遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野小学校トイレの花子さん
遠野小学校松川姫の怪
遠野小学校の座敷ワラシ
菊池氏考
佐々木氏考
クワガタと遠野の自然
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
六角牛考
七つ森考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
遠野七観音考
鯰と地震
三女神伝説考
早池峯信仰圏
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
勾玉の女神
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
母子信仰と速佐須良比賣
七夕と白鳥
来内の違和感
瀬織津比咩(イタリア便り)
水神と日の御子
年越しの祓の女神
「七瀬と八瀬」
鉄の蛇
荒御魂
閉伊氏の正体
早瀬川と白幡神社
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
ゲ ジ デ ジ 通 信
宮  古  物  語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
外部リンク
最新のコメント
幕府の財政難から、享保の..
by dostoev at 17:38
江戸後期というより江戸前..
by 鬼喜來のさっと at 22:11
法量(ホウリョウ)は魍魎..
by dostoev at 20:00
『江刺郡昔話』には正法寺..
by 鬼喜來のさっと at 14:49
佐々木喜善の『江刺郡昔話..
by 鬼喜來のさっと at 01:08
では法量神と飴買い幽霊の..
by 鬼喜來のさっと at 01:55
おお、面白いですね。自然..
by 鬼喜來のさっと at 01:07
カエルのような両生類と考..
by dostoev at 04:56
河童は冬眠しないのでしょ..
by 森のどんぐり屋 at 14:34
安来市と比べ、神代の歴史..
by dostoev at 09:42
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:瀬織津比咩雑記( 84 )

枉津の神

f0075075_1126198.jpg

「古事記」によれば、伊弉諾が黄泉国から帰還し穢祓をし、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱の神が誕生した。また「日本書紀」の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)が誕生したとしている。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、"禍々しい"災厄の神とされている。本居宣長は、その禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比咩と同神としているのは、天照大神の荒魂であり、荒魂は祟る神、つまり厄災を及ぼす神であるという認識に基づいてのものであったか。

ところが古代九州において、川が海岸の沖積平野に入ると干潟の上を左右に屈曲蛇行する事を"枉津"と言ったらしい。海の塩気を帯びた船や人が枉津に入ると、身も心も清められると思われたという。「まがつ」という訓に「禍」をあてると「まがまがしい」となり、恐ろしいイメージが重なるものだが、神名に"禍"を当てたのは意図的なものであったのだろうか。

「まがつ」は地域ごとに訛りが加わり、変化したと伝えられる。「まがつ」を「わうず」と読めば、更に「うおつ」に転訛したという。それが更に「おほつ」となったが、琵琶湖の大津もまた枉津の変化であったようだ。天智天皇が都を大津京にしたのはもしかして、琵琶湖に鎮座する枉津の神を信仰していたからではなかったか。
by dostoev | 2017-03-26 11:55 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

瀬織津比咩の登場する漫画

f0075075_761388.jpg

たまたまAmazonで見つけた、中古の少女漫画を購入し読んでいたら、遠野が舞台になった。あれ?と思ったら、瀬織津比咩が登場してきたよ。場面、場面で見た事のある場所が登場し、地元民としては目が離せなくなってしまった。目が離せないというのは、どう描かれているのか?間違いは無いか?などという、期待とあら探しの混雑したものだった。まあ、この漫画は主体が別のところに置かれているので、遠野も瀬織津比咩も味付け程度に描かれているだけ。
f0075075_7135771.jpg

早池峯、猿ヶ石川と、遠野の山や川が登場すると、やはりどこか嬉しい。
f0075075_7161226.jpg

f0075075_7152566.jpg

お約束通り、座敷ワラシみたいな人物が登場し、遠野を説明する。
f0075075_7174954.jpg

小友の岩龍神社も登場し、ここにも瀬織津比咩がいた可能性を示唆しているところがあるが、なんか自分のブログを読んだのか?と思ってしまった。
f0075075_7197100.jpg

少女だと思っていたら、少年だった。
f0075075_7212439.jpg

そして、滝の精の様な女性も登場。実はまだまだ連載中で、この遠野編の結末はどうなるのか?アラハバギも結び付けてストーリーは展開するようなので、個人的には目が離せなくなる。取り敢えず、続きを期待して待ってよう。
f0075075_7213936.jpg

by dostoev | 2016-11-27 07:24 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神の荒魂)

f0075075_9483237.jpg

折口信夫は天照大神について、下記のように述べている。

貴(ムチ)は女神の接尾語であり、"ひるめ"は日之妻(ヒヌメ)で、日神の妃と
いふことになる。神聖なる神女の地位を言ふものである。太陽神を女性とす
る神話も、他民族には例があるから、不思議はないが、日本の場合は日の
神とヒルメとには、対偶神としての存在を示す信仰があった。


対偶神という言葉が適切かどうかは別にして、折口信夫の見解を当て嵌めれば、大日孁貴神とは日神の妻と云う立場になろうか。そして、それを裏付けるかのような資料が、鎌倉時代に成立した「御鎮座次第記」であり、それには下記の様な事が記されている。

「伊弉諾が左目を洗って天照大神の荒魂の荒祭神大日孁貴神を生み」

これをそのまま信じて良いかどうかは別として、この「御鎮座次第記」によれば、荒祭宮に祀られる神とは大日孁貴神であり、天照大神の荒魂とされる。また別に内宮所伝本「倭姫命世紀(天照皇太神荒魂)」の項にも、下記のように記されている。

「左目を洗ひて日天子大日孁貴を生みます。

        天下り化生ますみ名は、天照皇太神の荒魂荒祭神と曰す也。」



大日孁貴神とは即ち、天照大神の荒魂と伝えられている。その荒魂を祀る荒祭宮では現在、瀬織津比咩という神名が祀られている事実がある。大日孁貴神が荒魂であるなら、荒魂と呼ばれた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは?

原初的な信仰は、彦神と姫神の二柱を祀るのが基本であったようである。ヒルメが日の神妻なら、ヒルコが日の神という事になるのは、陰陽の関係でも明らかである。例えば、天照大神と素戔男尊の誓約の場面で、男神五男神と三女神が誕生しているのは、陰陽の和合とされている。陰陽は、日(火)と水で表され、陰陽五行における火の方位は南であり夏を意味し、色は赤となる。その対極となる水の方位は北であり、冬を意味して、その色は黒色となる。604年に制定された冠位十二階の最高位の色は紫で、この場合は赤色と黒色を混ぜたものとしたのは、陰陽の和合を意図したものである。

北沢方邦「天と海からの使信」で、宗形三女神が誕生した剣は、神武天皇が手にした布都御魂剣と異なり、雌の剣である事に注意すべきだと述べている。剣は所有者の荒御魂とされるが、天照大神と素戔男尊の誓約の場面では、素戔男尊の剣を手にして噛み砕いて誕生したのが宗像三女神であるが、この場合の所有者は素戔男尊であったのか天照大神であったのか。しかし、男神五柱誕生させた素戔男尊が勝利したとの見方から、明らかに天照大神の手にした剣は、天照大神の荒魂を宿したものであると考えられる。天照大神が素戔嗚尊の十握劒を貰い受け、打ち折って三つに分断し、天眞名井の水で濯ぎ噛みに噛んで吹き出し、その息吹の狭霧から生まれた神が宗像三女神であると。それはつまり、天照大神の荒魂から誕生した三女神と考えられる。それを裏付けるかのように「宗像大菩薩御縁起」において、西海道風土記を引用した後の付記に、三種の神器である八咫鏡を祀る辺津宮に祀られる神は「三韓征伐之霊神也。」と記されている。神功皇后の三韓征伐に、宗像三女神が勧請された話は知らないが、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であるなら、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が三分割され「三韓征伐之霊神」として宗像三女神に受け継がれているのならば、納得するもの。宗像の辺津宮に伊勢神宮に関係の深い八咫鏡が祀られていたと云う事から、宗像の神は天照大神の荒魂である可能性は高いのだろうと思う。
f0075075_2094429.jpg

「梁塵秘抄」に、下記の歌が詠われている。

関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、

        安房の洲、瀧の口や小(野・鷹)、熱田に八剣、伊勢には多度の宮


伊勢の多度の宮が軍神と呼ばれた所以は、平氏にあった。伊勢守であった平氏一派は勢力を拡大して、伊勢平氏と呼ばれる様になり、その極みは平清盛であった。だが厳島神社を信仰した伊勢平氏の以前の信仰の拠点は、伊勢に鎮座する多度神社と多度神宮寺であったが、本来はその背後に聳える多度山であり、それは伊勢平氏の祖霊の静まる霊山と考えられていた。その多度山に斎く神は、多度大神とも呼ばれるのだが、かって祟り神として猛威を振るったとされている。現在の多度大社に祀られる祭神は天津日子根命で、天照大神と素戔男尊との誓約によって生まれた男神五柱のうちの一柱であるのだが、荒ぶる神とのイメージは皆無だ。

ところがこの多度の地は、元伊勢と呼ばれていた。それは崇神天皇時代に、天皇を祟った神として天照大神を出し、滝宮に斎く間に約40年間彷徨い、一時的に斎いだ地の一つが、この多度の地であった。崇神天皇を祟ったという本来の神は、天照大神の荒魂であった。近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め流離ったとされる旅のメンバーを見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る40年間に、各地を荒魂を先鋒として平定し続けた旅であったのだろう。それ故に、多度の地にも訪れた天照大神の荒魂であったからこそ、軍神として梁塵秘抄にも歌われた。しかし祀られているのは天津日子根命であるのだが、恐らく流離の旅の途中、平定した地に神社を建立し、天照大神と素戔男尊の誓約によって誕生した神々を祀っていったのではなかろうか。

田村圓澄「伊勢神宮の成立」に、面白いデータが載っていた。「日本書紀」において「天照大神」という神名が記されるのは、神代記から神功皇后記までで、その後は何故か天武天皇時代にならないと「天照大神」という神名は出て来ないという。では、その神功皇后から天武天皇時代の間の時代に「天照大神」の代わりに記される神名は何かというと、「日神」と「伊勢大神」であるそうだ。「日神」も「伊勢大神」も「天照大神」だろうと思うのが一般的であろうが、違和感もある。何故なら、天照大神は別に「大日女」「大日女尊」「大日孁貴神」などと呼ばれる。全て神名に「女」の漢字が使用され女神だとわかるが、「日神」という表記であれば男神であってもおかしくはないからだ。また日神と伊勢大神の使い分けも、何故にここまで統一性が無いのか気になる。あたかも、日神と伊勢大神はまた別の神という可能性はあると思える。

実は、福岡県に榊姫神社がある。その神社の由来によれば、平資盛の女で、榊内侍と呼ばれた榊姫を祀るのだが、「遠賀郡誌(下巻)」によれば、旅の途中病で倒れた時に、付き添った平家の老女に榊姫は、こう言われた。

「我邦は神の御国、特に伊勢の太神の御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と申し奉りて、姫の御名に縁あれば、一心に此御神を祀り玉はむには、などか此難病をも、平癒せさせ給はぬ事やはある。疾く祈願し給へと説き勧めければ、姫も宣なりとて、賢木を根抜きとりて之に木綿して掛けて、朝夕老女と共に拝祈し給ひけり。」

これによれば、"伊勢大神の神名"とは、"撞賢木厳之御魂天疎向津媛命"であるという事。田村圓澄の調べたデータに照らし合わせても、日神と伊勢大神とは別の神という事になる。日神を天照大神に比定すれば、伊勢という冠名が付く伊勢大神であろう撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が本来の土着神であったという事か。仁安3年(1168年)頃、平清盛が厳島神社の社殿を造営し、大規模な社殿が整えられた。その後にも平家一門の参詣があり、厳島神社は平家の氏神となった。しかし多度大神を信仰していた伊勢平氏が新たな神を信仰したわけではなく、本来の天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の信仰を厳島に迎えたといのが正しいのではないか。厳島明神は、古くは龍女の化身と考えられていたが、それを宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命とする事で、周囲の目を誤魔化したのでは無いか。厳島は神を「斎(イツキ)祀る島」と認識されていたのだが、それならば何故「斎」ではなく「厳」という漢字を使用したのか。それは恐らく、撞賢木"厳"之御魂天疎向津媛命の「厳」を含ませる事によって、本来信仰する天照大神荒魂を祀っているという意志表示ではなかったか。

三浦茂久「月信仰と再生思想」によれば、多くの事例から「天さかる向かふ」という表現は、天を離り極みに向うという形容で、天空を移ろう月や、月に棲むタニクグが天際に渡り行く事に対する常套句であるという。それはつまり「月が空を西に去って行く」事だと述べている。そして撞賢木は、神籬であろうとしている。今でこそ榊は、神の斎く樹木とし認識されているが、東北に於いての榊の自生は無い為に、イチイの木が代用されていた。厳島神社の神楽の古くの記録は1177年で、平家滅亡後の記録でしかないようだ。しかし為政者が変わったとして、神楽そのものの内容が変わるわけでは無く、神楽の儀は、まず榊に神を降ろす神楽から始まる。榊を神籬とする、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を思わせる神楽であると思われる。
f0075075_9501292.jpg

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という神名が月に関わるものだと理解出来ればもう一つ、神功皇后の存在が気になる。神功皇后の別名が、息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)とも気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)とも、もしくは大帯比売命(オオタラシヒメ)とも記される。この別名に含まれる"タラシ"とは、月の満ちる様の表現であるようだ。そして神功皇后は、塩盈珠・塩乾珠という、潮の満ち引きを自在に扱える霊玉を駆使するという、まさに月の引力を扱う月の巫女の様な存在に思える。その神功皇后が仲哀天皇を祟る神を占い、真っ先に神名を呼ばれたのが、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であった。陰陽として、日神の対になるのは、水を彷彿させる月の神であらねばならぬ。「古事記」を読んでも、本来の祭りごとは夜に行われた。神々の時間帯は、太陽が沈んでからであったのを考えても、本来の主役は日神では無く、月神であった筈だ。太陽暦が導入されたのが持統天皇時代であった事から、それ以前は太陰暦であったよう。

この前「竹取物語」に関係する本を読んでいたら、かぐや姫の罪は処女懐胎であると書かれていた。これは、太陽の光を浴びて妊娠するという話で、キリスト教圏の逸話も導入し展開していた。どうやら、かぐや姫を太陽信仰と結び付ける為に書かれた本であった。しかし、民俗学的には日本において月を見て孕む兎の話の他に、月を見ると孕むという禁忌はよくある。太陽では無く、月の満ち欠けが妊娠をイメージさせる為だ。神々についても、「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野三所権現は、本宮の大湯原のイチイの木の梢に、三枚の月の形になった天降ったと語られ、宇佐八幡においても、満月の輪のごとく示現したと語られている。神の降臨は、夜に輝く月にこそあったという事。撞賢木厳之御霊天疎向津媛命こそが本来、古くから日本で信仰されていた神では無かったか。それが太陽信仰の普及と共に消されてしまったのかもしれない。まだまだ書きたい事があるが、今回は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命に関係する事を簡単にまとめてみた。
by dostoev | 2016-11-26 00:45 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

湯殿山の瀬織津比咩

f0075075_1133592.jpg

延宝六年(1678年)、江戸時代の神道家である橘三喜が全国の一宮を行脚した記録である紀行文「一宮巡詣記」の一文を紹介したい。下記の文は、羽黒を参拝した後、月山、そして湯殿山へ行った時のものである。

「石体を拝し奉る、折節午の刻なれば、日光移りていとたうとかりき、夫石体は伊弉冉尊にして、南の方に立、北の方に向ひ給ふ、北の方なる山は伊弉諾尊にして、二神遘合の遺跡、上代よりをのずから顕れける事にこそ、月山の社は月弓尊、羽黒の社は天照大神、鳥海の社は素戔男尊、何れもいはれ有事なれどもらし侍る、中古天台真言より支配して、金胎の大日也と云ならはして、神代の残れる跡を知る人なきこそ悲しけれ、夫よりおひざの下を拝し奉るに、石体を流るゝ水は赤く、北の山より流るゝ水は白し、あなうれし、にへやの妙体難有神道成事をしらず、此所に到る者一世の行などゝて、親をすて子をすて、石体の神慮にそむく、かなしむべき事也、石体の上に荒神塚あり、少下りて滝あり、瀬有、落滝津瀬織津姫と観念しぬ」

橘三喜は、吉田神道を広める為の行脚であったようだが、吉田神道の観念の中に、湯殿山の荒神塚の下を流れる滝は瀬織津比咩であるという認識がなされていたようである。ただ、その表現は、滝があり、瀬があっての瀬織津比咩であるという認識とはひとえに、滝・瀬には瀬織津比咩が坐すという観念が定着していたとの表れであろう。

しかし、その34年後(1712年)の世に登場した江戸時代の百科事典でもある「和漢三才図会」には、橘三喜の記した荒神と瀬織津比咩の滝の場所を、下記の様に記している。

「滝の後に三宝荒神堂有り。不動の滝及び御沢に下り、地獄の行勢を見る。」

荒神が"三宝荒神"に改められ、滝は"不動の滝"だけにされていた。荒魂を祀って荒神とされたという説があり、湯殿山での荒神塚は天照大神の荒魂とされる瀬織津比咩を感じるが、三宝荒神となると仏教色が濃厚となり、明王系の顔立ちをした三宝荒神の像もある事から、瀬織津比咩の面影が失せてしまっている。そして滝もまた不動の滝とされているのは、そのイメージが不動明王となり、三宝荒神と同じく明王系に支配されたかのよう。

更にその78年後、寛政の三奇人として有名な高山彦九郎「北行日記」に、同じ場所が記されている。

「北に向ふて立つ是を湯殿山権現と称して拝す。予此辺りを見るに一人も居らず、其の傍らを登りて見るに岳番が居りたりといへる小屋一つ有れ共人は居らず。彼のぼんてん垣を入りて左リ赤岩の本に小穴有り是れより水神の窟と称す。権現の岩是れを大日ともいふ権現の本地仏の故とぞ。此の後より沢を西へ下り御蔵とて川滝の下に淵有り散銭を皆ナ爰を沈むると参詣の人を欺く、昨日蔵入せしなと聞へし実は別当へ収納せしを云ふなり。此滝を中王の滝とも称す。爰に大滝といふ有り又不動滝と号す。」

そして、その後に記されているものにも着目したい。

「熊野三社の岩庚青面金剛の岩胎内くゝり胎内権現と称す。弘法護摩を焼たる岩日天月天二十八宿岩灯明仏千軆地蔵大黒弁財天八万八千仏ぼんてん帝釈両部大日大りやう権現といへる岩銭を挟みて有り」

伊弉冉の石体は湯殿山権現となり、滝は不動の滝とは別に、大滝という新たな名称も加わっていた。出羽三山信仰の元は熊野信仰から伝わったという。「出羽国大泉庄三権現縁起」によれば、熊野三山の新宮が月山権現に、本宮が鳥海山に、那智が羽黒権現にかかるという。出羽三山の当初には湯殿山が入っていなかったが、後の出羽三山は羽黒山・月山・湯殿山となっているが、あくまで湯殿山は出羽三山の奥ノ院の扱いが正しいのだろう。その奥ノ院にもやはり、熊野信仰が伝わっている。"大りやう権現"で思い出すのは「義経記巻第七(三の口の關通り給ふ事)」の後半部である。弁慶が法螺貝を吹き鳴らし祈った冒頭の言葉が「日本第一大りゃう権現、熊野は三所権現」であった。

源義経の家臣に鈴木三郎重家がいた。岩手県の伝承には、その鈴木三郎重家が難を逃れ、現在の宮古市の横山八幡宮の神官を務め、その後に近内という地に老後を過ごし、破石という地で死んだとされ、その鈴木三郎重家を農神として祀り"法霊権現"と称したという。一旦は廃れた法霊権現を明和八年三月に再興し、その時の棟札に縁起が後世に伝える為に書かれた中に「熊野三所日本第一の大霊権現」と記されている。これは「義経記」と繋がるものである。「義経記」の解説には「大霊権現は熊野権現の事を云う。」とあるが、それが法霊権現であるとするのは、熊野権現とは広義的に那智の事を云うのが一般的の様だが、その那智には那智の滝があり、そこに祀られるのは飛瀧権現でもある。法霊(ほうりょう)は飛瀧(ひろう)の転訛であるとされる事から、湯殿山の"大りやう権現"もまた飛瀧権現の事を云うのであろう。

内藤正敏「修験道の精神宇宙」では、内藤氏そのものが過去の紀行文と同じ体験をしていた。実は、湯殿山詣の事を「御沢駆け」と称しており、仙人沢を沢登りして奥ノ院に参詣する風習が危険である事から禁じられていたようだ。内藤氏はそれを果敢に挑戦したのだが、その体験記を読むと違和感があった。それは過去の紀行文での御沢駆けとは沢下りであるのだが、内藤氏のの体験は沢登りである。とにかく内藤氏の本を読むと、過去に瀬織津姫と観念された滝は、不動の滝及び大滝と名称が変化ていたのだが、現代となってその滝は「御瀧大聖不動明王」となっていた。更に荒神が三宝荒神となっていたが、内藤氏によれば、出羽三山では三宝荒神を本尊の裏側に立てて守護するよう定められていると紹介している。その三宝荒神の後方には大きな鏡があり、天照大神だとされているようだ。荒神は荒魂を祀るものであるという説からすれば、天照大神の荒魂として湯殿山の三宝荒神があるという事になる。そしてそれは湯殿山の御神体でもある、温泉が涌き出る茶褐色の巨岩にも通じるのだろう。

この茶褐色の巨岩は、橘三喜が記した紀行文で記してあった"赤い水を流す石体"の事である。ただその石体は、伊弉冉であるとしていたが、気になるのは現在その三宝荒神を「来名戸(くなど)の神」と彫った石碑としている事である。「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意であり、境界をも意味する。御神体岩が伊弉冉であるなら、その境界は現世と黄泉国の境界を意味するのであろう。「和漢三才図会」での御沢駆けの表現に「不動の滝及び御沢に下り、地獄の行勢を見る。」と書き記されている事から、黄泉国が仏教色に変換されて地獄の行勢と表現されるようになったのだろう。学者の説によれば、恐らく御神体から流れ落ちる水の先が地下他界としての地獄の世界ではないかとしている。これは琵琶湖の佐久奈谷が、黄泉国と繋がっている伝承と結び付くものであろう。その境界に立つのが来名戸の神であり、三宝荒神であり、天照大神の荒魂、瀬織津比咩という事になろうか。地獄は出羽三山にいくつも登場し、例えば祓川にかかる橋を無明の橋と呼ぶが、無明の橋とは三途の川にかかる橋を意味し、実際に祓川の傍には葬頭河婆を意図した姥堂がある。また、かっては五重塔傍に血の池地獄と記された地があったのも、全ては女人救済儀礼からのものであったとされる。それは元々出羽であり羽黒が、熊野信仰から発祥したものであるからなのだろう。出羽三山のうち、羽黒山だけが女性でも参詣できるのは熊野信仰の影響をそのまま受けているのもあるが、羽黒権現そのものが熊野権現でもあるという事では無いか。熊野三山が人々の信仰を集めたのは、身分の貴賤、浄不浄を問わず誰をも広く受け入れる平等性と開放性もあるが、先に記したように熊野権現とは那智の神でもあり、そこに流れ落ちる那智の滝は、穢祓をする強大な滝でもある。その強みがあるからこそ、身分の貴賤、浄不浄を問わないのだろう。その出羽三山の奥ノ院である湯殿山にも、当然の事ながら穢祓の神は鎮座していたという事か。
by dostoev | 2016-07-05 07:33 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

みつせ川

f0075075_195618.jpg

「蜻蛉日記」の巻末歌集に下記の歌がある。

みつせ川 浅さのほども 知られじと 思ひしわれや まづ渡りなむ

みつせ川 われより先に 渡りならば みぎはにわぶる 身とやりなりなむ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
冒頭の「みつせ川」とは、「三途の川」を云うのだという。「蜻蛉日記」の解説によれば、初めの歌の意味は「三途の川は水深もわからない。心配でならないと思っていたが、その私が先ず、渡ることになろうとは。」という自らの死を意識した歌となっている。次の歌の意味は「貴方が三途の川を先にお渡りになったら、私は岸辺で途方に昏れることになりましょう。そんな思いをおさせにならないで。」これはつまり、私の手を引いて連れてって、もしくは背負ってこの川を渡ってと、嘆願している歌となっている。10世紀中頃の日本の俗信として、女は死後、初めて性交をした相手に手を引かれて三途の川を渡る」というものがあった。これは「遠野物語99」で津波に呑まれた筈の妻が婚姻する以前に、深く心を通わせた、やはり同じく津波に呑まれた男と消えて行った理由が、この10世紀の俗信が、真実として生きていたという事なのか。

ところで、この"みつせ川"は、渡る瀬が三つある為に"三瀬川"と云うそうである。これを知って、思い出した川であり、場所がある。それは、旧熊野本宮大社跡地である大斎原だ。大斎原は、熊野川・音無川・岩田川の合流点にあり、橋も無かったそうだ。それ故に熊野本宮大社を参拝する為には、歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりであったという。自らの身だけで川を渡る事により、それが穢祓となって、自然に身を清め、神域を訪れ事になるのだと。
f0075075_20524863.jpg

奪衣婆は、三途の川の畔に居て、亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼と云われる。別名、葬頭河婆とも。しかし、俗世の衣服を脱ぎ捨てる事は穢祓となる事から、脱衣婆もまた瀬織津比咩と同じに穢祓の神に等しい存在である。実際に脱衣婆は、瀬織津比咩と同一視されている。ところで脱衣婆の別名は葬頭河婆(しょうづかばあ)だが、この葬頭河(しょうづか)という音は、清水川(しょうずか)ともなる。「蜻蛉日記」の歌では、三途川の深さがわからないと詠われているが、イメージとしての三途川は、底の見えない深さか、あるいは濁った川の様なイメージを与える。確かに、極楽では無く地獄に堕ちるのであれば、その景色は不安を煽る情景と成ろう。目の前に見える三途川も、美しく透き通った川だとは想像できないだろう。しかし、岩から染み出る清水は、綺麗な透明度を誇る美しい水だと認識されている筈。よって、"葬頭河婆""清水川婆"であれば、その印象はガラッと変わる事だろう。ちなみに清水川と書いて「すずか」とも訓む。「すずか」で思い出すのが「鈴鹿」であるが、これについては長くなるので、別の機会で書く事とする。
f0075075_2171933.jpg

そしてもう一つ、三瀬川(みつせがわ)で思い出して欲しい川がある。それは「古事記」において、伊弉諾が黄泉国から帰還して、穢祓した川である。

「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」

上記の言葉の後、伊弉諾は中つ瀬を選んで禊し、生まれた神が八十禍津日神であり、瀬織津比咩の異称である。伊弉諾の上記の言葉は、川の流れの上流から下流にかけての表現だと、自分はずっと思っていた。しかしこれを、三つの瀬を表現しているとしたらどうであろう?三つの川が合流する大斎原であるが、その中で一番重要な川が熊野川である。

熊野本宮大社の旧社地である大斎原とは「水霊の斎く霊地」の意であり、古くは大湯原と表記され、それは「聖水によって清められた聖地」との意であった。それは、熊野川の奥に坐す地主神である水神であったとされている。また、平安中期の仏教説話集である「三宝絵詞」には、その熊野川の奥に坐す神が熊野の「本神」と記され、それが熊野坐神であった。つまり熊野本宮神の本来が、水神を祀っていたのは疑いの無いものである。それでは、その熊野川の奥には何があるかといえば、熊野川源流部に鎮座しているのは天河神社。その天河神社に祀られる本来の祭神とは「天照大神別体不二之御神」であり、それはつまり、天照大神荒魂とされる神であり、瀬織津比咩であった。この神が熊野本宮神、熊野坐神であったという事になる。

伊弉諾は、三つの瀬のうち中つ瀬を選んで穢祓をし、生まれたのが八十禍津日神であった。大斎原に集まる三つの川のうちの熊野川の源流部にに、穢祓の神である瀬織津比咩が坐す。これは、偶然であろうか。三途川とは仏典に由来しているというが、その概念は熊野本宮大社の前に流れる三つの瀬を根底に作られたものでは無かろうか。
f0075075_5244686.jpg

「死の国」とも呼ばれる熊野。黄泉津大神となった伊邪那美の墓所は比婆山とも、熊野川の河口にある有馬とも云われる。三途川もまた、死の国の入口である事を考えれば、この熊野の地に、"みつせ川"である三途川をあてはめて考えられたとしてもおかしくはないだろう。
f0075075_5423268.jpg

ちなみに、閻魔大王と葬頭河婆は夫婦であるという説がある。冥界の王であり、人の罪を裁く閻魔大王であるが、これを日本神話に置き換えて考えれば、浮かび上がるのが根の国の王でもある素戔男尊である。「大祓祝詞」に記されている罪は、素戔男尊が高天原で行ってきた罪の数々である。もしも閻魔大王が素戔男尊と習合するのならば、それは何という皮肉であろうか。ところで根の国に登場する素戔男尊の娘とされる須世理姫は、「大祓祝詞」に登場する速佐須良比咩と習合するという。素戔男尊は建速須佐之男命とも書き記し、速佐須良比咩の「速」が重複している事に加え、どちらも根の国の住人である。それでは、須世理姫であり速佐須良比咩の母親は誰であろう?

遠野地域に於いて牛頭天王(素戔男尊)を祀る八坂神社を調べると、牛頭天王と並んで祀られる神が各々、早池峯大神・祓戸大神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命・九頭竜・瀬織津比咩となっている。牛頭天王(素戔男尊)以外は全て同一神であろう事から、この組み合わせは、罪を成す者と罪を祓う者か?それとも素戔男尊を閻魔大王と見做すなら、罪を裁く者と罪穢れを祓う者の組み合わせとなるのだろうか。五来重氏によれば、日本固有の宗教は「罪と穢を人生すべての禍の根源」とし、それを祓う事に重きを置いて来た宗教観念が根強いという。まさに罪と穢祓を意識した素戔男尊と瀬織津比咩との結び付きは、また仏教世界と結び付いて、閻魔大王と葬頭河婆との組み合わせにも思える。天の安川で対峙し誓約をした素戔男尊と天照大神と神話には記されているが、本来は天照大神の荒御魂ではなかったかとも云われる。出雲を調べても、その信仰的中心は大国主の奉斎する熊野大神であった事からも、日本の信仰の根底は、"死の国"と呼ばれる熊野にこそあるのではなかろうか。
by dostoev | 2016-05-04 06:52 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)

瀬織津比咩の本(風琳堂氏の遺稿から)

f0075075_15594445.jpg

今日、風琳堂出版からクリスマスプレゼントが届きました。「八幡比咩神とは何か(隼人の蜂起と瀬織津姫神)」というタイトルの本です。ありがとうございます。当初は10月下旬に出版と聞いていた本が、11月末に変更され。そして師走になって、出版されたのには、余程の苦労があったと思います。これから読む予定ですが、この本を編集し、風琳堂氏の遺稿を世に送り出してくれたTさんには、感謝の一言です。
by dostoev | 2015-12-21 16:09 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(2)

瀬織津比咩の見せる夢

f0075075_1752995.jpg

ほんの10年以上前には、瀬織津比咩の名に興味を持つ人間は少なかった。そういう自分も、「エミシの国の女神」を著した風琳堂氏と出会う事が無かったら、興味を示していなかったかもしれない。まあその出会いも、昭和時代に遡ってしまうのだがら、かなり経ってしまった。

ところで、瀬織津比咩とは何かと問われれば、真っ先に答えを出せるのは祟り神であったという事では無いだろうか。瀬織津比咩の古代の軌跡を探っても、祟りの軌跡が見えて来る。実際に、神の根源は祟り神であった。現世利益など皆無で、一方的に祟る存在が神。その為に人々は、神の祟りを恐れて、機嫌を取る為に供物を上げ祭をした。しかしいつしか、現世利益という言葉が発生し、何々の神様に祈ると願いが叶えられると。例えば、菅原道真が何故に神になったかというと、祟ったからだ。その祟りが恐ろしい為に、神社に祀り機嫌を取った。しかし今では、菅原道真といえば学問の神様となっている。天満宮へと行き「〇〇大学に合格させてください。」などという願いを叶えてくれる神様だと認識されている。そして絵馬に「合格祈願」などと書き記し奉納して神頼みは終了する。この絵馬もまた本来は、天候に対する祈願に生きた馬が使用されていたのだが、いつも生き馬を使うわけにはいかなくなって、その代用品として絵馬が登場した。しかしその絵馬も、いつの間にか、どんな願いをも書く代物に変化している。これは神社運営も大変な事から、どうにかして人を呼ぶ為に考えられた事で仕方がないだろう。ただ、朝廷の恐れた祟り神である菅原道真に合格祈願をするというのは傍目から見るとピンとはこない。ただ京都の愛宕郡にある天満宮などは、祭神が水神から菅原道真に変更させられたのは、当時の朝廷がリアルに道真を恐れていた為であろう。同じ祟り神でも、その時代で一番恐れられた神に変更されるのは致し方ないのだろう。
f0075075_1872335.jpg

画像は幻日だが、今の時代にこの幻日に遭遇するとラッキーと思えてしまう。綺麗な自然現象と認識されている為だ。しかし、古代においては摩訶不思議な現象であり、吉兆とも考えられた筈である。何故なら、仏教では、西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる来迎図などが描かれいる事から、瑞相であるとしている。極楽浄土は、この世のものとは思えない美しさに彩られていると信じられていた為に、彩雲や幻日は瑞相、つまり吉兆と思われていたようだ。
f0075075_18144184.jpg

だが実際は、彩雲も幻日も、自然現象であり、極楽浄土とは何も関係は無い。ただ人の心が、そういう良い方向に捉えるのは悪い事では無いだろう。またそれらを良い事と言うか、都合の良い方向に捉える人もまたいる。例えば浄土真宗の宗祖である親鸞は比叡山を下り真っ先に、京都の六角堂へ参籠したのは、29歳の時であった。六角堂での百日参籠の九十五日目に親鸞は"女犯偈"を受け、それから僧侶も妻帯して良いと解釈したまのが、親鸞の浄土真宗である。この六角堂での女犯偈を現代的に解釈すれば、若くて性欲の有り余っている親鸞が九十五日目に淫夢を見たのだが、それを都合よく解釈したものが女犯偈であろう。
f0075075_18573014.jpg

人の頭と心は、都合よく出来ている。例えば様々な変化を見せる雲が、一瞬の流れの中で、その人なりの認識できる形になると、なんとなく嬉しくなる。上の画像は、自分が竜みたいだなぁと思って撮影した画像であるが、本物の竜では無いのは誰が見てもわかるというもの。先程の親鸞の女犯偈では無いが、苦行をしていると幻覚が見える事があるという。それをどう解釈するのは、その人自身の問題となる。
f0075075_19142364.jpg

或る宮腹の女房、世を背けるありけり。病ひをうけて限りなりける時、善知識に、ある聖を呼びたりければ、念仏すすむる程に、此の人、色まさをになりて、恐れたるけしきなり。あやしみて、「いかなる事の、目に見え給ふぞ」と云ふ。聖の云ふよう、「阿弥陀仏の本願を強く念じて、名号をおこたらず唱へ給へ。五逆の人だに、善知識にあひて、念仏十度申しつれば、極楽に生る。況や、さほどの罪は、よも作り給はじ」と云ふ。即ち、此の教へによりて、声をあげて唱ふ。

しばしありて、其のけしきなほりて、悦べる様なり。聖、又これを問ふ。語つて云はく、「火の車は失せぬ。玉のかざりしたるめでたき車に、天女の多く乗りて、楽をして迎ひら来たれり」と云ふ。聖の云はく、「それに乗らんとおぼしめすべからず。なほなほ、ただ阿弥陀仏を念じ奉りて、仏の迎ひに預からんとおぼせ」と教ふ。これによりて、なほ念仏す。

又、しばしありて云はく、「玉の車は失せて、墨染めの衣着たる僧の貴げなる、只ひとり来たりて、『今は、いざ給へ。行くべき末は道も知らぬ方なり。我そひてしるべせん』と云ふ」と語る。「ゆめゆめ、その僧に具せんとおぼすな。極楽へ参るには、しるべいらず。仏の悲願に乗りて、おのづから至る国なれば、念仏を申してひとり参らんとおぼせ」とすすむ。

とばかりありて、「ありつる僧も見えず、人もなし」と云ふ。聖の云はく、「その隙に、とく参らんと心を至して、つよくおぼして念仏し給へ」と教ふ。其の後、念仏五六十返ばかり申して、声のうちに息絶えにけり。

これも、魔のさまざまに形を変へて、たばかりけるにこそ。

鴨長明「発心集」第四の七「或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この鴨長明「発心集」には、死期の迫った女房に、恐ろしい者と火の車が見え、また美しい天女の車が見え、または墨染の衣を着た僧が見え…とあるが、聖は全て否定し、その導きに乗ってはならぬとたしなめた。鴨長明「発心集」は鎌倉時代の作品であるが、この時代には既に正しい導きとは、何も無く独りで行き着くものであると認識されている。神秘体験などは"魔の変じた幻覚"だと認識されていたようだ。つまり現代でも感じ得る?神秘体験とは、やはり何も無い”無”であり、そこには現実をどう認識できるかだけであろう。神社仏閣に赴き、具体的な何かを神秘に感じる事こそ”魔”に導かれるものであり、その魔に対して一歩足を踏み入れたものであろう。過去に、瀬織津比咩のCDを出したものが、早池峯神社境内で聞こえるアカゲラの木を突く音を無知の成せる業なのかどうか「木霊の音が聞こえた!」と都合よく解釈したのも、現実逃避であったのか、それとも…。

ところで禅世界では"魔境"と呼ばれるものがある。禅などの瞑想修行をしている者の前にしばしば神や仏が現われるというものだ。これは夢信仰の歴史にも、それを仏意であったり神意であると解釈した歴史が残っている。 その禅世界では、瞑想により仏陀や如来が現れたときは(瞑想内のイメージの)槍で突き刺せ、仏見たなら仏を殺せと教えている。瞑想中に神格を持つものとの一体感を持った認識、解釈をした結果、それが自分が凄い存在であるとエゴと妄想を肥大させるもので、ユング心理学においては"魂のインフレーション"と名付けられる態であるいう。

現代でも、僅かな個人の内部的な神秘体験で、あたかも神が降りたような錯覚に陥る人がいる。こういうものは古今東西、昔から魔というものは、神々しい光景などを見せつけ誘惑し、魔に取り込むものであるとされていた。佐々木喜善「聴耳草紙(貉堂)」においても、人間に神々しい光景を見せて魔に取り込み、喰らおうとする貉の話が紹介されている。多くの人の中には、どこか自分が特別な存在になりたいと願っている者も存在する事から、こういう誘惑に騙されやすく、また都合よい解釈をする者もいる事であろう。

瀬織津比咩という神を傍に感じたとしても、その瀬織津比咩が何を与え、また夢を見させてくれるかと考える事自体が無意味である。先に記したように、瀬織津比咩とは祟り神であった。ときには恵みの神ともなるが、本質は恐ろしい神様であると認識している。神道である神社側の人達は、瀬織津比咩をはじめ他の神々に対して、ただ仕える事だけをしてきている。何故なら、恐ろしい神々を自由に使役する事など有り得ないと思っているからだ。それ故に瀬織津比咩が見せる夢は無であり、現代では逆に、人が一方的に神に対して夢見ているだけになっているのだろう。
by dostoev | 2015-12-13 19:47 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(2)

瀬織津姫の商標登録(続報)

f0075075_7452536.jpg

この瀬織津比咩という酒は、早池峯神社など瀬織津比咩を祀る神社に奉納する為、遠野夢街道という既存の酒に、わたしが「瀬織津比咩」というラベルにしたいと遠野の酒造会社に頼んで出来た酒である。神名を瀬織津姫でなく、瀬織津比咩としているのは、原初に瀬織津比咩が現れた名前に拘っている為である。この酒を、知人を通して欲しいという方がいたので送ったところ、嬉しさのあまりFacebookに、この酒の記事をアップしたら、やはり商標登録した人物から、激しいクレームがきたそうである。特許庁によれば、瀬織津比咩と瀬織津姫では漢字表記が違っても、読み方が同じであれば引っ掛かるという事らしい。今度、再び風琳堂出版から、瀬織津比咩に関する本が出版されるが、そのタイトルに瀬織津姫神(セオリツヒメカミ)と記されのも、やはり「セオリツヒメ」と読まれる時点で引っ掛かってしまうという。さて、これからどうなる事やら。
f0075075_7454455.jpg

by dostoev | 2015-10-24 07:58 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(43)

瀬織津姫の商標登録(憲法違反)

f0075075_11335360.jpg

驚いた事に、知人から「瀬織津姫」が商標登録されたと教わった。神様の商標登録!?そんな馬鹿な人間がいるのかと思ったが、前例として神名を使用して、酒のラベル限定で使用している例はいくつかある。しかし今回の瀬織津姫の商標登録とは、かけれるだけの様々な分野に及んで商標登録をかけているという。つまり、その人物は、瀬織津姫という神が”金の成る木”と判断した為、それを独占しようと考えたのだろう。そういう商売に特化した思考を持つ人間が神様に目を付ければ当然、今回の様に神様を私利私欲の為に独占する手段として商標登録するというのは必然だったのだろう。

「エミシの国の女神」を著し、世に瀬織津姫を知らしめたいと願っていたのは、去年他界した風琳堂氏であった。そして、神秘的で謎を秘めている瀬織津姫を紹介した「エミシの国の女神」に触発されたのは、今回の商標登録をした人物でもあった。本人談としては当初、東京都のM市のお金持ちの御婦人に「世界に発信出来るCDを作って欲しい。」という依頼を受けたという。音楽家でもあるらしいその人物は、先の「エミシの国の女神」に登場する瀬織津姫という神名に魅かれ、世に「瀬織津姫」というCDを送り出したのは、もうかなり古い事になってしまうのか。私は読んだ事は無いが、CD以外にも多くの瀬織津姫に関する書籍を出版しているという。その人物が今回、瀬織津姫の商標登録したという事は、どういう建前があるかはわからぬが、瀬織津姫を知り、瀬織津姫と接しているその過程で、欲に目が眩んだとしか思えない。

問題は、その商標登録が広範囲にわたってかけられている事だ。それにより、瀬織津姫に関する書籍や、神社で出している御札の類も引っ掛かるというのは、特許庁の見解である。神社の問題も大きいが、これから瀬織津姫を研究した論文を書籍として世に送り出そうとする研究者の阻害にもなる。古代史の中で、神そのものに着目して研究している学者は多い。瀬織津姫は、風琳堂氏が世に送り出した様な神であったが、その風琳堂氏の書籍をきっかけに瀬織津姫を研究する学者の発表の場が奪われてしまったという事。

憲法で保証するものに「学問の自由」というものがある。その学問の自由とは「個人の真理の 探究を国家が圧迫・干渉した時に、これを排除することができる権利」である。今回、瀬織津姫という神名を商標登録申請して、それを認可したのは国の機関である特許庁である。つまり、国の機関が「個人の真理探究を圧迫、侵害」したという事に他ならない。まさに今回の瀬織津姫の商標登録は、憲法違反であろう。

だいたい神名とは、普通の個人名と同じである。こういう固有名詞の商標登録をなんでもかんでも認めてしまうなら、様々な弊害が起きるのは目に見える事。特許庁も、お役所仕事の一環で、あくまで”瀬織津姫”という”商品名”の類似が無いかどうかをチェックしたに過ぎないという、国の機関の認識不足が起こした結果でもあった。とにかく、良心によって瀬織津姫の商標登録を自ら撤回するか、外からの強い圧力によって差し止めとなるか、これからの道は二つしかないのではなかろうか。とにかく今回の瀬織津姫の商標登録には、あきれたものであった。
by dostoev | 2015-10-15 12:41 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(20)

七夕と天の川(其の二)

f0075075_185807.jpg

「古事記」において、八上姫と結婚した大国主は、八上姫を因幡から出雲へ連れてきたが、本妻の須世理姫を恐れて、八上姫が生んだ子供を木の股に刺し挟み因幡に返してしまった。それからその子供の名前を木俣神、またの名を御井神といった・・・という話。この木俣神は、伯耆国の阿陀萱神社で阿陀萱奴志多喜妓比売命という神名で祀られている。その由緒は、下記の通りとなる。

多喜妓比売命は大己貴命の御子なり、母は八迦美姫命と申す。神代の昔、出雲国直会の里にて誕生あり。八迦美姫命、因幡へ帰らんと大己貴命と共に歩行し給ふ時に、御子多喜妓比売命を榎原郷橋本村の里榎の俣に指挟て長く置き給ひしときに、我は木俣神なりと申給ひて宝石山に鎮座し給へり。

また、同地に鎮座する御井神社の祭神も木俣神であり、その由緒に「木俣の神、又は御井の神と申し上げ、安産守護、水神の祖として広く信仰をあつめている。」としている。水神の祖とはどういう事なのかだが、安産守護に関しては二股は女性の股を意図としている事からのものだろう。とにかく木俣神は、御井神であり、多喜妓比売命という神名であった。この三つの神名は、まったく関係なさそうでありながら、実は深い繋がりを持つ神名である。

樹木は地上と地下の境界であり、地下である根の国の入口として認識されていた。遠野の東禅寺跡に、早池峰権現が無尽和尚の杖をとって地を突いたところ、水が湧きだした事から「杖(またふり)の井」、または開慶水と伝えられる。開慶水は別に早池峯山頂にもあるのだが、早池峯権現がこの東禅寺にも開慶水を与えたという話である。ところで「杖(またふり)の井」とは、二股の木を地面に突き刺して涌き出た泉の事を云う。どうやら二股の部分が地との交流を促す呪力があると信じられていたようだ。二股の杖は西洋では占杖といい、この杖で地下水や地下鉱脈を探るのに使われたという。古今東西、二股の杖は、地下との交流・交信の手段のアイテムであると認識されているのは興味深い事だと思う。
f0075075_941262.jpg

実は天の川も、二股であるという認識が、世界中でなされている。「源平盛衰記」に源頼朝が隠れた、臥木に開いた朽穴のエピソードが紹介されている。源頼朝自ら「臥木の天河に隠れ入りにけり。」と述べているが、歴史上では聖徳太子が二つに割れた木のうつぼに隠れて助かった話と、天武天皇も二つに割れた榎の大木に隠れた事を「天河に隠し奉って、後に王子を亡くして天武位につき給へり。」とあるように、源頼朝もそれに倣ったのか。天武天皇は壬申の乱の前日に、滝宮の方角に向いて祈った事もあるのだが、これも水神である龍神に対しての祈願ではなかったか。天河も地上の川の投影であり、水神であり龍神でもある。天河に隠れるとは、龍神の庇護に入る意味合いを持っているのだろう。その結果、天武天皇も聖徳太子も、そして源頼朝も天下を制している。「和妙類聚抄」では、この木の洞に溜まった水の状態を「岐乃宇都保能美都(きのうつぼのみづ)」と書き示し、それを「半天河」としている。半分の天河とは、夜空に浮かぶ天の川に準ずるものであるという認識で良いだろう。

先に書いた様に、二股の木は地下への入口であった。しかし地下とは大地そのものであるから、地母神の胎内の入口でもある。木俣神の本来の神名が、多喜妓(たきき)比売命という、名前に滝を内包する神名は、俵藤太が訪れた竜宮の入口である滝壺を意図している。柳田國男は、二股の木の股の空洞の部分が水を湛えているものを天然の井戸であろうとしている。木俣神の別名が、御井神であるのは必然であった。溝口睦子「ヤクシーと木俣神」の見解によれば、二股の木は水に繋がる豊穣神であろうとしている。二股の空洞に溜まる水が地下と通じている認識は、滾り落ちる滝が地下世界へとの入口であると同じ事であろう。木俣神の本来の神名が多喜妓比売命という滝神であるのも、地下世界=根の国=黄泉国との境界神である意図を含んでいる。
f0075075_10415.jpg

七夕の日に藁で作った馬を供えるのは、祖先の霊を迎える乗物とする為とされているが、地方によっては七夕様を迎える為に馬を作り供えるのであった。七夕とは天の川を中心に考えられたものであり、その天の川は二股の川であり、龍神でもある。つまり、龍神を迎え乗せる馬を七夕に供えるものと思って良い。

先の風土記の男神と女神の水争いであるが、勝利したのは女神であり、それから川の流れは北から南へと流れる様になったのは、不変な天の川が北から南へと流れる様を投影した為では無かろうか。山は360度に渡り広がりを見せるものだが、その山を北に位置させ、その山から発生する川が南へと流れる事が正当とさせる意味とは、その山に鎮座する女神の正当性を説いているわけである。奇しくも、遠野の北に鎮座する早池峯を源とする川は、南へと流れ、西へと進路を変え、北上川に合流している。そして、その早池峯の麓に鎮座する早池峯神社の大祭では、早池峯の神を乗せた神輿をまず馬を祀る駒形神社に寄ってから境内外に出るのも、馬が神の乗り物であるからだ。荒ぶる女神と七夕神の系譜を早池峯の神である瀬織津比咩は踏まえている。

木の洞に溜まった水は井戸でもあり、滝でもある。そしてそれは、天河とも見做された。そこに鎮座する木俣神は滝神であり、地上と根の国=黄泉国の境界に位置する境界神でもある。その根の国、黄泉国は出雲国とも熊野とも云われる。熊野大社の祭神の本来は、熊野川を遡った源流に鎮座する天河神社に祀られる天照大神荒魂であった。また、木俣神でもある、この出雲の多喜妓比売命は、出雲国内で様々な名前に変化する。それは天甕津日女命でもあり、天御梶日女命とも、綾門日女命にもなり、後に宗像に影向した滝神でもあった。この出雲の神の変化の詳細は後に書く事として、天の川そのものが滝神と深い関わりがある事がわかった。その天の川の源流は、北天から流れ落ちる滝の意識から始まっているようである。
by dostoev | 2015-08-10 11:52 | 瀬織津比咩雑記 | Comments(0)