遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語考」100話~( 10 )

「遠野物語101(死体を操る)」

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旅人豊間根村を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音の者の家に燈火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今夕死人あり、留守の者なくて如何にせんかと思ひし所なり、暫くの間頼むと云ひて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千万なる話なれど是非も無く、囲炉裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむくむくと起直る。胆潰れたれど心を鎮め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐の如き物あり、面をさし入れて頻に死人の方を見つめて居たり。さてこそと身を潜め窃かに家の外に出で、背戸の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立てゝ居たり。有合はせたる棒をもて之を打ち殺したり。

                                   「遠野物語101」

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狐は、死肉をも食べる陰獣ノイメージがあるが、死体を操り動かすという話は、他に例を見つける事が出来なかった。唯一「化物歌合せ」の中に、尻尾をクイッと持ち上げる事により、死体を操る狐を見い出した程度だった。これが化け猫であれば、クイッと手招きする事により死体を動かすというイメージがあるが、狐はあくまでも人に化けるか、人に憑くというイメージが主体だ。

古代中国では「抱朴子」「狐寿八百歳也。三百歳変化して人の形と為る。夜、尾を撃ちて火を出す。髑髏を戴きて北斗を拝し、落ちざれば人に変化す。」また「百歳神巫と為る。」とあるので、狐は百歳から呪文を唱え、生き霊や死霊を呼び出して自分に乗り移つらす巫女の様な存在となると思われていた。歳を経た野狐や野干を紫と称し紫乃狐は、将に怪を為す巫女となった狐であったよう。北斗七星とは人の生死を司る存在でもあるから、狐が頭に髑髏を載せて北斗を拝するのは、人の生命力を手に入れる手段であろうか。験力を現すという髑髏本尊は真言宗で有名だが、天台宗にも似た様なものがある。つまり狐の霊力は、密教の髑髏本尊と何等かの繋がりがあると考えて良いだろう。

しかし「遠野物語101」での狐は、ただ覗いているだけで死体を動かしている。「五雑爼」「狐千歳にして始めて天と通じて、魅をなさず。その人を魅するには多くの人の精気を取りて以て肉丹となす。然れば即ち甚だしく婦人を魅せざるは何ぞや。曰く狐は陰類なり。陽を得て乃ち成る。」とあり、死体を動かす程の狐とは千歳をも過ぎた老狐であったのだと思えるが、すぐにその正体を見破られ殺されてしまうのは、やはり畜生であったと言いたいのが「遠野物語101」でもあるのだろう。

また重要なのは、起き上がった死体に胆を潰しながら心を鎮め冷静になった男の心であろう。映画「砂の惑星」「恐怖は、心を殺し全てを無にする。」というセリフを唱え、恐怖に打ち勝った主人公であったが、「遠野物語101」でも、その恐怖に打ち勝つ強い心が大事であるとも説いている。しかし…悪戯をした狐を簡単に殺してしまう話が多い「遠野物語」は、この現代となっては少々残酷であると感じてしまうのだ…。
by dostoev | 2014-01-25 05:46 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語105(満月と云う鏡)」

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又世中見と云ふは、同じく小正月の晩に、色々の米にて餅をこしらへて鏡と為し、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋を被せて置きて翌朝之を見るなり。餅に附きたる米粒の多きもの其年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。

                                   「遠野物語105」

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「遠野物語103」「遠野物語104」「遠野物語105」を読んでいると、小正月と満月を組み合わせて語られているようだ。ただ「遠野物語105」には"満月"という言葉は出てこないが、鏡が登場する。正月の鏡餅は蛇のとぐろを巻いた形ではあるが、鏡そのものは満月を象ったものでもある。

鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめずらしみ 思ほしし 君と時々

まそ鏡 照るべき月を 白たへの 雲が隠せる 天つ霧かも

吾が思ふ妹に まそ鏡 清き月夜に  ただ一目 見するまでには


三浦茂久「月信仰と再生思想」によれば、まそ鏡が月である事を意味するならば、太陽神である天照大神との整合性が取れない為に、まそ鏡は月であるという見解は避けられてきたようだ。しかし「万葉集」の歌から見ても、鏡は月と並べて詠われ、太陽とは結び付いていない。「まそ鏡」は「真澄の鏡」の意であり、ギラギラと輝く太陽に澄んだ光をイメージし辛いのは本来は月光にあてたものだからだろう。

太陽暦が導入されたのは持統天皇時代がやっとであり、それ以前は太陰暦であった。太陽暦が導入されても、世間一般では太陰暦が通常であり、一日の始まりは太陽が沈んでからというのは、その夜に輝く星や月が、一日の象徴でもあった。「遠野物語」の小正月に関わる話もまた、月との関連を示す話であるのも、太陰暦を意識してのものであろう。
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また農事には、春は花見で始まり、月見で終わるのは、花見時期が田植え時期と重なり、山から降りてきた山の神が田の神へと変化し、秋の収穫時が十五夜と重なり、収穫された米から餅が作られ月見に供えられ、田の神を山へと送り、山の神へと戻す習俗によるもの。この月見の習慣を小正月に盛り込んでいるのは、小正月が1年の始まりで、農事の一年が月と共に進むのだという証でもある。満月を見ると妊娠するという俗信があるのは、満月は孕んだ月であり、それは作物の豊穣にも繋がるからだ。
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こうして満月を見て見ると、確かに孕んだお腹の様に、月の中に胎児が丸まっているようにも見える。満月の優しい光は、あたかも鏡の発する光の様で、五穀豊穣を願う農民達を照らすかのようだ。
by dostoev | 2014-01-23 20:13 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(19)

「遠野物語104(月占)」

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小正月の晩には行事甚だ多し。月見と云ふは六つの胡桃の実を十二に割り一時に炉の火にくべて一時に之を引上げ、一列にして右より正月二月と数ふるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直に黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてゝ火が振ふなり。何遍繰返しても同じことなり。村中何れの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日は此事を語り合ひ、例へば八月の十五夜風とあらば、其歳の稲の苅入を急ぐなり。

                                   「遠野物語104」

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胡桃の俗信に「14日、小正月に訪れる魔物や疫病神を退治するために、「十二月様」をタラの木やクルミの木でつくって窓や戸口にたてる。」というものがある。十二月様とは山の神の十二様であろう。タラの木は棘があり魔除けとなる木であり、タラは膨らみ満ちる意がある事から月の意でもある。胡桃もまた魔除けであり、魔そのものでもある。「遠野物語104」では満月の月見をするという事だが、月見は月読で、男がするものとなさっているのは、山の神が女人禁制であるのと通じているのだろう。六つの胡桃を割って十二にするのは、1年を十二月に分割したという事。ただ、何故に満月と胡桃を結びつけて占うのか。

火にくべた胡桃が赤いのは、火で真っ赤になった為だろうし、黒くなったのは胡桃が燃えて表面が炭状になったものだろう。また、胡桃が火振るのは火が胡桃に燃え移ったものだとは理解できるが、何故にいつも同じ結果となるのかは理解できない。

胡桃を調べると「今昔物語」に、胡桃を寸白(すばく)が嫌がる話があった。寸白とはサナダムシで寄生虫の事。しかし話は、腹に寸白を持っている女が産んだ子供が胡桃料理で、その正体がわかったとある事から、本来の宿主は女であり、女の巻く白帯の少し下…つまりお腹を指す事から寸白と呼ばれ、婦人病の意にもなっている。女と言うものは月経がある事から、ある意味月に等しい存在。

そういう意味から、この「今昔物語」と「遠野物語104」をかけ合わせて考えれば、満月という月が満ちた状態は、月が孕んだ状態で、女性が妊娠している事にもされている。その孕んだ状態の満月に胡桃を火にくべて占うというのは、満月と言う腹に潜んだモノを明らかにする事と考えられる。女は陰であり、男は陽であるという陰陽の考え方からすれば、陽である男が、やはり陽である火に胡桃をくべ、陰である女と同様の満月を調べるというのは至極当然の話であった。また占いも、農事中心であるから、母なる大地では無いが、食物を為す大地は、生命の源であり、日本の古来はその源流を山に見立てていた。山は、水を成し、樹木を成し、獣を成す、生命の源であるから、胡桃を十二に割るのは、1年を十二に割るのと、山の神を十二様という事にかけ合わせているのだろう。
by dostoev | 2014-01-22 07:35 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語102(遠野のハロウイン)」

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正月十五日の晩を小正月と云ふ。宵の程は子供等福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家へ行き、明の方から福の神が舞い込んだと唱へて餅を貰ふ習慣あり。宵を過ぐれば此晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でゝ遊ぶと言ひ伝へてあれば也。山口の字丸子立におまさと云ふ今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。如何なるわけにてか唯一人にて福の神に出で、処々をあるきて遅くなり、淋しき路を帰りしに、向の方より丈の高き男来てすれちがひたり。顔はすてきに赤く眼はかゞやけり。袋を捨てゝ遁げ帰り大に煩ひたりと云へり。

                                   「遠野物語102」

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小正月に子供達が袋を持って各家々から餅を貰い歩く風習は、なんとなく西洋の「Trick or treat(トリック・オア・トリート)」と唱えてお菓子を貰う、ハロウィンの夜に似ている。ハロウィンは、ムソグルスキー「禿山の一夜」で知られるように、満月の晩に魔の山であるブロッケン山から、沢山の化け物が現れてサバトを開く。ブロッケンの幽霊でおなじみのブロッケン現象なども、やはりブロッケン山がハロウインの舞台となった魔の山に由来して付けられた名称だ。

「遠野物語103」では小正月の夜、もしくは冬の満月には雪女が童子をあまた引き連れてくると記されており、そういう面からも化物が沢山登場するハロウインの夜と雰囲気と内容が重複する。「注釈遠野物語」によれば、半紙大に大黒様の絵を木版で刷ったものを持って「トウネンモ マイネンモ アキノホウカラ フクノカミ ドッサリマイコンダ」と掛け声をかけると、その家では、その紙を貰い、代わりに餅や菓子、または小遣い銭として1銭をくれてやるというのは、まさしくハロウインと、ほぼ同じだろう。この風習がいつから遠野に伝わったかはわからないが、日本には西洋の風習や、もしくは西洋の神話などの伝説やキャラクターなどが伝わっているのが不思議だ。

例えば、今となっては謎の人物となった聖徳太子もまた、何故にキリストの境遇と同じ内容として伝わっているかは謎と云われている。このハロウインに似た風習もまたキリスト教圏と同じ風習であるならば、何故に遠野に伝わったのかという事だろう。遠野には隠れ切支丹がいた事実はあるが、徳川幕府が御法度としてから、宣教師たちは日本から追い出され、見よう見まねでキリスト教の真似事をした時代がかなり続いた。あくまでも真似事であって、キリスト教の神髄からはかけ離れていたというのが隠れ切支丹であったようだ。しかし、真似事であるからこそ、この遠野に伝わる風習が、根本は違うが似ているという事にもなるのだろうと思う。今ではこの風習が遠野に存在するとは聞いていない。つまり、あったとしても江戸時代からの風習の名残がある明治から大正、そして昭和の初期まであっただろうか。江戸以前となると、どうしても遠野では考えられない風習となる。

ただ青森県の戸来村に伝わるキリストの墓伝説などや、秋田美人にはコーカソイドの遺伝子を含むなど、かなり古くから西洋との繋がりが東北にはあるようだ。自分の家系もロシアの血を引く家系だと云われるのは、実家が沿岸の久慈市であり、難破船などが浜に辿り着いて、地元の娘などと結び付いて血が入り込んだというものの一環のようである。つまり、中央の朝廷であり幕府は、西洋との関わりを危惧していたが、末端の東北までは目が行き届かなかった為に、いろいろな侵入と血の交雑を招いた可能性は否定できないだろう。またキリスト教圏の風習も、全ては南の九州や、大阪の堺ばかりでなく、東北も政府の知らぬ間に結びついた可能性があったのかもしれない。
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丸子立の"おまさ"の出遭った山の神であるのか福の神もまた西洋人に多い赤ら顔であり、東北に多い、山男や山の神の姿も案外西洋人であった可能性もあるのだろう。遠野の今では、英語の外国人教師などが多く入り込み、工場などにもブラジル人などの、あからさまな異国人が増えたので、今では外国人に対する免疫も出来てはきたが、それでも未だに外国人を物珍しそうに見る人々は多い。それが明治時代などに遭遇すれば、それこそ鬼か山男か天狗と思う人達も多かった事だろう。

遠野から沿岸である釜石までは、約42キロ。つまり、フルマラソンコースと同じくらいの距離であるから、簡単に沿岸からの流入はありえるだろうが、南部時代は幕府からの命で尾崎半島を拠点として、そういう難破した外国船のチェックは厳しくしていたようだ。ただそれでも盲点はあるだろうから、難波した舩から山を越えて遠野に来たとしても、その可能性を全て否定する事は出来ないだろう。
by dostoev | 2014-01-20 20:31 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語106(共同幻想)」

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海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年毎に家の形など聊も違ふこと無しと云へり。

                                    「遠野物語106」

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「注釈 遠野物語」で、山田湾における蜃気楼を見た人の情報が記載されている。画像は、津波の来る前の山田湾だが、奥まった湾となっており、外洋の影響が無い為か波が静かで養殖に適した湾であると思う。画像にある島は大島であり「遠野物語拾遺107」においては眼の色の違う男を殺して埋めた島となる。その手前には小島と呼ばれる小さな、島と言うにはあまりにも小さな島らしきがあった筈だが昔、大島に行く途中に小島によったが、大きな海亀が死んでいたのを覚えている。

さて蜃気楼だが「注釈 遠野物語」のまとめを読むと、殆ど昔見たとされ、その目撃者が年齢の高い人になっている。これは遠野において、人魂を見た人の例に近いものを感じる。ここでの疑問は、何故に昔は見る事が出来て、今は見れないのかという事。とにかくこれは、人魂に共通する。まあ人魂だけではなく、似た様なものに狐火&狐の嫁入りなども加わる。
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まあ人魂とは違い「蜃気楼は気象現象です。」の一言で片づけられる。ただ「遠野物語106」においては、見慣れぬ都の様が見えるというのは、ある意味において気象現象というよりも共同幻想と捉えてもおかしくはない。

遠野市の綾織の某宅にお邪魔した時、そこには綾織の田園地帯が見渡せる高台であった。その宅の窓から昔はよく狐火が見えたという。某さん曰く「あの辺りは馬の卵場であるから。」と言っていた。卵場とは墓場の事で、死んだ馬を埋葬していた場所であった。そこによく狐火が見え、実際に馬の死体を食べに狐もよく来ていたと云う。そして、その家に遊びに来ていた人も含め、家族一緒に、その狐火を見たそうである。それは現実なのか、共同幻想であったのかは定かでは無いが。

暑い日に車で道路を走っていると、前方に水溜りの様なものが見えるが、近付くと消える。これを「逃げ水」と呼ぶのだが、そこには水が映っているのではなく、空気が熱で歪んで水のように見える現象をいう。しかし蜃気楼は、空に遠く離れた景色が投影される気象現象となる為に、逃げ水とは違うのだ。

先に書いたように、山田湾は奥まった湾であり、その沖にはただ太平洋が広がるだけだ。更にその先にはアメリカ大陸があるのだが、「遠野物語106」を読む限り、その蜃気楼で見える景色がまるで遥か対岸にあるアメリカ大陸の街の風景が見えたかのように記されている。それは実際に有り得ない話であるから、共同幻想ではないかと思ってしまうのだ。

ところで、その共同幻想だが、元農協職員の某さんと話して共通するのは、遠野のある地域の人達は幽霊の話を信じ、また幽霊の体験談を多く経験しているという事。遠野全体を見渡し聴き込んでも、それが余りにその地域に集中する為に、その地域の人々がまるで共同幻想の中に生活しているかのように感じる事がある。まさに「遠野物語106」の過去の山田湾に住んでいた人達も、同じように共同幻想の中に生活していたのかと感じてしまうのだ。
by dostoev | 2013-09-06 18:28 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語100(狐に奪われた魂の見た夢)」

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船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉里吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢ふ。見れば我が妻なり。されどもかゝる夜中に独此辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、矢庭に魚切り包丁を持ちて後ろの方より差し通したれば、悲しき声を立てゝ死したり。暫くの間は正体を現はさゝ゛れば流石に心に懸り、後の事を連れの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は何事も無く家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出たるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるゝと思ひて目覚めたりと云ふ。さてはと合点して再び以前の場所へ引返して見れば、山にて殺したりし女は連れの者が見てをる中につひに一匹の狐となりたりと云へり。夢の野山を行くに此獣の身を傭ふことありと見ゆ。

                                   「遠野物語100」

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吉里吉里の四十八坂は吉里吉里海水浴場から浪板海岸を経て北に行く途中の坂となる。降り立つと磯場が広く有り、外洋に面している為か波が高い。一度、釣りをしていて波を被った事があるので、たまに訪れる大波は注意しなければならない場所だ。
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現在の四十八坂へ行く道路は新しく舗装された新道のようで、旧道路は廃道となったようだが、画像のような道は今でもある。こういう道を夜に一人で通るには、あまりに寂しい道であろう。昔の人は、こういう道を通る時、狐に化かされるとか幽霊の類と遭遇するのじゃないかと、ビクビクしながら通ったのではなかろうか。

遠野には狐の関所と呼ばれる場所がいくつかあるが、それは大抵町外れの寂しい場所であり、そういう寂しい場所だから狐に化かされるという話が多い。そして実際に狐は、そういう場所に居るものである。現在も遠野市の新町にから大工町にかけて寺通りとなっているが、その近くには川が流れており、その川沿いの土手などに狐穴を発見する事がある。また夜に新町を通ると、たまに狐を見かける事があるが、狐が捕食する鼠が町に多いせいもある。
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ところで、狐が人間を騙す場合の古くは、人間の髑髏を頭に載せて騙すと云われていた。この「遠野物語100」において、漁夫の妻に化けた狐は通常であれば、その妻を殺し、その髑髏を取出し頭に載せて、その妻なりに化ける筈である。しかし、ここでは頭に髑髏を載せずに、ただ妻の姿を模倣した化け姿となっている。

その漁夫の妻は、家で夢を見ていたようで、この漁夫が妻に化けた物の怪を襲おうとする時に目覚めた様である。つまり、妻の意識と狐の化け姿がシンクロしていたという事。狐憑きの類であれば、狐そのものが人間に取り憑き悪事を成す場合があるが、この「遠野物語100」の場合はどうも狐が妻の精神に取り憑き、その精神を遠隔操作したような感がある。そうでなければ、妻が夫である漁夫に襲われる夢を見る筈が無い。

日野巌「動物妖怪譚」を調べると、「七修類彙」に、山東では狐が夜半屋根を破って家に入り、寝て居る人の鼻から息を受け暫くすると化ける様になると記されている。つまり狐は、頭に髑髏を載せなくても化ける方法を持っているという事なのだろう。ところでその方法に「鼻から息を受ける」とあるが、河東仁「日本の夢信仰」「夢虫」の話が紹介されており、蝶が寝て居る人間の鼻から出入りし、人間の見る夢の目となっているとされている。実は鼻とは、古代中国から魂魄の出入りする場所とされていた。これらから考えられる法は、狐が妻の鼻から魂魄を取出して、それに憑き化けたという事になるのだろう。しかし、そこまで狐が自在に魂を操れるものであろうか?

大形徹「魂のありか」には、一つの招魂法が紹介されている。とにかく魂が肉体に戻らなければ、その人間は死んで仕舞うという事らしい。魂に憑いた狐もろとも漁夫が刺し殺せば、恐らく魂を傷つけられた妻も死んで仕舞う筈である。古代中国では魂に語りかけ、招魂するのだという。一例には「魂よ帰っておいで。君のいつもの幹を去って、どうして四方にふらふらするんだ。君の楽しい居場所を捨てて、酷い目にあってもいいのかい。」と、魂を脅しているようでもある言葉だ。実は魂とは、怯えやすく恐ろしいものに遭うと驚き逃げるというが、それは人それぞれの魂の性質でもあるようだ。

となれば、「遠野物語100」において、狐に憑かれた妻の魂は狐の本体と共に浮遊し夫を迎えに行った。ここでの狐は漁夫である夫を騙す気でいたが、妻の魂は純粋に夫を迎えに行ったのだろう。しかし夫である漁夫は、その妻を怪しいと思い手にしていた包丁で刺してしまった。しかし浮遊していた妻の魂は、俯瞰から眺めていたのか、その夫の行動に一瞬恐ろしさを感じ、その魂は慌てて肉体に舞い戻った…と、こんな感じの理屈となるのかもしれない。

しかし「遠野物語」及び「遠野物語拾遺」は恐ろしい。相手を怪しいと思った瞬間に、包丁で刺したり、鉈で頭を叩き割ったりしている。その躊躇しない様は、逆に化けて人間を騙してやろうという悪戯心を抱いた狐の方が可愛そうになるくらいだ。。。
by dostoev | 2013-09-05 20:32 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語108(妖怪サトリ)」

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山の神の乗り移りたりとて占を為す人は所々に在り。附馬牛村にも在り。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神より其術を得たりし後は、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物も見ず、頼みに来たる人と世間話を為し、その中にふと立ちて常居の中をあちこちとあるき出すと思ふ程に、其人の顔は少しも見ずして心に浮かびたることを云ふなり。当たらずと云ふこと無し。例へばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡又は刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとか言ふなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かゝる例は指を屈するに勝へず。

                         「遠野物語108」

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遠野は盆地であり、山に囲まれている。その為だろうか、山の神への信仰は盛んであるのは、石碑の多さからみても明らかである。例えば、早池峯の女神から力を授かった話、六角牛の女神から力を授かった話など、山の女神の霊力に関わる話がある。そして、その遠野盆地に住む人々の住まいも、山に発生する樹木によって作られている。つまり家そのものが山の神の恩恵によってなされているのだ。
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ところで、人の心を読むとして有名な「覚(サトリ)」という妖怪がいる。鳥山石燕「百鬼夜行」でのサトリの説明に、こう記されている。

「飛騨美濃の深山に玃あり。山人呼で覚と名づく。色黒く毛長くして、よく人の言をなし、よく人の意を察す。あへて人の害をなさず。人これを殺さんとすれば、先その意をさとりてにげ去と云。」

説明文に「玃」とあるが、「玃」は「大猿」を意味するという。五来重「鬼むかし」では、妖怪サトリを「さとりわらわ」とも言い述べ「人の考える事をよく読む童、即ち、山神の化身である童子が元の姿であろう。」と説明している。サトリが大猿であるという事だが、山に生息し、齢を重ねた猿を遠野では猿の経立がいる。猿の経立は人間の女性を好んで攫うという事から、人間に近い存在であろう。つまり年老いた猿が、人間に変化しつつある状態が猿の経立であるが、同じ大猿でもサトリは、それとは違う。そして五来重は山神の化身の童子と説明しているが、これと似た様なものなのか、妖怪山童というものが存在する。
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この山童をウィキペディアで調べると、下記のように記されていた。

「河童が山に移り住んで姿を変えたものが山童だといわれており、特に秋の彼岸に河童が山に入って山童となり、春の彼岸には川に戻って河童になるとする伝承が多い。宮崎県の西米良地方では、セコが夕方に山に入り、朝になると川に戻るという。熊本県南部ではガラッパが彼岸に山に入って山童になり、春の彼岸に川に戻ってガラッパになるという。このような河童と山童の去来を、田の神と山の神の季節ごとの去来、さらには夏季と冬季に二分される日本の季節に対応しているとする見方もある。」

山の神は、春に山から下りて来て田の神となり、秋に山へ帰り山の神になるに対応する山童は、確かに山の神の化身であるのかもしれない。ただ言えるのは、サトリも山童も山に生息しているという事。そして「遠野物語108」に登場する木挽である柏崎の孫太郎も、普段の生活は山に多くの時間を置いているという事である。それはつまり、人間でありながら山の神の影響を受ける存在としての説明に成り得るだろう。

以前、栗本慎一郎「パンツをはいたサル」という本があったが、人間の猿との境界線は、わずかである。映画「猿の惑星」の様に支配が逆転される可能性を、同じ2本足で行動する猿に、その意識が向けられる場合が多々ある。

日本人に遺伝子が最も近いと云われる民族にチベット人がいる。有名な羌族に代表されるチベット人の祖先は、猿と石との婚姻から猿であり人間であるという。彼らは石から生まれたと信じ、大きな割れ目のある石を女性のシンボルと信じ、その傍らに男性のシンボルとして棒状の石を祀る。これはまるで、遠野に広がる陽石と陰石の文化、つまりコンセイサマ信仰に近い。柳田國男の言葉を借りれば「妖怪は神が零落した姿である。」のならば、そのとは「申を示す」漢字から感じれるように、どこかで神を猿として認識していた人間の意識が、その根底にあるのではなかろうか

遠野の猿ヶ石川の語源も猿石から発生し、その川は山から発生するのを考えてみても、山の神の使いが、神であり零落した妖怪となって人間との交流を果たしている猿であるのは、なかなか興味深い事である。当然の事ながら、猿と人間の境目がわずかであれば、山の神の霊力は人間にも及び、柏崎の孫太郎に与えた様な力を山の神は授ける可能性は高いであろう。つまり「遠野物語108」に登場する柏崎の孫太郎は、人間版覚(サトリ)であったのだろうと思ってしまうのだ。
by dostoev | 2013-09-05 07:56 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語109(風の神)」

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盆の頃には雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐に送り
行きて立つ。紙にて顔を描き瓜にて陰陽の形を作り添へなどす。虫祭の
藁人形にはかゝることは無く其形も小さし。雨風祭の折は一部落の中に
て頭屋を択び定め、里人集りて酒を飲みて後、一同笛太鼓にて之を道の
辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。之
を高く吹く。さて其折の歌は『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭
る、北の方さ祭る』と云ふ。

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「遠野物語」の補注には「雨風祭は本来、二百十日(陽暦九月一日頃)に行われる雨風鎮めの共同祈願である。」という。別称として「風祭・風日待・風神祭」と云い、基本的には風神に対する祭であったのに、後から虫祭の習俗が重なっ伝わっているようだ。伊能嘉矩「遠野の民俗と歴史」によれば、伊能嘉矩はこの祭を広瀬竜田祭と同じであるとしている。

「大忌風神の祭といふ是なり、風水の難を除きて、年穀の豊なる事を祈申さるゝにや。」


また伊能嘉矩は、大忌風神祭、道饗祭、御霊絵、即ち辻祭に関する観念が混同の姿をもって奥州に伝えられ、それには風雨の厄と鬼疫の禍が結び付けられていると説いている。

風の神が農業神というのは後の一般的なもので、原初の風の神とはタタラに関しての神であったよう。これは風の神だけでなく「古事記」などを読むと大抵の神は"鉄"に関するものが多い。神社や密教系の寺社などの大抵も、鉄に関係するもの。つまり鉱山開発や製鉄に関する前線基地が神社や寺社であったようだ。

別に紹介した南部氏の「えんぶり」も、表向きは豊作祈願であっても、本当のところは製鉄に関する行事であるのだと思う。こうして製鉄に関するものが後から、農事を重ねて隠されてきたものが殆どのような気がする。まあ隠したというよりも、百姓たちに農作業を推奨する場合「この神を祀りなさい」と指導してきたものだと思う。つまり神には、製鉄に関する面と農作業に関する二面性があるものだと思う。ただし日本国の絶対多数は農作業に従事する為、為政者が「金」を求めつつ「作物」も求める為に、神の性質の表向きは絶対多数の農作業に関するものを出しているのだと思う。

遠野の民俗を調べるとやはり「早池峰」の「ハヤチ」は風の意味を持ち、東北ではヤマセという冷たい風が吹くと困るので、早池峰に対し風鎮めの祈願をする。しかし早池峰神社には、鉄を模った絵馬があるように、産鉄を祈願して出来た神社でもあったようだ。

面白いものに陸前高田の宝竜神社は雨風を司る神社でもある為、農民は雨風が吹かないように祈願するのだが、漁民は雨風が吹くように祈願する。農民・漁民どちらにも崇敬されている神社であるようだが、この宝竜神社の宝竜とは「ヒリュウ」から来ており、飛龍権現である那智の滝神であるよう。早池峰の瀬織津比咩は那智の滝神でもあるように、やはり早池峰と同じく風を司る。それは本来属性が竜であるから、風神である竜田の風の神と同義であり、竜田の風神は、大忌風神であるから穢れ払いの神でもあるのは、瀬織津比咩と性質を同じくする。

「遠野物語109」に紹介されている歌『二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る』での「北の方さ祭る」というのは早池峰を意識してのものであって、早池峰に祀られている瀬織津比咩という神の性質は龍の性質を持つ為に、当然「雨・風」を司る神でもある。

風は農事においては忌み嫌われるが、遠野の綾織地方の風俗に稲刈りを終えたら夜に口笛を吹くというものがある。これは稲刈りにより田畑が汚れたので、それを綺麗にする為、つまり清める為に敢えて口笛を吹いて忌み穢し、早池峰の神に風を吹かせる行為である。風というものをタタラ筋や漁民゛好むのだが、農民もまたこうして風の神でもある早池峰の神を、上手に利用してきたようだ。

また伊能嘉矩はこの風俗が奥州に運ばれてきたと述べているが、奥州に根付く風俗の殆どは、北陸経由が普通であった。その大半は、羽黒修験が運んできたものであり、古来においては越の国経由であったよう。

風の神として有名なのは龍田の神に諏訪の神であるが、これに加えて弥彦神と気比神となる。気比神は、神功皇后で有名となり、その神功皇后は出羽の国にも伝説がある為に、古代に蝦夷国と繋がる何かがあったのかもしれない。また弥彦神はヤサブロバサの伝承でもわかるように、遠野の「サムトの婆」に、影響を与えた可能性はある。またキャシャの伝説からも越の国との繋がり、伝播ルートは否定できないものだと考える。

話は脱線するが、気比神と応神天皇の名前交換は有名な話である。その応神天皇の母と呼ばれる神功皇后出生地は、近江国の坂田郡だと云われている。その近江国には三大神社が鎮座し、風の神である級長津彦命と級長津姫命が祀られている。実は級長津彦命と級長津姫命は、息長宿禰王、高額比賣とも呼ばれ、二人の間にこの地で生まれた女子が息長帯比賣命、つまり神功皇后であり、神功皇后とは"風の神の子供"でもあった。

その風の神の子供でもある神功皇后が、何故に気比神宮まて行って参詣するのか。ここで推測するに、大元の風の神が本来、気比神では無かったのだろうか?

「日本書紀」神功皇后13年に、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝したとあるが、気比神宮の奥宮である常宮神社というのがある。その神社の由緒に「仲哀天皇即位2年に天皇・皇后御同列にて百官を率いて敦賀に御幸あり、気比の行宮を営み給うた。」とあり、また「神功皇后は2月より6月まで此の常宮に留まり給い、6月中の卯の日に海路日本海を御渡りになり、山口県豊浦の宮にて天皇と御再開あそばせ給うた。」とある。

また気比神宮の奥宮である常宮神社の由緒によれば、神功皇后には二人の御子がいたとされる。応神天皇とされる誉田別命は有名だが「日本書紀」によれば、大酒主の娘、弟媛の子であるとされる誉屋別命が、実は神功皇后の御子であるという。「日本書紀」においては、ただ一か所記されている誉屋別命であるから、早くに亡くなったものだと云われている。

もしもこの誉屋別命が神功皇后の御子であり、早くに死んだとするならば、常宮神社に籠ったとされる神功皇后は、その悲しみの果ての行為であったのかもしれない。

ところで気比神の気比(けひ)とは、ウィキペディアなどによれば「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようであるとされている。しかしここでもう一つの「けひ」を考えてみたい。それは「誓約(うけひ)」の「けひ」では無かったのか?という事だ。例えば、気比神宮には「御誓祭(みちかいまつり)」というのがある。誓いとは、いわば誓約(うけひ)だ。

「誓祭 旧暦二月六日 社記伝仲哀天皇御字二年二月六日此地ニ行宮ヲ興テ
居之同日自ラ笥飯大神ヲ拝参シ玉ヒ反賊退治ノ事ヲ祈リ且ツ天皇深ク此地ヲ
愛慕シ玉フヲ以テ永ク皇居ヲ此地ニ定メ玉ハントノニ事ヲ誓ヒ玉ヘリ故ニ本
日神事ヲ修業シ号ケテ誓祭と伝」(敦賀郡神社誌)



これは神功皇后が、此の地に逃げ延び離れたくないというのを仲哀天皇が、それではこの地に皇居を持ってこようという気持ちの表れの誓いであり、つまりこれほどまでに仲哀天皇は、神功皇后を愛していたのだという証であった。また神功皇后自身も、この地に来たのは何かの誓いをもってきたのかもしれない。それは、名前だと考える。

名前とは霊魂に付けられるもので、人間の生存にとっては極めて重要なものと考えられていたようだ。特に生れたての子供はいつ他界に引き込まれるかわからない為に、すぐに名前を付けなければならなかったようだ。また名前を付ける人も重要であり、両親や祖父母だけでなく、村の長老や神官・僧侶・産婆などが付ける場合もままあった。

そしてまた家長を相続するものは代々、同じ漢字を一つ付けるというものがある。それは"その後を継ぐ"という意志の表れでもあった。しかし後を継いだ者が亡くなると、次の者が名を継ぐ。そして亡くなった者の名は返され、そして正式な名前である諱(いみな)が公然と知られるようになる。しかし死んだ者が成人を迎える前であった場合、幼名ならば、あくまでも幼名で終わってしまう。

ここで考えられるのは、気比神宮の奥宮に籠った神功皇后は、死んだ誉屋別命の名を一旦気比大神に預け、次の子である誉田別命が成人するまで仮の名として神の名である伊奢沙和気という名を借りたのではと考える。恐らく神功皇后は「記紀」によれば、神懸りの場面が度々ある事から幼少時から頻繁に神懸りする女性では無かったのだろうか。つまり神に仕える身であるから、身籠った我が子の名はやはり信仰する神から授かったものだと思う。その我が子である長男であろう誉屋別命が死に、次の子供が"強くあるように"一旦、神の名を借りたのだと思う。誉屋別命と誉田別命と一字違うのは、次男である誉田別命が長男の意志を継いだという意味にも考えられる。そしてそこには、神と神功皇后の間で、何かの誓約があったのではなかろうか?成人したからこそ、気比大神と名前を交換したのは、一旦借りていた名前を気比神に反し、兄である名前の一字を継いで"誉田別命"と名乗ったのだと考えてしまう。

だからこそ誉田別命が成人される頃、武内宿禰を伴い、若狭国の気比神を参詣した。そして若狭から戻ると、祝の宴が用意されており、そこで神功皇后は御神酒を勧め、御歌を賜った。


  
  この神酒は吾が神酒ならず。  

  酒の司、常世にいます 石立たす 少御神の

  豊祷ぎ祷ぎもとほし、神祷ぎ祷ぎくるほし、

  祭り来し神酒ぞ。乾さず食せ。ささ


この歌は、今は亡き常世にいる兄と共に成人の祝いを歌ったものと考えてしまう。

ところで仲哀天皇が倒れた後、神功皇后の活躍により応神天皇の時代になり変わった事がある。実は崇神朝となって以来、ずっと日高見国を攻めていた大和朝廷が、何故か応神天皇の時代になってから雄略天皇の即位するまでの250年間、一度も日高見国に軍を差し向けていない。また間の雄略天皇を省けば、応神天皇の時代から約450年もの間、日高見国…蝦夷国を攻めていない。

ここで気になるのはやはり、神功皇后が気比神と誓約をしたとしたなら、どういう誓約をしたのかだ。憶測になるが、日高見国との誓約があったのではと考える。気になる伝承に、応神天皇は贈られた8頭の馬を主力とし、旧王朝を倒したというものがある。つまりこれを日高見国である蝦夷から贈られた馬であるならば納得するのだ。つまり神功皇后と蝦夷との間で気比大神を通して誓約があり、崇神天皇時代から続いていた日高見国の侵略をやめるというものではなかったのか?

「日本書紀」には「応神冬10月」に「伊豆國に科て、船を造らしむ。長さ十丈…。」とある。この伊豆という地域は当時、東国であり、蝦夷の国でもあった。突然に造船を蝦夷の国に頼む筈が無い。つまりそれ以前から、蝦夷の国との交流があったからこそだと思う。となれば、神功皇后の三韓征伐においては、大船団を組んだ。その造船には当然、蝦夷の国との交流があり、その船は蝦夷の国で造られたものではなかったのか?と考えてしまう。

気比(けひ)を誓約(うけひ)では無いかと書いたけれど、例えば日本には略する言葉というのがあって、こういう考えに至った。例えば彌彦神社は「やひこ神社」と呼ばれるが、本来は「いやひこ神社」であるよう。れは例えば「イヤダ!」が「ヤダ!」という省略形か?などと思ってみたり。頭が省略される言葉は、いくつか思い当たるので、もしかして「気比」も本来は「誓約」から来ているのではという思いつきでもあった。
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とにかく気比神の姿がよくわからない。本来は伊奢沙別命であるとされているが、この伊奢沙別命(いざさわけ)の名前の説に天日矛が朝廷に献上した宝物の中に胆狭浅(いささ)太刀から名付けられたという説があり、となればやはり鉄に関する神でもある為、タタラに通じる風の神とも結び付く。

また気比神宮の祭に男神である気比神宮の神が、女神である常宮神社の神に船を乗り継いで逢いに行く、総参祭というのがある。気比神宮の奥宮である常宮神社に古くから祀られる神は、天八百萬比咩(あめのやおよろずひめのみこと)になっているが現在は、神功皇后に逢いに行く祭として定着しているようだ。ただし写真で見る限り、この総参祭というものは宗像の「みあれ祭」のようでもある。宗像のみあれ祭でも本来は、白い布な゛をたなびかせて海を渡るといもの。実はこの白い布であり、白い紙が神を依り憑かせるものでもある。

画像は、遠野の雨風祭の人形だが、人形の周りに沢山の白い紙がたなびいているのもまた、神を依り憑かせる為のものであるからだ。こういう布や紙を掲げるとうものは、あくまで風を意識してのものである。つまり風が吹いてこその、雨風祭の人形である。

つまり気比神宮から船に乗って女神に逢いに行くという行為とは、船で進む事によって受ける風を白い布に依り憑かせるというもので、気比神宮の奥宮である常宮神社に坐す天八百萬比咩は、養蚕の神でありながら、海の神、風の神でもあるのだろう。
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神功皇后にまつわる伝承の多くには、船に乗ってのものが多い。船を操る海洋民にとって、風は大きな意味を持つ。九州に伝わる傀儡舞の舞には、霊鎮めが篭っているというのは、ひとえに風の霊を鎮めるというものも含まれているのだろう。海洋民においても、農民にとっても、悪しき風は鎮めなければならないからだ。しかしまた逆に風を自在に操るのは海洋民で無くてはならない。

細男舞、もしくは磯良舞と呼ばれるものがある。安曇磯良神が神功皇后三韓征伐の折に、その水先案内に立ち、海中より浮き上がった時に舞ったと伝えられる舞が、磯良舞であり、細男舞だ。これはやはり、風に関係する舞であったのだろう。

そして気になるのが「神功皇后が天皇に神威を垂れ給うた神の名を請はれると先ず”神風の伊勢の国の、折鈴の五十鈴宮に居る神、撞賢木厳之御霊天疎向津媛命”…以下の神名が告げられ、最後に”日向国橘小門の水底にゐて、水葉も雅やかに出でゐる神、名は表筒男・中筒男・底筒男神有す”」とある。ここでも神功皇后は、風の神を意識している。この撞賢木厳之御霊天疎向津媛命と気比神が結び付くのかはわからないが、神功皇后の生れた地は気比神の信仰圏内であり、神功皇后自身が気比神宮の奥宮に籠るというのは、それ相応の思い入れがあったのだろう。その風の神でもある気比神をさて置いて、撞賢木厳之御霊天疎向津媛命の名前を筆頭に呼ぶというのは、同神の可能性もあるのではなかろうか?これら風の神が、遠野まで伝えられ雨風祭として定着したものと考える。
by dostoev | 2011-02-21 19:02 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(2)

「遠野物語107(朝日巫女伝説)」

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上郷村に河だちのうちと云う家あり。早瀬川の岸に在り。
此家の若き娘、ある日河原に出てゝ石を拾ひてありしに、
見馴れぬ男来り、木の葉とか何とかを娘にくれたり。

又高く面朱のやうなる人なり。娘は此日より占いの術を
得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなり
と云へり。

                      「遠野物語107話」

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「遠野物語107」では朝日巫女という名前は出てこないが、この辺りの地域の人々にとって、この話は朝日巫女を語るものだという認識がある。ところで、この辺に語り継がれる朝日巫女の話は別にある。それを紹介したい。



昔、平の原部落の黄金地に犬亦家という長者がいた。

跡継ぎの子供達も成長し、不自由の無い生活をしていたが、更に一つの
願いは女の子が欲しいという事だった。ちょうど平倉部落の平次郎家に
可愛い3歳ばかりの女の子がおり、平次郎殿に事情を話して貰い受け、
家内中で我が子同様に大事に育てて明るい暮らしをしておったそうな。

その子も12、13歳に成長して利口で綺麗な娘になったという。ある日の
事、突然その女の子が姿を消したので、犬亦家は勿論、村中大騒ぎとな
り八方探したけど消息がわからず、皆ががっかりしていた。

10年も経ったある日、突然娘は美しい娘に成長して犬亦家に帰ってきた。
家族は皆大喜びで娘を迎え入れ、消息を尋ねると、神様の導きで巫女の
修行をして霊力を会得し巫女の免許を与えられて帰って来たのだという。

それ以来、部落の人達の吉凶を占っては喜ばれていたそうな。後年にな
り、細越部落の清水川の岩舟に庵を建てて住み、近隣の人々の出来事
を予言し災難を祓っていたのだそうである。

宝冶元年(1247)6月「白鬚の大水」と後年言われた大洪水が数日続き、
早瀬川は氾濫して平ら原部落、平倉部落の家も耕地も今にも呑み込まれ
そうな危険な状態となっていた。

その時、朝日巫女は岩舟の岩上に立ち、呪文を唱えて扇子を以って岩舟
の岩石の方に濁流を導き寄せ、現在の川筋に変えたと云われる。今でも
部落民から、その霊力の偉大さを語り継がれている。

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後年、明治45年に平倉、平の原部落の若者達が田植え踊りの花銭で、平の原部落の黄金地に朝日神と記した大きな自然石の供養塔を建て、毎年3月3日には部落民が寄り合って供養するようになった。朝日神の碑の石材は赤羽根峠のにあった天然石であり、最初は早瀬川岸に建立するも2度ほど移転し、現在は字平の原黄金口の道路側にあり、毎年の3月3日に部落民が参拝しているという。
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また細越部落の清水川の細川氏の山林の中に、朝日巫女の墓があって、今でも細川家と古川家ではお盆には清掃して供物を供えて供養している。この朝日巫女の墓までは、この朝日巫女の為だけの道が開かれており、墓は山林の高い位置にあり、朝日巫女だけの墓が、一つだけ屹立している。この墓は、この辺一帯を見守るように鎮座している。
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平次郎家では、大正のころに病人やら災難が続き、遠野町のお仲巫女に行き占ってもらうと、貴方の家には先祖に巫女をした人があり、この巫女の主神はお稲荷様であるのでお稲荷神社の祠を建立し、供養して欲しいと言っているというお告げをもらったという。一族と相談し、朝日巫女の供養塔のあった平倉の大林前の山畑に稲荷神社を祠を建立し、一族皆で毎年11月14日(巫女の免許を取った日)には供物を供えて拝むようになり、その後は災難も止むようになったという事である。

朝日巫女が巫女を習得した地とは羽黒だとも二荒山だともいうが、定かではない。
by dostoev | 2010-12-07 07:57 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)

「遠野物語103(雪女)」

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小正月の夜、又は小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でゝ遊ぶ
とも云ふ。童子をあまた引連れて来ると云へり。

里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になるこ
とあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるゝは常のこ
となり。されど雪女を見たりと云ふ者は少なし。

                                   「遠野物語103」

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戒めの言葉の通常は「モウコが来る」という言葉だった。このモウコは、狼を表す。しかし昔、冬場の狼は比較的雪の少ない沿岸部へ異動し、鹿を襲っていたようで、遠野においての冬場には、代りに「雪女が来る」と言っていたのかもしれない。また15日に限りと限定されているのは、15日の小正月にはいろいろ行事があり、早くに家族が集まる必要性があった為の限定戒めだったのかも。

ところで雪女は美人という定説があるが、これは色白=美人という定義に則ってのものであろうが、童子をあまた連れてくるというのは、もしかしてそれは木の精なのかもしれない。

雪の降る日に、村のみんなでチョウナを持って千丁木を切りに行った。次の日
いってみると、むいて積んであった木の皮が元通りになっている。そんなことが
何日も続いたので村の長老が泊り込んで様子を見ると、夜中の12時過ぎに、
木の精が枝にたくさん群がって、皮を燃やされたら困るとか、コッパを燃やされ
なければいいな、などといっていた。それを聞いた長老は、次の日には皮をはぎ、
コッパを燃やした。晩になって帰り、千丁木のほうを見たら、木の精がクリスマス
ツリーのように群がっていた。

                                     「山梨の伝説」


上記の話は、山梨に伝わる話であるが、木の精のあまた群がる様子が描写されている。元々雪女は、山ノ神とも重複して伝わるものであるから、山の神の使いとして、山に生えている木の精が童子の姿であらわれているのかもしれない。西洋になれば、小人が精霊の姿として現れ、精霊のような小さな者達を現す場合の大抵は小人であり、日本国内になれば童子となる。

また、山は雪に覆われ閉ざされた世界となり、雪が無い自分は人々は山を往来し、山での怪異に遭遇するのだが、冬場に山へ行く者達は、殆どいない。その代わりに山の霊達が里に降りて来るのだろう。

山ノ神は春になると、里に降りて、田の神と変化する。精霊なるものは縦横無尽に、山と里を往来しているのだ。季節の変わり目に現れる精霊であるから、別に歳神とも呼ばれ、季節感を表す為の存在ともなっているのだろう。
by dostoev | 2010-12-06 09:21 | 「遠野物語考」100話~ | Comments(0)