遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:飛鳥田考( 3 )

飛鳥田考(其の三)

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写真の絵が気になる。群馬県の柳久保遺跡から発掘された須恵器に墨書で描かれた絵。これは馬に乗った神を現しているのでは?という事だが、もしかして馬に乗ってきた渡来系民族を現している可能性もあるのではないだろうか?とにかく、蝦夷の地で馬の文化は栄えた。蝦夷の馬を求め、また蕨手刀という刀鍛冶の技術をも含め、朝廷はそれを欲した歴史が明らかなのだけは事実だ。その蝦夷に、刀鍛冶と馬をもたらしたのは誰なのだろう?

ところでオシラサマだが、何故女性が伝えたのだろう?オシラサマの原型が男根であれば、その根源は蛇である。縄文の民は、蛇信仰が盛んだったようだ。縄文土器の縄模様は蛇を現しているのだと云う。蛇は脱皮を繰り返して、新たな生命を誕生させる奇跡の生命と信じられたようだ。

当時の考えでは、太陽は東から誕生し、西へと死す。それが毎日繰り返すという生と死の永遠性を具現化する生物が蛇だったのだろう。そして人体の神秘として、女性のホトと男根が重なり生命を成す。この男根と蛇が結びついて、オシラサマが誕生したのではないだろうか?だから生命を成す根源である女性が、蛇であり男根を現すオシラサマを女性に伝え、伝わった。男根の持つ魔法を具現化させるのは女性だけしかいなかったのであるから…。

そしてそのオシラサマが現われるにあたっての根源は、中国の古来から伝わる扶桑の伝説であり、実際に「梁書」に伝わる日本の北方に存在するという扶桑国から始まったものだと考える。

桑の漢字だが、木の上に又が3つある。この又という漢字は、甲骨文字・大篆・小篆では鳥の足に見える。実際これは、カラスの足をも現すという。それが3つ合わさって下に木があって桑という漢字となる。つまり3本足のカラスが木に止まっている形が桑という漢字だ。これは扶桑の伝説通り、太陽の生まれる地であり、その使いにカラスがいるという事になる。それが3本足のカラスだ。。。

実は、扶桑国自体がいまだハッキリしない存在。こうして書いているだけで、胡散臭く感じる人もいるかと思う。しかし、蝦夷の国土…つまり、東北の文化自体が未だに解明されていないのも現状だ。
ただ遠野の地で発掘された奈良時代の遺跡からは、墨書土器がいくつか発掘されている。墨書土器とは、土器に墨で書かれた文字がある土器の事だ。

「記・紀」での蝦夷の表現は野蛮極まりない人種が巣食う、未開の地。しかし、時代が進み、実はかなりの文化が栄えてきているのが解明されてきているのは周知の事実。

青森に「キリストの墓」というのがある。キリストというのは間違いだろうが、渡来人の墓というのは間違い無いようだ。また北海道にはペルシア系の遺跡が発掘されている事から、大和朝廷と交流を持っていた南朝系とは別に、北朝経由から流れてきた渡来系人との交流を東北・北海道である、いわゆる蝦夷地の人々が持っていた事は否定できないものと思う。

ところで聖徳太子の持ち物として知られているものに、地球儀がある。歪な球体に描かれたものには、ユーラシア大陸やアフリカ大陸もある。そして日本もあるのだが、そこには北海道の形は無い。まあこれは、鎌倉時代の日本地図にも北海道は描かれていないので、当時の朝廷やら幕府は北海道の存在を、漠然としか認識できていなかったのだろう。

「古事記」などの編纂に携わった太安万侶は、多氏の系統だという。多氏は元々「火子日命」「火子根命」という「火」の神を祀っていたのを、藤原不比等に史官として採用された時に「水」の神へと主神を変更したのだという。これは何を現しているのか? 実は「記・紀」において蘇我蝦夷・蘇我入鹿と書き記しているのは、これは本当の名前ではなく、蘇我氏に対して蔑称を使っているのだという。つまり蘇我氏憎しの気持ちが藤原不比等にあって、それを誓う為、太安万侶は火の神から水の神への変更をしたのだと考える。

蘇我氏の建立した寺院で有名なのは飛鳥寺だ。実はこの飛鳥寺にはペルシア様式が随所に伝えられているのだという。ペルシア人の信仰した宗教はゾロアスター教で、火を祀る信仰だ。これから思うに、蘇我氏はゾロアスター教を信仰していたのではという説がある…。

また、蝦夷征伐の後、東北各地に瀬織津姫が祀られた。これは蘇我氏が没落した後ではあるが…。遠野にも早池峰神社が建立され、やはり瀬織津姫が祀られている。穢れ祓いの女神で、水を祀る当時の最強の神だったのだという。 通常であれば、蝦夷という未開?の地に、当時の朝廷の意思を組み入れるなら、アマテラスでもいいだろうし、タケミカヅチでもいいだろう。ところが何故、瀬織津姫ではなくてはならなかったのだろうか?ここで思うには、火に打ち勝つには水という意識が働いたのでは無いかと考える…。

火に対して水で対抗すると書くと、蝦夷はゾロアスターを信仰したのか?となりそうだが、そうではない。ただ雄略天皇が崩御した後に、今の広島辺りで蝦夷の反乱があったという事実はある。それも、蝦夷が近衛兵としての反乱だ。北の地での反乱ならわかるが、既に中央に位置しての後の反乱と考えると、蝦夷の力だけではなく、何かの力…背後に潜む誰かの後押しを受けての反乱だと考えなければ、この事件は納得できない。

そして奇しくも雄略天皇の崩御後に、突然歴史に登場してくるのが蘇我氏だ。それも、他の有力豪族たちと対等の立場でだ。つまり「記・紀」で記されない過去が蘇我氏にはあり、藤原不比等も「記・紀」に記したくない蘇我氏の何かがあったのだと思う。

雄略天皇時代の中国は、南北朝時代で国が乱立していた時代でもあった。日本にもかなりの渡来人が押し寄せていたようで、基本は朝鮮半島を経由で来た渡来人で、殆どが南朝系のようだ。となると日本に来た同じ渡来人でも、北朝系は異端といえるだろう。

学会では認めてもらえない説に「騎馬民族征服王朝」というのがある。ただ南からの進出として考えられ、南には馬の歴史が希薄なのが難点だった。ただこれが蝦夷だったらと考えれば可能性は高まる。ただし征服王朝ではなく、馬を伝えた渡来系民族があったという歴史としてだと思う。

阿倍比羅夫が秋田に遠征した時、蝦夷はこう述べたという。「弓は狩猟をする為で、戦をする為ではない」と。これは馬にも言えるのかもしれない。蝦夷にとっての馬は、戦をする為ではないのだと…。

ここで、初めに戻ろう。遠野の飛鳥田という地名の伝説に付随されているものに、蘇我氏に追われた物部氏が住み着いた為、飛鳥田となったとあるが、飛鳥寺など、飛鳥に関する名は物部氏よりも蘇我氏に関連がある。飛鳥という地名は、飛鳥京というものが現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定されている古代都市から来ている。中央の思想が地方に広まり、アスカとなったのだと。とにかく現在の主流は、奈良県明日香村にあったとされる飛鳥京からだ。

ところで修験の山の北北西、もしくは北西に必ずアスカという地名がある事は記した。また修験の開祖と呼ばれる役小角より以前に、やはり修験系の蜂子皇子が羽黒に赴いている。ただし蜂子皇子は伝説の域を出ない存在ではあるが、簡単にも否定し辛い。

もしもだ…本当の修験が羽黒で始まったのなら、羽黒を拠点とし、全国に広まったとの考え方もできるのではないのだろうか?その鍵を握るのが、継体天皇なのかもしれない。継体天皇は、元々出自のハッキリしない謎の天皇だ。そして越の国から来たのだという。

ところで胡四王神社というのがあり、本来は「越の王」を示すものだと云われる。その胡四王神社が一番多く分布するのが、山形県だ。そう山形県は、元々越の国に属したものと考えられている。山形の出羽修験は、遠野の地にもかなりの影響を与えている。綾織にある笠通山という名も出羽からの伝説が元となっている。遠野各地にも、出羽に関する碑はかなり建っている。そして古くからの修験の家系に阿部さんという家があるが、この家では胡四王神社を祀っていた。現在は、綾織の駒形神社と愛宕神社に分祀されたが、出羽の伝えたものには胡四王=越王があるものだと考えてよい。

胡四王神社の謎に、何故北向きに建てられているのか?というのがある。北に向いているのは、北の民を向かい入れる為だと諸説様々だ。ところで中国の皇帝の玉座は、必ず南に位置したのだという。南に向かって左が左大臣であり、右が右大臣。この右と左は、太陽の昇りと沈みを現すものだという。

日本の大相撲の番付表でも、東の正横綱の位が西の正横綱の位よりも高いのは、中国の思想を取り入れているせいでもある。 太陽が昇る地の方が沈む地より、位が上なのである。しかしそれはあくまで、南に位置する皇帝を中心とするものという考えからだ。こうして考えてみると、胡四王神社は本来、中国の皇帝を意識して北を向け、南に向かって参拝するという意識があるのかもしれない。この意識をもたらした者は、当然渡来系民族なのだろう。
by dostoev | 2010-11-21 06:21 | 飛鳥田考 | Comments(3)

飛鳥田考(其の二)

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ところで、蘇我氏は騎馬民族という説がある。それと、下北半島のつけ根のあたり、上北郡東北町から発見された「日本中央の碑」。中国…当時の南朝時代の国に梁という国があり、その国の正史である「梁書」には、日本には(倭国・文身国・大漢国・扶桑国)の4つの国があると書かれている。倭国を拠点に各国への方向距離が書かれているが、それによると文身国は出雲。大漢国は河内。そして扶桑国は北海道の渡島半島になるという。当時の距離感であるから正確とは言えないだろう。ただし、文身国の出雲と大漢国の河内は、歴史からも発掘調査からも正しいのではないのだろうか。

すると扶桑はどうなのか?というと、北海道ではなく「日本中央」という碑が発見された青森というより、陸奥の国だったのだと思う。「梁書」にはヒノモトと呼ばれる国が扶桑国として書かれている事実がある。現在の主流は、河内の日下が後にヒノモトとなり日本となったという説だが、本来は扶桑国から伝わった日下(ヒノモト)が河内でクサカという地名にあてられたのではないのだろうか?それを伝えたのは蘇我氏だったのだと思う。

ところで、オシラサマの殆んどが桑の木でできている。それと「オシラサマ」の昔話では馬を殺し桑の木に吊るしたとされている事から、何か桑の木に特別なものがあるのでは?と考えてしまうものだ。「くわばら、くわばら」というマジナイがある。これは雷よけのマジナイではあるが、諸説様々なので、敢えて諸説の説明は省く。ただ、桑の木が雷=雷神よけによいという意味は、神の怒りからのがれる術。それから考えると桑の木には、何か神的な要素が加わっているのではと思ってしまう。

雄略天皇6年「天皇は后・妃に桑の葉を摘み取らせて、養蚕を勧めようと思われた。」という記述がある。また継体天皇は「男が耕作しないと、天下はその為に飢える事があり、女が紡がないと天下は凍える事がある。だから帝王は、自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして百官から万人に至るまで、農桑を怠っては、富み栄える事はでき無い。役人達は天下に告げて私の思うところを人々に識らせるように。」という言葉を残している。つまり、21代天皇の時代から、桑の木の重要性は認識されていたのである。

そして雄略時代と継体天皇時代から延々と養蚕の中心は東北であった。他の地域と比べても、東北の蚕の質は格段に良かったのだという。昔から東北の地は養蚕の中心地だったらしい。扶桑国「扶桑」の語は、紀元前数百年の中国にあらわれ詩文に登場した。東方神仙の地の別名としての扶桑は神話を織り込んだ「山海経」に描かれている。それによると、古代の中国では太陽が十個あって毎日一個ずつ、順番に天空を巡っていたと云う。その太陽にはそれぞれ1羽ずつ烏が住んでいて、それが東方にある、根が四本で九つの枝を持つ扶桑木から登っているのだと。要はその烏は、その扶桑木の頂に止まっているのだと。

ただ扶桑で言えるのは、太陽信仰の根源であるという事。雄略天皇や継体天皇が桑の木を重要視していると共に、既に存在する太陽神、天照大神が桑の木と結びついてくる。基本的に昔は、農業振興を前面に推し進めている為、豊かな国を作るには当然、太陽と桑の木は必要であった筈。扶桑国と云われる地は太陽の国でもあったのだと考える。実際「梁書」でもヒノモトは扶桑国だと記している…。
つまり桑の木で出来たオシラサマは、扶桑国の一つの象徴であったのかもしれない。

小子部栖軽という伝説の人物がいる。「日本書紀」や「日本霊異記」によると、雄略天皇が栖軽という人物に全国の蚕(こ)を集めよと命じたところ、聞き間違えた栖軽は子供達を集めてきてしまった。笑った雄略天皇は、その子達の養育を命じて以来小子部という役職となったのだという。

またある時、空に激しい音がするので、天皇が雷を捕らえてくるよう小子部栖軽に命じたところ、緋の蔓をつけ、赤い幡と鉾を持って見事に雷を捕らえて帰って来た為に、それ以来小子部雷(ちいさこべのいかづち)と名乗ったという。小子部栖軽が捕まえたその雷の正体は、目を雷の光を放つ蛇神だったらしく、さしもの雄略天皇も慄いたという。

ところで雄略天皇は「記・紀」によると相当暴虐な天皇であり、あまり評判は良くなかったようだ。沢山の人々を殺した記述があるが、ある意味日本という国を統一に向けて、積極的に血を流した天皇でもあったようだ。その恐ろしいイメージの雄略天皇が笑ったという記述は、後にも先にも小子部栖軽の逸話しかないのだ。また雄略天皇が恐れおののいたのは、一言主との遭遇と、蛇である雷神との遭遇だけだ。これは、何を表しているのだろう?

縄文文化というのは、弥生文化とあい交わって変化していったものだと。狩猟民族がいつしか農耕民族に代わったのも、この弥生文化との出会いもあったというのは、一つの日本の歴史である。

ところで縄文の縄模様は、蛇を現しているのだという。弥生の文化の影響をすぐには受けず、その縄文の文化を最後まで残していたのは東北なのだと云う。小子部栖軽の子を集める話は、当時の蚕の産地の中心であったから、小子部栖軽は全国というわけでなく、東北に来たのだと思う。それだけ良質の 蚕があったのが東北であったから。つまり何を言いたいかというと、小子部栖軽という人物は当時の蝦夷と繋がっていた人物ではなかったのか?という事。蛇を見て恐れおののく雄略天皇の記述は、単純に東北の地に住む者たちの勢力を恐れての事だったのではないだろうか?

だから雄略天皇は、東北の勢力と繋がる小子部栖軽を大事に扱ったのだと考える。そしてその雄略天皇が恐れる勢力とは「梁書」に書かれている、扶桑国なのだろう。
by dostoev | 2010-11-20 12:48 | 飛鳥田考 | Comments(0)

飛鳥田考(其の一)

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遠野の青笹町に、飛鳥田という地名がある。青笹では、昔この辺りは荒れ野原で鳥が沢山集まったから飛鳥と付いたという話もある。ただ飛鳥田では、田畑を起こすと時々土器や石器などが出土するようなので、以前は人が住んでいたという事になる。

ここで、時差が出てしまう。現在の遠野の…例えばデンデラ野の語源を調べる場合に今のご年配の方々から意見を聞いて、そこから判断をしてしまう。しかし曾爺まで遡ったとしてもたかだか100年程度となってしまう。口承であれば、その間にいろいろな混ぜ物が紛れる可能性も否定できないのが事実だ。青笹の地名である飛鳥田にしても「昔は、この辺りは荒れ野原で…。」と僅か100年足らずの歴史の中で判断してしまう事が、かなりあるような気がする。

例えば、アイオン台風の後、綾織地方では猿ヶ石川沿いに桜並木を植え、笠通山の頂には三笠山という石を奉納したのだという。しかし、現在の古老に聞いても、当時の長老のままにしただけだ…という答えが返ってくるだけだった。これから考えてみても、飛鳥田の「昔は荒れ野原で…。」という答えは、現在を知る人々の感想であって、飛鳥田の地名考とはならないような気がする。

ところがもう一つ、1200年前に蘇我氏に追われた物部氏の一族が住み着いたからという伝説もある。ただし1200年前となると大同元年頃であり、蝦夷征伐の後、早池峰神社が建立された時期となってしまう。物部と蘇我の争いで有名なのは聖徳太子と共に仏教伝来をかけての戦だ。これは用明命天皇が崩御した後なので586年頃だ。

しかしもう一つ、物部氏が蘇我氏に追われたと云われるのは、更に以前の歴史があったようだ。それは、蘇我氏の出現が北魏から北海道を経て東北に下って来たというものがある。ついでに記せば、飛鳥田側に、現在では青笹と土渕の境界線に飯豊という地名がある。飯豊とは古来から伝わるのには飯豊女王という葛城系の蘇我氏出身の人物がいる。

「アスカ」という地名は「スカ」が本義であり「ア」は接頭語だ。「スカ」の意には「砂州」という意味があり「アスカ」としては「湿地帯」という意味で広く伝わっている。また広島県には「安宿(アスカ)」という地名があり「アンスク」とも読むようだが、これは「安住の地」という意もあるらしい。

全国の「アスカ」には奇妙な共通点があり、霊山などの修験の山々の北西もしくは北北西に「アスカ」という地があるという。これを遠野に当てはめてみると、六角牛山があり、そのだいたいの北西に飛鳥田がある。六角牛山は、古来から修験の山であり、旱魃などの時は山頂で千駄木を焚き雨乞いの儀式をよくしたのだという。その修験の山である六角牛山の北西方面に飛鳥田という地があるという事は偶然だろうか?

ところで、山形県の羽黒神社や羽黒権現のある羽黒山頂から北北西に飛鳥という集落がある。そしてこの飛鳥村に飛鳥神社がある。山形県といえば、真っ先に思い浮かべるのは蜂子皇子の存在だ。蜂子皇子は聖徳太子の従兄弟で崇峻天皇の子でもある。その蜂子皇子が大和を出て羽黒山を開いたのが584年で死去したのが584年であるという。修験の開祖として有名な役小角が伊豆に流されたのは699年で、蜂子皇子の死後57年も経っている。これから考えると、修験道の開祖と呼ばれても良いのは蜂子皇子ではなかったのか?

蜂子皇子に付随した伝説に、三本足の烏に導かれて羽黒に入山したというものがある。三本足の烏熊野権現でのシンボルである八咫烏であるから、古来から羽黒修験と熊野信仰は密接に結びついていたのだろう。山形の飛鳥神社の縁起では、大同2年に大和の飛鳥神社より勧請されたもので飛鳥村という名も、これから出たのだというのが一般的だ。ただこの地は、仁徳天皇時代に、その第16子を連れてきて祀ったとあるので、そうなれば4世紀にはもうすでに山形の飛鳥という地は、開けていた事になる…。

ところで飛鳥田の伝説に、蘇我氏に追われて逃げ延びた物部氏とあるが、物部氏の痕跡が色濃く残っている地域に綾織がある。代表的なのは、石上神社だ。「綾織村誌」には天孫降臨を思わせる、天の磐船の伝説がある。「秋田物部文書」には、鳥海山に天の磐船に乗った神饒速日命の天孫降臨の話が伝わっている。そして綾織には、天の磐船に乗った三女神が石上山に降り立った伝説がある。石上そのものは、物部氏が後に名乗った名でもあった。

石上神社の主祭神は、経津主命。この神の名は、剣を「振る」の意味、また剣を振った時に「フッ」という空気を切り裂く音がすることから生まれたものと云われる。実際に綾織石上神社には、神刀(銘宝寿)一振りが奉納されているのは、主祭神である経津主命を意識してのものだろう。そして経津主命は元々物部氏の主神でもある。

この綾織の神刀は、また妖刀とも云われ、以前石上神社の宮司がこの神刀を手放した先々に不幸が降りかかる為、次々と人手に渡って、再び遠野の地へと戻ってきて、今は博物館所有となっている。石上神社自体は阿曽沼広綱が閉伊郡入部の際に勧請したと伝えられるが、六角牛神社もそうであったように、元々は山自体を祀っていたものを、社を建てて祀るという流行にのっとって建てられたのが阿曽沼時代だったのだろう。

大同元年(806年)当時の遠野三山は、早池峰山・薬師岳・天ヶ森だったと伝えられる。上郷の伊豆神社から一直線を神の山と崇めたのだろう。それとは別に、当時の綾織村では、綾織三山として石上山を中心に笠通山と二郷山とが霊山として信仰されていた。後に阿曽沼時代になり、遠野三山を改め早池峰・六角牛山・石上山となって、現在に至っている。

それと別の伝説では石上山では白鳥を祀るとされ、また別に胡四王神社も綾織に存在した事から、綾織地方は独特の信仰の形を有していたのは、後に書く事とする。
by dostoev | 2010-11-20 12:32 | 飛鳥田考 | Comments(0)