遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:安倍氏考( 8 )

北(あべ)

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遠野の北に聳える早池峯山の上空には、北極星と北斗七星が輝く事からなのか、北辰であり妙見信仰とも結び付く山である。その早池峯山にはいくつかの安倍氏の伝承が伝わっているのも、安倍氏が早池峰信仰をしていたからに他ならない。そしてその安倍氏の出自が、未だにわかっていないのが現状だ。

安倍氏は蝦夷の豪族である事から、もしかしてアイヌの血を引いているのではないかとされたが、平泉金色堂に祀られていた安倍氏を祖とする奥州藤原氏のミイラのDNAを解析したところ、アイヌ系のDNAは無かったようである。また神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として長髄彦がいるが、その兄弟である安日彦(あびひこ)が安倍氏の祖ではないかとも云われる。安倍は「アビ」であり、火を意味するという。それが確かなら、安倍は火を意識して作られた氏名という事になる。

ところで気になるのは、早池峯がかなり北を意識された山であるという事。ただ、早池峯の古くは東峯という山名だったという説は、以前に自分が否定した。東とは太陽の昇る意を含むもので、現実的にそれが適用になるには岩手県の内陸部である花巻地域から盛岡地域にかけて望む早池峯に限っての事である為、それは恐らく南部氏の意向を汲みとった山名であったと思われる。水沢の正法寺の裏山を早池峯と称して、毎年正月に参拝するのは、北に鎮座する本来の早池峯山の遥拝所であった為だ。また、大迫の早池峯神社の向きが、遠野の早池峯神社に建てられたのも、遠野側の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を遥拝する為だった。南部氏が力を示す以前に建てられた大迫の早池峯神社が北を意識していながら"東峯"という山名であったとされるのは、東という漢字の用法からやはりおかしいのである。
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日蓮宗総本山久遠寺の山号は、身延山(みのぶさん)である。その身延山の山号は、妙見にちなんでいるという。その身延(みのぶ)とは「みのべ」の転訛であり、本来「みなのあへ」からきているとされる。「みなのあへ」の「み」は「三」であり、「な」は「四」であると。四三の星(しそうのほし)と呼ばれる星があるが、これは古くから伝わる北斗七星の古語になる。三と四の組み合わせで浮かぶのは、北斗七星。身延山が妙見を意識してのものならば、それはすんなり受け入れられる。そして「みなのあへ」の「あへ」とは、「北」そのものを云う言葉であった。「あへ」は濁点が付いて「あべ」にも転訛する。つまり「あべ」という言葉そのものが古来、北を意味していたという事になる。「あべ」が「北」を意味する言葉であるなら、"安倍貞任""魁偉"という北斗七星を意味する名称で呼ばれた事も、すんなり受け入れられるのだ。そして北に鎮座する早池峯山に、やはり北そのものを意味する安倍氏の伝承が存在するのも当然の事であった。
by dostoev | 2017-01-21 13:16 | 安倍氏考 | Comments(0)

鳥海(とみ)

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上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。
故伊能先生は、鳥海とあてるのだと言われ、よくこの池の話をした。

ここも昔から人の行くことを禁ぜられた場所で、ことに池の傍らに行
ってはならなかった。これを信ぜぬ者が森の中に入って行ったところ
が、葦毛の駒に跨り衣冠を著けた貴人が奥から現れて、その男はた
ちまち森の外に投出された。

気がついて見れば、ずっと離れた田の中に打伏せになっていたという。
もう今ではそんなことも無くなったようである。  「遠野物語拾遺36」

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このトンノミと呼ばれる地には画像の様な池があり、白山神社が鎮座し、白山姫が祀られている。そしてこのトンノミは、伊能嘉矩曰く「鳥海」とあてるのだという。ここで単純にイメージできるのは水辺の鳥となるのだろう。

この鳥海を調べると「トンノミ、トリウミ、トミ、トビ、トオノミ、チョウカイ…。」などと読む。どれにしろ「鳥」に関するものなのかとイメージしてしまう。

このトンノミの南側には鳥海舘跡があり、安倍一族の関係が深い。その中でも特に鳥海三郎と呼ばれた安倍宗任との結び付きを意識してしまう。また鳥海といえば秋田県に鎮座する鳥海山があるが、やはりそこにも安倍宗任の伝説は伝わる。鳥海と安倍宗任の繋がりとは、なんであろうか。
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古代において鳥の印象が強いのは、ヤマトタケルが死んで白鳥となり飛び去って行くシーンもあるが、もう一つ「神武前記」の記される金色の鵄(トビ)の逸話だろう。

「皇師遂に長髄彦を撃つ。連に戦ひて取勝つこと能はず。時に忽然にして天陰けて氷雨ふる。乃ち金色の霊しき鵄有りて、飛び来り皇弓の弭に止れり。其の鵄光り曄煌きて、状流電の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒皆迷ひ眩えて、復力る戦はず。長髄は是邑の本の号なり。因りて亦以て人の名とす。皇軍の、鵄の瑞を得るに及りて、時の人仍りて鵄邑と号く。今鳥海と云ふは訛れるなり。」

この一節には、鵄が鳥海に転訛した事を伝えている。つまり鳥海三郎は鵄三郎でも同じであるのだろうか?ところで黄金色に輝く鵄だが、似た様なものに「伊勢風土記逸文」の一節がある。

「神武は時に、金の烏の導きの随に中洲に入りて、兎田の下県に至りき。」

八咫烏が神武天皇を導いた話は有名だが「伊勢風土記逸文」においては、それは金色に輝く八咫烏であったようだ。「神武前記」の金色の鵄を一般的に太陽の象徴であり、日の神の使いと見ている学者が殆どのようだ。ただここで考えてみたいのは「古事記」や「日本書紀」が、太陽神であろう天照大神を中心とした信仰体系を作り上げた書物であるという事。そこには太陽に関するものがいくつも散りばめられている可能性はある。長燧彦が登場する金色の鵄の逸話など、まさに太陽には逆らえないものと捉える事ができるが、果たしてそれは本当なのだろうか?古代は、太陽暦ではなく太陰暦が中心であった。そして晴れて太陽暦を導入したのは、天照大神と同一視された持統天皇時代からであった。それでもその頃は、完全に太陽暦となったわけでは無く、太陰暦を合わせて日々の運行を考えていたようだ。確かに太陽は尊い存在ではあるが、それ以外にも尊いものはいくつもあっただろう。恐らく金色の鵄も単純に太陽の象徴と考えていては、迷宮から抜け出せない可能性があるかもしれない。

ところで「日本書紀(神武前記)」には「頭八咫烏」とある。本居頼長「古事記伝」では、八頭烏で頭が八つあるとしているが、この説にはいろいろ反論があるようだ。頭が八つでは無く、頭そのものが大きいと判断する説もあるが、「頭」を「おつむ」とも言う事は本来「つむ・つむり」が語源となる。実は「つむ・つむり」の古くは銅鐸を意味していた節がある。
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三浦茂久「銅鐸の祭と倭国の文化」によれば、紡錘形をしたものを古代では「ツミ」と呼ばれていたとある。となれば頭もまた紡錘形のようなものであり「御つむ」と呼ぶのには、何等可笑しくは無いだろう。ところがこの「つむ」が「とび」に変化したのではないかと説いている。先ほどの「頭八咫烏」もまた銅鐸を暗示するものであろうとしているのは、その八咫のサイズがもしも銅鐸なら現実味を帯びるであろうとしているが、確かにそれは納得してしまう。銅鐸には「鳴る銅鐸」と「照る銅鐸」があるというが、まさしく金色に光る鵄も、金色に光る烏も照る銅鐸であれば、光の象徴として弓の先にも付けられるだろう。
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先に記した「神武前記」において、鵄に対し「トビ」と仮名を振り「鳥海」に対し転訛し「トミ」となっているが、どうも「トミ」の読みが実は古いようである。つまり「トミ」が「トビ」に転訛したのが正しいようだ。その「トミ」は「ツミ」からの変化である可能性がある。例えば「和名抄」によれば、小型の鷹を「ツミ」と言い、ハシタカを「ツブリ」というのも、鷹や鷲が木の枝などに止まっている姿勢が紡錘形の銅鐸をイメージしていたようだ。

ただし「鳥海(トミ)」がそのまま銅鐸を表すのではなく、「トミ」の更なる語源「ツミ」の意味を引きずってのものだろう。ちなみに「ミナカタトミ」の「トミ」も「ツミ」の転訛としている。「ツ」は乙類の「ト」に、あまり無理なく変化するものとされている。そして「ツミ」ですぐに思い出すのが「ワタツミ」や「ヤマツミ」の神々だ。そして気になるのは「海」と書かれたものは「海洋」を意味している場合が多いという事から「鳥海」が「トミ」であり「ツミ」であるなら、その「鳥海」を冠した安倍宗任とは、やはり海人族であった可能性は高いだろう。安倍一族を調べると海の習俗を感じるのだが、その安倍一族が海の無い奥六郡に封じ込められたのは、安倍一族の力を恐れ、それこそ翼をもがれた鳥のように仕向けた為ではなかったのか。鳥海三郎という名は、海人族の名残を表した矜持であったのかもしれない。
by dostoev | 2012-08-02 21:20 | 安倍氏考 | Comments(0)

「鎌倉」(神功皇后と蝦夷の血)


 七里ヶ浜の磯づたい
  稲村ヶ崎名将の
  剣投ぜし古戦場

 極楽寺坂越え行けば
  長谷観音の堂近く
  露坐の大仏おわします

  若宮堂の舞の袖
  しずのおだまきくりかえし
  返せし人をしのびつつ

  歴史は長き七百年
  興亡すべて夢に似て
  英雄墓は苔むしぬ

  建長円覚古寺の
  山門高き松風に
  昔の音やこもるらん

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
え~新年から粗末な歌で始まり、申し訳ない。実はこの「鎌倉」という歌、鮫島有美子の歌で聴かせたかったのですが動画が見つからず、仕方ないので自分が雪の夜の誰もいない場所で歌ってみた。ただ歌詞は鮫島有美子バージョンで歌った為に、抜けている歌詞がある事と、何箇所か歌詞の間違いもあり、本当に申し訳ない(^^;

ところで何故に「鎌倉」という歌で始まったかというと、最近アイヌ語というか蝦夷の言葉が、大和の言葉と融合し始めたのは応神天皇の時代では無いのか?と書いたのだが、当然この「鎌倉」もまた、蝦夷言葉からでは無いだろうかと取り上げてみました。森下年晃「星の巫」では、縄文人は「影」の事を「クラ」と呼んでいたようで、更に「カマ」は「被われた」意となるそう。つまり「鎌倉(カマクラ)」とは「被われた影」もしくは「影で覆う」という意になるのだと。「影を覆う」となると更に深い影のようだが、これは歴史に被われ隠されてきた蝦夷の歴史を表す言葉のように感じた。奥州藤原氏を滅ぼし、完全に蝦夷世界を征服した鎌倉幕府の「鎌倉」とは、蝦夷の歴史を完全に覆った、なんとも皮肉な名称とも感じてしまう。

とにかくこの「鎌倉」の歌詞を読んでいると静御前や源義経、更に蒙古襲来で死んだ人々の魂が流れるよう。これら全て、蝦夷に繋がるものだという考えから、この「鎌倉」を紹介しようと思い立った。それはつまり、常に光が当たる為政者から逸脱し、虐げられた蝦夷の国を影と見立て、その影を更に覆ったのが「鎌倉」という言葉では無いのか?という事からだった…。

六角牛山の不動の滝には大瀧神社というのが以前あって、その下には住吉三神が祀られていた。この事から、大瀧神社に坐す神と住吉三神の関係を漠然と考えれば、やはり神功皇后時代を避けて通れないだろうと考えてしまう。宝賀寿男「神功皇后と天日矛の伝承」を読むと、様々な説を取り上げながら解説し、そして出た結論は、神功皇后と息長足姫は別人だという答えとなっている。まあそれはそれで良いだろうとは思うが、自分のスタンスで読んでいくと、別のものが見えてくる、それが妄想だとしてもだ。
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宝賀寿男氏の言葉を借りて言えば、息長足姫はいないという事になる。しかしそれでも息長氏は存在し、息長足姫という言葉は実在する。息長はまた踏鞴に関係する言葉であるとし、その息長氏がいたとするのが息吹山の麓である。そう、ヤマトタケルが死んだとされる地だ。 「蝦夷と和歌」でも書いたが、崇神天皇時代というのは侵略の歴史でもあった。この崇神朝で気になるのが、景行天皇成、務天皇、仲哀天皇全ての異称に「たらし」が付く事だ。まあ垂仁天皇の「垂」も「たらし」と読んで良いのかもしれない。存在しない息長足姫が最終的に、その「たらし」天皇の面々である崇神朝を滅ぼしたというのは、ある意味「たらし」を支配した人物であり、新たな応神朝をもたらした人物と捉えても良いのだろう。

仲哀天皇などは父親がヤマトタケルであるから、ヤマトタケルは息吹山に住むモノ(息長氏)に殺され、仲哀天皇はある意味、神功皇后である"息長"足姫に殺されたと言っても過言では無いだろう。つまりこれは「たらし」の支配者としての神功皇后の顔が見える。崇神朝を滅ぼした神功皇后が際立つのは、応神天皇を光らせる意味もあるのだとも思うが、その応神朝に繋がる中に、蝦夷の国との関係が見えるのだ。

「日本書紀」(日本古典文学大系)を読むと「応神冬10月」「伊豆國に科て、船を造らしむ。長さ十丈…。」とある。この伊豆という地域は当時、東国であり、蝦夷の国でもあった。突然に造船を蝦夷の国に頼む筈が無い。つまりそれ以前から、蝦夷の国との交流があったからこそだ。蝦夷の国を攻めた崇神朝であったが、戦いしながら通っただけで、征服には至らなかったのは理解できる。ただしその為に、蝦夷の国との交流は考えられない。ただどうであろう、神功皇后の三韓征伐においては、大船団を組んだ。その造船には当然、蝦夷の国との交流があってのもので、蝦夷の国で造られたものではなかったのか?

崇神朝の中での「たらし」の異称を持つ天皇が、何故に3人なのか?これを考えるに至って、いつも登場するのが住吉三神である。神功皇后の異伝に、海を渡る時に大牛が登場し、それを住吉の神が翁となり助ける話がある。神功皇后の、守護神たる存在でもある。その住吉三神は「表筒男・中筒男・底筒男」となるのだが、これはオリオンの三つ星に例えられる場合が多い。「日向國の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神有す」とあり、水底にいて若々しい生命力とは、オリオンが毎日海から現れるからだと云われる。しかし太陽と同じにオリオンも沈むのであるのは、毎日の死を経験しているという事だ。ここに御霊信仰を絡ませれば、神功皇后が滅ぼした崇神朝の三人を住吉三神として祀ったと考える事も可能だ。つまり「三人の"たらし天皇"」は、住吉三神に宛がったと考える。田中卓「住吉大社神代記の研究」を読むと、住吉神は"現人神"であるとなる。現人神の本来が生きた人間であるならば、それは誰が住吉三神になったのであろうか?それはやはり、崇神朝の3人の天皇に他ならないだと考える。その3人を従えたのは神功皇后であり息長足姫であり、もしかして「日本書紀」「神功皇后三月」で神を呼んだ筆頭の神「撞賢木厳之御霊天疎向津媛命」であるのかもしれない。
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神功皇后架空説は未だに根強いが、その中に「女が鎧に身を固めて出陣する筈が無い」というものがあるが、これは江上氏「騎馬民族国家」において「一般的に遊牧騎馬民族では、婦女子の地位が男子と対等である場合が多く、ことに君長の后妃は、政治にも軍事にも大きな発言権を持っていて、容喙・関与する慣習があった。」と記している。ここで、応神天皇の八頭の馬の伝説がクローズアップされる。「魏志倭人伝」によれば、倭国に馬はいないと記されているのだが、東北からは1万年前の馬の骨が発掘されている。つまり東北には、かなりの永い間に馬の文化があったのだろう。それは東北の文化が、騎馬民族と通じていたという証になるのかもしれない。例えば蒼前(そうぜん)神社は、東北にしか無い。蒼前とは、騎馬民族の伝説の葦毛馬であった。その騎馬民族の文化と気概を受け継いだ可能性のある神功皇后であるから、鎧に身を固め、自ら出陣した可能性を示唆しているのが「神功皇后記」なのかもしれない。となればだ…ここで一気に妄想が噴き出すが、神功皇后の生んだ応神天皇とは、疑われるように仲哀天皇の子供では無く、蝦夷の国の誰かの血筋を受けたものであると考えた方が自然だ。それ故に、神功皇后より250年もの間、雄略天皇を省けば450年もの間、蝦夷の国に攻め入る事は無かったのだろう。
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住吉三神を祀る六角牛には、当然の事ながらオリオンが昇る。住吉三神を祀る自然土壌は、あったのだ。その住吉三神を祀ってあった更なる上座である大瀧神社には、先に記した神功皇后、もしくは撞賢木厳之御霊天疎向津媛命が祀られているのだろうと想像できる。

話が神功皇后や住吉神に脱線したが神功皇后の中に、どこか蝦夷の国の息吹を感じるのは、史書の中に、どこかで歴史に語られぬ蝦夷の国の断片を散りばめているからなのだと感じる。「鎌倉」で歌われる歌詞には静御前に源義経と、やはり蝦夷の国に関連する人物。また最後の歌詞に登場する「円覚寺」とは、蒙古襲来において、敵味方関係無く、死んだ人々を供養する為に建立された寺であるという。

蒙古襲来といえば、防人として九州に連れて行かれた蝦夷の人々が最前線で戦い、また氏族として活躍したのが、遠野とも縁の深い菊池氏である。また蝦夷の国の文化の交流があったであろう騎馬民族であるモンゴルは「義経北方伝説」が伝えるように、源義経が大陸に渡ってチンギスハンになったというもの。また蒙古襲来時には、真っ先に日本の神々に祈願したというが、真っ先に呼ばれた名は神功皇后が呼んだ「撞賢木厳之御霊天疎向津媛命」であった事。こうして考えると、蒙古襲来においても、血を流し続けたのはやはり"蝦夷の血"であるのだと感慨深くなってしまった。それ故に脱線が長びいたが、正月早々この「鎌倉」という歌を紹介したいと思った次第でしたm(_ _)m
by dostoev | 2011-01-01 19:20 | 安倍氏考 | Comments(2)

蝦夷と和歌

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伊能嘉矩「遠野史叢」を読むと、不思議な伝承が紹介されている。猿ヶ石川の語源となる伝承であるのだが、古代の遠野では容貌麗しい14,15歳の少女を官女の教育を施す為に3年の間、和歌などを習わせていたという。その時に、現在でいう岩手県山田町から来た左内という男と、官女候補の清滝姫が恋に落ちての歌が記されている。

【左内と清滝姫の歌】

雨ふらで植えし早苗もかれはてん清滝落ちて山田うるおせ(左内)

及びなき雲の上なる清滝に逢わんと思う恋ははかなし(清滝姫)

かけはしも及ばぬ雲の月日だに清きけがれのかげはへだてぬ(左内)

よしさらば山田に落ちて清滝の名を流すとも逢うてすくわん(清滝姫)



何が不思議かと言うと、一般的に東北はズーズー弁であり、清音では無く濁音が多い。しかしこれはあくまでも声を出して発音する場合なのだろう。言葉が訛っていても、書に記す時は"清音"となるのが普通なのだから。また、田舎と認識する遠野に於いて、官女を養成するなど考えられない。また文化的な和歌を教える地などある筈が無いだろうという先入観もある。しかしここで思い出したのは、安倍貞任が衣川の戦いに於いて敗走する安倍貞任を、源義家が馬で追いながら歌を投げつけたシーンだ。


「衣のたて(館)はほころびにけり」


と歌の下の句を貞任に投げつけたところ、安倍貞任は振り返り、にっこり笑い上の句を返した。


「年を経し糸の乱れの苦しさに」    


義家は貞任の返歌を聞いて、唖然としつつも感動したという。当時の蝦夷は、無知で卑しいというイメージがあったのが、この返歌により払拭されたのだった。ところでだ、言葉の統一は明治時代になってからだ。それも学校教育が徹底され、ラジオ放送が普及してやっとだ。現代においても、訛りが酷い場合、まったく理解できないのだが、不思議に手紙や…今であれば、メールで言葉を伝える事かができる。また訛りが酷い人間がカラオケで普及している歌を歌ったとして、そこには訛りは介在しない。つまり古代において和歌とは、そういうものではなかったのか?

今から100年以上前、会津と薩摩が同盟しようとしたが、言葉が通じない為に和歌を通して会話したという逸話がある。筆談でも出来たであろうが、確かに和歌の方が手っ取り早い。ただし、和歌の教養が無ければ出来ない事であった。

話しを貞任の時代に戻すが、何故に安倍貞任は和歌の教養があったのかという事だ。源義家は、日本の中央から…つまりある意味"都会"から来たという自負があり、その都会で受けた教養に、田舎者は答える事が出来ないだろうと思っていたに違いない。しかし、貞任は答えたのだが、それは何故か?

ここで少し前に書いた「大和国のアイヌ語」を思い出した。応神天皇の時代、吾君(アギ)という言葉がアイヌ語を通して、やっと理解できたと云う話だ。

この応神天皇であるが、気になる伝説がある。応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したという伝説だ。しかし、この8頭の馬が、どこから贈られてきたのかわからない。ここに騎馬王朝説が被るのであるが、それは無理と言う証明も成されている。ただ、可能性があるならば蝦夷の地から陸路で運ばれ贈られたという事になるだろう。

崇神天皇以来ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていないのは、和平協定があったのではないか?また雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない理由が定かではない。ここで気になるのは、東北の神功皇后伝説だが、ここでは省こう。ただし、神功皇后時代から応神天皇の時代にかけて、日高見国であり蝦夷国との何かの密約があったのかもしれない。また蝦夷国といっても東北だけではなく、出雲夷もいた事から、蝦夷国は、もっと幅広く考えて良いだろう。

ところで話を戻そう。応神天皇時代の言葉…「日本書紀」に出て来るアイヌ語であろう吾君(アギ)という言葉が、何故に応神天皇時代以前に使われていないのか?それはつまり、神功皇后&応神天皇の時代から蝦夷国との繋がりを持ったからではなかろうか?となれば伝説の馬8頭は、応神天皇に対し蝦夷国が敬意を表する為に寄贈したものだと解釈すれば納得できる。

また文字であるが、渡来系の人種は、その習慣に則って文章を書き表す場合、漢文で表していた。ところが「万葉集」などでの「防人の歌」は漢文では無いのは何故か?例えば、聖武天皇の時代に蝦夷国で黄金が発見されたのだが、それに対する歌が詠まれた。

天皇の御代栄えん東なる 陸奥山に黄金(こがね)花咲く

実はここにダウトがある。黄金を「こがね」と読むのはアイヌ語であった。黄金(こがね)銀(しろがね)鉄(まがね)と読むのも全て蝦夷の使う言葉であった。聖武天皇時代以前に、日本で黄金は産出されていなかったのに、大量の黄金が陸奥から贈られた時に、その呼び名も伝わったものなのだろう。つまり「吾君」や「黄金」だけではなく、蝦夷の言葉の影響と融合は、応神天皇時代から、ふつふつと伝わっていたのだと感じる。

また和歌に関してだが調べると、どうも朝廷内では長い間「和歌は淫歌」であると軽蔑していたきらいがある。ところが宮中で公然と和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇時代からであるのは、やはり蝦夷の文化が入り込んだと考えて良いのかもしれない。何故なら考謙天皇は、蝦夷である安倍の血筋であるからだ。単純な話…例えば岩手県に何故、新幹線の駅が沢山あるか、それは当時の総理大臣が岩手県の人物であったからだ。時の権力者がトップに立てば、今まで避けて来た文化などを強権的に取り入れる事ができる。であるから宮中で和歌が詠まれるようになったのは、考謙天皇の力であったと考えて良いだろう。極端にいえば、和歌の文化的ルーツは考謙天皇にあったという事になる。

またこれは、あくまでも伝説ではあるが、和泉式部(岩手県)も、小野小町(秋田県)も陸の奥出身であるというのも本来、和歌というものは蝦夷国で栄えた文化では無かったのか?だからこそ、安倍貞任は源義家に対して、あっさりと歌を返した。遠野に伝わる清滝姫の和歌の伝説も、有り得ない伝説では無くなるのかもしれない。
by dostoev | 2010-12-29 20:51 | 安倍氏考 | Comments(4)

安倍の血

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遠野には安倍貞任伝説が、かなり存在する。故鈴木久介氏は、北東北の蝦夷の為、中央権力と戦って滅ぼされた安倍一族への讃仰と哀憐の現われから、遠野の人々は滅亡後も安倍一族を遠野に住まわせ、起き伏しを共にし、運命を共有したかったのである…と語ってはいたが、実際はどうなのであろう?

安倍貞任は、日高見の国の勇者というイメージだ。日ノ元将軍という呼び方もある。多賀城以北を日高見と言い、遠野はキタガメとも呼ばれたが実は、日高見(ヒダカミ)の転訛でキタガメとなったという。少々苦しい転訛であるが…となれば、この遠野の地にも当然安倍貞任の伝説が根付くのは当然で、もしかして事実として、遠野に安倍貞任が行き来していたのである可能性はある。

河童淵の東に、安倍貞任の末裔であるという、安部家歴代の墓石が連立する区画がある。墓碑銘は磨耗して読み取る事はできないが、家格は感じる。安部家は、江戸時代には安倍姓の肝煎り役を代々務めていたのだという。某氏は、阿部家は館屋敷であり、安倍頼時の六男、北浦六郎重任の屋敷であったという説を唱えた。
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また綾織町の胡四王屋号の阿部家も、遠祖を安倍頼時の四男正任としている。写真は胡四王の地に埋められていて発見された、阿部家に伝わる秘仏である阿弥陀如来の仏像。胡四王といえば、綾織の阿部家は元々、小友は土室の胡四王という土地から移り住んだという。そう、小友にも安倍貞任の伝説は多い。それと共に胡四王そのものが物部氏との深いかかわりを示すものだ。

阿部家が住む綾織には石神神社があるが、この石上神社には物部氏の匂いが色濃くでている。また物部氏との結び付きを感じる奥州藤原氏には、切実なる安倍の血を望む行動があった。二代目藤原基衡の正室は安倍貞任の弟、宗任の娘である。この婚姻には、清衡の意思が大きく働いている。宗任は敗戦の為大宰府まで娘ともども流されたのだが、清衡は、その宗任の娘をわざわざ太宰府まで迎えに行って、息子である基衡の嫁としている。そこまでさせる安倍の血とは…。
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安倍の血を調べるにおいて、必ず出てくるのが胡四王神社だ。胡四王神社は、北に向けられて建立しているのが特徴だ。一般的には、朝廷側の北方鎮護の意味合いであろうという事だ。ただ「北天の魁」の著者菊池敬一氏は胡四王神社について、こう語っている。

「胡四王神社は征服者と征服された者の関係を現した神社だと。花巻市の胡四王神社を見ればわかる。蝦夷を征伐した田村麻呂が建てたというが、北向きに建てられている。殺されて、追われて北へ逃げた蝦夷達が拝む為に建てられているんだ。そうでなかったら、国を守る四天王を祀る神社だから、南から来た征服者達が拝む為には、南向きに建てるべきだと思うがな。」と…。

例えば、早池峰神社は、その御神体そのものが早池峰山である為、本殿は南を向き、参拝する場合は本殿と共、その後ろに聳える早池峰山をも拝むという形になる。つまり北向きに建てられているという事は、背後の南を拝むという事にならないだろうか?

秋田市の胡四王神社は「日本書紀」の斉明天皇4年4月に安倍比羅不の蝦夷征伐の時に、齶田の蝦夷の恩荷が官軍に降服し、その際恩荷の誓った「齶田浦神」は蝦夷の信仰対象として秋田城遷置以前から存在したという。この在地の神が胡四王神社ではないかという事である。さらに現在の北陸、新潟地方の「越」の在来神が日本海沿岸地域で広く信仰され、北進して出羽の国に及んだものとして、胡四王は「高志王」「越王」に通ずるとも云う。その後、秋田城が遷置され、場内に四天王寺が置かれると、それが結びついたのではという事らしい。

天長7年に秋田城の付近で大地震が発生し、四天王寺と四王堂舎などが倒壊したとある。ただ四天王寺よりも古くに四王堂舎があったとされ、この四王堂舎には、蝦夷の信棒する神、もしくは越の国の在地神が祀られており、この地震の後に結びつき、性格を複雑怪奇にしたのだろう。つまり四王堂舎は元々齶田浦神の後身で、安倍氏との関係で越の国の神である越王と結合し胡四王となったようだ。

齶田浦神は秋田城内で祀られる以前は、男鹿の赤神神社に祀られていたようで、この赤神神社は安倍貞任をはじめとする、その子孫と称する安藤水軍で有名な安藤氏が崇拝保護を加えてきた歴史が16世紀半ばまで続いていたそうである。

また、この齶田浦神を祀っていた赤神神社には、奥州藤原氏が三代に渡って寄進してきたという歴史もある。これから齶田浦神というのは、安倍氏の先祖を祀ってきた神社であり、それけが後に胡四王神社へと移行したものであるようだ。

では、胡四王神社の北向きの造りをどう捉えるかだが、齶田浦神と四天王が結びついた事を考えると、南に位置する朝廷との結合を蝦夷に訴える為では無かったのか?北の鎮護と考えれば、南向きで後ろにいる筈の蝦夷を睨むという形の方が無難だ。また菊池敬一氏の考えの通りなら、北へ逃げた蝦夷達が拝むというのなら、一緒に朝廷側も拝んでしまうというパラドックスに陥る。ここは懐柔策としての、朝廷と蝦夷の統合を現しての北向きの造りではと考える。


(注) この文章は、以前に書き綴っているもので、現在の考え方とは違っている事をご了承ください。
by dostoev | 2010-11-27 14:07 | 安倍氏考 | Comments(0)

貞任への道

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現在、遠野・釜石・大槌の三地区にまたがって風車が建てられている風力発電の施設は、遠野側から向うと、貞任山・五郎作山・石仏山と連なって新山へと行き着く。ところでこの新山だが気になるのは、新山神社というものが岩手県にいくつも存在するのだ。この新山神社の殆どは早池峯を信仰する神社であるのが一般的になっている。
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新山からの早池峰&薬師
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大槌湾と、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった弁天島が僅かにわかる。
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大槌に属する新山牧場からの展望は、北に早池峰と薬師を遠望し、東に大槌湾。そして釜石に聳える仙盤山や片羽山に、六角牛山をも見渡すできる事のできる見事な展望地となっている。この一連の山々の麓に、安倍貞任の末裔が逃げ延び、移り住んだと云われる。初神に住んでいた貞任の末裔と云われる及川氏に話を伺うと、現在の初神には誰も住んでおらず、安倍貞任が祀っていた星の宮神社も、今では祭事は行われていないとの事。星の宮神社御神体も定かでは無いとの事だが、ただ昔から伝えられている事は、星の宮神社は星を祀っているというよりも、"空・山・川・石・大地・海"の自然を祀っていたのだという。
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新山では、桜の木を愛でているかのようだ。全てを紹介できないが、いくつもの桜の木に、名前が添えられ保護されている。写真の石割桜は、北を背にした山の神を祀る鳥居を潜った中に、巨石と共に並んでいる。室町時代に成立した「日本書紀纂疏」に、星に関してこう記述されている。

然らば則ち石の星たるは何ぞや。曰く、春秋に曰く、星隕ちて石と
為ると「史記(天官書)」に曰く、星は金の散気なり、その本を人と
曰うと、孟康曰く、星は石なりと。金石相生ず。人と星と相応ず、
春秋説題辞に曰く、星の言たる精なり。陽の栄えなり。陽を日と為
す。日分かれて星となる。

故に其の字日生を星と為すなりと。諸説を案ずるに星の石たること
明らけし。また十握剣を以てカグツチを斬るは是れ金の散気なり。


桜は"コノ花"とも云い、火の粉でもあったようだ。巨石の傍に、もしくはタタラ跡に桜が植えられるのも、金の精製の過程の象徴であるからかもしれない。ところでこの貞任山から新山にかけて気付くのは、早池峰&薬師が見事に見えるという事だ。
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貞任山(886m)の頂きに立って、開けた方向にはやはり早池峰&薬師が聳えている。まあ他にも展望は開けているのだが、特に早池峯と薬師が仲良く並んでいる姿が印象的だ。遠野の伊豆神社からは薬師と早池峯が一直線上に重なっているのだが、この地からはその両山の姿が完全に観る事ができるのだ。この展望を眺めて気付くのは、安倍貞任の末裔である及川氏の言葉…星の宮神社の祭祀の内容だ。つまり星の宮神社で祀られている信仰の根幹が、この貞任山から新山にかけての地から感じられるという事。そしてその中心にくるのはやはり早池峰では無かろうか?「陸奥抄史」には、こう書かれている。「…猿ヶ石南北に存在せる貞任山の二山これに解くべきかぎありとも曰ふ遠野村に今亡き西法寺は日下将軍の建立せし古寺なりと曰ふ荒覇吐神社社貞任山二山にありと曰ふも定かならずと地住の人曰ふ…。」「陸奥抄史」より抜粋。
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「夜の大槌湾」


貞任山には荒覇吐神社があるという事だが、ここで考える。貞任の祭祀とは、自然崇拝であったようだ。つまり朝廷側が普及させた木造の社を持つものではなく、自然祭祀であったのだと思う。遠野の西にある種山もまた貞任の遺跡を確認できるのだが、巨石を二つ並べた間に早池峰が見える。神社とは"神の社"の意であるが、これは何も木造で建てなくてもいい筈だ。つまり石を並べたものでも、じゅうぶん神社として成り立ったのではないだろうか?つまり種山の頂きの巨石を考えた場合、その巨石から見えるものが信仰の対象であり、その信仰の対象を枠取った巨石こそが神社そのものであったのだと思う。そして安倍貞任は、その巨石の中に何を見たのか?という事になるのだが、やはりそれは早池峯であろう。新山(しんざん)は音読みであり、近代になってそう読まれたのだろう。つまり新山の本来は「にいやま」か「あらやま」であったと思う。「荒川の道」で記したが、荒は山伏などの用語では、砂鉄などの金を表す意でもあった。つまり新山神社の殆どが早池峰を祀る神社である事から、新山とは"あらやま"であり、早池峰とは金の山の中心であったのだと思う。だからこそ、安倍貞任の祭祀や伝説には早池峰が付随する。安倍貞任の築いた文化や歴史の中心が早池峯であったのではなかろうか?つまりだ…この貞任山でいう荒覇吐神社とは、早池峰を祀る神社の意ではなかったろうか?
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「北上川流域の歴史と文化を考える会」主催のシンポジウムで工藤雅樹氏が発表した一部に、丹内山神社があった。御神体はアラハバキの岩とも呼ばれる巨石である。その丹内山神社の仁王像には応永19年(1412年)の胎内銘があって、それには「和賀郡種内郷」とあった古くは「タネナイ」と発音していた事がわかり、そこで工藤氏は"タネナイ"とはアイヌ語の「長い沢」の意であると説明している。しかし"種(タネ)"とは山伏用語で「山を母胎と考え、隕石を子種としたものであり、鉱物をいう。」となる。となれば"タネナイ"とはすなわち、山そのものであり、山に内胞されるものを信仰するものだろう。そしてこの丹内山神社の背後の遠くには早池峰が聳える。伊能嘉矩によれば、丹内山神社の大神は地神であり、それは滝ノ沢神社に現れたとあるが、その滝ノ沢神社に祀られている神は、早池峰の姫神である瀬織津比咩となる。どうも岩手県内の神社や信仰を辿ると早池峰にぶつかり、それが中心であるのがわかる。荒覇吐とは謎ではあるが、それが早池峰に結び付くものであるというのは理解できるのだ。安倍貞任の伝説の地に付随する信仰には、結局のところ早池峯が結び付くのがわかる。安倍貞任を理解する為には、やはり早池峰とそこに祀られている姫神を理解しなければ、その道の先へと進む事ができないようである。
by dostoev | 2010-09-27 23:21 | 安倍氏考 | Comments(0)

荒川の道

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荒川高原へ続く道と、川が流れる。ところで荒川の語源を遠野では確認していないが、吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」によれば、全国にいくつか荒川なるものがあるが、荒とは粗金(あらかね)、つまり砂鉄から発生しているようで、当然この遠野市の荒川も砂鉄に由来した名前なのだと思う。また遠野市には例えば"アラヤ"と付く地名があるが、やはり砂鉄に絡む地名のようだ。
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遠野市観光で有名な、田んぼの中の荒神様は「コウジン」と読まずに「アラガミ」と読む。これは出雲などの中国地方ではタタラ師の屋敷神として祀られている為、この写真の「荒神」もまた製鉄神の一面を持っている可能性がある。とにかく、アラは砂鉄を意味する。今度、確認する事にしよう。
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話を荒川に戻すが、この荒川の渓流沿いに不動明王を祀る祠がある。山伏が山を開発するにあたり、その軌跡として、巨石には不動岩、滝には不動の滝と命名する場合が全国に広がっている。この遠野の荒川沿いの不動明王の祠も、その名残であるのだろう。荒川が砂鉄を意味する川であるなら、山伏は、砂鉄…広義的に"金"を探してこの荒川沿いの道を辿りながら開発していったのだと理解できる。
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ところでその不動明王の祠を真っ直ぐ登っていくと、安倍貞任の館跡云われる地に辿り着く。この館跡の地を万畑(ヨロズバタ)と云い、館跡と共に御前釜と呼ばれる場所がある。遠野には御前沼と呼ばれる地はいくつかあるが、御前釜というのは、この地くらいだろう。ヨロズバタだが…万畑、もしくは万旗という地名は遠野に2カ所。一つは薬師岳に連なる山で、もう一つがここだ。早池峰の山懐深い地に2カ所のヨロズバタとは?おそらく栲機千々姫…その別名は万畑豊秋津師比売命から付いた地名ではないかと感じる。実はその万畑は、早池峰の姫神である瀬織津比咩の異称とも伝えられるが、まだ詳しい事は解っていない。
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画像は、大萩の釜淵だが「遠野物語拾遺22&24」には、淵にまつわる釜の話が紹介されている。ところで綾織に釜石という地があり、その地名の語源は沢の上流に釜形の巨石があり、そこから水が湧き出ているように見える。その釜形の巨石が、地名となったという。また沈んだ釜の伝説に、湯立て神事の釜が沈んだとか、もしくは粥を煮る釜が沈んだとか様々である。しかし釜は窯でもあり、火と水に関連する。阿曽沼氏は下野国から来たのだが、下野国には室八嶋神社というのがある。八嶋とは釜を意味しているのだが、室の釜で竃の意味であると。その室八嶋神社の祭神は、コノハナサクヤヒメ火中出産を果たしたので、竃の神と信仰されたようだ。ところで遠野だけなのかどうかわからないが、樺の木を「木の花(コノハナ)」という。樺はつまり桜の木でもあるが、桜の女神と伝えられるコノハナサクヤヒメであるから当然「木の花」と称して問題は無いだろう。しかし「コノハナ」は別に「粉の花(コノハナ)」とも呼ばれる。その意は"火の粉"の意も含むと云う。

しかし釜という言葉が、頭から離れない。釜、もしくは窯には、また別の意味が込められているのではないだろうか?だからこそ、遠野を調べると"釜"にぶつかるのは、古代の人々が何かを託し、隠語として伝えてるのではないかと考えてしまう。いずれ"釜"についても、調べる予定だ。
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画像は、早池峰神社に奉納されている鉄を溶かした絵馬だが、これを「鉄滓(ノロ)」といい、俗に「初花」と称す。やはり吉野裕著「風土記世界と鉄王神話」では、コノハナサクヤヒメが火中で出産した、ホデリ・ホスセリ・ホオリとは、鉄の精製の過程だと述べている。つまりコノハナサクヤヒメの火中出産で…つまり鉄を精製する過程において火の粉が飛び散る様はまるで「粉の花(火の花)コノハナ」が飛び散る様でもある。その過程の中で産まれたホデリは初花といい、画像の鉄滓となるが、また別にこの鉄滓を"馬鹿鉄"と称するのは、隼人阿多君の祖を蔑視した為だという。そういえばコノハナサクヤヒメの別称は神阿多都比売(カムアタツヒメ)であるから、ホデリを蔑視するというのはやはりコノハナサクヤヒメも蔑視されたという事であろうか?
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遠野における館跡には必ず桜の木があり、水神に関係する伝承が付随するようだ。安倍貞任の館跡周辺にはタタラ跡もある事から、独自に武器を精製していたものだと云われている。その信仰に繋がるのが、やはり早池峰であるよう。安倍貞任が山に築いた館跡には巨石があり、そこからは早池峯が見える。つまり早池峰を意識して館が築かれただろうと、館の調査をした菊池春雄氏&荻野薫氏は述べている。ただし狼煙の伝達手段の一環で、最終的に狼煙の行き着く先が早池峯であった可能性は高い。つまり遠野地方の情報を、更なる奥へと伝達する山が早池峯であったのだろう。この記事で記した安倍貞任の館跡は、その狼煙の過程の一つであろうと云われる。しかしそこには実質的な手段としての製鉄、もしくは狼煙とは別に、信仰的なものが全て早池峰に行き着いているかのようだ。つまり安倍貞任一族は、早池峰の神を信仰していたのだと考える。
by dostoev | 2010-09-16 06:50 | 安倍氏考 | Comments(11)

安倍貞任・宗任の形見

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オシラサマ…未だ謎とされる信仰の神だ。様々な学者が、このオシラサマを紐解こうと試みているが、これといった確固たるものがわかっているわけではない。明治時代に発刊された柳田國男の「遠野物語」によって有名になったオシラサマであった為、明治時代から沢山の学者が遠野を訪れ調査してきた。その性質が多面性を持つオシラサマであるが、ある古老は「オシラサマは安倍貞任が作ったものであると昔から教わってきたがどうなのでしょう?」と、遠野を訪れる学者に聞いたところ全て否定されてきたという。その為か、オシラサマと安倍貞任との結び付きを調べる学者は皆無と言って良いだろう。しかし、オシラサマが安倍貞任が作り伝えて来たと信じるものがいるのだ。

遠野市の先代の財産として、菊池春雄氏と荻野薫氏が調査しまとめた遠野市の館の報告書は、偽書と呼ばれる「東日流外三郡誌」に安倍貞任にからんでオシラサマや遠野の地の記述"日高見国閉伊郷貞任山の事…。"というものに触発されて調査したものである。

「東日流外三郡誌」の記述の中に「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というものに谷川健一は、これは福沢諭吉の言葉を下敷きにしたもので、明らかに偽書であり、一顧にも値しない!と一刀両断した書物である。しかし、その福沢諭吉も、自らの娘の婚姻相手を「身分が低い!」と否定している事から「天は人の上に人を作らず…。」という言葉も実は、本来の福沢諭吉に根付いている思想ではないのかもしれない。案外、内密に「東日流外三郡誌」の言葉を拝借して作った言葉なのかもしれない…。

とにかく「東日流外三郡誌」の記述にあるように、遠野の2カ所の貞任山には、それらしき跡がある事が判明している。つまり「東日流外三郡誌」は完全な偽書では無いという事だろう。その他の伝承も含めて、貞任・宗任は伝説と共に遠野に生きているものと感じている。
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菊池山哉の別所の調査から全国に蝦夷が配され住みついた場所が判明しているが、東北内でも岩手県を除く東北に別所は存在しているが、秋田と青森の別所は性格が異なるのだという。ただし南東北と呼ばれる、宮城・福島・山形はかなり以前から朝廷に帰属した地であり、文化的にも蝦夷文化だけというわけにもいかないようだ。ここで強調したいのは、東北6県の中で、何故に岩手県に別所が無いのか?それは現在の岩手県が蝦夷の本拠地であり聖地であったのだと思う。伝承では安倍貞任の一族は、独自にタタラをしていたようだ。タタラ筋は、後に伝承では"鬼"と呼ばれる存在となる。現在まかり通っている鬼退治の殆どは朝廷側、つまり勝者側の視点に立ち語り継がれたものとなっているのが実情だ。しかしだ、鬼の伝承が蔓延るこの岩手県内において、遠野に何故か鬼の伝承が無いというのはつまり、過去の歴史上に置いて、精神的にも征服されていない地であった証拠であると自分は考えたい。その理由として早池峯があるものと信じている。ここで多くを語る気も無いし、また証拠となるものも揃ってはいない状態でもあるのだが、早池峰に守られた地である遠野であるから、安倍貞任・宗任は鬼として語られていないのだと考えている。自分はそれらを裏付ける為に、今後も取り組んでいく予定である。
by dostoev | 2010-09-14 15:13 | 安倍氏考 | Comments(0)