遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:平将門と瀬織津比咩( 11 )

平将門と瀬織津比咩(其の11)結

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この羽黒山五重塔画像は「遠野なんだりかんだり」氏より、お借りしました。
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天慶年中に、平将門が建立したと云われる五重塔が、羽黒山にある。ただ平将門は天慶二年に蜂起し、天慶四年に敗れているので、実際に五重塔の大旦那だとしても天慶年中にこの五重塔を見る事は無かっただろう。この五重塔が何故に平将門と結び付けられたのかは、やはり妙見信仰に関係するからだろう。内藤正敏「羽黒山・開山伝承の宇宙観」では、その五重塔内部に羽黒三所権現が本尊として祀られているを紹介している。中尊を羽黒山本地仏の聖観音、その脇士に軍茶利明王と妙見菩薩が置かれているのだと。羽黒修験の口伝によれば、聖観音は太陽で、妙見菩薩は北極星軍茶利明王は南斗六星であると云う。そして、その五重塔の正面に立つと、その向きは東を向いており、そこには羽黒山山頂と安久谷がある。この羽黒山本社に立つと、北に向って拝む事になるという。それはつまり、方違えの呪法であろうから羽黒もまた、北を重視した信仰であるのがわかる。

しかし、この羽黒山三所権現が、各々太陽・北極星・南斗六星という事には疑問が残る。まず、日本では北斗七星ばかりが有名で、南斗六星は馴染の無い星になっている。この北斗と南斗を配する構造だが例えば、古代中国の都に長安があり、そこに斗城と呼ばれる城があった。正確には長安城の事を言うのだが、その斗城とは北斗と南斗の図が描かれた城であり、その城を中心に考えられ、長安そのものが斗の都であった。
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「北斗は死を司り、南斗は生を司る」という伝説があるが、長安城の北斗と南斗の図は、あくまで長安城の中心に天極としての北極星があってのものとしての、北斗と南斗であった。そして、それと同じ構造が、伊勢神宮にも配されていた。上記の図は吉野裕子「大嘗祭 天皇即位式の構造」から拝借したものだが、北極星を中心に配された北斗と南斗と同じように、伊勢神宮では正殿、そして荒祭宮を北の中心として、西宝殿と東宝殿がそれぞれ北斗し南斗を表しているという。つまり、北斗と南斗は、北極星を中心とする構造が一般的である筈だ。それ故に羽黒三所権現の中心を太陽とするのには、疑問である。恐らく、 能除太子が八咫烏に導かれたという伝承による影響が大きいのだろう。

熊野で云われる神武天皇を導いた八咫烏は太陽の象徴であり、その熊野修験が羽黒山へ行き、羽黒修験の元となった。その為、本来は熊野大神が羽黒神として祀られたのだったが、羽黒側が熊野修験を排除し、独自の由緒を作り上げたらしい。しかし、その熊野の影響である八咫烏は消える事無く、今でも羽黒に伝わっている。羽黒の意味も、八咫烏の黒羽に関係していると云われる。その為に、太陽信仰も残ったままなのだろう。だがそれは、由緒の迷走から来たものだろう。羽黒修験の基本は天台宗から始まる星の宗教であった筈だ。そこには北を重視する北辰の信仰がある為、羽黒三所権現の中心に来る聖観音は、北極星を意味する筈だ。だからこそ、妙見の北斗と軍茶理の南斗が意味を成してくる。
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早池峯から発生した水が流れ、滾り落ちる又一の滝の本来の名は、天の中心の"太一の滝"であったろう。その滝を御神体とする早池峯の女神である瀬織津比咩は、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる。その荒祭宮は、伊勢神宮の北の中心となる太一であった。瀬織津比咩とは、白山神であり、熊野神であり、伊勢神宮に到っては、アラハバキと結び付く妙見神でもあった。蝦夷国における瀬織津比咩の中心は早池峯であり、妙見・伊勢・熊野・白山と、まさに宇宙の中心の神が早池峯に鎮座したようでもある。平将門の乱が蝦夷と連動したのでは無いかと思えるのは、最初に紹介した書簡。

「天慶三年二月廿六日、陸奥国言上飛駅秦状伝、

        平将門率一万三千人兵欲襲撃陸奥出羽両国云々…。」


陸奥国司などが、平将門が攻めて来ると怯えたのは、平将門と蝦夷の民の信仰が同一であり、その蝦夷の神でもある瀬織津比咩を中心に、反朝廷の意識が高まり連動すると判断されたからであろう。星の信仰は、朝廷に対する反逆の信仰でもある。それは、古代の悪星神"香香背男"から始まっていた。その香香背男の「カカセ」とは「穢祓」を意味し「ヲ」は接尾語である。西国では水神と伝えられる香香背男は、つまり瀬織津比咩の変化でもあったのだ。
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桓武天皇の無数にいる落とし子の一人である平将門が、皇位に就くとは有り得ない話。唯一それを成し遂げるには、自らの血を錦として謳い朝廷を倒さなければならなかった。しかし、平将門を守護していた筈の妙見神は、平将門の心変わりを感じ、平将門から離れたと云う。その平将門を倒したのは、藤原 秀郷である俵藤太であった。その俵藤太は、瀬田の唐橋において、桜谷に鎮座する瀬織津比咩に見込まれ、百足退治をした人物であり、その褒美から竜宮に招待されたという伝説を持つ人物だ。瀬織津比咩の加護が平将門から俵藤太移ったのは、偶然ではあるまい。そして、その俵藤太の末裔が遠野を支配したのも偶然では無い筈だ。

源頼朝が奥州征伐の後、軍功として阿曽沼氏に、早池峯に護られる遠野を与えた。歴史上はあくまでも軍功としてである。しかし、阿曽沼氏に脈々と流れる俵藤太の血を、頼朝が欲したからではなかったか。

蝦夷と連動したであろう平将門の乱の中心にいたのは、妙見神であった。その妙見神と同じ神を信仰する安倍一族と、源義家は敵対した。そして、その安倍一族の信仰を受け継いだ奥州藤原氏を滅ぼしたのは、源頼朝であった。その源頼朝の心配は、次なる反乱であったろう。古代の蝦夷の蜂起が、庚申の年に起きたという事実に対し、そこに発生したのは為政者としての不安であったろう。日本の歴史上、常に為政者に対して反乱してきたのは星の信仰を持つ者達であったからだ。だからこそ、平将門を倒した俵藤太の末裔である阿曽沼氏を、妙見神でもある早池峯の麓に置いたのではなかろうか。

然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為
す。日分かれて星となる。            「日本書紀纂疏」


星が堕ちて石となり、その石は金の散気であると信じられていた時代、その金を自在に操る蝦夷の民が居た。未だに蝦夷の民が鍛えた蕨手刀の鍛練法と、その原料である鉄の出所は謎のままである。その蝦夷の信仰する星神は、山に鎮座する山神でもあった。その山を中心とする信仰と文化と技術に、幼少時に陸奥国に住んでいたと云う平将門は影響されたのだろう。しかし、その信仰と文化と技術を土台として、自らが頂点となるよう新皇と名乗った事により、その神が離れてしまったのだろう。平将門の信仰した瀬織津比咩という神は、神名こそ歴史の表には出ないものの、常に時代の動乱の中に生き続けていたようである。
by dostoev | 2015-05-12 17:41 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の10)

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「地神第二子白山瀬織津置倉宮ハ東馬場ノ麓宮ニ坐ス。東夷異国征伐ヲ為神宮ヲ東麓卜ス。託宣記曰、慶雲二年我大将軍為兇賊陣ヲ誅シ平グル。天慶年中官軍鎮飽一乗之法味勢力我勝。」                    【白山大鏡】

「白山大鏡」の文中に登場する瀬織津比咩は、白山神の霊験のイメーシとは裏腹に、戦にね加担する霊威を示している。これは、養老年中に熊野神として室根山に蝦夷を平らげる為に連れて来られた瀬織津比咩の姿と同じである。気になるのは、瀬織津比咩が「地神第二子白山瀬織津」と認識されている事である。例えば、別山の小白山別山大行事が、実は元々白山剣ヶ峰の西に本宮があった地神であったのを、後に白山妙理大菩薩に譲りったと伝えられる。これは泰澄による白山権現に対する信仰が成立する以前、本来の神が祀られていたという伝承がある。その白山の地神とは、農業用水の水源を司る水源神であり、それは水神であり龍神と伝えられる。その神とは現在、白山信仰に神名を見出せぬ神、それが瀬織津比咩ではなかったか。

「白山由来記」には「凡そ白山絶頂ハ高天原凡天宮、千倉天神、置倉地神ノ雪嶺也。」とある。先に紹介した文には、瀬織津比咩が置倉に坐しているのがわかる。その白山絶頂(禅定)には緑碧池がある。「泰澄伝記」によれば、泰澄は白山天嶺の禅定に登り、緑碧池の畔で一心不乱に礼念加持し、三密の印観を凝らし、五相の観に入って身心を調え、呪遍を口に満たし、その念力は骨をも徹した。その祈念が通じ、ついに池の中から九頭竜王が形を現した泰澄がこの九頭竜王に対し、これは方便の示現である。本地の身ではないと責め立てると、ついに十一面観音の玉体が出現したという。つまり、九頭竜と十一面観音とは、本地垂迹の関係でもあると言って良いだろう。それは十一面観音を本地とする、水神であり龍神こそが、白山の地神であると。

そして「白山大鏡」で一番注目すべきは「天慶年中官軍鎮飽一乗之法味勢力我勝。」のくだりである。天慶年中の戦に何があったかといえば、天慶二年(939年)秋田城下で俘囚の反乱が起き、そして平将門の乱と藤原純友の乱が起きている。朝廷では「純友、将門が謀を合せ心を通わせ、此の事を行うに似たり。」と驚きを隠せない言葉を吐いている。この天慶年中の戦乱に、白山神でもある瀬織津比咩が関係している。しかし、平将門が信仰した神は妙見神であり、それに白山神が、どう関わっているのか。
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九頭竜といえば、現在福井県に流れる九頭竜川がある。この九頭竜川の呼称は明治時代になっての事で、それ以前には、いくつもの呼び名がある中に「黒竜川」という呼称に注目したい。この九頭竜川の流れる福井県の八重巻東町に、寛平元年(889年)に勧請された白山神社がある。その由来には、寛平元年に平泉寺の衆徒に白山神が示現し、その尊像を川に浮べると、九頭竜が出現し、黒竜明神の向かいに留まった事から黒竜川と呼ぶようになったそうだ。これはつまり、黒竜と九頭竜は同体であるという意味になる。そして付け加えれば、文中に登場する平泉寺とは、平泉寺白山神社であり、奥州藤原氏の平泉の命名には、この平泉寺白山神社来ているという。天文六年( 1537)成立の「霊応山平泉寺大縁起」に、「秀衡は、寿永二年( 1183) に白山へ銅像2 体を奉納し、平泉寺へは釣鐘を寄進した。そして、自分の住む城郭を平泉館と改めた。」とある。現在も平泉の地に白山神社が鎮座している事を見ても、白山神社と奥州藤原氏の関係が深いである事を示しているだろう。

ところで九頭竜は九つの頭を持つ恐ろしい竜との認識があるが、それ以外にも九つの頭であるから八俣の蛇、つまりヤマタノオロチではないかなどとの説がある。しかし本来は、国津竜の転訛から来ているという説が有力の様だ。だがここで黒竜と重なる事を考えれば、九頭竜とは妙見の九曜と関係があるのではなかろうか。何故なら既に、黒竜そのものが妙見神であるからだ。「遠野物語拾遺46」では、黒蛇大明神が早池峯の神と結び付けられている。この黒蛇大明神は、黒竜でもあった。それでは黒竜とはどういう意味かと言えば、陰陽五行の北に位置する色が黒であり、その北に鎮座する竜を黒竜で表し、それは妙見神でもあった。
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早池峯の山中周辺に表記される名称は、白山のそれとほぼ同じであるのは、白山神と早池峯神が結び付けられたからだ。実は、上の画像を見て分かる様に、白山神と熊野神と早池峯神が奥ノ院に祀られ同体とされている。つまり北に鎮座する早池峯の瀬織津比咩とは、熊野神であり白山神でもあった。
by dostoev | 2015-05-11 19:52 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の9)

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「吾妻鏡」に登場した九本足の奇妙な馬だが源頼朝は「房星の精なり。これを愛するに足らず。今これを千里に却けらる。」として陸奥に放たれたという。房星は房宿で二十八宿の占を調べればこう書いている。

「生れながらにして人を制し、また人に好かれ、頭が切れる。民衆の心を掴み人の上に立つ存在」

「吾妻鏡」に突然出てくる奇妙な一節だが、恐らく二十八宿に照らし合わせ源義経を見立てたものであったろうと考える。また九男であった義経の九も、これ以上ない最高の意味を表し、そういう意味合いからも源頼朝は源義経を傍に置きたくない存在であったのだろう。深読みすれば、九という数字は妙見の九曜と重なるからではなかったろうか。源頼朝の時代には、星を信仰し朝廷に背いた安倍貞任や、妙見神を深く信仰し、やはり朝廷に背いた平将門の話が、まだ生々しく生きていた筈だ。その源義経と見立てられた九本足の馬を陸奥国へ放したという。これもまた意味深な話であるが、源義経の存在を星に見立てて恐れた源頼朝と捉える事も出来る。
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古代の星に関するものでやはり有名なのは悪神と呼ばれた香香背男で、別名「天津甕星」とも云う。その香香背男の伝承で有名な大甕神社の縁起に「倭文神大甕山にて悪神香香背男の変じたる大石を蹴倒しけるに、石四方に裂けて飛び散れり。その一は海中に入り、残りの石のとどまりし所、石神、石塚、石井と称ふ。」この香香背男が石になったものが大甕神社にて宿魂石として祀られているが別に「魔王石」とも呼ばれている。
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江戸時代になり、水戸黄門としても有名な徳川光圀が、この魔王石に着目している。寺社奉行に宛てた書簡に「魔王石へ久慈、鎮守為引申候」とある。魔王という言葉の意味は仏道修行や善事の妨げをする悪鬼の頭であり、西洋で言えば魔王ルシファーみたいな存在である。

この魔王石がある地は、天台宗の山岳寺院であり、明治時代の神仏分離によって花園神社となった辺りである。そこへ行く為には必ず石名坂を通らねばならない為、石名坂がどうも入峰にあたっての入り口であったようだ。その石名坂こそ、香香背男が陣をはったところであった。そしてその石名坂の村に羽黒明神が祀られていたのは、羽黒修験との関わりが深かった為であったようだ。つまり常陸国に広がる修験の全体が羽黒修験の管理下であったよう。

先に紹介した、宿魂石のある大甕神社…正式には大甕倭文神社の祠官の所有する文書によれば「天正十二年春初メテ石名坂村歯黒明神ヲ勧請シ祠官トナル」とある。天正十二年(1584)であるから、信長が本能寺で死に、秀吉が関白となる前の年となる。しかし「元禄二年春羽黒明神ヲ御取潰シ」とあり、何故か徳川光圀の意向により、元禄二年(1689)に羽黒明神が取り潰されてしまった。
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この羽黒明神が勧請された天正十二年(1584年)から取り潰された元禄二年(1689年)の間にどういう事件があったのか調べて見た。着目したいのは、石川五右衛門が文禄3年8月24日(1594年)に捕えられ、京都三条河原で一子と共に煎り殺されたという事件だ。この石川五右衛門には、星に関する伝説が伴う。石川五右衛門は、庚申の日に生まれたというものだ。それから、庚申の日に生まれた子供は大泥棒になるという噂が広まり、それを避ける為に金の文字を名前に入れれば良いとされた。つまり、お金が無かった為にお金を奪う大泥棒であった石川五右衛門であるから、初めから「お金」を持っていれば良いという意味合いであったのだろう。その俗信はかなり長い間続き、有名どころでは夏目漱石(本名 金之助)もやはり庚申の日生まれで、親が金の字を名前に付けたという。

江戸時代の俗信に、星の輝く夜というのは太陽も月も出ていない真っ暗な夜を意味していた。つまり、その夜に蠢くモノは悪鬼であり魑魅魍魎であり、大泥棒などの、お天道様の下で動けない、悪いモノというレッテルが貼られていた。その俗信の発端になったのは当然、石川五右衛門も登場するだろうが、遡れば朝廷に逆らい妙見を信仰した平将門がいて、香香背男がいる。

妙見信仰は明治時代になって正式に邪教として扱われたのだが、既に江戸時代には邪教とされていたようだ。徳川光圀が何故に羽黒明神を元禄二年に取り潰したのかは恐らく、その発端が石川五右衛門の存在では無かったろうか。強固な幕府体制を敷く為にも、そういう反逆分祠や反逆的な信仰を断つ必要性を感じたのかもしれない。そして何故に羽黒明神を取り潰したのかは、羽黒修験そのものが北を重視、もしくは神聖視した信仰、つまり妙見信仰であり、それに関わった天台宗そのものが星の宗教と呼ばれる存在であったからだろう…。
by dostoev | 2013-06-13 11:11 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の8)

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画像の絵は北斗曼陀羅。正確には「終南山曼陀羅」と呼ばれるものだ。そこには十二宮、二十八宿、北極紫微大帝の坐す妙見殿の天官、更に三尸、三魂、七魂、五臓、等々が描かれている。その中に注目したいのは、滝があり女神が佇み、そこに民が願いをしている姿がある。
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早池峯などの高山は、昔は修験者が登る程度で、民は恐れ多くて登る事は無かった。遠野では、人は死ぬと、その魂は滝で清められ早池峯に登って行くとされた。これは早池峯だけでなく、地域の高山全てにそういう信仰が伝わっていた。魂は天へと昇って行くもの。つまり、高山の頂は天に通じるか、天そのものと考えられていた。その早池峯の麓に、又一の滝がある。又一の瀧は、早池峯神社から更に奥へと進むのだが、又一の滝は旗屋の鵺などの話も伝わる事から、古くから又一の滝への道は開けていたのだろう。つまり、早池峯に登らずとも、直接早池峯の御神体に向かって祈願する事は容易であった筈だ。早池峰から繋がる天に対しての願いの入り口が、麓の滝である又一の滝であった可能性はあるだろう。
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「衣川伝説」においても、妙見は恐らく水神であろうという事だ。星の神といえば、建葉槌命に倒された香香背男が有名だが、日本海の沖に浮かぶ星神島において雨乞いの神として、何故か香香背男が祀られている。星の神と水神との結び付きは、未だに理解できない面があるが、安田宗生「熊本の妙見信仰」を読むと、熊本の妙見神の殆どは水神であるという。安田氏曰く、恐らく水神に後から妙見神が習合したのであろうという事だ。考えてみると、妙見神は亀に乗って海を渡って来た女神であり、それは竜宮思想にも結びつく。熊本県神社庁の妙見神の見解は「熊本神社庁誌」によれば「神仏混合の熟した平安末期から鎌倉初期にかけて広まった。」としている。

ところで熊本県の妙見神の中で気になる神社がある。白川吉見神社は水神を祀る草部吉見神社から分霊された神社だが、その白川吉見神社では、社殿の前の水源を妙見としている。まあ湧水や水源を妙見としている神社は多いのだが、白川吉見神社の祭神は國龍神。つまり阿蘇の龍神である健磐龍命に嫁いだ草部吉見神社の水神である阿蘇津比咩の事を言う。以前、阿蘇津姫は瀬織津比咩であると述べたが、この白川吉見神社ではその龍神である、阿蘇津比咩=瀬織津比咩が妙見神と結び付いている。
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つまりだ、何故に水神である竜神と妙見神が結びついたのかは、やはり亀に乗って来た女神がそのまま伝えているのだろう。亀に乗っているのは龍神である女神であり、つまり亀は船の代わりであり、女神を運搬しているのだ。植野加代子「秦氏と妙見信仰」によれば、妙見という地名と秦氏が結びつく事に着目し調べると、秦氏の扱う織物であり鉱物であり酒などを輸送する場合に船を使用していた。つまり、水上交通である。その水上交通を抑えていたのは秦氏であった。例えば淀川も秦氏の勢力範囲内であるが、琵琶湖から流れる宇治川水系の淀川に祀られる與止日女は瀬織津比咩と習合し、宇治川の橋姫も瀬織津比咩と並び祀られる。水上交通に秦氏が関わり、秦氏と瀬織津比咩が強く結びつくのを感じる。例えば、「遠野物語拾遺119(神業)」においては、遠野の琴畑渓流の社に祀られていたのは瀬織津比咩であり、そこでは木流しという、やはり樹木と言う物資を川を利用して流す事が行われていた。前にも述べたように、琴畑には秦氏の影が見え隠れしている。

もう一つ、妙見と水神の結び付きを示しそうな話がある。平田篤胤「古史伝」では「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺はも、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからである。そして妙見では、五と三の数字を重んじる。北極五星は天上の最も尊貴な星とされるのだが、その中でも三星は特に尊い星とされている。その三と五の組み合わせに関する神話が「古事記」に登場する。それは天照大神と素戔嗚尊による誓約の場面だ。そこで三女神と五男神が生れるのだが、その後の扱いを見ても、三女神の扱いを重視しているのは、三女神と三星が結び付くからと考える。その三女神は宗像三女神で、水神である。その宗像三女神の中でも多岐都比売命を祀る中津宮である大島には星の宮があるのを知った。またその大島には星の信仰をしたであろう安倍一族の安倍宗任の墓も存在する。以前、多岐都比売命は瀬織津比咩では無いかと書いたが、星を通してここでも繋がる。とにかく「古事記」に於いても、水神と星神の結び付きが成されていたのである。
by dostoev | 2013-03-07 20:52 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の7)

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早池峯神社の御神体は、早池峯そのものでもあり、または麓の又一の滝でもあるという。それは御祭神が滝神でもある為だが、御神体が二つと言うのもピンとはこない。まあ、山そのものに滝が含まれるわけであるから、まとめて御神体と考えてもいいのだろう。ただ、ここでは妙見神としての早池峯の神の姿と、滝神(水神)としての早池峯の神の違いがあるのか考えてみたい。
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神社の場合、里宮とか奥宮などと分散して神を祀る場合がある。早池峯の場合の奥宮は山頂になる為、簡単に奥宮参詣は出来ない事から、麓の里宮での参詣となる。この様に神社参詣方法は分離されているのだが、実は妙見もまた分離されている。

妙見という北辰信仰が輸入された古代中国の「天官書」には、こう記されている。

「中宮天極星、其一明者太一常居也。旁三星三公。或曰子属。後句四星末大星正妃。余三星後宮之属也。環之匡衛十二星藩臣。皆曰紫宮。」

つまり、天の中枢部に当る中宮の、そのまた中心が紫宮であり、そこに太一がいる。紫宮とは、例えば聖徳太子が紫の衣服を着た事からわかる様に、一番位の高い色である。中心部であり位の高い位置を紫色で示し、紫宮としている。古代中国において、天の中心とされ太一が居るところは紫宮とされる。中心という事は水の波紋のように、全ての不動の中心にいるという事だ。つまり、これを早池峯に当て嵌めた場合、その中心は恐らく又一の滝であろう。

以前にも書いたのだが、又一の滝の謂れが「一番の滝は熊野の那智の滝である。又、それに匹敵するのがこの滝である。」という適当な由緒のネーミングになっているのは、いかにも胡散臭い。恐らく"天の中心"である「太一の滝」を意味して付けられ、後に「又一の滝」となったものだと考える。何故かといえば、これは何度も書くが、大迫の早池峯神社は早池峯に向けて建てられておらず、遠野の早池峯神社に向けられて建てられている。その意味はつまり、方違いの呪法であって、あくまで早池峯が北に鎮座する存在であり、大迫の早池峯神社が遠野の早池峯神社に向けて建てられているのは、大迫からの祈りが遠野の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯に向けられるからであろう。
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岩手県で瀬織津比咩を祀る神社は上の図であり、この他に載っていない神社や遥拝所がいくつもある。早池峯より北には、早池峯を祀る神社の数は少ない。しかし、例えば早池峯の北西に位置する玉山村の多岐神社などは早池峯ではなく、早池峯と同じ瀬織津比咩を祀る姫神山に向けて建てられている事から、早池峰信仰圏というわけではなく、姫神信仰圏といって良いだろう。それ以外の神社は、あくまで北に鎮座する早池峯を意識しているような気がする。

姫神信仰圏とは書いたが、例えば秋田県の太平山は以前、姫神嶽と呼ばれ、早池峯と同じ瀬織津比咩が祀られていた。いや、今でも祀られている。後に太平山となったのは、恐らく常陸国から移転してきた佐竹氏によるものだろう。常陸国にも太平山があり、太平山神社は存在する。その太平山神社はそれ以前、三光神社と呼ばれ、やはり星を祀っていた。その太平山神社の末社は、上・中・下と合わせて63社あり、その中の下21社は何故か「往古ヨり神秘トシテ社号神明ヲイハス…。」とあり、謎のままである。常陸の国に居た佐竹氏は、奥州藤原氏とも繋がりを持っていた事を考え合わせても、信仰面でも繋がっていたようである。何より常陸国には、安倍貞任の伝承もある事から、蝦夷国の入り口の常陸国は、かなり古くから繋がっているのだろう。その常陸国には有名な星神である香香背男がいて、星に関する神社の数は全国一を誇るだろう。恐らく、古代の早池峯と常陸国は妙見を中心として関連があったのではなかろうか…。
by dostoev | 2013-03-06 17:05 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の6)

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秦氏の話を若干したのだが、秦氏が逃げ延び居ついたという琴畑部落とマヨヒガの伝承のある琴畑渓流と白望山がある。琴畑渓流の滝には、早池峰の神である瀬織津比咩が祀られているが、白望山はどうであろう?山頂にある石碑は「見真大師」であり、親鸞の事を言う。庚申講と同じように、地域の人々の絆を意図して始められた二十三夜講が行われ、沿岸域の人々がこの白望山に昇って月星を拝んでいたようだ。高橋忍南「二篆管窺」には「今の世に庚申塔と称する石碑夥多し。其庚申は即北斗七星尊を祀る也。廿三夜塔も亦同じ。」と書き記されている。要は、妙見も庚申も二十三夜も星祭という事だろう。妙見信仰の神紋に九曜紋が使われるのも、七つの星に太陽と月を加えたのが九曜である事から、全て天体の星であるという考えからだろう。
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ところで白見山の山名だが「白」を「見る」とある。「遠野物語」には「白望山」と記されてはいるが、「見る」も「望む」も、意味的には同じだろう。あくまで「シロミ」という音を意識してみたい。では、その白とは何であろうか?例えば太陽も白で表す。三重県鳥羽市神島の八代神社で行われる「ゲーター祭」は白い輪っかに長い竹を刺す。それは太陽の死を意味し、復活を期待しての祭りであるという。他に、もう一つ白を意味する星がある。それは太白であり、太白は金星を示す星となる。そして少し違うのだが、宮崎県にある銀鏡神社にも興味がいく。

銀鏡神社の祭神は、磐長姫。磐長姫は醜いとされ、天孫ニニギは姉妹であった美しい木花咲耶姫を妻と選び、醜い磐長姫を避けてしまった。自らの境遇を嘆いた石長姫が、自分の醜い姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡付近の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。それから、この地は白見(しろみ)と呼ばれ、後に現在の銀鏡(しろみ)という地名になったという。実はこの銀鏡の地には、秦氏と共に菊池氏も多く住み付いた地でもある。白見山の麓の琴畑に秦氏が関係するなら、白見山そのものにも秦氏が関係しているのかもしれない。人は、未開の地に移住した場合、故郷を懐かしがって同じ地名を付けるものだという。邪馬台国東遷説も、そこからきている。九州と近畿に、似た様な地名が重複する為だ。当然、秦氏が遠野の地に逃げ延びて未開の地を開発したとしたら、その周辺には故郷を懐かしんで、同じ地名を付けた可能性は否定できないだろう。
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「遠野物語33」に白望山が深夜に薄明るくなることがあると記されている。「聞き書き遠野物語」などの著者内藤正敏氏は、遠野側から見た場合、白望山の背後にある金糞平というタタラの地で起きた火によるものでは無いかと推察している。だが、マヨヒガのように秦氏が持ち込んだ伝承である可能性もあるのかもしれない。その伝承とは先程の銀鏡神社の月光を受けて白く輝いた鏡の伝承だ。奇しくも白見山の頂では、月を待つ二十三夜待ちをしていたという。何故、白見山の頂で二十三夜待ちが行われたのかは、未だ定かでは無い。いずれにせよ、白見山には謎が多い。ただ言えるのは、白見山の峰続きに新山という地があり、早池峯を望むには絶好の場所がある。その更に遠野よりの山は貞任山と言い、貞任山の裏側にあたる和山の地には貞任の末裔が住み付き、星宮神社を守ってきた。また貞任山の北東にある山を五郎作山といい、貞任の家来の名を取ったものだとも云われ、古文書によれば貞任はアラハバキ神社を祀っていたと記されている。つまり、貞任山から新山、そして白見山に渡って安倍一族の勢力範囲内であったのだと考える。
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舘跡を調べた先人の、菊池春雄氏荻野馨氏の調査によれば、安倍館の殆どから、早池峯が遠望できるといい、種山の安倍館の屹立した岩の間からは、丁度早池峯が入る様になっている事から、安倍一族は早池峰信仰を深く信じていたであろうという事だ。つまり白望山の頂からの二十三夜待ちとは月の出を待つと共に、一つの星祭であり、それは北に鎮座する北辰としての早池峯を拝む事でもあったのかもしれない。何故なら、明るい月が天空に昇れば、早池峯はその姿を現わすからだ。
by dostoev | 2013-03-05 20:07 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の5)

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ところで平将門が信仰した妙見だが、遠野には妙見という石碑は横田城跡にしかない。妙見信仰の名残としては、常堅寺裏の河童淵傍の祠内部にある伊勢から伝わった紅白の乳神くらいか。しかし妙見はなかなか無いものの、遠野中に庚申塔の石碑は、かなりある。庚申は庚申講の名残だと伝わるものの、正確に遠野で庚申講を過ごしたという記録は無い。いや無いといえば語弊があるが、恐らく妙見信仰の代わりに庚申信仰が広まったものと考える。
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庚申の日は、人間の頭と腹と足には三尸の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているのが庚申の夜に、その人物なりが寝ている間に天に昇り、天帝に対して、その人物の日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされる。そこで、三尸の虫が天に昇らないようにする為、庚申の夜は村中の人達が集まって夜を過ごしたという。

ところが妙見にも似た様な話がある。人間の体内には小神が住み着き、本命の日に北斗に対して、その人物なりの善悪の行為を告げるとされている。北斗は北斗七星であり、一切の人民の生死禍福を司る神とされている。したがって、北斗に祈れば、百邪を除き、災厄を免れて服が来る。もしくは、長生きできると云われるが、逆に悪行があれば魔王に魂を抑えさせ、地獄に堕とすとも伝えられる。つまり、この内容から庚申も妙見も同じものである事が理解できる。また庚申待で唱える「オンコーシンレイ、コーシンレイ、マイタリ、マイタリ、ソワカ」の呪文は北斗の総呪である為、恐らく妙見と庚申は、いつしか習合したのであろう。
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源実朝や北条政子は妙見を信仰し、鶴岡八幡宮の傍らに北斗堂を建立させるなど、武士の間にも妙見信仰が広がっていた。北辰信仰は元々北極星の信仰であったが、後に北斗七星も含まれてから、北斗七星は北方守護神である妙見の剱と見做され、その七番目の星が剣の切っ先とされ、敵を破る「破軍星」と云われ、これが武士の間に広まった要因であったろう。その北斗七星の剣は破邪の意味をも有し、穢祓としても尊重された。

「衣川伝説」によれば、安倍貞任と戦った源頼家・義家の親子は雨でどうしようもない時に、今の奥州市にある妙見神を祀る日高神社に祈願したところ、巳の刻に雨が上がり空が晴れ、戦に勝つ事が出来た事から「巳の妙見」と云われる様になったが、本来は水神であろうと云われる。不思議な事に、衣川にある三峯神社もまた、源義家が祈願して安倍貞任から勝利を得たと言うが、安倍貞任の信仰を顧みた場合、本来は逆転しているのでは無いかと思うのだが、もしかして勝者の都合により、話が変換されたのかもしれない。

ところで安倍貞任だが「華園山縁起」「安倍貞任、宗任は星ノ御門ノ子孫ナリ…。」とある。御門は神と解釈され、また別に安倍貞任が"魁偉"と称された事から北斗七星と繋がる神、つまり妙見神と繋がっていた。遠野の東の和山で貞任の末裔が星宮神社を守ってきた事からも、やはり星の信仰をしていたのだろう。その星を信仰している安倍貞任が、突発的に妙見神に祈願した源義家に敗れるというのは、勝者の歴史的作為を感じるのだ。
by dostoev | 2013-03-05 13:37 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の4)

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上の画像は妙見神であるが、妙見神の伝承では亀に乗ってやって来た女神であるという事だ。

ところで家紋や神紋には「竜紋」があるが、牝竜の場合は「雨竜紋」になっているのに注意したい。同じ竜でも牝竜は雨乞いに関係する竜であるからだ。牝竜はミヅチであり「水霊(ミヅチ)」とも書き表す。そのミヅチを表す雨竜紋の図形は、竜宮の亀の変形を表した図形であるという。
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妙見神を日本で最初に祀ったのは、熊本県の八代妙見宮である。そのお祭りには、上記の絵の様に「亀竜」が登場する。四神に玄武がいるが、その玄武の本当の姿は亀と竜が合体した姿で表される。熊本県八代の風俗に妙見神は亀を眷属としている為に、食べたり粗末に扱う事を禁ずというものがある。その風俗はまるで「浦島太郎」ではないか。子供達に虐められていた亀を助けた浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、乙姫と出逢う。その竜宮だが、その場所は海の彼方、もしくは海の底とも云われるが、日本国内においては山中にも竜宮は存在する。いや正確には竜宮に通じる穴や水場などが山中にあるなどという伝承が日本全国に伝わっている。

熊本県の八代もだか、秦氏が南九州に逃げて居ついたという歴史がある。それとは別に、遠野の琴畑のマヨヒガ伝承も逃げ延びた秦氏が住み着いてマヨヒガの伝承を伝えたとも云われる。秦氏は畑仕事の合間に琴を奏でた事から琴畑という地名が付いたも云われている。妙見の伝承は亀に乗って来た女神だが、マヨヒガの伝承は川から朱塗りの椀が流れてくる話となっているが、大まかに言えば「漂着伝承」とも云えるのだ。神的なものが水を伝って流れ着いて来るのは、女神が朱塗りの椀かの違いでしかない。亀と言えば、秦氏が祀る松尾大社の眷属もまた亀である。しかしその亀とは竜を内包している。遠野の新町に神明社が移転された後に、松尾神社が建立されたのは意味があると考えるが、これは後に書き表す事としよう。

ところで東北などに逃げ延びた秦氏は桓武天皇時代であると云われるのは、新羅仏教を伝える秦氏であったが、桓武天皇の時代には任那仏教に変わった為、用無しとなった秦氏は桓武天皇から追われたとも云われる。しかしそれとは別に、桓武天皇時代に、妙見信仰は皇族のものである為、民衆が妙見を信仰してはいけないという禁令が発布されたのもあったのかもしれない。しかし奇しくも桓武天皇の末裔である平将門が新皇と名乗り朝廷に対して謀反を起こしたのは、あまりにも皮肉ではないか。その平将門は、妙見菩薩(妙見神)を厚く信仰していたのだ。
by dostoev | 2013-03-05 06:20 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の3)

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ところで福島県の相馬の伝承には、平将門が白馬に乗った女神の姿を見たとある、というものが伝わっている。妙見様は、玄武に乗って…と先に記したが、東北全般に広がる妙見信仰の中に、妙見様は白馬に乗るという伝承もある。つまり平将門が見たと云う、この白馬に乗った女神が、妙見の女神とも云えるのだろう。

中国の伝説には、星が下がって竜の胎内に宿り、馬になったというものがある。東京都の大田区の妙見堂に伝わるのは、昔、平将門が一夜、客星落ちて竜馬となると夢に見て妙見菩薩を祀ったという伝説もある為、中国の伝説が日本にも伝わっていたのだろうと思う。つまり、星と竜と、そして葦毛馬(白馬)は妙見信仰の中で全て繋がるものと考える。


ところで雑談となるが、平将門を調べていて面白い事がわかった。東国の武士達は、やはり反朝廷の意思を持っていて、朝廷側や時の権力者である藤原氏などが恐れた怨霊である菅原道真を祀る天満宮、もしくは菅原神社を多く建立し祀ったとの事だ。雷神であり、学問の神様とも崇められる菅原道真であるが、建立当時の意識の根底には、反朝廷の意思が働いたというのも理解出来る。何故なら虐げられた者達が集まったのが東国や蝦夷の地であったからだ。

つまりだ、こういう朝廷の意志や権力がなかなか及ばない地域には、反朝廷という意志が働き、朝廷側が忌み嫌う神を祀る傾向にあったとも考えられる。それを思えば、何故に岩手県に瀬織津比咩が多く祀られているかというものに結び付くものでは無いだろうか?今後は、この辺も調べてみようと思う。

またも余談になるが、防府天満宮発行の書「高杉晋作の天神信仰」によれば、高杉晋作もまた菅原道真を敬慕していた…というよりも、自らを菅原道真に重ね合わせていた節がある。これは先に記した、反朝廷の意思と同じで、反体制の意思を表すものであったようだ。

異端・異分子・虐げられし者の根底には、古い歴史を紐解き、自らの立場と思想に重なる神を祀るという流れがあったのだと感じる。高杉晋作の活躍した幕末は、菅原道真の時代よりも、遥か未来である。しかし、為政者には見えない神の信仰というのが、語り継がれてきたのだろう。現代の学問としての古代史の大抵は、王権祭祀から紐解いている場合が多いのだが、それとは違う庶民であり、百姓であり、虐げられた者達からの信仰の流れをもっと調べる必要性を感じる。

平将門が信じた妙見とは大抵の場合、星の信仰と認識されている。また妙見そのものは道教思想が強いものだ。薬師寺慎一著「楯筑遺跡と卑弥呼の鬼道」では、ここから発掘される亀石は、水神の依代であったろうと書き記している。

陰陽五行によれば、北は玄武であり、色は黒を示し、そして水を現す。つまり亀=水という図式だ。また「道教と日本思想」によれば「魏志倭人伝」において卑弥呼の”鬼道”とは、当時の中国は仏教思想が中心であった為、原初的な道教思想を用いる卑弥呼を「鬼道」と非難したのだろうという事である。

その道教は日本の神道と結び付き、天照の祭祀にも大きく関わっていのだと。福永光司著「道教思想史研究」によれば、道教の経典である「南華真経」では「至人の心を用うるは鏡の若し。」とあり、これは聖人や至人の心を写すのが鏡であるという意。また「聖人の心は天地の鏡なり。万物の鏡なり。」とあり、この思想に夢中になった卑弥呼は「魏志倭人伝」において、魏の皇帝から100枚の鏡を贈られた時「鏡が好きである。」との記述があるのは、道教思想の崇拝者であったろうという事だ。その卑弥呼からの思想が続き、天照大神の御神体が鏡となったのは、その延長上となる。

ところで水神との結び付きを指摘される亀石だが、別に龍神石とも呼ばれるのは、玄武の本来の姿が蛇と亀の結び付いた姿からである。蛇は竜でもあるから、竜神石=亀石=水神を現す。

実は、遠野の東禅寺という臨済宗の寺があったとされていて、そこには瀬織津比咩の伝承も結び付いていたのだが、平成の世になって某学者から指摘され、実はその寺とは「東禅寺」でもなく、ましてや「臨済宗」でも無かった事がわかった。実は、早池峰妙泉寺の里寺であり、妙見信仰の影響が強かった事が発覚した。そこには竜神石も用いられ、水神である瀬織津比咩と結び付くのは当選の結果であったわけだ。九州地域の妙見信仰の大抵は水神と結び付いていて、やはり瀬織津比咩が鎮座している場合が多いようだ。

また妙見神とは女神であり、亀に乗って渡って来たという伝説がある。日本最古の妙見社は熊本県の八代妙見社で、玄武を表す蛇亀を使ったお祭りが有名でもある。実は、亀に乗って来た女神は蛇であったようだ。乗って来た亀には蛇は記されておらず、女神そのものが蛇(竜)であったようだ。またどちらにしろ、蛇も亀も水神に結び付く。つまり水神としての瀬織津比咩と妙見とは切っても切れない間と言う事がわかった。
by dostoev | 2010-11-16 10:39 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)

平将門と瀬織津比咩(其の2)

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妙見信仰は、中国の北方の満州やモンゴルの遊牧民が不動の目印の星だとし、北極星を崇めたのが発祥とされる。それがやがて、中国で都の四方を守る聖獣のうち、北方を守る玄武の背中に乗って妙見神が顕れると考えられた。亀に乗った女神像が妙見神社に伝わるのは、これからとなる。

妙見神は元来女神であり、北方守護神とされ、剣を持っている姿で表されている。その本地仏は、薬師如来以前は十一面観音とされていた。早池峰神社に祀られている観音様は、十一面観音である。白鳳時代から密教の流入は、従来の観音信仰を大きく変えた。そこに現れた変化観音は、不可思議な神威霊力を振るう最強の仏神として、国家鎮護の法要に欠かせない存在となっていった。

「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがある。悔過とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事だが、要は天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音が十一面観音とされた。ところがいつしか、観音の女性化が嫌われ「七星七仏薬師」信仰が流行し、七星七番目の薬師とみなされた星が「破軍星」の化身と見られるようになり、武士に信仰されるようになった。妙見神もまた、本来は女神であったのが威力に欠けるとされ、男神化したようだ。
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妙見神が、玄武に乗ってきたという伝説の断片は、そのまま遠野にも残り、早池峰妙泉寺に伝わるもの…例えば、仁王像や石灯籠などが、遠野で一番古いとされる、河童淵で有名な常堅寺に残っている。写真の九曜紋・亀の彫り物・亀甲の石も全て、早池峰妙泉寺から伝わったものである。つまり本来は、北方守護の意味合いから伝わった妙見信仰が根付き、それに従来からの聖なる水の信仰が組み合わさっての、早池峰妙泉寺となったようだ。そう今も昔も、早池峰に鎮座していて普遍なものは、瀬織津比咩となる。

補足として…常堅寺は檀那が同じとされ、明治時代の廃仏毀釈において、早池峰妙泉寺が早池峰神社となる為に、同じ系列の常堅寺に寺としての名残を移転したものである。その為以前は、早池峰の山門には仁王像が鎮座していたが、現在では神像に置き換えられた。早池峰妙泉寺は本来天台宗であったのだが、常堅寺は曹洞宗となっている。これは江戸時代になり密教系が廃れ、その密教寺院が挙って曹洞宗に改宗した名残でもあった。
by dostoev | 2010-11-16 10:38 | 平将門と瀬織津比咩 | Comments(0)