遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:遠野地名考( 17 )

一の渡

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遠野の土淵に「一の渡」という地名がある。一の渡があったら、二の渡は?という声も聞こえてきそうだが、何故か二の渡は全国的にも、まずない。その代わり一の渡は、全国でも見付ける事の出来る地名である。「渡」というと川渡し、もしくは渡り鳥などの旅や、その場に居付かない事を意味する場合があるが、この遠野の一の渡は、小烏瀬川と米通川と琴畑川の合流地でもある事から、やはり川に関する地名だと思われる。

この一の渡の先は、不動岩という地名となっている。不動岩・不動の滝など「不動」の付く名前は、山伏が金鉱脈を探して開発した地域に、大岩や滝があった場合、そういう名前を付けている。つまり古代の土淵に、山伏が入り込んで開発した地域であると理解できる。この一の渡から琴畑方面へ向かうと、やはり山伏の修行場である鍋割がある事からも、この辺の地域は川沿いに、山伏の色合いが濃く出ている場所だとも云える。
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花巻市大迫側の早池峯の山懐に「一の路権現」という早池峯大神を祀る地があるが、やはり「二の路権現」は無い。調べると「イチ」は漢数字の「イチ」という意味の他に、今では認識されていない古くから日本に伝わる意味が「イチ」にはあった。
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沖縄や鹿児島の民間霊媒師を「ユタ」と言うが、それはどうやら「イチ」の転訛であるようだ。「イチコ、イタコ、イタカ」は全て「イチ」の変化であり、「イチ」とはシャーマンと同義であるようだ。関連する地名に、一の瀬、市ヶ谷、一の谷などがあるが、これらは全て水に関する地名にもなっている。つまり一の渡は「イチ」という呪術師、もしくは山伏が管理する禊場であるか、川原の祭祀場であったと思われる。となれば大迫の一の路権現は、イチの管理する山の祭祀場という事になろう。上の画像は、安倍晴明の川原での祭祀。
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よく路が交わる辻などは霊界の入り口、もしくは境界とされる。それは、川も同じとされた。この土渕の一の渡は、琴畑川・小烏瀬川・米通川の合流地でもある。つまり落合であり、落合は死人と出逢うという俗信もある。この地は去年、台風の被害が酷い場所でもあった。その場所には、川を見下ろす様に水神の碑があり、どこか霊的な印象を与える場所でもある。

「蜻蛉日記」の巻末歌集に下記の歌がある。

みつせ川 浅さのほども 知られじと 思ひしわれや まづ渡りなむ

みつせ川 われより先に 渡りならば みぎはにわぶる 身とやりなりなむ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「みつせ川」とは、「三途の川」を云うのだが、別に渡る瀬が三つある為に三瀬川とも云う。まさに、この一の渡の地は、三つの瀬を渡り禊をし、祭祀をした「みつせ川」ではなかったか。
by dostoev | 2017-09-15 16:38 | 遠野地名考 | Comments(0)

鍋割

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この地方では清水のハヤリ神が処方々に出現して、人気を集めることが
しばしばある。佐々木君幼少の頃、土淵村字栃内の鍋割という所の岩根
から、一夜にして清水が湧き出てハヤリ神となったことがある。

                   「遠野物語拾遺44(抜粋)」

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「遠野物語拾遺44」にハヤリ神として紹介されている鍋割だが、まるで佐々木喜善の幼少時代に発見された場所の様に表現している。しかし、この鍋割の地は阿曽沼以前に高野山系の山伏が直接修行に来ていた修行の神聖な場所であったとされている。それを訴えるか様に、今でも鍋割の地には、上の画像でわかる様に「修験道場跡」という石碑が建てられている。

ところで高野山系の山伏という事は、真言系であろう。東の天台、西の真言と云われた様に、関東から東は天台宗が布教してきた地であった。早池峯妙泉寺の建立時期は斉衡年中(854年~857年)とされ、天台宗の慈覚大師円仁が創建したとされている。「早池峯妙泉寺文書」によれば、当初早池峯妙泉寺を支配していた天台宗から真言宗に移り変ったのが、大治二年(1127年)と記録されている。

この鍋割には別に、武蔵坊弁慶の弟子の山伏がこの地に坊舎を建て、修行したとも云われている。弁慶の弟子というからには武蔵坊弁慶の生きていた年代に近いのだろう。武蔵坊弁慶の生まれた日は不明らしいが、死んだとされる文治5年(1189年)と早池峯妙泉寺の支配が真言宗の支配になった頃と重なる。ただ、武蔵坊弁慶は比叡山の僧であったと伝えられる事から、天台宗であったのだろう。この辺りは微妙なのだが、鍋割が真言宗系山伏の修行場となったのが、早池峯妙泉寺の支配が真言宗に変った頃と考えて良いのではなかろうか。そして修行の場であったのならば、「遠野物語拾遺44」で紹介される以前に、水は涌き出て流れてた筈である。鍋割では水分神を祀っている事から、かなり昔から分水嶺であったと思われる。何故なら、鍋割の山神神社の場所だけでなく、他にも小さな沢が流れているからだ。
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ところで「鍋割」とはどういう意味だろうか?調べると、鍋割山というのが全国にいくつかあるが、その由来が鍋を半分に割った地形だとしている。もしくは「滑岩(なめいわ)を割った」が転訛した、と云うものあるようだ。岩手県花巻市には鍋割川があり、アイヌ語で「冷たい水が生れる所」と、アイヌ語説を採用している。確かに遠野の鍋割は「遠野物語拾遺44」にも登場し、水が涌き出たハヤリ神ともされた。だがそれならば、岩手県だけでなく、東北各地に多くの"鍋割地名"がなければならないのだが、それが殆ど存在していない。恐らく岩手県という事もあってか、金田一京助から広まった「何でもアイヌ語説」に影響されたのだろう。
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佐々木君自身も右のチタノカクチのハヤリ神に参詣した。行って見ると鍋の
蓋に種々の願文を書いて奉納してあった。俗諺に、小豆餅とハヤリ神は熱い
うち許りと言い、ハヤリ神に鍋の蓋を奉納するのは、蓋をとって湯気の立ち
登る間際の一番新しいところという気持だそうな。

                      「遠野物語拾遺48」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
鍋割がハヤリ神としても存在したが、偶然かどうか「遠野物語拾遺48」に鍋蓋の話が登場している。牧田茂「鍋蓋考」では、鍋に蓋をする事によって、鍋の中の霊(たま)が抜け出る事を防ごうとしていたとある。そして逆に、鍋の中に邪悪なものが侵入しないようにした為であろうという事らしい。実際に岩手県では「風呂に入った後、蓋をしないと幽霊が入る」という俗信があるほどだ。逆に言えば、鍋そのものが霊的な内包物を有する器という事か。

遠野の笠通山を、鍋、もしくはお椀を上から被せたような山だと表現されるが、全国にいくつかある鍋割山は、その表現に近い。ただし、この遠野の鍋割の地形が鍋の様な形をしているかどうかは微妙である。遠野には別に"鍋倉山"という山があるが、それは鍋の形をした倉という概念が潜んでいる。山は山伏の考えによれば、鉱物を内包した倉でもあるとされた。早池峯の中腹に御金倉という岩があるが、同じ名の岩が白山にもあり、山伏が名付けたものである。
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遠野の鍋割には、山神を祀る山神神社がある。山伏は東北に於いて、鉱物…つまり金を探しに来ていた。始閣藤蔵も、金が見つかったらお宮を建てると、早池峯の神に誓った。山は、鉱物を内包する鍋の様な器だと考えるべきである。その鍋が割れるとは、蓋も出来ない状態になる事になる。つまり山の内包物が漏れる事を意味するのだろう。ハヤリ神としての鍋割は、まさにその状態になったという事か。千疋狼の話になどから、正体がばれる事を「鍋が割れる」という表現をする。それは同時に、山の内包物の正体がわかる事にも繋がると思う。鍋割が修験の修行場であったとの事だが、恐らく遠野の山を探るにおいての前線基地の様なものであったのかもしれない。
by dostoev | 2017-09-14 18:02 | 遠野地名考 | Comments(0)

青笹の語源

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六角牛山の麓に、青笹と呼ばれる地名がある。昔は、青笹村であり、今では青笹町となる。「遠野物語拾遺3」に天人児の話と共に笹小屋を建てた事が青笹村の起こりと紹介されている。また別に「ものがたり青笹」によれば、ユキドウという神様を祀った時に湯立て神事があり、その神事に使用された笹を地面に挿したところ根が付いたのが裏も表も青い笹の葉であったという。それから青笹という地名になったと云う。昔は、緑も青と呼ばれた時代があった。ちなみに、ユキドウという神を祀る別当は佐々木氏という事である。

ところで「笹」は小さい竹の意であるが、「ささ」そのものの語源は、月齢三日の朔の月形の形容である。つまり三日月。どうやら笹の葉の形状が、三日月の形として捉えられたようだ。となれば青笹とは「青い三日月」の意にもなる。六角牛山の麓に、三日月神社があるのは偶然であろうか。太陽も月も東から昇るのだが、その東に聳えるのが六角牛山である。

青笹という地域は、河内川、中沢川流域を中心として開発されたとされている。ただその表現を変えて言えば六角牛山の麓の開発であり、過去に六角牛山に人が集まった事を示すものである。岩手県神社庁に伝わる伝承では、六角牛山は「おろこしやま」と記されていた。恐らく「お」は尊称の「御」であり、六角牛山の麓の開発は、山を崇め奉る人々が集まったものと思える。

「上閉伊郡誌」には、青笹では無く「青篠」と記されており、遠野村附之目録にも「青篠」とある事から、古くは「青篠」であったようだ。以前、六角牛(ろっこうし)は、佐々木系の六角氏(ろっかくし)から来ているのではないかと書いたが、その佐々木氏の発生は近江国蒲生郡「篠笥(ささけ)郷」を本拠としている。「篠」は「しの」とも読むが「ささ」とも読む。青笹の語源の伝承に、ユキドウ神を祀る別当が佐々木氏であるのも関係があるのかもしれない。

沖縄で「コイシノ」とは神子名であるが、意味は「越え渡る月」の意である。篠竹などとは言うが、本来の「しの」とは月の意であって、「竹取物語」の様に、竹は月との関係が深い。本来は青篠であった地名が青笹に変更されてはいるが、読みはどちらも「あおざさ」で良いのだろう。その青笹の地名の発生は、やはり六角牛山と月の信仰に大きく関わっているのだと思えるのである。
by dostoev | 2017-04-09 09:57 | 遠野地名考 | Comments(0)

新張の語源

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「遠野町古蹟残映」を読んでいて、新張という地名が載っていない事に気付いた。まあ新しい地名だろうという認識で、なんとなく「新しい縄張り」か?程度の認識であった。そんな時、たまたま「古事記(景行紀)」を読んでいると「新治(にひはり)筑紫を過ぎて幾夜か宿つる」と「にひはり」という言葉が登場していた。その「新治(にひはり)」を調べると「新しく開墾した土地」の意で、遠野の新張も、あてる漢字が違うだけで同じであろう。普段気にしていなかった地名が、意味を知るとイメージが広がるものである。まあこの新張は、だいたい予想通りではあったが。
by dostoev | 2017-04-03 11:47 | 遠野地名考 | Comments(0)

梨木平(其の三)

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遠野には梨の木平という地名が、今のところ分かっているだけで三か所ある。今回紹介するのは阿曽沼時代に建立されたという天台宗寺院である積善寺の後方、来内寄りにある梨木平。その梨木平を通って流れる沢を、梨木沢と呼ぶ。
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積善寺は阿曽沼時代であるが、現在の鍋倉山に城を移転したのが16世紀後半であるから、積善寺の建立もその頃であろうか。ただ梨木平から東に少し下ったところが、始閣藤蔵が早池峯に金が採れる事を祈願した伊豆神社の地であり、梨木沢にかかる橋が小田越橋であり、地名も小田越となっている。遠野の小田越は別に、早池峯の登山口も小田越という事から、梨木平は積善寺よりも始閣藤蔵・伊豆神社との関係が深いのだろうか。他の梨木平の地に結び付くキーワードは不動明王と早池峯、もしくは九州からの移転者が関係する事から、もしかして本来の梨木平という地名は九州から移転してきた者によって運ばれて来た可能性もあるのかもしれない。
by dostoev | 2017-03-08 18:50 | 遠野地名考 | Comments(2)

鷹鳥屋

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戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長について書かれた「信長公記」という書に"遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上した"と記されている。遠野孫次郎は、阿曽沼氏が遠野氏とも称されていた事から、遠野孫次郎は阿曽沼氏だとされてきた。しかし、学者である大川善男氏によって、それは否定された。真意は定かでは無いが、小友町の鷹鳥屋が白鷹を飼育していた地である事から、織田信長に送った白鷹は鷹鳥屋産であろうとなっていたようだ。
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何となくだが、信長に白鷹を献上したので、鷹鳥屋という地名が付いたのかと思っていたが、どうもそれ以前には鷹鳥屋の地名はあったようだ。"お箱石"と呼ばれる巨石がある。この巨石の場が、鷹を訓練した地と云われている。「小友探訪」には「当時その白鷹を飼育せし地なるを以て、鷹鳥屋の地名出る。」と記されている事から信長に献上した後に"鷹鳥屋"という地名が付いた様にも思えるが、それ以前に阿曽沼氏の家臣による鷹鳥屋の館も築かれている事から、既に地名はあったものと思われる。
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ところで"鷹雉(たかとり)"と呼ばれる鳥がいる。実はこの鷹雉、"山鳥の古名"であり、現在遠野市を象徴する鳥として認定されている。鷹は「たか」であり、「たかとり」とは呼ばない。恐らく「たかとりや」と呼ばれる地名があり、後から信長に献上した鷹の話にちなんで鷹鳥屋という漢字があてられたものと察する。鷹鳥屋の地形は周囲を山に囲まれ、谷の合間の集落の様になっている。恐らく本来は「鷹雉の棲む谷」から「鷹雉谷(たかとりや)」と呼ばれていたものが、「信長公記」の一件から「鷹鳥屋」に変更されたのではと考えてしまう。この地には鷹も、かなり生息していただろうが、それよりも鷹の"獲物としての山鳥"が多く生息していた為の「鷹雉谷(たかとりや)」では無かったか。
by dostoev | 2017-03-06 20:26 | 遠野地名考 | Comments(0)

梨木平(其の二)

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臼杵という地の傍に"梨木平"という地がある。臼杵という地は、九州は豊後国の緒方惟栄の兄、臼杵氏を名乗った一族が開発した土地であるという。その梨木平に入って調べようとしたが、私有地の為立ち入り禁止となっていたので断念した。
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別に同じ梨木平という、やはり私有地が遠野にあるが、ここは阿蘇氏を名乗る者が守っていた。内部には梨木明神を祀り、一本の梨木の古木があった。

阿蘇氏は12世紀前半阿蘇近辺を支配する武士団を形成しており、治承・寿永の乱の鎮西反乱にも参加し、源氏方で活躍したが、先の臼杵氏である尾形氏に付いた様である。史実から外れる伝承となるが、源義経に手を貸した緒方氏は、家臣共々奥州へ辿り着き、閉伊氏を名乗ったという。その家臣に阿蘇氏がおり、その一人である阿蘇権太楼は殉死し、川井明神として今も祀られている。

臼杵の梨木平の詳細はよくわからぬが、岩手県の、もしくは遠野の梨木平は早池峯、または不動明王、または蛇との関連を見出す。ネットで検索すると、全国にいくつもの梨木平がヒットするが、その地名の発生まではわからないのが現状だ。
by dostoev | 2016-07-06 17:05 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の五 結)

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前回のタタラ→ダイダラ→ディディラ→デンデラは遊び記事ではあった。実際に、デンデラ野には土器の出土は確認出来ても鉄器の出土は確認できていない。しかし、山口には金堀沢や鉄穴沢などがあり、また下った所に火渡りという地名がある事から、デンデラ野の立地条件から見ても簡単な「野タタラ」はあったのではないか。そうなれば「野ダタラ」の変換された「野デイデイラ」「デンデラ野」に更に変換されたとして、何等不思議は無いだろう。
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土渕の起点は、小烏瀬川の滝のある不動尊からだと書いたが、伝わる物語では恩徳の不動様と記されている。その恩徳では金山が開発され、恩徳の沢一帯が金山であったという。その中の金堀沢の奥を進むと、山の頂に恩徳熊野神社の奥宮があり、その麓に里宮がある。つまり小烏瀬川滝の不動尊も、熊野修験の影響があるだろう。それは荒川不動尊経由で、熊野・那智の瀧に匹敵すると云われる又一の滝との関連があると予想できる。

その小烏瀬川の滝から少し上がって、熊野神社の手前に沢の水が流れ込む場所に、桜の古木の足元に水神の碑が建っている。恐らく桜よりも、水神の碑の方が古いだろうと思うが、ここで「古事記」の話を思い出した。瓊瓊杵尊は美しい木花咲耶姫だけを娶り、醜い磐長姫を拒絶した為、永遠の命を手に入れる事の出来なかった話だ。永遠の石である水神の碑は、この後もずっとこの地に屹立するのだろうが、姉妹である木花開耶姫の象徴の桜は、常にその時代の誰かが、この水神の碑の傍らに植え続けない限り、石と桜の姉妹が永遠に並び続ける事は無いのだろう。
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「土渕教育百年の流れ」を再び読み返すと、土淵各地に金属に関する地名が列挙され、更に金糞の出土もある事から、土渕の開発と共に、そこにはいくつかのタタラ場もあったと理解できる。「土渕教育百年の流れ」の著者は、土渕は明神の働きかけにより開発されたと記しているが、その明神の正体とはなんであろう。
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大洞の地に屹立し、春に美しい桜の花を咲き誇る遠野市指定天然記念物でもある山桜は、古老に聞くと「大洞大明神」であるという。先に、遠野では桜を樺の木と呼び、それは木の華の意味であると書いた。木の華とはつまり「火の粉の花」の意でもある。土淵に住んでいたとされる安倍氏もまた「安日・安火(あび)」から発生した氏族だと云われるのも、蝦夷国に住む人々が火の文化を有した所以では無かろうか。そうでなければ、当時の朝廷側との戦で互角以上に戦った事が理解できないのだ。

坂上田村麻呂以降、朝廷にまつろわなかった蝦夷の人々は鬼とされた。坂上田村麻呂の鬼退治は蝦夷退治でもあったのだが、鬼は真っ赤に燃えた炎の前で立つ人の姿がまるで鬼の様だと云われた事に由来する。その鬼以前は、蛇の民だった。諏訪大社を調べても、行き着くのは採鉄の集団となるのは、沼や池に生える葦に付着する錫(スズ)を採集していたからだ。錫は鍛錬鍛冶の原料になったのを考え見れば、龍神であり大蛇が発生した沼袋不動尊で沼の御前を祀っているというのは、蛇と繋がる諏訪信仰と文化の影響を受けているのだと思う。その沼の御前は、遠野郷に広く信仰されている。

坂上田村麻呂によって退治された鬼は、岩手の意味をも含むのだが、その鬼の話は何故か遠野郷には存在しない。ただあるのは鬼の民と呼ばれる以前の蛇の民というべき信仰と文化だ。大蛇退治というのは、治水と共に鍛冶の文化を手中にしたと云う意味でもあったのではなかろうか。笛吹峠を越えた橋野の中村に「遠野物語拾遺32」で紹介される話がある。やはり坂上田村麻呂の大蛇退治と共に熊野神社が建立され、大蛇を退治した大刀を川で洗った事から大刀洗川という名が付いたのも、刀鍛冶の過程で刀を鍛錬する過程の一つでもあると思う。そして、退治した大蛇の頭の形を木の面に彫って掛けたというのも、西内の蛇の舌出岩と同じ考えからのものであろう。
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元々、神と云う存在は現世利益など存在せずに、ただ一方的に祟る存在だった。その祟り神を神社などで祀るのは、ある意味その神霊を神社に封じ込めるのに等しい。一年間神社などに封印すると、祟りの力が溢れる為に、年に一度の大祭で神霊を神輿に乗せてワッショイ!ワッショイ!と担ぐのは、ガス抜きでもある。大蛇と云う明神を神社に封じ込めるという事は、その大蛇の力を有したに等しい。

もう一度書くが、「ツチ」とは、ツチノコやミヅチなどという蛇の意でもある。つまり「ツチ渕」とは、「蛇の渕」の意でもある。刀もまた蛇に見立てられる事から考え見ても、刀鍛冶において刀を鎚で鍛えるという事は「蛇によって蛇を制す」に等しい。土渕から大槌にかけてが安倍氏の息吹を感じるのだが、大槌には鬼の伝承が息づいている。そしてそれ以前は、やはり鬼では無く蛇の信仰ではなかったか。恐らく「大槌・小鎚」とは「大蛇・小蛇」の意で、土渕はそのまま大蛇と云う明神が息づく「蛇渕(つちふち)」という意ではなかっただろうか。

大蛇とは龍神でもある。瀧とは水の龍という意味でもあり、小烏瀬川の滝が土渕開発の起点であるのならば、「まつざき歴史がたり」で紹介した古い昔話の通り、初めに瀧に祀られていた不動尊が土渕を守っていたという事は、つまり本来の神である瀧の龍神が土渕を守っていたという事。土渕とは大蛇であり龍神が守っていた土地であったのだろう。
by dostoev | 2013-12-03 12:34 | 遠野地名考 | Comments(2)

土渕(其の四)

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土渕といえば、盛岡市にも土渕町というのがある。高峰山をすぐ後ろにする盛岡の土渕はなだらかな傾斜で、諸葛川まで広がっている。その諸葛川向うと、土淵では土淵の方が若干の高地になっているようだ。そのすぐ近くには、釜口や大釜という地名があるが「釜」は古代朝鮮語で溶鉱炉を意味する。また程洞神社などの「ホト」の意味も、女性の陰部を意味するのだが、タタラ用語では溶鉱炉を意味する。ぽっかり空いた口が、釜もホトも溶鉱炉と見立てた為だ。その釜もホトも、別に噴火口を意味する。蔵王の噴火口を「お釜」と称するのは、滾った溶岩が、やはりドロドロに溶けた鉄をイメージするからだろう。とにかく、盛岡の土淵周辺を見ても、タタラ系に近い、意味深な地名が未だに残っている。遠野の土淵は、前回に火の鼻や火渡しという地名があると述べたが、他の地名も探してみようか。
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以前「白望山」の語源を書いたが、その中に山伏用語で「白」は「百」と同じで「金鉱石」を意味する。また「ミ」は「鉱石」そのものを意味し、「白望山」とは「金鉱石を内包する山」と理解できる。その白望山の東にある金糞平には桜の古木が聳えている。桜の女神は、早池峯大神とも云われるが、広く一般的に伝わっている桜の女神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)である。木花開耶姫は火中出産を果たした女神で、茨城県の室八嶋神社では竃の神として祀られている。つまり「コノハナ」とは「火の粉の花」の意である。遠野地方での桜の木は別に「樺の木」と呼ばれる。これは正確には「木の華」という意味からそう呼ばれている。つまり「木の華」とは「火の粉の花」である。タタラ場や、鉱物などが採掘された山の入り口などに桜の木が植えられているが、どうも桜とタタラとの結び付きは深そうである。

ところで安倍一族の伝説が多く有るのは岩手県だけでは無く、それは常陸国であった現・茨城県にも、安倍一族の伝説は多く存在する。宗任神社があるのも茨城県だ。その茨城県にも、タタラ系の遺跡や地名が多く存在すると共にダイダラボッチという巨人伝説が、また多くある。タタラが転訛してダイダラとなり、いろいろな変化をしている巨人譚の話である。

それでは遠野には、そういう巨人伝説に関するものは無いかと探し、考えてみた。遠野での巨人とは、せいぜい「遠野物語30」に紹介される、三尺の草履の主である山男くらいだろうか?ところが茨城県には「大足(おおだら)」という地名があり、ダイダラ坊という巨人がいて、山を動かした話が残っている。調べると「大足」は「オオダラ」「オオダリ」「オオダル」などとも読まれるが、そういえば土淵に「大樽」という地名があった。そこは白龍神社を祀っている地でもある。ところが「大樽」の名の発生がよくわからないのだが、それを「大足(オオタル)」と漢字をあてれば、巨人譚のある地名と成る。また茨城県には太平山があるが、関ヶ原の戦いの後に領主であった佐竹氏は秋田県に移り住んだ。すると秋田県の早池峯大神と同じ神を祀る姫ヶ嶽が、後に太平山と名を変えた。太平山はいまでこそ「たいへいざん」と呼ばれるが、元々の茨城県の「タイヘイ」は「ダイタイラ」とも読まれ、ダイダラボッチの伝説のある地でもあった。
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ダイダラボッチは山をも動かすが、山が動いた話は「遠野物語拾遺8」に紹介されている。これは夜中に山が競って大きくなる話だが、土を漏って山を大きくする話がダイダラボッチ譚にも似た様な話がある。

またダイダラはデイダラやデイデイラなどと読むが、「太平」がダイダイラであるようにダイラ・デイラは「平」の漢字をあてる。ところで土渕町山口には、未だに謎となっている「デンデラ野」という地名がある。「デンデラ野」は自分もいろいろ考えたが「デイデイラ」を「デンデラ」と呼んでも、何等違和感が無いのを覚えた。つまり「ダイタイラ」→「デイデイラ」→「デンデラ」という転訛が成りたっとしても良いのではなかろうか。縄文遺跡があるデンデラ野は古代人が住んでいた。そこでタタラをしていたとしても、違和感はない。元々タタラが転訛してダイダラとなり、地域ごとに更なる転訛を果たして変化したタタラの言葉は「デンデラ野」にも当てはまりそうな気がする。(続く)
by dostoev | 2013-12-02 22:01 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の三)

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土渕の開拓が、小烏瀬川の滝を基点とした事は、大蛇という名の災害を抑える事だと、なんとなく理解できた。そしてその開拓を先導したのは、不動明王を信仰する修験の人間である事も。その修験は金属集団とも呼ばれ、金鉱脈を捜しに土渕の地に居ついたであろう。タタラでは火を使用する。それ故に、火の付く地名はタタラと無縁では無いという。土淵の地名の中で、火の名の付く地は、火渡と火の鼻があるくらいか。

東北の黄金文化の始まりは、聖武天皇時代にあった産金報告からと云われる。それまで日本には金が無いと思われ、金の殆どを輸入していたからだ。その金が遠田郡から産出され、奈良の大仏を造るのに役立った。それから本格的に、金の採掘が始まったと云われる。それから朝廷は東北である蝦夷国開発に乗り出したのだが、その都度衝突したのはご存じの通り。朝廷を苦しめたのは、騎馬に長けた蝦夷の戦いと、その剣にあった。当時の朝廷の剣は両刃の直刀であったのに対し、蝦夷の使用した剣は軽く角度が付いた片刃の剣であった。馬上の戦に適していたと云われ、刀を交えると折れるのは朝廷側の剣ばかりであったよう。その蝦夷の使用した剣は蕨手刀とも云われ、現在の日本刀の原型であると云われる。一朝一夕で刀鍛冶文化が出来る筈も無く、かなり以前から鍛冶の文化は蝦夷国に浸透していたのだろう。どこかで東北の開発は、中央の文化が流入した為と捉えそうだが、東北である蝦夷国は既に、朝廷が羨む文化を有していたようだ。その為に朝廷側は蝦夷を支配した後に、多くの蝦夷の鍛冶職人を、俘囚として連れて行った。つまり、それだけの鍛冶職人がいたという事は、それだけ人材がいたという証拠。それだけ朝廷側をも上回る文化を蝦夷国が有していたと云う証であるのだろう。

つまり、多くの金が採掘され献上されたのは、蝦夷国にとっては金など役に立たないものであり、それより実用的な黒金と云われる鉄文化があったからではなかったか。奥州藤原文化時代を黄金文化と称するが、それは仏教の移入により、その煌めく黄金象などを祀る文化が入ってきた為であろう。それまでは生活に必要なものとしての鉄文化が一般的であったと思う。何故なら、阿倍比羅夫が男鹿半島に入った時、原住民は弓を有していたが「これは獲物を捕る為のもので、戦に使用する為のものでは無い。」という発言からも、理解できる。
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遠野の婚姻の話を聞くと、面白い事がわかる。遠野は岩手県の各沿岸域に行けるよう、いろいろな峠があるが、何故か婚姻は釜石地区よりも、断然大槌地区との結び付きが多かったようだ。「遠野物語5」に、こう記されている。

「遠野郷より海岸の田ノ浜、吉里吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠と云ふ山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆怖ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、終に別の路を境木峠と云ふ方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路なり。」

笛吹峠を超えても、そこはまだ釜石である。だが大槌へと行く為に、その後に境木峠を開いたとある。しかし、白望山の東側に金糞平というタタラ場があり、そこを流れる小鎚川沿いの道を下れば、大槌へと辿り着く。しかしその道のりは険しく、今であれば車で行けるのだが、その当時の道の状態を考えれば、歩いて行くと云う人は、殆どいなかったであろう。恐らく殆どの利用者は、金糞平に住み着く人間ばかりでなかったか。とにかく、遠野の人だけでは無かったろうが、大槌へ行く人が多かったと思わせるのが「遠野物語5」であるのだが、何故に大槌へと行くのだろうか。
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大槌には、安倍氏の伝承が残されている。安倍氏の五男である正任は戦の後出羽国に逃れ、その子である小太郎考任は、山路を伝って小槌川沿いの家に逃げ隠れたというものだ。その信憑性は定かではないが、小槌川沿いを進んだと云う事は、白望山の東側にある金糞平から下る道を知っていたという事だろう。それはつまり、遠野から大槌へと越える道筋であるという事。現在、この道を行く為には、山口部落から貞任山経由で新山へと行き、そこから左折し金糞平へと行く道が一つ。そして琴畑渓流沿いを進んで行き着いた先を左折し白望山登山道方面へ行く道を道なりに右手に行けば金糞平へと辿り着く。その小槌川沿いの道を下れば、大槌へと行く着く。

貞任山から新山にかけては安倍氏の息吹を感じる地でもある。その新山まで辿り着けば、金糞平はすぐそこにある。つまり、民衆は知らなくても、安倍一族は小槌川沿いの道や金糞平の存在は、当然知っていたと考えるのが当然だ。「遠野物語」や「遠野物語拾遺」には白望山の怪異が伝えられるが、意図的に怪異を広める場合の大抵は、その地へと人が依り付かなくする為のものである。道が多く人に伝われば、その道は更に開発される。開発されるという事は、敵もが利用し易くなると考えれば、一族だけの秘された道が小槌川沿いの道であったとしても納得するのである。小友町の五輪峠の昔は獣道の様であったと云うが、それはそのまま江刺へと繋がっている。その道を開発したのは山伏だと伝えられ、その道を辿って源義経は、平泉から逃げてきたというのが義経北方伝説となる。これも、山伏の間で秘せられて来た為に、義経が逃げおおせたという事になる。正任の子が逃げたという小槌川沿いの道も、恐らく安倍一族の秘せられた道であったのだろうと思うのだ。(続く)
by dostoev | 2013-12-02 11:17 | 遠野地名考 | Comments(0)