遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」230話~( 10 )

「遠野物語拾遺239(安産呪禁)」

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後産の下りるのが遅い時には、産婦の頭に甑を冠ぶせると間もなく下りるという。佐々木君の隣家の娘が子を産んだ時も、後産が下りなくて困ったが、村の老婆がこの呪禁を覚えていたので、難なく下ろすことが出来た。この呪禁の効き目は否と言われぬものだという。

                                                  「遠野物語拾遺239」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
医療技術が未発達な時代、出産は祝い事でありながら、死を伴う危険をはらんでいた。その為に出来る事とは、せいぜい「呪禁(マジナイ)」しかなかった時代である。例えば画像の様な犬の絵馬を奉納するのも、多産で丈夫な子犬を生む犬の様に…という願いが込められている。調べても、地域ごと、または家ごとに呪禁の種類は多種多様になるようだ。ここでの呪禁も、遠野全体に普及している呪禁ではなく、ある地域、もしくはある家に伝わるものであろう。

甑とは米などを蒸す蒸籠の事を言うのだが、遠野での甑とは蒸籠で蒸す時に底に敷く布の事を云う。別名「あげの」とも言い、その布を産婦の頭に被せる事が、後産の呪禁となっているのは、温める意味合いがあるのだろうか。例えば、鍋蓋で三回腰を抑えると安産になるとか、鍋蓋を温めて腰にあてると楽に産めるなどという呪禁もある事から、火処でもある台所用品を安産祈願にするのは、火の呪禁を利用しているのかもしれない。

また「後産が下りる」とは、胎盤とヘソの緒が出る事を指す。後産処理には、その部屋の畳を一枚あげておくとか、穴を掘って埋めるとか、甕を用意してそれに納めるなどという例がある。例えば四畳半の真中で切腹するのは、その真ん中の畳が霊界と繋がっているからだという。また地面の穴も霊界と繋がっているとか、鹿島神宮本来の御神体は甕に納めて海に鎮めてあるそうであるから、これらの事例は霊界送りの呪禁なのかもしれない。

よく調べると「徒然草(六十一段)」「御産の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣とどこほる時の"まじなひ"なり。とどこほらせ給はねば、この事なし。下ざまより事おこりて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の産みたる所に、甑落したるを書きたり。」とある。この甑を落とすとは「下々から始まった。」と記されているように民間から発生し、「御産」は皇后や中宮などの高貴な女性の出産を敬う言葉であるから、それが効果があると皇族なども採用した呪術であるようだ。「甑(こしき)」「子敷き」に通じる事から、甑を落として割る事は、胎児が敷いている胞衣を降ろす事を意味する言葉遊びが含まれているようだ。ところが遠野では、その甑を被るとなっているのは、いつしか間違って伝わったのだろう。遠野では甑に敷く"あげの"を甑と呼ぶようになったのも、甑=子敷き=布と伝わった為だろう。この「徒然草」での甑も別に「腰気」の意を持たせ、大原=大腹甑=腰気を使うから安産に繋がるという二重の言葉遊びを呪術として利用している様。
by dostoev | 2015-06-01 20:19 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺234(恐ろしい都市伝説)」

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これは維新当時のことと思われるが、油取りが来ると言う噂が村々に拡がって、夕方過ぎは女子供は外出無用との御布令さえ庄屋、肝いりから出たことがあったそうな。毎日の様に、それ今日はどこ某の娘が遊びに出ていて攫われた、昨日はどこで子供がいなくなったという類の風説が盛んであった。ちょうどその頃川原に柴の小屋を結んだ跡があったり、ハサミ(魚を焼く串)の類が投棄ててあった為に、油取りがこの串に子供を刺して油を取ったものだなどといって、ひどく恐れたそうである。油取りは紺の脚絆に、同じ手差をかけた人だといわれ、油取りが来れば戦争が始まるとも噂せられた。これは村のたにえ婆様の話であったが、同じ様な風説は海岸地方でも行われたと思われ、婆様の夫冶三郎爺は子供の時大槌浜の辺で育ったが、やはりこの噂に怯えたことがあるという。

                                                              「遠野物語拾遺234」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
佐々木喜善「聴耳草紙」「油採り」という話が紹介されているが、そこではナマハゲの伝承に似て、太ったナマケモノには油取りが来るような話となっている。実はこれ、逃竄譚といわれるもので、怠け者などが旅先で歓迎されるが恐ろしい目に遭って逃げ助かる話であり、「三枚の御札」の系統に属する話である。
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この「遠野物語拾遺234」の話は、画像の辷石谷江から聞いた話であるよう。この中で「油取りが来れば戦争が始まる」とされているのは、明治六年各地で起こった徴兵制に絡む都市伝説からであるようだ。徴兵に応じると外国に連行され、生き血を搾り取られるとの噂が拡がり一揆にも発展したという事件があった。この明治の都市伝説が油取りと重なり、恐れられたようである。

考えて見れば、この現代でも"口裂け女"の都市伝説があたかも事実の様に日本列島を駆け巡った。地域によっては、口裂け女が怖い為に登校拒否になったり、通学に際して大人達が子供達を守る為に、登下校を見守ったりした。つまり流言が事実と認識された為であった。明治時代の生き血を搾り取られる流言もまて信じられたからこそ、不安が高まり一揆にまで発展したのを考えれば、リアリティ溢れる流言は、人の心を乱してしまうという事だろう。油取りの話も、生き血を搾り取る話も、時代的にはそう変わりの無い時代である。つまり、どこかでこの残酷な油取りの話は、根底で生き血を搾り取る話と繋がってそうな気がする。

油取りのイメージ的には、処刑の一つである磔ではないだろうか。磔は残酷で、体を槍などで刺して血が流れるのだが、すぐには死なずに放置されるようだ。それが血を搾り取る、もしくは油を取る様子に似てるのでは無いだろうか。「聴耳草紙」での「油採り」の話は、逆さまに吊り下げて目鼻口から滴る人油を採るシーンがある。これは、逆さ磔と同じものだと感じる。逆さ磔は、罪人を最大限に苦しめてジワジワ殺す刑罰だという。逆さに吊るされると血液が脳にたまり、脳浮腫をおこしてすぐに死んでしまう為、こめかみの静脈を切り、少しづつ血が滴る様にして長く苦しんで死ぬようにしたのが、逆さ磔であった。この時、その磔された罪人の下には、多量の血が溜まったと云うが、これが油取りのイメージに繋がる気がする。いや、断言しよう。公開処刑である磔を見て来た日本人に刻まれたトラウマが生み出したのが、油取りの都市伝説であったと。
by dostoev | 2015-04-24 19:19 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

遠野物語拾遺231(金平糖)

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維新の当時には身に沁みるような話が世上に多かったといわれる。官軍に打負かされた徳川方の一行が迷って来た。お姫様の年ごろははたち前らしく、今まで絵にも見たことが無いうつくしさであった。駕籠にやや年をとったおつきの婦人が乗り、そのほかにもお侍が六人、若党が四人、医者坊主が二人まで附添っていた。村の若い者は駕籠舁きに出てお伴をしたが、一行が釜石浜の方へ出る為に仙人峠を越えて行った時、峠の上には百姓の番兵どもがいて、無情にもお姫様に駕籠から降りて関所を通れと命じた。お姫様は漆塗りの高下駄に畳の表のついたのを履かれて、雇われて行った村の者の肩のうえに優しく美しい手を置いた。その様子がいかにもいたわしく淋しげであったから、心を惹かれた若者達は二日も三日も駕籠を担いでお伴をしたという。佐々木君の祖父もの駕籠舁きに出た者の一人であった。駕籠の中のお姫様は始終泣いておられたが、涙をすすり上げるひまに、何かぼりぼりと噛まれた。多分煎豆でも召上がっているのであろうと思ったところが、それは小さな菓子であった。今考えると、あの頃からもう金平糖があったのだと、祖父が語るのを佐々木君も聞いた。またお姫様が駕籠から降りて関所を越えられる時に、何故にこんな辛い旅を遊ばすのかとお訊きしたら、お姫様はただ泣いておられるばかりであったが、おつきの老女がかたわらから戦が始まった故と一口答えた。あれはどこのお城の姫君であったろうかと、常に追懐したという。

                                                  「遠野物語拾遺231」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遠野を統治していた南部藩は幕府側に属していた為、それを頼って来たものだろうか。物部氏、平家の落人、源義経、長慶天皇、新選組の土方歳三、多くの敗者が北に逃げて来た歴史の中に、このお姫様一行も含まれるのだろう。

ところで金平糖は砂糖菓子になるのだが、室町時代以降ポルトガル船によって砂糖が持ち込まれ、菓子文化が始まりを告げる。桃山時代となって西欧菓子の製法も伝わり、その゜お菓子を南蛮菓子と呼んだ。それ以前の菓子には、中国から伝わった唐菓子があるが、砂糖が使われず、米・麦・豆を粉にして酢・塩・胡麻を加える菓子であるから砂糖菓子の魅力には勝てないのだろう。漫画「信長のシェフ」でもその甘い洋菓子の美味しさに、その時代の人々の驚きを表現しているが、洋菓子文化の始まりが桃山時代であるから、漫画の表現と言えどもリアリティを感じる。

洋菓子を南蛮菓子と呼んだのは、ルソン・シャム・マカオなどの南方の国を南蛮人と呼んでいたのに加え、ポルトガル人やイスパニア人がその南蛮国を経由して来るので、まとめて南蛮人と呼ぶようになった。その為、南蛮人の作る菓子だから南蛮菓子となったようである。秀吉の生涯を綴った「太閤記」には「下戸にはカステイラ、ボウル、カルメヒラ、アルヘイト、コンヘイトなどをもてなし…。」と記されている。様々な洋菓子が伝えられたが、日本人の好みに合わない菓子は消えてしまったようで、後世まで残った南蛮菓子には「コンペイトウ(金平糖)、カステラ、タルト、ビスカウト(ビスケット)、ポーロ、カルメル(キャラメル)、ブロフ(パン)、ヒリオス(ドーナツ)」くらいのようである。その中でも金平糖は保存が効くので、この「遠野物語拾遺231」でのように、こんな遠くの遠野まで持ち込んで食べたのだろうと思う。泣きじゃくるお姫様を慰めたのは、やはり甘いお菓子であり、それは現代でも女性を慰める食べ物として甘いお菓子は市民権を得ている。
by dostoev | 2015-02-18 20:47 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺238(オビタナ)」

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馬を飼っていない家では、オビタナを持って迎えに行く。オビタナとは児を背負う時にする帯のことをいい、この時に持って行ったオビタナは、子供が生まれたら神社か村の道又まで持って行って、送り返さなければならぬ。

                                                   「遠野物語拾遺238」

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オビタナは背負い紐であり、今では抱っこ紐とも云う。子供は七歳まで神の子として育てられたが、七歳を過ぎると神の子から人間となる。それはつまり、労働をする年齢になったという事で、画像の様に親に代わってまだ小さな弟や妹の子守をしなければならなかった。昔はお守をしながら、別の仕事も出来る様にと子供は常に背負うものだったが、最近は子供の表情を読み取ろうとする為に、前抱っこになったという。ただ、猿などは子猿が親猿のオッパイにしがみ付くので大抵は前抱っこが基本。人間は仕事をする為、後抱っこが基本と思ってたが、最近になって前抱っこ方法が流行ったので、先祖返りしたのかと思ったものだった。

馬は神の乗り物であるから、その馬を引いて神を迎えに行く代わりに、馬の居ない家では、このオビダナが使用される。オビダナも神を乗せるモノという概念から発生したのだろう。確かに、七歳までの神を乗せる鞍でもある。それを神に返すのは、神への感謝のしるしとなる。その返す場所は神社であり道又となるのだが、神社の鳥居や注連縄の内側は神の領域であり、道又もまた人間社会と異界との境界となる。
by dostoev | 2015-01-06 16:55 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺233(帯刀)」

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明治もずっと後になってからのことであったが、小国の方から土渕村へ、若い男女が物に追われるようにしてやって来た。この二人の跡を追って来た刀を持った男に、林崎の田圃の中で追いつかれて、男も女も少しの手向いもせずに、斬り殺されてしまった。どういう事情があったのであろうか、二人を斬った男はほろほろと涙を零しながらこの二人の屍体を路傍に埋め、女の髪に差していた笄を墓のしるしに立ててから、もと来た方へ戻って行ったという。これを見ていた老婆達が、今でもこの話をしては涙ぐむのである。

                                 「遠野物語拾遺233」

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明治時代の、かなり後の話と言う事だが、明治9年(1876年)3月28日に廃刀令が制定されている。刀は蛮習という事で所持は良いが、帯刀はダメという事らしい。現代の銃砲刀剣類所持等取締法に近いもので、その初めの頃の法律のようだ。刀狩りは秀吉の時代にもあったが、反乱・一揆などを封じ込めるものであったろうが、この法律が後々に日本の治安の良さになっている。

しかし、この「遠野物語拾遺233」では既に廃刀令が制定されているのにも関わらず、刀で男女を斬り殺している事から、当然これは犯罪となる。しかし明治時代の犯罪記録は、現在の警察記録には残ってないらしく、想像の域を出ない。ただ戦乱の世から太平の世と云われた江戸時代でも、当初は一部の地域で動乱があり、幕府体制に刃向うものもいた。忍びなどもまた、仕えていた大名などが取り潰しに遭い、主を失った忍びが犯罪に走る場合もあったという。遠野に於いては、南部時代である江戸時代に、場を失った葛西の浪人が峠で山賊紛いの事をしていたという話も伝わっている。ただ、この「遠野物語拾遺233」では、人に言えぬ余程深い事情があったのだろうが、こうして禁止されている刀をもって人を斬り殺したとなれば、それだけで死罪となるような事件であるのだろう。
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柳田國男の言葉を借りれば「路傍の石碑の多き事、諸国類稀を知らず。」は、神を崇める石碑の他に、遠野には多くのわからない墓石も多く残っている。遠野の人間であれば、その亡骸は地域の共同墓地か、個人所有の土地の片隅にでも埋葬され供養されるのだろうが、路傍の誰なのかわからない墓石は、この「遠野物語拾遺233」のように死んでいった人達を供養する為に建てられたものなのかもしれない。
by dostoev | 2013-11-09 13:11 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺235(うつろ船)」

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これも同じ頃のことらしく思われるが、佐々木君が祖父から聞いた話に、赤い衣を
著た僧侶が二人、大きな風船に乗って六角牛山の空を南に飛び過ぎるのを見た者があったということである。

                                 「遠野物語拾遺235」

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この「遠野物語拾遺235」を読んで、フト思い出したのが「日本書紀 斉明天皇記」の即位して後の夏五月の記述だった。

「空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。靑き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて膽駒山に隠れぬ。」

空を馳せるものとは大抵は鳥なのだが、この当時は龍もまた空を馳せるものとして信じられている時代だった。つまり、具体的な龍のイメージは無く、鳥以外の空を飛ぶ不明なものは龍と捉えた可能性もある。また、当時の日本人の着る衣装以外のものを来ている者は、異文化人である唐人でもあると捉えているようだった。ただ、鳥以外で空を飛ぶモノとなると、この時代では有り得ない話だろう。

ただ気になるのは、江戸時代に流行った「うつろ船」というものがある。これはUFOではないか?と外国人も、この江戸時代の「うつろ船」の記事を採用してUFO記事を書いているようである。画像は滝沢馬琴などが手掛けた随筆「兎園小説」に、馬琴の長男である滝沢琴嶺の絵が挿絵として採用されたもののようだ。この「うつろ船」の舞台は、常陸国の浜で、海から漂着したものか、空から飛来して浜に降り立ったものであろうか本当のところはわからない。ただ、うつろ船の乗員は「蛮女」という表現であるから、南蛮の渡来人女性をイメージしているのだろう。時代は江戸時代であるから、斉明天皇時代と違い、白人系も多く日本に来ているので、斉明天皇時代の唐人より南蛮人の方が、より異人らしいイメージがあったのだろう。

加門正一「江戸うつろ船ミステリー」では、「うつろ船」を学術的に解明しようとしているが、この現代のUFOらしきうつろ船の造形に関しては、ひさご誕生譚から「ひさごの形状では?」という疑問符が付いたままで断定は出来ない様だった。瓜から生まれた瓜子姫もひっくるめ、瓢(ひさご)誕生譚の可能性は、確かにあるだろうが、その瓢を家に見立てて窓を付けたりする想像力が、江戸時代ではどうだったのかは、確かによくわからない。ただ感じるのは「日本書紀」における「龍に乗る青い笠を着た唐人」「うつろ船の蛮女」の根っ子は、同じ様な気がする。
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さて、その「うつろ船」の話は、かなり全国に広がりを見せている様で、いくつもの似た様な話が伝わっているのも、元からの話から伝播したからのようだ。ところで「遠野物語拾遺235」に戻るが、赤い着物を着た僧侶が大きな風船に乗ってとあるのだが、風船が初めて入って来たのは1857年の大阪で、普及したのが明治以降のようだ。「遠野物語拾遺235」では、佐々木喜善は祖父から聞いたとあるが、佐々木喜善は1886年生まれであるから、その祖父でもせいぜい40歳ほど年上と考えていいだろう。
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つまり祖父の誕生日が1846年頃の天保年間であるのならば、当然風船の事は知っているだろう。画像の様に遠野の裁判所で平成の時代に天保元年生れの人探しがまだ公示されていた事を考えれば、天保生れもまだ身近な存在なのかもしれない。つまり、佐々木喜善の祖父のような天保生れも近代でありながら、江戸時代と明治時代をの狭間の生き証人であり、様々な事を知っていたのであろうと想像する。その祖父が更に人から聞いた話が、この風船に乗って空を渡った話だが、どうもこれも「うつろ船」の亜流の話ではないかと思えてしまう。画像の一つに、まん丸な円盤状のうつろ船があるが、見方によっては丸く膨らんだ風船の様でもある。「うつろ船譚」は、江戸時代には似通った話が伝播し多数あるのだが、その「うつろ船」の話を更に「日本書紀」の話と融合させ変化させたのが、この「遠野物語235」の話の様に思えるのだ。伝播の時間を考えても、江戸時代に発生し広がった話が遠野に伝わるまで、かなりの年数を有すると云う。その丁度良い頃合いに、佐々木喜善の祖父の友人が祖父をからかうようにひょうはくきりとして話したものなのかもしれない。
by dostoev | 2013-11-04 16:43 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺236(喜善の寂しさ)」

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昭和二年一月二十四日の朝九時頃には、この地方を始めて飛行機が飛んだ。
飛行機は美しく晴れた空を六角牛山の方から現れて、土淵村の空を横切り、
早池峯山の方角に去った。

村人のうちには飛行機を見たことは無論、聞いたことも無い者が多かったか
ら、ブロペラの音が空に響くのを聞いて動転した。

佐々木君兼ねて飛行機について見聞していたので、村の道を飛行機だ、飛行
機だと叫んで走ると、家々から驚いた嫁娘らが大勢駆出し、どこか、どこかと
これもあわてて走り歩いた。そのうちに飛行機は機体を陽に光らせて山陰に
隠れたまま見えなくなったが、爆音はなおしばらく聞こえ、人々は何か気の
抜けた様になって、物を言うこともしなかった。

また同じ年の八月五日にも、一台の飛行機が低く小烏瀬川に沿って飛び去った。
その時は折柄の豪雨であったから、たいていの人は見ずにしまったという。


                               「遠野物語拾遺236」

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平成の世になって、今さら飛行機が珍しいという事は無くなった。しかし文明の利器というものは、いつ何時現れるかもしれないが、今ではマスメディアの情報やネットの情報などで、突然遭遇したとしても、どんなものでも何となくイメージできるようになっている気はする…。

ところで「山深き遠野の里の物語せよ」などの著作がある菊池照雄氏は、雨乞いの為に六角牛山の頂で千駄木を焚いた時、里の子供達は噴煙が上がる筈が無いと思っていた六角牛から煙が立ち昇るのを見て「山が噴火した!」と大騒ぎになった事を書き記している。

日常から、突然転換する非日常。しかし同じ日常とは、長くは続かないもの。科学は常に発達し、一昔前では考えられない物が沢山発明され、少しづつ日常である筈のものは、想像できなかった非日常に変化している。ところがやはり、飛行機というものを知らない里の人々の前に突然飛行機が轟音をあげ空を飛んでいるとなると、それこそ驚天動地の出来事であったと思う。

古代の人々は、突然現れる非日常…例えば、地震や津波、竜巻や、かって経験した事の無い雷を伴う大雨などを"神の祟り"などと考えた。現代では発達した科学と言う名の元に、それを納得している。しかし以前は「神の祟り」として納得していた歴史がある。

以前にも書いたが、昭和の戦時中、遠野の隣町である釜石が武器を製造していた為に、アメリカ艦隊から艦砲射撃の一斉攻撃を食らった。しかし、その頃、釜石には捕虜収容所があった為に、釜石の人達は「捕虜収容所に逃げれば、助かるぞ!」と、大勢の釜石市民は捕虜収容所に逃げたという。

ところが艦砲射撃の真っ最中、遠野では地鳴りのような大砲の音に、みんなで怯えていたという。そんな中、遠野上空を飛び交うアメリカ軍の飛行機を見て、遠野の人々は枝垂れ柳や、枝垂れ桜の木の下に隠れたという。枝垂れ系の樹木は、天から霊が降って来て、枝垂れ系樹木の枝を伝って、地面の奥深くにある黄泉の国に向かうと信じていた。その為に、枝垂れ系樹木の下に隠れていれば、アメリカ軍の飛行機から攻撃されないと信じていた者が大勢いたという。

考えてみても、日本の動力飛行機の歴史は明治時代から始まっている。「遠野物語拾遺236」における昭和2年という時代には、日本国内でかなりの飛行機が飛び交っているのが現状だった。そんな中、遠野の人々には未だ、飛行機を聞いた事も見た事も無い人が大勢いたというのは、それだけ遠野が閉ざされた田舎であったという証明だろう。

明治時代、秋田県の将校が日本帝国軍の一小隊を授かったという。しかし、その当時は、標準語というものがまだ制定されておらず、言葉の日本統一にはまだまだであったよう。そんな中、一つの事件が起きた。その秋田県人の将校は、秋田弁丸出しで、いくら部下に命令しても半分近くは理解できない部下が多かったという。そこで秋田県人の将校は、思い悩んだ。天皇陛下の部隊を統率できない自分の非力さ、情けなさに。そして思いつめ、ピストル自殺をはかったそうな。

その事件を重んじた日本帝国軍は、半強制的に方言を禁じたという。ただ、ある程度の訛りには目をつむったという。それから国は、学校教育に力を入れ始め、共通に皆が理解できる言葉…所謂「標準語」というものが考案されたという。

日本と言う国は、他国に比べて算数や国語の普及が、実は世界トップクラスであったようだ。しかしそれでも、まだ文字も書けない人々は大勢いたらしい。また本というものも、読むというより、本を読める人間に聞かせて貰っていたようだ。

「古事記」でもわかるように、太安万侶が稗田阿礼の唱える言葉を文字にしたのが、日本最古の書物「古事記」である。つまりそれまで、物語とは語り伝えるものであったという事。それも文字を書く事の出来る人の中での話であるから、遠野のような閉ざされた田舎では、なかなか文字の読み書きができるものもいなかったろう。

奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされ、遠野を阿曽沼が統治したという。その後、阿曽沼は南部に追われ、遠野を追われたというが、それでも多くの阿曽沼の家臣は残っていたという。当初、南部の家臣だけで遠野を統治しようとしたが、南部には読み書きできる家臣も少ないのに加え、算術に長けている家臣が殆どいなかったという。そこで仕方なく、読み書き・算術のできる阿曽沼の家臣をかなりの数を登用したそうな。考えてみると、南部は甲斐の国…今で言う山梨県から何故か青森へと移動して住み着いた。青森県もまた、閉ざされた田舎であった。南部の情けなさは、そういう読み書きや算術などの教育をないがしろにしてきたツケが回って来たのだろう。そこには情報が届かないという本州の北の果てという立地も大きかったのかもしれないが…。

ここで「遠野物語拾遺236」に立ち返るが、飛行機の存在を知っていたのは文章を読む限り、周囲には佐々木喜善しかいなかったようである。佐々木喜善は東京の大学まで行き高等教育を受けてきた人物であり、当然の事ながら飛行機についても知っていた。ましてや佐々木喜善は、山口部落の村長にもなった人物でもある。人望がある者であるのなら、人は大勢寄って来るもの。ましてや東京の大学まで行った人物なら、東京の話…「聞いた事も見た事も無い話」を聞きに、大勢集まると思うのだが、飛行機という今世紀最大の発明というべき物を、山口部落に戻っていながら伝えないでいる佐々木喜善の存在が、少々寂しく感じてしまう。つまり佐々木喜善なら、山口部落の周辺、遠野の人々にその飛行機の存在を教え広める事ができたのに、それをやっていなかったのは、どこかで部落の人達との壁があったものと考えてしまうのだ…。
by dostoev | 2012-02-19 20:56 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺230(情死)」

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これは明治になってから後の話であるが、遠野町の某という女には
妙な癖があって、年ごろになってからは、関係した男毎に情死を迫
ってならなかった。それが一人二人でなく、また嫁に行っても情死
のことばかり夫に言うのでいつも不縁になって帰った。こんなこと
が十何回もあった後に石倉町の某という士族の妾になったが、この
人にも情死を奨め、二人で早瀬川へ身投げにいった。そうして自分
だけ先に死んだが、男の方は嫌になって帰って来たそうである。


                               「遠野物語拾遺230」

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情死は、いわゆる心中だ。心中で有名な、近松門左衛門「心中天網島」は、享保五年(1720年)10月14日の夜明けに起こった事件を元に創られたもの。その頃は心中事件が多発して、世の中の乱れを憂いた幕府が心中を悪とみなし、厳しい取り締まりをする事になった。当然、心中物の作品の上演などはご法度となったよう。また、それ以前にも「曽根崎心中」という心中を美しいものとして描いた作品もある。こういう作品に踊らされたのか、とにかく心中は広まったようだ。

心中した死体は、家族にも引き取らせず、野犬や野鳥が食い荒すという野晒状態にされ、見せしめられた。もしも一方が生き残った場合、主犯として斬首の刑に処せられたという。また、両方生き残った場合は、3日間全裸で晒されて、身分を奪われたそうな。

「心中」は初め、他人に対して義理立てをする意味の「心中立」(しんじゅうだて)のことをいった。これが江戸時代になると、男女の永久の相愛を意味するようになる。」とある。

つまり「心中」とは相手に対する「真心」の事となる。そしてその真心とは、男女の二心なき処を表す、やはり相手に対しての誓いの気持ちにもなる。その為に「心中立」というものは、各々「誓紙」「爪はぎ」「断髪」「入墨」「指切」「貫肉」があった。



「誓紙」は、熊野の起請文が、かなり使用されたようだ。その起請文には沢山の神仏の名を書き連ね、誓いを破れば罰が当たるとされた神聖なもの。そしてその起請文に血判を押して完成。または血書といって更なる誓いを立てる場合、自らの血で署名したという。血書で有名なのは崇徳上皇の「血書五部大乗経」だろう。


「爪はぎ」は、自らの身体の一部を剥ぎ取る事によって誓いとされた。痛くなく、爪を剥ぎ取る方法もあったようだが、要は身を殺ぐ事から禊でもあり、清らかな意思を伝える意味もあったようだ。


「断髪」も「爪はぎ」と似たようなもの。


「入墨」は、現代でも行われているもので、よく二の腕などに「○○命」などと彫り、相手に対する変わらぬ愛を誓うというもの。つまり当時の習俗は、今も生きているのだが…。


「指切り」は「指切りげんまん」では無くて、実際に誓いの印に指を切り落としたそうな。つまり、一昔前のヤクザの世界で行われている習俗と同じである。


「貫肉」は、男女では無く、男色家の間で行われたようだ。貫くが「想いを貫く」にかけたようだ。ここで日本人の語呂合わせ好きが露呈する(^^;



ところで「遠野物語拾遺230」は江戸時代では無く、明治時代の話となる。あれだけ幕府に悪として禁じられた心中が、西洋文明が入り込んだ明治時代となっても続いているというのは、やはりその思想によるものが大きいのだと感じる。つまり「あの世で結ばれる」だ。大抵の場合は、いろいろな障害があって結ばれない男女に、こういう心中事件が起きている。その根底には平安時代末期に流行った末法思想があるのかもしれない。

死して、浄土世界へと向かう。苦しい世の中を生き抜くより、死んで極楽へ行き、幸せな生活を送りたいという想いが、自らの命を絶たせたようだ。平安末期には、まるで大道芸人のように、多くの坊主たちが大勢の人達の前で入水自殺、焼身自殺、そして入定と、様々な形で、人々の前で極楽浄土へと向かって行った。後に残った者達には、死んでみなけりゃ、その後の世界など分る筈もないのに…。

現代になって自殺が多発していると伝えられるが、現代と当時の共通点は、楽になりたいだろうが、死して、あの世で幸せになるという考えの現代人は、恐らくいないだろう。

「悲劇の死」として思い出すのはシェイクスピア「ロミオとジュリエット」だ。仮死状態になつているロミオ死んだものと勘違いし、自らの命を絶つジュリエット。後に。目覚めたロミオの前には、ジュリエットの死体があり、それに絶望し、結局命を絶ってしまうロミオ。つまり、日本においての近松門左衛門も、それ以前に作品を残しているシェイクスピアもまた、古今東西心中を美化する作者の一人にしか過ぎなかったのだろう。

近代となっても太宰治が有名なように、どこかで"美しいまま死ぬ"という美化された思想は生きているのかもしれない…。

心中は、真心とは書いたが、本来は相手を思いやる集大成が心中であろうか? 仏教用語「一蓮托生」という言葉がある。これは、死後、極楽の同じ蓮華の上に生まれる事である意味から、もしかして情死(心中)を求める者は、仏心に奪われている者なのかもしれない。死んで成仏するなら、一緒に愛した人と成仏できたら、なお幸せだと信じれば、その思いを成就する為に一蓮托生を求めるのかもしれない。ただ…「遠野物語拾遺230」の場合、あまりに一方的過ぎる。ただ言えるのは、関係を持った相手に対して情死を求めているのである事から察すれば、相手と肉体で結ばれる事を聖なるものと考えた純真さを感じる。現代と違って、昔は性に対して大らかだった。そういう中にあって、一度の関係を重視して情死を求めるのは、一度であっても、その女にとっては大変重要な事であったのだろう。
by dostoev | 2012-02-03 18:05 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺237(山の神)」

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この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産ま
れぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じ様にしつらえ、
山の神様をお迎えに行く。その時はすべて馬の往くままにまかせ、人は
後からついて行く。そうして馬が道で身顫いをして立ち止まった時が、山
の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。場合によ
っては家の城前ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても
馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産
があるのが常である。

                               「遠野物語拾遺237」

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山の神が馬に乗るというのは、暗に馬とは神の乗り物という意味合いを示している。上記の写真は、柳久保遺跡から出土したもので、馬に乗っている神をあらわしているという。それが征服した騎馬民族の姿なのかどうかわからないが、古代の東北には馬がいなかった。考古学的には、弥生時代以前には馬は日本に存在しなかったとの事。「魏志倭人伝」においても、日本に馬はいないとの記述がある事から、3世紀に日本には馬はいなかった…。

では、いつから馬が東北に入り込み、神の乗り物として存在するようになったのだろうか?「遠野物語拾遺237」では出産にかかわる話である事から、山の神が人の生死に関わる存在であり、それに繋がりを持つのが馬という事なのだろう。
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遠野の駒木という地域に、蒼前神社というのがある。こここで祀られているのは馬であり、それも葦毛の馬だ。この神社の創建の由来は、八幡太郎義家が桔梗が原で狩りをしている最中、愛馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀り「脛折り蒼前」と名付けたという説と、この神社の北東の方向にマンコという長者がいて、その愛馬が倒れ死んだ為に、供養する為神社を建立したという説の二つがある。ただしいずれにせよ「蒼前」という名前が付く。ところで蝦夷の歴史を調べると、渤海との交流が盛んであったようだ。

これは偽書と云われる「東日流外三郡誌」の記述ではあるが「安部一族遠征録」という項目に、貞応元年(1222)5月7日に、粛慎国に渡り、太刀と交換して、17頭の名馬を船積みして、8月16日十三浦に帰港したという記述がある。実際に安部氏一族は、十三湊を拠点として貿易に従事していただろうと云われる事から、この「東日流外三郡誌」もあながち嘘を書いていないのだと思う。


神亀4年(727年)9月に渤海使節団が初来日したという。出羽国北部に着いた後、宝亀2年(771年)やはり渤海の使節団325人が17隻の船で野代湊に着いたと、平安時代前期まで、何度も出羽に来航している。当時の朝廷は、何度も九州に来航するよう勧告したようだが、渤海側の意図は、安全な航海という意図から出羽への航路が伝統的に安全であったようだ。だからこそなのか、当時の朝廷との交流よりも渤海は蝦夷との交流を深めていったようだ。何故なら、いつも温かく出迎えていたのは蝦夷の民であったのだろうから。

遣唐使や遣隋使が合計12回しか行われなかったのだが、渤海の使節団は200年間に渡って、分かっているだけで35回もの来航を果たしている。もしかしてだが、歴史に残らない蝦夷との国交を含めれば、かなりの数の来航を果たしていたのかもしれない。渤海は、高句麗滅亡後に建国された国だ。つまり高句麗の息吹を受け継いでいる国であったという事だ。渤海は馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていた事が知られている。そしてそれ以前の高句麗もまた馬の生産を重視していた。
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平壌近郊に徳興里古墳があり、壁画には流鏑馬の場面が描かれている。様々な馬の壁画の中で際立った1頭の馬が描かれているという。それは、他の馬よりも馬体が大きく、姿態も躍動的な葦毛馬だという。高句麗でも渤海でも、葦毛の馬が尊ばれた歴史というか信仰に近いものがあったと伝えられている。その伝説の葦毛馬の名前を「騣騚(そうぜん)」と呼ばれる。

先に記した「蒼前神社」など、何故か東北には「そうぜん」と音読する神社などが鎮座している。高句麗て神秘の馬とされた騣騚は、日本国…いや、蝦夷の国の中で神の馬として信仰された。この「そうぜん」は、中世以降、馬頭観音と結び付き、明治時代の神仏分離で駒形神社と改名したりと、本来の実名である「蒼前(そうぜん)」という実名を失ってきてはいるものの、未だに…例えば遠野の駒木地域の蒼前神社のように本来の名前を保っているのもある。
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ここからは仮説になるのだが、とにかく日本に馬が入ってきたのは漠然としているが弥生時代以降という事。また渤海との交流が深かったと記したが、蝦夷の馬を考えた場合、それ以前の高句麗との関係があったと考えるのが普通だと思う。高句麗でも馬を神聖視する信仰があった。だから柳久保遺跡で出土した絵は、やはり神が馬に乗っている姿であると考える。

つまり、蝦夷の国に馬が登場した時の蝦夷の民の馬を見る眼差しというものは、既に神がかっていたのではないだろうか?オシラサマの話の原型は、中国の「捜神記」と云われる。確かに遠野などに伝わるオシラサマの話とそっくりだ。オシラサマの話は獣婚という国津罪に加え、娘を抱いて天に昇るという龍との結び付きも見られ、神がかり的である。そこに登場する蚕は、養蚕の奨励とも取れるが、日本古来から続いている穢れ祓いの人形の元でもある這子という人形に辿り着く気がする。これは「古事記」においてイザナギとイザナミが最初に産み落としたヒルコと同じもので、足の立たないもの。つまり、足の立たない這子をヒルコと見立てたもので、やはり人の罪の深さを示すものであると考える。その人の罪を運ぶものは馬であり、それも葦毛の馬だ。馬の最高位は龍となるのだが、オシラサマの話を考え合わせても、その人の罪を運ぶものは白馬であり白龍となるのだと考える。

馬は人を”乗せる”ものであるのだが、実は人を”運ぶ”ものだという考え方も成り立つ。人の罪を運ぶ媒体としての白馬。つまり神の使いとしての白馬は白龍でもあり、だからこそオシラサマの話は受け入れら蝦夷の国であった東北に根付いた。つまりそれ以前には既に、神の乗り物、もしくは神そのものとしての神馬として蝦夷の国に馬は訪れたのかもしれない。

ところで「遠野物語拾遺237」に立ち返るが、遠野だけでは無いのだが祖霊信仰というものがあり、人は死んだら御山に帰るというものがある。だから神と云えば大抵の場合、山神となってしまう。また山に対して豊穣を願うのも、山そのものが生命の根源であると信じられていたからだ。

山というものは、樹木を生み出し、木の実やキノコを生み出し、獣を生み出し、また水をも生み出す。その山から生み出された水が里に注ぎ、人々の命を育んでいる。つまり、山そのものが、生死を司る存在である。だからこそ、その山に鎮座する山神に認められてこそ新たな命が育まれるのだという信仰心が芽生えたのだと考える。その山神を乗せる生き物が、やはり神の乗り物としての馬であり、白馬だ。そして遠野の場合、山神といえば、遠野の北に聳える早池峯という御山であり、その姿として表わされるのが、白馬に乗った女神の姿となる。いや、馬は姿を変えて龍となる事もあるのだ。
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ところで山を生活の生業とする者にマタギというものがいる。このマタギを漢字表記すると”股木”となって、山中で二股に分かれた木は山の神の神木として扱うからきている。例えば、動物を殺生した場合、股木の塔婆を立てて供養する。つまり、山から生まれたモノの生き死にに関わる者としたのマタギという意味となる。二股の木というものは、女性の股を意味し、そこから生命が生まれる。つまり、生き物を殺しても供養する事によって再び生まれ変わる儀式を行うのがマタギという生業に携わる者達の掟でもあった。ただし山の神信仰には二通りあり、山に携わる者の山の神信仰と、農民等の信仰する山の神信仰だ。山に携わる者の信仰は産に関する信仰が無く、女を避け、男だけが祀るものとなる。

また何故か六という数字を山の神が好むのは、山の神を助けたのが6人のマタギであり、それ以来1つ増えての7という数をマタギは嫌うのだと。もしもマタギが7人いる場合は、同行した犬の数を数え足して7人では無いという事を山の神に示すという。

マタギの妻などが出産した場合”赤不浄”と云い、タギは7日間猟を休んで山に入ってはいけない。この七日間は先ほどの7という数字が忌み嫌われる数字だからだ。また現在も遠野では、妻の出産に伴い、旦那は仕事を休まなければいけないとの決まりがあるのだが、これは建築系の仕事に携わる人にだけ今尚伝わっている。

現在の遠野では、大抵の場合、山の神とは女神であるという認識の元に成り立っている。ただし、遠野にはいくつか山神神社なるものが山裾などに建立されており、大山祇神を祀っている場合がある。

ところで大山祇神だが「古事記」において木花之佐久夜毘売は大山祇神の娘という事になっている。

「あはえ白さじ。わが父大山津見の神ぞ白さむ。」

木花之佐久夜毘売の別名は、神阿多都比売といい「神」は”神聖”な意味を表わし「阿多」は地名だ。これと似たような呼び名の姫が一人いる。阿蘇神社に祀られている健磐龍命に嫁いだ阿蘇津姫だ。やはり嫁いだ為に阿蘇という地名を受けて阿蘇津姫となっているようだが、どうも神阿多都比売と同じ方式で名乗っている気がするのだが。ところで嵯峨天皇は810年に、こう述べている。


「素尊はすなわち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇めたまいしなり」


ところが愛媛県の大山祇神社には「記紀」の成立以前に建立されているのだが、社記には、こう記されている。


「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神であるので

     日本民族の 総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。」



嵯峨天皇の記述と、愛媛県の大山祇神社の社記の意味を考えると、大山祇神も素戔男尊も同列になっているのだが、本来伝わっているのは皇国の本主は天照大神であり、日本の総社は伊勢神宮となるのが一般的だ。

九州のある地域での山の神とは、素戔男尊であるという。ところが東北では漠然とただ「山の神」と記されて、たまに大山祇神が祀られているのだが、素戔男尊が山の神として祀られている例はまったく無いと思われる。だがどちらにしろ、山の神のイメージとしては男神になるのだが、何故か東北では女神とされる。しかし、山神神社で祀られている神像の大抵は男神であるのは何故であろう?

山神は、男か?女か?という話となっているが、吉野裕子著「山の神」では、何故「古事記」と「日本書紀」においてのヤマトタケル記で登場する山神の使いは、イノシシであったりヘビであったりするのか?という疑問に答えている。

十二様とも呼ばれる山の神を十二支に例えれば、十二番目が亥となる。亥とは陰陽五行に照らし合わせると全陰となり、女を示す。その対極にあるのは巳であり、全陽を示し男となる。そしてもう一つ、吉野裕子は提言している。ヤマトタケル記の背景には、古代日本を動かしていた二つの信仰があると。その一つは、男に対して持つ女の力と、もう一つは山の神の巨大な力だと。ヤマトタケルは姨である倭姫命から贈られた贈り物によって難を次々と逃れているいるのは、オナリ神の典型的なものであり、山の神に唯一対抗する手段が女の力でもあった。

またヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣は山の神の象徴でもあり、それを携えなかったヤマトタケルは命を落とした。つまりこれこそが、最終的強者であり、絶対的存在とは山の神であったろうと語っている。

東北での山の神とは、女神であるから山で男根を露出したり、海のオコゼを見せると願いが叶うとされた。これは後付けだろうが、オコゼとは月偏を使用する漢字で「鰧」と書き表し、音読みでは「トウ」と読む。これは「刀」からの変化した漢字であるようだ。「刀」の本来は、あの反った形が三日月をイメージしており、月の変若水とも結び付き、いわゆる地母神を現し、山の神と深い関わりを持つ。またオコゼは「虎魚」とも書き記すのは、聖なる山の守護獣の資格を持つものであり、金の鯱(シャチホコ)が城の守護を果たすのと同じ意味を持つ。ところで何故に後付けかというと、以前の
朝廷側の剣は両刃の直刀であり、後に蝦夷の角度のついた蕨手刀の技法を取り入れ日本刀の原型となった為、時代的に山の神を考えた場合、オコゼと刀と三日月を結び付けたというのは、やはり後の時代からだと思うからだ。

また熊野を有する和歌山の沿岸区域では、ヒメオコゼを「イザナギ」と呼ぶというのは、イザナギそのものが海人族の信仰する神であり、それがいつしか山の神と結び付いたのだと思う。オコゼを調べると、海オコゼと山オコゼという二種類ものがあるのがわかった。海オコゼは、海のオコゼそのものであるが、山オコゼとは気味の悪いもの全般を称して山オコゼと言ったらしい。そしてその山オコゼの中に、実は”蝮(マムシ)”が含まれていた。マムシは頭が三角形という、ヘビの典型的な象徴であり、まさに山で男根を露出するというものと、オコゼを捧げるとは同義であった。

そうなれば、気持ち悪いものとして後に海のオコゼが注目を浴びて、いつしか山の神に供えるものとして成り立ったのだろうが、何故海の魚を「オコゼ」と呼ぶようになったのか?「オ」は敬称だとしても「コゼ」とはと調べたら、希望を表わす接尾命令形の古語として、「…シテクレヨ」というものがある。例えば…「それ、よコセ!」というものは、正しくは「それをよこシテクレヨ!」となる。つまり、希望・願望を叶える言葉としての「シテクレヨ」=「コセ」が山の神に対する願いを託す時の「オコゼ」として広まったのではなかろうか?
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「日本書紀」の五十猛の登場する神代の第八に、こうあった…。


素戔男尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が兒の所御す國に、
浮寶有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きてた散つ。即
ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是柀に成る。
眉の毛は是櫲樟に成る。巳にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち稱して曰
はく、「杉及び櫲樟、此の两の樹は、以て瑞宮を爲る材にすべし。柀は以て
顯見蒼生の奥津棄戸に將ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆
能く播し生う」とのたまふ。



つまり、素戔男尊の体の毛を放ち、毛という毛から、様々な樹木が生えて、また樹木の神でもある五十猛命も素戔男尊の息子であるから、日本国に樹木植えて、緑を広げたのは素戔男尊だった。その素戔男尊の息子である五十猛命はやはり「日本書紀」の神代第八段で…。


初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を將ちて下る。然れども韓地に殖
ゑずして、ことごとくに持ち歸る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲國の内に、
播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を稱けて、有功の
神とす。即ち紀伊國に所坐大神是なり。



これより、日本国中を森林の国にしたのは素戔男尊と、その息子である五十猛命によるものだったのがわかる。そしてその森林が発生する山の神として素戔男尊が祀られるというのは納得するものだった。

この「日本書紀」を読むと、まず筑紫から森林を植え始めたとある。現在の九州だ。だから原初の山の神は素戔男尊であった可能性はあり、九州の一部で山の神は素戔男尊であると祀られているのは、日本古来の原初の信仰が残っていたからなのだろう。つまり、だんだん北上するにしたがい、素戔男尊の名前が薄れてきて、単なる山の神という呼称になさって伝わっただけなのかもしれない。いや、今でも東北にはかなりの素戔男尊を祀る神社があるというのは、古代の東北においての山というものは絶対的な信仰の対象であった為、その山の神である素戔男尊の名前だけが残って信仰されてきたのかもしれない。

ここで気になるのは、素戔男尊の毛から生えていない松の木の存在だ。古代日本には松の木は無かったという。それが弥生時代となって輸入されたのが松の木だった。中国・朝鮮半島では松の木は、常緑樹であり、不変の木、神の依代として信仰された木だった。だから、神話や伝承、もしくは能楽などにおいても松の木が珍重されているのはある意味、古代日本の樹木信仰文化を大和朝廷が乗っ取ったという証なのかもしれない。

「日本霊異記」や「今昔物語」などでも、町を覆う大木によって農民が困る為に伐採する話が数多くあるのは、農民=弥生人という文化である為に、縄文文化の駆逐の意味合いが深かったのかもしれない。つまり素戔男尊が山の神であるというのも、大和朝廷にとっては隠しておきたいものであったのだろう。だからこそ祭神を隠し、古代からの信仰された樹木から、新たに輸入された松の木に、その信仰を移動させたのだろう。それは例えば「天女伝説」を普及させ、天女の羽衣が松の木にかけてあるのは、神の依代であるという意識を持たせての伝説の伝播となったのではないだろうか?本来、天女伝説などは全て日本古来の伝説では無いのだから…。
by dostoev | 2010-12-04 07:06 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺232(熊野堂)」

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やはり前と同じ頃の話である。すさまじい大吹雪のある夜のこと、誰か
佐々木君の家の戸を叩く者があるので出て見ると、引摺る様に長い刀
を差した、美しい二人の若侍が家の外に立っていて、俺達は昼間は隠
れて、夜旅をしている者だが、食べ物も無いから、どうか泊めてくれと
言った。

可哀そうに思ったが、その頃はお上のご法度で、このような人達を泊め
ることはならなかったので、二人を村の熊野堂に案内して、米味噌を持
ち込んで凌がせた。こうして二、三日の間二人の侍は堂内に隠れてい
たが、密告する者を怖れたのか、ある夜どこかへ立ち去って、朝行って
見たらいなかったという。

                              「遠野物語拾遺232」

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「遠野物語拾遺232」は維新に敗れ、追われた幕府方の武士のようである。北という地域は、古来から逃げ延びる地でもあった。神武天皇に敗れた長髄彦と安日彦の伝説に始まり、蘇我氏に敗れた物部が逃げ延び、源義経が、長慶天皇、そして土方歳三など、北の地とは最終的に逃げ延びる地でもあるようだ。この熊野堂は、遠野の西から入って来たとした場合、東の果てでもある。この地から山を越えると沿岸区域に出る。古来から蝦夷と呼ばれた北海道へ渡る、一つの逃げルートとして遠野から沿岸経路があったのだろう。義経は、このルートを辿って逃げ延び北海道へ渡ったなどという所謂「義経北方伝説」がこれである。そういう逃げる者達の心理的な流れから、この熊野堂の物語の実在性を感じる事が出来る。

熊野堂は平成17年に建てかえたそうだが、以前の熊野堂と同じ大きさに建てかえたのだという。内部の広さは、せいぜい畳二畳分の広さしかなく、とても大の大人が寝泊りするには狭すぎる。ただし維新当時から平成17年の間に、別に新しくされていたのであれば、その当時の熊野堂の広さはどうだったのか…。現在、以前の棟札はこの熊野堂には存在していないので、なんとも…。

ただし、もしも同じ規模の大きさであったならば、若い侍は密告する者を怖れて立ち去ったのではなく、あまりの狭さに耐え切れなく立ち去ったのかもしれない(^^;
by dostoev | 2010-12-04 06:39 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)