遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:河童と瀬織津比咩( 13 )

河童と瀬織津比咩(其の十三)結

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画像は、早池峯神社から馬産の護符として配っていた「猿曳駒」。この版木は現在、遠野市指定民俗文化財になっている。何故に猿が馬を曳いているかといえば、猿が病気から馬を護るとされた伝承からの、猿が馬を曳く護符になっているのだろう。石田英一郎「河童駒引考」では「捜神記」を引用して、猿が死馬を蘇生させた話を紹介している。しかし、それは猿の様であり、猿の様では無かった。「一物猴に似て非なるもの」という「捜神記」での記述は、この似て非なるものを結局猿とし、猿が馬を護る存在であると広くと認識されたようだ。

実は宮崎県に、こういう河童の逸話がある。宮崎市には昔、薬湯屋があって、毎晩遅くなると、沢山の河童が集まって来て、湯に浸かったのだと。"河童の使った後の湯は、毛が一面に浮いていて、大変臭くなる"としている。一般的に河童のイメージは両生類に近いイメージで、様々な河童の絵を見ても、毛があるとしたら頭の毛程度しか思いつかない。そして、湯に入るイメージは河童というより、猿のイメージの方が強い。それ故、この薬湯に浸かった河童とは、もしかして猿ではないかと思えてしまう。これは「捜神記」の逆で、まるでで「河童に似て非なるもの」ではないか。「捜神記」の「猿に似て非なるもの」を河童とは断言できないが、実はどこかで猿を河童として面白おかしく話した流れがあったのではなかろうか。

平安時代末期に編纂された「梁塵秘抄」にも「御厩の隅なる飼猿は絆放れてさぞ遊ぶ」と詠われ、厩に猿が飼われていた事がわかるが、馬を護るという俗信を信じた人間の手によって、強引に厩に紐で繋がれていたのだろう。だが河童譚にも、厩に忍び込んでいる河童の話が多い。猿と河童、その縄張りの共通性と姿態の共通性が、河童=猿であるとする説に気持ちが傾いてしまう。
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ところが河童と猿とは、かなり仲が悪いらしい。石川純一郎「河童の世界」には、その河童と猿の仲の悪い事例が、いくつも紹介されている。その中で、気になった箇所がある。それは「猿は馬を疾病から護り、河童の害からも守る。猿には河童除けの呪力があるのであろう。肥後芦北郡では、申年の申の日の刻生まれの者は、河童のいる淵に入って泳いでも何ともないと云われている。」これで気付いたのだが、猿は申であった。
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遠野を流れる猿ヶ石川沿いに庚申塔が、いくつも建っている。まあ猿ヶ石川だけでは無いのだが、古代から川沿いに道が開かれた歴史の合間に、石碑が建てられたのだろう。ただ「遠野物語55」の冒頭「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」を、もう一度考え直してみたい。

遠野各地の川に、河童淵と呼ばれるものがある。それは人里離れた川の淵ではなく、人里に近いところである為、各集落ごとに河童淵があると言っても過言ではない。猿ヶ石川に河童が多いというのは、猿ヶ石川自体が遠野で一番長大で、広大な河川であるから様々な集落を経由している為というのは、河童が多いという一つの理由だろう。だがここで、猿ヶ石川という名の語源に素朴な疑問が湧き上がる。何故、猿という名前の付いた河川名になったのかだ。
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「猿か?石か?」という猿ヶ石川の語源説話である清瀧姫伝説は、全国に似た様な伝説が点在するのだが、遠野に伝わるものは恐らく群馬県の桐生発祥だと思われるので、元々遠野に伝わるものではなかった。また猿ヶ石川の語源となった猿石があるとは伝わるが、どうやらこれも後世の付会であったようだ。石で気になるのは、前回紹介した河童の祟り除けに、礫石経を1年分である365個を川に沈める事により河童の祟りを抑えるという呪術だが、遠野では聞いた事が無い。また別に河童除けは、猿であった事を照らし合わせても、猿と石とは、河童に深く関係しそうではある。

ところが、気になる伝承が熊本県の八代市に伝わっていた。「球磨川に露出している大きい岩の上に、女神が毎晩現れるのを猿と河童とが取り合いをした。」というものだ。猿と河童は仲が悪いという伝承があるのだが、何故に仲が悪いのかはわからなかった。筑後川の河童も、元々は球磨川から来たものであったから、この伝承の持つ意味は大きい。

八代市は、どこか出雲を想起させる地でもある。それは市内に流れる河川名のいくつかが、出雲に流れる河川名と同じであるからだ。その中の河童と猿が女神を奪い合ったという球磨川の畔には、妙見宮がある。この妙見宮の祭神は、亀に乗って来た女神であるとされる。こういう地であるから、球磨川の大石の上に現れる女神とは、妙見神であるのだろう。妙見は庚申、つまり猿と縁が深い。また九州における妙見神とは水神を意味する。それはつまり、猿と河童が互いに信仰する共通の女神を奪い合うという事ではないか。さる高千穂在住のお方によれば、高千穂十社大明神大宮司田尻物部系図に「四十九体妙見即ち瀬織津比咩神是也」と記されているそうで、その高千穂の妙見社は"御塩井大明神"とも呼ばれるそうだ。この御塩井だが、阿蘇に塩井神社があるが、そこに流れる川は塩井川であり、そこでの禊を"シオイカカセ"と呼ぶ。この塩井川は白川に合流するのだが、その白川の水源に鎮座するのは、白川吉見神社。考えて見れば阿蘇山を中心とする水神の根源は、日下部吉見神社が発祥となっている。それが地域によって名を変えているに過ぎない。また竹田旦「水神信仰と河童」を読むと、全国に拡がる水神信仰の祭りが六月と十二月という二度に渡る祭が行われているという調査結果に竹田氏は「年に二度の水の神祭りを行うということは、つまり水神が特定の季節と関連していることを指している。いわば、六月と十二月とはその季節の両端をなしているのだろう。」と述べている。しかし竹田氏が見逃しているのは、六月と十二月の神事として、何が行われる月であるかという事。それは、大祓であろう。日本における穢祓の根源は、水によるものであった。互いのわだかまりを「水に流そう」とする日本の風習は古代から延々と、水の穢祓による力に依存してきた。その穢祓の神として知られる瀬織津比咩こそが、猿であり河童が奪い合う女神であるのだろう。
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奇しくも猿ヶ石川の源流は、妙見信仰も重なる北に聳える早池峯山系から始まる。その早池峯の女神は、九州の水神でもある瀬織津比咩である。日下部吉見神でもある瀬織津比咩には、菊池氏も大きく関与する。遠野に一番多い苗字である菊池氏の流れは、人だけでなく信仰の流れもあったであろう。しばしば学者の指摘するところでは、東北地方と九州地方の習俗の近似・類似は、人の流れが大きく関与している。河童という水難除けに猿が存在するのだが、然程猿が多くなかった遠野においての水難除けは、恐らく庚申がその役割を担ったのではないだろうか。庚申塔は、まさに"猿の石"でもある。遠野の北から流れる猿ヶ石川の源流を又一の滝とする伝説は、「又一(またいち)の滝」が妙見の"太一(たいいつ)"からきているだろうとされるのは、滝神である早池峯の女神を妙見神とする事からであった。河童という水難除けの信仰の発端、もしくはそれに付随する河童伝承も、全ては九州から遠野に辿り着いた、物部氏であり菊池氏などが、その信仰を早池峯な重ね合せた事から始まったのだと思えるのである。
by dostoev | 2016-12-28 07:02 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

河童と瀬織津比咩(其の十二)

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福岡の水天宮における平家の関わりと信仰を書いてきて、河童から少々脱線したきらいもあるが、ここで少し戻そうと思う。画像は"礫石経(れきせききょう)"と呼ばれるもので、平清盛が始めたようである。平清盛は人柱をやめる代わりに、この礫石経を海や淵に沈める事にした進歩的な人物だった。つまりこれは、水神の怒りを鎮める為のものである。その水神の使いとして河童がいるという認識だが、九州では河童の祟り除けに、この礫石経365個を川に沈める事により1年間、河童の祟りを抑える事が出来ると信じられる風習がある。

人柱は無かったとの見解を述べる学者もいるが、遠野では例えばメガネ橋の下から、お歯黒をした女性の頭蓋骨が発見されたり、松崎には人柱で死んだ巫女の墓などがある。また陸前高田には、菖蒲姫と呼ばれた遠野の上郷村から来た女性を人柱にしたという伝承が残っている。そして事実として平清盛がこの礫石経を人柱の代わりにしたという事であるなら、やはり人柱はあったとみるべきではないか。

「耳なし芳一」という小泉八雲の有名な怪談話があるが、平家の亡者から身を守る為、全身に経文を書いたつもりが、耳だけ書き残した為に、平家の亡者に耳を持って行かれる怪談話だ。これを九州の礫石経の河童除けの風習に照らし合わせれば、礫石経を365日に満たない数を川に沈めれば、その足りない日数分だけ、河童の祟りに遭うという事になる。「耳なし芳一」に登場する平家の亡者は、壇ノ浦の戦いに水没した亡者であるようだ。つまり水界から現れた、水の亡者という事であろう。その水の亡者の王は安徳天皇となるのだが、それはつまり水天宮に祀られる神でもある。小泉八雲が「耳なし芳一」の典拠としたのは、一夕散人「臥遊奇談」第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」(1782年)であると指摘されているが、全てひっくるめて、平家の信仰を秘めた水天宮から想起されたものではなかったか。

実は、この発想は漫画である星野之宣「宗像教授伝奇考」に影響されている。学者では無い漫画家である星野氏は、漫画家であるがゆえ学者が書けない自由な発想から漫画を描いているのだと。しかしその発想には、かなりハッとさせられている。独自に、遠野の河童を調べ、遠野の北に聳える早池峯信仰と祭神の結び付きには、どこか九州の息吹を感じさせるものがある。それを感じた時に、たまたま星野氏の漫画に接し、もしかしてという気持ちが湧き上がったのを覚えている。
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「川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。」という「遠野物語55」の冒頭だが、何故遠野の河童は、猿ヶ石川に多いのだろうか?を純粋に考えた場合、どうしても九州に行き着いてしまう。ところで猿ヶ石川の語源に、猿と石を間違い「猿か?石か?」として、猿ヶ石川と名付けられたという、とってつけたような語源伝説がある。

「遠野物語」において猿の話は、四話しかない。そのうちの三話は、猿の経立という化物猿に関するもので、六角牛の山が舞台となるのが二話。もう一話は、猿の経立の名前に触れている程度である。そしてもう一話は「遠野物語48」で、仙人峠の猿ヶ石川の話が書かれている。「遠野物語47」では「六角牛の猿の経立が来るぞ」という内容から、猿の経立の棲家は六角牛だという事で理解できる。猿がいるという六角牛と仙人峠は、遠野盆地の東側の山に面している。「猿か?石か?」の語源説は、猿ヶ石川の源流に伝わる話だが「遠野物語」では、まったく触れてはいない。その前に、猿そのものの話が遠野には少ないのがわかる。せいぜい、淵の傍に棲んでいる猿を淵猿と言って、河童の正体の一つとされる伝承が唯一、遠野の里に出没する猿の話となる。実際、今の遠野で猿を見るならば、やはり仙人峠か、六角牛山の脇を通る笛吹峠か、それを過ぎた場所にある橋野町で猿を見かける事が出来る。つまり、昔も今も猿を目撃できる場所は変って無いという事。たまに遠野の街に"はぐれ猿"が目撃される事があるが、それも一時だけである。

大正時代の記録に「遠野の獣と鳥」と題されたものが記されているのが、【鳥類】には当然、猿の名は無い。では【獣類】はどうかというと、下記の通りに猿が記されていない。

【獣類】

「きつね、ねこ、ねつみ、いたち、からたち、犬、むくいぬ、ちんけん、
おふくかめ、むささび、うさき(鎌せをい、白兎共)、くさい、こはみ、
山ねつみ、まみ、てん、しいね、とりう、きねつみ、くま、馬、牛、
鹿(あをしし、かのしし、うしゐ)、かはもり」


だが大正時代に認識されていなくとも、吉田政吉「新・遠野物語」には、猿の話が記されていた。猿の悪戯はそれなりにあったようで、鉄砲を駆使して猿を撃とうとしても事前に察知され、なかなか撃てなかったらしい。猿の被害はそこそこあったようだが、吉田氏によれば、狼に比べれば大した事は無かったそうな。だからなのか、遠野での猿の話が少ないのは。ただ、遠野の里に下りて来て悪戯を成した猿も、大正時代には見られなかったという事になる。明治の半ばで姿を消した獣は、狼が狂犬病の蔓延と、多額の懸賞金がかけられた事による率先した駆除によって滅び、猪は豚コレラの蔓延によって、やはり滅びた。しかし猿が、遠野の里から消えた理由がわからない。まるで河童の目撃数と比例するかのように、猿が里から姿を消したようにも思える。
by dostoev | 2016-12-20 06:26 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)

河童と瀬織津比咩(其の十一)

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風琳堂氏が北海道の滝廼神社で撮影した、恐らく唯一存在する瀬織津姫の神像ではないかとの事。前回「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神」と書いたのは、剣は荒魂の証でもあるからだ。右手に剣を持つのは、相手を薙ぎ払うなどの武力としてのものであるが、穢れを祓う霊威をも意味する。この前は、天叢雲剣を祀る熱田神宮に関して簡単に書いたが、「円空と瀬織津姫(下)」に展開される熱田神宮祭祀は、まさに天照大神荒魂についてであった。実際に、熱田神宮の禁足地である本殿西北背後に鎮座する一之御前神社に天照大神荒魂は祀られているのだが、「「円空と瀬織津姫(下)」では熱田大神そのものが天照大神荒魂であり、天叢雲剣に斎く神であったと展開している。

八岐大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣、別名草薙剣を「日本書紀」では「大蛇のいる上に常に雲があったのでかく名づけた。」と説明している。その天叢雲剣は、朱鳥元年(686年)に天武天皇を祟ったとしている。これはつまり、天叢雲剣に斎く神の祟りとなるのだが、同じように天皇を祟った神がいる。それは崇神天皇を祟った、天照大神荒魂である。

長元四年(1031年)、「大神宮諸雑事記」によれば、外宮の月次祭の時、急に大雨となり雷光が走り天地が振動したかと思うと斎宮が叫び声をあげて「我は皇大神宮の第一の別宮、荒祭宮也。」として託宣を述べ始めたと云う。その託宣の内容は「最近の天皇には敬神の念が無く、次々に出る天皇もまた神事を勤めない。」などと批判している。実際は斎宮が天照大神荒魂を名乗っての仕組みであろうが、だがこれは伊勢神宮の歴史から、天皇を祟ってきたのは天照大神荒魂であったとの証でもあろう。
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剣に斎く神は、佐賀県は神埼郡の櫛田宮にも祀られている。櫛田宮の由緒は「往昔此の地に荒ぶる神あり。往来の諸人多く害されたり。此の時に景行天皇の筑紫御巡狩ありて、此の地御通軍の際、櫛田大神を御勧請ありしかは、更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり、故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も、神埼と云ふ。」

櫛田大神とは世間一般に"お櫛田様は女神"と信じられ、その御神徳は「諸々の禍を払い除き、逃れさせたもう」と伝わっている。これは「佐賀県神社誌要」によると、弘安年中蒙古襲来の時、櫛田の神の御宣託に「我れ異国征討の為に博多の津に向ふ。我が剣を末社博多の櫛田に送り奉る可し。」蒙古襲来の戦地に赴いたと云う。蒙古との合戦の最中、海上には数千匹の蛇が浮かび出たとし、その三か月後、櫛田宮の末社である櫛田神社に疵を受けた数多くの蛇が現れ、再び櫛田神の御宣託があり「各蛇疵をこうむるといえど、蒙古は既に全滅した。」と宣ったと。これから察するに櫛田神とは、剣に斎き蛇を眷属する神だと理解できる。

現在の祭神は、櫛名田比売を主祭神として素戔男尊と日本武尊の三柱となっているのだが、その祭神についての論争が諸説ある為、取り敢えず現在の祭神で収まっている事情の様だ。ただ櫛田神は剣に斎き、蛇を眷属する神であるが、それがどうも櫛名田比売に結び付かない。櫛名田比売は八岐大蛇に怯え、素戔男尊に退治して貰ったか弱き姫というイメージであるからだ。

それでは、その祭神の諸説を見ると、櫛名田比売説と大若子命説と豊次姫命説の三つがある。確かに櫛田宮という社名から櫛名田比売を想像する場合が多いのだろう。しかし、長い間信じられた祭神は、豊次姫命だとされている。これは「櫛田宮由緒記」に、「櫛田大明神をもって総社とす。伊勢大神宮の大娘豊次姫命これなり。」と記されている為だが、この神名の正しくは"豊鍬入姫命"であり、崇神天皇を祟った天照大神荒魂を倭の笠縫村に祀った初代の斎宮であった。また大若子命説だが、白井宗因「神社啓蒙」「櫛田神社在肥前国神埼郡 祭神一座 大若子命」とあり、また「佐賀繁昌記」にも「櫛田社祭神大若子命也。」と記されているとの事。この大若子命とはなんぞや?と思ったが、別名"大幡主命"とされる。だが"大幡主命"といってもピンとはこない。しかし調べてみると実は、崇神天皇を祟った天照大神荒魂が流離った時に帯同した人物であった。正しくは、伊勢国の櫛田郷辺りの国造で、倭姫命に奉仕する大神主であった。「神社啓蒙」によれば、いつの間にか斎祀る側が櫛田宮に神として祀られてしまったとの事である。櫛名田比売はさて置いて、豊鍬入姫命も大若子命も、天照大神荒魂を奉斎した者達であった。また「禰宜補任」によれば、櫛田宮の由緒に登場する景行天皇のくだりだが、実は景行天皇にも仕えこの神埼に来た大若子命が、此処にも来て荒ぶる神を和ませたという事の様である。それはつまり、この神埼の地の荒ぶる神とは、櫛田大神であり、それは天照大神荒魂であったという事実があった。
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この櫛田宮の目と鼻の先に、與止日女神社がある。「肥前国風土記」にも登場する女神だが、「佐賀郡誌」によれば、「神功皇后を助けて三韓征伐に軍功ある女神」という事であるが、その正体は神功皇后の妹であるともされている。しかしだ、阿蘇の菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。この蒲池比咩は、この肥前国一宮である與止日女神社(川上神社)に祀られる與止日女と習合している。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。瀬織津比咩は天照大神荒魂とされる事から、櫛田宮と同神という事になる。そもそも「肥前国風土記」に登場する"荒ぶる神"そのものが天照大神荒魂であると伏せられていた事からの混乱でもあるのだろう。

更に、この櫛田宮の目と鼻の先、筑後川を間に挟んだすぐ傍に水天宮が鎮座している。平安時代の神埼御荘の長官は、平忠盛であった。平氏一門は、この神埼に宋の商船を迎え入れ、密貿易によって利益を蓄えたとされている。恐らく按察使局伊勢は、この平氏一門の力が根付いている筑後川界隈を頼って訪れたものと察する。更に加えれば、平家一門の信仰の共通もあったからではなかろうか。
by dostoev | 2016-12-17 21:52 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(3)

河童と瀬織津比咩(其の十)

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水天宮を初めに祀った尼御前は、物部の女であり、平家に仕えていた。それはつまり、平家の信仰にも携わっていたという事だろう。平家の信仰の拠点といえば厳島神社だが、平清盛を筆頭とする平家は伊勢平氏と呼ばれ、伊勢の地が発祥となる。伊勢の地で地盤を固め、頭角を現したのが伊勢平氏だ。当然、その信仰の拠点も伊勢にあったものを、厳島に移したと考えて問題は無いと思う。しかし、伊勢平氏の伊勢での信仰の拠点は多度大社であり、現在その祭神を確認すると、天津彦根命を主祭神としている。そして境内には、天津彦根命の子である天目一箇命を祀る別宮・一目連神社があり、本宮とともに多度両宮と称される。しかしこれでは、厳島神社との共通点が見出せない。わずかに摂社として美御前社には、厳島神社と同じ市杵島姫命が祀られているに過ぎない。

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」

上記の歌が詠われたように、多度大社と伊勢神宮との関係は深そうだが、それは、天照大神の御子である天津彦根命を祀っているからだとされている。だが上記の歌以外に「梁塵秘抄」に、下記の様な歌が詠われている。

「関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の州龍の口や小野、熱田に八剱伊勢には多度の宮」

多度大社は軍神と呼ばれているのだが、天津彦根にそれを感じないのはどういう事だろう。高橋昌明「清盛以前」を読むと、多度の地には、多度神社と多度神宮寺があり、伊勢平氏にとっての氏寺が多度神宮寺であったと。ただしそれは多度神宮寺と多度神社が一体不可分のものであるから、多度神社に祀られる祭神は当然、多度神宮寺と本地垂迹の関係になるのだろう。高橋昌明氏は「多度の地の多度山は、まさしく伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度神社及び多度神宮寺は、その神聖な祭壇と見做す事が出来る。要するにこの多度山は、伊勢平氏一門同族の結集の場であり、何よりも伊勢平氏の精神の故郷にほかならなかった。」と説明している。

八巻照雄「伊勢平氏盛衰史」には簡単な年表と共に、平氏と厳島神社との関わりを紹介している。例えば「長寛二年(1164年)九月、平家一門三十二人が法華経(三十三巻)を書写し、安芸にある平家の守護神・厳島神社に奉納した。」とある。この法華経の三十三巻は"十一面観音の三十三応現身"になぞらえたという。つまり、"平家の守護神"とは、十一面観音と関係の深いものであるという事。

伊勢平氏の精神の故郷であり軍神である多度大社であったが、主祭神の違う厳島神社もまた軍神を思わせる"平家の守護神"であるとしている。精神の故郷を捨て去って、新たに厳島神社を信仰する程、平家の信仰は移ろいやすいのだろうか?伊勢平氏は、軍事的貴族とも呼ばれた。それは、伊勢平氏が超人的武運に恵まれる事を願った為に、多度大神を信仰したのだと。その軍事的貴族を永続するのであるなら、多度大神と厳島明神は戦神という神威を共通する同神でなくてはならない。何故なら、神は祟るからだ。伊勢平氏の地盤を築いた多度大神を簡単に捨て去る事は、その時代の信仰の深さからみて有り得ない話だ。
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木野戸勝隆「百日参籠」によれば、多度大社の主祭神である天津彦根を否定し、本来の祭神は不明であるという。その神は、"近江国より来た神なり"とのみ言い伝えられ、神名はわからないとしている。そしてもう一つわかったのが、この多度の地は"元伊勢"と呼ばれているという事だ。元伊勢とはどういう事かと云うと、伊勢大神が一時坐した地であるという事である。近江国、琵琶湖の辺に、やはり元伊勢の地がある。それは、崇神天皇時代に祟った天照大神荒魂が流離った過程の一つが、近江の地であり、この多度の地であった。

近江雅和「記紀解体」によれば、崇神天皇から離れ遷座の地を求め彷徨ったとされる旅の面々を見る限り、それは武力平定の移動であったろうと述べている。ここで思い出して欲しいのは、神功皇后の武力平定の先鋒でも、荒魂が務めたと云う事。鎮座後に留まるのは和魂であり、行動するのは荒魂であるという事から、滝宮に至る四十年間に、各地を荒魂を先鋒として武力平定し続けた旅であったのだろう。それ故だろう、多度の地にも訪れた天照大神荒魂であったからこそ、軍神として「梁塵秘抄」にも詠われた。また、天武天皇が壬申の乱の前に、伊勢大神に向って祈ったのは、今の伊勢神宮の方向ではなく天照大神荒魂が彷徨い最後に落ち着いた滝宮に向ってのものであった。物部氏に伝わる伊勢大神とは、三韓征伐にも関係した天照大神荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命である事から、天武天皇は戦神に勝利を願ったのだと思う。そしてその撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、剣に斎く神でもあった。

多度の地を武力平定して一時坐した天照大神荒魂は、多度の地にはもういない。しかしその神威は衰えずに伊勢平氏の"祖霊"として残っているからこそ、信仰されたのだろう。仁安三年(1168年)、平清盛は厳島神社を修築している。平清盛が厳島神社を重視したのは、在来の神社・仏閣が皇室、貴族の深い信仰を受け、それに増長して横暴を極め、更に僧兵まで養って、強訴を繰り返して朝廷を圧迫していた事が大きかったという。つまりその当時の厳島神社は、朝廷や貴族の息がかかっていなかった神社であり、平清盛にとっては聖地に思えたのではないか。奇しくも、平清盛が厳島神社を修築した同じ年に、伊勢神宮が燃え落ちている。もしかして、伊勢で祀られている天照大神荒魂を厳島神社に移す為に、平清盛が伊勢神宮に火を放ったのかとも思えてしまう。そしてその六年後の承安四年(1174年)に、後白河法皇の厳島神社の参詣に、伊勢平氏一門が同行した。これが平清盛が準備してきた伊勢平氏の守護神である厳島神社信仰の始まりであり、そしてこれまで信仰していた多度大神信仰の終焉となった。
by dostoev | 2016-12-12 22:40 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(2)

河童と瀬織津比咩(其の九)

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遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。

昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。
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どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。

ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
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久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。

壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う「布瑠の言」である。

「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。「佐陀大社縁起」には、こう記されている。「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」
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月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。

むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。

物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。
by dostoev | 2016-12-11 17:25 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(5)

河童と瀬織津比咩(其の八)

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水天宮の本社を紹介する前に、遠野の土淵を紹介しようと思う。何故に土渕かというと、現在遠野に住んでいる方々は実感できるかどうかわからないが、朝廷の都が藤原京だの平城京、そして平安京と遷都し続けた歴史があるように、遠野もまた遷都されてきた歴史がある。現在の遠野の街は、17世紀末以前までは、誰も住んでいなかった。現在の遠野は城下町であり宿場町であったと知られるのは、鍋倉山に横田城があったからだ。だがそれ以前は、高清水山の麓、光興寺に横田城があったのが、鍋倉山に遷都されたからだった。その間に為政者も、阿曽沼から南部氏に移り変わっている。阿曽沼氏は、奥州藤原氏が源頼朝により滅ぼされた後、その恩賞として遠野郷を授かったからだった。ただし細かな支配領地は、未だ定かでは無いが、光興寺に横田城を築いた事から、遠野の中心地は光興寺を含む松崎町であったのが事実である。そして、更なる以前はというと、それは恐らく土淵を拠点として北に続く松崎、附馬牛のラインであったろう。それは、早池峯への道筋でもあった。

「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。これを裏付ける様に「まつざき歴史がたり」には、猿ヶ石川に関する昔話が紹介されている。その話は、早池峯の麓にある又一の滝から始まる。

猿ヶ石川の始まりは、猿石からだとも云われるが、その猿石は又一の滝がある沢から発生しているのか、もっと西寄りの沢からだという説があるようだが、物語は又一の滝から発生している。その猿石が砕けて八つの石に別れ、その一つ一つが様々な淵に収まる様子が語られている物語である。一つ目の石は、地蔵岩が(次郎岩とも)あるという地蔵沢から始まっている。その地蔵沢は、遠野三山の三女神が最後の晩を過ごしたとも云われる沢だと伝えられる。土淵へ入ったのは五つ目の沢で、こう記されている。

「五つ目の石は、流れて来て広い場所を見付けて、俺はここに入りたいと言ったと。すると恩徳の不動様が何故だと訊いたら、俺はここの広い村にいて、この村を繁栄させたいと言ったので、お不動様がよしよしと言って許した。それまで、お不動様がこの村を見守っていた…。」

恐らくこの話は、修験の歩いた道筋を物語として語ったのではなかろうか。聖武天皇時代に、奥州で金が発見され、今まで輸入に頼っていた金を探しに、多くの修験者が奥州へ来たと云う。登山という文かが日本に入ったのは明治になってからだった。それ以前は、山とは遠くから眺め拝むものであった。ほぼ未踏の地であった山を修験者が登るには、砂金探しも含め沢を溯上するのが理にかなっていたようである。
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画像は、小烏瀬の滝と呼ばれるものだが、この水源は荒川高原に聳える一ッ石山の麓を源流とする沢の名前を"不動沢"という。不動という名称には、不動の滝や不動岩などがあるが、大抵は修験者が山を開拓した道筋に名付けられる場合が殆どである。つまり、この小烏瀬の滝から上流へ、修験者が歩き進んだ道であり、この小烏瀬川の滝が始点でもあり終点てせもあるのだろう。だからこそ、不動明王を祀る社が建てられている。
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そして、その不動堂の背後に、小さな社が三つ並んでいる。一つは、稲荷社。一つは、薬師大神を祀る社。そしてもう一つが、水天宮である。気付かれる方もいるとは思うが、不動明王と薬師如来が並ぶ姿とは、早池峯山と薬師岳を思い浮かべるだろう。ここでの注意点は、薬師如来ではなく、薬師大神となっている事だ。神仏混合となり、本地垂迹という概念が発達し、神は仏の同体とされたが、実際は仏の下の階級に零落した。しかし、ここでの薬師大神という名前は、まさに神と仏が同体であるかのよう。早池峯の麓、荒川から流れ落ちる不動沢とは、そのまま早池峯山麓の息吹を伝えるかのよう。恐らく、それを意図して、この小烏瀬の滝に祀ったのだろうと思う。そしてこの不動堂に古い時代、女人が住みついたとも伝えられる。それはもしかして、大迫の傀儡坂と同じ様に傀儡女であったのだろうか。傀儡女は水辺に住むと云い、その傀儡女に夢中になった男の話もある事から、身体をも売っていた傀儡女の可能性は高いであろうか。
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by dostoev | 2016-11-04 20:01 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(4)

河童と瀬織津比咩(其の七)

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川の童で、河童。座敷の童で、座敷ワラシ。この物の怪の様な"童達"は、微妙にイメージを変えてあらゆるところに出没する。例えば「遠野物語拾遺63」では、華厳院に火事が起こった時、二人の童子が火消ししていたのは、二寸ばかりの小さな大日如来と不動明王像であったのかもしれないとされている。それかもしかして、不動明王の眷属である、矜羯羅童子と制多迦童子であったか、とも。

「聖徳太子伝記」に、ある晩の事、歌の上手い土師連八島の元にある童子が来て歌を競い合ったが、その声が普通の人の声とは違うので不思議に思ったが、その童子は空が開ける頃に、海に入って行った話を聞いて、聖徳太子はこう答えた。

「是は螢惑星と申す星なり。人間に軍兵・飢渇・不熟等の災難あらんと欲するの時は、彼星童子に形を現し、人間の者に相交りて、未来善悪の事を歌に作りて披露す。天に口無し、人の囀を以て事とす。」

この時代、神は童子の姿で世に化現し、童子に交じって遊ぶ中で、その意志を伝えるとされていたようだ。例えば座敷ワラシはよく、子供達の中に交じって遊ぶとされるのは、子供故と思われていたが、柳田國男曰く「神が零落し妖怪となった。」という説に則れば、まさしく子供達の中にこそ、神は交じって遊ぶのであり、それは地蔵や仏像が子供達と遊ぶのが好きという話に近似する。つまり、子供達に交じって遊ぶ神仏は、人間に対して意志を伝える前ふりでもあるという事。それを止めさせる事は、罪でもあるからこそ、それを止めさせた大人が祟りを受けたのだろう。例えで言えば、天皇様の詔を無視した罪という事になるのだろうか。

とにかく遠野には、川には川の童がいる。そしてそれが家に入れば、家の童となるとされ、もしかしてそれは本来、神であったものとして伝わったものが、物の怪に零落したのだろうか。しかし座敷ワラシは物の怪でありながら、神としての存在を示している。そして河童もまた、悪戯のお詫びとして薬などの秘伝を人間に授ける神に近い存在になっている。

また遠野には、人形に魂が吹き込まれ神になったオシラサマというものがある。ただオシラサマは、初めから神として作られた人形であるから、人形から物の怪に変化した河童とは違う立場にあるが、人形が神に昇格できる要素を示す事は出来るのだろう。「河童と傀儡と瀬織津比咩(其の六)」に書き記したように、人形を大黒柱など家屋のいづれかに組み込む事で、家屋を支える神にもなれるのである。つまり当初は人形であった河童が家屋に入って、家の支えとなる事によって、神、もしくは神の眷属となれる。それは結局、座敷ワラシになったという事になるのだろうか。
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若宮神社の例を確認すると、あくまでも河童は女神の眷属として存在し、その女神を祀る社の梁を護る存在にもなっている。若宮神社と同じ福岡県に瀬成神社という、やはり瀬織津比咩を祀り、河童を眷属とする神社がある。水神系に属する河童は、やはり水神の女神に仕えるのが通常なのだろう。「遠野物語拾遺33」は、まるで「肥前国風土記」に記される與止日女に関する話に近い。「肥前国風土記」の記述には「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。」とある。とにかく水性の生物は、水神の女神に従うようである。

ところでこの肥前国一宮である川上神社(與止日女神社)に祀られる與止日女は、肥後国の日下部吉見氏が奉祭する母神"蒲池比咩"と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は、瀬織津比咩と同神とされている。ここで早池峯の女神である瀬織津比咩が、九州における水神の大元である可能性が出て来た。そして福岡の河童の総本山というべき神社に、久留米の水天宮がある。そこには前回紹介した、渋江氏が関係しているのだが、その水天宮を紹介してみようと思う。
by dostoev | 2016-11-03 16:18 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)

河童と瀬織津比咩(其の六)

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人形が河童になった話は、「河童と傀儡と瀬織津比咩(其の一)」で簡単に書いたが、その流れを続けよう。菊池氏の流れに、橘氏を祖とする渋江氏がいる。その渋江氏は、河童を使役する水霊祭祀の家柄で、菊池郡にある多くの神社の宮司も務める家柄である。そして肥前国杵島郡橘村(現在は佐賀県)に鎮座する、潮見神社社家の一族になる。この潮見神社の笠懸(流鏑馬)に、菊池第五代城主菊池経直が参加し落馬して死亡しているが、わざわざこの潮見神社に来ている事から、菊池氏と渋江氏との関係と信仰の深さを結び付けるものだろう。

「北肥戦志」には、渋江氏の祖である橘氏に関する河童譚が、潮見神社の縁起譚として紹介されている。聖武天皇の頃、橘諸兄が政道を補佐してからの後、孫に当たる兵部大輔島田丸が朝廷に仕えた神護景雲の頃、春日社を常陸国鹿島から奈良の三笠山へ遷宮する時に、この島田丸が匠工奉行を勤めたという。その時、内匠頭の菅原氏が九十九体(百体とも)の人形を作り、匠道の秘密をもって加持祈祷したところ童と化したのだと。その童達の力を借りて、遷宮という大事業が早く成就したのだという。さてその後に、その人形を川に捨てたところ、人や馬などを害するようになり、世の禍根となったそうな。それを知った称徳天皇が、兵部島田丸に対して、化人(河童)の災禍を鎮めよとの詔を下し、島田丸が早速その趣旨を河中水辺に触れ廻った以降、災禍が無くなったと云われる。それより河童を兵主部(ひょうすべ)と名付け、橘氏の眷属となったという事である。つまり以前に紹介した人形が河童になった話で一番古いものが、潮見神社の縁起譚でもある河童譚である。
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画像は以前に紹介した、若宮神社の社殿の梁を支える河童の彫刻である。春日大社の建築に携わった河童であるが、他の河童譚でも、城の造営や館の建造などにも携わっている事から、建築と河童が結び付いている。また、加藤清正の河童成敗の話もまた、清正の土木事業に携わった河童だと云われ、利根川の土木事業にも河童が携わっている。そこでフト思うのだが、例えば河川工事や橋の建築には、人柱があったとされるのは、水神に対する贄でもあった。それとは別に、家屋の建築においても大黒柱に人形を置いたりして、家屋の守護とする民俗が多々ある。民俗的に家屋や船の神霊は女性とも云われるのは、その神霊が女神であり、その眷属によって護るという意味があるのではなかろうか。つまり、若宮神社の場合は、女神とその社を支え護る為に、眷属である河童の彫刻を彫ったものと考えれば納得する。

遠野に伝えられる話に、川から河童が這い出して来て家に上り、座敷ワラシとなると伝えられる。座敷ワラシは家の守護でもあるのだが、その前身は河童だと云われるものを考慮すれば、若宮神社の梁を支える河童の彫り物は、その民俗を具現化したものとも考えられるのだ。ここで再度問われるのは、誰が遠野に河童伝承を運んで来たかという事になる。
by dostoev | 2016-11-02 21:52 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(2)

河童と瀬織津比咩(其の五)

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菊池照雄著「山深き遠野の里の物語せよ」に岩手県の花巻市で伝わる「傀儡坂物語」が紹介されている。これを簡単に紹介してみよう…。

大昔、亀ヶ森の蓮花田村の長が、川に登ってくる鮭が思いのほか大漁で、
その鮭を運ぶ人手が足りなくて困っていた。その時、一人の傀儡女が長い
旅を続けたのかボロボロの格好をして足取りも重く、村長の方に歩いてきた
のだと。その道は、早池峰に続く道であったが、村長はこの鮭を運ぶのを手
伝わないと、この道は通さないと言った。

そして無理やり、その傀儡女に鮭を背負わせ、何度も手荒く運ばせたところ、
無理がたたり傀儡女は倒れてしまったという。

「罪の無い私を、こんな目にあわせたからには山河の形が変わり、 この川
の流れが別の場所に変わるまで、この川上には決して鮭を登らせないから。」

と言い残し、傀儡女は息絶えたのだと。それからこの川には鮭が登る事無く、
そして傀儡女が倒れた場所を傀儡坂と呼ぶようになった。



現在は、傀儡坂とは呼ばずに、葛坂となっている。また村長のいる亀ヶ森蓮花田村というのは、やはり三女神が宿った場所が亀ヶ森で、蓮花田というのは三山に分かれる占いをした蓮池のある地の事をいう。この「傀儡坂物語」を菊池照雄は、こう解説している…。


「たぶん、早池峰山麓は、早池峰大権現の聖域の境界までが、彼女らの
 支配の及ぶ地で、この傀儡坂が両者の境であったと思われる。傀儡坂
 の悲劇は、この早池峰大権現との誓約を破り、この境の坂を通り抜け
 たためにおきたのだろう。」



この菊池照雄の考えは、間違っていると断言できる。傀儡女が誓約を破って息絶えたという話よりも、何故に鮭が遡上してこなくなったのかという方向を見据えて考えなければならなかったのだろう。

現代では、あちこちにダムが建設されて、鮭は遡上してこなくなったのだが、昔は鮭が遡上し、山間部の貴重な蛋白源となっていた。それでは何故、鮭は遡上してこなくなったのだろう?これは単純に言い換えれば、傀儡女の祟りとなる。しかし、単なる祟りではなく、早池峰の神が絡んでいる祟りと考えなければなかった。

傀儡女が東北にまで足を伸ばし、またオシラサマの起源に関わっているものと一般的には認識されている。また傀儡女は河原に住む事が多かったと云われるが、これは水辺での祭祀を行っていたと、やはり認識されているが、その祭祀は果たしてどういうものだったのか?までは謎となっている。

ただ「傀儡坂物語」で言えるのは、傀儡女は早池峰を目指して来たという事だろう。菊池照雄は傀儡女が境界侵犯をしたものだと考えていたのだが、実は体をボロボロまでにして早池峰を目指した傀儡女には、早池峰に対しての想いからの旅であったと推察される。

そこには確かに、傀儡女と早池峰の神との誓約があったのだろう。ただそれは、菊池照雄の言うところの誓約ではなく、早池峰の神と取り交わした傀儡女との純粋な誓約であったものと考える。何故なら、早池峰の神とは水神である瀬織津姫だからだ。

川辺て寝泊りしながら祭祀を行ってきた傀儡女とは、早池峰の神である瀬織津姫との誓約を守り、水辺での祭祀を繰り返しながら、旅をしてきたものだと考える。それは先に記した、傀儡女の発生が海人族である安曇からのものであるからだろう。その想いがあるからこそ、体がボロボロになってまで早池峰の麓まで旅をしてきたのだろう。

だから、早池峰の神である瀬織津姫と祭祀を通して繋がっていた傀儡女を村長が殺した為に、早池峰の神が怒って、鮭を遡上させなくなってしまったと考える方が、普通であると思う。菊池照雄の考察は、傀儡女の発生と瀬織津姫との繋がりを理解していなかった為からの考察となっている。
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鮭を祀る神社で一番古いのが、福岡県の鮭神社となる。祭神は、彦火々出見尊鸕鷀草葺不合尊 豊玉姫尊。

古文書によれば、祭礼の日に社殿まで鮭が遡上してくるのだが、これは豊玉姫尊が御子である鸕鷀草葺不合尊の元へ遣わされるものであり、これを途中で殺すと”災い” があるとされる。ある時代、鮭はエビス信仰とも結び付いたのだが、鮭を含む魚類全般は”鱗族”として龍蛇神とも重ねられたようだ。

また、この福岡の鮭神社では、この地域で牛の病気が流行った時に、万年願として傀儡人形が奉納されたという。そこには穢祓の意識が働いてのものだったらしい。これを「傀儡坂物語」に当て嵌めて考えてみると、海神との繋がりを持つ傀儡女と、早池峰山へと遡上する鮭を途中で殺した為に、海神の怒りに触れて鮭は遡上しなくなった。つまりここでいう傀儡女とは鮭の掛詞でもあり、共通するのは、海神の使いという事であり、早池峰大神である瀬織津姫は海神との繋がりが深いのであるという裏付けにもなる。
by dostoev | 2010-11-17 12:05 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(8)

河童と瀬織津比咩(其の四)

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画像は全てブログ「梨の木平の桜」様からの提供


福岡県に若宮神社というものがあるという。若宮神社は、俗に「有富のカッパさん」とも言われているらしく、若宮神社のある有冨地区は昔から開けた土地で、今から二千年も前に海人族が渡来し、原住民と交流同化して、新しい渡来文化、技術を教えながら、部族の勢力を拡大してきた土地であったそうな。

この宮には干珠、満珠の玉を棒持した女神を囲んで19体の河童像が安置されているらしく、普段は一般公開されていないとの事。そして、写真撮影も禁止されていると。ただ、例祭時には公開されるよう。九州在住の方は、直接その河童像を見たらしく、その河童像は腰に布を巻き、各自が色々な品を持ち、各像とも変った表情をした珍しい神像群であったという。

女神とは、安曇族の祖である綿津見神の娘、豊玉姫と玉依姫で、河童像が一門の部族男子を表現したものだと、されているそうな。写真の像は社殿の梁を支える寄神の彫刻で、力神とも河童とも言われるそう。つまりここでの河童とは、安曇族の信仰する女神の元に集まった者達。、もしくは、それを守る者達の事を河童とも言い表したのだと思う。これから察すれば、この信仰と概念が普及した地域には、やはり似たような河童というものが伝わった可能性があるだと考える。

初めに紹介した、傀儡と安曇族。そして河童と安曇族。川には河童というものが棲むと信じられる以前、その河童の概念を運んだ存在は、安曇族とも考えてしまう。そして更に、この若宮神社には瀬織津姫が、かって祀られていたそうである。海人族に信仰されていた瀬織津姫の普及に伴い、水神である瀬織津姫の元、同時に河童が普及されたとしても、何等おかしくはない。

河童という名称か後付だとしても、瀬織津姫の普及に合わせて、河童の根本概念が伝わった可能性はあるかもしれない。
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平家が祀っていた有名な神社に、厳島神社というのがある。その厳島神社の平家納経の金銅製経箱には、銀製の雲を吐き出す金製の龍の姿が刻まれているのだが、その龍は牝龍である。その形象は、厳島神社のオナリ信仰である緞子の厳島切れに、海の青を示す藍色に黄色の蛟竜紋として示されている。龍には、牡牝の性別があり、牝龍はミヅチで現されるのは、牝龍が水神の証でもあるからだ。

以前「荒ぶる女神」で展開した、各風土記などで伝わっている伝説の「荒ぶる女神」の根源は、宗像三女神であると確信した。その「荒ぶる女神」は、男神が去ってしまった為に、怒りを人間に向け、関係無い人々が死んでしまう話となる。つまり、荒ぶる神の大抵は女であり、女神となる。そしてその女神の大抵は、山に鎮座し水神としても扱われるのは、その正体が龍であり、それも水を自在に操るミヅチという牝龍となる。

そのミヅチを示す紋が厳島神社にあるというのは、厳島で祀られ畏怖される存在であるのが、荒ぶる女神であるという証にもなるだろう。

宗像三女神=出雲大神=早池峰大神=瀬織津姫という図式から考えれば、当然厳島神社にも瀬織津姫が祀られていた事になるのかと考える。つまり、瀬織津姫に付随する河童と云われる正体もまた、安曇族などの海人族が信仰してきた瀬織津姫の元に集う者達であり、それが平家の施行した禿髪制度の根源でもあった可能性はある。何故なら、人を密告し貶めるというものは、国津罪であり、穢れの行為であるから、その穢れをまた纏う者達とは、傀儡人形と同じと考えるからだ。
by dostoev | 2010-11-17 11:57 | 河童と瀬織津比咩 | Comments(0)