不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-:遠野地名考
2023-10-15T15:18:46+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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梨木平(其の五)
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2023-10-15T09:21:00+09:00
2023-10-15T15:18:46+09:00
2023-10-15T09:21:25+09:00
dostoev
遠野地名考
千城央「エミシとヤマト」「馬に関する地名」の項に「梨の木平」が載っていた。まず「追戸」という地名、「産鉄民が森林を伐採した跡地に馬を放して繁殖した所。後に、村人の共同採草地となった。」とあり、その「追戸の中にあって柴地となり木が無い所が"梨の木平"」と説明されている。
確かに平は「たいらげる」という言葉から、何も無くするという意味と、反抗する者達を抑えその地の平定の意味でも使われる。ここでの「梨の木平」の「梨」は「無」で「木平」とは、「木を平げた」という意味として訳せば、確かにそうなる。岩手県全体、そして遠野も馬産地であり、その岩手県内に「梨の木平」という地名が複数あるという事からも、「梨の木平」という地名が馬産地に関係しても違和感は無い。
馬の放牧地として梨の木平の地名が成り立つとすれば、達曽部と大迫の境界にある梨木平。琴畑部落にある梨木平。上郷町来内と遠野町の境界近くにある梨木平。上郷町にある梨木平。これら遠野の梨木平に馬が放牧されていた伝承があるかどうかだろう。ちなみに、安倍貞任伝説の中に鍋倉山の話がある。鍋倉山は、馬の放牧地の管理馬である番屋であったという事らしい。その鍋倉から来内ダムの方角に梨の木平があるのは、馬の放牧地としての範疇であるのかもしれない。しかし問題は、途中に積善寺という天台宗寺院の広大な敷地内であるという事がどうなのかだろう。とにかく簡単に「梨木平」という地名を、馬の放牧地と結びつけるのに躊躇いがあるのが本心でもある。
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梨木平(其の四)
http://dostoev.exblog.jp/32937099/
2023-02-02T15:03:00+09:00
2023-02-02T15:03:04+09:00
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dostoev
遠野地名考
遠野には、梨木平と呼ばれる地名が四か所ある。一つは、達曽部と大迫の境界にある梨木平。一つは、琴畑部落にある梨木平。一つは、上郷町来内と遠野町の境界近くにある梨木平。一つは、上郷町にある梨木平。この梨木平を岩手県、いや日本全国規模で探せば、もっと見つかるだろう。上の画像は、実を成さない梨の木で、梨木明神として祀られている。
梨木平を調べていて、何らかの信仰の匂いを感じつつも、梨木平そのものがどういう意味を持つのかは、未だに理解出来ていなかった。ただ信仰と考えた場合、まず東北に布教に来たのは天台宗である。その天台宗から、わずかに糸のほつれでもないかと調べてみた。
天台宗関係の本を読んでいると、「諸国一見聖物語」に実成らぬ梨の話が紹介されてあった。その実成らぬ梨の木は、比叡山の西坂本の麓にあると。比叡山とはつまり、天台宗総本山延暦寺のある山である。その実の成らぬ梨の木を見て、徳一和尚という人物が一首詠んでいる。
「草も木も仏に成ると云ふ山の麓に成らぬ梨もこそあれ」
その歌に対して、伝教大師という人物が歌を返した。
「草も木も仏に成ると云ふ山の成らぬ梨こそ本の仏よ」
天台宗には「天台本覚論」という思想があり、人間だけでなく草木のような情の無いものでも成仏が出来るとされている。その中で、実の成らぬ梨の木とは、超自然的なものが宿る存在であり、元から仏であろうという意味の歌となる。それは当然、仏だけでなく神とも解釈できる。この前「遠野物語拾遺18(実を結ばない小柿)」其の二」で紹介した「万葉集」の歌がある。
「万葉集(巻二・101)」で、「玉葛 実成らぬ木にはちはやぶる 神ぞつくといふ 成らぬ木ごとに」
この「万葉集」の歌からも、梨の木だけでなく実の成らぬ木というものは、普通ではない物事を超越した存在と考えられていたようだ。ここからは、私の憶測となるが、梨木平という地名は天台宗が持ち込んだものと思える。その地名の意味としては、実が成る代わりに仏であり神が斎く地であると。「平」とは凹凸の無いもので、一律で全面的であるとされる。それはつまり、その仏であり神の元、平等となる場所という地名では無いかと考える。ちなみに、宗像の辺津宮には神が斎いだ木が祀られているが、古代から木に斎くのは女神だとされる。天台宗の総本山がある比叡山は、北斗七星が降臨した地であるとされる。となれば妙見の女神が斎いたのが、比叡山の麓にある実の成らぬ梨の木であろうか。
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立丸峠(星名)
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2019-06-20T18:08:00+09:00
2019-07-18T10:01:50+09:00
2019-06-20T18:08:58+09:00
dostoev
遠野地名考
秋田の知人から、連絡が来た。何でも、遠野で一泊二日で地名研究のイベントがあるので参加しているのだと。ただ宿泊は強制的に遠野アエリアになっているので、泊る事が出来ないと。その代わり、わざわざパンフレットを持って来てくれた。そういえば何年か前も、遠野で地名研究会があったものと覚えている。その時は、故・谷川健一氏も参加していた。今回もだが、自分は、そのイベントがあるという情報すら知らなかった。何年か前の地名研究会でも、谷川健一氏が要らないからと、そのパンフレットを戴いた事がある。
ところでパンフレットの内容をざっとは読んだが、その中に立丸峠についての記載があった。立丸峠については以前、マラが立った男の、笑い話のような語源を紹介した事がある。そして今回の地名研究会では、「奥々風土記」「邦内風土記」に立丸峠付近には「龍丸山」が記されており、また藩内絵図に「辰丸山」と記されている事から、「龍丸山(たつまるやま)」が簡略化され、立丸になったのではと考えられると結んでいる。これは、間違いでは無いだろう。龍丸から立丸は、ある意味好字への変化でもある。ただ気にかけて貰いたかったのは、何故に立丸峠と、幼名や船に付けられる「丸」という字が、峠に名付けられたのかという事。遠野で「丸」の付く地名は土淵町の「丸子」と、上郷町の秋丸峠くらいか。
「丸(マル)」はポリネシア語で「船」という意味になる。つまりそのまま、船に「〇〇丸」と船名を付けるのは、当然の成り行きでもある。しかし、山の峠に何故、丸が付いているのかには、説明にならない。ところで「マル」の語源を辿って行くと、中東の「ムル」に由来するらしい。「ムル」から「マル」への変化だが、元を正せばその意味は星の意となるようだ。日本にもマルが星を意味する言葉があった。それは「昴」だ。「昴(スバル)」は別に「スマル」とも言い表すが、どちらかといえば四国・中国地方・九州において顕著のようである。清少納言は「枕草子」において「すばる」と読んでいるが、その出典は「和名類聚抄」からきているだろうとされている。ただその大元は「日本書紀」「古事記」に記される「御統(みすまる)」である。七女神の神話があるプレアデス星団である昴は、七つとも六つの星を統べる存在からきた名である。
志摩(しま)という、地名であり国名があった。その志摩は「七辰(すまる)」からきているともされる。七を「す」と訓むのは古来、七斗(しと)の変化であったようである。そして辰を「まる」と読んだのは、辰星の影響を受けての事であった。辰星、すなわち北辰の意である。立丸は辰丸からきているとされるが、辰丸そのものが星の意である。つまり辰丸は辰の星であり、北辰を意味する。
星は、古来女性の神格を付与させられていた。妙見は斗極とも言うが、元々は星見の天女ともされていた。吉祥天の名も、胡語「ギタ」の音写から始まり、北の語源になった。また妙とは先に紹介した「ムル」の漢訳から「妙(めう)」とされ、古代においては布留とも書き表した。その布留は比咩・比売の意になり、後に好字変化し姫と記されるようになった。物部氏の信仰した布留の神は「円空と瀬織津姫」でも記されているよう、早池峯の神でもあった。また立丸峠と同じく、丸の付く峠は、埼玉県の正丸峠があるが、秩父妙見でも知られる秩父神社との関係があるようだ。
ところで立丸峠には男根の立ったマラからきているという説もあるのだが、要はコンセイサマである。コンセイサマのコンは「金」と表記する。それは、山に埋もれる金でもある。金とは、金属全般を意味するが「日本書紀纂疏」によれば、星が堕ちて石となるとあり、石そのものも山から生れた物と認識されている。全国各地で祀られる御神体である石が、星と結び付いているのはその為である。遠野の山崎のコンセイサマは自然石であるが、これが御神体となるのは、自然石であり、星と結び付くからでもある。何故ならコンセイサマの自然石が大きければ大きい程、大地でもある山の神との結び付きを強くするからである。金精を祀る神社の殆どが、子宝を願う。子は「ネ」とも読み、子の方角は北。また子は根でもあり、山伏用語で鉱物を意味する。始閣藤蔵が早池峯の神に対して金が見つかったらお宮を建てると誓ったのは、早池峯の神は北に聳え、子を生む存在でもあるからである。
坂上田村麻呂の蝦夷平定の後、布教をしたのは天台宗の密教系である。密教系は、明星を信仰する。明星とは、日と月が結び付いて出来た存在であり、それは星である。つまり星とは、日と月との結び付きで生まれたもの。その星は、石となって人々に信仰された。星でもある、その石のコンセイサマの伝説が立丸峠にあるのは、何も不思議ではない。峠が境界であるのは、ある意味人間が踏み入れる事の出来ぬ場所との境界と考えて良いだろう。各風土記にいくつか記されている、山の女神と男神の争いの話は、境界の争いでもあった。その争いに勝利したのは、全て女神である事を考えても、山の境界に立つ神とは、山の女神である。そこにコンセイサマを捧げるのは、至極当然の事である。
恩徳集落の琴畑側の山には、早池峯の遥拝所がある。また恩徳で祀られる熊野神社の奥宮も恐らく、早池峯の遥拝所では無かっただろうか。熊野大神とは、早池峯の神でもあるからだ。ともかく立丸峠は、その名から妙見信仰による地名であり、それは早池峯信仰と結び付いてのものであったと考える。
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聖部落
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2018-09-09T19:37:00+09:00
2018-09-11T08:31:52+09:00
2018-09-09T19:37:30+09:00
dostoev
遠野地名考
遠野市綾織町に、聖(ひじり)部落と呼ばれる地域がある。”聖”と記されれば、西欧的にはセイントというイメージが浮き上がるが、日本的には仏教的な聖(ひじり)である。ただこの聖(ひじり)という漢字は当て字でもあり、その意味は「日知り」もしくは「火治り」でもあったようだ。「日知り」は太陽の運行に関係する暦的なものとなるのだろうが、「火治り」はその名の通り火を治める意味がある。これは阿弥陀聖とも称された、空也の流れを汲むものの様。この空也は青年時代に諸国を遊行しながら、路傍の死者を火葬にした事から、阿弥陀聖である空也と火葬が結び付いたようである。死者が穢でもあった時代、その死者に手を合わせ供養するようになったのは浄土宗から始まったが、その死者を火葬にしたのが空也からであったよう。綾織町の聖部落には、宗教施設は皆無である。ただ少し手前の砂子沢に、大慈寺の末寺である長松寺があり、また少し北へ進むと石神神社がある。この聖部落の地は、古くは陸中閉伊郡鵢崎村(みさざきむら)に属していた。ところでこの鵢崎(みさざき)だが、「鵢」は「シン」と訓じるようだが「鵢」そのものが環境依存文字であり、自分の所持している漢和辞典にも載っていない漢字である。恐らく「みさざき」という呼び名に、後から漢字をあてたものであろう。ただ気になるのは「みさざき」ではなく本来「みささぎ」では無かったか?とも考えてしまう。「みささぎ」とは「陵」であり、天皇などの御陵であるのだが、その御陵の地に聖が属するのであるなら、鵢崎全体が何等かの魂を供養する為の地であったとも考えられる。
画像の山の麓に民家が点在しているが、この辺が聖部落である。間に田んぼがあり、対岸に位置する地には長松寺という曹洞宗の寺がある。その長松寺の始めは田の中に建てられたそうで、後から現在地に移転したという。この鵢崎村に、いつから人が人が住み始めたのかは定かではない。ただ東に聳える高清水山の中腹に蝦夷岩と呼ばれる縄文人が住んでいた岩屋がある事から、古い時代から人は住んでいたのだろう。ただ宗教的な意味合いを持ち始めたのは奥州戦争以降であると思われる。石上神社が建立されたのは、阿曽沼氏の時代からである事からも、高清水の山を隔てた東側に横田城を築き、その裏側が鵢崎であった。横田城側が表だとすれば、鵢崎が裏、裏と表は陰と陽の関係にも近い事からも、葬送に関する意味合いがあったのではなかろうか。
赤坂憲雄「異人論序説」によれば、「聖達は死体処理と葬送儀礼を通して、土地に堆積する穢れを浄め死者の霊魂を鎮める役割を果たしていた。」と記している。また一つの集落を成して定着して住んだのが聖であった事からも、恐らく綾織の聖部落とは、聖の住みついた地であったのではなかろうか。遊部である聖の持つ荒魂鎮魂の儀礼は、火葬を主たるするものである事から、確かに聖とは「火治り」なのだろう。ただし遠野では火葬の煙を早池峯大神が忌み嫌うとされ、南部氏でさえその火葬文化を封印せざるおえなかった。ましてや早池峯山を頂点とする遠野三山のひとつである石上山の麓の鵢崎で火葬を頻繁にしたとは思えない。となれば聖のもう一つの儀礼である、荒魂鎮魂神楽を行った集団に分かれたという事から、その聖の神楽集団が住みついたのが聖部落であっただろうか。
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九重沢
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2017-12-13T11:22:00+09:00
2017-12-13T11:49:26+09:00
2017-12-13T11:22:54+09:00
dostoev
遠野地名考
伊能嘉矩「遠野くさぐさ」には「背後の九重山中に懸泉ありて九重滝といひ、ここに不動の安置ありしは、以て寺址を探るの指針と為すべし。宝暦九年(1759年)十一月に成りし、『八戸弥六郎知行社堂書上帳』に、滝不動とあるは是れなるべし。」と記されている。九重沢は昔、天台宗の積善寺があった場所である。星の宗教とも云われた天台宗と、しばしば不動明王が重なるのは不動の北辰と結び付く為だ。同じ天台宗が支配した早池峯もまた、その麓に滝があり又一の滝と称す。しかし、その又一の滝の本来は「太一」を意味する滝であろう。
九重は「くじゅう」と訓む。ところが「くじゅう」は「苦渋」に繋がるものとも考えられ、敢えて「九重(ここのえ)」とも訓んだ歴史がある。これは「葛野(くずの)」を「かどの」。「葦(あし)」を「よし」に変えた日本の文化の流れでもあった。
九重沢の背後は九重山とあるが、九重山を調べると真っ先に、九州の九重山が出て来る。大分県玖珠郡九重町から竹田市久住町北部にかけて広がる火山群の総称を九重山、もしくは九重連山と呼ぶようだ。それら一帯を「阿蘇くじゅう国立公園」と称す。九重という名称の起源は、延暦年間に、この地に九重山白水寺と久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれた事に由来するらしいが「くじゅう」の意味は不明のようだ。
韓 愈(768年~824年)は、古代中国の唐中期を代表する文人であった。その韓愈の詩の一節の一部に、こう記されている。
一封朝に奏す 九重の天
この「九重の天」とはどういう意味であろうか。それについて、星見の家系に伝わる話がある。古代の星見の仕事をしていた人間を、天官と呼んだ。天官は、いつも夜空の観測をしていた。その星見の仕事をする者達の間では、観星台の事を「隈元(くまもと)」と呼んでいた。その星見系に伝わるのには、天であり夜空であり、宇宙の空間を「九間(くま)」と記していたと云う。「隈なく見渡す」の「隈なく」とは、空の隅々までという意味となる。その九間の成立は、八方と玄天から成り立つのであると。即ち、八方の中心となる北辰の座が九間であった。韓愈の詩に書かれる「九重の天」とは、この八方と北辰から成り立つ「九間」であると。
熊本県には、日本最古とされる妙見宮があり、それはつまり、北辰である。星は、星を見ているからこそ、星を意識するものである。ましてや天台宗は、星の宗教と呼ばれるのは、星を強く意識した宗教であるからだ。恐らく紀州の熊野川町九重も、同じく九間を意味するのではないか。そして熊本、熊野の「熊」も、本来は「九間」である「九重の天」を意味したのではなかろうか。遠野の九重沢もまた、天を意識した「九間」=「九重」であると思う。]]>
赤羽根(青笹)
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2017-12-09T18:49:52+09:00
2017-12-09T18:49:51+09:00
2017-12-09T18:49:51+09:00
dostoev
遠野地名考
赤羽根という地名は、遠野に二ヶ所ある。そのうちの一つ、青笹の赤羽根には伝説が付随していた。「ものがたり青笹」に、その伝説が書き記されているので紹介したい。
赤羽根には溜池が多くあり、そのうち最も古いものを踊鹿の堤と呼んでいる。この堤は百五十年程前、天保年間に百専右衛門(ももせんえもん)という人が築いたと云われる。今では、周囲百メートルほどの堤であるが、その中央には、ぽつんと小さな島がある。踊鹿の堤には昔、主がいると云われ、村人達は神様の様に祀っていた。祭では、最後に中央の島に若い娘を捧げる事になっていた。その捧げられた娘は、次の朝には姿が見えなくなっているのが常だった。しかし、この様な事が何年も続くと、村人達も人を捧げるのが可愛そうになってきた。とはいっても供え物はしなくてはならないので、困った村人達は、とうとう堤の周りで飼っていた鶏を米と一緒に木の箱に入れ、島に置いて来る事にした。鶏達は、次の朝になっても元気な声で鳴き、その鳴き声はそれからも毎日聞こえてきたので、村人達は不思議に思ったが、主の祟りを恐れ、堤の近くに立ち寄らなかった。ある日、鳴き声が聞こえなくなったのに気付いた男が、恐る恐る様子を見に行くと、島の上に鶏の姿は無かった。そこで思い切って島に渡って見たところ、地面に鶏の赤いが散らばっているのが見えた。ところが、男が島に着いたとたん、その羽根がぱあっと舞い上がり、空へ空へと昇って行き、とうとう見えなくなってしまった。この話を聞いて、きっと主の仕業に違いないと信じた村人達は、それからこの土地を赤羽根と呼ぶ様になったそうである。
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これと似た様な話が「上閉伊今昔物語」に紹介されていた。それも、紹介したい。
青笹村踊鹿の堤は天保元年、遠野南部氏の家士、百専右衛門という人が、自らの私財を投じて開墾したところであるが、これには次の様な話がある。
この村には、昔から三つの沼があった。これ等は自然の沼であるとも云い、又、年代がわからないが、往時築いた沼であるとも云われているが、地方の開拓が進むにつれ、灌漑用水が不足した。その為に、これ等の沼の近くに、桜の堤と呼んでいる沼を作った。それは遠野の家士、中館氏が開築したと云われている。
これ等四つの沼でも水不足の為、その付近は良田とする事が出来ず、荒野となっている所が多かった。しかも当時は飢饉の年がうち続いたので、開田を望む事が急であった。その為、屡々更に大きい堤を造るべく、土地を占ったり、又起工したりした人もあった。来内の孫之丞という人もその一人で、工事を起こしたが、水を保たせる事が出来なかったので、途中で中止したと云い伝えられている。この様にこの地は適当と思われなかったが、必要性に迫られ、先人の失敗にも怯まず、百専右衛門が開墾を企てたのであった。そして工事を起こすにあたって、この堤の主として永久に守ってもらう為に、鶏一番と米一俵を生贄として埋めたという事である。その為か、旧址に起工したにも拘らず、所期の如く、東西三十間南北六十間の新堤が翌年には完成したという事である。
この堤の竣工に伴って水田が開かれ、地方を豊かにした事は、言うまでもない事であるが、其の後屡々、雨降りなどの時に、この新堤の附近で鶏のトキをたてる声がしたという事である。古老は「これは恐らく、生贄にした沼の主である鶏が鳴いておったのだろう。」と言っている。
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「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」では、かなり違っているのがわかる。まず時代的に、女性を生贄にする事は有り得ない話だが、これは祭と菊池氏の結び付きを考えれば、別の話が加わっているのが理解できる。とにかく「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」とを一つ一つ比較検討したいのだが、取り敢えず「赤羽根」という地名説を紹介したいと思う。
伊能嘉矩「遠野方言誌」によれば「赤羽根」は、「Akka(水)」「Pana(川下)」の組み合わせで「水の川尻」の意であるとしている。また「上郷聞書」によれば、上郷の菊池久次郎氏「山の走り根のところで山頭部の所である」という説も紹介している。また別に「上郷聞書」では「奥州仙台領遠見記」を紹介し「御境は閉伊郡平倉村のうち、赤八年と言」という記録がある事を紹介している。伊達藩との境界が赤羽根峠である事から、この赤八年が赤羽根を指すのでは、という事らしい。
まず伊能嘉矩のアイヌ語説は、地形的に有り得ないだろう。堤工事に苦労した事からも、水の確保が大変な地であった。川尻であるのなら、もっと容易に水の確保が出来、その地に水を供給する堤を作らずとも良かった筈である。また菊池久次郎氏の説は、確かに標高のかなり低い八幡山の山頭の様でもあるが、それならば遠野に、もっと多くの赤羽根がある筈である。例えば遠野がアイヌ語の「トオヌップ(湖のある地)」から来ているのなら、東北全体に遠野地名が数多く無くてはならないと同じである。そして「奥州仙台領遠見記」の「赤八年」だが、恐らく聞き間違いによる誤記ではなかろうか?伊達藩でそう書き記しているのだろうが、遠野全体に、似た様なものも含め、そういう表記は一切ない。
ところで「ものがたり青笹」と「上閉伊今昔物語」での大きな違いは、鶏の扱いであると思う。「ものがたり青笹」では堤の主に生贄として池の島に、木の箱に入れた鶏を入れた事になっている。しかし「上閉伊今昔物語」では、堤の主になって貰う為に鶏を一番埋めたという事となっている。ここでまず、何故に鶏でなくてはならなかったのか。恐らくだが昔、京都では世の中が乱れたり、疫病が流行ったりした時などに、鶏に罪穢れを背負わせ、木綿幣と称する楮の木の皮で織った白い布を鶏につけて、四境の外に放したと云う。京都の四境とは、逢坂、龍田、鈴鹿、須磨となる。鶏は根の国・底の国の生き物と信じられていた。それで四境の関の外に出したのは、関が邪霊を塞き止めると信じられていた事に由来する。もしかしてだが、堰を関として考え、鶏を置いたのかもしれない。また番の鶏であったのは、「遠野物語拾遺28」の人柱の話で、「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」に則ったものか。「上閉伊今昔物語」の鶏の扱いは、明らかに堤工事が上手くいくようにと人柱の代わりとしての鶏の番であるが、「ものがたり青笹」は、堤の主に捧げる生贄としての鶏である。ただし霊的なものに頼るという事から、どちらも概念は同じである。
ところで鶏を埋める話は、岩手県にいくつか伝わっている。山の地主を呪い殺す為に、その山に鶏を埋めて呪い殺した話。地頭を恨んで鶏に呪いをかけて共に死に、その地頭の部落に凶事が続き全滅した話。それから霧の濃い夜に鶏の鳴き声が聞こえるようになったという。老夫婦が可愛がる娘が殺され、その娘と一緒に鶏を埋めたところ、何かあるたびに殺した男の所から鶏の鳴き声が響く話。相手との争いから死んでしまった馬と一緒に鶏を埋めたところ、相手の村の地面から鶏の鳴き声が響き、それから村に凶事が起きた話。また、境界争いから不利益を受けた為に相手を呪おうと、その境界に二羽の鶏を埋めたところ”のろこと花”が咲き、村人は恐れたという話。このように、相手を呪う時に鶏を埋めている。
鶏を埋める話の殆どが、呪いをかける話になっている。堤工事に、例えば水神を鎮める為の贄として鶏を埋めた話は、この遠野の話だけとなっている。ただ別に、平泉の金鶏山は鎮護の為に黄金の雌雄の鶏を埋めて築いた山だと云い、雨が降る時に、この山から鶏の鳴き声が聞こえたと伝えられている。何故に、鶏を埋めるのか?
鶏は毎日朝の到来を告げる存在になっているが、その逆となった場合、例えば夜に鳴いた場合、火事や洪水、そして死者を出す前触れの鳴声だとされる。鶏を埋める場合は生き埋めの様だが、地面に埋めるとはつまり、黄泉国、地下の闇の国に送るという事になる。その地下の闇の中で鶏が鳴くという事は、夜に鳴くに等しいという事。岩手県の事例を見ていると、鶏と一緒に埋めているものは、その不幸を受けた存在。つまり、その不幸や凶事を相手に送り返す為に、鶏を一緒に埋めたのだと理解する。例えば平泉の場合であるなら、平泉の鎮護とは、その平泉を滅ぼそうとする相手を呪う事で、その鎮護を果たすと考えれば、有り得る話である。「上閉伊今昔物語」は、平泉の話に近いのかと思う。恐らく、堤の鎮護の為に埋めたのだとも考えられるだろう。
山口健児「鶏」において、伊勢神宮の「鶏真似」という神儀が紹介されていた。伊勢神宮の式年遷宮の際、闇の中を正殿瑞垣御門内へ進み、まず扇にて頭の冠を三度打ち、続いて三回「カケコー」と高らかに唱えるのだと。すると正殿の扉が静かに開き、神殿の奥から御樋代が粛々と御出御になるのだと紹介されている。これを知ってふと思ったのは、鶏が鳴くと、夜が"アケル"という事だった。「アケル」とは「明ける」であり「開ける」でもある。伊勢神宮の正殿の扉が開くのは、鶏の霊的な鳴き声よるもの。ここで思い出すのは「驚岡(踊鹿)」という記事で書いた様に、踊鹿の以前は、鬱蒼とした光のなかなか当たらない無開発の地であったろうと推測した。おどろおどろしい地だから「おどろしい岡」が「踊鹿」になったのだと書いた。そこで思うのは「赤羽根」の「赤」である。
「日本語源大辞典」で「赤」の語源は、動詞「アク(開)」から別れた語で、明と同源となっている。「開」は「開発」の意味にもなる。また「羽根」の語源には、「ハ」という不安定な一音節を避ける為に、接尾語「ネ」を付けたものであるとしている。「ハ」そのものは「葉」の意味がある事から、「赤羽根」は「開く葉」という意味にもなるだろう。つまり、木々や葉っぱに覆われた鬱蒼とする踊鹿の地を開発する為の鶏の生贄であった可能性はあるたろう。そしてそのまま地名が「赤羽」となった経緯は、やはり鶏の「羽根」とも重なったのかもしれない。こうしていろいろ総合してみると、青笹の「赤羽根」という地名の由来は、開かれた地という意味ではなかったろうか。ただし、これは上郷町の赤羽根には対応していない。上郷町の赤羽根は、もう少し地形を見、伝承を調べてから考える事としよう。]]>
驚岡(踊鹿)
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2017-12-07T12:04:53+09:00
2017-12-07T12:04:53+09:00
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遠野地名考
踊鹿(おどろか)という地名がある。それ以前は、"驚岡"という漢字表記であったようだ。一昔前、遠野の町外れにはキツネの関所と呼ばれる地がいくつかあった。一般的には、現在遠野市観光マップにも載っている五日市の狐の関所。釜石街道のへの出口には、鴬崎の狐の関所。松崎方面の出口には、加茂明神の畑中の狐の関所。花巻街道ならば、間木野の狐の関所。そして、宮古街道へは八幡山の驚岡(今では踊鹿となった。)の狐の関所。他に、やはり遠野の町外れにある愛宕神社下の鍋ヶ坂の狐の関所。盛岡街道となれば、赤坂の狐の関所などがある。
踊鹿という地名も印象的だが、それ以前の驚岡もまた印象的だ。「驚く」という表記を使用している事から、何となく民話的な響きを感じてしまう。狐の関所でもあった事から、やはり狐に驚かされた話があるのかとも察してしまう。ところが、この驚岡での狐の話では狐もまた人間によって驚かされていた。「ものがたり青笹」によれは、やはり狐の力によって昼間でありながら真っ暗闇になった話が紹介されている。
栗橋村に、駄賃付けをしている男がいた。いつも青笹の飯豊に泊って遠野の町に行っていた。ある日の朝早く、男は踊鹿の辺りを歩いていると、狐が何やら穴を掘っているのに出くわした。そこで男は、狐を驚かせてやろうと傍にあった柴を狐めがけて投げたところ、見事に命中したと。その後、男は遠野の町で用を足した帰り道、再び踊鹿に差し掛かったところ、突然辺りが真っ暗闇になったという。男は暫くおろおろと歩いたそうだが、暗闇に不安になり「助けてけろ!」と叫んだところ「どうした?ここは新堤だぞ?」という通りがかりの人物の声に、ふと改めて辺りを見渡すと、いつの間にか明るくなっていたという事である。これも狐の仕返しだったか…。
この狐を驚かせた事によって、昼間なのに暗くなり、狐に復讐される話は「遠野物語拾遺118」「遠野物語拾遺203」にも紹介されている。
上郷村佐比内の佐々木某という家の婆様の話である。以前一日市の甚右衛門という人が、この村の上にある鉱山の奉行をしていた頃、ちょうど家の後の山の洞で、天気のよい日であったにもかかわらず、にわかに天尊様が暗くなって、一足もあるけなくなってしまった。そこで甚右衛門は土に跪き眼をつぶって、これはきっと馬木ノ内の稲荷様の仕業であろうと。
どうぞ明るくして下さい。明るくして下されたら御位を取って祀りますと言って眼を開いて見ると、元の晴天の青空になっていた。それで約束通り位を取って祀ったのが、今の馬木ノ内の稲荷社であったという。
「遠野物語拾遺189」
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遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来ていた。ある日生家に還ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐がいて、夢中になって川を覗き込んでいる。忍び足をして静かにその傍へ近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛び込んで遁げて行った。勇吉は独笑いをしながらあるいていると、にわかに日が暮れて路が真闇になる。これは不思議だ、また日の暮れるには早過ぎる。これは気をつけなくては飛んだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んでいた。そうするとそこへ人が通りかかって、お前は何をしている。狐に誑されているのでは無いか。さあ俺と一緒にあべと言う。ほんとにと思ってその人についてあるいていると、何だか体中が妙につめたい。と思って見るといつの間にか、自分は川の中に入ってびしょ濡れに濡れておりおまけに懐には馬の糞が入れてあって、同行の人はもういなかったという。
「遠野物語拾遺203」
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驚岡の話も含めて、狐の仕業によって昼間なのに暗くなる話があるのだが、これとどうも豊臣秀吉が「おどろおどろしきことを語れ」と曾呂利新左衛門に命じて語られた「曾呂利物語」に由来するようだ。
ある山伏が、昼寝をしている狐の耳もとで法螺貝を吹き鳴らした。狐は肝をつぶして逃げた。そのまま山伏が歩いていると、まだ昼間なのに暗くなってきた。泊る宿もないので、葬場の火屋の天井に上がっていると、死人が火の中から飛び出し、山伏に掴みかかってきた。山伏は気を失ってしまったが、気が付いてみると、まだ昼のうちで、しかもそこは火葬場でもなかった。狐の仇討であった。
「曾呂利物語」
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「驚」という漢字表記に気になり、狐の話を紹介してみたが、本来の狐の関所は現代の整備された地ではなく、それこそ狐が出そうな"おどろおどろしい場所"であったから、狐の関所とされた。「おどろおどろしい」の例文としては「陰気なおどろおどろしい景色」などと表現するが、簡単に言えば「不気味な場所」という意味になる。「おどろ」とは「棘」の事であり、それは「草木の乱れ茂った所。転じて、もつれからみあっていること。」という意味となる。恐らく驚岡の本来の意味は「恐ろしい狐の出そうな不気味な場所」としてあった地に、後から狐の話が加えられ稲荷神社が建立されたのだと思う。踊鹿稲荷神社の建立時期は不明だが、豊臣秀吉に聞かせた「曾呂利物語」の成立が17世紀になったからの事。豊臣秀吉は1598年(16世紀)没であるから、その死後に文章化されたのだろう。神社の建立に携わったのは大抵山伏であった事から、まだ開発されていなかった"おどろおどろしい"地に神社を建立し、それと共に「曾呂利物語」の焼き直しの話を加えたのは山伏であろう。
踊鹿稲荷の社の反対側の少し離れた右側にも階段があり、そこを登ると森の中に画像の石灯籠がぽつんと一つだけある。これは何を意味するのか、よくわからない。ただその石灯籠を見、その場所の雰囲気も加えて思い出したのが、泉鏡花の俳句だった。
「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」
まさに泉鏡花の俳句を現実のものにしそうな、踊鹿稲荷神社の石灯籠ではないか。是非、五月夜に行って欲しい場所である。]]>
一の渡
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2017-09-15T16:38:00+09:00
2017-09-15T18:31:16+09:00
2017-09-15T16:38:01+09:00
dostoev
遠野地名考
遠野の土淵に「一の渡」という地名がある。一の渡があったら、二の渡は?という声も聞こえてきそうだが、何故か二の渡は全国的にも、まずない。その代わり一の渡は、全国でも見付ける事の出来る地名である。「渡」というと川渡し、もしくは渡り鳥などの旅や、その場に居付かない事を意味する場合があるが、この遠野の一の渡は、小烏瀬川と米通川と琴畑川の合流地でもある事から、やはり川に関する地名だと思われる。
この一の渡の先は、不動岩という地名となっている。不動岩・不動の滝など「不動」の付く名前は、山伏が金鉱脈を探して開発した地域に、大岩や滝があった場合、そういう名前を付けている。つまり古代の土淵に、山伏が入り込んで開発した地域であると理解できる。この一の渡から琴畑方面へ向かうと、やはり山伏の修行場である鍋割がある事からも、この辺の地域は川沿いに、山伏の色合いが濃く出ている場所だとも云える。
花巻市大迫側の早池峯の山懐に「一の路権現」という早池峯大神を祀る地があるが、やはり「二の路権現」は無い。調べると「イチ」は漢数字の「イチ」という意味の他に、今では認識されていない古くから日本に伝わる意味が「イチ」にはあった。
沖縄や鹿児島の民間霊媒師を「ユタ」と言うが、それはどうやら「イチ」の転訛であるようだ。「イチコ、イタコ、イタカ」は全て「イチ」の変化であり、「イチ」とはシャーマンと同義であるようだ。関連する地名に、一の瀬、市ヶ谷、一の谷などがあるが、これらは全て水に関する地名にもなっている。つまり一の渡は「イチ」という呪術師、もしくは山伏が管理する禊場であるか、川原の祭祀場であったと思われる。となれば大迫の一の路権現は、イチの管理する山の祭祀場という事になろう。上の画像は、安倍晴明の川原での祭祀。
よく路が交わる辻などは霊界の入り口、もしくは境界とされる。それは、川も同じとされた。この土渕の一の渡は、琴畑川・小烏瀬川・米通川の合流地でもある。つまり落合であり、落合は死人と出逢うという俗信もある。この地は去年、台風の被害が酷い場所でもあった。その場所には、川を見下ろす様に水神の碑があり、どこか霊的な印象を与える場所でもある。
「蜻蛉日記」の巻末歌集に下記の歌がある。
みつせ川 浅さのほども 知られじと 思ひしわれや まづ渡りなむ
みつせ川 われより先に 渡りならば みぎはにわぶる 身とやりなりなむ
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「みつせ川」とは、「三途の川」を云うのだが、別に渡る瀬が三つある為に三瀬川とも云う。まさに、この一の渡の地は、三つの瀬を渡り禊をし、祭祀をした「みつせ川」ではなかったか。]]>
鍋割
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2017-09-14T18:02:00+09:00
2023-08-18T08:20:37+09:00
2017-09-14T18:02:13+09:00
dostoev
遠野地名考
この地方では清水のハヤリ神が処方々に出現して、人気を集めることがしばしばある。佐々木君幼少の頃、土淵村字栃内の鍋割という所の岩根から、一夜にして清水が湧き出てハヤリ神となったことがある。
「遠野物語拾遺44(抜粋)」
「遠野物語拾遺44」にハヤリ神として紹介されている鍋割だが、まるで佐々木喜善の幼少時代に発見された場所の様に表現している。しかし、この鍋割の地は阿曽沼以前に高野山系の山伏が直接修行に来ていた修行の神聖な場所であったとされている。それを訴えるか様に、今でも鍋割の地には、上の画像でわかる様に「修験道場跡」という石碑が建てられている。
ところで高野山系の山伏という事は、真言系であろう。東の天台、西の真言と云われた様に、関東から東は天台宗が布教してきた地であった。早池峯妙泉寺の建立時期は斉衡年中(854年~857年)とされ、天台宗の慈覚大師円仁が創建したとされている。「早池峯妙泉寺文書」によれば、当初早池峯妙泉寺を支配していた天台宗から真言宗に移り変ったのが、大治二年(1127年)と記録されている。
この鍋割には別に、武蔵坊弁慶の弟子の山伏がこの地に坊舎を建て、修行したとも云われている。弁慶の弟子というからには武蔵坊弁慶の生きていた年代に近いのだろう。武蔵坊弁慶の生まれた日は不明らしいが、死んだとされる文治5年(1189年)と早池峯妙泉寺の支配が真言宗の支配になった頃と重なる。ただ、武蔵坊弁慶は比叡山の僧であったと伝えられる事から、天台宗であったのだろう。この辺りは微妙なのだが、鍋割が真言宗系山伏の修行場となったのが、早池峯妙泉寺の支配が真言宗に変った頃と考えて良いのではなかろうか。そして修行の場であったのならば、「遠野物語拾遺44」で紹介される以前に、水は涌き出て流れてた筈である。鍋割では水分神を祀っている事から、かなり昔から分水嶺であったと思われる。何故なら、鍋割の山神神社の場所だけでなく、他にも小さな沢が流れているからだ。
ところで「鍋割」とはどういう意味だろうか?調べると、鍋割山というのが全国にいくつかあるが、その由来が鍋を半分に割った地形だとしている。もしくは「滑岩(なめいわ)を割った」が転訛した、と云うものあるようだ。岩手県花巻市には鍋割川があり、アイヌ語で「冷たい水が生れる所」と、アイヌ語説を採用している。確かに遠野の鍋割は「遠野物語拾遺44」にも登場し、水が涌き出たハヤリ神ともされた。だがそれならば、岩手県だけでなく、東北各地に多くの"鍋割地名"がなければならないのだが、それが殆ど存在していない。恐らく岩手県という事もあってか、金田一京助から広まった「何でもアイヌ語説」に影響されたのだろう。
また「山と渓谷社」によれば、岩の多いところをナベと呼び、歩きにくい悪い沢を「鍋割」と呼んだのではないかとしている。しかし遠野の鍋割は、岩が無いわけではないが、歩きにくい沢には該当しないだろう。
佐々木君自身も右のチタノカクチのハヤリ神に参詣した。行って見ると鍋の蓋に種々の願文を書いて奉納してあった。俗諺に、小豆餅とハヤリ神は熱いうち許りと言い、ハヤリ神に鍋の蓋を奉納するのは、蓋をとって湯気の立ち登る間際の一番新しいところという気持だそうな。
「遠野物語拾遺48」
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鍋割がハヤリ神としても存在したが、偶然かどうか「遠野物語拾遺48」に鍋蓋の話が登場している。牧田茂「鍋蓋考」では、鍋に蓋をする事によって、鍋の中の霊(たま)が抜け出る事を防ごうとしていたとある。そして逆に、鍋の中に邪悪なものが侵入しないようにした為であろうという事らしい。実際に岩手県では「風呂に入った後、蓋をしないと幽霊が入る」という俗信があるほどだ。逆に言えば、鍋そのものが霊的な内包物を有する器という事か。
遠野の笠通山を、鍋、もしくはお椀を上から被せたような山だと表現されるが、全国にいくつかある鍋割山は、その表現に近い。ただし、この遠野の鍋割の地形が鍋の様な形をしているかどうかは微妙である。遠野には別に"鍋倉山"という山があるが、それは鍋の形をした倉という概念が潜んでいる。山は山伏の考えによれば、鉱物を内包した倉でもあるとされた。早池峯の中腹に御金倉という岩があるが、同じ名の岩が白山にもあり、山伏が名付けたものである。
遠野の鍋割には、山神を祀る山神神社がある。山伏は東北に於いて、鉱物…つまり金を探しに来ていた。始閣藤蔵も、金が見つかったらお宮を建てると、早池峯の神に誓った。山は、鉱物を内包する鍋の様な器だと考えるべきである。その鍋が割れるとは、蓋も出来ない状態になる事になる。つまり山の内包物が漏れる事を意味するのだろう。ハヤリ神としての鍋割は、まさにその状態になったという事か。千疋狼の話になどから、正体がばれる事を「鍋が割れる」という表現をする。それは同時に、山の内包物の正体がわかる事にも繋がると思う。鍋割が修験の修行場であったとの事だが、恐らく遠野の山を探るにおいての前線基地の様なものであったのかもしれない。
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青笹の語源
http://dostoev.exblog.jp/27709717/
2017-04-09T09:57:00+09:00
2017-04-10T13:14:18+09:00
2017-04-09T09:57:48+09:00
dostoev
遠野地名考
六角牛山の麓に、青笹と呼ばれる地名がある。昔は、青笹村であり、今では青笹町となる。「遠野物語拾遺3」に天人児の話と共に笹小屋を建てた事が青笹村の起こりと紹介されている。また別に「ものがたり青笹」によれば、ユキドウという神様を祀った時に湯立て神事があり、その神事に使用された笹を地面に挿したところ根が付いたのが裏も表も青い笹の葉であったという。それから青笹という地名になったと云う。昔は、緑も青と呼ばれた時代があった。ちなみに、ユキドウという神を祀る別当は佐々木氏という事である。
ところで「笹」は小さい竹の意であるが、「ささ」そのものの語源は、月齢三日の朔の月形の形容である。つまり三日月。どうやら笹の葉の形状が、三日月の形として捉えられたようだ。となれば青笹とは「青い三日月」の意にもなる。六角牛山の麓に、三日月神社があるのは偶然であろうか。太陽も月も東から昇るのだが、その東に聳えるのが六角牛山である。
青笹という地域は、河内川、中沢川流域を中心として開発されたとされている。ただその表現を変えて言えば六角牛山の麓の開発であり、過去に六角牛山に人が集まった事を示すものである。岩手県神社庁に伝わる伝承では、六角牛山は「おろこしやま」と記されていた。恐らく「お」は尊称の「御」であり、六角牛山の麓の開発は、山を崇め奉る人々が集まったものと思える。
「上閉伊郡誌」には、青笹では無く「青篠」と記されており、遠野村附之目録にも「青篠」とある事から、古くは「青篠」であったようだ。以前、六角牛(ろっこうし)は、佐々木系の六角氏(ろっかくし)から来ているのではないかと書いたが、その佐々木氏の発生は近江国蒲生郡「篠笥(ささけ)郷」を本拠としている。「篠」は「しの」とも読むが「ささ」とも読む。青笹の語源の伝承に、ユキドウ神を祀る別当が佐々木氏であるのも関係があるのかもしれない。
沖縄で「コイシノ」とは神子名であるが、意味は「越え渡る月」の意である。篠竹などとは言うが、本来の「しの」とは月の意であって、「竹取物語」の様に、竹は月との関係が深い。本来は青篠であった地名が青笹に変更されてはいるが、読みはどちらも「あおざさ」で良いのだろう。その青笹の地名の発生は、やはり六角牛山と月の信仰に大きく関わっているのだと思えるのである。]]>
新張の語源
http://dostoev.exblog.jp/27692947/
2017-04-03T11:47:00+09:00
2017-04-10T13:14:48+09:00
2017-04-03T11:47:39+09:00
dostoev
遠野地名考
「遠野町古蹟残映」を読んでいて、新張という地名が載っていない事に気付いた。まあ新しい地名だろうという認識で、なんとなく「新しい縄張り」か?程度の認識であった。そんな時、たまたま「古事記(景行紀)」を読んでいると「新治(にひはり)筑紫を過ぎて幾夜か宿つる」と「にひはり」という言葉が登場していた。その「新治(にひはり)」を調べると「新しく開墾した土地」の意で、遠野の新張も、あてる漢字が違うだけで同じであろう。普段気にしていなかった地名が、意味を知るとイメージが広がるものである。まあこの新張は、だいたい予想通りではあったが。]]>
梨木平(其の三)
http://dostoev.exblog.jp/27622052/
2017-03-08T18:50:17+09:00
2017-03-08T18:50:18+09:00
2017-03-08T18:50:18+09:00
dostoev
遠野地名考
遠野には梨の木平という地名が、今のところ分かっているだけで三か所ある。今回紹介するのは阿曽沼時代に建立されたという天台宗寺院である積善寺の後方、来内寄りにある梨木平。その梨木平を通って流れる沢を、梨木沢と呼ぶ。
積善寺は阿曽沼時代であるが、現在の鍋倉山に城を移転したのが16世紀後半であるから、積善寺の建立もその頃であろうか。ただ梨木平から東に少し下ったところが、始閣藤蔵が早池峯に金が採れる事を祈願した伊豆神社の地であり、梨木沢にかかる橋が小田越橋であり、地名も小田越となっている。遠野の小田越は別に、早池峯の登山口も小田越という事から、梨木平は積善寺よりも始閣藤蔵・伊豆神社との関係が深いのだろうか。他の梨木平の地に結び付くキーワードは不動明王と早池峯、もしくは九州からの移転者が関係する事から、もしかして本来の梨木平という地名は九州から移転してきた者によって運ばれて来た可能性もあるのかもしれない。]]>
鷹鳥屋
http://dostoev.exblog.jp/27616720/
2017-03-06T20:26:35+09:00
2017-03-06T20:26:36+09:00
2017-03-06T20:26:36+09:00
dostoev
遠野地名考
戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長について書かれた「信長公記」という書に"遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上した"と記されている。遠野孫次郎は、阿曽沼氏が遠野氏とも称されていた事から、遠野孫次郎は阿曽沼氏だとされてきた。しかし、学者である大川善男氏によって、それは否定された。真意は定かでは無いが、小友町の鷹鳥屋が白鷹を飼育していた地である事から、織田信長に送った白鷹は鷹鳥屋産であろうとなっていたようだ。
何となくだが、信長に白鷹を献上したので、鷹鳥屋という地名が付いたのかと思っていたが、どうもそれ以前には鷹鳥屋の地名はあったようだ。"お箱石"と呼ばれる巨石がある。この巨石の場が、鷹を訓練した地と云われている。「小友探訪」には「当時その白鷹を飼育せし地なるを以て、鷹鳥屋の地名出る。」と記されている事から信長に献上した後に"鷹鳥屋"という地名が付いた様にも思えるが、それ以前に阿曽沼氏の家臣による鷹鳥屋の館も築かれている事から、既に地名はあったものと思われる。
ところで"鷹雉(たかとり)"と呼ばれる鳥がいる。実はこの鷹雉、"山鳥の古名"であり、現在遠野市を象徴する鳥として認定されている。鷹は「たか」であり、「たかとり」とは呼ばない。恐らく「たかとりや」と呼ばれる地名があり、後から信長に献上した鷹の話にちなんで鷹鳥屋という漢字があてられたものと察する。鷹鳥屋の地形は周囲を山に囲まれ、谷の合間の集落の様になっている。恐らく本来は「鷹雉の棲む谷」から「鷹雉谷(たかとりや)」と呼ばれていたものが、「信長公記」の一件から「鷹鳥屋」に変更されたのではと考えてしまう。この地には鷹も、かなり生息していただろうが、それよりも鷹の"獲物としての山鳥"が多く生息していた為の「鷹雉谷(たかとりや)」では無かったか。]]>
梨木平(其の二)
http://dostoev.exblog.jp/25417315/
2016-07-06T17:05:57+09:00
2016-07-06T17:05:57+09:00
2016-07-06T17:05:57+09:00
dostoev
遠野地名考
臼杵という地の傍に"梨木平"という地がある。臼杵という地は、九州は豊後国の緒方惟栄の兄、臼杵氏を名乗った一族が開発した土地であるという。その梨木平に入って調べようとしたが、私有地の為立ち入り禁止となっていたので断念した。
別に同じ梨木平という、やはり私有地が遠野にあるが、ここは阿蘇氏を名乗る者が守っていた。内部には梨木明神を祀り、一本の梨木の古木があった。
阿蘇氏は12世紀前半阿蘇近辺を支配する武士団を形成しており、治承・寿永の乱の鎮西反乱にも参加し、源氏方で活躍したが、先の臼杵氏である尾形氏に付いた様である。史実から外れる伝承となるが、源義経に手を貸した緒方氏は、家臣共々奥州へ辿り着き、閉伊氏を名乗ったという。その家臣に阿蘇氏がおり、その一人である阿蘇権太楼は殉死し、川井明神として今も祀られている。
臼杵の梨木平の詳細はよくわからぬが、岩手県の、もしくは遠野の梨木平は早池峯、または不動明王、または蛇との関連を見出す。ネットで検索すると、全国にいくつもの梨木平がヒットするが、その地名の発生まではわからないのが現状だ。]]>
土渕(其の五 結)
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2013-12-03T12:34:00+09:00
2015-04-18T13:23:51+09:00
2013-12-03T12:33:57+09:00
dostoev
遠野地名考
前回のタタラ→ダイダラ→ディディラ→デンデラは遊び記事ではあった。実際に、デンデラ野には土器の出土は確認出来ても鉄器の出土は確認できていない。しかし、山口には金堀沢や鉄穴沢などがあり、また下った所に火渡りという地名がある事から、デンデラ野の立地条件から見ても簡単な「野タタラ」はあったのではないか。そうなれば「野ダタラ」の変換された「野デイデイラ」が「デンデラ野」に更に変換されたとして、何等不思議は無いだろう。
土渕の起点は、小烏瀬川の滝のある不動尊からだと書いたが、伝わる物語では恩徳の不動様と記されている。その恩徳では金山が開発され、恩徳の沢一帯が金山であったという。その中の金堀沢の奥を進むと、山の頂に恩徳熊野神社の奥宮があり、その麓に里宮がある。つまり小烏瀬川滝の不動尊も、熊野修験の影響があるだろう。それは荒川不動尊経由で、熊野・那智の瀧に匹敵すると云われる又一の滝との関連があると予想できる。
その小烏瀬川の滝から少し上がって、熊野神社の手前に沢の水が流れ込む場所に、桜の古木の足元に水神の碑が建っている。恐らく桜よりも、水神の碑の方が古いだろうと思うが、ここで「古事記」の話を思い出した。瓊瓊杵尊は美しい木花咲耶姫だけを娶り、醜い磐長姫を拒絶した為、永遠の命を手に入れる事の出来なかった話だ。永遠の石である水神の碑は、この後もずっとこの地に屹立するのだろうが、姉妹である木花開耶姫の象徴の桜は、常にその時代の誰かが、この水神の碑の傍らに植え続けない限り、石と桜の姉妹が永遠に並び続ける事は無いのだろう。
「土渕教育百年の流れ」を再び読み返すと、土淵各地に金属に関する地名が列挙され、更に金糞の出土もある事から、土渕の開発と共に、そこにはいくつかのタタラ場もあったと理解できる。「土渕教育百年の流れ」の著者は、土渕は明神の働きかけにより開発されたと記しているが、その明神の正体とはなんであろう。
大洞の地に屹立し、春に美しい桜の花を咲き誇る遠野市指定天然記念物でもある山桜は、古老に聞くと「大洞大明神」であるという。先に、遠野では桜を樺の木と呼び、それは木の華の意味であると書いた。木の華とはつまり「火の粉の花」の意でもある。土淵に住んでいたとされる安倍氏もまた「安日・安火(あび)」から発生した氏族だと云われるのも、蝦夷国に住む人々が火の文化を有した所以では無かろうか。そうでなければ、当時の朝廷側との戦で互角以上に戦った事が理解できないのだ。
坂上田村麻呂以降、朝廷にまつろわなかった蝦夷の人々は鬼とされた。坂上田村麻呂の鬼退治は蝦夷退治でもあったのだが、鬼は真っ赤に燃えた炎の前で立つ人の姿がまるで鬼の様だと云われた事に由来する。その鬼以前は、蛇の民だった。諏訪大社を調べても、行き着くのは採鉄の集団となるのは、沼や池に生える葦に付着する錫(スズ)を採集していたからだ。錫は鍛錬鍛冶の原料になったのを考え見れば、龍神であり大蛇が発生した沼袋不動尊で沼の御前を祀っているというのは、蛇と繋がる諏訪信仰と文化の影響を受けているのだと思う。その沼の御前は、遠野郷に広く信仰されている。
坂上田村麻呂によって退治された鬼は、岩手の意味をも含むのだが、その鬼の話は何故か遠野郷には存在しない。ただあるのは鬼の民と呼ばれる以前の蛇の民というべき信仰と文化だ。大蛇退治というのは、治水と共に鍛冶の文化を手中にしたと云う意味でもあったのではなかろうか。笛吹峠を越えた橋野の中村に「遠野物語拾遺32」で紹介される話がある。やはり坂上田村麻呂の大蛇退治と共に熊野神社が建立され、大蛇を退治した大刀を川で洗った事から大刀洗川という名が付いたのも、刀鍛冶の過程で刀を鍛錬する過程の一つでもあると思う。そして、退治した大蛇の頭の形を木の面に彫って掛けたというのも、西内の蛇の舌出岩と同じ考えからのものであろう。
元々、神と云う存在は現世利益など存在せずに、ただ一方的に祟る存在だった。その祟り神を神社などで祀るのは、ある意味その神霊を神社に封じ込めるのに等しい。一年間神社などに封印すると、祟りの力が溢れる為に、年に一度の大祭で神霊を神輿に乗せてワッショイ!ワッショイ!と担ぐのは、ガス抜きでもある。大蛇と云う明神を神社に封じ込めるという事は、その大蛇の力を有したに等しい。
もう一度書くが、「ツチ」とは、ツチノコやミヅチなどという蛇の意でもある。つまり「ツチ渕」とは、「蛇の渕」の意でもある。刀もまた蛇に見立てられる事から考え見ても、刀鍛冶において刀を鎚で鍛えるという事は「蛇によって蛇を制す」に等しい。土渕から大槌にかけてが安倍氏の息吹を感じるのだが、大槌には鬼の伝承が息づいている。そしてそれ以前は、やはり鬼では無く蛇の信仰ではなかったか。恐らく「大槌・小鎚」とは「大蛇・小蛇」の意で、土渕はそのまま大蛇と云う明神が息づく「蛇渕(つちふち)」という意ではなかっただろうか。
大蛇とは龍神でもある。瀧とは水の龍という意味でもあり、小烏瀬川の滝が土渕開発の起点であるのならば、「まつざき歴史がたり」で紹介した古い昔話の通り、初めに瀧に祀られていた不動尊が土渕を守っていたという事は、つまり本来の神である瀧の龍神が土渕を守っていたという事。土渕とは大蛇であり龍神が守っていた土地であったのだろう。]]>
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