遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」100話~( 10 )

遠野物語拾遺104(大草履)

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ある人が鱒沢村から稗貫郡の谷内へ越える山路で、山男の草履の脱いであるのを見た。篠竹で作った、長さ六尺もあろうかと思う大きなもので、傍の藪の中には赤顔の大男が熟睡していたそうである。これは大正の始め頃のことで、見たという本人はその頃五十位の年配であった。

                     「遠野物語拾遺104」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
画像は、綾織の羽黒神社入り口に飾られている、石で出来た大きな下駄。羽黒岩の天狗伝承を意識して作られたものだが、「遠野物語拾遺104」に登場する六尺の草履と同等の大きさだろう。これを履ける者は天狗というより巨人であろうか。伊勢から熊野にかけて、大草履を作って海へと流し、海の彼方から来ると云われる巨人に対抗する習俗がある。つまり、巨人の足より大きな草履を作る事によって「お前より大きい奴がいるんだぞ!」と、巨人を恐怖させ、こちらに来ない様にする為の習俗である。大きいものを作るとは、相手を威圧する為であり、古代ヨーロッパでも大きな鎧を作って置いて、敵がそれを見て怯え、戦わずに逃げたという伝説もある。それと同じなのが、伊勢から熊野に伝わる習俗なのだろう。つまり、それは遠野にもあったのだろうか?「遠野物語拾遺104」の描写には大男が熟睡していたとあるが、果たしてその草履の持ち主である程の巨人であったのかは定かでは無い。

巨人は日本において、ダイダラボッチなどと云われる。それは大太郎(ダイダロウ)や大平(ダイダイラ)山などとも伝えられるが、遠野の九重沢は太平山があるが、これは茨城県、当時の常陸国の流れから来ているだろう。その常陸国にはダイダラボッチの伝承が多い。また遠野市青笹町に大草里(オオゾウリ)という地名があり、これもダイダラボッチに関係するのかもしれない。またデンデラ野も、呼び方によってデンディラなどと呼ぶ事から、ダイダラボッチにも繋がりそうだ。

ダイダラボッチの原型は蹈鞴(タタラ)から来ていると云われる為、蹈鞴筋の山への流入と共に、里の人達を山の蹈鞴場に寄せ付けない為、大きな草履を作った可能性も否定出来無いだろう。登場する谷内という地名は、東和町の丹内山神社に、江刺の谷内とも関係がある棟札がある事から丹内も谷内も同じであるとされる。丹内山神社も製鉄と関係される事から、谷内=丹内=胎内=蹈鞴は同じであるとされる。蹈鞴の溶鉱炉をホトと呼び、その内部は胎内である。その蹈鞴筋が居付いた製鉄の地に谷内・丹内などという地名が付くのは、当然の流れであろう。その蹈鞴筋には修験者も関係し、小友町の能傳房神社もまた採掘・産金のの民の蹈鞴筋との繋がりがある。羽黒修験の羽黒堂の入り口に、大きな下駄のオブジェを飾るのも、その流れに沿ったものであったか。
by dostoev | 2017-07-25 08:56 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(18)

遠野物語拾遺103(里人の意識)

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同村字山口の火石の高室勘之助という老人が中年に、浜歩きを業としていた頃のことである。ある日大槌浜から魚を運んで帰る途中、山落場という沢の上まで来て下を見ると谷間の僅かの平に一面に菰莚を敷き拡げて干してあった。不思議に思って、馬を嶺に立たせて置いて降りて行って見たが、もう何者か取り片づけた後で、一枚も無かったという。この老人は明治の末に八十三で死んだ。これはその孫に当たる者から聴いた話である。

                       「遠野物語拾遺103」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
火石という地名には正福院という山伏系の家があった。その奥に、その家で祀っていた「遠野物語拾遺232」にも登場する熊野堂がある。また、宮守に火石沢という地名があり、やはり修験が入った場所と云われ、タタラ場もあったと云われる。火石という名は、まさにそうなのだろう。

「注釈遠野物語拾遺」によれば、高室勘之助は財産家であり、後に遠野の町へと引っ越したという。つまり、大槌の浜から魚を運んで商売をし、財を成したのだろうか。
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山落場という沢とは、琴畑の林道を登れば、樺坂峠があり、その西斜面が山落場沢であるという事だ。ここ数年の間に営林署が、細かな沢でも、その名が分かるよう表示をしたので、簡単に確認ができる。

ところで、樺坂峠から白望山の登山道方面へ行くと、金糞平というタタラ場がある事から、山にも人が住んでいたのはわかっている。そういう事から、菰莚は山に住む人が虫干しにしていたものだろうが、何に使用したものかはわからない。これは里の者が「山には人が住んでいる筈が無い。」という前提での話である。
by dostoev | 2015-02-27 19:54 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(10)

遠野物語拾遺101(餅)

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これとやや似た話が二戸郡の浄法寺にもあったそうな。遠野の事では無いがこのついでに書いておくと、浄法寺村字野田の某という者、ある日山へ行くとて途中で一人の大男と道づれになった。大男はしきりにお前の背負っている物は何だといって、弁当に持って来た餅をなぶりたがって仕様が無かった。これは餅だと言うと、そんだら少しでいいからくれと言う。分けてやると非常に悦んで、お前の家でははや田を打ったかと問うた。まだ打たないと答えたところが、そんだら打ってやるから何月何日の夜、三本鍬といっしょに餅を三升ほど搗いて、お前の家の田の畔に置け。おれが行って田を打ってくれると言うので、某も面白いと思って承知をした。さてその当夜餅を搗いて田の畔へ持って行って置き、翌朝早く出て見ると、三本鍬は元の畔の処にあって、餅はもう無かった。田はいかにも善く打っておいてくれたが、甲乙の差別も無く一面に打ちのめしたので、大小の畔の区別も分からぬようになったという。その後も某はたびたびその大男に行き逢った。友だちになったので山へ行くたびに、餅をはたられるには弱ったということである。大男が言うには、おれはごく善い人間だが、おれの嚊は悪いやつだから、見られない様にしろとたびたび言い聴かせたそうである。これも今から七十年ばかりも前の事であったらしい。

                                                  「遠野物語拾遺101」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山の者が餅を食べるで思い出すのは、山姥が餅に魅かれて逆に焼けた石を食べさせられた"白髭の洪水"の話がある。餅は里の田圃で作る糯米から作られるものであるから、山には無いものである。つまり、ここでは里の者と山の者との物々交換の約束が成り立っている。ただし、米そのものを食べる事の出来た農民は殆どいなかったという事から「山へ行くたびに、餅をはたられるには弱った」というセリフが切実に感じる。とにかく山男をここまで働かさせる餅は、余程の魅力があるのだろう。ただ餅は鏡餅とも言う事から、鏡と同等のものであるとも云われる。そして、カガは蛇の古語であり、鏡餅そのものが蛇のとぐろを巻いた姿を現していると云われる事から、山との繋がり、恐らく山男や山姥との繋がりも見出せる為、山男が餅を好むのは当然なのかもしれない。
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「山城国風土記」には、伏見稲荷の縁起が紹介されている。秦伊侶具は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って山の峰に留まり、その白鳥が化して稲が成り出でたので、これを社名としたとある。ところが「豊後国風土記」の出だしには、稲荷縁起とは逆に白鳥が餅と化して豊かな国となって豊国という名になったとする。しかし、同じ豊後の田野という地で、餅を的にして射たら白鳥になって飛んで行ったその年に百姓達が死に絶えたという。これは「山城風土記」の伏見稲荷縁起と同じパターンでありながら、方や栄えて、方や滅びている。「豊後国風土記」の序文に則れば、本来の伏見稲荷の縁起は不幸に見舞われたのを改竄したのではなかろうか?それは白鳥が餅になったのは、幸福が舞い込んだものであり、餅が白鳥に変って飛び去って行くのは単純に、幸福が去って行くように思えるからだ。

ところで画像は伏見稲荷の神符であるが祀られている神は、宇迦御魂命という穀霊神だ。この神符の下には狐が居て、陰陽五行によれば、黒い狐は水を意味し、白い狐は金を意味する。そして、この神符の中央には米俵に乗った蛇の姿が描かれている。宇迦御魂命の「宇迦」は梵語で「白蛇」を意味する事から、伏見稲荷の根本は蛇神信仰であったのだろう。先に書いた様に、鏡餅は蛇のとぐろを巻いている形であるが、この米俵に乗った白蛇は恐らく鏡餅を意図しているのではなかろうか。また、首の長い鳥は蛇とも同一視された事から、白鳥は白蛇とも同等であるといえる。そして、伊勢神宮の外宮における豊受大神も倉稲魂命も白蛇を本体とするという事から、白蛇がどれだけの力を持っているかわかるというもの。その白蛇は、山神と繋がり、それが餅で現されるのならば、山男がどれだけ餅を欲するか理解出来るというものだろう。
by dostoev | 2015-02-26 16:29 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(2)

遠野物語拾遺105(蝮捕り)

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同じ頃の話だというが、松崎村字駒木の子供が西内山で一人の大男に行逢った。荻草刈時のある日の午過ぎのことであった。その男は普通の木綿のムジリを着て、肩から藤蔓で作った鞄の様な物を下げていた。その中には何匹もの蛇がぬたくり廻っていたそうである。子供は驚いて、路傍の草叢に入ったまますくんでいると、その男は、大急ぎで前を通り過ぎて行ってしまった。それでやっと生きた心持になり、馳出して村に帰り著いたという。正月の遊びの夜、若者たちから聞いた話である。

                                                    「遠野物語拾遺105」

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この話は、「遠野物語拾遺104」と同じ頃の話だとしているが、目撃者は子供である事から子供の視点から大きい男であるという意味と、子供にとって不気味に思えた男の話という事になろう。私も子供の頃は蛇を恐ろしく思い、蛇の恐怖を克服したのは中学生になってからだった。それでも周りはまだまだ蛇を怖がる者が多く、大人になっても嫌いな生物のトップになるのは蛇である。その蛇が何匹もうねっているのを見れば、子供だろうが大人だろうが恐ろしく、気味悪く感じるのは普通なのであろう。

蛇は食糧とされる場合があるが、その蛇の中で一番美味しいとされるのが蝮である。また蝮は、薬効効果もあり、蝮を生殺しにした後焼酎などに漬け込む蝮焼酎が人気がある為、今でも遠野では一升瓶に生きたまま入っている蝮を売っているドライブインもある。岩手県内には、久慈市と花巻市に蝮センターがある為、蝮を捕まえてお金にしている人もままいるようだ。昭和五十年代に、久慈市に有名な蝮捕り名人の婆様がいたが、その婆様の長生きの秘訣は、生きた蝮の目玉を食べる事だと、テレビでその蝮の目玉を喰らうシーンを放送していたが、少々グロすぎた内容だった。昔の見世物小屋で蛇を喰らう女の出し物と、婆様の蝮の目玉を喰らうのと何等変わりは無いものだった。

東館に住む某氏によれば、遠野にも蝮捕りの名人がおり、素手で複数の蝮を捕まえ、片手に何匹もの蝮の首根っこを摑まえながら、片手で軽トラックを運転する豪の者がいるという。その蝮も場所によっては減ったとも云われるが、どうなのであろう?去年は笠通山で蝮に二度遭遇したし、綾織の二郷山の二郷神社は、蝮を神として祀る神社だとも云われる。攻撃的な動物が神になる場合が多々あるが、確かに蛇の中でも攻撃的で毒を有する蝮は、神に等しい存在となろうか。
by dostoev | 2015-02-24 20:44 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺102(山に住む)」

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明治も末のある年、土淵村栃内大楢の大楢幸助という兵隊上りの男が、六角牛山に草刈りに行って、かつて見知らぬ沢に出た。そこの木の枝には、おびただしい衣類が洗濯して干してあった。驚いて見ているところへ、一人の大男が出て来て、その洗濯物を取集め、たちまち谷の方へ見えなくなってしまったという。これは本人の直話である。

                                                  「遠野物語拾遺102」


画像「2013.5.7の六角牛山」
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「注釈遠野物語拾遺」によれば、物語に登場する大楢幸助は間違いで、正しくは長洞幸助であるという。どうも、住んでいた地名が苗字に反映されたようだ。これは明治の末の話であるから、今の遠野に生きている高齢者にとっては身近な話であり、登場する人物も、未だにリアリティがあるのだろう。

そのリアリティだが、菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」には、こう書かれている。

この山の内部の地質的な構造も、人間を住みやすくしている。地元で、ガラダチあるいはガラ場といわれる大小の岩石が重なっているところに、空洞ができている。またこの山は地質的には石灰岩の山塊である。石灰岩は水に溶けやすい。ここには、大きな鍾乳洞こそないが、畳二、三枚程の空間の穴はいたるところにあった。・・・この石灰石の穴である鍾乳洞に住むと、自動温度調節の快適な住居となる。石灰岩の穴は、第二の母の胎内といってよい。

山に住む女と、山に住む男がいた。菊池照雄によれば、それは六角牛山の地質が適していたと述べている。実際に六角牛山から白望山にかけては、金属集団が住み付いていた。「遠野物語」に登場する"長者屋敷"と云われるものは、金山を経営していた長の下で働く人夫の住む長屋の事であった。「遠野物語拾遺102」において、大量の洗濯物が干されてあったというのは、そういう長屋に住む連中の洗濯物を、洗濯当番が、まとめて洗っていたと思われる。

里に住む者達にとって、冬の山は閉ざされた空間となる。遠野の冬を体験すれば、とても山の中には住めないものと思うのだろう。しかし、そういう閉ざされた空間の山だと思っていた地に、住む者達が居た事実がある。ここに、山に住む者達と里に住む者達の意識の違いが垣間見れる。

日本人の一般的人々が山に登り始めたのは、西洋のアルピニズムの影響を受けた明治時代からであった。しかし、それはあくまで日本の首都を中心に広がりつつあったものであり、恐らくそれが遠野にたどり着いたのは、早く見積もっても大正時代であったろうか。実際、この「遠野物語拾遺102」は明治の末の話であり、山で沢山の洗濯をしている男を見て驚いていたのは、山に住む者などいる筈も無いという先入観によるものであったろう。そう、山には人が住んでいたのである。
by dostoev | 2014-06-07 18:32 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺108(狩猟民族の血)」

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土渕村字山口の石田某の家の男達は、いずれも髪の毛を掻き乱し、目は光り、見るからに山男らしい感じがする。夏の禁猟期間は川漁をしているが、それ以外は鳥獣を狩りして日を送っている。この家は元は相当の資産家で田畑もあったが、男達が農を好まぬ為に次第に畑が荒れ、持て余しては売ってしまって、今は村一の貧乏人になった。家屋敷も人手に渡し、山手の方に小さい家を建ててそこに住んでいる。自製の木弓で自由に小鳥の類まで射落し、これを食料に足しているようである。そこから分家した次男も農をせず、狩りに親しんでいる。

                                 「遠野物語拾遺108」

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考えてみると、遠野もそうだが岩手県には弥生の遺跡が無く、縄文の遺跡が殆どである。蝦夷国とは狩猟民族であると云われ、秋田県でも八郎潟など周辺を斑状に弥生文化があっただけで、殆どが縄文文化であった。陸前高田の横田村でさえ、米作りが出来るようになったのは昭和に入ってからだった。つまり東北は、米作りよりも狩猟に適した地域であったよう。

蒙古襲来時に、都からの書簡に「このままでは都が飢えてしまう。」という内容が記されたものが発見されている。それはどういう事かというと、蒙古襲来の舞台は九州であった為に、船便が停止し、都まで送られる食物が停止していた為による書簡であった。時は鎌倉時代、その当時の食の蔵とは九州に依存していたようである。昔の歴史の授業では、縄文時代か終わって弥生時代が…と教わったものだが、実際は縄文時代といものはかなりの時代まで続いていたようだ。岩手県の沿岸域の遺跡には縄文の遺跡の上に平安の遺跡があるのが大抵で、東北には弥生時代は無かったのか?とさえ思わせる程であった。
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遠野は山々に囲まれた盆地ではあるが、動物がより多く生息するのは東寄りの山である。この「遠野物語拾遺108」の舞台は土淵の山口で、山を越えればすぐに海へと行ける地域となる。太平洋沿岸は、殆ど雪が降らない。生息する動物は、天候によって沿岸域と遠野を行き来しているのが現状だ。つまり、遠野盆地で一番動物が生息しているのが東側に面する山々であり、その豊富な動物に魅せられたのが「遠野物語拾遺108」の男達なのだろう。

千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」によれば、本州で一番日本鹿が生息しているのは五葉山周辺であるらしい。かっては狼が生息し、その鹿を捕食していたわけだが、それと一緒に人間もまた自然の恵みである鹿を捕食していた。明治の半ばで狼がいなくなってからは、鹿の捕食者の一番は狼から人間に取って代わった筈である。天然記念物であるカモシカも、戦時中には軍隊によりその毛皮が徴用され、激減した為、戦後になって「特別」という称号が天然記念物であったカモシカに冠せられたのだった。それから、天敵の居なくなった日本鹿やカモシカは、その生息数を伸ばしていったが、それでも未だに畑仕事よりも、狩猟に魅力を感じる人々は「遠野物語拾遺108」に登場する男達の様に動物を狩っていたのだろう。それは蝦夷国時代から続く、狩猟民族の血が残存であるのだと思ってしまう。
by dostoev | 2013-11-13 18:20 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺106(山男に対する興味)」

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土渕村栃内和野の菊池栄作という狩人が、早池峯に近い、附馬牛村の大出山中で狩り暮し、木の間から洩れ入る薄明りを頼りに自分の小屋へ帰って来る途中で、突然一人の男に出逢った。その男は目をきらきらと丸くして此方を見守りつつ過ぎるので怪しく思って、どちらへと言葉をかけてみた。するとその男は牧場小屋へ行きますと言って、密林を掻き分けて入って行ったという。佐々木君はこの狩人と友人で、これもその直話であったが、冬季の牧場小屋には番人がいる筈はないと言うことである。その男の態は薄暗くてよく分らなかったが、麻のムジリを着て、藤蔓で編んだ鞄を下げていたそうである。丈はときくと、そうだなあ五、六尺もあったろうか、年配はおら位だったと言う答えであった。大正二年の冬頃のことで、当時この狩人は二十五、六の青年であった。

                                 「遠野物語拾遺106」

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柳田國男は山人・山男の可能性を信じて、佐々木喜善の話と遠野という土地に、その夢を託したようだった。柳田國男のまとめた「遠野物語」に山の話が多いのも、その表れであった。この「遠野物語拾遺」には柳田國男の手が入ってはいないのだが、その残存が紹介されている。あくまでも山男に対する興味が、山を徘徊する男に向けられ、もしかしてという可能性を残したままに話が終わっている。「遠野物語」では、山男の瞳は「ぎらぎら」と表現されているのに対して、ここでは「きらきら」という表現になっているのはご愛嬌だろうか?ずいぶん柔らかな表現になっているのは、恐ろしい筈の山男が、どこか人間に近く表現されている。身長も五尺と六尺では、その大きさの印象が全く違ってくる。五尺では普通の人となるが、六尺と成ると当時では大男となってしまう。

一つ一つの表現が、本来の山男のイメージを柔和にしている節がある為に、山男に対する興味が、普通の人間を山男に仕立てる為に造られた話の様でもある。山男といえば現代では、登山する者を山男と呼ぶようになったが大正二年であれば、その当時も山で生活する、本来の山男らしきはいたであろう。何故なら、昭和となった時代でも、昔の山の習俗を守ったままの人も居た事から、大正時代であるならば、この「遠野物語拾遺106」に記されている男はいたのだと思う。

父方の私の祖父は、山と川に生きていた男であった。家に遊びに行くと、囲炉裏にはいつも魚が並べられていて、周囲は兎などの毛皮があちこちにかけられていた。外に稼ぎに行くわけでもなく、山と川に毎日行って自給自足の生活をしていたようだ。この私の祖父もまた、山に生きる山男であったのだと思う。それは文明が発達して会社勤めに精を出す人間にとっては、異質の山男だったのだろう。
by dostoev | 2013-11-13 16:50 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺107(異形の者)」

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下閉伊郡の山田町へ、関口という沢から毎市日の様に出て来ては、色々な物を買って戻る男があった。顔中に髭が濃く、眼色が変わっているので、町の人はあれはただの人ではあるまいと言って、殺して山田湾内の大島に埋めた。その故であったか、その年から大変な不漁が続いたという。これは山田町へ駄賃づけに通うていた、土淵村の虎爺という老人の若かった頃の話である。

                              「遠野物語拾遺107」

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昔の話である。閉伊郡山田の関口の岩窟の中に、どこから来たか一人の大入道が来て住んでいた。桐の御紋のついた鍋などを持っていて、誰言うとなく島の坊と呼んでいた。

ある時土地の者どもが、坊の留守中に岩窟へ行って、鍋の中に糞などをして悪戯をして帰った。すると坊はひどく怒って、山田の町に下って来て放火をしたりして暴れ廻った。そこで捨て置けず捕手が差し向くと、坊は大きな棒を手にして一枚歯の高下駄を履いて、町屋の屋根などを自由自在に飛び歩き、その態はまるで神のようであった。けれども遂に衆人のために撲り殺されてしまった。

ところがそれからは浜に魚がなかった。誰言うとなく島の坊の怨霊の祟りだと言うようになって、大島という所に葬った屍体を掘り起して、大杉神社に移して祀った。後には専ら漁夫の神となった。

                              「聴耳草紙(島の坊) 」

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「遠野物語拾遺107」だけを読んでいると外国人のイメージが湧いてしまうが、佐々木喜善「聴耳草紙(島の坊)」を読むと、体の大きいまるで天狗の様な人物であった事がわかる。実際、呼び名に「坊」と付けられている事から、天狗のイメージに近かったものと思われる。ただ桐の御紋は皇室などに使われるものであるから、何者であったのだろうか?

この「島の坊」の考察だが、橘弘文「神になった無法者」が詳しい。ただ問題は、本当に島の坊は無法者であったのかどうかだ。小松和彦「異人論」を読むと、旅人・余所者・異形の者はえてして、村人の迫害に遭い、村人の正義に基づいて殺されるのだが、やはり祟りを恐れ神として祀られる。この感覚は、古くから菅原道真にみられるように、日本人の中に根付いた祟りに対する意識ではある。それ故に、異形の者であった為に、理不尽な殺され方をした可能性も否定できないだろう。

ただ疑問は、何故に大杉神社に祀ったのかだ。大杉神社の総本山は、茨城県の大杉神社となる。この大杉神社の創立は社殿によると767年で勝道上人によるものとされ、御利益は疱瘡除けと水上安全などで信仰圏は東北に及んでいる。ただし信仰圏が拡大したのは江戸中期からであったようだ。
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疱瘡除けが御利益となっているが、古来から疫病に対する恐怖は延々としてあった。例えば牛頭天王を祀る八坂神社など、得体の知れない疫病を恐れるあまり、それを駆逐してくれる存在は大事な神であった。上の画像は綾織の疱瘡神であるが、本来忌み嫌われる筈の疱瘡も神に昇格され祀られてしまう。しかし、幕末の医者である川田鴻斎「疱瘡の神とは誰が名付けん悪魔外道の祟りなるもの」と、疱瘡を神として祀る事を否定している。 

ところで「水戸紀年」享保十一年の条に「六月以来、常陸近国アンバ大杉躍流行シ、農民町人異形ノ体ニテ皆躍ル」とある。アンバとは茨城県の「阿波」という地名が由来とされているようで、そのアンバ大杉の祭りには神輿が各家庭を回り厄除けをするという。その祭りを盛り上げる際に「アンバ大杉大明神悪魔を祓って善はさ 嗚呼善や善や善はさ」と唄い踊って歓迎するのだと。似た様なものに「鹿島踊」というものがあり、やはり疫病が蔓延した時に、疫病退散の為、鹿島神宮の神輿を村送りした祭、人々が狂喜乱舞したのが鹿島踊となったらしい。つまり、人々を苦しめる疫病を退治する事で、人々は歓喜し狂気したのは戦に於いて相手を倒した狂気に近いのかもしれない。実は、享保十一年のアンバ大杉の歓喜の後、翌年6月に江戸の香取明神の神木に大杉明神が飛来したという事から、江戸は狂乱状態となり、余りにも常軌を逸した熱狂ぶりに幕府から禁止令が出された程だったという。

「島の坊」の話には疫病の話は記載されていないが、島の坊を殺した事により不漁になっている。漁民にとって疫病も大きいだろうが、不漁も命に関わる程の疫病であったろう。しかしその前に、山田の町に住み付く異形の者である島の坊そのものが、疫病と同等に見られたのではなかろうか。「聴耳草紙(島の坊)」においては、町の者が気に食わない島の坊に対して嫌がらせをする。その事に対して怒り狂った島の坊の暴れっぷりはまさに"疫病"の如くであった。それによって殺された島の坊だが、異形の者を神として祀る大杉神社の習俗から、神がかり、狂乱状態になった民衆に殺され神になったのではなかろうか…。
by dostoev | 2013-03-18 09:05 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺109(千盤ヶ嶽)」

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遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこち
を眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれたが、
その後ある男が千盤ヶ嶽へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった
著物に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥の様な婆様が出て来たのに
行逢った。御前はどこの者だというので、町の者だと答えると、それでは何町
の某はまだ達者でいるか、俺はその女房であったが、山男に攫われて来て
ここにこうして棲んでいる。お前が家に帰ったら、これこれの処にこんな婆様
がいたっけと言うことを言伝してけろ。俺も遠目からでもよいから、夫や子供
に一度逢って死にたいと言っていたそうである。この話を聞いて、その息子に
当たる人が多勢の人達を頼んで千盤ヶ嶽に山母を尋ねて行ったが、どう言う
ものか一向に姿を見せなかったということである。

                               「遠野物語拾遺109」

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千晩ヶ嶽の頂近辺には、大岩がゴロゴロしており、確かに人が入れるような岩窟みたいな磐もある。ただ、この話で解せないのは、遠野の町の者が、何故千晩ヶ嶽へと草刈に行ったのかという事。普通であれば、里山で済ますのであり、何故1000mを越す千晩ヶ嶽なのか理解に苦しむ。

千晩ヶ嶽は、釜石市の小川町や旧栗橋村、現在大槌市の橋野町の人々からは"おせんば様"と信仰されている霊山だ。遠野の町の者が、簡単に草刈へと行くような山ではない。

この話は「遠野物語8」のサムトの婆に似通った山男に攫われた神隠しの話ではあるが、サムトの婆の場合は六角牛山という、遠野の町から見える山だ。ところが千晩ヶ嶽は、遠野の里からは、殆ど見えないといってよい。多分、何かの話と合成された可能性もあるのだろう。

ところで、この神隠しに遭った婆様が「俺は…。」と言うくだりは、確かに遠野の町のご年配の女性がやはり「俺は…。」というのをたまに聞く。違和感を感じる人もいるだろうが、確かに遠野での女性が「俺」と言う場合もあるのを付け加えておこう。それと、その婆様の息子が大勢を引き連れて千晩ヶ嶽へ登り、その婆様を探したとあるが、そりゃ大勢で訪れれば何事だと驚き、出て来ないものだと思う(^^;
by dostoev | 2010-12-06 09:40 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺100(マダの木と山の終焉)」

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青笹村の某という者、ある日六角牛山に行ってマダの木の皮を剥いでいると、出し抜けに後ろから呼ぶ者があるので、驚いて振向いて見れば、たけ七尺もあろうかと思う男が立っていて、自分の木の皮を剥ぐのを関心して見ていたのであった。そうしてその木の皮を何にするかと訊くから、恐る恐るその用途を話してきかせると、そんだらおれも剥いですけると言って、マダの木をへし折り皮を剥ぐこと、あたかも常人が草を折る様であった。たちまちにして充分になったので某はもうよいというと、今度は大男、傍の火であぶっておいた餅を指ざして、少しくれという。某はうなずいてみせると、無遠慮に皆喰うてしまった。そうして言うことには、ああうまかった。来年の今頃もお前はまた来るか。もし来るならおれも来てすけてやろうから、また餅を持って来てくれと言った。某は後難を恐れてもう来年は来ないと答えると大男、そんだら餅を三升ほど搗いて、何月何日の夜にお前の家の庭に出しておいてくれ、そしたらお前の家で一年中入用だけのマダの皮を持って行ってやるからと言うので、それ迄も断りきれずに約束をして別れて来た。

その翌年の約束の日になって、餅を搗き小餅に取り膳に供えて庭上に置くと、はたして夜ふけの庭の方で、どしんという大きな音がした。翌日早朝に出て見れば、およそ馬に二駄ほどのマダの皮があって、もうその餅は見えなかったという。この話は今から二代前とかの出来事であったというが、今の代の主人のまだ若年の頃までは、毎年の約束の日には必ずマダの皮を持って来てくれたものであった。それがどうしたものかこの三十年ばかり、幾ら餅を供えて置いても、もうマダの皮は運ばれないことになったという。

「遠野物語拾遺100」

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画像は、天然記念物である"和山のシナの木"。シナの木とは"マダの木"でもある。登場する大男は、山の話しによくでる巨人伝承の一部にも感じる。巨人というと漫画に登場する巨大な男というイメージがあるが、一般人より大きい男もまた巨人というイメージで語られているようだ。

例えば故ジャイアント馬場も東洋の巨人。故アンドレ・ザ・ジャイアントも世界の大巨人というように、その当時の常人よりかけ離れて大きい人間を巨人と称した節がある。何故なら、この「遠野物語拾遺100」において六角牛山に登場した大男を"たけ七尺"と表しているが、「陸奥話記」において安倍貞任をやはり"たけ七尺"と表している。現代社会においても"たけ七尺"は、2mを超える大男であり、巨人に成り得る身長だ。また大力の話に絡む殆どの舞台は山であり、山に関係する、もしくは後天的に山に関係した人物となっている。

ところでこのマダの木だが、インド産の高木であり、釈迦の入仏伝説から神聖な木とされている。しかし遠野では、菊殿という家のマダの木の空洞に変化が住んでいて、時々童形になって座敷に忍び込んでは娘に悪戯をしたと伝えられる。これは一種のザシキワラシとなるが、遠野では山の姫神を祀る早池峯神社がザシキワラシの始まりという伝承もある事から、本来ザシキワラシとは、山の木の精なのであろうか?

またマダの木は「シナ布」となる。山野に自生する「シナの木」の樹皮を裂いて撚り、糸にして織り上げて作られる千年の歴史を有する織物だ。本来は、山形県と新潟県の堺に位置する関川集落と山北集落でのみ作られており、沖縄の芭蕉布、静岡のくず布と並ぶ日本三大古代織の一つ。「遠野物語拾遺100」でマダの木の皮を青笹の某が集めるのは「シナ布」を織るという意味であろう。つまり「遠野物語拾遺100」とは、関川集落独自の文化が、遠野にも伝わっていたという意味の話でもある。遠野にはかなり、出羽修験も入り込んでおり、山形から北陸にかけての伝承も多く伝わっている。やはりこの文化をもたらしたのも、山伏であろうか?

この「遠野物語拾遺100」において、当初は恐ろしく感じていた大男に対し、毎年マダの木の皮を持って来る大男を待っていた事から、一つの幸運を運ぶ使者として、ザシキワラシとも重複する。マヨヒガの話も含めて、里人が山との繋がりを持つという事は、一つの幸運を得られるという意味である。これは一つの山の神秘を伝える話であり、形は違うが青笹の某は、餅を供えて山を信仰した話に通じるのだが、この「遠野物語拾遺100」が伝えるものとは、山の神秘や不思議が消え去った時代であったという事では無かったか?
by dostoev | 2010-12-06 09:12 | 「遠野物語拾遺考」100話~ | Comments(0)