遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」50話~( 11 )

「遠野物語拾遺55(片割れの神像が見るものは)」

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琴畑の部落の入口の塚の上にある、三尺ばかりの無格好な木像なども、同じように子供が橇にして雪すべりをしていたのを、通りかかった老人が小言を言って、その晩から大変な熱病になった。せっかく面白く遊んでいるのをなぜに子供をいじめたかと言って、ごせを焼いたという話がある。この森が先年野火の為に焼けて、塚の上の神様が焼傷をなされた。京都にいる姉この処さ飛んで行くべと思って飛んだども、体が重くてよく飛べなかった。ただごろごろと下の池まで転げ落ちて、大変な怪我をなされたのだそうな。誰がこんなことを知っているかというと、それは皆、野崎のイダコ(巫女)がそう言ったのである。

                                                   「遠野物語拾遺55」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この話は、「遠野物語72」「遠野物語拾遺49」と重複してしまう話でもある。「遠野物語拾遺49」では、狩人に足を撃たれた仏像が京都に飛んで行って、何とかの寺に居るとある。この「遠野物語拾遺55」では、野火で火傷した木像の姉が京都にいるという。つまり、この塚にいた木像とは兄弟で祀られていたのだろうか?それとも、姉妹だろうか。そして、「遠野物語72」によれば、その木像とはカクラサマであると云う。
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画像の地蔵端と呼ばれる小高い山の頂は踏み固められており、平坦になっているのは、信仰が最近まで続いていた名残であろう。「遠野物語拾遺55」の文中に、子供が橇遊びをしていたと記されているが、確かにこの小高い山から木像を橇代わりに滑って遊ぶ楽しいイメージが想像される。

この木像が二体であり、それがカクラサマであるというのなら、佐々木喜善の記録が明瞭になる。佐々木喜善「遠野雑記」では「不思議なるは、栃内村字米通路傍の森の中に在すカクラサマは、全く陰茎形の石神なることなり。然れども未だ彼のオコマサマの如く、男女の愛情其の他の祈願にて、このカクラサマに参詣したり等の話を聞きたることなし。」

この地蔵端は、琴畑の入口であり、村外れの境界でもある。道祖神系は、こういう処に祀られる場合が多い。その道祖神の大抵は、男女二体が普通であるが、遠野地方では、ただ道祖神と刻まれた石碑だけがあるのが現状だ。その道祖神の代わりに、このカクラサマが祀られていた可能性はあるだろう。この木像の正体が男女二体のカクラサマであるなら、残っていたカクラサマとは、男カクラサマであったか。しかし何故に、女カクラサマだけが京都にあるのかは理解できない。

柳田國男は「奥州のカクラサマは路傍の神には珍しい木像である。しかとは判らぬが円頭の御姿であった。地蔵の一族でないまでも、其外戚の道祖神の姿を彷彿とさせる。」と述べているように、大抵の道祖神は石造りである。しかし、路傍の石碑を建てる事の出来た人間とは、金持ちであった。それ故に、石像を頼めない者は、自らがノミをふるって素朴な像を彫ったりしたようだ。そういう事から、例えば京都から仏師が来て、木像の片割れをこの琴畑で彫って残して、別の片割れの仏像が京都にあるとは考え辛い。物理的に無理であるなら、精神的にどうかだが。
f0075075_17264317.jpg

例えば、京都の宇治橋に祀られる橋姫がある。柳田國男は「橋姫とは橋の一端に奉安した境神であり、元々は男女二柱の神であるが故にネタミ深く、容易に人を近付けない性格を有する。」と述べている様に、この地蔵端の小高い山の頂に行く為には、橋を渡らねばならない。小高い山の高みに祀られているのは、遠野では母也明神がやはり高台に祀られている様に、洪水を避ける為でもある。そういう意味から考えれば、このカクラサマとは、橋姫の片割れとして彫られた男神であるのかもしれない。だが橋姫は、男を呪った存在であり、その橋姫の呪いを鎮める為、当初は祀る時に男女二体としたようだ。ところが現在の橋姫神社には、早池峰の女神と同じ瀬織津比咩が祀られている。橋姫神社の当初から瀬織津比咩が祀られていたのだが、後から橋姫が被せられて橋姫神社となったようだ。

「遠野物語拾遺49」には、こう記している「今の地蔵端の御堂は北向きに建てゝある。それは京都の方を見ないやうにといふ為だそうなが、そのわけはよく解らない。」と。この地蔵端のカクラサマを社が北を向いているのは、京都の橋姫神社に祀られる瀬織津比咩ではなく、北に鎮座する早池峯に祀られる瀬織津比咩を見ろとの意味があるのではなかろうか。京都にいる筈のお前の片割れは、今では早池峯に祀られているのだよと。
by dostoev | 2015-06-12 17:54 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺52(阿修羅)」

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又同村柏崎の阿修羅社の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、此像をやつぱり近所の子供等が持ち出して、阪下の沼に浮べて船にして遊んで居たのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、却つて阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで詫びをして許してもらつた。

                                                     「遠野物語拾遺52」

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土渕水内と土名鶉子の境界に阿修羅堂があり、里俗方言で「アシュラゴォ」と呼ばれていたようだが、現在は「オアシャラサマ」と呼ばれているようである。実はこの阿修羅像、もしかして木喰仏としての可能性が高いと云われている。安永九年に木喰上人が遠野の綾織と土淵の柏崎で泊まったとの記録がある事と、柏崎で仏像を安置したのがこの阿修羅堂であるらしい事からであった。
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この阿修羅像は昭和50年頃に、御堂の改築工事の為一時福泉寺に預けていたそうだが、住職によって彩色されて、上の画像の様にケバケバしくなってしまった。ただ、阿修羅像が安永九年に彫られたものであったも、この阿修羅堂はそれ以前からあったようである。小高い場所に建てられて阿修羅堂の下には昔沼があったという。その沼の伝承では、その沼の神は常に付近の民家で飼育している牛馬鶏を捕えて食べ、それでも満足しない時は、苗代を荒らして、水田を枯らしたという。それから毎年、各家より苗を三把づつ沼に投じ、沼の神に捧げる風習が出来たという。そして、それを怠った者には神罰があったという。そして、沼に投じた苗は、秋に所を異にして顕れたという事から、豊穣の神として祀られたのだろう。伊能嘉矩は、足洗川を「アシラガァ」と呼ぶ事から、先に紹介した里俗方言「アシラゴォ」を同じでは無いかと考え、それを安倍一族と結び付け、胡四王の転ではないかとしているが、それは無理があるだろう。ただし、足洗川と阿修羅が元を同じとする考えは有り得るのではなかろうか。

足洗川は、安倍貞任の馬の足を、もしくは源義家の馬の足を洗ったから"足洗川"という、取ってつけた様な伝説になっているが、今と違って昔の川の殆どが暴れ川であった事を考えれば、まるで「阿修羅の様な川だ。」という命名の可能性はあるだろう。ただし、足洗川は小烏瀬川の支流であり、水源を阿修羅堂近辺には求めていない。ただ沼の主の信仰が川に及んだと考えれば、足洗川の語源が阿修羅堂下の沼に求めてもおかしくはないだろう。恐らく、牛馬鶏を食べ、苗代・水田を荒らしたというのは川の氾濫に他ならぬものであり、その大元の神の生息地が阿修羅堂下の、別名人喰沼であろうから。
by dostoev | 2014-11-15 19:15 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺57&58(カドススマス)」

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鱒沢村の笠の通という家の権現様は、小正月の晩にその家で村の若者等を呼んで神楽をすると、自分も出て踊りたがって、座敷であればれてしようが無かった。そこで若者たちはまず権現を土蔵の中に入れて、土戸をしめておいてから踊ったこともあるそうな。

                                                     「遠野物語拾遺57」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「注釈遠野物語拾遺」に記されている内容をざっと書いてみよう。

笠の通という家は、江戸期は善行院と称する旧修験家であり、遠野郷羽黒派の頭襟頭であった。遠祖は藤原北家の流れと称し、維新前は藤原姓であった。羽黒修験として笠通山に出羽三尊を祀り、日照りの年には雨乞いの護摩祈祷などで、験力を示したという。笠通山の元は出羽通山で、藤原家の修験が出羽の月山からこの山を遠望した時に、あたかも笠の形に見えた事から、笠通山と呼ぶようになってという謂れがある。権現は代々踊りたがって暴れた話が伝わっているらしい。
f0075075_89422.jpg

附馬牛の宿の新山神社の祭礼の日、遠野の八幡様の神楽を奉納したことがあった。その夜八幡の権現様は土地の山本某という家に一宿したが、その家も村の神楽舞の家であったので、奥の床の間に家付きの権現様が安置してあって、八幡の権現をばその脇に並べて休ませた。ところが夜更けになって何かはなはだ烈しく闘うような物音が奥座敷の方に聞こえるので、あかりを附けて起きて行って見ると、家の権現とその八幡とが、上になり下になって咬み合っておられる。そうしてとうとう八幡の権現の方が片耳を喰い切られて敗北したということで、今にこの獅子頭には片耳が無いという話。維新前後の出来事であったように語り伝えている。

                                                   「遠野物語拾遺58」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山本某の家は真言宗の修験山伏で、奉納神楽を伝承していた家系のようである。この山本某の家の権現様は、延宝九年(1681年)の銘があるという。片耳を取られたという八幡の権現様だが、山伏神楽の流れを汲む奉納神楽で、片耳の権現があったと伝わっているが、今は無いらしい。
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遠野市小友町に、こういう歌が伝わっている。

秋田のごげさんが

たらのこ食いてえて

おききとないた


旧正月から小正月にかけて春祈祷が権現様を持って行われたという。その時に、上記の言葉を歌の様に唱えながら太鼓を叩いて、村中を廻ったという。これを小友町では「カドススマス」と呼んだそうだ。「カド」は「門前」の事を言い、「ススマス」は「獅子舞」の事を言うのだそうだが、権現も獅子舞も同じだとして「ススマス」と呼んだらしい。

このカドススマスが来ると、各家々では米・豆・麻糸をあげるのだというが、霞証文をもって祈祷した当時の名残であるという。その為か、踊る人間以外に「ものしょい」という物担ぎ専門の人間も連れてきて溜まった米などを担いで帰ったそうだが、一日では終わらない為に、部落の宿や民泊をしたらしい。小友町の宮崎の家では、泊めても良いが踊らせるなと伝わっているというのは、踊る場合はその家の女の衣装を貸し出さなくてはならなかった為の様。それは衣装が、滅茶苦茶にされる為であったようだ。

この権現様が村中を廻る春祈祷の時は、方々の神社から権現様が出て来る為に喧嘩になったそうな。それは霞という実入りの伴う領分が存在したので、その実入りの奪い合いからの喧嘩であったようだ。当然、同じ家に泊まった場合は、やはり喧嘩が起きたそうで、それが権現様の喧嘩として伝わったようである。遠野の神社に祀られている権現様の耳や舌が取られて無くなっているのは、毎年の喧嘩による災難でもあったのだろう。
by dostoev | 2014-07-03 10:59 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(6)

「遠野物語拾遺53(十王堂)其の二」

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画像は、綾織の長松寺に、どこからか持ち込まれたという子安観音という事である。しかし隠れ切支丹を調べると御法度となってから宣教師が国外追放となり、教えを乞う者が居ない中、信者が密かに何百年も信仰を守り続けた結果、かなりの土着信仰と結びついて、本来のキリスト教徒は違うものになっている場合も、かなりあったという。

確かに子安観音は実在するが、禁制時代の隠れ切支丹達は、マリア様のイメージを子安観音に求めた事実もあるという。つまり本物の子安観音であったとしても、隠れ切支丹の信仰心から、それはマリア像へと変化するものであったらしい。それは子安観音だけにとどまらず、他の観音像や、阿弥陀仏、薬師仏、菩薩像、そして天神像やら女神像と様々であったらしい。
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それ故に、長松寺に安置される子安観音像も、子安観音像でも正しいのだが、マリア像と言っても、それは正しくなってしまう。ただ何故にこの子安観音像が持ち込まれたのかと考えれば、家では維持できなくなったから、寺に持ち込んだと考えるのが普通だろう。では何故に維持できなくなったか?単純に要らなくなったが、粗末に扱えないので寺に預けた場合と、隠れ切支丹である事を発覚しないよう、寺に預けた場合も考えられるだろう。

この綾織地方では隠れ切支丹はいなかったのでは?という事らしいが、家単位でキリスト教を信仰する場合、すぐに発覚するので、村単位で布教させ信仰する場合が多かったという。つまり村ぐるみであれば、なかなか外には漏れないという。1軒でも信仰の無い者がいた場合、そこから密告されるのを恐れた為だという。西日本で切支丹の弾圧が始まり、多くの人々が北の果てに逃げて来たという。当然それは、海を渡って北海道へも向かった。しかし、島原の乱(1637~1638)の後に遠野でも弾圧は手が及んだという。今から約、400年前の話となる。
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ところで菊池照雄「遠野物語をゆく」に、気になる記述があった。十王堂を祀る会下の家を解体した時土台から頭に穴の開いた人骨が三体でてきたという。実は、佐賀県の不動山に隠れ切支丹が潜んでおり、信者の死体を埋葬していたという。その死体の頭蓋骨には3つの穴が開いていたり、3本の釘が刺さっていたという。切支丹での3本の釘とは三位一体の証であり、その証を死体に刻んでいたようだ。菊池照雄氏の会下の証言がどこまで正確かはわからないが、もしかして頭蓋骨には三つの穴が空いて無かったろうか?それか死体が三体では無く、穴が三つであるならば、それは密かに埋められた切支丹信者の可能性もあるのかもしれない。続く…。
by dostoev | 2013-01-14 18:00 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺53(十王堂)其の一」

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遠野町字会下にある十王堂でも、古ぼけた仏像を子供たちが馬にして
遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると言って叱り飛ばして
堂内に納めた。するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。そうし
て十王堂様が枕神に立って、せっかく自分が子供等と面白く遊んでい
たのに、なまじ気の利くふりをして咎め立てなどするのが気に食わぬ
と、お叱りになった。巫女を頼んで、これから気をつけますという約
束で許されたということである。


                                「遠野物語拾遺53」

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ここでフト頭を過るのは、この「遠野物語53」などのような仏像と遊んで いる子供を大人が叱ると、逆に叱った大人が仏像の祟りに遭う話は、座敷わらしに近い感覚であると思う。

座敷わらしは直接祟りを成すが、子供と遊んでいる仏像の場合は、子供を叱って間接的に仏像に祟られるという違いはあるが、どちらも人間では無い共通性があり、その座敷わらしと仏像の感覚は似た様なものである。似た様とはつまり「子供の感覚」に等しいという事だ。

怒ったらすねる。そして、純粋に叱った者に対して怒りを露わにする。子供にとって、親が叱るのは仕方が無い。逆に、怒られる事が非常に悲しい事になってしまうのだが、余所の大人に対しては、それがあたかも鬼に見えたり、恐ろしい妖怪の類に感じるものである。

それ故、余所の大人に対して悪戯に近い復讐、例えばその恐ろしい大人が棲む家に対して石を投げたりする行為は、まさに座敷わらしや仏像が叱った大人に相対する行為に似通っている。
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ところで「上閉伊今昔物語」によれば、この十王堂は、この地の更に奥にある九重沢という地にあった積善寺という天台宗の敷地内だった。十王堂の建っている地名の昔は蓮華といい、この辺には僧衆達がいた寮があったという。

その積善寺は現在では幻の寺であり、十王堂はその幻の切れ端みたいなものとなる。

奥州藤原氏が滅ぼされた後に、阿曽沼氏がこの遠野を統治したのだが、その阿曽沼時代に、この積善寺はあったという。しかし南部時代に移り変わった時代と言うのは、切支丹禁制の令が発布された時代と重なる。

「盛岡南部家文書切支丹妻子御成敗目録」に依れば、寛永13年(1636年)3月25日、遠野に於いても3人死刑にかけられ、数十人の改宗者があったという記録が残されている。

しかし殺しても良い隠れ切支丹をそのまま殺すのは惜しいという事で、いつ落盤事故で死ぬかわからない鉱山の仕事に従事させたようだ。元々鉱山の仕事には、脛に傷を持つ者が働いている為、隠れ切支丹が入り込んでも、何等問題は無かったようだ。

その隠れ切支丹の根城となったのが、この積善寺であったようだ。「遠野古事記」に廃寺とする旨を記しているが、実際は隠れ切支丹の為であったようだ。積善寺が隠れ切支丹の根城であるなら、それは当然会下の十王堂にも影響があった筈である…。
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例えば「遠野物語拾遺50」に、懸け仏がマリア像ではないかとの話があるが、画像はその八幡様を祀っていた祠にあった懸け仏だ。しかし調べると、大抵の懸け仏は普通のモノであるのだが、裏にバッテンが刻まれているのが隠れ切支丹の特徴らしい。しかし、この懸け仏を見た時、裏側に十字があったかどうかまでは確認していなかった。
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また、土淵町の常堅寺に伝わる仏像も隠れ切支丹が信仰した像とも云われるが、画像の様に頭の箇所に、やはりバッテンが刻まれている。つまり像そのもの姿よりバッテンが刻まれている事に意義があるのかとも感じる。
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切支丹に対する弾圧が弱まった幕末から明治にかけては、ハッキリと胸に十字を抱いた観音像が流行ったという。画像は、遠野町にある瑞応院にいつしか預けられた観音像だが、この像にはハッキリとした十字を胸に抱いている。

また細かな砂埃が付着しているが、鉱山に従事する隠れ切支丹達は、その鉱山内で、像を祀って祈りを捧げたという事から、恐らく鉱山内部に祀られていた像ではなかっただろうか。
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つまり隠れ切支丹達は、像の姿よりも「十字(クロス)の元に集まり信仰」したものと考えられる。少々強引ではあるが、会下の十王堂がもしも隠れ切支丹と何等かの関係にあるのならば、十王堂という名称の「十」という十字を意味するものに集まった可能性も否定できないのかもしれない。

十王堂内部には、閻魔大王を中心とし、その従者達に加えて、様々な仏像らしきが安置されている。その一つ一つを調べたわけでは無いが像の一部に十字があるだけで信仰の対象になるのならば、先に書いたように像だけでは無く、十王堂という名称だけで、それはじゅうぶんとなる。続く…。
by dostoev | 2013-01-02 19:53 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺51(子供と遊ぶ神)」

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土淵村栃内の久保の観音は馬頭観音である。其像を近所の子供等が
持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇にして乗ったりして遊
んでいるのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別
当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、せっかく観音様が子供
等と面白く遊んでいたのを、お節介をしたのが御気に障ったという
ので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。この話をした人は、
村の新田鶴松という爺で、その時の子供の中の一人である。

                      「遠野物語拾遺51」

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正直、こういう神仏と子供が遊び、それを大人が叱るのだが、その叱った大人が神仏の罰に当たり寝込むなどという話は、全国無数にある。今さらという気がしないでも無い。

この前もある集落に赴いてフィールドワークをしているところ、集落の仏像で遊んでいた子供達を別当が…と、やはり同じような話を聞いた。そしてフト気付いたのが、もしやこの話は座敷ワラシと連動しているのではないのか?という事だった。

神仏との遊びは、子供が神仏と遊んでいて、それを叱った大人が罰を受ける。座敷わらしは、子供そのものが神仏のようなもので、何かがあってその家を出ると、その住んでいる家が罰を受けたように衰退する。どちらのキーワードも、子供であるという事だ。

子供は7歳を迎えるまで神の子であるという。その為に、至れり尽くせりのサービス?を家の者から受けるのだが、その代り7歳を迎えると人間の子供として、下の子の面倒から家事や畑仕事を手伝わなくてはならなくなる。ただし子供という区切りは、元服を迎えるまではまだ子供であるという認識もある。今でいえば、義務教育までは子供であると考えても良いのかもしれない。

しかしだ、ここでの子供とは、無邪気さと純粋さでは無いかと考える。その無邪気さと純粋さとは、表裏の無いもの。例えば、大人が神仏をオモチャ代わりにして遊んでいるのを叱るのは、神仏は尊いものであるという、ある意味差別だ。

ここで大人の考え方は、神仏は大人か子供かと考えた場合、分別の付く大人に近いものだろうと勝手に思っている気がする。神仏とは、大人や子供を超越したところにいる存在であり、それは大人であるとか子供であると分け隔てるのが間違いでは無いかと思ってしまう。
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泉鏡花が面白い事を言っている。


「僕は明らかに世に二つの大なる自然力のある事を信ずる。これを強いて
一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間
はこれに対して到底不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に
顕現する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一歩脚傘の化け物
ともなる。世に所謂妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外
ならぬ。」



観音力とは人間が太刀打ちできない力であり、その尊い力を信じるから、大人はそれを大事にしようとする。しかし一旦それを粗末に扱い蔑むからその観音力は鬼神力となって、人々に禍をもたらすのだと信じる大人がいるのだと思う。しかし、そういう知識も無い子供にとって観音力も鬼神力も無いのではなかろうか。泉鏡花の俳句に、やはり面白いものがある。


「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」


この俳句は、お寺や神社にある石灯籠が夜の暗さも相まって恐ろしく感じ、今にも動きそう(化けそう)に感じる情景の俳句と感じる。この感覚は自分だけでなく、誰でも感じた事のある感覚であり、それは子供の時に感じた感覚であったろうと思う。人間はいろいろな"知識"を吸収し成長し、大人になって行く。だが子供は、先程の観音力も鬼神力も感じる事の無くただ感覚の赴くままに神仏像と接しているに過ぎないのだと思う。

座敷わらしの姿を、子供は見る事が出来るという。座敷わらしが物の怪であるならば、それは泉鏡花の言うところの鬼神力であり、霊的なモノの具現化であろう。よく「見える人」という区分けがある。普通の人が見る事の出来ないモノを見る事の出来る人。

例えば、夜に輝く星々も、昼間には太陽の光に打ち消され見る事が出来ない。それを「見える。」という人は、幽霊が見えるに等しいであろう。幽霊が実在するかどうか定かでは無いが、例えば見える筈の無いプレアデス星団の七つ星をギシリア神話では七人の姉妹として表しているのは、それは誰かが見えたからであろうか?またドゴン族に伝わる星の神話もまた、普通の人には見えないものを伝えている。

それらを認識する時、神仏像が単なる像としてではなく、子供にとって、それは神仏像ではなく一緒に遊んでくれるモノであるか人であると認識したから、子供はそれで遊び、神仏像もまた、それを認識してくれた子供と楽しく遊んだのだと思ってしまう。

座敷わらしもまた、それが家に憑く存在であるから、その家をどう扱うかによって、座敷わらしの存在を感じるのだと思う。その共通点は子供であり、子供と同じ感覚を有する事だろう。

また神霊や心霊が存在せず、それを自我意識の精神と捉えれば、全体が認識する祟りというものを具現化するなら、心理学的には有り得る話だと思う。

恐らく、子供が神仏像と遊ぶのは、子供が純粋に神仏像を「遊ぶモノ」では無く「遊んでくれる者」として捉えて、無邪気に遊んでいたのではないか。それは子供が神仏像を「そう感じた。」からであり、座敷わらしもまた同じであるのだと考える。

神仏の祟りを現実的に捉えれば、それは子供の「目線」や「言葉」を通して伝える心的エネルギー(リピドー)が作用してのものだとすれば納得できるものであるし、座敷わらしのそれも、屋敷に対して抱く心的エネルギーが内面へと向けば、座敷わらしは去っていき、家が衰退を始めるのだと思う。

「遠野物語拾遺51」での話は、何故に子供が神仏像と楽しく遊んでいるかが本当の意味であり、それを理解出来ぬ子供の心を失った大人が、それを悟る為の話では無かったのか。また神仏像とは、それだけ人間の知識や経験を超越した存在で、それを感じる事のできるのは余分な知識では無く「無邪気」ともいえる子供の心であり、それが大人であれば邪念を振り払った禅でいうところの「無」の境地ではなかろうか。
by dostoev | 2012-09-14 18:08 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

遠野物語拾遺59(火防権現)

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宮守村字塚沢の多田といふ家は、神楽の太夫の家であったが、
此家の権現様もやはり耳取権現と呼ばれて居る。是は或年の権現
まはしの日に、他の村の権現と出合って喧嘩をして、片耳を取ら
れたといふのである。耳は取られても霊験は尚あらたかで、或時
家に失火のあった時などは、夜半に座敷でひどく荒れて家の人を
起し、且つ自分も飛び廻って火を喰ひ消して居たといふことである。
これは同家の息子の話であった。

                                「遠野物語拾遺59」

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「注釈 遠野物語拾遺(上)」によれば、この多田家は塚沢不動尊社の別当であり、早池峰神楽の太夫家であったようだ。ただし遠野の早池峰神楽ではなく、大迫の早池峰神社に伝わる山伏神楽を習い伝承しているらしい。

権現様の舞には、五穀豊穣、厄災退散、火難防除、火防などがある事から、権現様が火防をするのは当然だとなるのだが、これは以前、権現様は火を自在に操るとして「ゴンゲンサマ考(其の二)」で書き記した。しかし、火を自在に操るから火消をするというのには、少々疑問が残る。火を自在に操るとは本来、火の属性があるという事だろう。陰陽五行の「五行相剋」によれば「水剋火」で、火を消すのは水であり、火ではない。ところで気になるのは多田家が不動尊の別当だという事だ。「遠野物語拾遺63」では、華厳院が火事になった時、童子二人が火消をしたというが、その正体は不動明王と大日如来であったか…となっているが、不動明王の脇侍を務める矜羯羅童子と制多迦童子の可能性も秘めている。

また早池峰に関係するならば「遠野物語拾遺67」において無尽和尚が来迎石の上に登った後、急いで開慶水の水を天に向かって投げ散らすと、高野山の火災が鎮火したという。来迎石は水神である早池峰の姫神が降り立った石だ。つまり無尽和尚がその来迎石に乗ったという事は、神の力を得たに等しいのだと考える。つまり水神の持つ、水の力で火を消し止めたと考えるのが普通だろう。

また火防で有名な愛宕神社がある。「遠野物語拾遺64」においても、愛宕様が和尚の姿となって火を消したのでは?という話になっているが、愛宕神社のの本山である京都の愛宕神社へ行くには「京都バス「清滝」終点下車して歩くか、JR「 保津峡」下車、歩いて水尾ルートを歩くという…地名からも水が豊富なイメージがある。愛宕神社の旧称は「阿多古神社」というようだが、これは「延喜式神名帳」「丹波国桑田郡 阿多古神社」とある事から、これに合せ後に「 阿多古神社」としたようだが、この 阿多古神社は亀岡市の愛宕神社であったようだ。京都の愛宕は、愛宕山が聳え、その辺の地域を愛宕郡というのだが、正式には愛宕郡(おたきぐん)と呼ぶのが正解らしい。つまり愛宕神社へ行く道のりが水溢れているように、愛宕は「おたき」で「お滝」から来ているのだという。つまり愛宕神社総本山である愛宕神社は水の属性があるという事だろう。それ故なのか、綾織の愛宕神社には水神である早池峰の姫神が祀られていた。
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この「遠野物語拾遺59」での権現様の火消の能力は、不動明王、もしくは水神としての早池峰の姫神の影響を受けてのものではなかったのだろうか。その不動明王と早池峰の姫神は、遠野の早池峰神社へ行っても、その奥にある又一の滝へ行っても、水繋がりで結びつくのであるのだ。
by dostoev | 2012-09-04 20:42 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺54(太子信仰)」

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同じ町の上組町でも、太師様の像に縄を掛けて、引きずり回して
喜んでいる子供達があるのを、ある人が見咎めて止めると、その
晩枕神に太師様が立たれて、面白く遊んでいるのに邪魔をしたと
お叱りになった。これもお詫びして許されたそうな。

                    「遠野物語拾遺54」

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仏像と子供達が戯れて、それを咎めた大人が罰にあたる話は無数にある。ここでは大師様と書かれているので弘法大師と間違えそうだが、上組町にあるのは太子堂であり、祀られているのは太子様の像であって、聖徳太子であるようだ。この太子信仰は"まいりの仏"などとして、聖徳太子を信仰していた親鸞を開祖とする浄土真宗が東北地方に広がった事に繋がるとされているのが一般的だ。
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二日町の光明寺にも、太子信仰らしきが伝わる。しかし現在、この太子信仰が何故に光明寺に伝わっているのかは、定かでないようだ。この光明時は曹洞宗だ。しかし開山となって祀られたのは阿弥陀如来。曹洞宗は普通釈迦如来像を祀る筈で、阿弥陀如来像を祀る宗派は浄土真宗だ。開山の逸話はわかるが、何故に阿弥陀如来像を祀るのか?また聖徳太子の像と絵が飾られているが、これは「まいり仏」の一種で、やはり浄土真宗が行って来た事。

岩手県の浄土真宗は親鸞の高弟である是信房と、その門下が伝えたのだという。是信房の死後もその後継人である和賀一族が伝え広めたのだが、殆どは紫波、稗貫、胆沢一円であるというが遠野にも「まいりの仏」は民間に入り込んでおり、当然の事ながら遠野地域も影響を受けているのだろう。
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井上鋭夫「山の民・川の民」では、この太子信仰に言及している。太子とは本来「王子」であり、後に聖徳太子に結び付けられてはいるが「金」との関係の深いものであるようだ。

採掘・産金は鉱山関係者でもある修験者が信仰する神や仏があり、それに使役する者達…ここでは「非人」が例えば熊野・八幡に対する若宮・山王に対する王子のようなもので、非人が信仰するものは修験者よりも一段低い信仰対象が与えられたようだ。その非人達は職人でもあり金堀り・鋳物師・木地師・杣人・塗師等々であったよう。「遠野物語拾遺275」の一部を抜粋すると「二十三日の聖徳太子(大工の神)」とある事から、やはり非人であった職人達に聖徳太子信仰が根付いていたのだろう。しかし太子信仰を伴う職人の大元は、採掘から広がったようでもある。
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「遠野物語拾遺54」の太子像の顔が異様に白いのは、顔に"お白い"を塗って願を掛けていた為だ。この顔に塗る"お白い"とは鉛白であり、その歴史は持統天皇時代に遡る古いものであったが、一般に広がったのはそれ以降の様だ。また水銀を原料とする"お白い"もあった事から、とにかく"お白い"には、何やら金属加工者の匂いが感じられる。何故なら、金属加工の工場があるから"お白い"は取れるからだ。
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信仰対象である聖山には、本地である仏菩薩などが宿ると信じられていた。仏菩薩はまた「黄金」と見立てられており、聖山は修験者から「金山」と称されていたようだ。羽黒山は岩山であるが、こういう岩山は山の精が凝縮していたと信じられていたようで、岩は星とも見立てられている為「星→岩→山の精→鉱物」であったのだろう。そういう山の岩窟には仏像を祀る信仰があったのも「黄金→仏菩薩」であった為に仏像を祀る事により、その山が「黄金を産む山」であると定められたようである。画像は、遠野の仙人峠にある観音窟であるが、伝承では坂上田村麻呂が蝦夷征伐をした後に観音像を祀ったとあるのはつまり、鉱山開発をするという証でもあったのでは無かろうか。この観音窟の伝承は上郷町の日出神社にも関係がある。日出神社にはやはり採掘・産金との関係が深く、早池峯山にも繋がる事から、この観音窟に祀られた仏像とは、おそらく十一面観音であったのだろう。

修験者にとって「金」とは財産価値よりも、聖なる価値を持つものとして崇められ、それを仏であり観音であり"光明"であると説いている。つまり太子信仰が伝わる二日町の"光明寺"という名の由来も本来、そこからきているのではないだろうか。
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もう一度、井上鋭夫「山の民・川の民」に戻れば、北陸においてタイシと呼ばれる者達がおり、それを別に「退士」とも称し、戦に敗れた落人でもあったとされる。遠野だけでは無いが、鉱山の労働者には、脛に傷を持つ者達の集まりであった。その中には隠れキリシタンもおり、また確かに"退士"でもある落人もいたようである。井上鋭夫によれば、タイシと呼ばれる者は山の民であり採掘をする者達。それが川の民と結び付いたのは、採掘した鉱物を川を利用して運ぶ為の結び付きであると説いている。

光明寺のある二日町は遠野の出口でもある綾織に属する。その綾織にあるいくつかの寺を見て回ると、周辺の人達から預った太子像や、隠れキリシタンであろう仏像がいくつも保管されているのは、鉱山開発に従事する人達がかって多くいたという証になるのではなかろうか。東和町の兜跋毘沙門天像は、猿ヶ石川を睨む形で祀られているのは、遠野に住む蝦夷が猿ヶ石川を利用していたからだという。その猿ヶ石川は、いろいろなものを運搬していたのだろうが当然、鉱物も運搬していたのであろう。

古代から起きている戦いの殆どは「金」の争奪戦であったからだ。綾織を過ぎて次に重要な地点は鱒沢であったのだと考える。この鱒沢は、いくつもの金山を有する小友町の合流点でもあり、東北に経塚を初めて広めた奥州藤原氏の影響も受けているかのように、小友町の山谷観音堂には、遠野で一番古い経塚があった。遠野盆地の自慢は、遠野を囲む全ての山々が水源地であるという事だ。その遠野を囲む山々から鉱物が川を伝って集めまとめられ、その出口は綾織であり、また鱒沢であったかもしれない。太子信仰は、鉱山開発に従事した人々の名残であったのだろうと考える。
by dostoev | 2011-01-25 03:57 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺56話(篠権現)其の二」

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「東北民間信仰の研究(下)」

「漁村の信仰の中に漂着物に関する記載があり、海の彼方から流れ
 寄るものを常世の国よりの贈り物として大切にし神体にしたりする例
 も多い。この地方でも浜で引いた網にかかった石や鯨の骨をエビス
 神社に納める。海上を漂う水死人をエビス神とする例さえ見られ、大
 漁をさせてくれる神とする。大漁させるかどうか問答するのも一種の
 呪術である。」

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東北沿岸全般に、やはりというかエビス信仰があった。エビスの形態は様々云われるが、エビスは「恵比寿・夷・戎・恵比須・蛭子・胡」と様々な漢字があてられるが、元は「古事記」による足の立たない子供が、海へと流された話に帰着し、その足の立たないのは足が無い為であり、蛇であろうとされる。つまり、某人物が、海釣りをしている最中、難破船を発見し、その難破船の破片を持ち帰り死者の霊を弔う為に、その難破船の破片を大額として篠権現に飾ったのだという話は、エビス信仰から来ているものであり、この篠権現はエビスとの繋がりを持つものであろう。

何度も書くようだが、エビスの被る帽子は烏帽子であり、形状は三角形。これは、蛇の頭を現すものである。伝承では、葛西の浪士達がこの地を開拓する為に武器を埋め、篠権現を建立したという事だが、本来はもっと古いもので、この地にエビスであり蛇であり、龍が祀られていたものを、葛西の浪士がそれを拝め奉り、篠権現を建立したのではなかろうか?そうでなければ、沿岸地域に信仰されるエビスをこの土室の地葛西の浪士が持ちうる由縁がわからない。なので、元々蛇を祀る地に、後から篠権現を建立したのだと考える。

また篠権現には虎頭の権現が祀られているというが、虎といえば虎舞を思い出す。中国の易経では「雲は龍に従い、風は虎に従う」とある。風を従わせる事ができる虎の威を借りて火難・海難をもたらす風を鎮め、五穀豊穣・豊漁を祈るのが沿岸地方の信仰であるが、内陸の場合は火伏せの意味があるらしい。

岩手県の虎舞は殆ど沿岸地域に集中しているのだが、何故か遠野市の小友町には虎舞が伝わっている。これは海でたまたま、遠野の人間に助けられた沿岸地域の高田の漁師が、自作の虎頭の権現を祀ってからなのたろう。

また篠権現は疱瘡の神様であると言い伝えられ、以前は遠方からも多くの人々の参拝があったと聞くが、それは遠野市上宮守の与平次という人物が「つる(耳)」の無い鉄鍋を奉納したところ、たまたま疱瘡にかかった人物が、その鉄鍋を被ると治った為、評判となったらしい。実は「耳無し」というのもまた、蛇の象徴である。その耳が無い鍋を被る事により、蛇になり切り、蛇の脱皮による生まれ変わりの霊力が宿ったものとして伝わったものであろう。

文章が重複してしまうが、篠権現の由来には、葛西の浪士が百姓として生きていく為に、この土室の地に武器を埋めて、篠権現を建立したというが、この篠権現がエビスを含む蛇信仰の神社であるならば、まず先に蛇ありきと考えるのが正しいものと思う。何故かというと、蛇は祟るからである。蛇を祀る地に移り住む場合”それ”を崇める必要がある。つまり本来、葛西の浪士が来る以前から、この地は、諏訪の御室神事の信仰が根付いていた”土室”と呼ばれ、地域の住民はその地を避けて住んでいたのだろう。そこに後から辿り着いた葛西の浪士達が”土室”に住み着く為、その地を鎮め、崇める為に篠権現を建立したものと考える。

ところで「遠野物語拾遺56話」に登場する姥神なのだが、姥神で調べると現れるのは北海道の江刺地方に伝わる姥神大神宮となり、やはり豊漁の神として崇められているので、エビスとも結び付きそうだ。

物語の中で”三度”姥神に呼び起されるくだりがあるが、この”三度”というのに意味があるのかもしれない。三という数字は聖数であり、日本には…例えば三山とか御三家とか、いろいろ三に対する信仰と拘りがある。エビスは夷”三郎”とも記され、エビスが蛭子であるならば蛭子は、生まれて”三年”経っても足が立たなかったとされる。「竹取物語」のかぐや姫もまた、生まれた時は”三寸”の大きさで”三ヶ月”で成人し”三日”かけて、成人のお祝いをしたとあり、何かと”三”という数字には聖なる意味合いが持たれている。そういや蛇になったで有名は甲賀三郎と、やはり名前に三が付くように「遠野物語拾遺56」において姥神が三度、寝ている子供を呼び起したというのには意味があるとは、考え過ぎだろうか?

また前の記事で、蛇は耳無しであると書き記したが、耳が聞こえないという意味の漢字には「聾唖」がある。「聾唖」の「聾」とは「耳」の上に「龍」が乗っているのだが「龍の耳」と「蛇の耳」は同義であり、蛇には耳が無い事から、蛇は耳が聞こえないとなる。
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篠権現の社に向って左脇に、こんもりとした円錐形の小山がある。そこには、山の神の石碑が鎮座しているのだが、もしかしてこの円錐形の小山そものが、土室の語源となった場所では無いのか?と感じてしまう。山の神は女神であるとも云うが、地域によっては狼であったり猪であったり蛇だったりする。三輪山の主が実は蛇であったという事。その三輪山の形状は円錐形で、これは蛇のとぐろを巻いた姿であるという。
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小友には、某人物が作った竪穴式住居があるが「御室神事」で使用される”土室”とは、写真の竪穴式住居に近いものらしい。これは円錐形をしていて、やはり蛇のとぐろを巻く姿を模しているのだと。それはつまり、三輪山と同じ構造をしているものと考えて良いのだろう。つまり、篠権現の左脇にある、こんもりした円錐形の小山そのものは蛇であり、それを祀る為に後から山の神の石碑を置いたのだと考える。

実際、この篠権現脇の円錐形の小山は、周囲の風景を見渡しても違和感を覚える。どうも、人為的に作られた小山のようだ。また山の神の石碑の脇に、かなりの樹齢のモミ木が植えられている。つまり、この円錐形の小山は意図的に土室を作ったものだと思ってしまう。

ここで最初に立ち返ると、没落した葛西の浪士達が、刀を埋めて百姓になったというのだが、その刀を埋めた場所が、もしかしてこの円錐形の小山なのにかもしれない。刀そのものは、神の依代であるとともに、蛇の見立てでもあり「遠野物語」でも、いくつかの刀が蛇に化ける話が紹介されている。つまり、刀を埋葬するという事は、蛇を祀ったものだとも思えてしまうのだが…。
by dostoev | 2010-12-06 14:49 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺56話(篠権現)其の一」

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「村の鎮守篠権現の境内で、遊び友達とかくれんぼに夢中になって
いるうちに、中堂の姥神様の象の背後に入り込んだまま、いつの間
にか眠ってしまった。

すると、これやこれや起きろという声がするのでむ目を覚まして見
ると、あたりはすっかり暗くなっており、自分は窮屈な姥神様の背
中にもたれていた。

呼び起こしてくれたのは、この姥神様であった。外へ出ようと思っ
ても、いつの間にか別当殿が錠を下ろして行ったものとみえ、扉が
開かないので、仕方無しにそこの円柱にもたれて眠りかけるとまた
姥神様が、これこれ起きろと起こしてくれるのであったが、疲れて
いるので眼を開けてられなかった。こうして三度も姥神様に呼び起
こされた。

その時、家の者や村人達が多勢で探しに来たのに見つけられて、
家に連れ帰られたという…。

                     「遠野物語拾遺56話」

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この「遠野物語拾遺56」の話が載っている地が小友町の土室という地である。遠野と小友を結ぶ峠の一つに土室峠というのがあり、その峠から小友町への入り口に、この篠権現がある。

「小友町勝蹟誌」によると、地元伝説として「御室様」として納めた佐々木某のお札は、海の神様ではなかったか?と言われているようだ。「御室様」というと、同じ小友町の堂場沢稲荷の脇にある奇岩を「御室様」と呼んで祀っている。「御室」というと、諏訪の「御室神事」が思い浮かぶが、もしかして諏訪の影響があるのでは無いかと考える。
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【堂場稲荷 奇岩の御室様】
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【御室社】

中世までは、諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、
現人神の大祝や神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小
のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした遺跡地である。

旧暦12月22日に「御室入り」をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去さ
れるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。諏訪信仰の中で
は特殊神事として重要視されていたが、中世以降は惜しくも廃絶した。

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「御室神事」について調べると、上記の事が書き記されていた。上の写真は堂場沢稲荷脇にある、岩の塊と、その中にある「お室様」と呼ばれる岩穴。この岩穴は不思議な岩穴とも呼ばれ、なんでも、そこに物を投げ入れると、戻ってくるとか、穴に向かって呼びかけると返事が返ってくるなどと云われている。

土室には「隠れ里」という伝説も付随しているのだが、これは秀吉の小田原征伐に出兵しなかった葛西家が没落し、この土室の地で百姓として密かに生活した事から隠れ里であるとも云われる。その時に、所持していた武器を地に埋め建立されたのが篠権現だという。その時を1631年だと伝えられ、祭神は少名彦命を祀っている。ところでこの少名彦命は、蛇と繋がりのある神だと云われる。

篠権現の大額があるのだが、これは楠で作られた額のようだ。某人物が、海釣りをしている最中、難破船を発見し、その難破船の破片を持ち帰り死者の霊を弔う為に、その難破船の破片を大額として篠権現に飾ったのだという。吉野裕子によれば、篠や笹などの竹類もまた蛇の見立ての木となる。この土室という地に建立された篠権現は、蛇という意識を意図的に植えつけて名付けられたのでは無いか?と思ってしまう。

また大額に楠が採用されたというのも、意味深ではある。何故かというと、楠は東北では珍しい樹木で、主に西日本で顕著であり、有名どころとしては、九州か紀伊となる。「枕草子」において清少納言は、楠を指してこう述べている。
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くすの木は、こだち多かる所にも、ことにまじらひたてらず、

おどろおどろしき思ひやりなどうとましきを、千枝にわかれて

恋する人のためしにいはれたるこそ、誰かは数をしりていひは

じめけれんと思うふに、をかしけれ。

* 簡単に訳せば…楠の欝蒼と茂る姿を想像するだけで不気味で
  嫌な感じだ…と言っている。

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清少納言の頃の平安時代、楠は不気味なイメージを持つ樹木だったようだ。ところで当時の人名を調べると、樹木の名前を持つ人には「楠」と「松」の二本が際立っているらしい。

実は、更に歴史を遡れば、縄文時代から脈々とその姿を根付かせていた樹木とは楠であり、松は弥生時代となり、渡来系の人々が持ち込んだ、神の依代としての意味合いを持った樹木であったようだ。人名に用いられた「楠・松」は実際、松は観念的なもので、楠と比較しても、その樹齢はたかが知れているらしい。しかし渡来系の文化が普及して、都では清少納言のように不気味さを感じさせる樹木としての評判が広まったようだ。これは、縄文文化の衰退を現す。しかし、その楠を讃える文化圏は西日本の中でも、紀伊と九州であったようだ。

ところで紀伊といえば、熊野がある。その熊野で祀られる神にクマノ”クス”ビノ命という神がいるが、この名前にあるクスとは熊野神を勧請した時に楠を植えたという伝説からの神であるとも云う。つまり熊野信仰圏には、一つの楠文化があったのだろう。

話を戻すが「御室神事」を調べてみると「諏訪神道縁起」によれば、御室神事に使用される土室とは、別名「蛇の家」とも呼ばれていたようだ。その形は三輪山に見立てたような円錐形である。この形は、縄文時代の竪穴住居に篭り、御神体の蛇の前で、神官、つまり蛇巫によって行われる蛇託宣であるという。またこの円錐形は、鏡餅と同じ、蛇のとぐろを巻いた姿を意識してのものだという。

この情報を頼りに考えると、遠野の小友町にある土室とは、そのまま蛇信仰が盛んであった地であり、その地に建立された篠権現もまた諏訪の「御室神事」の影響を受けて、蛇を祀っている神社であったのだろう…。
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篠権現社は、小友の村社である巌龍神社に合祀されている。巌龍神社とは、遠野の小友町にある創建がわからないという古くからある神社である。その御神体とは、神社の背後に聳える俗に不動巌と呼ばれる、岩の断崖で、過去に不動尊を祀った関係から不動巌と呼ばれるようになったようだ。また上記の写真を見ると、何やら蛇腹ぽい跡が付いているが、これは蛟龍の昇降した跡であるという伝説が付随している。蛟龍とは牝龍であり、この不動巌の根元には聖水が湧き出る泉だという伝説もあり、この地もまさに天眞渟名井の伝承が伝わった地である事がわかる。またこの巌龍神社には、維新以降だが、中世に創建されたという弁財天を祀る厳島神社も合祀されており、まるで巌龍神社に、小友中の龍(蛇)を集中させている感かする。

小友町に通じる峠の一つに、小友峠というのもある。この小友峠の途中には、やはり白龍(白蛇)を祀るニ郷神社というのがあるが、この神社の背後もまた屹立した岩の断崖となっている。実は、この神社の創建には、巌龍神社と同じ山伏系列の人間が開山し、巌龍神社と同じ形態で祀っている。そしてやはりというか、聖なる泉が湧くという伝説と共、実際に清い水が湧いている為、今でもその水を汲みに、多くの人が訪れている地でもある。
by dostoev | 2010-12-06 13:37 | 「遠野物語拾遺考」50話~ | Comments(0)