遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野小学校トイレの花子さん
遠野小学校松川姫の怪
遠野小学校の座敷ワラシ
菊池氏考
佐々木氏考
クワガタと遠野の自然
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
六角牛考
七つ森考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
遠野七観音考
鯰と地震
三女神伝説考
早池峯信仰圏
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
勾玉の女神
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
母子信仰と速佐須良比賣
七夕と白鳥
来内の違和感
瀬織津比咩(イタリア便り)
水神と日の御子
年越しの祓の女神
「七瀬と八瀬」
鉄の蛇
荒御魂
閉伊氏の正体
早瀬川と白幡神社
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
ゲ ジ デ ジ 通 信
宮  古  物  語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
外部リンク
最新のコメント
地元で地層や化石に関係し..
by masa at 16:49
頭は良かったと思います。..
by dostoev at 04:56
幕府の財政難から、享保の..
by dostoev at 17:38
江戸後期というより江戸前..
by 鬼喜來のさっと at 22:11
法量(ホウリョウ)は魍魎..
by dostoev at 20:00
『江刺郡昔話』には正法寺..
by 鬼喜來のさっと at 14:49
佐々木喜善の『江刺郡昔話..
by 鬼喜來のさっと at 01:08
では法量神と飴買い幽霊の..
by 鬼喜來のさっと at 01:55
おお、面白いですね。自然..
by 鬼喜來のさっと at 01:07
カエルのような両生類と考..
by dostoev at 04:56
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:遠野地名考( 15 )

青笹の語源

f0075075_7555289.jpg

六角牛山の麓に、青笹と呼ばれる地名がある。昔は、青笹村であり、今では青笹町となる。「遠野物語拾遺3」に天人児の話と共に笹小屋を建てた事が青笹村の起こりと紹介されている。また別に「ものがたり青笹」によれば、ユキドウという神様を祀った時に湯立て神事があり、その神事に使用された笹を地面に挿したところ根が付いたのが裏も表も青い笹の葉であったという。それから青笹という地名になったと云う。昔は、緑も青と呼ばれた時代があった。ちなみに、ユキドウという神を祀る別当は佐々木氏という事である。

ところで「笹」は小さい竹の意であるが、「ささ」そのものの語源は、月齢三日の朔の月形の形容である。つまり三日月。どうやら笹の葉の形状が、三日月の形として捉えられたようだ。となれば青笹とは「青い三日月」の意にもなる。六角牛山の麓に、三日月神社があるのは偶然であろうか。太陽も月も東から昇るのだが、その東に聳えるのが六角牛山である。

青笹という地域は、河内川、中沢川流域を中心として開発されたとされている。ただその表現を変えて言えば六角牛山の麓の開発であり、過去に六角牛山に人が集まった事を示すものである。岩手県神社庁に伝わる伝承では、六角牛山は「おろこしやま」と記されていた。恐らく「お」は尊称の「御」であり、六角牛山の麓の開発は、山を崇め奉る人々が集まったものと思える。

「上閉伊郡誌」には、青笹では無く「青篠」と記されており、遠野村附之目録にも「青篠」とある事から、古くは「青篠」であったようだ。以前、六角牛(ろっこうし)は、佐々木系の六角氏(ろっかくし)から来ているのではないかと書いたが、その佐々木氏の発生は近江国蒲生郡「篠笥(ささけ)郷」を本拠としている。「篠」は「しの」とも読むが「ささ」とも読む。青笹の語源の伝承に、ユキドウ神を祀る別当が佐々木氏であるのも関係があるのかもしれない。

沖縄で「コイシノ」とは神子名であるが、意味は「越え渡る月」の意である。篠竹などとは言うが、本来の「しの」とは月の意であって、「竹取物語」の様に、竹は月との関係が深い。本来は青篠であった地名が青笹に変更されてはいるが、読みはどちらも「あおざさ」で良いのだろう。その青笹の地名の発生は、やはり六角牛山と月の信仰に大きく関わっているのだと思えるのである。
by dostoev | 2017-04-09 09:57 | 遠野地名考 | Comments(0)

新張の語源

f0075075_11293718.jpg

「遠野町古蹟残映」を読んでいて、新張という地名が載っていない事に気付いた。まあ新しい地名だろうという認識で、なんとなく「新しい縄張り」か?程度の認識であった。そんな時、たまたま「古事記(景行紀)」を読んでいると「新治(にひはり)筑紫を過ぎて幾夜か宿つる」と「にひはり」という言葉が登場していた。その「新治(にひはり)」を調べると「新しく開墾した土地」の意で、遠野の新張も、あてる漢字が違うだけで同じであろう。普段気にしていなかった地名が、意味を知るとイメージが広がるものである。まあこの新張は、だいたい予想通りではあったが。
by dostoev | 2017-04-03 11:47 | 遠野地名考 | Comments(0)

梨木平(其の三)

f0075075_17101756.jpg

遠野には梨の木平という地名が、今のところ分かっているだけで三か所ある。今回紹介するのは阿曽沼時代に建立されたという天台宗寺院である積善寺の後方、来内寄りにある梨木平。その梨木平を通って流れる沢を、梨木沢と呼ぶ。
f0075075_18364535.jpg

f0075075_18432017.jpg

積善寺は阿曽沼時代であるが、現在の鍋倉山に城を移転したのが16世紀後半であるから、積善寺の建立もその頃であろうか。ただ梨木平から東に少し下ったところが、始閣藤蔵が早池峯に金が採れる事を祈願した伊豆神社の地であり、梨木沢にかかる橋が小田越橋であり、地名も小田越となっている。遠野の小田越は別に、早池峯の登山口も小田越という事から、梨木平は積善寺よりも始閣藤蔵・伊豆神社との関係が深いのだろうか。他の梨木平の地に結び付くキーワードは不動明王と早池峯、もしくは九州からの移転者が関係する事から、もしかして本来の梨木平という地名は九州から移転してきた者によって運ばれて来た可能性もあるのかもしれない。
by dostoev | 2017-03-08 18:50 | 遠野地名考 | Comments(2)

鷹鳥屋

f0075075_1745357.jpg

戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長について書かれた「信長公記」という書に"遠野孫次郎が織田信長に白鷹を献上した"と記されている。遠野孫次郎は、阿曽沼氏が遠野氏とも称されていた事から、遠野孫次郎は阿曽沼氏だとされてきた。しかし、学者である大川善男氏によって、それは否定された。真意は定かでは無いが、小友町の鷹鳥屋が白鷹を飼育していた地である事から、織田信長に送った白鷹は鷹鳥屋産であろうとなっていたようだ。
f0075075_1959352.jpg

何となくだが、信長に白鷹を献上したので、鷹鳥屋という地名が付いたのかと思っていたが、どうもそれ以前には鷹鳥屋の地名はあったようだ。"お箱石"と呼ばれる巨石がある。この巨石の場が、鷹を訓練した地と云われている。「小友探訪」には「当時その白鷹を飼育せし地なるを以て、鷹鳥屋の地名出る。」と記されている事から信長に献上した後に"鷹鳥屋"という地名が付いた様にも思えるが、それ以前に阿曽沼氏の家臣による鷹鳥屋の館も築かれている事から、既に地名はあったものと思われる。
f0075075_209664.jpg

ところで"鷹雉(たかとり)"と呼ばれる鳥がいる。実はこの鷹雉、"山鳥の古名"であり、現在遠野市を象徴する鳥として認定されている。鷹は「たか」であり、「たかとり」とは呼ばない。恐らく「たかとりや」と呼ばれる地名があり、後から信長に献上した鷹の話にちなんで鷹鳥屋という漢字があてられたものと察する。鷹鳥屋の地形は周囲を山に囲まれ、谷の合間の集落の様になっている。恐らく本来は「鷹雉の棲む谷」から「鷹雉谷(たかとりや)」と呼ばれていたものが、「信長公記」の一件から「鷹鳥屋」に変更されたのではと考えてしまう。この地には鷹も、かなり生息していただろうが、それよりも鷹の"獲物としての山鳥"が多く生息していた為の「鷹雉谷(たかとりや)」では無かったか。
by dostoev | 2017-03-06 20:26 | 遠野地名考 | Comments(0)

梨木平(其の二)

f0075075_16365763.jpg

臼杵という地の傍に"梨木平"という地がある。臼杵という地は、九州は豊後国の緒方惟栄の兄、臼杵氏を名乗った一族が開発した土地であるという。その梨木平に入って調べようとしたが、私有地の為立ち入り禁止となっていたので断念した。
f0075075_1643207.jpg

別に同じ梨木平という、やはり私有地が遠野にあるが、ここは阿蘇氏を名乗る者が守っていた。内部には梨木明神を祀り、一本の梨木の古木があった。

阿蘇氏は12世紀前半阿蘇近辺を支配する武士団を形成しており、治承・寿永の乱の鎮西反乱にも参加し、源氏方で活躍したが、先の臼杵氏である尾形氏に付いた様である。史実から外れる伝承となるが、源義経に手を貸した緒方氏は、家臣共々奥州へ辿り着き、閉伊氏を名乗ったという。その家臣に阿蘇氏がおり、その一人である阿蘇権太楼は殉死し、川井明神として今も祀られている。

臼杵の梨木平の詳細はよくわからぬが、岩手県の、もしくは遠野の梨木平は早池峯、または不動明王、または蛇との関連を見出す。ネットで検索すると、全国にいくつもの梨木平がヒットするが、その地名の発生まではわからないのが現状だ。
by dostoev | 2016-07-06 17:05 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の五 結)

f0075075_9302932.jpg

前回のタタラ→ダイダラ→ディディラ→デンデラは遊び記事ではあった。実際に、デンデラ野には土器の出土は確認出来ても鉄器の出土は確認できていない。しかし、山口には金堀沢や鉄穴沢などがあり、また下った所に火渡りという地名がある事から、デンデラ野の立地条件から見ても簡単な「野タタラ」はあったのではないか。そうなれば「野ダタラ」の変換された「野デイデイラ」「デンデラ野」に更に変換されたとして、何等不思議は無いだろう。
f0075075_953336.jpg

土渕の起点は、小烏瀬川の滝のある不動尊からだと書いたが、伝わる物語では恩徳の不動様と記されている。その恩徳では金山が開発され、恩徳の沢一帯が金山であったという。その中の金堀沢の奥を進むと、山の頂に恩徳熊野神社の奥宮があり、その麓に里宮がある。つまり小烏瀬川滝の不動尊も、熊野修験の影響があるだろう。それは荒川不動尊経由で、熊野・那智の瀧に匹敵すると云われる又一の滝との関連があると予想できる。

その小烏瀬川の滝から少し上がって、熊野神社の手前に沢の水が流れ込む場所に、桜の古木の足元に水神の碑が建っている。恐らく桜よりも、水神の碑の方が古いだろうと思うが、ここで「古事記」の話を思い出した。瓊瓊杵尊は美しい木花咲耶姫だけを娶り、醜い磐長姫を拒絶した為、永遠の命を手に入れる事の出来なかった話だ。永遠の石である水神の碑は、この後もずっとこの地に屹立するのだろうが、姉妹である木花開耶姫の象徴の桜は、常にその時代の誰かが、この水神の碑の傍らに植え続けない限り、石と桜の姉妹が永遠に並び続ける事は無いのだろう。
f0075075_107349.jpg

「土渕教育百年の流れ」を再び読み返すと、土淵各地に金属に関する地名が列挙され、更に金糞の出土もある事から、土渕の開発と共に、そこにはいくつかのタタラ場もあったと理解できる。「土渕教育百年の流れ」の著者は、土渕は明神の働きかけにより開発されたと記しているが、その明神の正体とはなんであろう。
f0075075_11243322.jpg

大洞の地に屹立し、春に美しい桜の花を咲き誇る遠野市指定天然記念物でもある山桜は、古老に聞くと「大洞大明神」であるという。先に、遠野では桜を樺の木と呼び、それは木の華の意味であると書いた。木の華とはつまり「火の粉の花」の意でもある。土淵に住んでいたとされる安倍氏もまた「安日・安火(あび)」から発生した氏族だと云われるのも、蝦夷国に住む人々が火の文化を有した所以では無かろうか。そうでなければ、当時の朝廷側との戦で互角以上に戦った事が理解できないのだ。

坂上田村麻呂以降、朝廷にまつろわなかった蝦夷の人々は鬼とされた。坂上田村麻呂の鬼退治は蝦夷退治でもあったのだが、鬼は真っ赤に燃えた炎の前で立つ人の姿がまるで鬼の様だと云われた事に由来する。その鬼以前は、蛇の民だった。諏訪大社を調べても、行き着くのは採鉄の集団となるのは、沼や池に生える葦に付着する錫(スズ)を採集していたからだ。錫は鍛錬鍛冶の原料になったのを考え見れば、龍神であり大蛇が発生した沼袋不動尊で沼の御前を祀っているというのは、蛇と繋がる諏訪信仰と文化の影響を受けているのだと思う。その沼の御前は、遠野郷に広く信仰されている。

坂上田村麻呂によって退治された鬼は、岩手の意味をも含むのだが、その鬼の話は何故か遠野郷には存在しない。ただあるのは鬼の民と呼ばれる以前の蛇の民というべき信仰と文化だ。大蛇退治というのは、治水と共に鍛冶の文化を手中にしたと云う意味でもあったのではなかろうか。笛吹峠を越えた橋野の中村に「遠野物語拾遺32」で紹介される話がある。やはり坂上田村麻呂の大蛇退治と共に熊野神社が建立され、大蛇を退治した大刀を川で洗った事から大刀洗川という名が付いたのも、刀鍛冶の過程で刀を鍛錬する過程の一つでもあると思う。そして、退治した大蛇の頭の形を木の面に彫って掛けたというのも、西内の蛇の舌出岩と同じ考えからのものであろう。
f0075075_1293120.jpg

元々、神と云う存在は現世利益など存在せずに、ただ一方的に祟る存在だった。その祟り神を神社などで祀るのは、ある意味その神霊を神社に封じ込めるのに等しい。一年間神社などに封印すると、祟りの力が溢れる為に、年に一度の大祭で神霊を神輿に乗せてワッショイ!ワッショイ!と担ぐのは、ガス抜きでもある。大蛇と云う明神を神社に封じ込めるという事は、その大蛇の力を有したに等しい。

もう一度書くが、「ツチ」とは、ツチノコやミヅチなどという蛇の意でもある。つまり「ツチ渕」とは、「蛇の渕」の意でもある。刀もまた蛇に見立てられる事から考え見ても、刀鍛冶において刀を鎚で鍛えるという事は「蛇によって蛇を制す」に等しい。土渕から大槌にかけてが安倍氏の息吹を感じるのだが、大槌には鬼の伝承が息づいている。そしてそれ以前は、やはり鬼では無く蛇の信仰ではなかったか。恐らく「大槌・小鎚」とは「大蛇・小蛇」の意で、土渕はそのまま大蛇と云う明神が息づく「蛇渕(つちふち)」という意ではなかっただろうか。

大蛇とは龍神でもある。瀧とは水の龍という意味でもあり、小烏瀬川の滝が土渕開発の起点であるのならば、「まつざき歴史がたり」で紹介した古い昔話の通り、初めに瀧に祀られていた不動尊が土渕を守っていたという事は、つまり本来の神である瀧の龍神が土渕を守っていたという事。土渕とは大蛇であり龍神が守っていた土地であったのだろう。
by dostoev | 2013-12-03 12:34 | 遠野地名考 | Comments(2)

土渕(其の四)

f0075075_2094311.jpg

土渕といえば、盛岡市にも土渕町というのがある。高峰山をすぐ後ろにする盛岡の土渕はなだらかな傾斜で、諸葛川まで広がっている。その諸葛川向うと、土淵では土淵の方が若干の高地になっているようだ。そのすぐ近くには、釜口や大釜という地名があるが「釜」は古代朝鮮語で溶鉱炉を意味する。また程洞神社などの「ホト」の意味も、女性の陰部を意味するのだが、タタラ用語では溶鉱炉を意味する。ぽっかり空いた口が、釜もホトも溶鉱炉と見立てた為だ。その釜もホトも、別に噴火口を意味する。蔵王の噴火口を「お釜」と称するのは、滾った溶岩が、やはりドロドロに溶けた鉄をイメージするからだろう。とにかく、盛岡の土淵周辺を見ても、タタラ系に近い、意味深な地名が未だに残っている。遠野の土淵は、前回に火の鼻や火渡しという地名があると述べたが、他の地名も探してみようか。
f0075075_220586.jpg

以前「白望山」の語源を書いたが、その中に山伏用語で「白」は「百」と同じで「金鉱石」を意味する。また「ミ」は「鉱石」そのものを意味し、「白望山」とは「金鉱石を内包する山」と理解できる。その白望山の東にある金糞平には桜の古木が聳えている。桜の女神は、早池峯大神とも云われるが、広く一般的に伝わっている桜の女神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)である。木花開耶姫は火中出産を果たした女神で、茨城県の室八嶋神社では竃の神として祀られている。つまり「コノハナ」とは「火の粉の花」の意である。遠野地方での桜の木は別に「樺の木」と呼ばれる。これは正確には「木の華」という意味からそう呼ばれている。つまり「木の華」とは「火の粉の花」である。タタラ場や、鉱物などが採掘された山の入り口などに桜の木が植えられているが、どうも桜とタタラとの結び付きは深そうである。

ところで安倍一族の伝説が多く有るのは岩手県だけでは無く、それは常陸国であった現・茨城県にも、安倍一族の伝説は多く存在する。宗任神社があるのも茨城県だ。その茨城県にも、タタラ系の遺跡や地名が多く存在すると共にダイダラボッチという巨人伝説が、また多くある。タタラが転訛してダイダラとなり、いろいろな変化をしている巨人譚の話である。

それでは遠野には、そういう巨人伝説に関するものは無いかと探し、考えてみた。遠野での巨人とは、せいぜい「遠野物語30」に紹介される、三尺の草履の主である山男くらいだろうか?ところが茨城県には「大足(おおだら)」という地名があり、ダイダラ坊という巨人がいて、山を動かした話が残っている。調べると「大足」は「オオダラ」「オオダリ」「オオダル」などとも読まれるが、そういえば土淵に「大樽」という地名があった。そこは白龍神社を祀っている地でもある。ところが「大樽」の名の発生がよくわからないのだが、それを「大足(オオタル)」と漢字をあてれば、巨人譚のある地名と成る。また茨城県には太平山があるが、関ヶ原の戦いの後に領主であった佐竹氏は秋田県に移り住んだ。すると秋田県の早池峯大神と同じ神を祀る姫ヶ嶽が、後に太平山と名を変えた。太平山はいまでこそ「たいへいざん」と呼ばれるが、元々の茨城県の「タイヘイ」は「ダイタイラ」とも読まれ、ダイダラボッチの伝説のある地でもあった。
f0075075_2123922.jpg

ダイダラボッチは山をも動かすが、山が動いた話は「遠野物語拾遺8」に紹介されている。これは夜中に山が競って大きくなる話だが、土を漏って山を大きくする話がダイダラボッチ譚にも似た様な話がある。

またダイダラはデイダラやデイデイラなどと読むが、「太平」がダイダイラであるようにダイラ・デイラは「平」の漢字をあてる。ところで土渕町山口には、未だに謎となっている「デンデラ野」という地名がある。「デンデラ野」は自分もいろいろ考えたが「デイデイラ」を「デンデラ」と呼んでも、何等違和感が無いのを覚えた。つまり「ダイタイラ」→「デイデイラ」→「デンデラ」という転訛が成りたっとしても良いのではなかろうか。縄文遺跡があるデンデラ野は古代人が住んでいた。そこでタタラをしていたとしても、違和感はない。元々タタラが転訛してダイダラとなり、地域ごとに更なる転訛を果たして変化したタタラの言葉は「デンデラ野」にも当てはまりそうな気がする。(続く)
by dostoev | 2013-12-02 22:01 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の三)

f0075075_93559.jpg

土渕の開拓が、小烏瀬川の滝を基点とした事は、大蛇という名の災害を抑える事だと、なんとなく理解できた。そしてその開拓を先導したのは、不動明王を信仰する修験の人間である事も。その修験は金属集団とも呼ばれ、金鉱脈を捜しに土渕の地に居ついたであろう。タタラでは火を使用する。それ故に、火の付く地名はタタラと無縁では無いという。土淵の地名の中で、火の名の付く地は、火渡と火の鼻があるくらいか。

東北の黄金文化の始まりは、聖武天皇時代にあった産金報告からと云われる。それまで日本には金が無いと思われ、金の殆どを輸入していたからだ。その金が遠田郡から産出され、奈良の大仏を造るのに役立った。それから本格的に、金の採掘が始まったと云われる。それから朝廷は東北である蝦夷国開発に乗り出したのだが、その都度衝突したのはご存じの通り。朝廷を苦しめたのは、騎馬に長けた蝦夷の戦いと、その剣にあった。当時の朝廷の剣は両刃の直刀であったのに対し、蝦夷の使用した剣は軽く角度が付いた片刃の剣であった。馬上の戦に適していたと云われ、刀を交えると折れるのは朝廷側の剣ばかりであったよう。その蝦夷の使用した剣は蕨手刀とも云われ、現在の日本刀の原型であると云われる。一朝一夕で刀鍛冶文化が出来る筈も無く、かなり以前から鍛冶の文化は蝦夷国に浸透していたのだろう。どこかで東北の開発は、中央の文化が流入した為と捉えそうだが、東北である蝦夷国は既に、朝廷が羨む文化を有していたようだ。その為に朝廷側は蝦夷を支配した後に、多くの蝦夷の鍛冶職人を、俘囚として連れて行った。つまり、それだけの鍛冶職人がいたという事は、それだけ人材がいたという証拠。それだけ朝廷側をも上回る文化を蝦夷国が有していたと云う証であるのだろう。

つまり、多くの金が採掘され献上されたのは、蝦夷国にとっては金など役に立たないものであり、それより実用的な黒金と云われる鉄文化があったからではなかったか。奥州藤原文化時代を黄金文化と称するが、それは仏教の移入により、その煌めく黄金象などを祀る文化が入ってきた為であろう。それまでは生活に必要なものとしての鉄文化が一般的であったと思う。何故なら、阿倍比羅夫が男鹿半島に入った時、原住民は弓を有していたが「これは獲物を捕る為のもので、戦に使用する為のものでは無い。」という発言からも、理解できる。
f0075075_1014219.jpg

遠野の婚姻の話を聞くと、面白い事がわかる。遠野は岩手県の各沿岸域に行けるよう、いろいろな峠があるが、何故か婚姻は釜石地区よりも、断然大槌地区との結び付きが多かったようだ。「遠野物語5」に、こう記されている。

「遠野郷より海岸の田ノ浜、吉里吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠と云ふ山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年此峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆怖ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、終に別の路を境木峠と云ふ方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路なり。」

笛吹峠を超えても、そこはまだ釜石である。だが大槌へと行く為に、その後に境木峠を開いたとある。しかし、白望山の東側に金糞平というタタラ場があり、そこを流れる小鎚川沿いの道を下れば、大槌へと辿り着く。しかしその道のりは険しく、今であれば車で行けるのだが、その当時の道の状態を考えれば、歩いて行くと云う人は、殆どいなかったであろう。恐らく殆どの利用者は、金糞平に住み着く人間ばかりでなかったか。とにかく、遠野の人だけでは無かったろうが、大槌へ行く人が多かったと思わせるのが「遠野物語5」であるのだが、何故に大槌へと行くのだろうか。
f0075075_1113178.jpg

大槌には、安倍氏の伝承が残されている。安倍氏の五男である正任は戦の後出羽国に逃れ、その子である小太郎考任は、山路を伝って小槌川沿いの家に逃げ隠れたというものだ。その信憑性は定かではないが、小槌川沿いを進んだと云う事は、白望山の東側にある金糞平から下る道を知っていたという事だろう。それはつまり、遠野から大槌へと越える道筋であるという事。現在、この道を行く為には、山口部落から貞任山経由で新山へと行き、そこから左折し金糞平へと行く道が一つ。そして琴畑渓流沿いを進んで行き着いた先を左折し白望山登山道方面へ行く道を道なりに右手に行けば金糞平へと辿り着く。その小槌川沿いの道を下れば、大槌へと行く着く。

貞任山から新山にかけては安倍氏の息吹を感じる地でもある。その新山まで辿り着けば、金糞平はすぐそこにある。つまり、民衆は知らなくても、安倍一族は小槌川沿いの道や金糞平の存在は、当然知っていたと考えるのが当然だ。「遠野物語」や「遠野物語拾遺」には白望山の怪異が伝えられるが、意図的に怪異を広める場合の大抵は、その地へと人が依り付かなくする為のものである。道が多く人に伝われば、その道は更に開発される。開発されるという事は、敵もが利用し易くなると考えれば、一族だけの秘された道が小槌川沿いの道であったとしても納得するのである。小友町の五輪峠の昔は獣道の様であったと云うが、それはそのまま江刺へと繋がっている。その道を開発したのは山伏だと伝えられ、その道を辿って源義経は、平泉から逃げてきたというのが義経北方伝説となる。これも、山伏の間で秘せられて来た為に、義経が逃げおおせたという事になる。正任の子が逃げたという小槌川沿いの道も、恐らく安倍一族の秘せられた道であったのだろうと思うのだ。(続く)
by dostoev | 2013-12-02 11:17 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の二)

f0075075_13482312.jpg

土渕では、和野の辺りが古いと云われるが、塞ノ神の石碑群から入り込んだ和野の地域は、小烏瀬川側から一段高くなっている土地となっている。その並びに、今では謎となっている天台宗の寺院があったというが、そこには明神沢があり、不地震の地として有名で、そこには無名の石が立っている。
f0075075_13572892.jpg

手前の古い松の木には経塚があったとされ、この背後に山が聳える広大な土地に天台宗寺院があったとされる。
f0075075_140917.jpg

要石は江戸時代辺りから、地下で暴れる鯰を抑える為だと広がっているが、本来は龍脈を抑え、地震など災害から、その地を守る為でもあったようだ。寛文二年(1662年)五月一日、京都を含み若狭湾から琵琶湖一帯をマグニチュード7・4の地震が襲ったという。かなりの被害を及ぼした地震であったそうだが、浅井了意「かなめいし」に、その体験記が記されている。その地震の時、豊国神社はまったく被害が無かったという事から、その豊国神社多くの人々りの参拝が続き、境内の草が全て持って行かれたという。何故なら「豊国神社境内の草を家の軒に吊るすと地震が来ない。」という噂がたった為であったようだ。

和野からの一段高くなった土地は、縄文時代から災害の起きない地として人が住んでいたのだろう。和野の並びには、寺院の他に館跡もあるらしい。小烏瀬川を眺めるように立つ高台は、山口部落のデンデラ野のように、古来から人が住んでいたのだろう。そこに天台宗の寺院が建ったのであれば、そこはいつしか聖地として成り立ってしまう。その寺院跡の奥に不地震の地として要石が立っているというのは、災害を為す龍脈、つまり蛇である明神を抑える意味合いもあったのではなかろうか。
f0075075_14151977.jpg

天台宗寺院跡の峰続きに、沼袋の不動尊がある。そこには沼の御前を祀っている事と、立地的に川の水位と変わらない場所にある為、恐らく小烏瀬川がもっと広大な川であった時代は、不動尊の石壁の下まで川であり、渕か沼であったのだと思える。そしてここから、舌出岩などの後に岩になった大蛇が出現した場所であると云う。沼の御前信仰は、遠野に古く、そして広く伝わっているが、その殆どが早池峯大神と結び付く。土淵の始まりが、小烏瀬川の不動尊からであるのも、それは早池峯続きであるからだろう。となれば、この沼袋不動尊から出現した大蛇とは、早池峯大神の影響を受けた大蛇であり、それが小烏瀬川の滝を基点に、その信仰が広まったものであろう。
f0075075_14224833.jpg

今でこそ、小烏瀬川は狭い小さな川であるが、遠野の町も17世紀までは、水が氾濫し人の住めない地域であった事を踏まえれば、この土淵の栃内もまた、今とは違って、人の住む場所は高台の限定された場所であった事だろう。
f0075075_14301555.jpg

魚の名十

騒がしき 鯰振り振り 動ひたら 早くいなせよ 深き笹原

鳥の名十

何時も 雉が鳴く日は うかりすな 藪へ駆け飛び 先へ進めよ

虫の名十

危なくも 怪我ありしてふ 聞いてだに 身にのみ沁みて いとど悲しき

草の名十

揺りやんで 遂にはよしと 聞くとても つたなき床に しばし眠らん

木の名十

月日過ぎ やむかやと気を 揉みきりぬ 待つももどかし 地震なき日を
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
江戸時代の「地震用心の歌」であるが、地震に対する教訓と心情とが歌われている。地震被害は古来から続いており「日本書紀 天武天皇記」にも土佐に被害を為した津波の事が記されているが、恐らく記録には無いが、東北でも地震による津波が発生したものと思える。しかし「遠野市史」の年表を調べても、水害や旱魃は頻繁に記載されているが、地震はせいぜい1600年に「陸奥国に大地震有。岩木山噴火す。」とあるだけだ。地震列島日本と云われ、全国各地に地震がありながら、遠野の記録に殆ど載ってないのは解せないが、早池峯を頂点とし扇状に広がる不地震地帯の分布は、その地震の多さに対する信仰上の対策であったのだと思う。
f0075075_14561037.jpg

それが土淵の栃内には、聖地である天台宗跡地にそれがある。恐らく、水害も含め、三分割された大蛇の舌出岩・続石・尾石は、災害を封じ込めた依代として存在したのではないだろうか。実際に大蛇が石になったわけではなく、丁度良いくらいに、小烏瀬川の流れ沿いにある巨石を、そう見立てたのだろう。その基点は西内の舌出岩であろう。西内に属するこの地域は不動岩とも呼ばれ、恐らくこの舌出岩自体が不動岩であり、水害や地震などの災害を抑えたという信仰の拠所となったのではなかろうか。(続く)
by dostoev | 2013-12-01 14:58 | 遠野地名考 | Comments(0)

土渕(其の一)

f0075075_8454867.jpg

「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。これを裏付ける様に「まつざき歴史がたり」には、猿ヶ石川に関する昔話が紹介されている。その話は、早池峯の麓にある又一の滝から始まる。

猿ヶ石川の始まりは、猿石からだと云われるが、その猿石は又一の滝がある沢から発生しているのか、もっと西寄りの沢からだという説があるようだが、物語は又一の滝から発生している。その猿石が砕けて八つの石に別れ、その一つ一つが様々な淵に収まる様子が語られている物語である。一つ目の石は、地蔵岩があるという地蔵沢から始まっている。その地蔵沢は、三女神が最後の晩を過ごしたとも云われる沢だ。土淵へ入ったのは五つ目の沢で、こう記されている。

「五つ目の石は、流れて来て広い場所を見付けて、俺はここに入りたいと言ったと。すると恩徳の不動様が何故だと訊いたら、俺はここの広い村にいて、この村を繁栄させたいと言ったので、お不動様がよしよしと言って許した。それまで、お不動様がこの村を見守っていた…。」

「遠野の不動尊」で書いたように、不動尊は又一の滝を頂点とし、附馬牛・松崎・土淵に不動尊は集中してあり、荒川の不動尊と小烏瀬川の不動尊は、早池峯への道筋で繋がっている。そういう意味から、小烏瀬川の滝の不動尊は物語の話も相まって、土淵の開拓の起点となっているのかもしれない。京都の琵琶湖を水源とする宇治川を調べたが、支流が合流し淀川となって湾へと注いでいるのも、一つの信仰の流れが見て取れる。川は繋がって信仰も結びついている。遠野の川も本流を猿ヶ石川として、他の支流も全て猿ヶ石川に結びついている為、その水の信仰は全て早池峯を水源として広がっているようだ。これは遠野に留まらず、その下流域である湾へと注ぐ石巻まで伝わっている。

土渕で一番古いのは和野のあたりであるようだが、それは山口部落や大同をも含んでの事は「遠野物語24」にも、それらしき事が記されている。また「土渕教育百年の流れ」を読むと"明神"の働きかけにより、和野から一の渡まで一つの大きな文化圏を作っていたと考えられているようだ。その明神とは、河内明神か諏訪明神であろう、としている。河内明神は謎であるが、諏訪明神とは蛇である事は、全国に認知されている事実だ。その蛇は、川に見立てられる。その蛇の伝承が、一の渡の少し上である西内に、蛇の下出岩から、下の明神を祀る白龍神社まで続いている。小烏瀬川の不動尊は上西内である事から、本来は小烏瀬川の滝傍の不動尊が、先に紹介した物語と同じで、この地域の開発の起点であったのかもしれない。
f0075075_9364846.jpg

修験は産金・治金の金属集団であった事は有名だ。信仰を運びもするが、本来はその土地の金脈・鉱脈を探すのが目的であったという。その道筋は、殆どが川沿いであった。土淵の歴史を調べても、確かに採掘した痕跡は、山ほどある。また蝦夷の安倍氏も、歴代の蝦夷が馬と刀鍛冶に長けていた事から、馬産地であり、黄金・黒金が産出された遠野に鉄の文化が全く無かったというのは有り得ない話。

「古事記」「日本書紀」に、八岐大蛇の話が登場する。素戔嗚尊が泣いている足名椎命(アシナヅチ)・手名椎命(テナヅチ)夫婦と出会い話を聞くのだが「ツチ」は蛇の古語であり、「アシナ」「テナ」とは、「足無」「手無」で、手足の無い、つまり蛇という事である。幻の蛇とされる「ツチノコ」や、水の蛇である「ミヅチ」など「ツチ」とは蛇を意味している。その蛇の伝承が、西内から大樽まで続いているのが、画像の蛇の舌出岩だ。岩の下には小さな社があるが、棟札を見ると大樽の白龍神社と関連しているのがわかる。
f0075075_1018337.jpg

そして、爪喰の山にある続石は、その大蛇の胴体であるという。
f0075075_10184967.jpg

その大蛇の尾石は、大樽にあり、そこには明神を祀る白龍神社がある。石だけが鎮座しているのは胴体部分の続石なのだが「日本災害史」には、暴れる龍(大蛇)を抑えるには、頭と尾の二ヵ所を抑えるとあり、そういう意味から、舌出岩と尾石の二ヵ所で社をもって祀っているのは理解できるのだ。土渕が明神の働きかけで開発されたと云われているが、その明神とは恐らくこの白龍神社に祀られている白龍であり大蛇であったろう。(続く)
by dostoev | 2013-12-01 10:28 | 遠野地名考 | Comments(0)