遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語拾遺考」1話~( 9 )

「遠野物語拾遺8(離れ森)」

f0075075_5124928.jpg

土淵村のうちには離れ森といって、同じ形の小山が二つ並んでいる処がある。
昔ある狩人がこの辺に行って夜泊っていると、地の中からこの二つの山が生
れて出て、互いにめきめきと成長して、丈競べをしていったそうである。そ
れがそのうちに夜が明けたので止んだという。村の菊池長四郎という人の話
である。


                          「遠野物語拾遺8」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語拾遺8」に、土淵町の離れ森が紹介されている。物語では丈競べをしていたという事である。この山は、道路の進行方向の先に見える為、画像の山を見ながら歩いて、この物語を想像したのではなかろうか?

山を見る時、晴れの日や雨の日、雨上がりの日では遠近感が変わる時がある。近く感じると、山は大きく見えるもの。頻繁に、この山が見える道を通る想像主には山が成長しているように感じ、丈競べの話が作られた可能性はあるだろう。

山自体が丈競べする話とはまた別に、山の女神が山の高さ比べをした伝承もある。それは早池峰に纏わるもので、権現堂山の上の姉が他の山を重ねて高くしようとしたが、やはり一番鶏の鳴く夜明けまで間に合わなかった話が大迫方面に伝わっている。こういう超常的な話の終わりは、何故か一番鶏の鳴く夜明けまでと決まっている。つまり、ある意味魔物の世界と考えれば良いのだろう。魔物の活動時間は太陽の光が当たらなくなる日暮れから、夜明けまでの時間となる。昔、山には魔物が棲むと信じられていたが、実際は山そのものが魔物であると信じられていたのかもしれない。だからこそ太陽の光の当たらない時間帯に、山は丈競べをしたのだろう。
by dostoev | 2012-05-04 05:38 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺7(会矢)」

f0075075_5101199.jpg

小友村の荒谷は元は会矢といったのだそうな。昔八幡太郎が西種山の
物見から、安倍貞任は東種山から、互いに矢を射合ったところが、両
方の矢がこの荒谷の空で行き会うて共に落ちた。それ故にここを会矢
というようになったという。その矢の落ちた処と言伝えて、同処の高
稲荷山には割石という大岩がある。双方の矢が落ちて来て、この大き
な岩が二つに割れたといっている。

                                 「遠野物語拾遺7」

f0075075_4432378.jpg

地図で示すと、画像のようになる。地図の上方は北となる。右の貞任山から斜め左下方の延長上に種山(物見山)があり、貞任山寄りの赤丸で示したのが、割石のある高稲荷山となる。荒屋と堂場沢の地名にも、赤色でチェックを入れた。

とにかく互いに矢を放ったとされる、西に聳える種山から真っ直ぐ貞任山へと線を結ぶと、やはり高稲荷山の頂に、交差するのがわかる筈。実際には有り得ない伝説ではあるが、この伝説を作った人物は当然いる筈。それも、正確に山が重なる事を知っている者である事から山に詳しい者であったのだろう。

荒屋の隣り合わせの堂場沢には堂場沢金山というのがあり、やはり産金に関わる連中が住んでいたよう。先に述べたように、貞任山も種山にも、産金に関する跡がある事から、やはりタタラ系の人間が作った伝承だと思う。何故なら昔は、山というものには恐ろしい魔物などが棲むと信じられていた為に、普通の絶対多数の百姓などは、余程の事が無い限り、山に登る事は無かったからだ。
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この話に登場する高稲荷山というのは、堂場沢に面する山で、頂に堂場沢稲荷が祀られている。そしてその稲荷社の脇には、上の画像のような巨大な岩があって、確かに割れている。これが「遠野物語拾遺7」で云われるところの割石である。
f0075075_455247.jpg

また八幡太郎が陣取った西種山は、遠野側からは物見山とも呼ばれ、宮澤賢治がよく星を見に行って後に「銀河鉄道の夜」を書いたのに影響を与えたという立石という地がある。この西種山の峰続きに大森山という山があるが、ここはアテルイの子である人首丸の墓がある。坂上田村麻呂に鬼の名と共に退治され、その亡骸をこの大森山に埋葬したという。その事から、この山の麓から奥州市(旧水沢市)に抜ける峠を人首峠という。更に西種山には義経が立ち寄ったとされる「義経北方伝説」の場所でもあり、西種山には伝説がかなり埋もれているのも、やはり古代にはいろいろあったのだと想像してしまう。
f0075075_4574051.jpg

また東種山は貞任山とも呼ばれ、遠野市の小友町の平笹地区には「貞任砦跡」という立て看板があり、古くから安倍貞任の伝承の残る地でもある。またこの貞任山は「東日流外三郡誌」によれば、馬を放牧している地でもあったようで、そこによく源義家が馬を略奪にきた話が紹介されている。またタタラ跡もある事に関連してのものであろうか「遠野物語拾遺96(一つ眼一本足)」の伝承が残る地でもある。
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またこの東種山と西種山と呼ばれる山は、小友町を背にして南を向けば、左右…つまり東と西に分かれる山であり、確かに名称通りの山ではある。ただ、東種山という呼び名は遠野市に関する書物では発見できていないが、「種」とは山伏用語で「鉱石」を意味し、また鉱山跡やタタラ跡がこの周辺ではあった事から、安倍貞任時代以前に「種山」と呼ばれていたのだと想像できる。

産金に長けていた山伏は、山に登って鉱脈を調べていたという。その山伏の使用していた用語がある。

タネ⇒鉱物

ネ⇒鉱脈

ミ⇒鉱石

アラ⇒砂鉄


これから察すれば矢が会ったから会矢だという地名は伝承に合わせて作られ語られた地名であり、恐らく砂鉄の採れた地であるから、本来の荒谷が正解であると思う。早池峰の麓の荒川という地があるけれど、やはり砂鉄が採れた川なので荒川と名付けられたよう。またその川沿いに不動明王を祀る社があり、傍に不動の滝と呼ばれる滝があるのも、山伏が開発した道筋には全国のあらゆる場所に、不動明王が祀られ、不動の滝、もしくは不動岩と呼ばれるものがあるのも山伏の軌跡を表しているものである。砂鉄の採れる谷で「荒谷」であり、その砂鉄から鏃でも作っていたのではなかったか。
by dostoev | 2011-11-30 05:21 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺1(3人姉妹)」

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昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古里という処に住んでいた。
後にその一番の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は橋野の
太田林へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな。

                     「遠野物語拾遺1」

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三人の姉妹が住んでいた地と書かれている古里には、樹齢400年と云われる神楽杉と云われる巨木が屹立していた。この地は高台にあり、見晴らしの良い土地であり、昔は傍に役場があったというのである意味、昔の事を成す中心であったのかもしれない。

この「遠野物語拾遺1」は、遠野の三女神伝説に似ているが、この古里から別れた三姉妹は各々観音になったとされるが、この古里の地でも観音を祀っている場所というのは無い。この神楽杉の根元には小さな祠があるが稲荷を祀っているもので、比較的新しい時代に祀ったらしい。
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ただ御神楽神社というものが違う地の、舘跡があった場所にあるというのであったが、その御神楽神社周囲の樹木を見れば、御神楽杉が立っている地である古里の方が古いというのは、理解できる。

とにかくこの「遠野物語拾遺1」の内容は、そのまま遠野物語の三女神伝説と重複する。ただその地の中心が、遠野から離れ、笛吹峠を超えた橋野という地である事。ただしだ…橋野町で一番多い苗字は「菊池」であり、となれば九州から移り住んだ菊池一族が、このような三女神伝説を遠野と橋野にまた、運んできたと考える事が出来る。

実は、奥州市大迫という地にも三女神伝説があり、その地域に住んでいる人達もまた菊池という姓であった。そして岩手県内の他の地域の三女神伝説もまた菊池である事から考えてみても、岩手県に移り住んだ菊池一族は、一族に伝わる三女神伝説を携えて、その地に適応させた新たな三女神伝説を作りあげて住み着いた可能性はある。
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そしてあくまで、伝説の中心になるのは早池峰山となる。しかしだ、九州の菊池一族が岩手県内に住み着いて、何故に岩手県固有の早池峰山を信仰しなければならないのか。つまり山では無くて、早池峰山に鎮座する神を慕って早池峰山を信仰するようになったと考えて良いのだと思う。思うに、九州は熊本に広く信仰されていた神と、早池峰山に鎮座する神が同一であった為と考えた方が無難なのだ。
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「遠野物語拾遺1」では末の妹は、古里から太田林に行ったとされるが、地元の古老に聞くと、太田林では無く、末娘は違う場所に行ったという。古老に言われた場所へ行って見ると、そこにあったのは三峰神社だった。この三峰神社は、この地で一番古くからあり、村の氏神様として祀っている神社だという。ご存じの通り、三峰神社は狼を祀る神社である。ただ狼と早池峰大神との関連もあるので、ここがもしも早池峰と関係がある三峰神社だとしても驚く事は無かった。
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石段を登ってみると、社はなく石碑が無数に建っているだけだった。その石碑の上の真中を見ると、山の神の石碑を隣にして、やはりというか「早池峰山」と刻まれている石碑が、この三峰神社の中心となっていた。
f0075075_5235640.jpg

「遠野物語拾遺1」での話では、笛吹峠・和山峠・太田林に各々三姉妹が別れたとされるが、笛吹峠と和山峠のどこであるかは定かでは無いらしい。

ただ笛吹峠で目立つ社といえば、緒桛の滝を御神体とする不動明王の社である。早池峰大神である瀬織津比咩が滝神として存在するならば、三姉妹として三分割された御霊の一つが、笛吹峠にある緒桛の滝に行ったとしても、何らおかしくは無い。
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また和山峠のあちこちに建つ石碑を見て気付くのは、三峰の碑の多さである。これは「遠野物語」「遠野物語拾遺」を読むと、狼の話に和山が多いのは、日本で一番鹿が生息する地域が岩手県沿岸の釜石を中心とする周辺である事から、その鹿を餌とした狼もまた多かった事によるのだろう。

以前書いたように、狼の被害は狂犬病が日本中に蔓延してからの事で、それ以前の狼とは「作物を荒らす鹿を退治する益獣」であったという事実があった。それこそ狼とは山の神の使いで、畏怖する存在であったのも狼とその背後にいる山の神の祟りが恐ろしかった為だ。
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岩手県浄法寺に伝わる昔話には、湯殿山の行者が来て「三峰様を山の峯に祀ると、狼の害が無くなる。」と言って祀らせてから、だんだんと狼被害が減ったという伝承がある。

気になるのは古里から各々散った三姉妹が行きついた先は、各峠であるという事。末娘が三峰神社と結びついたのも、和山峠に三峰の石碑が多いのも、また笛吹峠でさえ狼の話はあった事を踏まえると、狼によって旅人が守られたとなるのだが…。

例えば旧仙人峠は、遠野と釜石を結ぶ重要な峠であった。しかしその峠を支配する甲子村の人々は、村をあげてかなり高い通行料を取っていたという。そこで甲子村の手前にある小川村から遠野に抜ける小川新道というものが、ある豪商の手によって開通された。しかしそこで甲子村との争いが始まったという。

通行料という利益は、山沿いの村にとって大きい収入になっというが、この橋野でもやはり、通行料を旅人から取っていたという。つまり橋野町の峠の支配は、橋野を拠点として、笛吹峠と和山峠に達していたようだ。

ここからは資料が無いので憶測ではあるが、無事に峠を越えるようにと、通行料を取るか、もしくは通行料の代わりに「狼除け」の札を売っていたとしてもおかしくはないのかもしれない。実際に狼は明治の半ばまではいたのであるから、まだ迷信が蔓延っている時代であれば「狼除け」のお札があれば、購入した人達もかなりいたのだと考える。実際、中国においても虎が出没する地域には、虎除けの札が売られたという。

とにかく三姉妹が飛んで行って観音となったというが、その各地には観音の気配を感じる事が出来なかったが、殆どの三女神伝説と同じように、末の妹の行った先が早池峰である共通点はあった。とにかく橋野に伝わるこの話もまた、広く普及する「三女神伝説」の一つであった事が理解できたのだった。
by dostoev | 2011-11-29 05:57 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺6(婆喰地)」

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昔橋野の太田林に、母と子と二人暮しの家があった。母は六十を過ぎて
もう働くことが出来ず、息子一人の手で親を養っていたが、その子は
大阪の戦に駆り出されて出て往った。

村の人たちは婆様が一人になって、定めて困ることだと思って時折行っ
て見るが、いつ迄経っても食物が無くなった様子が見えぬ。不思議に思
ってある者がそっと覗いて見ると、その婆様は土を食っていたという。
それ故に今でもその土地を婆喰地と書いて、バクチというようになった
のだそうな。

                        「遠野物語拾遺6」

f0075075_456192.jpg

橋野という地は、山間の土地で、総体的に日当たりは良い方では無いが、太田林内の婆喰地は、恐らく橋野で一番日当たりが良い土地だろう。つまり、人が住んで、一番心地良い土地が、この婆喰地であり、太田林という土地なのだろう。

地主に聞いてみると、縄文土器や鏃や石器が、この婆喰地で出土したらしい。実は住み辛い不便な地であると思っていた為、開拓で移り住んだ人が大半以上かと思っていたが、縄文土器が出土している事から、かなり古い時代から人が住んでいたという事がわかった。橋野町のメイン通りは、どちらかというと山と川にに近い場所にあり、太田林よりも日当たりが悪いし、洪水の時には被害を受けるだろう。。川から離れる高台であり、縄文土器が出土する事から、この地に古くから住んでいた人達は太田林に住んでいて、後に移り住んだ人達が、現在の橋野に住み着いたと考えてもおかしくは無いだろう。

そしてもう一つ、婆喰地という地名は現在無い…というより、所有者曰く「昔は、角地田(かくちた)と呼ばれていた。」そうである。まあ、「婆喰地(ばくち)」が「角地(かくち)」としても転訛の範疇なので、いつしか婆喰地⇒角地になって、その後「角地の田んぼ」となり「角地田」になってもおかしくはないだろう。
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画像の、耕している畑の奥に、以前はこんもりと土が盛られて塚になっていたようだ。そして小さな祠もあったというが、何を祀っていたかは、わからないという。

そこで思い出したのは「遠野物語拾遺16(蝦夷塚)」の話だ。土淵の和野と、小友町の蝦夷塚から人骨が出た例を紹介しているのだが、可能性としてはあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。いや実は、齢80をゆうに超える所有者曰く、小さな頃に親なのか祖父なのかが、畑を耕すのに邪魔だからと、そこを壊してしまったのだという。何が出たのかは、わからないと。まあ人骨が出ないにしろ、縄文土器が出土する土地であるから、何かしらの跡であったのは確かだろう。

こういう現代になり、遺跡や祠が壊される例は、かなりある。例えば「遠野物語拾遺266」で紹介されている青笹町のデンデラ野には、戦後の一時まで、石碑と小さな祠があったというが、やはり畑仕事に邪魔だからと祠を壊して、石碑はどこかに捨てたのだという。近代化と共に、古いものが撤去され、地名も変わる話が多いが、古きを知るにあたっては暴挙であろう。
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ところで、土を食べて生きるなんて有り得ないと思うが、以前観たテレビで土を食べて生きていた外国人の女性を紹介していた。またアメリカでは、ピーナッツバターだけを食べて成長した青年の話などがあったのが記憶に残っている。通常、バランス良く食物を摂取して成長するのが一般的だが、特異な体質の場合、偏った食事でもじゅうぶんに生きていけるようで、あながち土を食べて生きた婆様も嘘では無かった気もする。「土を食べて生きる」で検索したら、下記がヒットした。

http://oujyujyu.blog114.fc2.com/?mode=m&no=78


またウィキペディアには、食べる土や土の料理を紹介すると共に、病気としての土喰いの紹介。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F_(%E9%A3%9F%E6%9D%90)

しかし…こういうのを知ると、吸血鬼というのもマジにありなんじゃないかと思えてきた。。。
by dostoev | 2011-11-28 05:20 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺4(天女の曼陀羅)」

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遠野には天女の羽衣伝説が二つあり、一つは綾織の光明寺にまつわる話である。

綾織村の方でも、昔この地に天人が天降って、綾を織ったという言い伝えが別
にあり、光明寺にはその綾の切れが残っているという。あるいはまた、光明寺
で無い某寺には、天人の織ったという曼荼羅を持ち伝えているという話しもあ
る。

                       「遠野物語拾遺4」

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天人が天降ってとある地は、昔は深かったらしいが、現在は浅い小川が流れる上に御前沼神社が鎮座している。実は以前の猿ヶ石川は、この崖下を流れており、かなり広大で深かったのが猿ヶ石川でもあった。しかし、いつしか流れは人間の力によって変えられた。また、遠野周辺の山々のブナなどが伐採されるなどし、だんだんと水量が減ってしまい、今の猿ヶ石川になってしまった。昔の猿ヶ石川は「遠野物語」が生まれる土壌を成す川であったようだが、自分の生まれた頃にはもう既に、その川は無かった。
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この御前淵神社には白竜が祀られ、御供え物は卵となる。こういう龍蛇神系の神に対する御供え物は、殆ど卵となっているようだ。
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「遠野物語拾遺3」には、六角牛山の天人児の織った織物が光明寺に奉納されたとあるが、光明寺の住職は、それを否定している。山号の「照牛山」などは、六角牛山をイメージしてしまうが、あくまでも山号は精神的イメージによるもので、光明寺と関係のある天人とは、御前淵神社から来たものであるという。
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光明寺の曼陀羅と呼ばれるものは、ブドウの木が描かれている事から、ペルシア系の織物であるのは間違い無いようだ。しかし、何故にこのようなペルシア系の織物が遠野の光明寺に伝えられているか、謎のままであるよう。ただ遠野の風俗を調べれば、遊牧民族の文化の流入があったと意識せざるおえない。

遠野の養蚕技術は、拓殖夫人によって伝えられたというが、その年代は、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後であるという。ただし、この光明寺の建立時期は永禄三年(1560年)だと云われる。つまり古くはあるが、拓殖夫人が遠野に養蚕の技術を伝えた年代よりも、遥かに新しい時期に出来たのが光明寺だ。この曼陀羅の年代測定はされていないらしく、その年代が光明寺の建立時期よりも以前であるならば、やはりいろいろな可能性を想像せざるおえない。ところで光明寺は、元々綾織の大久保という土地から移転し、またアイオン台風の影響によって現在の場所に定着したらしい。

寺内には、綾織周辺の家々から集まった仏像だったり信仰するに使用した掛け軸などが、飾られている。恐らくいろいろな理由で手放せざるおえなかった信仰の形の物が、この光明寺に集まって来たのだろう。つまり光明寺に伝わる曼陀羅もまた、個人所有であった物が、はたまた記録には残らない神社に奉納された物が、光明寺に預けられたのだと考えられる。
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気になるのは以前、綾織町の和野という地に、胡四王神社があった。この胡四王神社は安倍一族の末裔が祀っていたのだという。その胡四王神社は、やはり二日町の駒形神社に合祀されているのだが、その胡四王神社に奉納されていたという神仏像が、やはり光明寺に保管されている。もしかしてだが、光明寺の曼陀羅も、本来は胡四王神社に奉納されたものではなかったのか?と考えている。画像の役行者像は、胡四王神社からやはり光明寺で保管されるようになったのだが、これは比較的新しい頃に、光明寺に運ばれたものだ。
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胡四王神社の胡四王とは一説に「越王」であり、越の国であった現在の新潟近辺の国であるというもの。しかし「(越)koshi」の実は「(星)hoshi」であって、胡四王神社が北向きの神社であるのも、北辰・北斗七星を信仰する星の神社であるとの説もある。

遊牧民族が星を信仰したとの風俗を考え合わせると、光明寺の曼陀羅は、やはり遊牧民族の息吹と習俗を感じさせる安倍一族の信仰した胡四王神社に奉納されていたものが、今は光明寺にあるとされる方がしっくりくる。この光明寺に保管される胡四王神社からの像を見て思い出すのは、会下の十王堂だ。胡四王神社から運ばれ保管されている像と殆ど同じラインナップであるのだ。会下の十王堂は、遠野の九重沢にあった天台宗である積善寺との関係が深い。天台宗は星の宗教とも云われるように、星を意識している宗派であった。早池峰神社の前身である妙泉寺もまた天台宗であったのは、そういう信仰の下地が早池峰山の麓に広がっていたものだと感じている。
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綾織の和野の胡四王神社とは別に、沿岸に結びつく山の一つに貞任山というのがある。この山の奥にもやはり和野と呼ばれる地がある。そしてやはり、安倍一族の末裔、もしくは部下だったものが前九年の役で敗れ去った後に逃げて、隠れ住んだとされる。その地に星の宮神社と呼ばれるものがあった。あったと過去形になっているのは、その地の集落は限界集落であった為に平成の世になって廃村となり、安倍氏の末裔と呼ばれる子孫は現在、笛吹峠を過ぎた辺りの青の木という集落に移り住んでいるからだ。

その安倍氏の末裔の人物に話を聞くと、星の宮神社は星もそうだが、自然のあらゆるものを信仰する神社であったそうだ。そして星の宮神社の社はやはり、北向きに建てられていたという。つまり、綾織の胡四王と一緒であった。

気になるのは「古事記」や「日本書紀」などにおいて、星の神は悪神であるとされた事。星の神で有名な香香背男は悪神のレッテルを貼られて、退治されてしまっている。その香香背男を封印したとされるのか建葉槌命だ。

建葉槌命は「日本書紀」に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった香香背男を封印した神とされる。倭文神とは織物の神で、建葉槌命が何故に香香背男を封印する事ができたのかというと、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説があるようだ。ただこれを裏返して考えてみると、夜空に浮かぶ星々を織物に閉じ込めてしまう文化に接したとも捉えられる。
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ギリシア神話に登場するアラクネは、織物の神でもあったアテナと織物勝負をし、女神であるアテナとそん色のない織物を織りあげたが「人間如きが!」と、そのアテナの怒りを買い、蜘蛛に変えられてしまった。その時の勝負で女神であるアテナが織った織物は、神に懲らしめられる人間の物語を夜空の星に表現したとされる。つまり古代ギリシアにおいて、織物に夜空の星を散りばめる発想は既にあったという事。その技法と発想を、様々な文化がまだ未開であった日本民族が見たとしたら、どういう風に感じ取っただろうか?単純に素晴らしい技法であると捉えたと共に、一つの呪術として捉えても古代の日本ならば、おかしくは無い筈だ。
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以前から疑問だった事がある。明治以前まで、琴畑渓流の白滝神社に祀られていた瀬織津比咩が何故に、明治時代になって土淵町五日市に鎮座する倭文神社に合祀されたのかと。倭文は織物を祀る神社で、瀬織津比咩の「織」という文字に結び付けられて合祀されたのかと思っていた。しかし、こうして考えてみると、倭文という織物の神は、星の神を封印する力を有している事がわかる。

それでは瀬織津比咩が星の神なのか?という事だが、以前示した早池峰山を中心とした瀬織津比咩を祀る神社の殆どが、早池峰を北に位置するように祀っている。また大迫の早池峰神社などは、遠野の早池峰神社に向けて建立されている事から、一度遠野側を経由して参拝するという方違いの呪法を
施しているのが理解できるのだ。つまり水神、もしくは山の神、もしくは穢れ払いとしての瀬織津比咩には別に、星としての神の資質が備わっているのもひとえに、遊牧民族の信仰も重なってきた為だろう。その信仰の中心にいた一族とは、やはり安倍一族であると考える。
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「遠野物語拾遺3」における六角牛山の天人児に関わる地には、沼の御前の伝承がある。また「遠野物語拾遺4」においての綾織の光明寺に関係する天人も沼の御前を祀る、御前淵神社である。つまりどちらにしろ、沼の御前という存在が、この光明寺の曼陀羅に関わるという事だ。その沼の御前とは調べる限り、早池峰山の神である瀬織津比咩であるというのはわかっているのだ…。
by dostoev | 2011-11-26 05:24 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺5(仙人堂)」

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遠野から釜石へ越える仙人峠は、昔その下の千人沢の金山が崩れて、
千人の金堀りが一時に死んでから、峠の名が起ったという口碑があり、
上郷村の某寺は近江弥右衛門という人がその追善の為に建立したとも
言い伝えている。

また一説には、この山には一人の仙人が棲んでいた。菊の花を愛したと
言って、今でもこんな山の中に、残って咲いているのを見ることがある。
それを見つけて食べた者は、長生をするということである。

あるいはその仙人が今でも生きているという説もある。前年、釜石鉱山の
花見の連中が、峠の頂上にある仙人神社の前で、記念の写真を取った時
にも、後で見ると人の数が一人だけ多い。それは仙人がその写真に加わっ
て、映ったのだということであった。

                                 「遠野物語拾遺5」

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森の下という地に慶雲寺があり、これが「遠野物語拾遺5」で紹介されている某寺となる。以前は山中にあった小さな草庵であったようだが、佐比内地域を開拓した近江弥右エ門が慶長二年(1577年)に寺領を寄進してから、この地に慶雲寺が建立されたという。ただ坑道が崩れて千人死んで供養したというのは眉唾ものであろう。以前、コンビニに置いていた「東北心霊スポット」という雑誌に、仙人峠にはツルハシを持って追いかけてくる恐ろしい幽霊が出没すると紹介されていたのを記憶しているが、これも眉唾ものの伝説に付随した誰かがでっち上げた話であろうと思う。

ところで仙人が好きな菊の花で思い出したが、中国から伝わった「菊水伝説」というのがある。この伝説が日本に定着したのは平安の頃なのだそうな。元々は、中国からのものであるが「桃源郷」と並ぶ理想郷の話である。中国のある地方を流れる川の上流には菊の花が多く、菊花の雫が落ちる谷川の水を汲んで飲んでいる三十余軒の住民には百歳を超える長寿者が多い。これは菊の花が人々の心身に生気を与えているからである。またこの菊水を飲んで、長患いを治して百歳近くまで生きた武官がいた事から、都においても菊の種を蒔くようになったのだと。

また9月9日、重陽の節供に酒好きの陶潜が酒を切らして自宅近くの菊の群落の中に座っていたところ、白衣を着た不思議な人物が現れて酒をご馳走してくれて、陶潜はすっかり酩酊して帰宅したという話がある。これらの話が平安の知識人の憧れの的となり、和歌に詠われ、屏風絵の画題にもなったという。いつしか菊は桜と共に、日本を代表する花となったのだが、ここまで根付いたのには「菊水の伝説」だけではなく、太陽が輝くような均整のとれた花形から「太陽の象徴」ともされ「日精」と称せられたという。

写真を撮ったら、一人多く写っているというのも中国の「菊水伝説」が日本に伝わり、後世まで伝わったからではないのか。確かに仙人峠は、海で発生した霧が風に煽られて、日中でも不思議な霧が立ち込める場所でもある。この幻想的な雰囲気に"仙人峠"という摩訶不思議な峠の名が脳裏に刻まれて、このような伝説を作り出したのかもしれない。
by dostoev | 2010-12-24 17:10 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(2)

「遠野物語拾遺9(夫婦岩)」

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同じ土淵村山口高室には、二つ石という山があって、頂上に大きな岩が
二つ並んで立っている。岩と岩との間はおおよそ一尋ほど隔たっている
が、この間を男と女が一緒に通ってはいけないといっている。

また真夜中になると、この二つの岩は寄り合っているともいって、それで
土地の人は二つ石山の夫婦岩と呼ぶのである。

                                「遠野物語拾遺9」

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二つ岩山は、標高655mの、所謂里山である。しかし頂近辺には岩がゴロゴロしている事に加え、頂に鎮座する二つの巨石が並んである事から、霊山とも思われたようだ。「遠野物語36」には、山から睨む狼の描写もあり、狼の鎮座する山としてもまた霊山であったのだろう。

夫婦岩としては上郷と住田町の境付近にもあるのだが、これは未だに確認していない。しかしこの上郷の伝承もやはり、夜になると寄り添うなどの話も伝わる事から、夫婦岩と言われる所以であろう。「遠野物語拾遺22(釜淵)」でも書いたが、間を割って入るのは呪詛となる。”間男”しかり、間に割って入れば、怒りを買い祟りを成すというのは、人間の感情を岩に託して伝説化したのかもしれない。イワナガヒメが何故に永遠の命をもたらすのかというと、余程の無い限り岩は、割れる事が無い。岩が割れる場合は、天狗に蹴られるとか、怒りにより自ら頭に来てヒビが入ったとか、割れたなどという物語があるのも、人間世界の感情を岩に当て嵌めたものであろうと思う。

この二つ岩山は里山であり、里から眺めても夫婦岩が見え、また「遠野物語36」のように狼の姿を確認できるというのも、里から狼の霊威なり、夫婦岩の仲の良い姿を確認できる低山であったのが、伝説の発生原因にもあったのではなかろうか。毎日眺める事の出来る山の頂に鎮座する夫婦岩であるから、里人は自らに投影させ夫婦仲を確認し、その山に入って、間を割ってはいけない、そうでなければ自らに返ってくるのだと戒めたのだろう。これもまた呪い返しの風俗が根底に流れているのかもしれない。
by dostoev | 2010-12-15 19:13 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺3話(綾織トイウモノ)」

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昔青笹村には七つの池があった。その一つの池の中には、みこ石という岩があった。六角牛山のてんにんこう(天人児)が遊びに来て、衣裳を脱いでこのみこ石に掛けて置いて、池に入って水を浴びていた。惣助という男が魚を釣りに来て、珍しい衣物の掛けてあるのを見て、そっと盗んでハキゴ(籠)に入れて持って帰った。天人児は衣物が無い為に天に飛んで還ることが出来ず、朴の葉を採って裸身を蔽うて、衣物を尋ねて里の方へ下りて来た。

池の近くの一軒屋に寄って、いま釣りをしていた男の家はどこかと訊くと、これから少し行った処に家が三軒ある。そのまん中の家に住む惣助というのがそれだという。天人児は惣助の家に来て、先程お前は衣物を持って来なかったか、もし持って来てあるならば、どうか返してくれと言って頼んだ。いかにもあのみこ石の上に、見たことも無い衣裳が掛かっていたので持ち帰ったが、余り珍しいので殿様に上げて来たところだと、惣助はうそをついた。そうすると天人児は大いに嘆いて、それでは天にも帰って行く事が出来ぬ。どうしたらよいかとしばらく泣いていたが、ようやくの事で顔を上げて言うには、それならば私に田を三人役(三反歩)ばかり貸して下さい。それへ蓮華の花を植えて、糸を取って機を織って、もう一度衣裳を作るからと言った。そうして惣助に頼んでみこ石の池の辺に、笹小屋を建てて貰って、そこに入って住んだ。青笹村という村の名は、その笹小屋を掛けたのが起りであるそうな。

三人役の田に植えた蓮華の花はやがて一面に咲いた天人児はそれから糸を引いて、毎日毎夜その笹小屋の中で、機を織りつつ佳い声で歌を歌った。機を織る処を決して覗いて見てはならぬと、惣助は堅く言われていたのであったが、あんまり麗しい歌の声なので、忍びかねて覗いて見た。そうすると梭の音ばかりは聞えて、女の姿は少しも見えなかった。それは多分天人児が六角牛の山で機を織っていたのが、ここで織るように聞えたのだろうと思われた。

惣助は匿していた天人児の衣裳を、ほんとうに殿様に献上してしまった。天人児もほど無く曼陀羅という機を織り上げたが、それを惣助に頼んで殿様へ上げることにした。殿様はたいそうこれを珍らしがって、一度この機を織った女を見たい。そうして何でも望みがあるならば、申し出るようにと惣助に伝えさせた。天人児はこれを聴いて、別に何という願いは無い。ただ殿様の処に御奉公がしたいと答えた。それでさっそくに連れて出ることにすると、またとこのような美しい女は無いのだから、殿様は喜んでこれを御殿に置いた。そうして大切にしておいたけれども、天人児は物も食べず仕事もせず、毎日ふさいでばかりいた。

そうちまた夏になって、御殿には土用乾しがあった。惣助の献上した天人児の元の衣裳も、取り出して虫干しをしてあった。それを隙を見て天人児は手早く身に著けた。そうしてすぐに六角牛山の方へ飛んで行ってしまった。殿様の嘆きは永く続いた。けれども何の甲斐も無いので、曼陀羅は後に今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった。七つの沼も今は無くなって、そこには唯、沼の御前という神が祀られている。

                                 「遠野物語拾遺3」

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遠野市青笹の語源として「遠野物語拾遺三話」の話がある。そしてこの話は、綾織の語源にも結び付くものだ。

まず一般的にこの話は、羽衣天説と云われる系統に属するものだというのは理解できる。ただ羽衣伝説にも様々なパターンがあるが、この話は中国地方から西に分布する羽衣伝説の系統に近いというのがわかっている。それが何故、日本列島の中間を抜けて、東北は遠野の地に伝わっているのか?

ところでこの物語には殿様が登場しているが、支配者がいるのであれば国の名前は定まっている筈だ。しかしここでは、沼の畔の笹小屋で機を織ったという事から”青笹”という地名が起きたとされている。つまり本来、機織の話しと、殿様との絡みの話は、時代を経て結び付き語られたものと考えた方が良いだろう。多分だが、これは初めに機織りが伝わった話が最初で、後で物語風に脚色されたものと考えるのが普通なのだと思う。

ちなみに、遠野が支配されたとなると、奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされてから、瀑布の命により栃木の阿曾沼が遠野を統治したと云われる。しかし実際は、遠野の半分は葛西氏の統治下にあり、阿曽沼が支配に置いたのは、沿岸の釜石から上郷にかけてであったようだ。

また支配といえば、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、田村麻呂は東和に毘沙門天を祀った。その場所は、遠野を源流とする猿ヶ石川を見下ろすように建立したのは、遠野に居座る強力な蝦夷の豪族がおり、蝦夷はしばしば川を利用して移動する事から、それら全てに睨みをきかせる為に、東和の毘沙門天像が作られたのだろうという説かある。つまり蝦夷征伐時代、遠野では蝦夷の豪族が支配していたのだと伝えられる。ただしそれは”殿様”というイメージとは違うだろう。あくまで、村長に近いものであったようだ。
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【綾織姫伝説】

その昔、東北地方が蝦夷と呼ばれていた頃、陸奥鎮守府多賀城から明神ヶ沢
に鎮座する衣多手神社に、美しい姫が堂守としてきた。姫は機織りが上手で、
機織る毎日だった。

ある時、姫は後の世にまで残るような大きなものを織りたいと長い機をかけ、
何日もかかって織り上げた。ところが、姫はそれを自分の庵に持ち帰り、木
櫃(キビツ)の中に入れ、姫はどこかに消えてしまった。しばらくして木櫃
を開けてみると、布は石に変わっていた。

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この大きな織物は一説によると、平館から東の方の森(大畑野)と呼ばれていた稲荷神社まで届く程の長い布であったという。そして機織は綾織姫の影響から普及し、いつの頃からかこの地を”綾里”と呼ぶようになった。また消えた綾織姫はこの後、遠野に移ったと云われ、遠野の綾織は綾織姫の名から付けられたとされる説もある。

機織や養蚕を伝える話となれば、どうしても避けて通れないのが、伊豆神社に伝わる話だろう。坂上田村麻呂が延暦二年(783)に征夷大将軍に任命され、当地方の征夷の時、此の地に拓殖婦人が遣わされ、やがて三人の姫神が生まれた…。

とにかく征夷とは、力でねじ伏せる戦だけでなく、新たな信仰の普及と、新たな文化の普及をも意図していたようである。綾織姫が遠野に来たかどうかは断定できないが、少なくとも機織や養蚕を教える拓殖婦人が来た事は間違いない事のようである。そしてこの時期、伝承と共に、遠野で広く信仰される事になる瀬織津比咩という姫神が定着した可能性があるのだろう。だが、拓殖婦人となれば、更に時代を遡って気になる伝承かある…。

「日本書紀」の応神天皇41年2月には、阿知使主が4名のうち兄媛を胸形大神に奉り、他の3人の婦女をひきいて津の国の武庫に着いたという話が記されている。その3人の婦女のうち、2人の婦女の名を「呉織(クレハ・クレハトリ)」「穴織(アナハ・アナハトリ)」という名前であるという。そのうち”穴織”は「漢織」「綾織」とも記すのだと。

古代の豪族に漢氏というのがいるが、これは「あやし」と読み「漢織」は「あやおり」とも読む。そして当然「綾織(あやおり)」と読む。とにかく「綾織」とは機織に関係するのだが、気になるのは「織」を「は」と読む事についてだ。遠野の綾織の語源の発生につて伝承には天女伝承か付随している。その天女の居た場所を御前淵と云い、そこに現在も祀られているのは写真でわかるように「白竜」を祀る小さな祠だ。実は「御前淵」「白竜」とは瀬織津比咩信仰に繋がるキーワードでもある…。

例えば「呉織」を別に「久礼波」と書き記す場合がある。「綾織」は「阿弥波」ともなる。水神に「罔象女神・弥都波能売神・水象女神(ミズハノメ・ミズハメ)」という女神がいる。この女神の発生譚は「古事記」において、イザナミの小便より化生した女神であるとなっている。考えてみると、瀬織津比咩も「古事記」においては穢れから化生した女神であり、この水象女神もまた小便という穢れから化生した女神という共通点を持っている。

このミズハメの意味には「水這う」「水走る」という意味の他に「水生う」という水の発生の意味をも含んでいる。これは滝の女神である瀬織津比咩と同じであるのが気にかかる。ちなみに最初に記した「綾織姫」の伝承は、岩手県大船渡市に伝わるものだ。その伝承が伝わった地を「綾里(りょうり)」と呼ぶのだが、音読みは新しい読みである為、本当に伝承が平安時代となれば「綾里(あやさと)」と読むのが正しいのだろう。綾里…つまり、綾(あや)の里、漢(あや)の里という意味であろう。

この「遠野物語拾遺3」の物語で織られた曼陀羅は、綾織の光明寺へと納められ、綾織の地名ともなった。つまり、遠野に機織を伝える為に訪れた拓殖婦人とは、この「遠野物語拾遺3」の話しとなってしまうものと感じる。

そして何故に六角牛なのかというのは、沿岸地域と遠野地域を結ぶ峠の中に”わらび峠”というものがある。この”わらび峠”を抜けて着く場所とは遠野の来内地域であり、瀬織津比咩伝承の発祥地である伊豆神社がある地域だ。実際にわらび峠を抜けて、来内の地に訪れて気付くのは、村の背後に聳える六角牛山である。この地からは、早池峰山は見えないかわりに、六角牛山が圧倒的な存在感をみせる。綾織姫の伝承は沿岸の地域から遠野へと伝えられたと云われるが、その経路を予測すると”わらび峠”になるのではないか?となれば、大船渡市の綾里地域から綾織姫が、遠野の綾織へと辿り着き、遠野の綾織が綾織と呼ばれるようになったのも、大船渡市の「綾織姫伝説」と「遠野物語拾遺3」を結び付ければ、スムーズに繋がる。

「遠野物語拾遺3」に登場する天人児を綾織姫とすれば、大船渡市綾里から、わらび峠を経て、来内の地に辿り着いたとする。すると画像のように、来内の地には六角牛山が、その存在感を示す。漁民が山アテにより、漁場の行動範囲を定めるように、内陸においても際だった山を目指して行くものだとされる。山には神が斎、その麓には人々が集まるのだと知っての事かもしれない。とにかく、この来内の地に辿り着くものは誰でも、六角牛山を意識してしまうものだ。ならば綾織姫も、この来内の地から六角牛山の麓を目指したのではなかろうか…。
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ところで綾里の地には、地名の語源となった綾織姫の像が建てられている。その綾織姫とは、美しい女性であったと伝えられているようだ。「綾里村誌」にも、うりざね顔の優しい姿で描かれている綾織姫だが、その姿は「色白で、裾の長い着物を引きずるように歩くと、快い衣ずれ音がし、背中まで届く長い黒髪は潮風に揺れていた。」と伝えられているようだ。色白と長い黒髪は、現代でも通用する美人の代名詞ともなる。その綾織姫の美しい姿に影響され、綾里に住む娘達は機織を始めたとも云われる。

この綾織姫の像が建てられた背後には、不動の滝と呼ばれる地がある。その地は、岩壁に覆われた谷の間に、様々な磐座があり、岩窟がある。そこに綺麗な白糸の滝と女滝の二つがあって、古来から修験の地でもあったようだ。その滝の落ちゆく修験の地と、どうも綾織姫が関係しているらしい。

修験というと、綾織三山の一つ笠通山に登る事を「出羽通う」と云うのだが、綾織は出羽の影響をかなり受けているようだ。例えば文化的にも、百人一首などが広まり普及したのも綾織。これは羽黒修験が伝え広めたと聞く。その密接な羽黒だが、岩手県にいくつも鎮座する新山神社は早池峯の神を祀り、その祭神は瀬織津比咩であるが、この瀬織津比咩の別名は玉依姫である。この玉依姫を奥州藤原氏が羽黒から新山神社に勧請したものだ。つまり、早池峯の神と羽黒の神は同じであった。綾織を紐解くに、羽黒修験は避けて通れないだろう。
by dostoev | 2010-12-07 07:04 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)

「遠野物語拾遺2(笛吹峠)」

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昔青笹に一人の少年があって継子であった。馬放しにその子を山にやって、
四方から火を付けて焼き殺してしまった。その子は常々笛を愛していたが、
この火の中で笛を吹きつつ死んだ処が、今の笛吹峠であるという。

                                  「遠野物語拾遺2」

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現在「笛吹峠(ふえふきとうげ)」とは呼ばれるものの、以前は「ふぶき峠」と呼ばれていたらしく、「ふぶき」が転訛されて「ふえふき」になったと云う。この笛吹峠では別に吹雪の日に、この峠を誤って転落し、助けを呼ぶ為に笛を吹いたが発見されず、死んでしまった盲人の話もある。

この「遠野物語拾遺2」の話では、継子の為、憎まれたのか四方から火を付けられて殺されたとあるが、どこかヤマトタケルの草薙剣の話に似通っている。ヤマトタケルは、草薙の剣で風を起こし、逆に火を付けた相手に火の先を向けた。「息」とは「生き」でもあるので、人間の生命力としての「息吹」が笛対して吹き込まれ、神を呼ぶ。それ故、笛の音は神霊を呼ぶ音として適しているのだろうが、火を操るまではいかない。だから少年は焼け死んでしまった…。


ここで一つ、山梨県に伝わる「笛吹きの権三郎」という話を紹介したい。


後醍醐天皇の御代のこと、甲斐国の芹沢という村の子酉川の川辺に、
京から母と息子の二人連れが移り住んだ。子の名は藤原権三郎とい
ひ、正中の変で連座して死んだ父の弔ひのため、毎日小屋で高麗笛
を吹いた。

美しい笛の音に聞き惚れた村人は、笛吹権三郎様と呼んで親しんだ。

ある秋、子酉川が大洪水にみまはれたとき、母は水に呑まれて行方不
明となってしまった。それ以来権三郎の笛は、深い悲しみに満ちたもの
となり、村人もあまり近づかなくなってしまった。そのうち権三郎の姿が
見えないことに気づいた村人は、心配になって川下の集落を捜すと、
筏に乗って笛を吹く男を見たといふ者があった。筏は発見されたが、権
三郎を見つけることはできなかった。

この村ではそれ以来、月のよい晩には、どこからともなく笛の音が聞え
たといふ。すると村人は握り飯を作って川に流し、権三郎の霊を慰めた
といふ。以来、子酉川は笛吹川と呼ばれるやうになった。



山梨県といえば、阿曽沼氏に代わって遠野を統治した南部氏の出身地である甲斐の国。もしかしてだが、南部氏が持ち込んだ話が、笛吹峠にあてられて若干の形を変え「遠野物語拾遺 2」で語られた可能性もあるのだろう…。
by dostoev | 2010-12-07 06:43 | 「遠野物語拾遺考」1話~ | Comments(0)