遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:鈴鹿権現と瀬織津比咩( 8 )

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の八)

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鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の七)の後半において、各風土記における"荒ぶる女神"を引き合いに出したが、鈴鹿権現をいくら調べても、鈴鹿峠における鈴鹿権現の姿は曖昧になるばかりである。一番しっくりくるのは、荒ぶる女神として後世に創られた存在であるという事ではなかったか。ただハッキリ言えるのは、荒ぶる女神の属性を兼ね備えた存在が、鈴鹿権現であるという事だろう。荒ぶる女神は山に鎮座し、行き交う旅人の命を奪う存在。鈴鹿権現も、また同じ存在であった。
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何故に鈴鹿権現は京都の祇園祭の牛頭天王…つまり素戔嗚と一緒になっているのか?それは荒ぶる神としての属性の正統性に他ならないからだろう。この京都の祇園祭においての鈴鹿権現は、瀬織津比咩であるとされている。

素戔嗚の子供には、宗像三女神がいる。素戔嗚の持つ十拳剣から、宗像三女神が誕生した。荒ぶる素戔嗚の所持する、また荒ぶる武器である剣から生まれた宗像三女神もまた荒ぶる女神であった。鈴鹿権現は、剣では無く薙刀を所持しているが、これは女神であるゆえ剣から薙刀に置き換えられたのだろう。その薙刀の初見は天慶の乱(938年)の合戦絵巻に登場するのが最古であるという。それから考えれば、やはり、坂上田村麻呂の蝦夷征討「延暦20年(801年)」の後に、鈴鹿権現が創られたのではないかと思う。貞観11年(869年)に祇園祭が始まったとされるので、その後に薙刀を持った鈴鹿権現という存在が出来上がった可能性はある。そして、その創った氏族は、恐らく秦氏の一族だろう。
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秦氏の建立した神社の中に、名神大社である松尾大社がある。その松尾大社を調べると「秦氏本系帳」によれば「松尾大社は、筑紫胸形に坐す中部大神なり」とある。恐らく宗像の中部大神の「中部」とは、宗像三女神の次女あるいは中津宮に祀られている姫神であろうと考える。それでは、その女神とは?「古事記」と「日本書紀」とでは祀られている女神と島が一致しないが、宗像大社の社伝に合わせると、それは多伎津姫(湍津姫神)となるのだろう。では何故、秦氏の建立した松尾大社に祀られる女神は多伎津姫なのであろう?ただ秦氏の、多伎津姫に対する思い入れを感じるのだ。その多伎津姫は與止日女と結びつく。その與止日女は瀬織津比咩と習合するとなれば、秦氏と鈴鹿権現である瀬織津比咩との結び付きは容易であった。
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そしてだ、京都に流れる水系で忘れてはならないのは、その水の源が近江国の琵琶湖からであり、佐久奈谷から始まっている事であろう。何度も紹介しているからわかっている筈だが、佐久奈谷に鎮座する佐久奈度神社に祀られる神とは瀬織津比咩であり、それが宇治川の畔に鎮座する橋姫神社と結びついた。宇治は兎路であり、その兎の経路を辿ると、鈴鹿峠を経由して伊勢神宮にかかる宇治橋まで行き着く。その途中の鈴鹿峠は、山中他界の信仰からまた異世界へと繋がっているのだと考える。菊地展明「円空と瀬織津姫(下)」では「蒲生郡志」が紹介されており、そこには「佐久奈度の神は水別の神にて境界線に祀らるゝ例多し。」とある。ここで瀬織津比咩は境界神でもあるというのがわかる。そう山中他界である鈴鹿峠もまた一つの境界であった。この琵琶湖の佐久奈谷の瀬織津比咩が宇治の路の流れに沿って鈴鹿峠に祀られ、鈴鹿権現になったものと考える。
by dostoev | 2012-05-24 18:46 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(2)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の七)

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画像の絵のように、鈴鹿権現は立烏帽子に長刀を持った姿で表される。ここでどう考えても女性に立烏帽子という姿は、白拍子より時代を遡らないのだ。ところで細川涼一「逸脱の日本中世」を読んでいると、謡曲「井筒」の紹介があった。ストーリーは省くが、在原業平に惚れた女が死んだ後、在原業平の衣装を纏い、衣を通して在原業平の魂を受けて舞うというもの。つまり死んでも尚、女性は霊媒師のように惚れた男の魂を宿して舞う。それを行わせるものは、衣装であった。

また別に、有名な静御前の女人禁制侵犯の話が紹介されていたが、確かに神に仕える身は、そういう意識にもなるのだろう。「遠野物語拾遺12」でも、巫女が女人禁制の山に登り、石となった話があり、こういう話は全国的に多い。また別に、謡曲「道成寺」でも女人禁制の場に、男の出で立ちをした白拍子が侵入し、果ては蛇体となるのだ。

とにかく白拍子は、平安末期の院政期頃…所謂、天皇を引退し上皇となった者達が政事を行った時代だ。その院政時代から白拍子は現れ、鎌倉時代になって流行したのもやはり、静御前の影響が、かなりあったのだろう。その静御前と鈴鹿御前の音が似通っている為、岩手県に伝わる伝説にも、かなり混同されている面があるようだ。一体、静御前なのか鈴鹿御前なのか?

ところでだ、静御前は金峯山に義経と一緒の登ろうとした。それは男装していたから静御前は登れるのではないか?と思ったというのが、研究者たちの一般的見解である。秋田県に以前、金峯山として呼ばれた山があり、その原初は顎田山と呼ばれた山があった。阿倍比羅夫の顎田遠征に際し、蝦夷である恩荷が登場し、弓は狩猟のみに使うのだと"顎田浦の神"に誓い、それを阿倍比羅夫も理解したというのは、阿倍比羅夫にも理解できる"顎田浦の神"の海の神であろうし、海峡の神でもあろう。その顎田浦の神と同じ名前の顎田山の山の神として祀られていたのは、瀬織津比咩であった…。

金峯山は金を採る山でもあり、鉱山開発や踏鞴などの文化が発展した山であった。踏鞴師は立烏帽子を被るのを常としたのは「鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の五)」で紹介したが、吉野裕子によれば立烏帽子とは蛇の象徴でもある。ならば世阿弥作「道成寺」において、立烏帽子を被った白拍子が蛇体(龍)に変化したのは、本来山の女…つまり山の神とは、そういうものであるとの証明とならないだろうか?世阿弥は、秦氏の血脈が流れている。秦氏と瀬織津比咩の関係は、ここでは長々と語る気は無いが、山の神が男であるか女であるか、未だに謎とされる事に触れる気がするのだ。

古来から伝えられる瀬織津比咩の姿の一部分が立烏帽子を被った姿でであるならば、それは山の神として女神でありながら男神でもある姿なのかもしれない。それは先に紹介した、やはり世阿弥作「井筒」がそれを語っている。岩手や鈴鹿山における伝説では、どちらも鈴鹿御前は、坂上田村麻呂と恋仲になっているのも、一つは立烏帽子姫と云われる姿こそが坂上田村麻呂の魂の衣を纏って「征夷」という言葉で繋がった形であろう。それとある意味、立烏帽子姫が坂上田村麻呂の味方についたというのは、山の姫神の御加護を受けたという意味合いにも通じる。それも結局は、勝者側が創った伝承であり、坂上田村麻呂の英雄譚を創り上げる権威付けでしか無いだろう。信じるかどうかは別として「田村家御書管」には、違う事が書かれているのだから。

ところで、いくつかの風土記には"荒ぶる神"として逃げた男神に対して怒り、旅人を殺す伝承がある。つまり山には以前、男神と女神がいたのだが、男神が去った為に荒ぶった女神が山に居座ったという事だ。女神が怒ったのも、男神を想うからであり、男神がいなくなった後にも居座り続けるのは、男神への想いを抱き続ける事でもある。それが立烏帽子を被った姿である可能性は、あるかもしれない。何故に静御前が白拍子の姿のまま金峯山に登ろうとしたのかも、実は山の姫神の姿と同じものであったのだと知っててのものであったかもしれない。そしてそれを教えたのは、源義経であろう…。
by dostoev | 2011-01-09 20:53 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の六)

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鈴鹿山の【鈴鹿】の語源を調べてみると、いくつかわかったが、どれも定かでは無いようだ。それら【鈴鹿の語源】説を紹介しようと思う…。

【水音の説】

スズカとは、山での水が流れる音から来たというもの。


【雌鹿の説】

古くは、雌鹿の事を鈴鹿というというもの。つまり鹿が多い事から鈴鹿となったという説。


【琴の説】

「伊勢参宮名所図会」には、一ノ瀬神社に合祀されている朝日弁天に対する信仰が深かったと伝えられ、朝日に輝く狭霧に竜神が出現したという伝説に付随して、その朝日弁天を祀る傍の橋の古材から作られた琴の銘を「鈴鹿」と呼び、朝廷に献上されたのだと。それから峠全体を鈴鹿と呼んだという説。


【鹿の鈴説】

壬申の乱の時、大海人皇子の乗り物として、一頭の鹿を山姫が贈ったとあり、大海人皇子が鹿の首に鈴をつけて峠を越した事から…という説。


この中で「スズカ」という水音の説に、片山神社の鎮座する山から流れる清らかな水の流れが、片山神社祭神の一柱である瀬織津比咩と結び付き、山姫として信仰されたというものもある。とにかくだが、瀬織津比咩の性格を加味した場合、諸々の鈴鹿説に瀬織津比咩が重なるのは必然のような気がするのだが…。
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鈴鹿権現は、鈴鹿明神・鈴鹿御前とも呼ばれるのだが"御前"とはいったいなんだろう?奇しくも遠野には"沼の御前"の伝承が広がる。分かっているだけで、七カ所。それがどうも安倍貞任の館と結び付いてのものである。安倍貞任の館跡の頂きには大抵、巨石が立っており、それが早池峰を向いている。早池峰と沼の御前を結び付けるだろう一つに鳥海(トンノミ)と呼ばれる沼の御前を祀る禁足地の話が「遠野物語拾遺36」に紹介されている。白馬に乗った貴人が現れるは、似たような伝承に、早池峰妙泉寺であっただろう"東禅寺"の伝承にやはり、早池峰から白馬に乗った早池峯大神の話が残っている。

鈴は、錫でもあるという。鹿は山の神の使いでもあり、鈴鹿そのものの名称も山伏の産鉄をイメージするものだ。「皇太神宮儀式帳」には倭姫命が天照大神を奉じて美濃国より伊勢国に入り、桑名・鈴鹿の宮を経て壱志の藤方の片樋宮に遷った時の事、阿佐鹿の悪神を平定した駅使の安倍大稲彦命という人物がいる。その人物に倭姫が国名を問うたところ「宍往砦鹿国(ししゆきあさせかのくに)」と答えた。この砦鹿国は阿坂国とも示し、かなり大きな国であったようだ。「倭姫世紀」には、倭姫がこの国の荒ぶる神の為に五十鈴川になかなか入る事ができなかったとある。つまり砦鹿国とは、大和朝廷に激しく抵抗した国であったようだ。これを蝦夷の国に置き換えれば、やはり鬼となるのだろう。この鈴鹿峠で現れる鬼の伝承も本来は"まつろわぬ国""まつろわぬ民"を示したものだと思う。ところがこの倭姫の巡幸地は古代の製鉄地帯であった事が証明されているから、やはり鬼=製鉄と結び付くのだろう。

とにかくこの鬼退治に鈴鹿御前=烏帽子姫が登場するのは、そのまま蝦夷征伐に当てはまる。しかし御前は蝦夷の民にとって、それこそ鬼みたいな存在であった鈴鹿御前が、後に信仰されるまでになる。それには安倍貞任の影響があったのではなかろうか?つまり、元々蝦夷征伐、蝦夷平定の為の鈴鹿御前という存在を安倍貞任が信仰した事によって、蝦夷の民も安倍貞任に従い信仰した。例えば、荒川に不動明王を祀る社があり、その延長上の奥に"万旗"という地があり、貞任の館跡と共に"御前釜"という沼の御前を祀った地があるように、貞任の館跡の沼の御膳はまだ断言できないが、蝦夷の地に蔓延る"御前伝説"遠野に広がる"沼の御前伝説"とは"鈴鹿御前"であり瀬織津比咩に繋がっていくものと信じている。
by dostoev | 2010-11-15 16:48 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の五)

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画像は、白拍子である静御前。当然の事ながら、烏帽子を被っている。俗に男装の麗人とも呼ばれる格好だ。この男装となったのは、後白河法皇(1127~1192)の時代のようだ。この時代は、男娼が流行り、男色家で有名な後白河法皇や信西入道などが、江口・神埼の遊女や、お気に入りの傀儡女に男舞を舞わせ、流行らせたのが始まりのようだ。つまり、烏帽子を被る女性の始まりは平安末期であると考えて良いのだろう。となれば、立烏帽子姫のイメージは、それ以降に作られた事になるのだが…。
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鈴鹿御前は、立烏帽子姫とも呼ばれた。何故、立烏帽子なのかだが、立烏帽子姫は鬼女であるという事から、タタラも念頭に入れるべきかと思う。立烏帽子といえば先に紹介した静御前などの白拍子だろう。静御前が白拍子であり、鈴鹿御前と混同されたのも、名前だけで無く、立烏帽子を被ったイメージが重なってなのかもしれない。しかし立烏帽子姫が鬼女となれば、タタラは否定できないのだ。

画像は、出雲国母里藩お抱え絵師である長塩雪山(1774~1833)が描いたものだ。これを見ると、古来のタタラは立烏帽子を被っているのがわかる。そして、剣を持って鎮座している金屋子神も女である…。

話はずれるが、宮崎駿の「もののけ姫」に登場するエボシ様は、山中でタタラを営む女首領であった。先の画像のように、タタラ者は烏帽子を被るもの。ただしタタラ場での女の大抵は、飯炊き女などで、タタラを踏む事は無かったようである。しかしだ「もののけ姫」でのエボシ様とは、人間を超越した存在としてのキャラクターであった。エボシを被るものの古くは、エビス様がいる。エビスの被るエボシとは、吉野裕子が”蛇の頭を象徴するもの”と紐解いた。「もののけ姫」でのエボシ様は、狼に片腕を食いちぎられたのも、蛇が手無しである事を表してのものであるから、エボシ様とは人間を超えた存在で、三大山の神の使いである、狼・蛇・猪の中の一つ、蛇の象徴としてのキャラクターなのだろう。それは、古代から俗説的に伝えられる…例えば道成寺などに見られる、女性に内在する蛇の性質が含まれているのだろう。つまりだ、烏帽子を女性が被る始まりは、後白河法皇の時代であろうが、烏帽子そのものの霊性は、それ以前から伝わっていたものだと考える。あくまでも白拍子=烏帽子と捉えるなら、時代は平安末期になるのだが、烏帽子という霊性と女性という霊性の結び付きは、かなり時代を遡るのでは無いか?と思うのだが…。

実際、細川涼一著「死と境界の中世史 」では「道成寺」を紐解き「性別越境の象徴である烏帽子を扇ではね落として鐘の下に入った途端に、女性の性に戻って女人結界を犯した事になり、その結果として鐘が落ちるという天変地異が起きる。」この世界観を作り上げ伝えたのは世阿弥であり、漂泊の民でもある。その中の俗信だとしても、女性の性質は蛇であり、烏帽子を被る事により、内在する獣性を押さえ、神としての領域に近づいていくというのは、世に広く伝えられているのだろう。また蛇は、龍とも混同された。烏帽子が蛇=龍と結び付くものであるならば、滝神である瀬織津比咩との結び付きも容易になるのだろう。

ところで、室根神社の長刀役を猿田彦役でもあると記したが、鉾をもって…の初めは、猿田彦の妻となった、ウズメである。「日本書紀」によれば「又猨女君の遠祖、天鈿女命、則ち手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立たして、巧みに作俳優す。」

五来重「遊部考」によれば、天鈿女命の子孫は、猿女の君と呼ばれ、代々その職掌を伝えたと。天皇家の遊部は伊賀の比自支和気氏の女であったが、後に男に変わったのだという。また男装の白拍子は、古代の遊部の系譜を引くものであり、寺社の本縁を謡う芸能も、遊部が使者の荒魂の怒りを和らげる誄や挽歌を謡うのと共通性があると述べている。

とにかく古代の遊部の女二人は、刀や矛を持って呪文を唱えたのだが、女に相応しく無いと夫に変わったというのが、祭においての猿田彦役となるのだろう。つまり古代の原型は、女である天鈿女命が務めていたという事か…。また矛は長刀の原型であったようで、薙刀を持ち穢れを祓う露払いも当然、女がしていたのだろう。ならば、鈴鹿御前の薙刀を持つ姿は納得できるものだ。
by dostoev | 2010-11-15 16:37 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の四)

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【鈴鹿流薙刀発祥の地碑】画像提供、梨の木平の桜

ところで片山神社には「鈴鹿流薙刀発祥の地」という碑が建っている。この鈴鹿流薙刀だが、ウィキペディアで検索すると下記のように説明されている。

「鈴鹿家直を流祖とするが、鈴鹿流では、この人物を天真正伝香取神道流の飯篠家直と同一人物であると伝える。影山流第8代の松浦正威が鈴鹿流第3代を継承したことにより、影山流と併伝され、影山流とともに仙台藩に伝わった。その後、影山流の吉田有円が鈴鹿流のみを継承して、影山流とは別に伝承された。

確証を得ないが、元来、鈴鹿流という薙刀の流儀はなく、仙台藩へ伝えられた「静流」が、東北訛りで「すずかりゅう」と発音され、それに「鈴鹿」の文字を充てた可能性が高い。流祖が曖昧になっているのもそれが原因と思われる。」


ここでの「すずか」と「しずか」の転訛は、東北において、いくつかの重複をみる。まず最初に紹介した岩手県花巻市大迫町に伝わる「鈴鹿明神」の話にも、「鈴鹿」が実は「静御前」ではないか?との混同があるのも、転訛からきているものであるからだ。
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【鈴ヶ神社と、その内部】

岩手県宮古市川井村に鈴久名という集落があり、そこに鈴ヶ神社がある。鈴ヶ神社の名前の由来には二つの説があるのだが、どうも関係者に聞いてもどちらも曖昧模糊としている。その一つは、静御前が身を隠すために、鈴久名の地名を元に自分の名前も「すずか」と称したという説と、静御前の名前から「鈴久名」の地名がついたとされる説。その説に加えて説明しなくてはならないのが、訛りだ。地元のお年寄りには「さしすせそ」の発音が出来ない者が、かなりいる。「しずか」が「すずか」に発音されるのは普通であるのだ。この訛りも地名の由来に関係しているというが、実際のところはわからないようだ。

判官びいきなる言葉があるが、確かに平泉で死んだとされる義経の伝説は、岩手県に多い。それが義経だけでなく、静御前に関する話もいくつか存在する。そしてもう一つ気になるのが「篠懸(すずがけ)」という言葉だ。篠懸とは、修験者が衣の上に着る麻の衣で、深山の篠の露を防ぐ為のものであるという。
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遠野市の小友町に、篠権現社(しのごんげんしゃ)というのがある。しかし別の呼び名を「すずごんげん」とも呼ぶ。篠権現の祭祀は、調べると諏訪の御室神事に繋がるのがわかったが、何故に「篠権現」と名付けられたか不明であった。とにかく篠懸とは、篠懸衣とも呼ばれる山伏など修験者が着る法衣。スズカケとは鈴懸とも書き、プラタナスの事。何故に山伏の法衣が篠懸と呼ばれるかというと、首から纏う結袈裟の丸い房がプラタナスの実に似ている事からだった。つまり篠懸には露払いの意味があり、一つの”祓い”を意味するものである。つまり鈴(すず)は篠(すず)でもあり、山伏の文化を意味するものでもある。確かに東北において「しず」が「すず」に訛る可能性はあるだろうが、山伏が伝える「篠」は、あくまでも「すず」であったようだ。「鈴鹿」と「静」の混同が転訛の影響から見受けられ、伝承にも「鈴鹿御前」と「静御前」がはっきりしないのだが、これらを伝えた者達が山伏であろうという見解から考えると「すずか」として捉えるべきだろう。

また薙刀であるが、発祥にはいろいろな説があり不確定である。ただ、ウィキペディアの解説の中に「中国の長柄武器である大刀が伝えられ、これに習って日本で作られたものが奈良時代から平安時代にかけて寺院の守護のために僧兵の武器として広く用いられており、これが薙刀の発祥であるという説もあり、その起源と発達過程については諸説存在する。」とある。薙刀の利用方法は武器にばかりとられがちだが、神事にも使用される。薙刀は長刀とも書き記される。例えば、初めて瀬織津比咩が岩手県に運ばれたとされる室根神社の神事には、神輿を山麓まで迎えに行く場合、行列の長刀役が、長刀の石突を突張り、互いに交叉して神輿を停め、列を正して掛け声高く”不浄を祓い”鉾を振り真先に立って祭場に来るというもの。そう、ここでの長刀の役目は”穢れ祓い”であり”露払い”である。露払いとは、貴人や神霊などといった高貴な者を先導する事、またはその先導する人の事であるので、長刀を振りかざし、鬼退治をした鈴鹿御前とは、伊勢への斎宮の群行を守る為に作られた存在であり、神だったのかもしれない。それから一般庶民にも広がり、峠を安全に歩む為の神となったのだと思う。神事においての長刀役は別名猿田彦役とも呼ばれるのは、先導神としての役割からだろうが、猿田彦には露払い・穢れ祓いの役目は無い。露払いの意を持つ”鈴”の名称を与え”薙刀”を持たせたものが、やはり穢れ祓いの神でもあった瀬織津比咩と結び付き、鈴鹿御前という存在を創り出したと考えるのが普通かもしれない。ただ鈴鹿山の名の由来がわからない為、結論は先送りとする。
by dostoev | 2010-11-15 16:23 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の三)

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鈴鹿峠を伊勢側に下った関の町は、遺跡は発見されてないが、古代三大関の一つである鈴鹿の関が置かれていた所であるという。その追分地点にある道しるべには「右さんぐうみち」と刻まれているのだが「さんぐうみち」は「参宮道」で、伊勢別街道とも呼ばれた。

調べると標高357mの鈴鹿峠は、盗賊の住処でもあったようだ。斎宮が初斎院・野宮を経て3年目の9月、野宮を出て禊を行った後、宮中で群行の儀に臨み、伊勢へ出発する。その伊勢斎宮の群行が、盗賊に襲われるなどしたようである。盗賊にとっては、伊勢斎宮の群行は襲うに容易い相手であったのかもしれない。「今昔物語」には「鈴香の山にして蜂盗人を螫し殺すこと」という逸話が紹介されているので、盗賊が出没はかなり古くから知られていたのだろう。その鈴鹿峠で有名なのは、坂上田村麻呂の武勇伝となる。
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いつの頃からか、この峠に鈴鹿御前とか鈴鹿姫、あるいは立烏帽子姫とも呼ばれた鬼女が棲みついていたそうだ。鈴鹿姫は奥州の魔王、阿黒王の妻であったが、阿黒王を嫌い坂上田村麻呂に心を寄せたという。田村麻呂は鈴鹿姫の手引きにより、阿黒王を鏑矢で退治し、鈴鹿姫と契りを結んだという事だ。

この伝説は、田村麻呂と鈴鹿姫が鈴鹿で鬼退治した事になるのだが、先に紹介した「巖鷲山縁起」では、鈴鹿山での田村麻呂と鈴鹿姫の出会いから後に、遠く蝦夷の地に赴いて、再び鬼退治をした事になる。つまり解釈によっては、田村麻呂の”蝦夷征伐”と一緒に、鈴鹿姫もまた蝦夷の地に来たのだとも取れるのだが…。

鈴鹿峠の南側には、13世紀末に山火事に遭った峠の鈴鹿明神を遷して合祀した式内社の片山神社がある。この片山神社は、伊勢・伊賀の両国にまたがって広大な神領を有した格式の高い神社であったようだ。本来は三子山に鎮座していたそうだが、たび重なる水害や火災に遭い、1297年(永仁5年)に現在の地に移ったと云われる。現在の祭神は、倭比売命・瀬織津比売神、気吹戸主神、速佐須良比売神、坂上田村麿、天照大神、速須佐之男命、市杵島姫命、大山津見神と、そうそうたる神々だ。しかし三子山に鎮座していた時は三座であったようで、ネットで調べると太田南畝の「改元紀行」では「中央に瀬織津媛命、左右に黄吹戸命、瀬羅津媛命…。」と書かれているという。

江戸時代は「鈴鹿大明神・鈴鹿御前・鈴鹿権現」と称して祭祀を行っていたようだから、後に合祀された”鈴鹿権現”の方に重きを置いていたのだろうか?それとも本来の祭神が鈴鹿権現である為に、鈴鹿権現の祭祀を継続したに過ぎなかったのだろうか?

また別に、鈴鹿峠には、坂上田村麻呂を大明神として祀っていたとされている田村明神の跡がある。また少し離れた場所に田村神社があるようで、その田村神社の祭神は中央将軍田村麻呂、相殿、西の方”鈴鹿御前”とある事から、この辺の地域では峠を守る神として、坂上田村麻呂と鈴鹿姫が市民権を得ていたようだ。国の境を成すような重要な峠や坂には、境の神や、その地域の一の宮の分祠を祀る風習がある為、鈴鹿姫を考える場合、伊勢国一の宮である椿大神社との関係も考えなければならないかもしれない。
by dostoev | 2010-11-15 15:00 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩(其の二)

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伊能嘉稿の「遠野史業」には、いつか鈴鹿明神についての記述がある。「奥羽觀蹟聞老志」では陸前苅田郡斎川村の古将堂(越王堂)の伝承を紹介している。その伝承によれば、その地に人に害を成す妖魅がおり、坂上田村麻呂が討伐しようとしたが、神出鬼没の為になかなか討伐出来ずにいた。そこで田村麻呂は鈴鹿の神に祈ると鈴鹿の神が飛来し、力を合わせて退治する事ができたと。それからその地に祠を建て、鈴鹿の神と田村麻呂を合わせて祀ったとあり、それから将軍堂或いは古将堂と謂われるようなったと。

ところで、この将軍堂、あるいは古将堂、あるいは越王堂は、所謂”胡四王”であると思うが、この神社の存在は確認していないが、胡四王神社に田村麻呂と鈴鹿明神が祀れてあるとしたら、これはかなり重要な事実だと思う。

また「巖鷲山縁起(がんしゅざんえんぎ)」というものの紹介がある。巖鷲山(がんしゅざん)は「がんしゅ」という音が後に「岩手(がんしゅ)」として充てられ、巖鷲山は現在の岩手山となった。その「巖鷲山縁起」には田村麻呂が伊勢国の鈴鹿山で立烏帽子と名乗る神女・鈴鹿明神と出会い、導かれるまま岩手郡の巖鷲山に巣食う大武という鬼退治に至った。この後に鈴鹿明神は巖鷲山の東の峰に祀られ、里人はこれを御姫嶽と呼び、立烏帽子の神女是なりと記されている。

この「巖鷲山縁起」には田村麻呂が倒した鬼を埋葬した地を”エゾ森”と云うとあるが、遠野地方で”蝦夷塚”というのがいくつかある。「遠野物語拾遺16」には、小友の蝦夷塚から多くの人骨が出たとされており、土淵の石棒からも多くの人骨が出た事からこれも蝦夷塚では無いかという伊能氏の見解が記されている。この事から察すれば、戦で亡くなった蝦夷の人々の無縁塚が蝦夷塚であるのかとも思ってしまう。
by dostoev | 2010-11-15 14:16 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)

鈴鹿権現と瀬織津比咩

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「鈴鹿明神」

師走森というのは、大迫とその西、亀ヶ森との境にあるピラミッド型の山である。この山の西北の半面は、松や杉の森となっているが、東南の半面はツツジの木で覆われていて、花どきともなると、その美しさは例えようがないほどであった。

時の頃は、定かでは無い。とある夕暮れ、市女笠に深く面を隠して、この山の麓にある川村家を訪ねてきた一人の上臈がいた。何やら深い事情がありそうで、愁いの影のある美しい上臈を、川村家では座敷に招き入れ、丁重にもてなした。この女人は、自らを鈴鹿の前と名乗ったが、それ以外には、その身分を明らかすような事が無かった。

女人はそのまま、家人の同情と尊敬を受けながら川村家に留まった。しかし、女人はそれ以後、一歩も外へ出て土を踏む事が無かったので、家人達はその心を慰めようと、森の半面の樹木を切り倒して、その後にツツジを植えた。それはちょうど、女人が日常使っている座敷からは一目に眺める事ができる位置にあった。花どきになると、色とりどりの花が、あざやかに山の半面を彩って、その眺めはえもいわれぬものがあった。女人は、家人の心づくしを喜び、こよなくそれを楽しみ、愛でるふうであった。

女人は、その後もこの屋敷を出る事が無く、静かにその生涯を終えた。川村家では、この上臈の為に塚を築き、その上に小祠を建てて、鈴鹿明神として祀った。

鈴鹿御前とは、義経の後を慕ってきた静御前であるとも伝えられている。

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大迫に伝わる伝承に、上記のようなものがある。この鈴鹿権現は、岩手だけでなく、三重の鈴鹿山に関わるものであるが、そこに瀬織津比咩の名前が被さってくるのは、何か意味があるものと考える。
ここではその鈴鹿権現を考えてみようと思う。
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「遠野物語拾遺91」には「附馬牛村のある部落の某という家では、先代に一人の六部が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者が無かったなとという話がある…。(冒頭抜粋)」こういう話は、遠野の各町村ごとに似通った話があり、有名な話は、遠野の恩徳という地にある家で、山伏を泊めてそのまま殺し、金品を撒きあげた為に祟られた…という話。

小松和彦の「異人論」には、やはり似たような話が紹介されている。このような話に共通するのは、殺したが祟られるので祀った…と。つまり御霊信仰というのが伝わり、殺せば祟られるので神として祀る。もしくは伝説として残すのだが、大抵の場合、現実を伝えるのでは無く「旅の山伏が、貧しい村を救ってくれました!」などという内容に変換されているというのが小松和彦の調査でわかった。

ここで「鈴鹿明神」の話しをよくよく読んでみると、やはり綺麗事になっているという胡散臭さを感じる。「家を出て行く姿を見た者がいない。」「しかし、女人はそれ以後、一歩も外へ出て土を踏む事が無かった…。」に、どれだけの違いがあるのだろう?

異人とは、幸せも運んでくるが大抵の場合、災いを運ぶ者である…という飢饉などで荒廃していた時代には、こういった概念が蔓延っていたという。つまり異人…余所者とは、土着の人々にとって怪しむべき存在であった。

また山伏か殺されたという話は、貧しい時代、人を殺してまでも生き抜くというものがあったようだ。当然、旅人とはお金があるから旅が出来るのであって、格好の的となり易い。辺境の地であれば、そういう旅人を狙って金品を巻き上げたという話は、かなり伝わっている。ヨーロッパの民話にも、旅人を殺して金品を巻き上げていた夫婦が、やはりある若者を殺したところ、実の息子であったという悲劇の物語がいくつかあるのは、どこか安達ヶ原の鬼女の物語に似通っているのは偶然であろうか?

とにかく大迫に伝わる伝説では、鈴鹿の前は死んで”鈴鹿明神”として祀られた。しかし先に記したように、神として祀る場合の大抵は、殺された場合である。それが後世に伝える場合、我が家では人を殺したとは伝え辛いものである為、そこで物語や伝説の変換が必要となってしまう。となれば、ここでの「鈴鹿明神」の物語は、旅の上臈を座敷に上げ、殺した後に、その上臈の持っていた神を、身元不明の、この上臈の代わりに祀ったと捉える事がではるし、その方が自然である。上臈とは、おそらく遊女であるから、この大迫の地では別に傀儡子女を殺した伝承もあり、早池峰山の元に集まった
傀儡子女や上臈、もしくは歩き巫女の信仰する神との交錯があったのでは無かろうか?とにかく今回、問題にしたいのは「鈴鹿明神」とは何か?である。

後半部分に、静御前では無いかとの記述があるが、確かに岩手県には静御前の伝説もある。宮古市川井村には鈴久名という地域があり、そこには鈴ヶ神社というものがある。伝説では、義経がこの地に辿り着き切々と静御前の想いを語った後に建立されたのだという。または別説もあるのだか、元々岩手県は義経びいきな地域でもあるので、こうした伝説は多く語られたようだ。その為に、この大迫の伝説も鈴鹿の前が、もしかして静御前では?という疑問になるのも仕方が無い。
by dostoev | 2010-11-15 14:12 | 鈴鹿権現と瀬織津比咩 | Comments(0)