遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:早池峯考( 6 )

早池峰神社の呪法

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早池峰神社の草創は大同元年(806)来内村(現在の上郷町)の猟師藤蔵が早池峰山頂において神霊の霊容を拝して発心し、参道を開いてその年の6月18日山頂に一宇を建立して神霊を祀ったと云う。

嘉祥年間、天台の高僧慈覚大師が、この地に来て早池峰山の開山の奇端を聞き宮寺として妙泉寺を建てた。本殿は東西43尺1寸、南北33尺7寸で、内陣に早池峰山の神霊を祀り六角牛・石神の神霊を併祀している。というのが、現在一般的になっている由来である。しかしこの9世紀前半というのは、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の頃でもあった。田村麻呂は801年、延暦20年、第3次の征夷作戦が始め、2月に坂上田村麻呂は節刀を賜っている。(この時の軍勢4万)そして9月27日征夷大将軍坂上宿禰田村麿等が夷賊を討伏したと報告されている(日本記略)。更に10月、この功績にたいして従三位を授けられている。そしてこの時に「遠く閉伊村を極めて」とあるが…。
 
まず注目したいのは、古来、遠野には閉伊族という有力な蝦夷がいたという。そして遠野には、蝦夷の首領である岩武の伝説が存在する。蝦夷征伐の坂上田村麻呂が綾織の霊山である笠通山の頂上に立って、綾織町寒風の羽黒堂に隠れ住んでいる岩武を、発見したという。そして現在の羽黒岩にある羽黒神社で、岩武を弓で射殺したという伝説である。弓矢で射殺した時の鉄の鏃が、古い松の根元から出てきたとそうである。その松を、矢立て松と呼ぶ。

ただ以前知り合った考古学者で遠野を調査した人物に聞いたところによると「田村麻呂は遠野の地まで来たのでしょうが、戦は行われず和平交渉で済んだものと思われます。」という事であった。ただ弘仁二年(818年)閉伊村の蝦夷が反乱を起こし、この時の征夷大将軍である文屋綿麻呂が二万六千の征夷軍を送り込んで閉伊族の反乱を鎮圧したが、これが蝦夷最後の抵抗戦争であったと云われている。それならばやはり、遠野の地で蝦夷討伐という名目の戦が行われた事となる。つまり最後まで朝廷にとっての"まつろわぬ者"が遠野に住んでいたという閉伊族(蝦夷)だったのかもしれない。

そして東和町には、猿石ヶ川を望む場所に成島毘沙門天像がある。これは猿石ヶ川を移動手段として使う、閉伊族を睨む形で建立されたという説があるが、妥当な説だと思う。蝦夷に馬は当然あったのだろうが、大量の人もしくは物資を移動させる為の最適最速の移動手段は、あくまでも川を利用したものであったと思われる。それを阻止する手段としての、成島毘沙門天像であったのだろう。そして、そこから導き出される答えは、それ程どまでに、遠野の閉伊族を警戒していた事になるのだろう。


毘沙門天という名は、元々四天王の多聞天(梵語ヴァイシュラヴァナ)からきており、訛って毘沙門天と呼ばれた。言葉としては「全てを聞く」という意である。古来よりインドで信仰されてきた、財宝の神である。仏教では四天王の一人に数えられ、 四天王は四方に目を光らせ、魔物や敵から世界を護るのが役割であった。その中で多聞天は須弥山の中腹に住み夜叉、羅刹を率いて北方守護を司るとされる。

延暦20年(801年)に田村麻呂は、窟に籠る蝦夷を激戦の末に打ち破り、蝦夷を平定したとされる。田村麻呂は勝利を毘沙門天の加護と信じ、その御礼に京の清水の舞台を真似て九聞四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として、窟毘沙門堂と名付けたというのが、平泉の達谷窟毘沙門堂である。しかし毘沙門像はその後、黒石寺(水沢市)藤里毘沙門堂(江刺市)立花毘沙門堂(北上市)成島毘沙門堂が建立されている。毘沙門像の顔が田村麻呂に似せてあるという事から蝦夷を平定した後も、毘沙門像として田村麻呂が蝦夷地を鎮護しまた蝦夷の怨霊をも調伏し、鎮めているのであろう。

「三代実録」貞観15年(873年)の項に記された陸奥国の書状があり「支配民が辺境の蝦夷の活動を恐れているので、五大菩薩像を安置して欲しい。」というものである。支配民である入植者達は、相変わらず不安定な政情に不安を覚え、新たな霊験仏でなければ、この地は治まらないと考えたようだ。そこで登場したのが、10世紀頃に造られた成島の兜跋毘沙門天像である。

そして鬼門の地である岩手に、坂上田村麻呂がもたらした毘沙門天像の力とはまた別に、瀬織津比咩という謎の女神が朝廷側により運ばれていた。毘沙門天であろうが、瀬織津比咩であろうが、当時の朝廷の鬼門を押さえるという意志が働いた為に、これらの神々を蝦夷の地まで運んだのである。つまり、それほどまでに鬼門の地に住む蝦夷を恐れていたのだろう。

瀬織津比咩は、天照大神の荒神であり、穢れ祓いの神と共に、水と桜を司る神でもある。水といえば庶民的には不動明王が有名なのだが、実は瀬織津比咩との関わりあいがある事がわかっている。例えばお稲荷様=狐というイメージがあるのだが、実は后土という五穀豊穣を司る神がお稲荷様に祀られており、その使いとして狐が存在する。その狐のイメージが強い為に、本来の后土という神様の存在が薄れてしまっているのが現状なのだ。ここでもまた、水の流れや滝そのものが瀬織津比咩という女神なのであって、そこを祀る祠には後に流行した不動明王が祀られている為に、瀬織津比咩が隠れてしまっているのである。

瀬織津比咩の誕生は、伊邪那岐命が黄泉の国から戻って「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」と言い放ち、中の瀬に下りたって禊祓いをして初めて誕生したのが八十禍津日神であった。そしてこの神が、瀬織津姫なのである。何故八十禍津日神が瀬織津姫なのかというと「倭姫命世記」「荒祭宮一座、皇大神荒魂、伊邪那岐大神所生神、名は八十禍津日神也、一名瀬織津比咩神是也」とある。

瀬織津比咩は、穢れ祓いの神とあり穢れを祓うシステムは、瀬織津比咩が大海へと罪や穢れを流し、やがて黄泉の国にと飲み込ませるというもの。これは、藤原不比等が作ったと云われる延喜式(927年完成)の大祓祝詞に瀬織津姫は登場し、穢れ祓いのシステムが紹介されている。その大祓祝詞では、瀬織津比咩が罪や穢れを川から海へと運び、速秋津姫を経由し、そして根の国に住む速佐須良姫がそれを呑み込むというもの。

その穢れ祓いの三女神は遠野に光臨しており、それぞれ遠野三山に祀られている。早池峰山に瀬織津比咩、六角石山には速秋津姫、石上山には速佐須良姫がいる。これは穢れ祓いによる浄化システムがそのまま、遠野三山で三角形を形成しているのだ。そこに関わるのは、直接的な水の流れと間接的に人の罪と穢れを溜め込みそれを川という流れに戻す役割として桜の存在があったのかもしれない。川沿いには桜並木が多く、桜は根が深く沢山の保水力を備えている為か、川が氾濫し多くの死者が出た後に、日本人は多くの桜の木を植えている。

当時、桜の樹齢は人間の寿命と同じであると思われていた。だから、子供が生まれると、その子供の移し身として桜を植えたものであると。つまりその子が病気や怪我をした場合、桜がその身代わりになってくれるものだと信じられていた。桜は人の病気や怪我だけでなく、罪や穢れ、呪いや魂までも吸い取り浄化していたのである。何故かといえば桜には、瀬織津比咩という存在が鎮座していたからである。

つまり桜は、死者への鎮魂の意味をも備えていたのかもしれない。瀬織津比咩には、死の匂いがする。いや死というよりも、伊邪那岐命が黄泉からの帰還の為に禊祓いをして生まれた瀬織津比咩には、生と死の狭間に揺れ動く魂の平定という役割があったのだろう。

古来から日本には、中国から輸入?(影響)した陰陽五行というのがある。それを一つの学問として、当時の朝廷は国造り、都造りをしてきたのである。その都造りの前に、立地条件を考えるというのは、現代建築にも通じるのである。そこで重要な風水上のポイントとなるのは、龍脈。そしてその、龍脈の流れの始まりとなる高い山を太祖山という。そしてその太祖山から、気のエネルギーが龍穴へと向かっていくのである。

龍穴とは、龍脈の収束地であり龍のエネルギーが集まり、そのパワーが発散するところ。そして龍は水神であるから、かならず水が必要となる。つまり龍穴には必ず龍が水を飲む水源があるという。更にその龍穴の環境には砂と呼ばれる、龍穴を守るようにして囲む山々や丘が必要…。つまりこれは、湖伝説を伴う遠野盆地そのものと重なってしまう。

風水では、人の体に「経路」という気の流れが存在するように、山にも水にも脈、つまり気の流れがあると。大地の気は風によって散らされてしまうが水によって集められる。大地のエネルギーは風に吹き込まれるのをきらい、水のあるところを良しとすると云う。水源をいくつも有する遠野盆地は、まさにエネルギーの発生源なのである。

遠野郷は、太祖山としての早池峰山を中心とする三山が鎮座し、鶏頭山と呼ばれ水源を有する薬師岳もまた、早池峰信仰を広まる為に役立ったものと思われる。「鶏が鳴く」というのは「吾妻(東)」にかかる枕詞である。「鶏が鳴く吾妻」とは「太陽が昇る東国」の意でもある。盛岡側からは東峰と称された早池峰は、鶏頭山と呼ばれた薬師岳と並んでいた。これはまさに、古代太陽信仰の源である霊山だったのである。太陽と水の恵みによって人間が生きているのであれば、太陽信仰と水神信仰の合致はまさに生命の源。当時の人間が生きていく為には、必要不可欠な信仰と成り得るのだ。

「秀真政伝記(ホツマツタヱ)」という記紀の以前に存在したという書に、男神である天照大神の后神として、瀬織津比咩の名前が登場している。それがいつのまにか、瀬織津比咩は消え天照大神は女神となっているのは、どうしてなのか?もしかして、プラトンの「饗宴」に登場するようなアンドロギュヌスのような完全体としての神を作り上げた為か?もしくはダイアナ←→ヘカテという、光と闇、静と動、愛と憎しみという二面性の性格を持った女神のように、天照大神を主人格とした女神に変化させ為に、瀬織津比咩が表舞台から消えたのかもしれない。

ここでの二面性は、まざまざとした生を体現させる太陽を司る天照大神と、人の悲しみ怨みなどを黄泉の国へと運ぶという死を匂わせる裏舞台に潜むシステムの滝と水を、そして桜を司る瀬織津比咩との合致である。だからこそ、早池峰神社では瀬織津比咩と共に天照大神が祀られ、太陽の神格化である早池峰山と、水と滝の、そして桜の神格化である薬師岳の合致により強力な支配力を発揮させる為であったのだろう。

そしてもう一つ、早池峰神社に祀られている観音様は何?それは、十一面観音である。白鳳時代から密教の流入は、従来の観音信仰を大きく変えた。そこに現れた「変化観音」は、不可思議な神威霊力を振るう最強の仏神として、国家鎮護の法要に欠かせない存在となっていった。また瀬織津比咩も、最強の神としてエミシの国に祀られた経緯がある。要は、最強の神と観音のタッグコンビである。


「東大寺のお水取り」で執り行われる法要「十一面悔過法要」というのがある。悔過とは生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを、本尊とする観音の前で懺悔するという事だが、要は天下国家の罪と穢れを滅ぼし浄化する観音だ。つまり、瀬織津比咩の穢れ祓いと同格の観音なのだ。そして瀬織津比咩と違うのは、形としてハッキリ残る十一面観音を祀る事ができるというメリットだ。偶像を祀る事によって存在を明らかにし、その観音を信仰する事により”救済”という甘い言葉を振りかざし、その地の穢れを祓って浄化するという意識の現われが、瀬織津比咩と十一面観音だったのかもしれない。


薬師岳には水源があるのだが、遠野郷そのものにはいくつもの水源を有している山々があり、遠野盆地を形成している。古来から水場には龍が存在すると云われている。その龍が無数に発生し、龍穴であろう遠野盆地に帰結する。風水的な地形に於いて、まさに遠野は絶好の力の源なのである。

東北全体での丑寅の方角に位置する岩手の遠野に、蝦夷の力の源であると信じたであろう朝廷側が、何も策を施さずにいる筈もないであろう。瀬織津比咩が天照大神の荒神であるとは書いたが、荒神とは激しい霊威を発揮して人間社会に災いもたらすなど、畏れ敬うべき神である。そして水神でもあった、当時の強力無比な瀬織津姫を辺境の蝦夷地まで運び、蝦夷のパワーの源である山龍・水龍・龍穴を押さえる為に霊山であった早池峰山の麓に、早池峰神社として鎮座させ、さらに早池峰山を中心に広がる水龍(水脈)を朝廷側にとっての穢れ祓いをする為に、滝神として瀬織津比咩を祀ったのではと考える。

本来であるなら、広大な山脈を有する岩手山を中心とした奥羽山脈も候補となるのだが、北上山系であるコンパクトにまとめられた遠野郷には、有力な蝦夷である閉伊族もおり、馬産地であり、金も採れ、鉄の産地でもあった。つまり、蝦夷の力の源であり、朝廷側にとってはやっかいな龍穴が、遠野郷であったのだろうと思う。

その瀬織津姫が早池峰山を中心に信仰され、その瀬織津比咩を祀っている社の数が岩手では23社。青森1社。秋田1社。宮城1社。山形2社という数を見てみても、改めて岩手にこれほど集中しているというのは、驚きである。それは、朝廷側から見た場合、鬼門である丑寅の方角である東北の中で、更なる丑寅が岩手の地であるからだと思う。つまり鬼門中の鬼門が岩手なのだ。だからこそ、朝廷は長年恐れおののいていた鬼門を押さえるための呪法を施したのではないかと推測するのである。蝦夷を倒した坂上田村麻呂が毘沙門天として、蝦夷の呪いを押さえ魂をを平定させる。そしてその蝦夷の地と蝦夷の魂を鎮魂し浄化させるという瀬織津比咩を配し、いやそこに、天照大神である太陽神としての合致も含めて、二重、三重の呪法が、この岩手の地に施されたと考えてしまう…。
by dostoev | 2010-11-24 19:38 | 早池峯考 | Comments(8)

笠通山…。

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笠通山がカムナビとして構える綾織地方では「夜に笛を吹くと風を呼ぶ。」というのがある。これを逆利用?して、昔は秋の収穫の時、脱穀やら何やらでゴミが多くでるので、それを全て吹き飛ばす為に夜、みんな集まって口笛を吹いたそうである。

また別に青笹地方では「夜に口笛を吹くと嵐が来る。」というのがある。とにかく綾織地方では、口笛はやたら吹くものじゃない、吹くなら秋の収穫時にみんなで吹くのだと。ところで笠通山の名前の違和感があり、笠通山の笠を風と変えて表してみると、風通山(かぜのかようやま)とスンナリと感じる。

風に関する記述が「日本書紀(神代下)」にあり、海神がヒコホホデミに向かって、風招の方法を教える箇所があり、海辺に立ってヒコホホデミがうそぶくと、海神が沖つ風、辺つ風を起こして、波を立てるという。「うそぶく」というのは、口をすぼめて息を吐く動作なので、口笛も同じ。

岩手には北限の海女が久慈にいて、その海女の習俗に「海女の笛」がある。これは風招きの習俗で常世の風を呼ぶものだという。つまり、古来から風はこの世のものならぬものとして扱われてきたようだ。

考えてみると遠野という地は、早池峰山という霊山を拠点として内陸・沿岸から人々が集まった場所。また遠野の人々は、沿岸の大槌町と交流が深く、過去に遡ってみても、数多くの婚姻がなされたらしい。市場での交流も含め、血縁となった沿岸地域の文化の流入&定着も考えられるかもしれない。

それと大抵の文化は山伏が運んだものとされるが、その山伏の創始者たる役小角のルーツは、宗像海人からなので、海女の吹く”常世の風”という意識が流れ着き定着してもおかしくないような気がする。ちなみに「海女の笛」というのは、海中から海面に海女が顔を出して「ふぅ~!」と吹く息吹の事。 つまり「大祓祝詞」の氣吹戸主に繋がるのかもしれない。

下記↓は「大祓祝詞」の抜粋


荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に座す速開都比賣と云ふ神 
持可可呑みてむ此く可可呑てば 氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神 根の
國底の國に氣吹放ちてむ 此く氣吹放ちてば…。


風を調べていたら「日向地方妖怪種目」というものに、宮崎県では風は妖怪の一種と思われていたようで、決まったところから吹く風は妖怪の一種みたいなもので、そこを通った者は気持ちが悪くなるものだと。そして、その伝承の痕跡を残しているのは山形県の飛島で、西北から吹く風を”タマ風”
と呼び、その”タマ風”が海上の”亡魂”を吹かす風なのだと…。

そして「フウ」とは、虎の吼える声を表したものだと。「西遊記」には「風の鳴るは、山猫の
来たれるなり…。」「北越雪譜」に登場する化け猫も、暴風雨を伴って登場する事から、多分これらの伝説が伝わったものだと思う。ここで笠通山に、何故妖怪キャシャが登場するのか繋がってきたような気がする…。

風に関するアイヌの文化…。アイヌ文化には遠野と同じように、ヤマセに対する懸念があったようだ。ちなみに「ヤマセ」とは東風(コチ)で、鮭はヤマセが吹くと川に戻ってこないそうだが、鮭が入ってくるように盛大な祈願祭をしたそうである。

コタンの若者4人は、それぞれ風の神の役割を演じさせられたという。西風・南風・北風は善神であるから、良い着物と、良い冠を付けるが、東風は悪い神だから、ボロボロの着物や冠をつけ、髪を振り乱している。祭りはまず東風の神が舞いながら祭壇に登場し、やがて美しい衣装を身につけた他の神々も、それぞれの方角から舞いながら登場する。

東風の神は、群集の間を跳ね回り、砂をかけ、乱暴を働く。他の神は東風の神を三方から追い込む。
東風の神は着物を濡らしながら、海中を逃げ回り、そのあげく最後に岸に這い上がり、他の神々や会衆一同の前に平伏して許しを請い、それでお祭りは終わるというもの。

遠野地方も東風であるヤマセに悩まされたのだが、ヤマセとは正確には東北方面から吹く風である。そして、その風を起こすものは山々、とくに高山だと思っていたふしがあり、遠野における早池峰山は北に聳える。だからか遠野では、風を鎮める呪術よりも山を鎮める呪術が盛んだったのかもしれない。

「風を切る」というのは「悪しき風を切る」ものと考え「古事記」の応神天皇の条に、天日矛が新羅の国からもたらした宝物の中に「風振る比礼、風切る比礼」の二種類がまじっていたそうな。風を振る比礼は、帆船を走るらせる為に風を起こさせるもので、風を切る比礼は、風を切って進むもの…。

実は単純に思いがちだけれど、この「風を切る」という行為はやはり、悪しきモノを切るという概念のようだ。つまり帆船の進行を妨げる、悪しきモノを切る為の「風を切る比礼」という宝物なのだろう。古来の神は、ただ祟りを成す存在として崇め奉られ、その神は自然の様々ものに宿る。その中で、山は大きな神であり、天候も司る神に見立てられたようだ。

綾織の笠通山も、遠野の早池峰山もしかり、悪しき風を吹かせて民を困らせる荘厳な神である為、民衆は自分の生活を守る為に山々崇め奉ったのだろう。

綾織の笠通山の笠という文字は風に通じ、またハヤチネもしかり。今では早池峰という漢字をあてられているが、東風(コチ)というように、早池峰の語源もハヤは速開都比賣(ハヤアキツヒメ)と云ふ神や速佐須良比賣(ハヤサスラヒメ)と同等のハヤであり、チは東風のチ、峰は古来から山を示すものなので、神的な風を吹かせる山として存在したのだと思う。

現在、早池峰の語源にはアイヌ語のパハヤチニカが有力だとされるが、実際早池峰山山頂に立ってみると、その風の威力をまざまざと感じ、神を見る。これは早池峰に登ってこそ感じるものだ。ヤマセという風を吹き出す山としての早池峰は、古来から祟りを成す神としての山であるからこそ、早池峰信仰が盛んだったのだと考える。
by dostoev | 2010-11-19 20:02 | 早池峯考 | Comments(0)

風を必要とする伊豆神社と早池峰山

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「寅は猛獣にして風を司る故に、寅の日を祝ふは刀工の常なるべし。

  寅年寅月寅の日に打たれる刀を三寅と号して、伊豆権現に納めしとなり。」



という記述が「七部集大鏡」に書き記されている。考えてみると、伊豆神社には火牟須比命…要は、迦具土神が祀られており、当然鍛冶の神であり、火の神だ。そして更に、伊豆神社の開祖は役小角であるので、山伏系の色合いが濃い筈。

遠野の来内にある、伊豆神社は早池峰山へと一直線に伸びているというのは有名な話。元々の遠野三山が「早池峰山」「薬師岳」「天ヶ森」で、それが一直線に繋がるのであれば、何を意図するか見えてくるような気がする。

風は古来から、全国各地で魔物と称されて忌み嫌われたようだ。東風(こち)の風(ち)は早池峰の「ち」に通じ、風を起こし災害を成す山として、早池峰を鎮める呪術も昔からおこなわれてきた。しかしこの感覚は、あくまで農業に携わっている人々の感覚で、鍛冶師などは野だたらをおこなうのに風を必要とした。

奥州藤原氏が滅ぼされ後、この遠野の地を治めた阿曽沼氏は、まず開拓を行ったという。弥生文化が流入してから、稲作文化も当然の事ながら発展はしつつあったが、蝦夷が朝廷に対して貢納した品々は、熊皮や葦鹿皮、昆布などであったそうだが、特に重視したのは砂金と蝦夷馬だったという。

遠野の高瀬遺跡からは、登り窯を使う須恵器製作の職人集団や、鉄器の鍛冶工房などがあった事から、まだ稲作一辺倒では無かったのだろう。つまり風を忌み嫌う感覚は、当然ヤマセの影響を懸念する稲作中心の人々であり…。まあヤマセが吹けば当然、山々の木の実の収穫も当然落ちる事となるが、それでも完全に稲作文化の人々よりは懸念は少ないと考える。そして高瀬遺跡からの発掘調査でわかるように、脈々と藤原氏滅亡時代までの間、鍛冶工房は続けられたのだと思う。

鍛冶師にとって、風は必要なもの。ましてや古代では、風は山が起こすものと信じられていた。早池峰の語源に、アイヌ語のパハヤチニカとか、早池の水の伝説などが、今の時代に伝えられているが、実は伊豆神社から早池峰山に結ぶ一直線とは、風を起こし鉄を作る力となす為に、伊豆神社が創られたのではないか?とも考える。

寅に関するものは、遠野には少ないが、寅舞いなどは沿岸の地域に密接に繋がっている。「寅は風を司る」為に、漁師は風を読み、寅を信仰した。しかし沿岸には、早池峰信仰もまた多い。漁場の指針となった早地山でもあるが、風を起こす大元の山でもあったので早池峰を祀り、ある時は鎮めたのだろう。当時の遠野郷には、沿岸地区も入っていて、貢物に昆布もあった事から、現在の沿岸地区と遠野地区をまとめて遠野郷となっていた筈だ。

沿岸地区には早池峰と共に六角牛山を祀る風習が今でもある。これも早池峰山と同じ理由からであるが、元々六角牛山には住吉神を祀っていたのは、沿岸地区も遠野郷であったのだろう。つまり昔の遠野郷とは、風を起こす山を祀る風習が当然あり、風を祀る鍛冶集団がやはり迦具土神を祀る伊豆神社を建立し、その風の大元である山、早池峰信仰の発端となったのが伊豆神社ではないだろうか?

補足すると12月12日は山神の日だが、十二様とは寅の額の王の字を現すものだとも伝えられる。山神を祀る山伏系の人々も、沿岸の人々だけでなく寅を祀ったものと考えるのだが…。
by dostoev | 2010-11-19 19:52 | 早池峯考 | Comments(0)

パハヤチニカの否定!

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カムナビという山の概念が全国に広がっているが、カムナビという山は、大抵の場合そんなに高い山というわけではなく、どちらかというと低い山に位置する。それだけ里に近付いた山であり、里の人々に親しまれる山がカムナビだ。

ところが、その地域の高山は大抵の場合、畏怖される存在となっている場合が多々ある。昔の神は、祟りだけを成す存在で、恩恵などはまったくなかった。それが山であれば、ただ里の人々はその祟りを鎮めるに終始しただけであった。それが中世に入ってから、ご利益を与えるのも神の仕業に変えられたらしい…。

東北で一番恐ろしいのは、ヤマセという北東の風だ。この風が吹くと、冷害が起きる。昔は対抗する術も無い為に、人々は収穫を諦めて、夏の前に生まれた赤子などは「どうせ死ぬから…。」と、親は自ら小さな命を摘み取ったのだと云う。

風を起こすのは、古来は山であると信じられてきた。遠野地域においては、その存在が早池峰山であった。ハヤチネとは、早い風を起こす峰と考えてもよいと思う。

語源辞典で調べると、疾風の「はや」は、早いの意味で「て」は風を現すと。漢字では「疾風」の他「早手」とも書かれ「はやち」とも呼ばれる。 「峰」はそのまま山の意でもあるので「ネ」でいいだろう。つまり古来は「疾風峰(ハヤチネ)」と呼ばれていたではないだろうか。

「風」を「ち」と読む例は「東風(こち)」に見られる。江戸時代には、かかるとすぐに死ぬという意味から、疫病の病名として「疾風」が使われいたのだという…。

また九州において、風は妖怪の一種と思われていたようで、決まったところから吹く風は、妖怪の一種みたいなものであるという認識があったようだ。石は不変なものであるという認識の元、蛇紋岩が隆起してできあがった早池峰山は、まさに不変な岩山。この不変な早池峰山から吹く風は、妖怪という認識の元、忌み嫌われていたのかもしれない。だから鎮める呪術がおこなわれたのだろう。昔はとにかく、神も魔物も災いを成すものとして同一視されたからだ。


現在、遠野の観光案内の殆どが「早池峰」とは、アイヌ語の「パハヤチニカ」というのが語源だろうと説明している。これは先人の伊能嘉矩の説を前面支援している為だ。ちなみに「パハヤチニカ」とは、東方の脚という意味らしい。これ以上先には、これ以上高い山は無いという意味とされてきた。

しかし岩手に住んでいればわかるのだが、この早池峰の北西に聳えるのが岩手山という、早池峰より更に高い山が存在する。この岩手山の高さは、早池峰山頂からもハッキリとわかる。なので「これ以上先には高い山は存在しない…。」と古代人の誰もが考える筈も無いと思うのだ。だから自分は、このアイヌ語説をハッキリ否定したい。
by dostoev | 2010-11-19 19:47 | 早池峯考 | Comments(0)

早池峰山の魔

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昔、風は山が起こすものだと信じられてきた。その風が作物に対し被害を与える為に、人々は山を鎮める手段を講じてきた。また山から吹く風は、妖怪とも思われてきた。やはり強い風、冷たい風は
人々に被害をなす為だ。

里に春が訪れ、長い冬が終わったものだと浮かれる人々に、高い山は祟りを為す。里山に近い低い山は、里に恵みを齎す親しみがわくカムナビの山としてあったが、早池峰山みたいに高く屹立した山は、畏怖の対象だった。

現在、5月半ば過ぎ。里には春が過ぎ、夏の日差しを感じる頃である。桜は散り、代わりに新緑の頃を向かえ、いずれ訪れる夏を思い起こす頃だ。

ところが高山である早池峰の頂には、まだ雪を宿しており、雨は雪に変化する。そこで誕生する空気は、雪の冷たさをまとった冷気である。その冷気を早池峰の山は蓄え里に放出する。すると、春の暖かみ、夏の日差しの暑さを感じる人々は、その極端な違いに震え上がる。何故この時期に、これだけ寒いのだろう?

この頃に吹きすさぶ、冷たい冷気は、未だ早池峰が冬を宿している証拠だ。浮かれている人々に対する嫉妬心からか、その冷たい冷気を里に運び叫ぶ。

「遠野の民よ、今はまだ冬だ!山は、開けていない!」
by dostoev | 2010-11-19 19:41 | 早池峯考 | Comments(0)

早池峰山と火葬の話

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遠野南部では、宗詣の関係から甲州以来、代々火葬をもって葬られてきたという歴史があった。それで家臣達の主だった者達も、それに準じて火葬を行ってきたのだと。ところが遠野に移ってきて、困った事になったという歴史がある…。

遠野領民の一番の信仰の対象が早池峰山であり、早池峰山の山霊が、屍骸を焼く煙が嫌いなのだという迷信が蔓延っていたのだという。その領地を統治するという事は、その領地に根付いている信仰も容認しなければならない為に南部の連中は困り果ててしまったのだという。その迷信とは、早池峰山が開いている3月の中旬から、山閉じの9月の中旬までの間、火葬厳禁となっていたそうな。なので火葬が家例となていた南部家の困りようがみえるようである。

寛文元年の7月、弥六郎直義の夫人、松晃院が亡くなり、さて火葬という時の遠野では、例え誰であろうと火葬はご法度となっていた。そこで、領主となった南部は、どうしても火葬を土葬に変えるわけにいかないと相談の結果、僧侶や山伏達を沢山集めて、早池峰山に許しの祈願をし、その上で現在の新穀町にあった感応院で火葬する事にしたのだという。

その火葬の当日、僧侶、神官、山伏が集まって色々早池峰様のなだめの祈願をあげた末に、葬儀となったそうな。読経も済み、和尚の引導も終わり、いよいよ火屋に火を放とうとした瞬間、今まで一点の曇り無く晴れ渡っている空に、突然黒雲が湧き出したのだという。それが葬儀の場をみるみる真っ黒に覆ってしまったのだと。

そしてそれと共に、転地も砕けるかという雷鳴が鳴り響き、目も眩むかという稲妻が走り、あたかも天地がひっくり返るかのような情景になってしまったという。その黒雲の中に、何か怪しいものが居て、屍骸を納めた棺に襲い掛かろうという気配を見せたので、警護の武士達は叫んだという。


「さてこそ早池峰様のお怒りか。これこそ話に聞く魑魅魍魎をお遣わしになって、
 御屍骸を奪わんとせられるのか。それにしても御屍骸を奪われては一大事。」



警護の武士達は、皆々太刀、長刀、槍の鞘を払って自刃を空にかざして、弓や鉄砲などは穂先や銃口を揃えて頭雲をめがけて攻撃が火蓋を切ったのだと。臨席していた大勢の僧侶や山伏達は悪霊退散の祈願を唱えていたそうだが、ほどなくして、その葬儀の場を覆っていた黒雲は消え去り、空は元通りの晴れ間が広がったのだという。

この時以降、南部の時代となっての火葬は、遠野ではなく大迫まで屍骸を持って行き、火葬をあげてから再び遠野に持ち帰り大慈寺で葬儀を行うようになったのだという…。
by dostoev | 2008-07-04 17:18 | 早池峯考 | Comments(6)