基礎を築いた女傑であった。
二十一代遠野南部領主、清心尼公。
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遠野不思議 第百九十九話「阿曽沼公歴代の碑」
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2006-05-18T23:05:51+09:00
2006-05-18T23:05:56+09:00
2006-05-18T23:05:56+09:00
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遠野不思議(史跡)
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遠野不思議 第百八十四話「新谷番所跡」
http://dostoev.exblog.jp/2081551/
2006-05-08T09:06:00+09:00
2021-01-17T06:44:35+09:00
2006-05-08T09:06:39+09:00
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遠野不思議(史跡)
明治維新の頃まで南部と伊達両藩の境界警護の為に設けられたもので遠野領では他に鮎貝、赤羽根、鱒沢の三ヶ所に設置されていた。]]>
遠野不思議 第百六十一話「安陪屋敷跡」
http://dostoev.exblog.jp/1861581/
2006-04-21T05:07:52+09:00
2006-04-21T05:07:52+09:00
2006-04-21T05:07:52+09:00
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遠野不思議(史跡)
常堅寺の裏手に、安陪貞任の一族の屋敷があったそうだ。ここには的場の跡に、
堀の跡などの遺構があり、更にその北側には、八幡太郎義家の陣地跡があった
筈だが…?今では新たに作ったらしい堀と…?
「遠野物語六十八話」に…安陪という家ありて、貞任の末裔と云う。昔は栄えたる
家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通す。刀剣馬具またあり。と記されている。
実は、河童淵の主として有名になった故・安部与市さんが、その末裔であったと
いう。安部さんの家には、三条小鍛冶宗近の太刀と、天九郎の槍に、妙珍作とん
ぼのくつわ等を所蔵していたらしい。
側には小さな社があり、安部氏の先祖が、甲州より稲荷神社を勧請し、旧二月
十五日に「ダンビラーケー」「ダンビラ祭」が近郷の山伏を一同に集めて行ってい
たという。そこで湯立ちの儀式を行い、巫女が笹を振り巫女舞を舞ったと云う。
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遠野不思議 第百四十一話「ケッコロガシ沢」
http://dostoev.exblog.jp/1554493/
2006-04-01T21:46:00+09:00
2015-07-26T16:46:10+09:00
2006-04-01T21:46:29+09:00
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遠野不思議(史跡)
遠野には、多くの刑場跡がある。阿曽沼、南部の両時代にまたがる長い間に刑場はあった。その一つに来内にある処刑場は、ケッコロガシ沢と呼び、罪人を崖の上に立たせ、後ろから蹴り転がしたという。
現在は来内ダムとして、水源が確保されている場所となっている。対岸に見える石垣は、阿曽沼、南部時代の名残だろうか?
ケッコロガシ沢で奇跡的に助かったのならば、罪を許し蕨峠から伊達領へと追放したという。
アイヌ語で、来(ライ)は死。内(ナイ)は谷を意味するという。つまりここは”死の谷”として昔から存在した。実際、この地には多くの自殺者が後をたたない。]]>
遠野不思議 第九十話「遠野最古の五輪塔」
http://dostoev.exblog.jp/1132245/
2006-03-08T16:28:12+09:00
2006-03-08T16:28:12+09:00
2006-03-08T16:28:12+09:00
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遠野不思議(史跡)
五輪塔は、仏教で宇宙万物を生成する元素とされる地、火、水、風、空の
五大を、方、円、三角、半月、団形(如意珠)で象徴し、石などで型どって、
下から順に積み上げた塔。この五輪塔の高さは130センチ。
五輪塔は以前二基あったが、一つは阿曽沼歴代墓碑に移動したという。
この五輪塔は鎌倉時代作で、遠野市文化財に指定されている。]]>
遠野不思議 第八十九話「五輪峠」
http://dostoev.exblog.jp/1132137/
2006-03-08T16:18:28+09:00
2006-03-08T16:18:28+09:00
2006-03-08T16:18:28+09:00
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遠野不思議(史跡)
伊達藩と南部藩の境界地の峠の名で、現在の遠野市と江刺市の境にあたり、
五輪塔が建立されているので五輪峠と呼ばれている。
阿曽沼広長が、慶長5年(1600)に出羽出兵中、一族の鱒沢左馬助広勝等が
南部氏の後押しによる反乱をおこした。広長は伊達家の助けを得て攻め返し、
三度も五輪峠で戦ったが敗れた。400年の阿曽沼時代の終焉を告げる記念
すべき古戦場である。
この五輪峠は寛永年中(1624)葛西氏の臣、上大内、沢屋敷、千葉、上野など、
主家が伊達正宗に攻められたとき従軍して戦死したので、上野の子息日向が、父
の菩提を弔うため巨額の費用をかけて峠に五輪塔を建立したという。
宮沢賢治の言葉を望み、藤原江刺へと通じる小友町からの峠である五輪峠。かって
山伏が築いた金を獣道を使い、金色堂に金を運び、更にその道を使い生き長らえた
義経が逃げ延びたという伝説の峠。クネクネとした山の頂きにあるその峠は、歴史
の重みを今尚伝える場所でもある。]]>
遠野不思議 第八話「宮の目の殺傷場」
http://dostoev.exblog.jp/891672/
2006-02-21T20:45:00+09:00
2011-11-09T16:05:05+09:00
2006-02-21T20:45:15+09:00
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遠野不思議(史跡)
正確な場所は定かでは無いが、だいたい現在の風の丘の裏側に流れる猿ヶ石川に沿った場所にあったらしい。
南部の時代、殺傷場は以前は、今の来内ダムの付近だった。その後、南部利直が「今後は遠野領の科人について、こちらに伺いを立てなくとも、拷問でも死刑でもそちらの役人で執行してよろしい。」という事から。宮の目に殺傷場が設けられたと云う。
女殿様と呼ばれた清心尼公の行使した処刑で有名なのは、お六という女性の磔刑である。清心尼公曰く男女の不貞操の原因はまず女の側にある。」と述べていたようである。そういう時勢に、お六という女は仙台領の旅商人とねんごろの仲となり、ついには仙台領へと駆け落ちしてしまった。
清心尼公は激怒して「これは日頃から、女の操について自分が求めている事に、真っ向から反逆した行為である。これを見逃しては、今後の為にならぬ。」と、役人を通じて仙台領と交渉し、お六を引き取り処刑を命じた。姦通による磔刑は、おそらく遠野だけであったろう…と、世間はその厳しさに恐れ入ったと云う。
この宮の目の殺傷場で、最後に磔にされたのは、お沢という絶世の美人であったという。裸馬に乗せられ、町中を引き回しにされるまでは、化粧した顔に薄ら笑いを見せていたが、いざ磔台にさらされた時の言葉は「ああ!なんともならぬものか!魂は止まってこの里の活け大根を一本残らず腐らせてみせるぅ!」と叫んだと云う。
が…今も昔も、大根は腐る事なく、育ったという(^^;
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遠野不思議 第七話「阿曽沼の野望(横田城址)」
http://dostoev.exblog.jp/891338/
2006-02-21T20:25:00+09:00
2015-03-30T18:13:44+09:00
2006-02-21T20:25:36+09:00
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遠野不思議(史跡)
文治5年(1189)平泉の藤原氏追討に従軍として功があり、源頼朝から遠野郷を賜った阿曽沼広綱が宇夫方広房を代官として送り、松崎村駒木に「舘」を築いて氏神である八幡神をまつって遠野郷を統治し、その後阿曽沼親綱が横田城を築いたとされる。
いにしえの歴史織り成す人の世を食らひたたずむ彼岸桜の
横田城址には、樹齢何百年かわからぬ桜の古木が2本ある。桜は人の悲しみや痛み、そして苦しみや呪いをも吸い取ってくれる、神聖な樹木である。阿曽沼は、当時の世を想い植えたのか、もしくはあの世を意識して植えたのか、今はそれさえもわからない…。
妙見信仰は、かの平将門も信仰したもの。北極星を司り、要は自らが天の中心であるという意識の元の信仰である…。この妙見信仰の石碑を見ることにより、鎌倉時代に阿曽沼がどんな野望を夢見たのか・・・。
阿曽沼の野望(遠野の呪術的支配)]]>
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