遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」60話~( 10 )

「遠野物語拾遺68(十王様の田植え)」

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前に言った会下の十王様の別当の家で、ある年の田植時に、家内中のものが熱病に罹って、働くことの出来る者が一人もなかった。それでこの家の田だけはいつまでも植つけが出来ず黒いままであった。隣家の者、困ったことだと思って、ある朝別当殿の田を見廻りに行って見ると、誰がいつの間に植えたのか、生き生きと一面に苗が植込んであった。驚いて引き返して見たが、別当の家では田植どころではなく、皆枕を並べて苦しんでいた。怪しがって十王堂の中を覗いて見たら、堂内に幾つもある仏像が皆泥まみれになっていたということである。

                                                     「遠野物語拾遺68」

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全国的には「田植え地蔵」というものが広く伝わっており、同じ様に家の者が田植えを出来ない時に、代わりに地蔵が田植えをしてくれる話だ。地蔵には「身代わり地蔵」というものもあり、人の苦を代わりに引き受けてくれる地蔵だ。典型的なのは、画像の「地蔵菩薩霊験記」の様に、娘の代わりに火炙りになっている地蔵もいる。この地蔵信仰は宗派の教義からのものではなく、広く民間信仰から独自に発生したものが多いようだ。

貴族社会での地蔵信仰は、阿弥陀の下に位置する従属関係であるものが、民間では同等の立場に地蔵が位置している。それは恐らく、気高い観音とは違い、地蔵の温和な親しみ易い佇まいと表情があったのではなかろうか。そして、その地蔵信仰を広めたのは、天台宗の修験者によるものであった。この会下の十王堂もまた、積善寺という天台宗の関係であった。実際に地蔵が田植えをするとは有り得ない話であるが、その地蔵を熱心に信仰している別当と、その周辺の民との関係が上手くいっていた為に作られた話ではなかろうか。その時代の信仰に熱心であれば救われるという風潮が、このような話を作り上げる下敷きになったのだと思える。実際は、近所の人達が別当の代わりに田植えをして、それを仏像がしてあげた事にしたのだと思えるのだ。この「遠野物語拾遺68」は、民と信仰の心が結び付いた、良い時代の良い話であると思う。
by dostoev | 2014-11-16 15:40 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺67(神通力)」

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附馬牛東禅寺の開山無尽和尚、ある来迎石の上に登って四方を見ていたが、急いで石から降りて奴の井の傍に行き、長柄の杓を以て汲んで、天に向って投げ散らすと、たちまち黒雲が空を蔽うて、南をさして走った。衆人たちはそのわけを知らずただ不思議に思っていると、後日紀州の高野山から状が来て、過日当山出火の節は、和尚の御力によってさっそくに鎮火し誠にかたじけない。よって御礼を申すということであった。

                                                     「遠野物語拾遺67」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今でも東禅寺跡の無尽堂傍に来迎石はある。別に影向石とも云うが、かってこの石に早池峯大神が降り立って、開慶水を無尽和尚に与えた場所でもある。俗に、石に降り立つのは男神で、樹木に降り立つのは女神であるとも云われるが、それは山神を意識したもので、未だに山神は男神なのか女神なのか定かでは無いところから発生した俗信であるようだ。

そして、伝説の東禅寺は臨済宗であるとの伝えだが、大川善男「遠野の社寺由緒考」では、東禅寺は礎石などから判断し天台宗であると述べている。また、この「遠野物語拾遺67」では、真言宗である高野山と深い繋がりがあるような記述になっている。遠野早池峯妙泉寺もまた、天台宗から真言宗に移り変わった様に、伝説の東禅寺もまた天台宗から真言宗へと変わったのかもしれない。大川氏曰く、この東禅寺は本来、早池峯妙泉寺の里寺では無かったかと述べているが、それがそのまま当て嵌まるのが、この「遠野物語拾遺67」ではなかろうか。

ところで、無尽和尚が来迎石の上に立つという行為は、神と一体になるという事だ。つまり、神に通じて高野山の火災を察知したのだろう。つまり、一つの神通力を来迎石によって得たという事になる。また、奴の井の水を長柄の杓で天に向って投げ黒雲を発生させ南へ走らせたとの事も、奴の井そのものは早池峯山頂の泉を分けたものであり、早池峯大神は竜蛇神でもある事から、その龍神の成せる雨乞いの業を無尽和尚が使ったという事だろう。これもまた神通力であろうから、全て東禅寺を開山し、早池峯大神の加護を受けた無尽和尚ならではの伝説だろう。

ちなみに、文中の「奴の井」は「杈の井」の間違いである。
by dostoev | 2014-11-16 14:27 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺63(神仏の童子)」

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是は維新の少し前の話だといふ。町の華厳院に火事が起って半焼したことがあった。始めのうちはいかに消防に力を尽してもなかなか火は消えず、今に御堂も焼落ちるかと思う時、城から見ていると二人の童子が樹の枝を伝って寺の屋根に昇り、しきりに火を消しているうちにおいおい鎮火した。後にその話を聞いて住職が本堂に行って見ると、二つの仏像が黒く焦げていたということである。その像は一体は不動で一体は大日如来、いずれも名ある仏師の作で、御長は二寸ばかりの小さな像であるという。

                                                     「遠野物語拾遺63」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
華厳院を祀る館林氏は、修験の家系でもあったが、南部時代は商家であり、城にいろいろな品を治めていたとも聞いた事がある。館林氏の部屋へと遊びに行くと、いつも部屋一杯にお宝をならべて磨くのが楽しみでもあったようだ。お宝の中には、中国から輸入された細かな細工のものも多く、確かにお宝ではあったが、余りに無造作に置かれている為、見ている方が心配をするほどであった。今ではそのお宝のいくつかが、市営の記念館に保管され、展示されているので心配も無くなったが、あれが全てでは無いだろう。ところで、その無造作に置かれているお宝の中に、小さな神仏像を見た記憶がある。その頃の自分は、そこまで詳しく無かった為、その神仏がなんであったか理解は出来なかった。

「注釈遠野物語拾遺(上)」によれば、阿曽沼時代の横田城内に祈願所の護摩堂が設置され、上州館林出身の正木氏が修験を司ったとある。また、南部氏に替わり、その正木氏も羽黒修験として勤め、その後に華厳院を号すとある。出身地の名であった館林の姓は、明治になってから名乗ったようである。密教系であった館林氏であるから当然、大日如来と不動明王を祀っていたのだろう。密教系では、大日如来の垂迹として不動明王が位置するから、二仏はセットでもある。この物語では、この大日如来と不動明王が火消しをしたとあるが、気になるのは不動明王の眷属に、矜羯羅童子と制多迦童子という童子二人がいる事である。大日如来と不動明王の像が小さいので、それが童子として考えられたのであろうが、不動明王の命を受けて、矜羯羅童子と制多迦童子が火消しをしたとも捉える事が出来る。確かに神仏がこの世に具現化する場合、童子などの姿を借りて現れる話は多いが、密教における大日如来は宇宙の中心でもある。その宇宙の中心的存在が、わざわざ童子に化けて火消しをするとは考えつかないのだ。とにかくこの話も、神仏によって火災から免れた話であり、それだけ庶民の間に神仏に対する信仰が根強かった事を意味している。

現代となり、燃えにくい建築材が使用されるようになり、火災に対する心配が減り、火災に対する意識は昔よりも低下している。実際に、神社などへ行き火伏せを祈願する人が、どれだけいるだろうか?たまの失火や放火は今でも起きるが、せいぜいまとめて家内安全を神社で祈願する程度になったのは、それだけ火災が日常化していた昔とは違った世になったからであろう。そして日常の危惧が一つ減っていくと共に、信仰の一つが消え去る運命であるのだろう。神仏が火消しをしたという話を今後、聞く事も無くなるのではなかろうか。
by dostoev | 2014-11-16 10:52 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺62(火消し)」

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昔遠野の六日町に火事のあつた時、何処からともなく小さな子供が出て来て、火笊を以て一生懸命に火を消し始め、鎮火するとまた何処かへ見えなくなつた。その働きがあまりに目醒ましかつたので、後で、あれは何処の子供であらうと評判が立つた。ところが下横町の青柳某といふ湯屋の板の間に小さな泥の足跡が、ぽつりぽつりと著いて居た。その跡を辿つて行くと、家の仏壇の前で止つて居り、中には小さな阿弥陀様の像が頭から足の先まで泥まみれになり、大汗をかいて居られたと言ふことである。

                                                     「遠野物語拾遺62」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔のの火災の出火場所の殆どが仏壇であったようだ。蝋燭の火、線香の火など、家の中での火の気が多いのは、竈か仏壇であるが、意外に食事を作る時は気を付けているものだが、仏壇への蝋燭の火や線香は、点けたままかなり放置されたようなので、火災の主原因となったのだろう。遠野だけではないが、屋根が茅葺屋根である場合、火が燃え移る可能性は常に高かった。現在でも、茅葺屋根の建物には、火災の危険性が高い為に宿としての許可は下りない。全てを燃やし尽くしてしまう火災の為に昔は、火消し火除けの信仰が高く、遠野界隈を見渡しても、火伏せの愛宕神社が村に一つは鎮座しており、同じく火伏せの古峰ヶ原の石碑を多く見る。

そして仏壇は、その家で死んでいった人々を祀る場所だ。現代でも、仏壇と神棚は分けて設置するようになっている。これは神仏分離による影響であったが、それでも仏壇に阿弥陀様などを祀るのは、やはり火除けの為であったようだ。つまり火災の出火場所として高かった仏壇に、阿弥陀様などの神仏を置くのは、神仏の力で火災を食い止めようとの判断からであった。それはつまり、人間の手に及ばない火の力を神仏の力に頼って消す為であった。そういう背景から、たまたま火事が小火程度で済んだ場合、神仏によって助けられたとの意識が高まったのだろう。昔、穀町に火災が起きた時に某家の庭に祀られている稲荷神社の手前で火が消し止められた。その時、人が感じたのは稲荷様が火を消し止められたという奇跡を感じた事であった。それからその稲荷は火伏せ稲荷として崇められている。神仏が具現化する法則に、必ず童子の姿か翁の姿で現れるというのが古代から言い伝えられている。恐らく、そういう意識背景が神仏を具現化した物語を作り、語られて来たのだろう。そしてその根底には、火の力の前では人間の力は無力であるという意識もあっての事であったろう。
by dostoev | 2014-11-16 09:30 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺61(身代わりの仏像)」

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青笹村の菊池某という人の家に、土で作った六寸ばかりの阿弥陀様が、常に煤けて仏壇の上に祀られてあった。ある夜この家の老人熟睡をしていると、夢であったかその仏様が、つかつかと枕元まで歩んで来て、火事だ早く起きろと言われた。驚いて目を覚まして見ると竃の口の柴に火が附いて、家の内は昼間のようであった。急いで家の者を皆起して、火は無事に消し止めたという。これは今から十年近く前の話である。

                                  「遠野物語61」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔の火災の火元の大抵は、やはり火を扱う竃か仏壇であったようだ。この話での火災元は竃であるが、その竃の口の柴に火が附いての火災であったようだ。「台所は女性の聖域である。」という言葉は現代となって云われる言葉でもあるが、古来から竃のある台所はやはり女性の領域であった。竃の種火となる柴を扱うのは嫁の仕事であり、柴は神の依代でもあるから女の霊力を期待してのものであろうが、その竃で火事が起きた。

画像は「地蔵菩薩霊験記」での身代わり地蔵である。地獄の業火に焼かれるところを地蔵の功徳を思い出し願ったところ、女の代わりに地蔵が、その炎に焼かれた。俗っぽいが、親鸞の願望に観音が女性として夢に登場し交わった話なども、身代わり地蔵ならぬ身代わり観音である。功徳を求める庶民は、観音や地蔵の功徳にすがるしかない時代があった。

ところで、火事を教えてくれた阿弥陀様が仏壇の上に祀られてあるのは当初、荒神でもある竃面の代わりに竃の上に祀られてあったのだろう。土で出来ているという事は、火の側に祀る前提で作られたのだろう。しかし、竃神として阿弥陀様を祀るというのは聞いた事が無い。それでは「常に煤けて」とあるのは、もしかして家主に代わり、自らが煤けるまで火消をした事によるものだろうか。まあどちらにしろ仏壇の上に祀られるというのは、その家主が阿弥陀様の功徳を感じてのものだったという事だけは理解できる。
by dostoev | 2014-04-02 18:51 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺60(火中の鞍迫観音像)」

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鱒沢村字鞍迫の観音様は、たけ七尺ほどの黒焦げの木像である。昔山火事で
御堂が焼けた時、御体にも火が燃え附いたので自分で御堂から飛び出し、前の
沢の水中に入って、難を遁れておられたと言い伝えられている。

                                「遠野物語拾遺60」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ずいぶん物語的に書かれている話だが、実際に鞍迫観音の燃える時の記録が記されている。火災が起きたのは万治2年(1659年)10月18日、観音堂が全焼とある。宝物や記録類が焼失したとあるが、観音像に関しては「厳然として火炭中にあって焼損せず。誠に不可思議也」とある。

この記述は、まるで燃え盛る観音堂に屹立する十一面観音を垣間見、霊威を感じたような記述となっている。他の宝物や書類は燃えている中で観音像だけは、表面が焼け焦げながら立っている姿をイメージすると、なかなか霊的なシーンだと思ってしまう。

ただ物語では、観音自ら沢の水に飛び込んだとあるが、実際は観音堂の関係者が燃え盛る御堂の中から、かなり熱くなっていたであろう黒焦げの観音像を必死で外に運び出し、側の沢の水で冷やしたものだと推察できる。

現在でも鞍迫観音堂の脇には沢水が流れ、山葵の栽培をしているほど水は清らかで冷たい。この清らかな沢水によって、黒焦げになりながらも平安中期作の観音像は、今の時代まで生き永らえたのである。
by dostoev | 2013-08-02 07:29 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺66(飯豊・今淵)」

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同じ村字飯豊の今淵某の家では、七八年前の春、桜の花を採って来て、
四合瓶の空いたのに挿して仏壇に供へ、灯明をあげたまゝ皆畑に出て、
家には子供一人居なかった。

暫くしてふと家の方を見ると、内から煙が濛々と出て居る。是は大変
と急いで畑から馳け戻って、軒の近くへ来ると少し煙が鎮まった様子
である。内に入って見れば火元は仏壇であった。灯明の火が走って位
牌や敷板まで焼け焦げ、桜の花などはからからになって居たが、同じ
狭い棚の中に掛けてある古峰原の御軸物だけは、そっくりとして縁さ
へ焼け損じては居なかった。火を消して下されたのも此御札であらう
と言って、今更の如く有難がって居た。斯ういふ類の話は昔から色々
あった様である。

                      「遠野物語拾遺66」

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飯豊は厳密には土淵町に属するのだが、「遠野物語拾遺66」では青笹であるという。ただし隣接している為、昔の区部は青笹に属していたのだろうか?ところで青笹町には、古峰山の碑がいくつもある。集落ごとに古峰講中を組み、野洲古峰ヶ原へと行っていたようだ。「遠野物語拾遺65」において上郷町の某が加わったのも、上郷と青笹は隣接しており、この青笹の古峰ヶ原講中に加わったのだろう。しかし青笹の者達よりも信心が浅い為に失敗した話が「遠野物語拾遺65」であったのかもしれない。
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上の画像は、古峰ヶ原の信仰の厚さから、その霊験を信じ、集落で祀る古峰山の傍に、昭和五年に当時の価格500円で建てた消防署の建物となる。
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ところで飯豊という地名は、東北にいくつかある。その地名の語源だが定かでは無い。有名な山形県の飯豊山神社の飯豊信仰から来ているのか、はたまた宮城県の飯豊神社を祀った人間に関わるのか…。実は、宮城県の飯豊神社を建立したのは藤原氏であった。折口信夫「水の女」を読むと、「藤原」の「藤」は「淵」から発生したのではないかとしている。また「藤原」以前に名乗った「中臣」の「中」は、神との仲介者と解釈されている。またその中臣氏は以前、火神を祀っていた一族であったが、途中から水神を祀る様になったようである。その変化が中臣から藤原に変化したのであるのならば、まさしく「藤」は「淵」からの変化であったのだろうか。また水に関する仕事、例えば猟師などに「藤」の名前が付いているのは、「藤」が水に関する意味を有しているからであるのだろう。ちなみに遠野の同級生の父親は代々川の猟師であり、その名は襲名制であった。名を「藤五郎」と言い、やはり「藤」が付く。

また飯豊皇女がいるが、飯豊皇女は清寧天皇没後の皇位を継いだ女帝であり、同時に神に仕える巫女でもあった。またフクロウの事を伊比止与(イヒドヨ)と読み、もしかして語源としてのイヒトヨはフクロウではないのかとも考えてしまう。アイヌ民族においてもフクロウは神であり、もしくは神と繋がりを持つ存在であった。その伊比止与を二つに割って見てみると「止与(トヨ)」という文字が気になってしまう。

邪馬台国は卑弥呼の一族で後に跡を継いだ台与、もしくは臺與とも記す。その台与は巫女でもあり神に仕えるもの。フクロウの俗信を調べても似たような意味がある事から「トヨ」には神に仕える、もしくは神と交信するものの意があるのではなかろうか。飯豊皇女は別に忍海部女王という名がある為、飯豊はニックネームとされている。つまり飯豊という言葉には、皇族が名乗るほどの意味を有しているのだと思う。
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何故に、飯豊と今淵に拘るかというと、この飯豊には今淵一族が住み着いている事実があり、今淵姓と飯豊は関連があるのでは?という漠然とした憶測から追求してみたいと思ったからである。

例えば、宮城県の飯豊神社を建立したのは藤原氏であるが、その藤原氏と今淵氏が繋がりを意味するものは飯豊であり、「藤」と「淵」という水の祭祀に関係するものか、あるいは伊比止与というフクロウに結びつくものなのか?と、興味は尽きない。恐らく「今淵」は「藤原氏」の流れを汲むのではないかと想像してしまうのだ…。
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六神石神社に伝わる伝承がある。奥州藤原氏が滅びる時、北畠氏の命を受けて千葉氏が藤原氏の一族を遠野に逃げ延ばせ六角牛山の麓に移り住まわせたという伝承がある。その千葉氏は現在の千葉家の曲家の家系で、もう一つは、六神石神社の宮司の家系で、今も続いているが、千葉家の曲家の血筋は、今年になって絶えてしまったようだ。

六神石神社の創建は大同元年と伝えられているが、これはつまり早池峰神社と同じ年代となる。青笹に六角牛神社があるのだが、明治時代となって先に青笹の神社が六角牛と名乗った為に、苦肉の策で「六神石神社」と名乗ったそうである。しかし、どちらも六角牛山の神社である事に変わりはない。

六角牛山を祀る神社は、六角牛山の麓に建立されたのだが、それは南北朝時代の後の事で、それ以前は六角牛山中に住吉神と、山中の滝の場所に不動明王が祀られていたという事である。ところで六神石神社の本殿の千木は偶数であり、これは一般的に奇数の場合男神を祀り、偶数の場合は女神であるようだ。今では六角牛大権現として祀られているが、本来はどうも姫神を祀るのが六角牛山であったようだが、それは遠野三山神話を素直に信じれは、そうなのだろう。
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ところで何故に奥州藤原氏が六角牛の麓に逃げ延びたのかは定かでは無いが、可能性として信仰する神の元に逃げたという考えも否定は出来ないだろう。紫波の早池峰神社の宮司から見せていただいた、神社庁で発行された一般には出回ってない書物に、早池峰の神の事が書かれていた。その中で気になるのは遠野三山のうち六角牛山を「オロコシ山」と表現していた。当初は尊称の「御」を頭に付けて「御六角牛山(おろこしやま)」 であるのかと思っていたが、気になるのは東北だけに存在する胡四王(こしおう)神社である。

この胡四王神社、何故に北向きに建てられているのかという説に、星を祀る為だというものがある。胡四(koshi)は本来「星(hoshi)」であったのでは?というものだが、胡四王神社と密接に繋がりを持つ一族に安倍一族がいる。遠野の貞任山の峰沿いに和山という廃村になった集落があり、ここに安倍一族の末裔が移り住み、星宮神社を祀っていた。この安倍一族の末裔は和山の廃村と共に、笛吹峠にある青ノ木集落に移り住んだのだが、その血統の人に話を聞いてみると星宮神社は星だけでなく、森羅万象を祀る神社であったという。ここで六角牛山と星の一つの共通点は、古来から六角牛山には住吉三神という星神が祀られているという事である。
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「縄文物語」高室弓生氏はこう言った「六角牛の御山は、遠野三山の中で、唯一「モイ山の形状をしている御山なんですよね。」大和の三輪山も、同じ山様で、ゴタゴタ起こした蝦夷の俘囚が、三輪山麓に移住させたら大人しくなったと、記録に有りますが、実際にこの辺りを歩いてみると、東北出身の私でも植生の違いとか無視して、岩手の里を感じました。」

また高室弓生氏は「三輪山の麓からぺっこ上に登りますと、キツツキ(昼)と、フクロウ(夜)の鳴き声が、安眠妨害レベルで聞こえます。」と。

この言葉の意味するところは、「ふるさと」の歌の様に、同じ山、同じ生態系があって、故郷を感じる人がいる事だろう。見知らぬ土地に足を踏み入れた人間は、故郷と同じような地を見つけ、定住する可能性がある。邪馬台国東遷説も、畿内に九州と似たような地名が点在するのは、移り住んだ地に故郷を再び見出し、懐かしみ、地名を名付けるからではなかったのかと。六角牛山の麓である飯豊には、小高い山が連なっており館跡も存在し、いくつもの縄文の遺跡が発掘されている。生物調査の関係者に聞くと、六角牛山から貞任山にかけてフクロウは、かなり生息しているようであるから、ある意味飯豊の小高い山はフクロウ山であったのかもしれない。

アイヌではフクロウの事を「コタンコルカムイ(村の守り神)」であるのを考えると、もしもアイヌの習俗と蝦夷の習俗が重なるのならば、フロクウの棲む森の麓に移り住んだという可能性も否定できないのかとも思う。何故ならフクロウの鳴き声によって天候を占う方法は、全国に広がりをみせている。つまりフクロウの鳴き声は、故郷を思い出させるだけでは無く、生活するにおいて必要な鳴き声であったのかもしれない。
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「旧」という古い字体は「舊」という字である。「萑」は「フクロウ」であり、「舊」は「臼」の上に「萑」が乗っている形となる。その意味は、フクロウが人の魂を奪わぬように器に縛り付けてあるのだという。

また「梟」という漢字も、フクロウが木にとまっている形を表しているだけでなく、木に磔にしている意味も有する。何故に磔にするのかは、「舊」と同じように魂を奪われない為でもあるようだ。日本全国にも、フクロウが鳴くと人が死ぬという俗信があるのは、フクロウにそういうイメージが古来から定着していたからだ。

また「八十梟帥(ヤソタケル)」の「梟帥」は「きょうすい」と読み「敵の知将」の意味がある。味方の知将の場合は「梟雄(きょうゆう)」と言うらしい。ギリシア神話でのアテネは戦の神でもあり知恵の神でもあるが、アテナの別名は「グラウコピス」で「輝く目を持つ者」という意だが、フクロウをギリシアでは「グラウクス」というので、アテナはフクロウと一心同体みたいなものである。

フクロウを知恵の者とするのは、全世界に広がりを見せるようで、フクロウは不吉な鳥でもありながら、知恵を有する存在でもあり、それを意味する名を有するものは一般庶民には有り得なく、飯豊皇女のような皇族や神に通じる者などの高き者にフクロウを意味する言葉をあてたのだと考える。

また「隹(ふるとり)」の漢字の意味は、神に対する態度を意味するという。「隹」そのものは「謹んで神御心を御伺い申し上げる。」「唯」「神意に対して、謹んでお受けする。」という意であると。そして「奮」も「奪」も神に関係し「神意を伺う為恍惚状態になる。」という意味らしい。

ヤマトタケルが死んで魂が白鳥となっと飛んで行くシーンはあまりにも有名だが、鳥は魂を運ぶ存在として信じられていたが、その中でフクロウは、死を告げる鳥とも云われた事から、あの世とこの世を行き来する鳥であると信じられていたようだ。「この世➔あの世」の場合は「死の宣告」であるが、その逆である「あの世➔この世」の場合は「魂を授ける」という存在になる。

田植えをした後の秋、稲穂が実るという考えでは無く古代は「稲穂に魂が宿った」ものと捉えた様である。つまり「死を宣告する」鳥でもあるフクロウは「子供に魂を与える鳥」でもあったようだ。コウノトリが赤ん坊を運ぶと考えられたのは、鳥は魂を運ぶ存在であるから「あの世」にも「この世」にも運ぶのだ。それが日本においてはフクロウが、その存在であるようだ。当然、人間の生死を司る存在であるから、神に通じている。つまりフクロウの古語である「伊比止与」も、また同じ意味となる。
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「日本書紀」の仁徳天皇記に「木菟宿禰」が登場する。仁徳天皇が生れた時に産屋にフクロウが飛び込み、その吉凶を武内宿禰に聞いたところ、同じ日に武内宿禰にも子供が生まれ、ミソサザイが飛び込んできたという。いずれも吉兆なので、お互いの子に飛び込んできた鳥の名を付けて交換する事になった。それで仁徳天皇の別名が「大鷦鷯尊」となり、武内宿禰の子は「木菟宿禰」になったという。

「鷦鷯」はミソサザイの古名であるのだが、実は六角牛に伝わるものに、神木である松の木が枯れ、今にも倒れそうなのでその神木を切り倒したところ、白い煙が立ち込め、小さな鳥が六角牛山の山頂に向かって飛んで行ったという。その小さな鳥はミソサザイであり、このミソサザイは少彦名命でもあるとされている。その為、六神石神社には、今でも少彦名命が祀られている。

またフクロウの古名は「伊比止与」であるが、別に「常陸風土記」こ「布久呂布(フクロウ)」としても登場している。またこれとは別にフクロウと同種に「ミミズク」がいる。「ズク」とは書いてあるが正確には「ツク」であり「都久」とも書き記す。耳があるのが「ミミヅク」で、無いのが「フクロウ」であるとも云われるが、江戸時代に「シマフクロウ」の事を「おほづく」「おほみみづく」と言ったようなので、昔は「フクロウ」と「ミミズク」の違いをそんなに気にしていなかったようだ。夜に鳴くフクロウでありミミズクであるが、姿が見えない為、どちらも同じであると思っていたのだろう。
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話は飯豊の方に傾いていたが、ところで今淵だ…。

今淵の地名を探してみたところ、やはり見つける事のできるのは東津軽郡の今淵(現・今別)となる。「青森市誌(今別町)」には、大同二年に坂上田村麻呂がこの地を今淵皐門の郷とし、守護神である八幡大神を祀ったとある。岩手県では水沢に征夷大将軍坂上田村麻呂が武門守護神であった宇佐八幡宮を勧進し鎮守府八幡を創始したとあるが、これとは別に、坂上田村麻呂は立烏帽子神女を守護神としたところ連戦連勝となり、その後に姫神山に祀ったとされている。果たして坂上田村麻呂の守護神とは、何であろうか?

ちなみに「皐門(こうもん)」とは「水辺の門」の意でもあるようだ。

ところが今淵地名には、別説があった。これは義経伝説となるのだが、義経が水神の祟りに遭い、昨日の瀬が淵になるほどの大雨が降ったらしい。それからその地を今淵と云ったという。東北にはかなり坂上田村麻呂伝説と源義経伝説が重複するところがある。遠野の宮守町では、安倍貞任と源義経が重複し、伝説として伝えられている。そしてまた、坂上田村麻呂により大同二年に建立された神社仏閣がなんと多い事か。どこへ行っても大同二年建立というのは、おかしな話である。義経伝説も胡散臭いが、坂上田村麻呂の介入による神社仏閣の歴史も、まともには信じられない話である。

ただ、ここで思うのは奥州藤原氏だ。前に述べたように、藤原氏の亜流はいろいろあるが、殆ど藤を姓の一部に加えたのだが、鎌倉幕府に滅ぼされた藤原氏の逃げ延びた一族は、藤を使用しなかったという。そういう意味から考えると、六角牛の麓に住みついた藤原一族が別姓を名乗ったとも考えられる。その一つが藤が淵から来ているのならば「今を生きる藤原氏」という意味の変換で「今淵」という姓になったとも妄想してしまうが…。

ただ飯豊地域の伝承に今淵館というのがあり、その今淵は奥州藤原氏が滅ぼされた後、栃木からやってきた阿曽沼の家臣であったという。ただし栃木県からわざわざついて来たのか、それとも現地で登用したのか定かでは無いのが今淵氏ではある。もしも今淵氏が現地登用であるのならば、それは阿曽沼氏の奥州藤原氏に対する情けであったのかもしれない。
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ただし、古文書によれば、今淵の本名は佐々木であり、現在の今淵家の家紋も四つ目結であるらしい。これは、近江国から発生した佐々木氏と同じ家紋となるのだ。佐々木といえば全国ベスト10に入る程の多い姓である。しかし、その佐々木の半分以上が秋田県と岩手県に分布されており、一番多いのは岩手県となる。その岩手県の遠野市では「菊池・佐々木は馬の糞」と呼ばれる程の多さであるのだ。この佐々木姓もまた、岩手県における謎の一つであろう。今淵が本来、佐々木氏であるかどうかは定かでは無いが、一つの可能性を模索するならば、眉毛が太く目が大きく二重であるという蝦夷の血統は、DNAレベルで避けられないもの。もしも蝦夷の血統を今淵氏が引くのならば、それを表面上だけ拭い去るのならば、東北に大勢雪崩れ込んできた佐々木氏を家紋から全て偽って真似し、名前だけを「淵」という「藤」と同じものに変え「今淵」となった可能性があるのならば、六神石神社に伝わる伝承「六角牛の麓に逃げ延びた藤原氏」の伝承と結びつくのだが…。

「遠野物語拾遺66」の文中に仏壇に桜の木を供えたというのがある。桜は樺の木とも、木の花とも云われる。採掘・産金の集団、もしくは水を司る一族は、何故か桜の木を植える習俗、もしくは供える習俗がある。何の気なしに書き記されている今淵氏の桜の木を供える習俗は、佐々木一族には無いもの感じた為、実は佐々木一族と今淵一族は関係無いのではと思ったのであった。
by dostoev | 2012-10-06 19:51 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(17)

「遠野物語拾遺69(おひで)」

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昔附馬牛村の某といふ者、旅をしてアラミの国を通ったところが、
路の両側の田の稲が、如何にも好ましくぢやぐぢやぐと実り、赤
るみ垂れて居たので、種籾にしようと思って一穂摘み取り懐に入
れて持ち帰り、次の年苗代に播いて見るとヲサ一枚になった。そ
れは糯稲であったので、今年はどんなに好い餠が搗けるだろうと、
やがて田植をするとどのヲサもどのヲサも、青々と勢よく育った。

ところが或日アラミから人が来て、此家の主人は去年の秋、おれ
の田の糯稲の穂を盗んで来て播いた。此田もあの田も皆盗んで来
た稲だといふ。そんな事は無いと言って争って見たけれども、そ
れならば此秋の出穂を見て、証拠を以て訴へると言って帰って行
った。某はそれを心痛して、どうか助けて下されと早池峰山に願
掛けをして、御山に登って御参籠をして禱った。

其秋は果たしてアラミの人が又遣って来て、共々に田に出て出穂
を検めて見ようといふので、仕方無しに二人で行って見ると、た
しかに昨日まで糯稲であったものが、出た穂を見ると悉く毛の長
い粳稲になって居る。そこでアラミの人も面目が無く、詫びごと
をして逃げるように帰ってしまった。是は全く早池峰山の御利益
で、此稲は穂は粳でけれども本当は糯稲であった。それを生出糯
と謂って、今でも其種が少しは村に伝はって居る。それからして
この御山の女神は、盗みをした者でさへ加護なされるといって、
信心をする者が愈々多いのである。

                              「遠野物語拾遺69」

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アラミの国というのは、遠野から内陸の花巻市・北上市・奥州市などをさしたというが、「アラミ」の語源は伊能嘉矩「遠野くさぐさ」によれば、米俵の「荒編」からきてるのではという事らしい。実際に、遠野市の田植えから稲刈り時期の様子を比較すると、内陸と遠野の文化の違いを感じてしまう。稲の干し方の形も違っているのに気付いている人もいる筈だ。アラミの国という表現は、ある意味異文化の地の意味も含んでいるのだろう。

ところで「附馬牛村誌」には文中に登場する「生出糯」が伝わっているというが、現在は確認できないという。ところでこの「生出糯」だが、「おひでもち」と読むようだ。

この「おひで」だが、盛岡市玉山区に生出という地名があり、そこはどうも水の涌き出る地であり、それから名付けられたのが「生出(おひで)」という地名だったようだ。遠野市附馬牛町には早池峰神社の鎮座する大出地区と、 その手前に小出という地区がある。「大出(おおいで)」「小出(こいで)」と現在は読むが、もしかして本来はどちらも「おいで・おひで」と読んだのではなかろうか?

ちなみにネットで「大出」と「小出」という同名の地名を調べて見たところ、どちらも水辺にある地名が殆どだ。「生出」は「うまれいずる」とも読むのだが、これはどうも「水が湧き出る」という意味を有しているようだ。つまり「生出」「大出」「小出」も本来は同じ意味であり、区別する為に漢字表記を「大出」「小出」に分けたのではなかろうか?
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早池峰神社が建立された後、慈覚大師によって七つの観音が彫られ、それを各地に祀って遠野七観音となっている。観音を彫りあげた1本の松の木(桂の木説もあり)を洗った地が沢の口といい、やはり早池峰水系の水が流れる地だ。この沢の口、そして早池峰神社に向かう途中の小出と大出。全て一連の川の流れの範囲内だ。
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小出には、婆石という女人禁制を意味する伝説の石がある。つまり、小出もひとつの起点の地であると考える。その小出にはバス停のすぐ傍に水芭蕉の咲く、古くから水の涌き出て居る地がある。そこには小さな水神の石碑があり、これから察すれば「小出」という地名もまた「おひで」という、水の涌く地という意味から発生したのではなかろうか。
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そして「おひで」といえばもう一つ、気になる場所がある。遠野市上郷町の日出神社だ。

日出神社の祭神は、建保年中(1213~1218)阿曽沼朝綱の勧請したものと伝えられ、往時の祭神は薬師如来であるとされ、元は気仙郡上有住村秋丸にあるものを現在地に移したものとも伝えられている。寛文年中(1662~1673)第19代南部直栄が眼病平癒を祈願するに功験顕著であるので崇敬深く、社領5石を寄進し年々奉幣参向あり、以来遠野郷は勿論の事、広く気仙郡並びに釜石・花巻方面よりも尊崇を得たと伝えられている。
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社殿東方にある栃の木の根本の穴に溜れる水を以て眼を洗う慣習があったと聞くが、それが上の画像の木となる。これには伝説があり、坂上田村麻呂が戦の前の日に試し切りにしようとして石が後に、この栃の木の根元に入り込み、水を湧き出させるようになったという。その石は、水の根源の石とも伝えられる。

つまり社殿の建立は南北朝時代ではあるが、それ以前にこの地は水の涌く地であったようだ。そして「日出神社」という太陽をイメージする神社名であるが、社は北の早池峰方面を向き、日出とありながら太陽信仰に関わるものは皆無である。

また義経伝説の地でもあり、源義経が現地の女性に産ませた娘が日出姫となり、その日出姫を祀った神社であるとも伝えられる。
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またこの日出神社のかなり手前に中居明神という水の涌く地があり、ここは日出神の現れる中居の地として存在する。その伝承によれば日出神は蛇神であるという。

とにかくどうにも太陽信仰よりも水に関わる信仰の地であるようだが、この日出神は別名「おひでさん」という愛称で呼ばれているのだが、もしかして本来は「生出(おひで)」の地としての「おひでさん」では無かったのだろうか?
by dostoev | 2012-09-30 06:08 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺64(火防の神)」

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愛宕様は火防の神様だそうで、その氏子であった遠野の下通町辺では、
五、六十年の間火事というものを知らなかった。ある時某家で失火が
あった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶の水を小さな杓
で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。

翌朝火元の家の者大徳院に来り、昨夜は和尚さんの御陰で大事に至ら
ず、誠に有難いと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。
それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということが
解ったそうな。

                                 「遠野物語拾遺64」

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ここで、気になる個所がある。結果的には愛宕の神様が火消しをしてくれた事になったというが、柄杓で水をかけ…とある記述は「遠野物語拾遺67」にもある。ただ「遠野物語拾遺67」の場合は無尽和尚が高野山の火消しをしたとなっているが、どちらにしろ神霊的な話となっている。

愛宕神社には火之迦具土神が祀られているのだが、あくまでも火の神であり、この火の神を鎮める為に祀るのであり、火之迦具土神が火消しをするわけでは無い。綾織にある愛宕神社には早池峯の神である瀬織津比咩が祀られているが、瀬織津比咩は水神でもあり、早池峯周囲からは「お滝さん」と親しまれる水神でもある。実は「愛宕」とは「おたき」もしくは「おたぎ」とも読む。かっての山城国にあった「愛宕郡(おたきぐん)」という地があり「愛宕」が「おたき」と呼ばれていたのがわかる。

京都の愛宕を調べてみると、大森恵子「愛宕信仰と験競べ」には、愛宕山にある月輪寺の縁起が紹介されている。この寺の縁起は「愛宕山縁起」でもあった。月輪寺は「がちりんじ」または俗称「つきのわでら」とも呼ばれている。天応元年(781年)に慶俊僧都が開いた寺と伝えられ、その後能楽の「愛宕空也」に登場する空也上人も参籠したという。その月輪寺の祖師堂には空也上人が安置され、境内の龍王堂には、伝龍王像が祀られている。その龍王像は、月輪寺境内に湧き出る「清泉龍女水」の龍神を彫ったものだという。

この縁起を簡単に紹介すれば、愛宕山上に水が無く人々も困っていると龍神に懇願したところ、その願いを聞き届けたというのは、東禅寺で無尽和尚が早池峯の神に開慶水を願った譚と同じである。これと同じ事が能の「愛宕空也」でも演じられているのだ。つまり愛宕が火防であるのは、火災の難から免れる為に、水神の御利益を得る必要があったという事。水と火の関係は、陰陽五行でいう「水剋火」であり、火の神である火之迦具土神を鎮める為には、水神の助けが必要であるからだ。愛宕を「おたき」と読むが、それは「お滝」でもあり、水の姫神が祀られているからであろう。京都の愛宕山と、その周囲の地名には、水に関するものが多くあるというのもひとえに水神が愛宕山と、その周囲を覆い、火を鎮めているからであろう。

「遠野物語拾遺64」の場合は、愛宕の神様の火消しの話であるが、その媒介した存在は和尚であり、それは東禅寺の無尽和尚に繋がるものである。綾織の愛宕に水神である瀬織津比咩が祀られているのを考えると、遠野の愛宕神社自体にも水神が祀られていると考えて良いだろう。愛宕神社の入り口にある倉堀神社もまた水神を祀っており、片葉の葦の伝承に加え、早池峯との関連もある。とにかくその水神が、和尚の姿を借りて火消しをした。女神が和尚などの姿を借りた話は、全国に無数にある。ここはあくまでも愛宕という"水神"…突き詰めれば、早池峯の水神の霊験譚という事なのだと考える。
by dostoev | 2010-12-26 09:32 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(4)

「遠野物語拾遺65(火伏)」

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野州古峰原は火防の神としてはなはだ名が高いので、遠野地方にも信心を
する人が多い。

この神様は非常に山芋が御好きということで、いつも講中の者は競うて山の
長芋を献上する。その献上の仕方はただ自分の家の屋根の上へ、古峰原
の神様に上げますと唱えて芋を置くと、その次の朝はもう見えない。そうして
後になって、その神社から礼状が来るのである。

ある時上郷村の某という者、講中に加わって野州の本社に参拝し、自分が長
芋を持参せぬのでばつが悪く思って、実は宅のホラマエに置いて忘れて来ま
したと偽りを言った。そうすると社務所では、そんな事は気にかけるに及ばぬ、
すぐに人を遺って取寄せようからと言うので、内心何と無く不安を感じて寝た。

そうすると翌朝神社の人が言うには、昨夜人を出して御宅のホラマエを探させ
たけれども、誰かの悪戯か長芋は見えなかった。それでそのしるしに少々見せ
しめをして来たということてある。以後は気をつけられるようにの話なので、すぐ
に村へ返って来て見ると、ちょうどその晩に家の小屋が焼けていたという。

土淵村の小笠原某という家でも、この神に祈願があって長芋を献上したが、太
く見事な芋を家の食用に取っておいて、細いものばかりを屋棟へ上げたところ
が、やがて火事が起こって家が焼けてしまった。当時これを見た者は皆この話
をした。今から十二、三年前のことである。

                                「遠野物語拾遺65」

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古峰ヶ原神社には、長芋を献上するというのだが、それをケチってしまったり忘れてしまったりすると天罰が下るという話なのだが、そもそも何故に山芋なのか?多分これは憶測だが、古峰神社は五穀豊穣をも祈願するものであるものから山芋と、その山芋の長さが天狗の鼻に結び付いた為では無かろうか?立派な鼻は、天狗の象徴でもあるから、立派な山芋を献上せずに家で食べ、その代わりとして貧弱な細い山芋を天狗に献上しようとした小笠原某の家が燃えたのも、天狗の逆鱗に触れた為なのだろう。

とろで古峰神社には、ヤマトタケルが祀られており、確かに草薙剣によって火を防いだという伝説から、火伏の神になったのだろう。しかし古峰ヶ原の古峰神社は天狗で有名だ。つまり、本来は天狗が火伏せの神であると広まって信仰されていたのだと考える。

しかし火伏せである筈の天狗が、逆に火を放つ。これは本来修験が自在に火を扱うからだ。修験道には、様々な火の儀礼が存在し、それはあたかもゾロアスター教の儀礼に類似しているのだという。
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火伏せで有名なのは、古峰ヶ原意外には、京都の愛宕と静岡の秋葉になる。このどれもに天狗がかかわってくる。愛宕神社には、ヒノカグツチが祀られている。古い時代に、このヒノカグツチの依代は、愛宕山頂に聳える大杉だと信じられてきたようだ。しかし修験道と習合するうちに、いつしかその大杉は太郎坊天狗の棲むところとされたようだ。そこで太郎坊天狗に、火伏せの霊験が移ったのだと。

1177年に、平安京は大火に見舞われたそうだが、その大火を称し「太郎焼亡」と呼ばれ、愛宕の太郎坊天狗は、益々畏怖さたのだという。この頃から、天狗が火を操る神として認識され始め、それが飛び火して秋葉や古峰ヶ原に伝わったようである。火を操る神として天狗は君臨した為「遠野物語拾遺65」では、天狗の機嫌を取り損ねた人間が、小屋や家を焼かれてしまうという災難に見舞われている。そうなれば、益々天狗の威光は高まる。誰もが家を焼かれたくないからだ…。
by dostoev | 2010-12-06 12:57 | 「遠野物語拾遺考」60話~ | Comments(0)