遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:狐と瀬織津比咩( 11 )

狐と瀬織津比咩(其の十一(結))

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こうして瀬織津比咩と狐、そして宇迦御魂命の繋がりが見えてきた。ただ「狐と瀬織津比咩」の冒頭で始まった怪火であり狐火だが、その火が何故に狐の嫁入りと結び付くのか。また何故、狐の嫁入りには雨が降るのか。

遠野の昔、婚姻とは親同士の取り決めで決定していた。「あの家へ嫁げ。」と言われれば、その家の娘は、ただ了承するだけだった。その嫁入りは馬に乗ってゆっくりとした行列が組まれ夕方に到着するという算段であったようだ。当然、暗くなれば松明を灯して灯りを作る。そう、これが狐の嫁入りと似た様な情景を作り出している。いや本来「狐の嫁入り」とは、人間様の嫁入りから発生し、それが神憑り的なものとして伝わったものであると考える。その松明を灯しての嫁入りが神事として伝わっている最古の神社が、神武天皇の孫である健磐龍命が祀られている肥後一宮である阿蘇神社である。阿蘇神社建立は、孝霊天皇9年(60年)6月という紀元1世紀の事であるから本当の事実はよくわからない。
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阿蘇神社の神事は、村崎真智子「阿蘇神社祭祀の研究」に詳細に書かれている。その神事のメインはやはり火祭りであり、嫁入りの神事である。あれだけの火が乱舞する情景を古代の日本人がみたらどう思うのだろう。ただ現在は、火を振り回して派手になっているようだが、それは江戸時代に発生したものらしく、本来はもっと厳かであったらしい。しかしそれでも多くの人々が火を掲げての嫁入り神事は、あまりにも神秘的で神憑り的であったろうと想像する。その幻想的な神事を垣間見た古代の日本人は様々なイメージを膨らませ、それが伝説・伝承となり、全国に広がったのであろう。

祭神の健磐龍命は、火龍であったようだ。それ故に、火山でもある阿蘇山と結び付いている。そしてその火龍である龍神の健磐龍命に嫁いだのが、草部吉見神社の水神であり、やはり龍神の瀬織津比咩であった。
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その阿蘇神社が鎮座する肥後の国だが、狐の嫁入りに関する俗信がある。それは「虹が出た時、狐の嫁入りが起きる。」というものだ。虹に関しては「虹と瀬織津比咩」で書いたが、虹は竜蛇であり、二重の虹は、その竜蛇の交わりでもある。そしてもう一つ、注目する俗信は「虹は女神の渡る橋である。」というもの。狐の嫁入りと虹の俗信が結びついているのは肥後国においての原初、火龍である龍神に嫁いだのは、水龍である龍神である事実。虹は雨の後に大気中の水滴に光が屈折・反射して発生するもの。つまり、晴れている状態である。全国に広がる俗信の中に「どんなに晴れていても最低三粒は雨が降る。」というものは、殆ど水神・龍神と結び付くものだ。ところがそれとは別に狐の嫁入りにおいても、その俗信は伝えられるのは、やはりどこかで龍神と狐が結びついての事だろう。恐らく草部吉見神社から嫁いだ阿蘇津比咩であり瀬織津比咩は虹を渡って嫁いだもの。つまり、それは水神である龍神としての証が虹であったものが、火を使う狐の嫁入りと結び付いたのだと考える。
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左手の「火(ひ)」と右手の「水(み)」を合わせて祈願するのは、五穀豊穣などが多い。豊かな土から作物が生れるのには、「火・陽」と「水」が不可欠となる。太陽は当然だが、火もまた陰陽五行において「火を以て土を生ず」とあるように、野焼きの様に豊かな大地に成る為には火も必要となる。阿蘇神社の神事も最終的には五穀豊穣を願ってのもの。狐の色は稲穂の実った色と同じ認識を持たれるのも、元を辿れば、その狐の嫁入りが阿蘇神社の神事に結び付いたのであろう。その阿蘇神社に嫁いだ瀬織津比咩は、根源的な五穀豊穣に必要とされる存在として狐と結び付いたのは、当然の結果であったのだろう。
by dostoev | 2013-06-07 09:16 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の十)

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「稲荷大明神流記」において「稲荷の本地は上社大明神は十一面、中社正妃は千手、下社正妃は如意輪…。」とある。つまり、観音と稲荷が結びついているという事。また「中社正妃は千手、下社正妃は如意輪…。」とある事から"明神"の殆どが女、つまり女神であるという事がわかる。

また稲荷の起源の秦伊侶具の標的の餅に奇端を起した宇迦御魂命は別に「専女御饌津神」とも呼ばれ、後に専女三狐神と書かれるようになっている。

「専女(とうめ)」とは、老女を意味すると共に女神の尊称でもある。しかしダキニ天が結びついたのは、もう少し後の話となるよう。つまり、それ以前に稲荷の本地として「十一面観音・千手観音・如意輪観音」が結びついていたという事。

十一面観音の別名は「大光普照観世音」とも云い、密号を変異金剛、茲愍金剛とも云われ、六道を救済する六観音に配する時は修羅道の救済者として女身を現ずるものとされている。「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがありる。悔過とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事。要は、天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音が十一面観音という変化観音であり、その当時の浄化とは水による作用を言ったものであるからそれは、水の霊力を発揮する観音でもあるという事だ。

また千手観音は蜜号を大悲金剛と名付けられ、六道に配する時は餓鬼道の苦を救うとされているのは、我が子に乳を与え食事を与える母性の徳を有している存在であると。

そして如意輪観音は、密号を持宝金剛、与願金剛と云われの全ては如意宝珠から来ているよう。そしてこれらを含んで受け入れられたのが、後のダキニ天であるようだ。
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「観音経」「観世音菩薩の慈意の妙なる事は大いなる雲の如。甘露の法雨をそそいで煩悩の炎を滅却し給う。」という功徳があるが、この甘露とはつまり、大きく訳すれば生命の水であり、不浄を洗い流す水でもあるよう。これは古来から伝わる天の眞名井の信仰と結びつくものであるようだ。

つまり観音そのものに水という功徳が備わっているのだが、日本にはまず八百万の神がいて、後に仏教が伝わってきた歴史を踏まえると、本来は女神の後に観音が上から被せられ信仰されたが正しいのだろう。つまり水の功徳の観音以前に、水の女神がおり、それに秦伊侶具時代に稲荷と結びつけられ、後に観音と重なっていったと見るのが正しいのだろう。
by dostoev | 2012-11-02 16:19 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の九)

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陸前高田横田村に鎮座する四十八神社では、滝を御神体とし瀬織津比咩を祀っていたが、現在は宇迦御魂命を祀る社に変わっている。ここで思い起こされるのは、神道での考え方だ。


「水ハ汚穢濁ヲ洗ヒ清メ流シ去テ清明ヲ致ス徳天日ノ如シ」


つまり、日(火)は水でもあるという事だ。この「狐と瀬織津比咩」の当初に、龍燈の話をしたが、龍は海神でもあり、水神でもある。また風雨や雷・稲妻を発生させる雷神であり、天神でもあって、農神にもなりえる。更に突き詰めれば祖霊神でもある。祖霊神は聖なる「火」で象徴される為、山頂の古木などに上がった龍燈は霊場に集まった祖霊神とも捉えられる。

白狐に乗るダキニ天によって広まったであろう稲荷神はの究極の存在は、やはり伝説の玉藻前であろう。この玉藻前は白狐が変化した姿となる。大森恵子「稲荷信仰と宗教民族」を読むと、福島県の常在院蔵「玉藻前草子」には二つの尾の先端部分が真っ赤に照り輝く白狐が描かれていると紹介している。そして「玉藻前は身体全体から光線を発すると語られたことは、狐神(仏教的稲荷神=ダキニ天)と太陽神を同一する信仰があったことを物語っている。」と述べている。

後世ダキニ天を普及させた人物の一人に、愛染寺の初代である天阿上人がいる。天阿上人は伊勢と江戸と京都と伊勢を度々往来し、稲荷信仰を広めた人物だ。その天阿上人曰く「ダキニ天は北斗七星をあらわす。」と述べている。これは三光(太陽・月・星)狐と結びついてのものであった。その為、京都の妙見宮や大阪の能勢妙見堂には狐が祀られるようになったというが、この概念がいつしか東北に伝わってきたのかもしれない。それだけ稲荷神は、様々な形に変化する。

東北での様々な信仰の普及には山伏が一役かっていた。その山伏の元締めとも云われるのは、東北であるならば羽黒修験の者達となる。羽黒修験の力の増大は、後醍醐天皇が即位してからであったよう。ダキニ法と結びつく真言宗を後醍醐天皇が信仰していたのも大きかったのかもしれない。
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湯殿山が出羽三山となる以前は、鳥海山が出羽三山に属していた。その鳥海山信仰に携わる小滝修験に関連する【遠藤光胤家文書】によれば、鳥之海神社に祀られる和加宇加売命は、倉稲魂命であり、荒魂ノ御神なりとある。そして荒魂ノ御神とは、天照太神の荒魂であると。

瀬織津比咩について知られる内容には以前からわかっていた事に、天照大神の荒魂が瀬織津比咩であるという事実が伊勢に伝えられている。恐らく、それを更に稲荷信仰に結びつけて普及したのは、伊勢が神宮運営に苦しんでの事では無かったのかと察するが、しかしそれは古くからの信仰があっての事であったと理解する。それは、鳥海山の信仰に結びついてくるのではなかったのか。

そして「古事記」では宇迦之御魂神と表すが「日本書紀」では倉稲魂尊と表す。宇迦之御魂も倉稲魂も「うかのみたま」である為、何故に陸前高田の横田村に鎮座する瀬織津比咩を祀っていた四十八神社が稲荷神である宇迦之御魂神と結びついていたのか漠然と見えてきた。

ところで「鳥海山信仰史」の中の「吹浦村両所山神位願に付御用牒」というものに、面白い記述があった。

「…右の序文に大物忌神社の命の義、大物忌神は大和国廣瀬大明神と同体…。」

これを廣瀬神が大忌神と呼ばれるのと、大物忌神が混同された為と捉えられてもいるが、大物忌神が何故に恐れられたのかは、その根底の概念にある信仰と結びついてくるようだ。

また【遠藤光胤家文書】において、小滝修験は鳥海山に祀られている大物忌神社に違和感を感じ、そこで別に霊峰神社を建立し、祀ったという。その霊峰神社は仏者として観世音菩薩を祀り、神者として祀ったのが八十過津日神であった。以下に、その文書の文を記す。

「此神ハ天照太神荒魂ノ御神ナリ、神慮に恐アレハスコシク侍ルナリ、荒魂トハ伊弉諾尊至明ノ極リヲ儘シテ末生ノ本源至至ラセ給フル心化ノ神号ナリ、有リ猶口伝、不学神朝ノ遵君子難明呼心ノ霊直ナル者ヲ以テ其狂曲ル者ヲ矯直シメ、天日一体禾直日ニ致ント力ヲ用ヒ、功ヲ励シメ心化ノ神号也、「八十狂津日神」者心化ノ神号呼八十八数ノ多キ義ナリ、「狂津日」ハ哀慕ニ流レ、不浄に穢ルゝ罪ヲ覚知シ給ヘル御心ヲ指メ伝フ心と伝 ハスメ、日ト伝ルハ神道心法ノ相伝也…以下略」

八十過津日神は、伊弉諾尊が中津瀬で禊をした時に真っ先に生まれた神となっている。その八十過津日神を文書内では「八十狂津日神」とし「狂」という字をあてている事に関して、次は展開すると共に、新たな神名を紹介しようと思う。
by dostoev | 2011-11-20 20:13 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の八)

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【三面大黒】

狩人の話では早池峯の主は、三面大黒といって、三面一本脚の怪物だという。
現在の早池峯山のご本尊は黄金の十一面観音であって、大黒様のお腹仏だと
言い伝えている。その大黒様の像というのは、五、六寸程度の小さな荒削りの
像である。

早池峯の別当寺を大黒山妙泉寺と称えるのも、この大黒様と由緒があるから
であろうとは、妙泉寺の別当の跡取りである宮本君の言であった。

この人の母が若かった時代のことというが、寺男に酒の好きな爺がいて、毎朝
大黒様に御神酒を献げる役目であった。いつもその御神酒を飲みたいものだと
思っては供えに行くのであったが、ある朝大黒様が口を利かれ、俺はええから
お前達が持って行って飲めと言われた。爺は驚いて、仲間の者のいる処へ逃げ
帰ってこのことを告げたが、皆はボガ(虚言)だべと言っ本当にしなかった。

試に別の男が御神酒を持って行って供えることになったが、再びその時も大黒
様は口を利かれて、俺が飲んだも二つないから、其方へ持って行って飲めと言
われたという。物言い大黒といって、大変な評判だったそうな。

                         「遠野物語拾遺126」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺126話」に伝えられるのは、早池峯の主は三面大黒だという事。これはどこから来ているのか?また瀬織津姫の本地垂迹は十一面観音であるが、この十一面観音は大黒様のお腹仏と伝えられているという。ところで「大日経疏」には、大日如来が大黒天に化身し曠野に赴き、ダキニ天を召集し叱りつける話がある。ここでいう曠野とはインドでいう尸林、つまり墓場の事だ。この大黒天という神は、墓場をうろつく恐ろしい神として存在した。「大黒天神法」には、こう記されている。


大黒天神は、諸鬼神と無量の眷属と共に夜間、常にこの尸林の中を遊行する。
大神力があり、もろもろの珍宝、隠形薬、長年薬を持っている。遊行飛空し
て諸幻薬を人間と貿易し、大黒天神は、ただ生きた人間の血肉を取る…。



日本の大国主と結び付いた為に、大黒様と親しまれているが、本来は恐ろしい存在の神であったのが大黒天となる。そしてダキニ天との結び付きは、墓場である。ダキニ天は天照大神を通して、瀬織津姫の影響を受けているのは、以前に記した。しかし、早池峯に伝わる話によれば、大黒天のお腹仏として十一面観音がいるならば、十一面観音とは早池峰神社における瀬織津姫の本地垂迹である為、直接瀬織津姫は大黒天に取り込まれた存在であるという事となってしまう。

インドの尸林という墓場には、必ずと女神のお堂が祀られていたという。その女神のお堂は巫女によって祀られていた。巫女達は、お堂に祀られていた女神の供養を主たる任務としていたのだが、ここで考えられるのは尸林という墓場とは死体が集まるという黒不浄の地でもある。ここに穢祓いの女神である瀬織津姫があてられた可能性はあると考える。あくまでも早池峯が密教と繋がっての事だとは思うのだが、虐げられ抹殺された女神の行きつく先は、えた・ひにんが行う死体処理であり、傀儡師の行う穢祓いに貶められてのものだった可能性があるかもしれない。尸林を遊行する大黒天と同じく、墓場である尸林に棲むダキニ天と、死体という穢れの共通点から、闇の部分で結びつけられたのではないだろうか?
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【如意輪観音】


後醍醐天皇のところで、師である文観は天照大神の本地垂迹を十一面観音と信じていたと書き記した。ここで三種の神器の話になるのだが、通常は神鏡が伊勢神宮であり、宝剣が熱田神宮、神璽が御所という事になっていたが実際には宝剣も神璽も神鏡も全て御所の中に置かれていた。その中で宝剣と神璽だが、中世の頃には御所内の天皇の御寝所である”夜御殿”に置かれていた。そして神鏡は、温明殿という建物の中の”賢所”に安置されていた。

ところで夜御殿の南北に二つの部屋があり、この部屋では天皇の御祈祷をする真言宗や天台宗から選ばれた阿闍梨がいて、如意輪観音に向かって祈祷していたという。ここは「渓嵐拾葉集」に記されているが、つまり天照大神の本地が如意輪観音で、それを御厨子に納めて天皇の一代守護本尊として、この阿闍梨がいる二間に祀られていたという。この中世の時代、これを秘密として書き記されていたのだという。

「本尊は如意輪観音なり。最極秘事なり。口外すべからずなり。」


つまり天照大神の本地は如意輪観音であり、十一面観音ではなかった。
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図は伊勢朝熊岳の御札であるが上の中央に如意輪観音が鎮座し、その両脇にダキニ天と弁財天ば配されている。ところで、こういう言葉がある…。

「お伊勢参らば朝熊をかけよ。朝熊かけねば片参り」


この言葉には、天照大神の本地である如意輪観音がいた為であろう。しかし何故如意輪観音なのか?それは、如意宝珠を手にしているからだ。

辰狐の尾に三鈷あり。三鈷の上に如意宝珠あり。三鈷はすなわちこれ三角の
火の形也。宝珠また摩尼の燈火なり。故にこの神、威光を現じて法界を明す
る也。
                       

 「渓嵐拾葉集」

宝珠は光り、燈火となる。密教で使われる三鈷などは火を模っているというのが、これによりわかる。それが狐の尾に宝珠と三鈷が付いている為に、狐は火を放つのだと理解されている。ところで「太平記」に醍醐天皇が吉野に逃げるくだりが書き記されている。


八月二十八日の夜のことで道は暗くてとても進めそうになもなかったのだが、
このときにわかに春日山から金峯山の峰まで光るものが飛びわたるように見え、
松明のような光が夜もすがら天地を照らしたので、行く道もはっきりと見えて
まもな夜明け方に大和国賀名生といところへたどりつかれた。



これとは別に「吉野拾遺」には、この時の事が書き記されている。


ぬば玉の くらきやみ路にまようなり われにかさなん三つのともし火


と、御製をお詠みになり、稲荷社を伏し拝まれた。すると、社の上から非常に明るい光の一むらが立ち現れ、臨幸の道を照らして帝の一行を送った。そこで帝は大和の内山にお着きになったが、そこで光は御岳の上で消え失せた。


ここで「狐と瀬織津姫」の最初に立ち還れば、景行天皇を導いた火は、時代を経て、後醍醐天皇を導いた事になる。その火とは、景行天皇時代は龍燈であり、山の竜宮からの火であった。それが時代が変わり、後醍醐天皇時代では狐火と変化する。しかし根源はすべて同じものであった。「大弁財天功徳法」には、こう記されている。

瞑想せよ。行者の前に金峯大山があり、その山脈の中に一の宝山がある。
宝山の頂には七宝荘厳の宮殿があり、宮殿の中には大檀が、大壇の上に
は宝華がある…変容して三弁の如意宝珠になると観ぜよ。



吉野の金峯山とは、役行者が金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた地でもある。その金峯山の頂には、天の真名井があるのだ。また続ける…。

かく観ずれば、海中や諸山河の白龍・青龍等は宝珠の働きを助けてその
威光を増し、雲を起こして天に善風雨を雨せ、天下万物を成長せしめる。
これはすなわち海中の宝珠が冥会不二で一体のものであるがゆえである。



つまり、狐の持ちたる宝珠とはすべて、役行者の開山した金峯山の頂にある天の真名井に結び付くものと考えていいだろう。つまり宝珠とは本来は勾玉であり、稲荷が何故ダキニ天やら弁財天やら愛染明王ら女神を集めるかというと、全て勾玉の女神の影響の元にあったのだろう。
by dostoev | 2010-11-19 11:14 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(6)

狐と瀬織津比咩(其の七)

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【後醍醐天皇肖像画】

むかし大唐国に大汝、小汝が政を執り、辰狐を使として日本に遣わし
難波に来た。そこで大鯰に呑まれ命が危うかったが、秦乙足がその鯰
を釣り上げて八柱の御子もろとも救われた。そこでその恩に報いる為、
乙足の子々孫々に至るまで所願あれば成就させる事にした云々と由来
を開陳し、祈願する檀那は乙足の子孫である…。



この祭文は、平安朝東寺の護法神的信仰に始まり、醍醐寺の当山派山伏の手によって庶民化されついでに祇園系修験者によって陰陽道的色彩の濃いものに変化していった。この中に、ダキニは組み込まれていったようだ。

ダキニを組み込んだ真言宗の生んだ両部神道とは、神祇信仰を金剛界と胎蔵界の両部の密教教義によって説き明かした神道説であるが、それによると山岳仏教で知られる大峯山は金剛界、熊野三山は胎蔵界を模っており、伊勢神宮の内宮は胎蔵界、外宮は金剛界と考えられていた。そしてダキニ天と天照大神は結び付きをみせる。辰狐の祭文は紹介したが、山本ひろ子著「変成譜」には…。

辰狐法は宮中で伝授される時には、本尊の辰狐を金と銀で二つ作り、
壇の左右に立て、天皇は四海の水を浴して位に即くとある。「天照
太神口決」にも「王ハ南ニ向キ、摂政ハ北ニ向キテ、左右ニ金銀ヲ
以テ吒天ヲ造テ置キタリ」



ここに登場する金と銀は金剛界と胎蔵界を示すものであり、陰陽でもあり、太陽と月である。そしてそれが伊勢神宮の内宮と外宮の二つに被せられている。天台宗の百科事典とも呼ばれる「渓嵐拾葉集」には、こう記されている。


「およそ天照大神とは日神に坐す上に日輪の形、天の岩戸へ籠りたま
 うもの也。天照大神、天くだりたまひて後、天の岩戸へ籠りたまふ
 と云ふは、辰狐の形にて籠りたまふ也。諸々の畜獣の中に辰狐は身
 より光明を放つ神ゆえに、その形を現じたまえる也。」



仏教世界において、大日如来こそ天照大神の垂迹とされてきたのだが、実は大日如来は深淵の理のような存在で形を成さないもの。その形として、神と化身して働くという「和光同塵」という考えが登場した。つまり大日如来の代わりとして着目されたのがダキニ天であり、それが天照大神と習合されたのだという。

ダキニ天と天照大神を決定的に結び付けた人物がいる…後醍醐天皇だ。画像は後醍醐天皇の肖像画なのだが、両手に五鈷杵と五鈷鈴があるのだが、五鈷杵は男根を現し、また金剛界を現す。また五鈷鈴は女陰を現し、胎蔵界を現す。この二つが一つになった時に、願望が成就されるという意図を含んでの肖像画だ。
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【金剛薩埵】


ところで、この後醍醐天皇の肖像画に見受けられる五鈷杵と五鈷鈴を持った仏像が一つだけある。それは金剛薩埵といい、愛染明王の連れ合いであった。この中世という時代は厄介で、いろいろなものが習合されている。とにかく金剛薩埵となった後醍醐天皇は、実はその上にある、やはり天照大神と一体になる事を願った。何故か?それは愛染明王もまた大日如来に通じるものであり、当然天照大神であり十一面観音にも通じるからだ。女神との和合を求めた後醍醐天皇であるから、真言宗での愛染明王の扱いから、自らを金剛薩埵という男神となる事で、様々な女神との和合を図ろうとしたわけだ。

ところが、ここで誤解があった。後醍醐天皇の師である文観は、天照大神の本地を十一面観音と明記している事だ。ここで「記・紀神話」以前に立ち還れば、本来の天照大神とは男神であり、更にそれ以前は伊勢神宮に存在しない事となっていた。男神である日(火)の神がおり、それと対になる水の女神、つまり瀬織津姫の影響を受けて、天照大神の存在意識が成り立っていたからだ。

秦氏の祀る伏見稲荷の御神体ともいえる霊山である稲荷山は、五つの峰が連なって形成されている。まず東の峰には「ダキニ天と天照大神」。西の峰は「愛染明王と弁財天」。南の峰が「丹生都姫、鬼子母神」北の峰が「不動明王と三大神」この三大神はどうやら熊野三山があてられると聞いたが、定かではない。そして真ん中の峰が「稲荷・弥陀・辰狐王」であり、全体的に女神が多いのは、ウカ魂やウケ魂…穀霊との結びつきを意識してのもので、地母神を意識してのものから発せられている。
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【日本においてのダキニ天図】

中世時代に新たに様々な神仏が日本に上陸したわけだが、日本古来の根源となる地母神となる天照大神と結びつくという意識にかられたのが、後醍醐天皇であった。だから日本に伝わったダキニ天の姿が狐に乗り、右手に剣、左手に宝珠を持つというのは、あくまでも天照大神の伝承を基にしたのが理解できる。しかし本来の地母神であり女神であった瀬織津姫の姿を後醍醐天皇は見る事ができなかったのだろう。複雑怪奇な中世という時代には、ダキニ天も含め、弁財天も習合されて、やはり似たような姿になったのは、あくまでもその根底が天照大神にあったからだというが、それがすべて瀬織津姫に繋がるとは誰も信じる事のできない時代であったのだろう。
by dostoev | 2010-11-19 11:01 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の六)

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狐といえば、有名なものに玉藻前がいる。天竺では千人の王の首を取ったという斑足太子の塚の神、唐土では殷の紂王の后・妲妃となって国を滅ぼした妖狐・金毛九尾の狐の伝説がある。

これが日本に渡来し、鳥羽院のとき、玉藻の前という名の美女となって院にあがり、院を悩ました。陰陽師安倍泰成が、これを調伏したので妖狐は正体を現し、下野国那須野の原に飛び去った。勅命を受けた三浦介、上総介は試みに犬を射て見せ、これが犬追物の始まりとなったとされる。

妖狐は二人に射殺されたが、その執念は殺生石として残り、人々を悩ませた。後に曹洞宗の玄翁和尚の供養によって成仏し、祟りを止めた。この時玄翁は、杖をもって殺生石を破砕したので、以後、両端を切り落とした形の金槌を玄能と呼ぶようになった。

とにかくこの玉藻前の正体は九尾の狐とされ「玉藻前物語」で語られ、その後謡曲である「殺生石(1503年)」で更に有名になった。この玉藻前のモデルと云われるのは保元の乱の元凶と云われる藤原得子(美福門院)であるという。

この「玉藻前」という名が何故に使われたのか?それか「万葉集」による「玉藻」が登場する歌の影響があったものだと考える。下記は柿本人麻呂の歌ニ首。



嗚呼見の浦に船乗りすらむ感嬬らが珠裳の裾に潮満つらむか


くしろ着く手節の崎に今日もかも大宮人の玉藻苅るらむ




伊勢に行幸する持統天皇に従わなかった柿本人麻呂の「玉藻」を詠んだ歌は、体制批判の歌であるという。その他にも、いくつか体制批判の歌はあった。この柿本人麻呂の時代、持統天皇と結びついた藤原不比等によって、多くの人々が流罪され暗殺されたという。梅原猛は大胆にも柿本人麻呂は、水死刑にされたという説を唱えたが、それもあながち否定できない時代ではあった。

ところで「玉藻」という言葉には「流罪」という意があるという。では何故、玉藻が流罪を表すのだろうか?「日本書紀(巻第五)」崇神天皇六十年に、こう記されている…。

「己が子、小兒有り。而して自然に言さく、玉藻鎭石(たまものしずし)。
出雲人の祭る、眞種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底寶御寶主。山河
の水泳る御霊。靜挂かる甘美御神、底寶御寶主。?、此をば毛と云ふ。是は
小兒の言に似らず。若しくは託きて言ふもの有らむ。」とまうす。是に、
皇太子、天皇に奏したまふ。即ち勅して祭らしめたまふ。



つまり本来の「玉藻」とは、実は物部氏の宝であったようだ…。



六十年の秋七月の丙申の朔巳酉に、群臣に詔して曰はく、
「武日照命(一に云はく、武夷鳥といふ。又云はく、天夷鳥と
いふ。)の、天より将ち來れる神寶を、出雲大神の宮に蔵む。
是を見欲し」とのたまふ。即ち矢田部造遠祖武諸隅(一書に
云はく、一名は大母隅といふ。)を遣わして獻らしむ。

是の時に當りて、出雲臣の遠祖出雲振根、神寶を主れり。
是に筑紫國に往りて、遇はず。其の弟飯入根、則ち皇命を
被りて、神寶を以て、弟甘美韓日狭と子鸕濡渟とに付けて
貢り上ぐ。既にして出雲振根、筑紫より還り來きて、神寶を
朝廷に獻りつといふことを聞きて、其の弟飯入根を責めて
曰はく、「藪日待たむ。何を恐みか、たやすく神寶を許しし」
といふ。是を以て、既に年月を經れども、猶恨忿を懐きて、
弟を殺さむといふ志有り。仍りて弟を欺きて曰はく、「頃者、
止屋の淵に多に藻生ひたり。願はくは共に行きて見欲し」
といふ。則ち兄に随ひて往く。是より先に、兄竊に木刀を作
れり。形眞刀に似る。

                         「崇神紀六十年」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここでの話は、出雲の神寶を朝廷が取り上げる=献上?という話の流れである。要は出雲の朝廷に対する服従の物語でもある。ここに登場する武日照命とは出雲の祖神であり、矢田部造とは物部氏の同族であり武諸隅もまた物部氏の関係。つまりこれもまた、出雲に物部を二人遣わし国譲りと同じの暴挙が行われたという事だ。

また神武天皇が熊野においても、高倉下の夢枕にタケミカヅチが立ち「布都御魂を天孫に献上せよ。」と告げて、高倉下は神武に布都御魂を献上した。この高倉下もまた物部の一族である。神武の東征もまた古代物部王国の侵略であり、その都度に恭順者を取り込んでいったのがわかる。物部氏に内物部と外物部と呼ばれるものがあるのだが、大和朝廷に協力したのが軍事力を持った内物部であり、祭祀を司った物部を外物部と大雑把にわけても良いのかもしれない。「鬼をもって鬼を制す」という言葉があるが、本来はこの鬼とも呼ばれた物部の内紛の事でもあったようだ。当然、出雲においても物部は深くかかわっていたのだが、その出雲の神寶を奪い去った者達も大和朝廷と与した物部。

要は、内物部と呼ばれる者達であった。こうして大和朝廷の軌跡を辿ると、物部の宝を奪っていくのがわかる。つまり軍事力と共に、神の力をも全て我が物にしようとの行程が大和朝廷の歩みでもあり「古事記」や「日本書紀」での記述でもあったのかもしれない。

ここで大和朝廷に奪われた「玉藻鎮石」は、物部の宝であり、出雲の宝であった。つまりここから「玉藻」という言葉には「出雲」と「物部」を意味する隠語となったようである。何故に玉藻前が国家転覆を図る極悪な女狐であったのか?それは、抹殺された物部の因縁を玉藻という言葉を駆使して作られた物語であった為だろう。

出雲は勾玉の王国でもあった。越の国とも交流があり、また宗像との繋がりも深かった。つまりこの「玉藻鎮石」とは勾玉の事であったのだと思う。勾玉を紐解くと月であり、月の変若水まで行き着き、天の天の真名井に辿り着く。そして、そこには女神が鎮座する。陰陽五行でいうところり陽は太陽であり男。陰は月であり、女を表す。だから「玉藻前」は物部の意味を含み、更に女であらねばならなかったのだろう。
by dostoev | 2010-11-19 10:26 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の五)

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伊勢神宮に伝わる内宮所伝本「倭姫世紀」において「調御倉神」について、こう記されている。

「宇賀能美多麻神。三狐神。形尊形也。保食神是也。」


京から熊野に詣でる場合、伏見稲荷に参詣し「護法迎え」をし、再び熊野から京に帰る場合も伏見稲荷に参って「護法送り」をするならわしになっていた。護法とは、験者のミサキとなって奉仕し、そして駆使されるモノである。つまり、熊野と伏見稲荷は密接な関係にあり、「三狐神」は本来「三光(太陽・月・星)神」と重なって伝えられ、那智浜の宮社前に「三狐神」が祀られ「三光神」は、熊野地蓬莱山に飛鳥之宮、河面宮と共に祀られていた。

「三光」には「太陽・月・星」の意味以外に「キラキラ光り輝く例」の意があり本来、採鉱・鍛冶の神であったのが後に伏見の稲荷と結びついて「三狐神」とされ、古い信仰であった「三光神信仰」が故意に隠されたようである。ここで狐と、輝く意の結び付きが見られる。つまり「護法迎え・送り」とは、光であり火を持ち運ぶ意を持って、熊野に参詣したのかもしれない。それは伏見稲荷で発生する狐の火であり光を、熊野の龍神に運ぶという意からなのかもだ。


また宇賀、もしくは宇迦は梵語で「白蛇」を意味する言葉だ。江戸時代の国学者である天野信景は『塩尻』(元禄10年(1697年)で、こう書き記している。


按に宇加耶は梵語にして白蛇と訳す。さればもと密家の修法にして
神人伝へて此の法を修せしと見ゆ。されとも其の像、密宗に製する
所は、彼の人首蛇身の像には侍らず。亦俵の上に蛇を作り、これを
も宇賀神といふ。山城国稲荷の社(伏見稲荷)に此の形あり。熱田の
宝蔵にも磁器の此の像侍る。いとふるき物也。此等、中世我国の人
作為せし事と見え侍る。亦蛇身の像も有て修験者などまつる。弁才天
を弁財天の字を書き、頭上に蟠蛇を作り、宇賀弁才なんどいふ。密宗
の本伝にかかるすがたなし。竹生島の影像も此のすがた也。神人僧
侶のあやまり来りて然も夫を秘として伝ふるわざ一、二にあらず。




伏見稲荷の神符に表されている白狐と黒狐の他に、俵に乗った蛇もまた宇賀神であると書き記している。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神は他の食物神の大宜都比売・保食神と同様で、稲荷神(宇迦之御魂神)と習合し、同一視されるようになった。伏見稲荷の神符の俵に乗った蛇が宇賀神であり、それが中心にあるという事は、本来の伏見稲荷の信仰が龍蛇神であったのがわかる。

また『塩尻』では宇賀神を別に、こう語る…。

宇賀神とて頭は老人の顔にし、体は蛇体に作り、蛙をおさへたるさま
にして神社に安置し、祭る時には一器に水を盛り彼の像を入れ、天の
真名井の水なんいふ文を唱へて其の像を浴する。像、或は金銅、また
は磁器也。



この記述から察したのは、天照大神と素戔男尊との誓約である。この誓約では、十拳剣を三つに折って、ゆらゆらと天の真名井に振りすすいで口の中に入れ、バリバリと噛み砕いて吹き出した狭霧と共に生まれたのが、宗像三女神である。

蛇は男根、もしくは剣に通じる。蛙は中国において、月に棲むものと信じられた。月は変若水の不老不死信仰に繋がり、熊野のゴドビキ岩がある神倉山に鎮座する神倉神社の御燈祭の火の神事もまた、ゴトビキ岩を介した火と水の融合であるのだろう。

また5世紀初めに輸入されたであろう「金光明経」に繋がる「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」での記述での宇賀神の変貌する正体には、こうある。

正き正身の体は日輪の中に居して、四州の闇を照らす。吒枳尼天の形
を現じ福寿を衆生に施し、大聖天の身を現じて二世の障難を払は令む。



これらの事から、伏見稲荷の神符に示されている図は、龍蛇神から受け継がれた火であり光を狐が受け継ぎ、また吒枳尼天へも結び付くものを示す図であるのだろう。伏見稲荷の神符をもう一度見直せば、水性の黒に土性の狐の結び付きで、水を制する「土剋水」。金性の白に土性の狐が結び付き金属を生み出す「土生金」となっている。また左側の蛇は験の杉の枝?を咥え、右側の蛇は雷を現している鍵を咥えている。ここに、土と水と火(光)と金属を抑えている神符となっているのがわかり、
多分であるが、これらの事から山の怪し火から狐火の発生へと繋がったものと考える。
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聖なる山であった稲荷山に、伏見稲荷を合わせ祀ったのは秦氏であったが、その秦氏と共に祝だった荷田氏に関わる「竜頭太」伝承というのがある。

【稲荷鎮座由来(竜頭太の事)】


或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に
及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこ
るを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす
事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲
を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難
業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。
仏法を護持すべき誓願あり。



白狐を持ち込んだ空海と「顔の上に光ありて、夜を照す事昼に似り」という竜頭太というのは、山に鎮座する山神であり竜神である意であると考える。つまり、当初に書き記してある龍燈及び山燈は竜神の為せるものであり、竜頭太もまた光を放つ存在であったのは、同じ原義から来ているものだろう。

また別に、天台宗の大師円珍の伝承が興味深い。「諸社根元記」円珍が熊野参詣の帰り、紀伊国石田川の傍らの稲羽の里を過ぎようとした時、刈った稲束を担っている老翁と、稲束を戴いた二人の女に逢うが、突如として参人は姿を消した。

その夜、夢の中に参人が現れ、老翁は上の宮(伏見)の、女性二人は中と下の社の神であると告げた。空海、最澄亡きあと、熊野修験に一番影響力があったのは、円珍系統の園城寺であった。園城寺では、近江国の地主神である白鬚明神を勧請したのだが、祭神猿田比古とされるこの白鬚明神は、元々が安曇系古代採鉄部族の奉祀する神であった。

これらの事から山をも照らす竜燈に書き記した「山に竜宮在り」の伝承は、古代海人族との繋がりを示すものである。そして当然の事ながら、この竜神が灯す竜燈の輝きは狐に受け継がれ、いつしか怪火の中心は、稲荷と結び付いた狐となったのだろう。
by dostoev | 2010-11-19 10:19 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の四)

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それでは、山燈・龍燈をも飲み込んだ狐と火の結び付きはいつからなのか?それはやはり、イナリと狐の結び付き。要は、秦氏の起こした伏見稲荷が、その根源であり、白狐信仰を持ち込んだ弘法大師にまつわる「稲荷契約」「稲荷来影」という伝承から、古来から信仰されてきた「イナリ」と「稲荷」、そして狐が結びついたようだ。

イナリ信仰の根源は、現在伏見稲荷が鎮座している後方に聳える稲荷山と呼ばれる、標高320メートルばかりの低い山である。しかしこの山から出土した「二神二獣鏡」「変形四獣鏡」は、少なくとも奈良時代よりも古い4世紀の遺物である事から、秦氏が建立した伏見稲荷以前から信仰されたきたものというのがわかっている。

「山城国風土記」に「伊禰奈利生ひき」という表現があるが「播磨国風土記」では「鋳成り」とされているのは、本来鉄霊降臨の聖地としてイナリ祭儀が行われていた場所であったのでは?という事だ。実は、イナリ信仰のある山の頂の殆どには磐があり、火の神、太陽の神が降臨したのだろうという事だ。何もない場合でも、石を置いてイナリの信仰をしたという事から、イナリ信仰の原初は火の神信仰であり、そこに降り立つものは太陽神であったのかもしれない。

六国史である「文徳実録」には、こう書き記されている。


嘉祥三年(850年)五月十九日、詔して武蔵国奈良の神を以て
官社に列す。是より先、彼の国湊請す、古記を検するに、慶
雲二年(705年)此の神、光を放つこと火の如く熾んなり、然
るに、其の後、陸奥の夷虜反乱、国控弦を発し、赴いて陸奥を
救う、軍仕此の神霊を戴き、奉じて以て之を撃つ、向かう所、
前なし、老弱行に在るもの死傷を免る、和銅四年(711年)神社
の中に忽ち湧泉あり、自然に奔出、田六百余町を漑す、民疫癘
有らば、禱って癒す、人命繋る所、崇わずばあるべからず。



ここに登場する”奈良神”とは、藤原氏全盛の時代であった為、本来の名前を伏せられて書き記された神であったのだと。その後この神は、熊野三社に合祀されて、ますますその姿が見えなくなった神ではある。

現在この地には奈良之神社として存続し、付近には伊奈利という地名があり、本来はイナリが祀られていた地であったとの事だ。この「文徳実録」にイナリの本質を表す記述がある。「光を放つこと火の如く熾んなり」これはイナリが火の神でもあり太陽の神でもむあるという事なのだと考える。

また「湧泉」との記述があり、この神を祀り神社の中に泉が湧いて「民疫癘有らば、禱って癒す」という原義は時代的に考えれば「物部文書」などで紹介されている「布留之言」からのものではないだろうか?つまり「ふるへふるへ、ゆらゆらとふるへ、そうすれば死者も生き返る。」との物部氏の教義に通じるものだろう。ならば、このイナリ信仰、そして頂にある巌に降臨する火の神、太陽神は、物部氏の祖であるニギハヤヒに繋がるのではないか?そしてそこには「聖なる泉」の信仰も重な
る事から、物部氏も信仰した水神もいたというのが理解できる。

前に書き記した、山燈・龍燈は山神や竜神の発する火であった。それは山に鎮座し、火を放つものと共に、当然竜神も鎮座している事から水をも発生させる。つまり山とは、水神が鎮座する地であり、そしてそこには巌に降臨する太陽神が依り憑く地でもあったのだろう。

話は飛ぶが、景教における「イナリ」という言葉には「光を与えるもの」という意がある。おそらく、景教に通じてあろう秦氏が物部氏の教義と結びついての「イナリ信仰」ではなかったのか?
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「キツネ」という語の初登場は「日本書紀」である。

大きなる星、東より西に流る。便ち音有りて雷に似たり。時の人
の曰はく、「流星の音なり」といふ。亦曰はく、「地雷なり」と
いふ。是に、僧旻儈が曰く、「流星に非ず。是天狗なり。其の吠
ゆる聲雷に似たらくのみ」といふ。

                 「日本書紀(舒明天皇9年)」




「日本書紀」では「天狗」に「アマツキツネ」という訓みを与えている。この「天狗」が後世になり「テング」と訓まれるようになり、いつしか一人歩きをし、修験と結び付いた。ところが中国の「史記」には「天狗」という語に対し、下記のように書かれている。



天狗の状は大奔星の如く声あり、下りて地に止まれば、狗に類す。
堕つる所を望めば火光の如く、炎々として天を衝く。

西北に三大星あり、日の状の如し、名付けて天狗という。

                           「史記」




この「史記」は中国側からの記述である事を意識したい。例えば邪馬台国であり卑弥呼であり、蔑称で表しているのは異民族であるからだ。現代でも言われる「犬畜生」という言葉もまた蔑称であるのは、元は中国の影響を受けたものであると感じる。また例えば、蝦夷にしても、熊襲にしても、隼人にしても、大和朝廷側からの蔑称となっている。狗という名称が付く国としては狗奴国という邪馬台国と敵対した国もまた、中国側からは蔑称で表されている。つまり「天狗」とは、中国側にとっては異民族文化であり、日本国を征服した大和朝廷とは中国文化を持ち込んだ民族で固まっているというのが理解できる。

日本において修験が民間に広まりつつも、それを国で保護する事なく忌み嫌ったのは、本来の修験とは異民族信仰であったという事実ではなかったのか?熊野でもそうだが、出羽修験もまた火の信仰である。つまり本来、日本国に流れ着いた火の信仰と文化は、元々大和朝廷に相反する異民族文化であったのだろう。
by dostoev | 2010-11-19 10:09 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の三)

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とにかく、国家的規模の雨乞い儀礼には何故か、千駄木を焚くという火を使用するものは無い。あるとすれば、修験の世界だけであったのだろうが、これはつまり王権祭祀では無く、民間祭祀となっていたようだ。

原初的な信仰とは、火と水の融合であるのに、何故か王権の祭祀に火が使われていないのは、もしかして火に対する恐れがあったのだろうか?考えてみると修験の火は、東北では出羽。また熊野であり、九州にその多くがある。崇神天皇が見た火とはもしかして、まつろわぬ民の怪しい火であったのかもしれない。

ところで、怪し火といえば、鬼火や狐火などがある。その中で狐火を取り上げてみる事とする。狐伝承の中に、必ずといって良い程、火が狐に付き纏う。例えば、稲荷神社。稲荷の鳥居は赤色となっている。赤は朱色で、血を表すとも云われる。朱という漢字は、人間が血を流して倒れている様子を表したものだと。しかし、それ以外では火の赤色を示す。

伏見稲荷では年間の祭祀の中に、秋の収穫の後に、五穀の豊饒をはじめ万物を育てたもう稲荷大神のご神恩に感謝する祭典があり、それを「火焚祭」という。これは古来から、伏見稲荷の伝統ある行事として知られている。そう、あくまでも五穀豊穣を願うには火が必要となるからだ。陰陽五行では、
豊かな土を生ずる為には、火が必要となる。それを陰陽五行で表せば「火生土」という。全国の火祭りの全般も、五穀豊穣を願ってのものが殆どである。

稲荷神社は、全国一の数を誇るのだが、その殆どに狐が付き纏う。本来の稲荷に、後から狐が付随したようなのだが、それは多分狐の属性もあったのだろう。伏見稲荷の創始については「山城国風土記」に下記のように書かれている。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具秦公、稲梁を積みて
富み裕ひき、及ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び
翔りて山の峯に居り、伊禰奈利生ひき。遂に社の名と為しき。



この伏見稲荷の成立年代は和銅年間と云われている。ただし、この創始はあくまで秦氏が社を建立し祀った時期であって、稲荷はそれ以前から信仰されてきた古い山の神であった。伏見稲荷の由緒で気になるのは「白」であると思う。餅の白色、白鳥の白色。また後世、稲荷神の化身は白狐に表わされるように、白色が重要な鍵を握るのだろう。ところで秦氏には、狐では無く、何故か狼の伝承がある。「日本書紀」の欽明天皇測位前期に下記のような記述がある。


天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父といふ者を
寵愛みまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寐驚めて使
を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢
ししが如し。是に、忻喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたま
ふ。及ち告げて曰はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答えて云さく、「無し。
但し臣、伊勢に向りて、商價して来還るとき、山に二つの狼の相闘ひて血に
汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰はく、
『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く
速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、
遂に遺放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰はく、「必ず此の報ならむ」
とのたまふ。乃ち近く侍へしめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒
富を致す。




狼は「日本書紀」において、大口の真神と呼んでいるのは、大口は姿を形容したもので、真神とは、その威力をたたえた言葉であるという。それが縮まって大神、オオカミになったという説がある。ならば山に鎮座する大神…例えば、早池峰に鎮座する早池峰大神とは、別に狼でもあったのかもしれない…。

白は古来より「銀」を「シロ」と読んだ。九州は銀鏡神社もまた「シロミ神社」と呼ぶ事から「銀」は「白」であり「シロ」と呼ばれたという事なのだろう。つまり本来、秦氏が信仰していたのは「銀の狼」であったのかもしれない。それがいつしか、中国から福の神(白狐)としての狐が輸入され、狼と結びついた可能性はある。何故なら古代の概念では、狐と狼とは同類と思われていたから、狼
でも狐でもどちらでも良かったのだろう。
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古来から、自然に発火すると云われる”怪火”というものは様々ある。先に記した不知火もそうだが、他には狐火・鬼火・龍燈・天燈・山燈などと、数多くある。しかしだが、この区分けが非常に怪しい。区別を付けるほど、簡単ではなく、定義も曖昧ではある。

「本草網目」では、火を分類して、天火四、人火三、地火五、共に十二とす。天火四とは、太陽の真火、星精の飛火、この二つが天の陽火で、竜火と雷火、この二つが天の陰火とある。

陰火である竜火は、しばしば龍燈と同じものとされている。その龍燈とは、主に龍神の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火であり、龍神の灯す火の意で龍燈と呼ばれ神聖視されているが、これが不知火とも混同されて知られているようだ。

橘南谿「東遊記」には「大徹禅師、越中の眼目山を開いた時、山神、竜神、助力していろいろ奇特有り。今も毎七月十三夜、その庭の松の梢に燈火二つ留まる。一つは立山の頂より、一つは海中より飛び来る。これを山燈、龍燈と言って、この辺の人例年見る。」とあり、永平寺の開祖である道元は、宋で学んだ人であるから、この山燈、龍燈の意識は宋の時代からの伝えでは無いかという事である。ただ、これから理解できるのは、山神の力によるものが山燈であり、竜神の力によるものが龍燈であるという概念が定着していたのだろう。

明の陸応場「広興記」では「山燈、蓬州に現わるる事全て五ヶ処也。初めは三、四点に過ぎず。次第に数十に至る。」とあり、また慈覚大師「入唐求法巡礼行記」でも、老俗等曰く、古来相伝う。この山に竜宮あり…とあり、山燈を龍燈とも呼ぶのだという。この龍燈・山燈の概念は古代中国より続いており、龍燈・山燈とも竜神、もしくは山神によるものとして日本に広まったようである。

つまり、日本の景行天皇や崇神天皇の見た山の火とは、これらに照らし合わせれば山神であり、竜神の起こした火であるのだと考えてもよいかもしれない。しかし山中の怪火となれば別に、日本では狐火や鬼火というものが登場するが、やはりこの狐火も鬼火も、元は同じものであるようだ。また時代的にも、鬼火や狐火は、山燈や龍燈よりも時代が新しく、後に山燈や龍燈が、狐火にとって代わり広まったものだろう。狐火の一番古いものでも「宇治拾遺物語」であり、狐火が広まったのは、その時代以降であった。

つまり龍燈、山燈という怪火の概念が狐火に飲み込まれてしまったのは、古来からの稲荷信仰と狐が融合し、その身近な神秘が市民権を得た為なのだろう。何故なら狐とは、山と里とを行き来する存在で、山に鎮座する龍蛇神や山神の使いであると認識された為からだろう。しかしそこには、もう一つ別の要素が組み合わさっているようだ。
by dostoev | 2010-11-19 10:01 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)

狐と瀬織津比咩(其の二)

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「筑紫国謂白日別」


不知火をさて置いてと書き記したが、調べてみると「古事記」に上記の文があった。つまり古代の筑紫は「白日別」と呼ばれていたようである。「白」とは「しら」であり白山信仰にもなるが「白日」となれば「白日の下に晒す」であり、要はここでの「白」は太陽を表す。つまり「白日別」とは、ここでは「しらひわけ」と読むが「白日」は「しらのひ」であり、それが転訛して「しらぬひ」となったという説がある。

簡単に読んでしまえば俗っぽい説ではあるが、「白」は「太陽」を表し「日」は「火」でもあるから、「白日」とは「太陽の火」でもあるのだ。ならば「白日(しらのひ)」は、火の国と云われた地にも適応する言葉であると思う。

ところで「火の国」であり「肥の国」とも書き記した阿蘇山を中心とした周辺で、現在の熊本県の「熊」という漢字は「諸橋漢和大辞典」には…。

1.くま(獣の名前)もと熋に作る。
2.あざやかに光るさま。
3.能に同じ。

【説文】

熋、熋獣、侶豕、山居、冬蟄、从能、炎省声。


これ↑を読み解くと、「熊」とは猛々しい獣であり、豚と同じであり、山に居る存在。能に従うものであり、火に帰結するものであるという事が「熊」となるようだ。「熊」の旧字体は「熋」であり、「火」と「能」の組み合わせからできている漢字である。

「能う」は「あたう」と読み、否定形は「あたわず」となる。例えば「伊曾保物語」には「人はただわが身にあたはぬ事を願ふ事なかれ…。」とあり「相応しい」という意味としても使われる。つまり「熊」とは「火を司るに相応しい」という意味となる。

奇しくも、この火の国と呼ばれる地域には「火祭り」が多く存在し、同じ「熊」という漢字を使う熊野でもまた、火の神事は盛んであるのは、文化の繋がりがあるものだと考えても良いと思う。これは熊野と九州が密接な関係が深い事を示すのではないだろうか?

ところで「肥後風土記」によると、健緒組は崇神天皇の命により益城郡の朝来名峰に住んでいるニ人の土蜘蛛征伐した帰り、八代 白髪山で大空から火が山に下降して来た事を話した所、火の国と名づけるがよいと申されとあるが、現在の八代郡には白髪山というのは存在せず、球磨郡には白髪岳という山はある。

この「白髪山で大空から火が下降して来た…。」をどう捉えるかだが、火としての記述であれば「日本書紀」において皇祖の高皇産霊尊が高天原から皇孫であるニニギを葦原中国へ天降りさせた時の記述の一節がある。

彼の地に、多に蛍火の光く神、及び蠅声す邪しき神あり。


邪神の中に、蛍火というのが含まれている。「和名抄」では鬼火を燐火と書くが「漢和辞典」には「燐」を「鬼火。蛍火。」と書き記し
ている。


もの思へば 沢の蛍も 我が身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る



上記の歌は「後拾遺集」での和泉式部が夫の保昌に冷たくされて、貴船神社に参詣した時に、蛍の光を放ち飛ぶ様を見た歌だ。これから察すれば、怪しい光を放つもの、もしくは炎などは天孫族や朝廷に仕える者たちにとって、恐怖を呼び起こすものなのかもしれない。

初めに戻るが、崇神天皇が白髪山の上に降りたった火とは、何かを象徴していたのかもしれない。それは、修験の炎だったのか、それとも星の輝きであろうか。。。

山の上の火といえば思い出すのが千駄木だ。修験系の雨乞いの儀式に、霊山などの山頂で千駄木焚くというのがある。ここで考えて欲しいのは、何故雨を呼ぶのに火なのかという事。九州には火祭りと呼ばれるものが、数多く存在する。これは九州だけでは無く、全国に広がりをみせるものだが、その大抵は修験の世界ではある。有名な熊野、東北では出羽など、修験の根付くところに火の神事は存在する。

遠野でも雨乞い儀礼においては、山の頂で千駄木を焚いた歴史は存在する。ところが国家での雨乞い儀礼に火を扱ったものは何故か見つからない。

旱魃が酷かったのは、天武年間だ。天武天皇以前の皇極天皇は、自ら雨乞い儀礼をして結果を出している天皇なのだが、天武天皇以降は、可哀想なくらい旱魃が押し寄せている。その都度国家をあげての雨乞い儀礼が行われているのだが、やはりそこには修験者などの行う火を扱った雨乞い儀礼は行われていないように見える。しかし考えてみると、天武の時代には修験の祖と呼ばれる役小角が登場しており、伊豆に流されるのは文武天皇の時代であるから、役小角が天武天皇の力添えとなった可能性はあるのかもしれない。

是の夏に、大きく旱す。使いを四方に遣わして、幣帛を捧げて、
諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。
               
                     「日本書紀(天武天皇五年)」



この記述にある「諸の神祇」であるが、つまり天武天皇時代には天皇家が祀る神々だけでは治まらず、なりふり構わず他の神々に対しても祈りを捧げたのだろう。これは調べると763年に登場する丹生川上神社に黒馬を捧げる雨乞い祈祷が確立されるまで、天武5年から約1世紀も続いている。
by dostoev | 2010-11-19 07:29 | 狐と瀬織津比咩 | Comments(0)