遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」20話~( 12 )

「遠野物語拾遺20(樹木供養)」

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昔栗林村の太田に大きな杉の木があった。その名を一の権現といって、五里も離れた笛吹峠の上から、見える程の大木であった。ある年わけがあってその木を伐り倒すことになったが、朝から晩まで挽いても鋸屑が一夜のうちに元通りにくっついて、幾日かかっても挽き切ることが出来なかった。ところがある夜の夢に、せの木という樹がやって来て、あの切屑を毎晩焼き棄ててしまったら、すぐに伐り倒せると教えてくれた。次の日からその通りにすると、はたして大杉は倒されてしまった。しかし多くの樹木は仲間の権現が、せの木の為に殺されたといって、それからはせの木と附合いをしないことにした。

                                                     「遠野物語拾遺20」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この記事は一度、北欧神話を交えて書いた事があるが、日本において、これに似た一番古い話は「今昔物語(推古天皇、本ノ元興寺ヲ…。)」で紹介されている。古木を人間に例えれば、歳を経た翁か媼という事になる。神話の中に、翁などが人間離れした能力を発揮しているのは、年老いた猫が猫又という妖怪に変化する概念と同じである。樹木もまた年老いて、その地の妖怪的な主になると考えられたのだろう。その樹木を伐る術を教えてくれるのが、「遠野物語拾遺21」では、同胞のセノキで「遠野物語拾遺22」では、流浪の乞食であるが、「今昔物語」では、恐らく夜の闇の世界から聞こえてきた木霊の言葉であるようだ。夜の闇は、魑魅魍魎であり神々が蠢く時間帯でもある。その時間帯に、昼間は大人しくしていた木霊の声が聞こえたようだ。

ところで画像の様に、神木には注連縄が張ってある。「今昔物語」でも、古木を伐る方法を語る木霊らしき言葉に注連縄らしきが登場している。

「だが、もしも麻苧の注連を引きめぐらし、中臣の祭文を読み、杣人に縄墨をかけさせた上で伐るようなことになれば、もはや我々はどうしようもないではないか。」

この「今昔物語」での注連は「シリクヘ」と読むようだ。注連縄は「和妙抄」で「シリクベナワ」で、別に「斯梨俱梅難波」という漢字があてられるよう。ここでの注連は、注連縄と同じと考えて良いだろう。その注連縄だが、どうも不動明王の持つ"羂索"と同じ力を持つようだ。羂索の「羂」は「捉える」という意があり、「索」は「縄」を意味する。仏教的には衆生を残さず救う慈悲の縄であるとしているが、別の意味では邪悪なモノを縛る縄の意もあるようだ。神木には、神が宿るとされている。その神木から彫られた仏像は、神と同体とされたのは、仏教側の詭弁であった。神とは本来、慈悲深い存在では無く、一方的に祟りを為す存在であった。その神の宿った神木に注連縄を張り巡らすのは、その荒々しい神を樹木に封印する為の手段でもあったのか。ならば昔、早池峯神社の神木を伐った関係者が5人も死んだ事件というのは、このような神木の伐採方法を行わなかったのかもしれない。樹木を伐る事とは、神を制御し供養する事に等しい。例えば、「遠野物語拾遺20&21」での切り屑を燃やすという事は、樹木自身の火葬でもある。そして「今昔物語」では「大祓祝詞」を唱えるのは、今まさに伐られようとする樹木の身を清めるという、いわば供養である。その供養を神域全ての樹木にしなかった為の事件であったかと思えてしまう。

「遠野物語拾遺20」で人間に伐り方を教えたのは"せの木"であるが、「今昔物語」では"木霊"らしきである。どちらも魑魅魍魎が蠢く夜の時間帯に囁き、もしくは夜の夢に移り渡って訴えたのは、同族の裏切り行為であり、どことなく人間らしさを醸し出している。もしも昼と夜の住人が入れ替わったとしても、同じ事が起きるという事であろうか。それは、つまり神=妖怪=人間という事だろう。
by dostoev | 2015-06-27 17:45 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺29(お鍋が淵)」

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鱒沢村のお鍋が淵というのも、やはり同じ猿ヶ石川の流れにある淵である。
昔阿曽沼家の時代にこの村の領主の妾が、主人の戦死を聞いて幼な子を抱
えて、入水して死んだ処と言い伝えている。淵の中に大きな白い石がある
が、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣装の婦人が現われて、髪を梳
いているのを見ることがあった。今から二十五年前程の大水の際にも、こ
れを見た者が二、三人もあった。

                     「遠野物語拾遺29」

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お鍋は実在した人物だという。「阿曽沼興廃記」には、観音の申し子としてのお鍋の末路が記されているが、お鍋が入水したのが鱒沢と記されているのに対し、お鍋の出身である松崎の「まつざき歴史がたり」によれば、入水したのは観音寄りの松崎沼であったといい、その松崎には画像の様な墓所が存在する。この画像に墓石が無いのは、いつの頃か、お鍋の親族を名乗る者が現れ、墓石を持って行ったという事である。

「注釈遠野物語拾遺」の解説によれば「用語南部盛岡藩辞典」にて、お鍋は「才色兼備」であったというが「まつざき歴史がたり」によれば、それは鱒沢中右衛門の妻に可愛がられて才色兼備となったようだ。しかし「用語南部盛岡藩辞典」によれば、鱒沢中右衛門が南部利直公の娶った時には、既にお鍋はいたという事だ。以前紹介した「釜淵」もそうであるが、入水した沼や淵が二ヵ所以上に伝わる伝承の不確かさがある。
f0075075_17451064.jpg

ところで、石に関する俗信に「白い石を死に石と言う。」というものがあり、元々白色は、死に装束もそうだが、白い獣は神の使いなどともあり、霊的なものとして広く認知されている。それ故に、お鍋が入水した後に、川の白い石に女が髪を梳いでいたという話は後日談ではあろうが、お鍋とは関係無い話を組み合わせたものだろう。何故なら「遠野物語」及び「遠野物語拾遺」には多くの水辺の伝承が多く紹介され、またそれ以外にも多くの人々が猿ヶ石川というモノに流された歴史があり、お鍋一人云々では済まされないのが猿ヶ石川であるからだ。
by dostoev | 2013-07-01 17:46 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺27(盲神)」

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昔、二人とも目が見えない夫婦が小さな子供を連れて早栃まできたとき、
子供が橋から川に落ちて死んでしまった。これを知った夫婦は、生きてい
る甲斐がないと橋から身を投げてしまった。

村の人たちは哀れに思って祠を建ててまつり、祠を盲神といった。今でも、
祠の辺りの沢水は目の悪い人にはご利益があると言われている。

                                「遠野物語拾遺27」

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この話について早栃の方、数人から聞いてみたが、そういう話は無かったのではないか?…との事。この物語の信憑性に関しては、低いと言わざるおえない。少し違うのだが、遠野が飢饉の時に早瀬川の辺で「お腹が空いた。」と、ダダをこねる子供の頭を石で叩き、家族もろとも死んで石になったという伝説がある。悲劇の時代、もしくは悲劇の時代を振り返る時、こういう悲話が創られるのもまた事実であったろう。

ただ何度も書くが、小松和彦の「異人論」には、伝えられる伝説をそのまま信じるにもどうか?という疑問符を持って接してしまう。貧しい時、とくに飢饉の時などは、自らが生きるのに精一杯であり、他人に対する施しなど、まず無かった時代であっただろう。現在の、遠野第二ダムからは昔、大量の人骨が掘り出された。その人骨は、飢饉の時に死んだ”野垂れ死に”の人達であったろうという事らしい。「遠野」の語源(亡者の列)では、飢饉の時の野垂れ死にが多い為、遠野の町では早起きしないと、いつの間にか自分の軒先には死体が山となっているというのも、あながち作り話では無かったようだ。そういう時代、どこまでが真実で、どこまでが作り話かわからない話が、多く創られたのだろう。

遠野を探索して気付くものに、眼病に関する伝承が多い。この石に溜まった水で洗うと、眼病が治る。この湧き出した水で目を洗うと治るなど…いくつもの眼病に関する伝承の地がある。これらを見ると、つまり眼病と水の関係が深いという事だろう。目が見えなくなるには様々な要素があるだろうか、現代に於いての一番の原因は、糖尿病があるのだが、水に関連して考えるならば、緑内障ではなかったか?この緑内障が発症する場合、涙が排出される排水口がつまる事からのようだ。現代社会では「顔を洗う」もしくは「目薬をさす」など、洗顔と洗眼の意識が定着している。しかし昔と成れば、顔を毎日洗うという事も、殆ど無かったと聞く。女性でさえ、髪をすすぐのにも一週間に一度程度であったようだ。となれば顔に垢が溜まって、涙腺などを塞いでいた可能性はあったろう。だから大抵の眼病を治す水とは、顔や目を洗う事により治るのだという事を示唆していたのだろう。
by dostoev | 2010-12-17 12:27 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(6)

「遠野物語拾遺26(乞食の親子)」

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これも松崎村の橋場あたりであったかに、徳弥という馬喰渡世の者が住んでいた。ある年洪水があって川の水が登戸の家まで突きかけて来るので、徳弥は外へ出て、川の主、川の主、娘を遣るから水を脇の方へ退けさせてくれと言った。そうすると水はすぐに別の方向に廻ってしまった。こうは言ったものの愛娘を殺したくは無いので苦労していると、そこへちょうど母と子と二人づれの乞食が来た。娘の年をきくと十八で、自分の娘と同じであった。事情を打明けて身代りになってくれぬかと頼むと、乞食親子はその頼みを承知した。

その夜は村の人が多勢集まって来て、親子の為に大振舞をして、翌日はいよいよ人々に送られて、前の薬研淵という淵に入った。母親が先に入って、水の中から娘の手を取って引いた。娘はなかなか沈まなかったが、しまいには沈んて行って見えなくなった。その娘の祟りで後々までも、この徳弥の家では女の子は十八までしか育たなかったそうである。

                                「遠野物語拾遺26」

この物語で思い出すのは、菖蒲姫の話である。陸前高田に舞出神社があり、祭神は菖蒲姫と瀬織津比咩になっている。瀬織津比咩はご存じの通り早池峯の姫神だが、この菖蒲姫については、高田に伝わる伝説を簡単に紹介したい。
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今から四、五百年前の頃の事であった。陸前高田横田村では、開拓工事の為に
堤防を造ったのだが、大水のたびごとに決壊し、せっかくの新田がまたたくまに
泥田になっていたという。そんな中村人は、和光院様という神職に伺いを立てて
みたところお告げがあった。

「水神の怒りがあるから堤防が切れるのだ。神の怒りを

              解く為には、村の少女を生贄に捧げなければならない。」

その頃の横田村に、遠野の上郷は細越から流浪してきた大層貧しい母と娘が住んでいた。娘の名を”菖蒲姫”という評判の親孝行者だったので村人達は、代わる代わる母と娘の面倒をしていたそうな。その菖蒲姫は生贄の話を聞き、自ら進んで、その人柱になる事を申し出た。残る母親の生活を村人に託して、翌日の早朝に村人総出の中、牛に乗って川まで行った。やがて菖蒲姫は白木の棺に入れられ、静かに水底へと沈められていった。

それからは堤防も決壊する事無く、これもひとえに菖蒲姫の生贄の賜物であろうと、佐沼山に小さな祠を建てて、その霊を慰める事にしたのが、現在の舞出神社であった。


この陸前高田の横田村には、紹介した舞出神社以外にも、いくつもの瀬織津比咩を祀る神社が存在するのはまるで、小さな遠野である。また横田村という名前も、遠野の町を古くは横田村と称した事から、もしや遠野から移り住んだ人達が開拓した土地であろうか?そういう流れもあって上郷の細越から移り住んだ者もいたのかもしれない。ただ現地の古老に聞いても、そのへんは定かでは無かった。

ところでこの菖蒲姫の伝説だが、水神の怒りと記されているのはやはり舞出神社において菖蒲姫と並んで祀られている瀬織津比咩であろう。あくまでも仮定だが、この横田村の人々の意識にはやはり早池峯の姫神を崇敬する信仰が底辺に流れていたのはやはり、早池峯信仰圏に属していた人の集まりで出来た村であったのではなかろうか?

話を「遠野物語拾遺26」に戻すが、「遠野物語拾遺26」と「菖蒲姫」との物語のあからさまなコントラストはどうであろう?どちらも乞食の娘であるが、方や説得され人柱を承知し、方や自ら志願しての人柱であった。そしてその後の結果は、まったく違うものとして扱われている。ただ菖蒲姫の方は、感動的な物語になっているのは、作為的な感じがする。御霊信仰に則れば…例えば、村人が強制的に娘を殺したとしても、祟りなどを恐れ、永続的に神として祀る習俗は、小松和彦「異人論」に詳しい。その為に傍目から感じる「遠野物語拾遺26」と「菖蒲姫」の話は一見、過程と結果が違うようであるのだが、本来は同じものとして捉えるべきではなかろうか。そしてもう一つ浮き上がるのは、早池峯の姫神である瀬織津比咩の存在だ。この捉え方は、アテルイと坂上田村麻呂の時代に遡るのだが、これは別の機会にでも書き記したいと思う。
by dostoev | 2010-12-16 19:38 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺25(呪言)」

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松崎村字登戸の淵の近所に、里屋という家があった。昔その家のすぐ前を
猿ヶ石川が流れていて、増水の時などはいつも難儀をするので、主人はこ
れを苦にして一日川のふちに行き、川のぬし川のぬし、もしもこの川を別
の方へ廻して流してくれたら、おれのたった一人の娘を遣ってもよいがと
言った。次の朝起きて見ると、もう一夜のうちに川は家の前を去って遠く
の方を流れていた。そこで主人はひどく心を痛めて、色々と考えたあげく、
その日召使の女が何心も無く淵に行って洗濯をしているところを、不意に
後から川に突落とした。その女は一旦水の中に沈んだが、再び川の真中に
立上って形相を変えて叫んだ。男に恨みがある。お前の家には決して男を
立てぬからそう思えと言った。それから後は今でもこの家には、男が生れ
ても二十にならぬ前にきっと死ぬという。これはその家の者の直話を聴い
たという伊藤君の話である。

                                「遠野物語拾遺25」

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登戸という地は「寒戸の婆」で有名な地である。柳田國男が何故か「登戸」を「寒戸」に間違ったとされている。ところでこの「登戸」の地名の発生は、どこから来たのであろうか?「戸」となれば、一戸~九戸となる戸で牧の意もあるという。遠野の駒木は桔梗野とも呼ばれ、牧野であったようだ。

また「登」という意味から坂をイメージするが、ここから思い出される話は「傀儡坂物語」だ。これは河童と傀儡と瀬織津比咩で紹介している。

猿ヶ石川の流れの広大さは、古地図でイメージできる。この登戸から早池峯へと参詣する為には、猿ヶ石川沿いを北上し登らねばならないのだ。思い出すと…昭和40年代に、この登戸に土地があった。代々法華さんの家で、爺様と孫で住んでいた古びた一軒家を買い取って畑として使用していた。現在も然程、民家は建ってはいないが、その頃は本当に民家は少なかった記憶がある。もしも旅人が猿ヶ石川沿いを遡上すれば当然、この「遠野物語拾遺25」にあるポツネンと存在する川端の家に遭遇するのだろう。旅の疲れを癒すのには、丁度良い立地でもあった筈だ。

この「遠野物語拾遺25」において家主は、女中を川に突き落としたとされるが、実際には女の身分は定かではない。ただ「男を立てぬ」という呪いの言葉を発したのには、その女性の神的な身分がおぼろげに感じるのだ。傀儡は神子と同義であり、つまり巫女でもあった。しかし旅の流れの傀儡は、体を売ったり、人の家に入り込み下働きをもしながら、旅を続けたとも聞く。遠野内部からの女中であるのなら、某村の某家の娘を女中として雇い入れたという事になり、簡単に川に突き飛ばして殺す事はできない。つまりここでは、旅の神子が一宿一飯、もしくはそれ以上の恩義としての洗濯であったのだと考える。その為に、どうなっても良いであろう流れ者であった女を川に突き落とす非情さが家主にはあった筈だ。

また、初めにここでの家主が「川の主、川の主」と願をかけているが、ここに一つのパラドックスが生じている。この後、川に突き落とされた女もまた、流れる川に身を任せ呪いの言葉を発しているのは、自らの人身御供である自己犠牲からだ。この女の呪いの言葉もまた、川の主に託したものであったろう。

猿ヶ石川は、早池峯と薬師から水源を発している。つまり猿ヶ石川には早池峯の霊威が籠っている川であると考えてもらいたい。この登戸の上流には松崎沼と呼ばれた広大な池があった。伝説では、この松崎沼と荒屋の沼とは繋がっているという「通底伝承」が伝わっている。この「通底伝承」の多くは、諏訪から発せされ、羽黒・白山へと結び付く。この通底伝承から浮かび上がる存在…つまり淵から淵、穴から穴へと自在に行き来している存在とは”白竜”である。川には竜蛇神信仰が根付いているが、この通底伝承を伴う竜蛇神とは白竜でしかない。ここで白竜を追及しようとは思わないが、家の主と女の言霊は、川の主である白竜に告げられているのには注意が必要だろう。その言霊は猿ヶ石川を伝って遡上し、早池峯まで届く筈であるからだ。   
by dostoev | 2010-12-16 09:24 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺22(釜淵)」

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附馬牛村東禅寺の常福院に、昔無尽和尚の時に用いられたという大釜がある。
無尽は碩徳の師家であって、不断二百余人の雲水が随従してたので、いつも
この釜で粥などを煮ていたものであるという。初には夫婦釜といって二つの釜
があった。

東禅寺が盛岡の城下へ移された時、この釜は持って行かれるのを厭がって、
夜々異様の唸り声を立てて、本堂をごろごろと転げまわった。

いよいよ担ぎ出そうとすると、幾人がかりでも動かぬ程重くなった。それも雌釜
の方だけはとうとう担ぎ挙げられて、同じ村の大萩という処まで行ったが、後に
残った雄釜を恋しがって鳴出し、人夫をよろよろと後戻りをさせるので、気味が
悪くなってしばらく地上に置くと、そのまま唸りながら前の淵へ入ってしまった。

それでその一つだけは今でもこの淵の底に沈んでいるのだそうな。

                              「遠野物語拾遺22」

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釜が沈んだという淵は現在、大萩の外れにある砂防ダムであるというが、別に鱒沢にも同じ釜淵の伝説は伝わる。夫婦釜の片割れである雄釜は、大萩の常福院に祀られている。それでは別の「釜淵」の伝承を紹介したいと思う。


【夫婦釜の伝説】


昔、附馬牛の大萩に東禅寺という大きな寺があった頃、そこには二百人もの
修行僧がおり、修行に明け暮れていたのだという。なので食事も大したもの
で、馬釜のような大きな雄蝶、雌蝶と呼ばれた二つの釜で、ご飯を炊いてい
たのだと。

ところが時代も変わり、江戸時代の初期に、南部の殿様がこの東禅寺を盛岡
に移転する事としたのだという。その時にこの雄蝶、雌蝶の二つの釜を一緒に
運ぶ事となったのだが、何故かこの淵の側を通りかかった時に、急に片方の
雌蝶の釜が崩れ落ち、あっという間に淵に沈んでしまったのだと。そして雄蝶
と呼ばれた釜は空中に舞い上がり、火の玉のようになって、元の東禅寺まで
飛んでいったそうな。きっと今まで居た東禅寺から離れたくなかったのだろうと、
人々は語ったのだという。雄蝶の釜は今でも大萩の常福院に残っており、寺宝
となっている。

そして、淵に沈んだ雌蝶の釜は、何十人という人足をかけても、ついに引き上げ
る事が出来ないままであったと。それから、この雌蝶の釜の沈んだ淵を釜淵と呼
んで近寄らず、またこの釜淵で魚を獲ると祟りがあると恐れられたそうである。

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鱒沢に伝わる釜淵は上の画像の通りで、今ではちっぽけな水溜りのようである。ただ古地図によれば、猿ヶ石川は広大な川で、現在の鱒沢の釜淵の場所も、深い淵であったのは想像に難くない。

しかし以前紹介した松崎沼の伝説もそうだが、三女神が分かれた地など、一つの伝説が、二つの地に分散し、語られている。三女神は伊豆神社からと神遺神社の二ヵ所であり、七観音を彫った樹木も、附馬牛の松であり、いや物見山の桂の木であるとされ、いろいろな伝承が不安定に揺れ動いているのだ。これは何を意味するのだろう?

言える事は地域で考えた場合、遠野の北と南に分かれるという事だ。例えば七観音を彫ったという松の木の大木は、附馬牛の沢の口という地に屹立していたといい、その松の木の倒れた先端が松崎になったという伝説。遠野の古地図(寛永以前)による猿ヶ石川の及ぶ範囲を考えると、確かに早瀬川を含める猿ヶ石川の占める割合が、遠野を分断していたのがわかる。松崎から北が、一つの遠野の文化圏であったのだろう。川の治水が進み、現在の遠野の町が落ち着いたのに加え、阿曽沼から南部に変わった歴史が、伝説の分割になったのではなかろうか?

峠を考えた場合、この伝説の釜を無難に東禅寺から運ぶなら、やはり開けていた盛岡街道であり、現在の396号線であろう。そう考えると東禅寺から大萩方面に運ぶとなれば、逆行する事になる。しかし盛岡街道と鱒沢の釜淵の間には当時、広大な猿ヶ石川が流れていたし、盛岡街道を通るのならば、その川を渡る必要性は無かった。ならばやはり、附馬牛から大迫に抜ける、馬越峠だろうか?初めて馬越峠を越えて、達曾部の稲荷穴に行ったのは、昭和49年だった。その頃の馬越峠は、頂付近で道が切れていた。現在は道路工事が施され、立派な舗装道路が通っているが、昭和49年の頃には、まるで獣道みたいなもので、使用されていないのが理解できた。ただ上郷から釜石に抜ける小川新道みたいな獣道のような峠もあった事から、やはり名の通り細い道を馬を使って盛岡へと向かったのだろうか?確かに馬越峠の方が、盛岡へは最短距離で行けるのだ。となれば伝説は、馬越峠を通って行ったとなると、鱒沢の釜淵の伝説の発生は、どこから来たものであろうか?

もう一つ、大川善男氏が「遠野の寺社由緒考」で解明したように、東禅寺の本来は、天台宗であった。天台宗から曹洞宗系に改宗した寺は多い。遠野で一番古い歴史の常堅寺なども、元々は天台宗であって、後に曹洞宗に改宗した。「夫婦釜の伝説」で見えるのは…多分であるが、衰えた東禅寺を改宗させ移転する為の反攻の伝説では無かったのか?そこには、反南部という意図が入り込んでいるのかもしれない。雄釜が火の玉となって、元の東禅寺に戻ったのは、その証であったのかもしれない。

ただ雌釜が沈んで、その淵で魚を獲ると祟りがあるというのは、人柱伝承に近い。母也明神の伝説でも「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから…」とあるように、結果的に男女の間を裂いた姑に祟りが起きたと考えてもいいだろう。また、土淵の二つ岩山の頂に鎮座する夫婦岩の間を、男女で通ると祟りがあるような話にあるように、間を割って入るのはタブーであった。簡単な呪詛とは、間にバッテンを入れるだけでOKとなる。つまり、間を割るというのは一つの呪詛であり、夫婦釜と東善寺の縁に加え、夫婦釜の縁に南部氏が割って入った事による呪詛として、釜淵で魚を獲ると祟りが起きるとなったのだと考える。
by dostoev | 2010-12-14 10:08 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(3)

 「遠野物語拾遺21(桐壺の淵)」

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金沢村の字長谷は、土淵村字栃内の琴畑と、背中合わせになった部落である。
その長谷に曲栃という家があり、その家の後ろに滝明神という祠があって、その
境内に昔大きな栃の木があった。

ある時大槌浜の人たちが船にしようと思って、この木を所望して伐りにかかった
が、いくら伐っても翌日行って見ると、切屑が元木についてどうしても伐る倒すこ
とは出来なかった。

皆が困りきっているところへ、ちょうど来合わせた旅の乞食があった。そういう事
はよく古木にはあるものだが、それは焼き伐りにすれば無難く伐り倒すことが出
来るものだと教えてくれた。それでようやくのことでこの栃の木を伐り倒して、金
沢川に流し下すと、流れて川下の壺桐の淵まで行って、倒さに落ち沈んで再び
浮かび揚がらず、そのままその淵のぬしになってしまったそうな。

この曲栃の家には美しい一人の娘があった。いつも夕方になると家の後ろの大
栃の樹の下に行き、幹にもたれて居り居りしたものであったが、某木が大槌の
人に買われて行くということを聞いてから、伐らせたくないといって毎日毎夜泣い
ていた。

それがとうとう金沢川へ、伐って流して下すのを見ると、気狂の様になって泣き
ながらその木の後について往き、いきなり壺桐の淵に飛込んで沈んでいる木に
抱きついて死んでしまった。

そうして娘の亡骸はついに浮かび出でなかった。天気の良い日には今でも水の
底に、羽の生えたような大木の姿が見えるという事である。


                             「遠野物語拾遺21」

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「遠野物語」の解説によれば「阿古屋の松」の説話と同類であると書かれている。「遠野物語」の参照に記されている「阿古屋の松」を紹介してみたい。

奥州信夫の郡司藤原の豊光に阿古耶姫という娘がいた。ある晩、緑の衣に
黒い袴をはいた少年が枕もとに立って、われは十八公の長で千歳山に住ん
でいるが、近日、斧の禍をうける、ついてはあなたの引導に預りたいと涙
ながらにのべて消えた。そのころ、名取橋の修理に、千歳山の老松が伐ら
れることになったが、どうしても動かない。これを聞いて姫は、先日の夢
を思い出し、山の上へ行って言葉をかけるとやすやすと動いた。あとに若
松を植えて、菩提を弔った。年経て老樹となって、阿古耶の松と名をうた
われた。


この「遠野物語拾遺21」には、二つの話が盛り込まれている。一つ目の話は「遠野物語拾遺20」と同じように、なかなか切る事のできない木の話となっている。それに続いて、木と娘の結び付きの話になっているのだが、これはオシラサマにも近似する話でもある。樹木は、神の依代でもある。神仏習合時代は「この樹木には神が宿っている。それ故こ樹木から観音を掘り出せば、それは神を信仰すると同じである。」と詭弁を説いた。となれば対象が樹木であれ馬であれ、娘とは巫女の存在に等しいのだろう。

また大木を伐る場合の大抵は、船を造る場合だ。これは県内にもいくつか神木から船を造った話が見られるように、「遠野物語拾遺21」の場合でも「阿古耶の松」の話でも、船の建材としての樹木だったと想像できる。ところで阿古耶(あこや)は悪谷(あくや)にも通じるとして悪路王と結び付ける説もあるが、阿古耶に近似している「悪谷」「阿久谷」の意味は「地獄谷」という意味となり、元々は風葬の地であったという説がある。

出羽において、蜂子皇子が初めて修業した地が阿久谷であった。「出羽三山案内記」によれば、蜂子皇子の最初の修行場が阿久谷であったのは、修験道十界修行のうちの「地獄・餓鬼・畜生」という三つの悪道を潜り抜けた事を意味するという。風葬の地で「地獄・餓鬼・畜生」を経験するというのは、意味深であると思う。風葬とは遺体を木に吊るしたり岩に置いたりして、自然の風化を待つものだが、そこには鳥獣が介入する。ある意味”贄”にも近いものだと考えて良いのかもしれない。

「日本書紀(持統三年)」中納言大三輪朝臣高市麻呂の反対にもかかわらず、持統は伊勢国に行幸した。この時、志摩の阿胡行宮において、紀伊国牟婁郡の人、阿古志海河瀬麻呂ら兄弟三人が贄を奉ったとある。阿胡行宮の地の所説は様々あるようだが、鳥羽市阿久志の説が強いようだ。阿久志には贄遺跡があり、様々なものが出土しているらしい。またその辺の海域を阿古瀬と呼ばれたよう。

また熊野水軍が有名であるが「日本霊異記」には、熊野村の人が熊野川上流の山に入り、樹木を伐って船を造っていた事が紹介されている。熊野の海人は船を造り、漁をしていたのがわかるが、どうもこの熊野の文化と伝承が東北に伝えられたというのに無理があろうか?つまり「あくや」も「あこや」も同じものであり「阿古耶の松」の伝承に繋がり、それが形を変えて「遠野物語拾遺21」に伝わった。それを伝えたのは、熊野修験の関係であろう。
by dostoev | 2010-12-13 14:03 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(13)

「遠野物語拾遺28(人柱)」

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松崎村の字矢崎に母也堂という小さな祠がある。昔この地に綾織村字宮ノ目
から来ていた巫女があった。一人娘に聟を取ったが気に入らず、さりとて夫婦
仲は良いので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。

その頃猿ヶ石川から引いていた用水の取り入れ口が、毎年三、四間が程必ず
崩れるので、村の人は困り抜いて色々評定したがよい分別も無く、結局物知り
の巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗っ
て通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になって貰う
より他にはしょうも無いと教えてくれた。そこで村中の男女が総出で要所要所に
番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。

一方巫女の方では気に入らぬ聟を無き者にするはこの時だと思って、その朝早
く聟に白い衣物を著せ白い馬に乗せて、隣村の附馬牛へ使に出した。

それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の聟をつかまえ
て、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならばと聟は快く承知したが、昔か
ら人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言っ
て、そこに来合せている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束にな
り、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。

そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目
にようやく川の出水が引いてから行って見ると、淵が瀬に変わって堰口に大きな
岩が現われていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれか
らは幾百年でも安全となった。それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに席神
様と崇めて、今でも毎年の祭を営んでいる。

母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、可愛い娘までも殺してしまうことに
なったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母也明神というのは即ち
この母巫女の霊を祀った祠であるという。

                                 「遠野物語拾遺28」

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遠野では、この「母也明神」の話はかなり有名であり、その伝説に従い母也堂がある。また人柱となった夫婦を堰神様祀ってあるのに加え、別に人柱で死んだ女性の墓石が建てられている。奈良の大仏建立でも、かなりの人柱が立てられたと聞くが、実際にどれだけの人柱が横行していたのかは謎のままである。
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宮守のめがね橋というのがあるのだが、昭和初期にその土台から、お歯黒の女性の骸骨が出てきたのだという。もしかして、その骸骨もまた人柱としての犠牲だったのでは?という事だがどうだろう。ただ人柱としての呪力を求めるなら、霊的な能力を持った人間か、血統の良い人を人柱などにすれば良いという。この宮守のメガネ橋から出てきたお歯黒の女性は、身分の高い女性だったのかもしれない。

ところでこの「母也明神」に関連する話があるかどうか調べてみたが、インドに似たような話が存在した。インドのある国の王が、可愛い娘の聟の強さを恐れて、畜生類を供えても水が湧かぬ涸れ池の中に馬に乗ったまま立たせると、水が湧き出してきたのだという。しかし聟は恐れる事無く、馬の膝まで来た、我が膝まで来た、我が背まで来たと歌いながら、いよいよ水に没したという。しかし王の可愛い娘であり、その憎き聟の妻もその後を追って、その池に沈んでいったという物語がある。

策を巡らし、憎き聟を陥れたのだが、それと共に可愛がっていた大事な娘をも失う話は、物語的ではある。多分ではあるが、仏教が広まった頃に、一つの仏教説話として、この話も日本に伝わったのではないだろうか?遠野のこの堰は、阿曽沼が支配する以前、大同年間に造られたものだという。同じ頃には、早池峰神社を頂点とする神話が作り上げられた時期でもあるのだ。
by dostoev | 2010-12-06 18:47 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(1)

「遠野物語拾遺24」

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鐘や釜の沈んでいるという淵沼の話は多い。土淵村字角城舘に
あった鐘は、今はその前の鐘撞堂の淵に沈んでいる。それで今
でも時々は川の底で鳴ることがあるそうな。

栗橋村初神の明神の淵には大釜が沈んでいる。御湯立の時に
用いた釜であった。現に水の下に今でもよく見えている。その釜
の中の水が濁ると、何か悪い事があるという。

土淵村小烏瀬川の久手橋の下の淵には、金色の仏像が沈んで
いて、朝日の押開きの時などに水の底に光っているのを見る事
がある。この仏像は火石の北川家が神道になる時に、家にあった
仏像をここへ棄てたのである。

                            「遠野物語拾遺24」

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鐘を池や沼に沈めるというのは、雨乞いの儀礼でもあったと「遠野物語拾遺23」でも書いた。ここでは別に、釜が沈んでいるという話も紹介されているが、その釜とは湯立て神事に用いられた釜であるという。

箱根権現にある二つの大釜は、いつも水を湛えているという。雨乞いの場合には、その釜の水を田に注ぎ、晴乞いには田の水を釜に注ぐのだという。これは湯立て神事で、釜の水を笹の葉などで四方に撒いたりするのと同じ理屈なのだろう。

ところで、湯立て神事に用いられる釜は”忌み釜”と呼ばれるのだと。有名な吉備津神社の鳴釜神事ではないが、釜にもまた霊力が宿り吉凶を占うというものの根本は、水と音なのだろう。

古代の祭祀において神霊を呼ぶ人工的な音としては笛や太鼓があるけれど、古代の祭祀場は、川上で行われていたようだ。川上の小川や渓流のせせらぎなどは、下流の川の流れよりも変化しやすい。瀬音が変わるというのは”神の示現”であると思われたいたようだ。つまり自然の水音とその変化を、切り取って用いたのが神社などで執り行われる湯立て神事であり、鳴釜神事なのだろう。そして民間レベルでは、それが釜そのものを淵や池、小川などに沈めるなどしてその変化を確認し占いとしたと考える。

紹介した箱根権現の水を湛えた釜であるが、雨乞い晴乞いの原義が釜にあると記したが、人間には生命の源である水が無くては生きる事はできないが、多過ぎる水は逆に人間に対し、多大な損害を与えるもの。その水を相応しい量で人間に与える為の釜の水なのであろう。だから常に一定量を保った水が釜にたたえられている。

そして更なる根源は、早池峰山頂にある開慶水になるのだろう。開慶水もまた、里が日照りで困れば溢れ出して里へと流し、その開慶水に湛える水量は増える事も減ることも無い一定量を保っている。こういった古代神事の根源が、里の神社なりに伝わり、敷地内に雄大な自然の力を切り取、り箱庭的な感覚で作り上げられたものなのだろう。

甕も釜も、靈という漢字に組み込まれている器としてのものなのだろうが、水だけでなく、人の穢れなども受ける器として、広まったのかもしれない。何故かといえば、甕(かめ)という言葉は亀と同義であり、古代中国では、例えば北の玄武は蛇という魔を噛んでいる姿で伝えられている。「かめ」というものは、魔を封じるという意味合いも伝わってのものなのだろう。
by dostoev | 2010-12-06 18:38 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺23(鐘ヶ淵伝説)」

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松崎村の松崎沼には、竜宮から来た鐘が沈んでいるという。遠野の物見山の
孫四郎臼は、この沼から上がったという話もあり、沼の底に爺石婆石が並んで
立っていてそれから前へはどうしても行けず、もし行けば底無しになって帰って
来ることが出来ぬともいう。

                       「遠野物語拾遺23」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この写真の地にはかって松崎沼と呼ばれる沼があった。南北の幅が11メートル。東西に100メートルと、細長い沼であったという。その松崎沼の北側すぐに山があり、真立館という館があった。ある意味、堀としてあったのかとも思える。そして、その山の麓に御前の祠というものが、今では木の根元に埋もれて存在する。

全国におびただしい数の淵の伝説があり、その中に雨乞い祈願に鐘を沈めて祈るという鐘ヶ淵伝説があるが「遠野物語拾遺23」にも竜宮から来た鐘が沈んでいるという記述がある。それと共に、松川姫というお姫様が身投げして死んだ話もまたある。松川姫に関しては、別に調べてはいるが、何故この松崎沼に鐘ヶ淵の伝説があるかだ。ところで、遠野中に”御前淵”と呼ばれる淵がいくつかある。御前という名称は、静御前とか巴御前とか、本来は女性を示す名称でもある。

鐘ヶ淵伝説は、あまたの如く全国に広がりをみせるが、その沈んでいる鐘が竜宮から来た鐘だとなると、思い出すのは「髪長姫の伝説」だ。つまり道成寺の安珍清姫伝説にも繋がる可能性はあるような気がする。

折口信夫は、淵は水の神の称号の語尾であり、同時に水の神に奉仕する人の称号でもあると述べている。では水の神に奉仕するとはどういう意味か?それはやはり、雨乞い祈願をする女性であり、巫女を現すものだと考える。それを御前というまた別の女性を表す称号で伝わったのかもしれない。

「髪長姫伝説」は、海女である渚の娘、宮に髪が生えないのを嘆いていたその時期、海底に光るものがあり、それが不漁の原因であるといわれ、宮は娘に髪が生えないのは、前世の報いであると、村人の犠牲として海の底へと潜り、黄金の仏像を持ってくる。その黄金の仏像に祈願して、娘である宮の頭に髪が生えるのだった。

美しい髪が生えた宮は、その後その美貌が広く伝わり、文武天皇の妃にまでなった。しかし母親から離され、故郷から離された宮はふせいでいたのだと。それを哀れんで故郷に寺を建てる事とし、そこで紀伊国司の紀道成が伽藍造営を命じられた。道成は、早速任務につき、自ら材木を求めて日高川をさかのぼった。寺の建立は殆ど済み、あとは鐘を据え付けるだけだったという。良材を選んでの帰途、筏に乗って川を下るが筏師が棹を繰りそこねたために筏が切れ、道成は積んでいた鐘もろとも水没した。この地域一帯を鐘巻きというのは、道成が鐘を縛っていた紐に巻きつかれ、一緒に沈んだからだとも云われる。その後は無事に寺が建てられ、筏から落ちて死んだ道成の霊を弔い、寺の名を道成寺となったのだという。

ナーガという竜神がいる。それが日本に伝わり、長いものは竜であり、蛇を現すのだと。つまりこの伝説に登場する髪長姫とは、蛇であり竜のの化身であったのだと考える。

雨乞いは、水神であり天神でもある存在に乞う事。「古事記」に登場するトヨタマヒメは、竜宮に住む竜神の娘で、その正体はやはり竜であり蛇の姿だ。その竜神が海の竜宮から連れ去られての悲しみを癒すための道成寺の建立であったのだろうが、そこで鐘と共に、人身御供として紀道成もまた捧げられた。この一連の伝説が漠然と伝わり、松崎沼に竜宮から来た鐘が沈んでいるとなったのだと思う。この松崎沼の畔には御前の宅があったのだというが、これはあくまでも伝わってきた伝説の一つであり、その沼の畔に住む御前である竜神に供える為の鐘が沈んでいるのだという断片的な伝説が紹介されただけなのだろう。

また鐘が沈んでいるとの記述があるが、本来鐘というものは雨を呼ぶ霊力があるとされる。「霊」の古体は「靈」であり、「雨」と、それを受ける「□」器が三つ並び(多分、甕を表す)そして「巫(かんなぎ)」という漢字の組み合わせて成り立っている為「霊」というものの本来は「雨乞い」に関するものなのだろう。

この松崎沼では以前、石像や半鐘が引き上げられた事があり、その当時側に養安寺があった為、松崎沼から引き上げられたものを寺宝として扱っていたという。しかし養安寺が廃寺となった為、善明寺が引き取ったというが、その中の一部が裂けている半鐘には、夜な夜な竜頭が抜け出て、その半鐘の亀裂部分を這っていると、その半鐘の裂けた箇所は跡形もなく消え去ったのだという。だが、その半鐘も住職が変わった頃に、骨董屋に売り払われてしまったと…。

全国的に、鐘を沼や池などに沈めて雨乞いをしたという習俗があるので、本来松崎沼に沈んでいるという竜宮から来た鐘というものは、養安寺にあった鐘を沈めて雨乞いをしたものだと考える。

ところで朝鮮でも竜宮思想があり、竜宮とは母胎を意味し、竜宮へ行くというのは、母胎への回帰であると。つまりこでいう、竜宮の鐘が沈んでいるというのは、そのまま母胎回帰の現れであり、沈んでいる鐘は松崎沼の乙姫?を呼び出す為のものであったのか?ただ、松崎沼には蛇体となった松川姫の話も伝わる事から、道成寺の伝説が伝わってのものであったかもしれない。更にこの松崎沼には沼の御前も祀られている事からその根源は、白山の九頭龍が現れたという池、もしくは天眞渟名井の伝説が伝わっての複雑に絡み合ったものだったのだと考える。そしてやはり、乙姫とは竜、もしくは竜に乗った存在であり、雨乞いと共にそれを呼び出す為に、この松崎沼に鐘を沈めたものが長い世紀
を渡って伝わったのだろう。

また爺石婆石というのは結界石であろう。やはり竜宮城へと行った浦島太郎が、玉手箱を開けて白髪になったと同じ、時間と空間を分け隔てる結界として表現されたのが、爺石婆石なのだと考える。ただ栃木県黒羽町には、玉藻稲荷神社というのがあり、その畔にある鏡が池では農民による雨乞い儀礼が行われていたという。この話は…。

池の底に爺石と婆石が沈んでおり、日照りが続くと池の底から婆石が引き上げられる。すると爺石は、婆石恋しと泣き、その涙が雨になるのだと。この話が遠野に伝わったとなると、どちらにしろ雨乞い儀礼としての伝説がこの松崎沼に伝わったものなのだろう。

竜宮思想は、広く全国に広がっており、本来は古代インドからきたナーガ信仰が龍蛇信仰に変化したものだろう。竜宮に対する意識の一般的は「古事記」にも登場する綿津見の宮であり、常世と呼ばれる国となるのだろう。

また道教思想では、蓬莱山は大きな亀の背に支えられ東海に浮かんでいると信じられていたようだ。「浦島太郎」の話は、助けた亀の背に乗って竜宮ではなく、不老不死の源とも信じられた蓬莱山への旅だったのだろう。

この「遠野物語拾遺23」の話は、沼の中に竜宮から来た鐘が沈んでいるという事だが、これはすなわち常世の国の入り口であるという示唆である。孫四郎の臼もまた異界の物であった為に、魔力を持っていた。ただし、孫四郎の臼を貰った沼というのは、遠野では他の場所もあるので、この松崎沼とは断定できないのだが、伝説は往々に極端な広がりを見せる事を考えれば、淵や沼には伝説が重複して伝わるのだろう。

ところで異界の入り口には大抵、翁であったり婆が番人としている。例えば三途の川には葬頭河婆がいて、死人から服を奪う。これにより罪を決定して、黄泉の国へと入る事が出来る。つまり、この爺石婆石の先へと進むという事は、死を意味する事。帰って来ることができぬという意味は、そのまま死ぬという意味。岩や石というものは、神が降臨するものであり、当然神が零落したもの。つまり、異界の住人をも降臨するのであって、沼の底に沈んでいる大岩などは、既にこの世のものでは無い事を示している。
by dostoev | 2010-12-06 18:34 | 「遠野物語拾遺考」20話~ | Comments(0)