遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」140話~( 14 )

「遠野物語拾遺143(名刀)」

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小友の松田留之助という人の家の先祖は、葛西家の浪人鈴木和泉という者で、当時きわめて富貴の家であった。ある時この家の主人、家重代の刀をさして、遠野町へ出ての帰りに、小友峠の休石に腰をかけて憩い、立ちしまにその刀を忘れて戻って来た。それに気がついて下人を取りにやると、峠の休石の上には見るも恐ろしい大蛇が蟠っていて、近よることも出来ぬので空しく還り、そのよしを主人に告げた。それで主人が自身に行って見ると、蛇と見えたのは置き忘れた名刀であった。二代藤六行光の作であったという。

                                                         「遠野物語拾遺143」

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名刀が蛇になる伝説は今更だが、この藤六行光の流れは、名刀正宗の流れの元となる。「注釈遠野物語拾遺」には、藤六行光の名が登場する歌が紹介されている。

五郎もつたる短刀とりて なかみあらためびっくりいたす

五郎引き寄せ顔打ちながら さては我が子であったか五郎

親はなくとも子は育つ そちの尋ねる父親こそは わしじゃ藤六行光なるぞ


常石英明「日本刀の鑑定と鑑賞」に、藤六行光ではなく藤三行光について記している。

五郎入道正宗の父で、相州伝の元締格に当る名匠。兄大進坊同様の雄壮な作柄ですが、反りはやや浅く、総体に落ち着きがあり品格があります。刃文は沸え本位の中直刃ほつれか、大のたれ乱れを焼き刃縁に働きが多いです。地肌は粟田口の様に良く鍛えられ冴えていますが、鎬寄りに板目肌が現れます。太刃は在銘品が無く、短刀に在銘品があります。

よくわからないのが、藤六行光という名が、実際は藤三行光である事。調べると確かに藤三行光の名前で、短刀の名刀が残っている。この名前の違いは何か意味があるとは思うが、ここではそれを追及しようとは思わない。そしてそれはさて置いて、藤六行光の在銘品は短刀だけであり、太刃には銘が刻まれていないという事実。この「遠野物語拾遺143」に登場する刀は、脇差である短刀という表現を使っていないので、通常の太刃の太刀であると思うのだが、それが藤六行光の作であるというのは事実では無く、憶測という事になる。
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刀工の分布図を見ると、遠野に近いところでは月山系、舞草系、宝寿系の三つがある。以前紹介した遠野に伝わる「呪いの刀 日宝寿」は、一ノ関に属する宝寿系の太刀となるようだ。しかし、鈴木和泉の家では、余りにも有名な名刀正宗の系譜である相州伝の太刀を持っているという憶測、噂は、鈴木和泉の家がそれだけの富貴な家であるとされたからではなかろうか。しかし富貴とはいっても、あくまでも遠野レベルの話である。貧乏藩であった遠野藩は、大量生産の安い太刀を盛岡で買い付けていたようであるが、そういう世に伝わる相州伝系の名刀を手に入れる程の侍が遠野にいたとは、考えられない話ではある。
by dostoev | 2015-05-14 17:29 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺144(刀鍛冶)」

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次には維新の頃の話であるが、遠野の藩士に大酒飲みで、酔うと処きらわずに寝てしまう某という者があった。ある時松崎村金沢に来て、猿ヶ石川の岸近くに例の如く酔い伏していたのを、所の者が悪戯をしようとして傍へ行くと、身のまわりに赤い蛇がいてそこら中を匍いまわり、怖ろしくて近づくことが出来なかった。そのうちに侍が目を覚ますと、蛇はたちまちに刀となって腰に佩かれて行ったという話。この刀もよほどの名刀であったということである。

                                                  「遠野物語拾遺144」

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刀が蛇になるのは名刀という事になるのだが、「遠野物語拾遺142」「遠野物語拾遺143」と、この「遠野物語拾遺144」と、蛇になった刀の話が紹介されている。ところが「遠野物語拾遺142」「遠野物語拾遺143」に紹介される刀は出自が明確で、名工の手による作という事がわかる。しかし、「遠野物語拾遺144」に登場する刀だけは謎である。ただ、この藩士が寝た場所が金沢という事だが、この金沢は金ヶ沢の事であり、蹈鞴場でもあった場所でもある。
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天明三年に出来た「鉄山秘書」という書には、こう記されている。

「奥州には鉄山の有りしよし、出羽の鉄山を之を聞き及ばず。出羽の国は元奥州と一国なりし故に、鉄山は奥州に有りても、出羽と申すやらむ。その訳いまだ之を聞かず。」

実は、江戸時代での出羽刀、出羽鋼というのは、東北の出羽では無く、島根県の出羽村産の事を指してのものであった。島根県・・・いわゆる出雲地方であるが、これは、蝦夷征伐時に、刀鍛冶の技術者を俘囚として西国に連れて行った歴史がある。松本清張「砂の器」で東北弁の特徴であるズーズー弁を話す人物を探しても手掛かりが全く見つからず、言語学者に聞いたところ島根県などに、東北と同じズーズー弁を話す地域があると聞いて手掛かりを発見する。この映画「砂の器」の設定も、東北から連れて来られて住み付いた俘囚達の言語がそのまま残っていた為であった。恐らくその出羽村は、出羽国から連れて来られた俘囚達が名付けた村なのだろう。

出羽の産鉄は、鎌倉時代には無くなっていたと云う。しかし刀工達は、その後も舞草や月山で作刀していたようだ。月山とは刀工の一派であり、鎌倉時代から室町時代に名前の通り出羽国の月山を拠点としていた。恐らく「遠野物語拾遺142」に登場する「つきやま月山」という名刀は、この月山派によって作刀されたものだろう。

そして、岩手県にはもう一つの名刀工である舞草がある。舞草刀の謎は、原料の鉄をどこから調達したかという事の様だ。それは恐らく砂鉄を集めてだろうという事だが、刀の質、鉄の質そのものが当時の刀剣の中でも際立って優れていたという。舞草は平泉近くの地名であるが、その舞草刀の技術は既に蝦夷国に広まっていたいたのだろう。例えば安倍一族が前九年の役で敗走し、隠れた地に大槌がある。大槌の製鉄の歴史は平安時代まで確認できている。平泉近くの舞草刀の技術が大槌まで伝わっていたとして、何等不思議は無い。ましてや、大槌・釜石地域では、砂鉄より良質であり、簡単に鍛造出来る餅鉄が容易に手に入ったという。遠野と大槌の関係を考えても、松崎の金ヶ沢の蹈鞴場で作刀が出来た人物がいた可能性があるかもしれない。ただ、遠野の侍の所持した刀の大抵は、盛岡で買い付けしたものと聞く。そして、遠野での刀鍛冶の話は、明治時代に唯一、新町に一人だけいたという事である。それ以前の刀鍛冶が遠野にいたのかは定かでは無いが、明治時代の新町に住んでいた刀鍛冶者の技術は、どこで修行して得たものであったのかは謎である。

この「遠野物語拾遺144」に登場する名刀は、「遠野物語拾遺142」と同じ月山派によるものであったか、それとも「遠野物語拾遺143」と同じ藤六行光派のものであったか、それとも舞草派の流れを汲むものであったかは、想像を膨らませて考えるしか無いだろう。
by dostoev | 2015-05-13 20:56 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(4)

「遠野物語拾遺148 其の四(二柱の水神)」

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「遠野物語拾遺148 其の一(二柱の水神)」で常陸国の「我国間記」に「我国ノ御山ハ日本開始メの峰ニシテ、豊受産ノ神社有リ、後に尊ノ号ヲ常立ノ尊ト奉称。…即チ太神宮ナリ後に丹州、今ハ伊勢ニ移リシ給フ。伊勢の外宮、近江多賀大社御同神体ナリ。」という文書の一節を紹介した。その常陸国を調べて気付くのは、星信仰が盛んであるという事。神話的な星神では天香香背男、別名天津甕星の本拠地でもある。

ところで悪神と云われた天香香背男だが、何故か頭に天孫族の称号でもある「天」を冠している。これから天香香背男とは地神ではなく、天孫族であったのだろうという予測が付く。その常陸国の那珂川を中心にした地域は那珂郡の領域であり、古代においては中ノ国と呼ばれていた。そして、新井白石によれば天御中主神の拠点であるとされている。
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天香香背男が天孫族では?という事に加え、気になるのが、やはり常陸国に伝わる「花園山縁起」に、こう記されている。

「安倍貞任、宗任ノ兄弟大高城ニ籠リ星ノ御門ノ子孫ナリ。」

安倍貞任が敵である源義家側から「魁偉」という北斗七星を意味する言葉で称されていたのを思い出すが、悪神と云われた天香香背男も本来は天孫族であり、もしかして安倍貞任も本来は、蝦夷国の民では無く、朝廷に属した存在であったのかもしれない。天御中主神も当初は、九州に降臨した後、何故か常陸国に天降ったように、古代の蝦夷国の入り口でもある常陸国は、一つの逃げ場であったのかもしれない。

古来から、例えば蘇我氏に敗れた物部氏は陸奥へと逃げた。また新羅仏教から任那仏教に変換された時、追われた秦氏は北へと逃げ延びた。源義経が逃げたのも陸奥であったし、新しくは土方歳三は福島から、更なる北へと逃げ延びている。権力者の手の届かいな北という地は、絶好の隠れ家でもあったが、もう一つ北へと導く存在に、星信仰があったものと思われる。
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豊受大神と同体であると云われる天御中主神を祭る神社には、妙見社系、水天宮系が殆どだ。また妙見神を最古の八代神社(熊本県)や、有名な秩父神社(埼玉県)もまた天之御中主神を祀っている。そして水天宮は、元は仏教の神・水天を祀るものであるが、神仏分離の際、水天の元となったヴァルナの神格が始源神であることから「記紀」神話における始源神・天之御中主神に置き換えられたものである。しかしこれらの神社を調べても、豊受大神の影を見い出せず、浮かんでくるのは瀬織津比咩という存在となる。

早池峯の水神である瀬織津比咩は別に、妙見と結び付き星の女神でもある。その瀬織津比咩の匂いであり影は、全国の神社に散見するのだが、そこには豊受大神の影を見つける事が出来ない。星の神である天御中主神と同体と云われ、至高の水神であるという豊受大神の影は、あくまでも伊勢神道とその息吹がかかっている場所にだけ存在している。となれば、ここで考えられるのは本来、伊勢神宮内において至高の水神であった瀬織津比咩から、その称号を奪い豊受大神に与え、瀬織津比咩そのものは天照大神の荒魂に押し込めたという疑念が生じてくるのだ。

「我国間記」によれば、豊受大神が伊勢に移ったとあるが、それを瀬織津比咩に置き換えた方が、整合性が取れる。星の繋がりで考えれば、安倍貞任や、その子孫の奥州藤原氏も瀬織津比咩を信仰していた。太白信仰も含め、妙見信仰と繋がる水神信仰にも瀬織津比咩の姿は見えるが、豊受大神の姿をほぼ見かける事が無い事から考えても、恐らく伊勢神宮内で、豊受大神が天照大神を差し置いて至高の存在になったのも、朝廷の祭祀事情の変化から来ていると考えた方が自然な流れとなる。御饌都の神であった豊受大神が、水の徳を意味する御気都の神に変化したのも、また水神である筈の瀬織津比咩が天照大神の荒魂に押し込められたのも祭祀の政治的思惑からであろう。(続く)
by dostoev | 2013-08-11 08:16 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺148 其の三(二柱の水神)」

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宝賀寿男「越と出雲の夜明け」には、一つの豊受大神論が掲載されている。それは早池峯の女神である筈の瀬織津比咩が、豊受大神であるという論考になっている。瀬織津比咩は多彩な神でもあり、水神・滝神・祓戸神・桜神などの変容をみせるが、それらを全て豊受大神が飲み込む形で書き記されており、いささか迷走しているように見受けられる。宝賀寿男の迷走の一つは、御饌都の神である豊受大神を論じていながら、いつの間にか水神である御気都の神の豊受大神を含んで論じているからだ。

伊勢神道の書である一つに「御鎮座伝記」がある。そこには天地の初めの事が記されている。

「大海の中にとある物が出現した。浮かんでいる姿は葦牙のようであった。そこから神人が化生し、天御中主神と名乗った。だからその地を豊葦原中国と号し、この神を豊受大神と言うのである。」

「伊弉諾・伊弉弥二神が大八州を生み、海神、河神、風神などを生んで、一万年以上の時間が流れた。しかし水の働きが現れなかった為に、天の下は飢餓状態となった。そこで二神が八尺瓊勾玉を空に奉げたところ、化生した神を豊受大神という。この神は千変万化し、水の働きを体現して、命を継ぐ作用をするので、御饌都の神という。」


「古事記」では伊弉弥の尿から生まれた神の子でしかなかった豊受大神が中世の神道書では、いきなり伊弉諾や伊弉弥などをすっ飛ばすして、豊受大神は天御中主神と同一とさせ、天地開闢の祖神となってしまっている。その為に、天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮の論争が始まった。内宮の天照大神を蔑にする外宮に対し、内宮側は疑問の質疑をした。

「外宮の神の御鎮座の次第は「日本書紀」に見えていない。だが「風土記」には、丹波国与謝郡比治の眞名井に湯呑した天女と見える。これは外宮の御饌都の神である。」

この質疑に対し外宮側の答えは、常軌を逸しているとしか思えない。

「その天女とは和久産巣日神の子の豊宇気毘売神の事だろう。当外宮の御神の事では無い。出現の時代といい、祖神といい、豊受大神とは雲泥の差があり、懸隔もはなはだしい。一口に御饌都の神と言っても、ある神は神祇官、ある神は機殿、ある神は式内社に祀られている。当外宮においては、調御倉・酒殿に祀る。つまりこれらの神々は種々で、一様ではない。何をもって御饌都の神と呼んでいるのか、いぶかしい。そればかりではない。訴状のいう天女とは和久産巣日神の子だが、詳しい書を見ると素戔嗚尊の子となっている。」

これにより外宮側は、豊受大神の出自である筈の過去の一切を否定し、新たな日本神話の元に豊受大神を位置付けた。「御鎮座伝記」にあるように、豊受大神という水神「千変万化」だという。その千変万化さき瀬織津比咩に通じるのだが、いつの間にか豊受大神もまた千変万化となって、各地に名や形を変えて祀られ、同じく千変万化の瀬織津比咩と混同した。それ故に宝賀寿男は、迷走したのだろうと思える。
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ここでもう一度、伊勢神宮を見直してみると奇妙な事に気付く筈だ。天照大神の荒魂は瀬織津比咩となっている。そして豊受大神もまた荒魂が祀られているのだが、荒魂として祀られているだけだ。和魂と荒魂とは、同属同士が祀られるのが普通である。つまり天照大神が太陽の神、日神であるなら、同じく荒魂も日神であるべきだ。しかし、実際に祀られているのは本来は水神としての瀬織津比咩である。そして水神である筈の豊受大神の荒魂は、恐らく水神の属性を持つ荒魂であろう。それは豊受大神自身の分身である荒魂であるから、当然の事だ。

ここで伊勢神宮の奇妙さに気付くべきだ。広く水神であり滝神として祀られる瀬織津比咩が、何故に伊勢神宮では天照大神の荒魂として祀られ、水神の称号を豊受大神に奪われてしまったのかを。(続く)
by dostoev | 2013-08-10 16:55 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺148 其の二(二柱の水神)」

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とにかく、伊勢両宮神社には天照大神と豊受大神が祀られているが、いつの間にか豊受大神がメインとなり、そして天照大神よりも、豊受大神の神格が上になってしまっていた。「古事記」では伊弉諾の左目から生まれたのが天照大神であり、伊弉諾は「あは子生み生みて、生みの終に三柱の貴き子得たり」と喜んだ筈。それに対し、豊受大神は伊弉弥の尿から生まれた稚産霊の子でしかない筈であるのに、ここまで豊受大神を持ち上げるのは、何等かの理由があったのだろうという事が理解できる。
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一般的な神社の味方に、千木が内削ぎで鰹魚木は偶数であれば女神を祀るとされている。画像は、遠野の六神石神社を撮影したもので、やはり千木は内削ぎで鰹魚木は偶数になっている。ただこの見方は俗信であろうとされているが、千木が外削ぎで鰹魚木が奇数に女神はいないというデータもある事から、ある程度は信用してもいいのだろう。しかし、伊勢神宮は少し違うようだ。
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調べると「宝基本記」というものに、伊勢神宮における千木と鰹木の概念が記されている。

「千木・片削ぎは、水・火の起こりで、天地の像である。日天(天照大神)の千木の片削ぎは、天を仰いで口を開く形をしている。これは、月天(豊受大神)の水を受けて、万物に利生をもたらす濫觴である。水徳に依る故に、豊受大神を御気都の神と号する。」

これは即ち、外宮は天神を表象して千木を地に向けて削ぎ、内宮は地神の表象して千木を天に向けて削ぐという事らしい。しかし皇祖神である筈の天照大神がいつの間にか地の神に零落していたのには驚くばかりだ。

度会常昌は、鎌倉後期から南北朝時代にかけての伊勢神宮(外宮)の祠官で、中世伊勢神道確立期の学者であり、外宮一禰宜度会(檜垣)良尚の子であった。その度会常昌が「太神宮両宮之御事」を著しているが、そこにはこう記されている。

「外宮は陽神、水徳の神でいらっしゃる。これは一陽一院の義である。また天神の始祖である。内宮は地神の始祖で、陰神で火徳を備えていらっしゃる。これは一陰一陽の義である。」

そう既に中世には、天照大神は地神へ零落していたのだ。ただ解せないのが、水徳の神であるという豊受大神が陽神であるという事だ。陽神とは大抵の場合、男神である。陽は火でもあり、男神となり、水は陰であり、女神となるのが一般的の筈だ。例えば偽書と云われる「ホツマツタヱ」などによれば、天照大神は男神と記されており、天照大神そのものはいろいろな例から、本来は男神であったろうと云われている。つまり本来の陽神とは天照大神であり、それに相対する水神は陰神である女神でなければならない筈だ。

ここで考えなければならないのは、何故に天照大神が女神となり、その影響から何故に豊受大神が水神となって陽神とならなければならなかったのか?だ。

「止由気宮儀式帳」によれば御饌都の神として豊受大神は伊勢に勧請されたとある。やはり中世の「神皇実録」には「天御中主神は、一水の徳によって万物の命を救った。だから名付けて"御気都"の神という。」

また、豊宇賀能売命を祀る羽衣伝承のある奈具神社でのトヨウカノメとは酒殿の神であると記されている。しかし「神皇実録」によれば、奈具神社のトヨウカノメとは酒殿神であり、それは御饌都であり御饗都の意であり、決して「水の義」である御気都では無いとしている。

ところが現在の伊勢神宮の外宮に鎮座する豊受大神とは御気都の神とされ「水の至高の神」とされている。簡単に言えば、食の神として入った筈の豊受大神が、いつの間にか天照大神を地神に追いやり、自らは至高の水神に昇華したという事。これはどう考えてもおかしい事だ。(続く)
by dostoev | 2013-08-09 08:24 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺148 其の一(二柱の水神)」

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附馬牛村から伊勢参宮に立つ者があると、その年は凶作であるといい、これを
はなはだ忌む。大正二年にもそ事があったが、果して凶作であったという。

また松崎村から正月の田植踊が出ると、餓死(凶作)があるといって嫌う。

                     「遠野物語拾遺148」
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遠野に天照大神が正式に祀られているのは、取り敢えず遠野と上郷の伊勢両宮となる。両宮とは、伊勢神宮の内宮と外宮を合わせて両宮という。単純に説明すれば、天照大神を祀るのが内宮で、豊受大神を祀るのが外宮という事。その両方を合わせて両宮という表記になる。

ところで神話的な位置に立って考えた場合、凶作などの天変地異が起こる場合は、何かの神の祟りである場合が殆どである。凶作などはたまたまの場合であろうが、その原因を神の怒りと考えた方が、昔は自然であった。
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八戸氏によって称された附馬牛三社の一つで、お神明様と呼ばれ、天照
大神を祀る。創立の年代は明らかでないという。ただ神明という語句が
伊勢神宮を指すものとして用いられるようになったのは王朝末期からで、
伊勢神宮はじめ皇室の氏神として庶民の参拝を許さなかったのが、その
頃から許されるようになったのだという。それから急速にお伊勢参りの
信仰が広まり、一生に一度は必ず参宮に行くべきものだという通念が持
たれるようになったのだと。

昔、この神社を新山神社に合祀する事になって神輿を新山神社に移した
ところ、その日から雨風が続いて農作物の被害が甚だしかったので、氏
子達が協議の上、再び神輿を元に戻して安置したと云う。ところが不思
議にも、その日から天候が回復して豊作になったと伝えられる。

                    「附馬牛村誌(御祖神社)」

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以前も「遠野物語拾遺148」の記事を書いたが、早池峯の神と関係しそうであるが、答えには至らなかった。つまり、神の祟りが何故に起こるのか理解できなかったからだ。しかし、お伊勢参りを調べてみると、違和感を覚えた。何故なら、一般的イメージでは伊勢神宮とは皇祖神である天照大神を祀り、それに参拝しているものと思っていた。ところが、江戸時代の太平の世から盛んになったお伊勢参りの主役は天照大神では無く、豊受大神を主体に参拝されていたようだ。

戦国時代が終わり、徳川幕府となって全国が統治され、農民は戦乱を気にする事無く、農業に専念する事が出来た。そうなれば、実質的な御利益がありそうな豊穣を叶える神を参拝するのは至極当然の事だ。農民にとって、天照大神だろうが豊受大神だろうが、どちらでも良かった筈だ。また戦国の世で落ちぶれた伊勢神宮も、復活の切り札として豊受大神を前面に押し出したのも大きかったのかもしれない。ただ豊受大神そのものは良いだろうと思っていたが、その豊受大神は何故か御饌都の神から御気都の神へと変わっていた。
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豊受大神は「古事記」において「尿に成りませる神の名は、弥都波能売の神。次に和久産巣日の神。この神の子を豊宇気毘売の神といふ。」と記されているが、これでは何故、伊勢神宮の外宮に祀られているかわからない。
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しかし伊勢神宮外宮の社伝「止由気宮儀式帳」では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ「高天原からこの地に鎮座したものの、一柱で並んで鎮座する神がいない。そのため御饌を心穏やかに取る事が出来ないでいる。だから丹波国の比冶(比沼)真奈井にいる御饌の神、止由気神を、私の御饌都の神として呼んで欲しい。」と告げた事から、丹波国から止由気を勧請し、御饌殿を造って天照大神の朝の大御饌・夕の大御饌を調進する事にしたとある。

しかしだ、常陸国の「我国間記」「我国ノ御山ハ日本開始メの峰ニシテ、豊受産ノ神社有リ、後に尊ノ号ヲ常立ノ尊ト奉称。…即チ太神宮ナリ後に丹州、今ハ伊勢ニ移リシ給フ。伊勢の外宮、近江多賀大社御同神体ナリ。」とある。丹州とは、丹後国と丹波国の両国を含む中国風の別称となる。この「我国間記」の信憑性には疑問符が付くものの、逆に何故にこう書かれたのかという期待にも満ちた疑問が湧きおこる。何故ならば「丹後国風土記」の伝承が豊受大神が丹波国から勧請されたという裏付けにされているからだ。

その「丹後国風土記」では「丹後国丹波郡比治山の頂に眞名井という泉があった。この泉で天女八人が天降りして水浴びをしていたとき…。」と記されているが、例えばニギハヤヒが出羽の鳥海山へ天降りしたというのは、元々ニギハヤヒが出羽にいたわけではなく、移り住んだという意味となる。つまり豊受大神も丹波国以前には、違う国に居た事にならないだろうか。それを意識した時に、この「我国間記」の信憑性が浮かび上がる。更に気になるのは、豊受大神が「近江多賀大社御同神体ナリ。」という記述だ。ここで思い出すのは「多賀大社文書」に記されている勧請記述だ。遠野の多賀神社に勧請された神とは、何故か伊弉諾と弥都波能売神となっている。日本全国の多賀神社には、伊弉諾と伊弉弥が勧請されているのに、何故に遠野の多賀神社には伊邪那美では無く弥都波能売神となっているのか?

ここでもう一度「古事記」の豊受大神の発生を振り返れば、伊邪那美が火之迦具土神を生んだ後の尿によって弥都波能売神と和久産巣日神が生れている。その神の子…一般的には和久産巣日神の子が豊受大神というのだが、どこかに複雑に絡み合った関係が見えてくるのだ。何故なら、弥都波能売神と和久産巣日神の名を羅列した後に「この神の子」となっている為、弥都波能売神の次に記された和久産巣日神の子が豊受大神であるとされているが、正しく和久産巣日神の子が豊受大神であるとは記されていないのだ。ただ言えるのは、豊受大神は御饌都の神であり、和久産巣日神は穀物の生育を司る神である。その共通性から豊受大神は、和久産巣日神の子とされたのだろう。
by dostoev | 2013-08-08 17:45 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(1)

「遠野物語拾遺145(逆・魂呼ばい)」

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遠野町の相住某という人は、ある時笛吹峠で夜路に迷って、
夜半になるまで山中を迷い歩いたが、道に出る事は無かった。
いよいよ最後だと思い、小高い岩の上に登って総領から始め
て順次に我子の名を呼んで行った。そうして一番可愛がって
いた末子の上に及んだ時のことであったろうというが、家で
熟睡をしていたその子は、自分の軀の上へ父親が足の方から
上がって来て、胸のあたりを両手で強く押しつけて、自分の
名前を呼んだ様に思って、驚いて目が覚めた。

その晩はもう胸騒ぎがして眠られないので、父親の身の上を
案じて夜を明かした。

翌日父親は馬の鈴の音をたよりにようやく道に出る事が出来、
人に救われて無事に家に帰ってきた。そうして昨夜の出来事
を互いに語り合ったが、父子の話は完っく符節を合せる様で
あったから、シルマシとはこのことであろうと人々は話し合
ったという。

                     「遠野物語拾遺145」
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実際に起こり得るかどうかはわからぬが、似たような話を心霊特集などで聞く事がある。古くは「源氏物語」に登場する生霊に似たようなと考えても良いのかもしれない。人が、その体を抜け出して行為をする場合、それは魂が抜けだしたものと信じられていたようだ。

魂という言葉の初めは、中国の戦国時代(BC403年~)の篆書に初めて登場したといわれる。「徒然草(第四十七段)」「くさめくさめ」と唱える尼の話があるが「くさめ」とは、クシャミが出た時に唱える呪文で、クシャミをすると魂が抜け出て死ぬと信じられていたようだ。「くさめ」の語源は「休息万命(くそくまんみょう)」とも「糞食め(くそはめ)」とも云われるが、恐らく抜け出た魂を連れ去ろうとする悪鬼に対し「糞食らえ!」と言う呪文だろうという説が強い。

また欠伸をしても魂が抜け出るなど、どうやら大きな口を開けると魂が抜け出ると信じられていたようだ。となれば「遠野物語拾遺145」での場合、自分の命の最後だと思い、自分の思い人の名を大声で出した事により、魂が口から抜け出て、一番可愛がった末子の元へと向かったのだろうと思える。
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夜の笛吹峠の下には、河内川が流れる。古くから呪詛を成すのは、神社や川辺であったようだ。

「平家物語」においての橋姫の願いに対し貴船明神は橋姫を哀れと思い「誠に申す所不便なり。実に鬼になりたくば、姿を改めて宇治の河瀬に行きて三七日漬れ」と示現あり。女房悦びて都に帰り、人なき処にたて籠りて、長なる髪をば五つに分け五つの角にぞ造りける。」橋姫は川に浸かって想いを成就したようだが、それを願った相手は水神でもある貴船明神となる。
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日本には三途の川の信仰があり、インドでも魂は川を流れると信じられている。川という水辺は魂の行き交う場所である為か、その自らの魂がリアルに再現するのかもしれない。笛吹峠の下を流れる川内川には緒桛の滝からの水が、流れ落ち注がれている。そこには不動明王が祀られ、元々信仰の地でもあった。しかし笛吹峠には多くの怪奇譚が溢れかえり、それが夜ともなると確かに相住某は生きた心地がしなかっただろう。だからこそ命が最後だと思い、魂を絞り出すように大声で我が子の名を叫んだのだろう。

人が死ぬと、その傍で大声を出してその者の名を叫ぶと言う。そうする事によって魂が再び肉体に戻り生返ると信じられていた。それを「魂呼ばい」という。この「遠野物語拾遺145」の最後に「シルマシとはこのことであろう…。」とは書き記しているが、これは恐らくシルマシでは無く「魂呼ばい」の逆パターンであったのだと思う。上田秋成「雨月物語」「菊花の約」は、友との約束を守る為に自らの命を絶ち、魂を飛ばせた行為であった。「遠野物語拾遺145」の話は「菊花の約」のそれと同じものであるのだろう。魂を可愛い我が子まで飛ばす条件は揃っていたのである。
by dostoev | 2012-09-12 07:38 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺140(程洞稲荷由来)」

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遠野の裏町に、こうあん様という医者があって、美しい一人の娘を
持っていた。その娘はある日の夕方、家の軒に出て表通りを眺めて
いたが、そのまま神隠しになってついに行方が知れなかった。

それから数年後のことである。この家の勝手の流し前から、一尾の
鮭が跳ね込んだことがあった。家ではこの魚を神隠しの娘の化身で
あろうといって、それ以来一切鮭は食わぬことにしている。今から
七十年前の出来事であった。

                               「遠野物語拾遺140」

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以前、この程洞神社の別当である宮氏から生前に聞いた話だが、阿曽沼の末裔が、この程洞神社の奥にひっそりと住んでいたと聞いた事がある。それを調べると、一人の人物が浮き上がった。その名を四戸道雲(道義)と云う医者を生業とする人物であった。

道雲は、阿曽沼が関ヶ原の決戦に参加している隙に、遠野城は南部氏に占領されてしまった事件があった。その後南部氏の統治する遠野へと道雲は自分は医者だからという事で、お構いなしに城下に住んで医療活動を続けている最中に悪い噂がたった。「道雲は阿曽沼の一族だから、いずれ南部怨みををはらそうとするだろうから、南部の者達が道雲から診療を受ける事は危険だ。」というものであったようだ。

敵味方関係無く、医は仁術であると思っていた道雲に、この南部の噂は頭にきた様で、城下の住まいを引き払って、程洞神社の奥に居を構えたという。しかし道雲は名医であったから、多くの百姓や町人が道雲を慕って、この程洞まで診て貰いにきていたという。
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城下を引き払った道雲は一緒に崇敬していた薬師如来も移転させたので、その薬師の参詣人も多くて道雲は気を良くしていたという。しかし、現在の程洞には薬師如来を祀っていた形跡は無い。

道雲の薬師如来への信仰は厚かったらしく、それは当時の医療では全てを治す事は出来ない。そこにもう一つ、神仏の加護が必要であるとし、阿曽沼氏の信仰していた薬師如来を信仰するよう、病人にも勧めたという。現在、横田城跡に薬師堂なるものがあるが、恐らくその薬師がこの程洞でも祀られていたのだろう。

この程洞は、明治時代の神仏分離の際、稲荷神社として通したそうである。ただし他の稲荷神社の農業の加護とは違い、人間の病にも加護を賜るという御利益があり、それも特に女性の病に対しての加護があると評判であったようだ。
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道雲の子に景雲という息子がおり、やはり父・道雲同様医術に長けていたようだった。

年老いた道雲の死は安楽であったようで、イビキをかきながら寝て、そのまま目を覚まさなかったという。その道雲の死後、屋敷の敷地内に阿曽沼守神の側に道雲のお墓を建てたという。そしてその道雲が亡くなった8年後、今度は息子の景雲が四十代で亡くなったという。程洞には薬師如来も含め、道雲と景雲の御霊屋を建てて、三つの社が並んだという。人々は、この三つの社に願掛けすけば、どんな病も治ると信じ、参拝人が絶えなかったそうである。

程洞稲荷の別当である宮家の菩提寺は、新町の常福寺である。宮家自体の墓所は平成になって建てられたものであるから、もしかしてそれ以前に道雲と景雲の墓も、この常福寺に移転されたのであろうか?今の程洞には、その墓らしきは見当たらない。
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実は景雲にも息子がおり、その名を弘雲といった。祖父である道雲が死に、その後に父である景雲が死んだ後、若くして程洞で、そのあとを継いだという。若いが祖父や父以上の名医であると讃えられた弘雲の名声は大変なものであったらしく、他領の殿様からもわざわざ迎えられ診療した程であったようだ。益々診て貰いに来る人々が増えると共に、程洞は便が悪いと不平が出たのもあり、また弘雲家族からも苦情が出た為に程洞から離れ、城下に移り住んだという。ただし南部城下である為、阿曽沼の家臣であった四戸の姓を捨て、宮氏の跡を継ぎ、宮弘雲と名乗ったという。恐らく「遠野物語拾遺140」に登場する"こうあん様"とは、宮弘雲(四戸弘雲)であるのだろう。
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弘雲の死後、その子供の太郎吉と治郎吉は父の跡を継いだが不肖の子で、医術も極めず酒や色に耽ってしまい信用を失い、また放蕩の限りを尽くしたので、代々からのせっかくの蓄えを食いつぶしてしまい、弘雲の時代に移り住んだ新町の家を出、河原で過ごす事になさったという。

実は、父である弘雲の死も、鮭漁見物に行った際に勧められた鮭汁を食べたからだとか、その子供達が没落したのも鮭の祟りであると噂されたようである。ただし「遠野物語拾遺140」においては、娘が神隠しになった為、鮭を食わぬようになったとされているが、真意は定かでは無い。
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実は、この程洞稲荷は明治の神仏分離の時、神仏混合の疑いをかけられ、総代達協議の上、阿曽沼守神薬師如来や道雲や景雲の墓や医療護神の本尊を廃棄し、程洞稲荷神社として国から承認されたという。恐らく四戸代々の墓は、現在常福寺において無縁仏として、どこかにあるのかもしれない。ただし四戸家で祀っていた医療護神の本尊の行方はわからない。その本尊を総代の誰かに委託したのか、はたまた本当に廃棄されたのか。現在の宮家では、程洞からの水を敷地内まで引き守っている事から、医療護神とは水に関するものであったのかと思う。それは、この敷地内にコンセイサマが不動の剣と一緒に祀られる事から、そう想像するしかないのだ。

ところで程洞だが、この正確な名称の由来も定かでは無い。「ホト」もしくは「ホド」は女性器を意味し、また「洞(ホラ)」もまた、同じ意味を持つ。この程洞神社自体が、医者であった四戸一族の医療行為によって特に、女性の病に対して特別な御利益があった事から程洞と名付けられたのかもしれない。
by dostoev | 2012-09-11 18:09 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺147(ロウソクの焔)」

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蝋燭の火の芯に青い焔が無い時には、火災変事などが起るといわれている。
先年遠野町の大火の時も、火元に近い某家の夫人が、その朝に限って神棚の
御燈明に青い焔の見えないのを、不思議なこともあるものだと思っていたが、
間もなく近所から出火してあの大事になった。

                       「遠野物語拾遺147」

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今の時代とは違い、昔は「ゲン担ぎ」「縁起担ぎ」という習俗が、かなり広まっていた。日常と違う場合に対して、ある意味恐怖を感じていたのだろう。現代となると、スポーツ関係者に、やはり似たような「ゲンを担ぐ」習俗が続いているようだ。

例えば、御飯茶碗は左で、味噌汁椀は右と。それが逆になれば、死人を意味するとなるが、現代では左右を気にしないで食べる人も、意外に多くなっているよう。

この「遠野物語拾遺147」も日常と違う現象は、不吉を呼ぶという意識が働いた為だろう。火災が起きたのは、たまたまと言えるし、昔はすぐに火災が起きたので、そういう偶然が重なると、その時代の"都市伝説"というものが生れる可能性はあった。

蝋燭の火は、人の命を左右するとも云われる。確か「死神」という話には、多くの人々の命を左右する蝋燭の焔が揺れており、その火が消えると、その人物は死んでしまうというものがあった。

またお盆には迎え火を焚いて、死者の霊魂を呼ぶ目安としたり、また火によって財産を失ったり、肉体をも焼き尽くしてしまう。つまり火は、生死に関わる存在であるのがわかる。

ただ神社仏閣で蝋燭を灯すというのは、その場を清めるという意味がある。例えば不動明王の名が書かれた紙を燃やして、その灰を水に落として飲むと病気が治るという迷信は、不動明王の背後に燃える炎が、悪しきものを焼き尽くすと考えられていたからだ。つまり、悪しき不浄なものを焼き尽くす炎は、その場を浄化するという意味合いを持っていた。だから、その焔の色合いが通常とは違うというのは、やはり不安になるのだろう。

となれば「遠野物語拾遺147」において青い焔が見えないというのは、単にゲン担ぎというだけではなく、通常の浄化の焔では無いと思われた為に、不吉と考えた可能性はある。
by dostoev | 2011-12-27 17:10 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺149予知夢?」

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遠野の某村の村長は青笹村の生れで、若い頃はその村の役場に書記を
勤めていた人である。その頃春の清潔法執行の為に、巡査と共に各部
落を廻っている時のことである。

ある夜夢で村の誰かれが葦毛の馬の斃れたのを担いで来るのに出逢っ
た。そうしてその翌日現実にも、葦毛の死馬を担いだ人々に行逢った
が、その場所やその時の模様までが、夢で見たのとそっくりであった。
あまりの不思議さに今でも時々この夢を思い出すと、その人の直話で
ある。

                              「遠野物語拾遺149」

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真っ先に思い浮かべるのは、恐らくデジャヴかなとも思う。だが、曖昧である筈の夢をしっかり覚えている事から、ある意味予知夢として捉える事ができる話だ。

しかし、人間の脳とは情報の積み重ねでもある。作曲家のロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、多くの幻覚を見たと云われている。彼は作曲中に絶えず葬式の行列が浮かんできた時があったと。作曲中に疲労困憊し、時には涙が流れてどうしようもなかった最中に一通の手紙が届いて、兄であるエードゥアルトの死を知った時、シューマンはそれを予知と捉えた。しかし、実は立て続けに別の兄であるユーリウスや、また違う兄であるカールの妻の死を目の当たりにしていた。つまり予知というよりも、予感であったのだと思う。

予感というものも、ある程度の情報が蓄積されて、未来を予感してしまうものだ。例えば、老婆の年齢と病状を知っているからこそ、長くは生きまいという判断を下してしまう。判断を下す事によって、脳に深く刻まれて突然の老婆の死に対面した場合でも、自身の中に『やはり…。』という、予知に近い意識を組み込む事が出来るものだ。

また占いも、事前に個人の情報を聞き出す事ができるから、ある程度無難で、どちらとも取れる漠然とした答えを用意できるもの。全ての理には情報の蓄積が、必ずあるものだ。

馬が死ぬ場合は、老衰の場合もあるのだが、事故に巻き込まれるか、もしくは極度の疲労が重なった場合、または病気によるもの。馬の場合は疝痛で死ぬ場合は、かなり多い。

「遠野物語拾遺149」では、葦毛の死馬を担いだ人々にあったと書かれているが、これは恐らく馬の卵場…つまり馬の墓地に運ぶ途中に遭遇したのだろう。大勢の…と記されている事から、隣近所の人間が集まって馬を運んでいるのは、ある程度、死を予感していたからに違いない。何故ならば、一つの共同体での作業には人手が必要となる。その場合は事前に示し合せる必要があるからだ。隣近所の人間が、野良仕事に行った後では、なかなか、馬を運べるような力のある若者達が揃わないであろうから。

つまりだ「遠野物語拾遺149」での村長まで務めた人物の若い頃に巡査と各部落を廻っていたという事から、自然にいろいろな情報が蓄積されていったに違いない。夢とは、その人物に刻み込まれた情報の具現化でもある。

画像は、ハインリッヒ・ヒュースリー「夢魔」。絵の中に馬が登場しているが、馬とは古今東西、性的なシンボルとされてきた。以前、アメリカで馬にまたがり海岸線を走る女性のCMがワイセツだと非難され、放送禁止になった事件?があった。性的シンボルの馬と女性の結び付きは、ワイセツであるという事だ。遠野にも、娘と馬の結び付きを示す「オシラサマ」の話があるが、あの話もまた性的なものである。ハインリッヒ・ヒュースリーの「夢魔」もまた淫靡な夢を見せているイメージとして馬が描かれているのだろう。

遠野に住む、この話の主人公もまた葦毛の馬と娘の物語である「オシラサマ」の話を知っていた事であろう。若い頃と記されている事から、性的なものに興味津々の時代であったのだとも思う。その時に、死にそうな葦毛の馬の情報を知り、それらを意識すればこその夢だったのではないかと思えて仕方無いのだ…。
by dostoev | 2011-12-26 05:18 | 「遠野物語拾遺考」140話~ | Comments(0)