遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語考」70話~( 10 )

「遠野物語75(魔界の入り口)」

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離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。其小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪へざる故、終に工場を大字山口に移したり。其後又同じ山中に枕木伐出の為に小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者何れへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあること屡なり。かゝる人夫四五人もありて其後も絶えず何方へか出でゝ行くことありき。此者どもが後に言ふを聞けば、女が来て何処へか連れ出すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずと云へり。

                                                        「遠野物語75」

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「注釈遠野物語」によれば、礼七という男が郡境の"山音ス場"と云ふ深林に入り込んでマッチの軸木か何かの材料を製材していた事が分かっている。また別に"つけ木"というマッチの無い時代に火を移す為の木片を作っていたとの証言がある。現代で工場と言えば、大規模な建物をイメージするが、これはどうも家内工業程度のものであろう。それも現地調達、現地加工が可能な場所、ただし輸送は不便な場所で密かに行っていたのだろう。
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また、この琴畑渓流沿いが明治三十八年に雑木林が伐採され、檜が植林されているのが大規模な開発であったという事は、「遠野物語拾遺119」に繋がるものである。「遠野物語拾遺119」では木流しという仕事が登場するが、川に木を流して輸送する場合「材木流下届」というものが必要であったようだ。逆に言えば、明治三十八年以前は、この辺はまだ未開の地であったという事だろう。となればやはり「遠野物語拾遺119」での神業とは、聖地が荒らされた為の神の怒りであったか。

この一連の出来事は「遠野物語」に登場するマヨヒガの話の舞台である。朱塗りの椀が流れて来たのが、この琴畑渓流であり、これから上の山にかけてが遠野物語全体に広がる不思議の舞台であった。
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ところで、男を誘う女とはいったい何であろうか?西洋には、男を誘う妖魔が多い。例えばギリシア神話のラミアは寝ている男を誘惑し子供を産んで、それを喰らうとも云われる。また、サキュバスに似たリリスは女の夢魔であり、悪魔を産んで増やす為に、人間の男を誘惑すると云う。また俗説では、誘われて行為に及んだ男達は、それを忘れるとされ、まさに「遠野物語75」に登場する、男を誘う女とは夢魔リリスのようでもある。

しかし現実はどうかと考えても、町外れの山とは違い、山の奥である長者屋敷近辺に遊女がいたとは考え辛く、普通に魔物の類と考えた方が無難かもしれない。これが山口部落から登る峠の途中であれば、まだ女が登場する可能性があるが、琴畑の奥は、滅多に人が寄り付かない場所ではある。琴畑の集落の終点から、別の沢沿いの道の途中から山へと登ると、恩徳集落へと辿り着く。そこに早池峯山の遥拝所がある為、琴畑渓流沿いの道よりも、まだ人の往来はあるようだ。琴畑渓流沿いはマヨヒガの伝説で知られ、人の寝静まった夜のうちに背比べをする山の伝説などがあるなど、まるで人を寄せ付けない魔界への入り口の様な場所でもあった。
by dostoev | 2015-04-09 20:06 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(4)

「遠野物語71(邪宗)」

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此話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝ふることはあれども、互に厳重なる秘密を守り、其作法に就きては親にも子にも聊かたりとも知らしめず。又寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集りなり。其人の数も多からず。辷石たにえと云ふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈禱す。魔法まじなひを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。

                                                        「遠野物語71」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語70」で書いた様に、オコナイは仏教の行法一般を意味する言葉であった。平安時代の半ば辺りから、密教寺院において、修正会・修二会といわれる年頭、あるいは二月初めの天下泰平・五穀豊穣の祈願行事が発達すると、このオコナイという言葉が行事の別名となって全国に普及したようである。しかし、密教である天台・真言は鎌倉仏教の普及により衰退し、それと共にオコナイも衰退した。それでも後醍醐天皇が真言宗立川流に夢中になったように、呪術的な密教系は密かに信仰されていたようだ。

土渕の常堅寺もまた当初は天台宗であり、途中で真言宗に推移したようだが、決定的なのは江戸時代になってからであろう。徳川幕府は曹洞宗を採用し、密教系を邪宗扱いし、特に真言立川流は徹底した弾圧を受けた。遠野もそういう影響があったのだろうか、過去に密教系寺院が延命の為に曹洞宗に改宗するなどしたのだろう。つまり、オコナイは平安時代に発生したものだが、江戸時代になり邪宗扱いとなった為、隠れキリシタンのように密かに、その信仰を伝え続けたのではないか。

家の中でオクナイサマを信仰し、それとは別に隠し念仏を行っていたと考えるよりも、オクナイサマと隠し念仏が一体であったと考えた方が自然ではないか。密教寺院が無くなった時代「寺とも僧とも関係はなくて…。」とは、そういう事であろう。ちなみに昭和の時代となって、真言宗の福泉寺が建立された為、密教系寺院は遠野で唯一福泉寺だけとなる。また、最近となって他地域から移り住んだ某氏が死去したが、宗派が天台宗であり、菩提寺が福島県であった為に家族が難色を示し、天台宗から曹洞宗へと改宗してしまった。江戸時代となり切支丹が御法度となり、宣教師が国外へ出された為、残った切支丹信者達は見よう見真似で、切支丹を信仰していたが、それは本来のキリスト教信者にとっては紛い物とされた。信仰を導く宣教師や僧がいなくなれば、土着的な要素が多分に入り込み、本来の信仰とは違ったものとなり、それは信仰を離れ、地域信仰・習俗と化したのが、オクナイサマであり、隠し念仏なのだと考える。
by dostoev | 2014-11-21 18:51 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語70(オクナイサマ)」

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同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマの在る家には必ず伴ひて在す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみ在る家もあり。又家によりて神の像も同じからず。山口の大同に在るオクナイサマは木像なり。山口の辷石たにえと云ふ人の家なるは掛軸なり。田圃のうちにいませるは亦木像なり。飯豊の大同にもオシラサマは無けれどオクナイサマのみはいませりと云ふ。

                                                        「遠野物語70」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
オクナイサマは、形がオシラサマと似通っている棒状のものと、そうでないものがある。また、オクナイサマはオコナイサマとも云われている。佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサ」では、山形のオコナイサマとは「御宮内様」の事であると記している。その山形の御宮内様とは、宮内の者が6尺の竿で検地をした筈が、実は6尺3寸の竿であった為、削られると思った土地が助かった農民達が喜びの余り、その6尺3寸の竿を細切れにして、各家で神として祀ったのがオコナイサマであると。しかしそれは、紛れもないオシラサマであろうとしている。

しかし「オコナイ」という言葉は、かなり古くからあり、「日本書紀(天智天皇記)」「吉野に之りて、修行佛道(オコナイ)せむと講したまふ。」記しているが、元々オコナイとは仏教の行法一般を意味する言葉であった。恐らく、その行法に対して偶像が組み込まれ、その偶像が屋内で祀られた事からオクナイサマとも呼ぶようになったのではなかろうか。キリスト教もそうだが、偶像崇拝禁止でありながら異民族にキリスト教を布教する場合、形が無いと信仰心が生じない為に、イエス・キリストと一体になった十字架などを偶像とした。オコナイサマ・オクナイサマも、初めに信仰が入り込んで、それに合わせた偶像が設定された為に、棒状のオシラサマ型であったり、仏像型になったのではなかろうか。そしてまた掛軸型があるのはやはり、オクナイサマそのものが行法を主体とした言葉であった為に、いかに日々信心するかを重要視したので、神像であれ仏像であれ、掛軸だとしても問題は無かったのだろう。
by dostoev | 2014-11-21 17:49 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語73(恐ろしいカクラサマ)」

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カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あり。栃内の字西内にもあり。山口分の大洞と云ふ所にもあしことを記憶する者あり。カクラサマは人の之を信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣装頭の飾の有様も不分明なり。

                                                        「遠野物語73」

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佐々木喜善「遠野雑記」では「不思議なるは、栃内村字米通路傍の森の中に在すカクラサマは、全く陰茎形の石神なることなり。然れども未だ彼のオコマサマの如く、男女の愛情其の他の祈願にて、このカクラサマに参詣したり等の話を聞きたることなし。」これら佐々木喜善の報告から柳田國男も、カクラサマとは道祖神の類であるのかと考えたのだろう。男女並ぶその姿は、猿田彦と鈿女の夫婦神として意識したのだろう。

しかし伊能嘉矩「遠野くさぐさ」では「積善寺境内に当たる所に一溝ありて、大鶴堰と云ふ。蓋し大鶴(タイカク)はオカクの転にて、オカクラサマの略さられに非じか。即ちこゝにオカクラサマの鎮まりしより、土名となりけんことうつなし。」

以前、「不気味な人形」で大鶴堰の事を書いたが、それは鶯崎方面の堰の話だが、廃寺となった積善寺は会下の十王堂から来内にかけての広大な敷地にあった天台宗の寺であった。その敷地内にも大鶴堰はあったとは知らなかった。もしかして「不気味な人形」の話の場所も、積善寺境内内であったろうか?確かに「不気味な人形」の舞台は、物見山の麓とある。それは積善寺境内であるなら納得するのだ。そしてカクラサマがもしも堰神様とも関係があるなら、恐ろしい想定が成されてしまう。
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「遠野物語拾遺28」では「昔から人身御供は男蝶女蝶の揃うべきものであるから」として、娘とその婿が人柱となった。これは悲哀物語として、今でも語られる話であるが、それは人柱の話の中でも、人の心を惹きつける話であったからだ。そして、もう一つ気になったのはカクラサマについて「遠野古事記」では「此仏像を児童等戯に縄を結び引き廻せし。」と記されている。この描写を単なる子供の遊びと捉えるか、もしくは罪人の引き回しの刑と捉えるかで内容がガラリと変わる。例えば、「遠野物語拾遺27(盲神)」では、盲人の旅人が夫婦で身投げし盲神として祀られた。また、陸前高田横田町の舞出神社では、遠野の上郷から流れ着いた娘が人柱の犠牲になっている。また柳田國男は妬みの橋姫をこう言い表している。「橋姫とは橋の一端に奉安した境神であり、元々は男女二柱の神であるが故にネタミ深く、容易に人を近付けない性格を有する。」橋姫が鬼になった理由は、叶えられぬ恋心からである。本来結びつくべきが結ばれぬ為、独り取り残され嫉妬し「可愛さ余って憎さ百倍」という負の感情に呑込まれた為だった。嫉妬の語源となる妬みは"ネタシ"という形容詞であり、内容は水の霊の冒涜、もしくは、その命令に対する不従順をひっくるめての言葉である。水には、負の要素を受け入れる土壌があるという事だろう。

カクラ堂であり、カクラ神社の殆どが村外れの川から離れた高台に位置しているのは、母也明神がやはり川から離れた高台に祀られているのと同じではなかろうか。現実的には、川傍に祀られた場合、川の氾濫によって社が流されれば不合理である為という理由。そして、高台であれば、その基点となる川を見下ろし続ける事ができる利点があるからだろう。小松和彦「異人論」では、全国の盲人や琵琶法師などを祀る社があるが、その祀る村では"昔、旅の琵琶法師が村を救ってくれた。"だからその後に神として祀ったとしているが、実際は貧しい村を訪れた旅人が殺されたが、その祟りを恐れて神として祀ったものが多いとしている。「遠野物語拾遺28(母也明神)」もまた、悲哀物語として語られるが姑と村人のエゴが際立つ理不尽な話である。カクラサマが男女二対となっているのは、もしかして母也明神のように理不尽の元に死んでいった男女二人を祀った可能性があるかもしれない。ただし、その多くが罪人であった可能性は、カクラサマが紐によって結ばれ引き回されるという市中引き回しの刑を想起させる事である。

アイヌ語で来内(ライナイ)とは"死の谷"という意味である。実際、現在の来内ダムのある辺りは「けっころがし沢」と言って、高台から罪人を刀で斬り、蹴とばして谷底に落とす処刑場であった。ただし生きて谷から這い上がれば無罪放免となったらしい。積善寺はその"けっころがし沢"とは、目と鼻の先である。公な処刑場は宮目であり、現在の風の丘から見渡せる猿ヶ石川の畔であった。しかし、全ての処刑を宮目でやったわけではなく、七ヶ町村であった遠野郷は、その地域ごとに処刑場を設けていて、その処刑は地域に任せていたらしい。上郷町では、女に振られた嫉妬から、その女を貶めて罪人とし処刑して祟られた話が伝わる。宮目で処刑された女は「この地域の大根を腐らせてやる。」と叫んで殺されたという。どんな形であれ、罪人には怨みや呪いの心が纏わりつくものである。「遠野物語74」で書いたが、半身像という形は、人の罪であり業の深さを意味し、半分に引き裂かれた意味を持たないだろうか?という半分の意味は、神として殺された者の業を引き裂いだという意味合いである。佐々木喜善の「カクラサマは人の之を信仰する者なし。」とは、オシラサマが屋内で祀られ毎年恒例のオシラアソベやらオセンダクをされるのと対局で、触らぬ神に祟り無しがカクラサマではなかったのか?ただカクラサマに触れるのは、神の子の内である子供達だけであったと。「不気味な人形」で紹介した話が、その人形が呼んだ声によってきた大人が触れてから、気性が変わってしまい罪人になる。それはつまり、人形そのものに罪人の魂が入り込んでいて、その罪人の魂が別の人間に憑依したという事。その場所が大鶴堰であるのは、それがカクラサマの魂であったからだろう。それはつまり、カクラサマとされた神は、罪人として川に鎮められた人柱では無かったのだろうか。
by dostoev | 2014-10-26 20:29 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(5)

「遠野物語74(堕天使?)」

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栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。何れのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無格好なるもの也。されど人の顔なりと云ふことだけは分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、其地に常います神をかく唱ふることゝなれり。

                                                        「遠野物語74」

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画像の様にカクラサマは、確かに半神像となっている。この摩耗ぶりは「遠野物語72」に記されている様に、子供の遊び道具にもなったせいだろうか。柳田國男「奥州のカクラサマは路傍の神には珍しい木像である。しかとは判らぬが円頭の御姿であった。地蔵の一族でないまでも、其外戚の道祖神の姿を彷彿とさせる。」というように、カクラサマを道祖神と同じとみている。遠野郷にカクラ神社と名が付く神社はいくつかあるが、確かに集落の入り口であったり外れに鎮座している事から、道祖神に近いのだろうか。カクラは神楽や神坐とも書き記す事から、神の集まる意を持ち得るとは思う。しかし、ここで一つの疑念が生じる。確かに村の辺境は境界である為に、道祖神であったり様々な神名が刻まれた石碑が置かれるのは、別に霊界と繋がっている意識下にある。道祖神であり石碑は石造りである為に、雨風にも晒されても半永久的に残るものだ。それならば、カクラサマそのものも石造りにして置けば良いものを、わざわざ木彫りとして社を建てて祀るというのは、ある意味人間を祀るに等しいのではなかろうか。

半身像でフト思い出したのは、西洋のアンドロギュヌス像である。昔、男と女は一体の完全体であった為、驕り高ぶり神の怒りに触れて、真っ二つにされてしまった。その事から、自らの半身を求める様に男は女を、女は男を求める様になったとの神話がある。またギリシア神話では、ミノス王が海神を騙した為に、その報いとして王妃パシファエは聖牛に恋をして孕み、生まれたのが半人半牛のミノタウロスだった。それはつまり、半身像という形は、人の罪であり業の深さを意味し、半分に引き裂かれた意味を持たないだろうか?

佐々木喜善「この神はオシラ神とは、全く反対の性質を持ち居給ふが如し。オシラ神の民家、屋内以外の処に無きが如く、この神は決して家屋内又は堂社等にある事無し。形態に於いても霊験に於いても二神は遂に全く相違す。」と述べている。つまり似ていながら対極にあるのが、このカクラサマなのだろう。対極の構図は、神道であるなら高天原と黄泉国であり、仏教であれば極楽浄土と地獄。これが西洋となれば、天国と地獄に相当する。オシラサマに関しては、今でも語り部のレパートリーとなって、娘と馬の悲哀物語として語られるのだが、その対極のカクラサマは語られる事の無い存在である。

伊能嘉矩「遠野くさぐさ」では「野外に於ける一種の神にカクラサマと呼ぶあり。木造の半身像にて、多くは荒削りに形つくられ、男女二体より成り。是れ太古八百万の神々の中にて剰れる神にまし此神より除外されたまひしなりと。」つまり、西洋で云えば堕天使となるのがカクラサマという事か?

このカクラサマに関しては、もう少し調査が必要だろう。オシマサマばかりに目が向けられているが、そのオシラサマの対極にあるこのカクラサマには、深い闇を感じてしまう。
by dostoev | 2014-10-25 21:52 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語72(仏像の祟り)」

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栃内村の字琴畑は深山の沢に在り。家の数は五軒ばかり。小烏瀬川の支流の水上なり。此より栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中に在りしが、今は雨ざらし也。之をカクラサマと云ふ。村の子供之を玩物にし、引き出して川へ投げ入れ又路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬやうになれり。或は子供を叱り戒めて之を制止する者あれば、却りて祟を受け病むことありと云へり。

                                  「遠野物語72」

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画像は、そのカクラサマのあった琴畑の塚であり、祀ってあった社も残骸だけとなってしまった。カクラサマの詳細は、次の「遠野物語73」で書く事にするが、ここでは叱った大人の方が祟られる話をしよう。

これと似た様な話が「遠野物語拾遺51~55」で紹介されているが、「遠野物語72」と同じ話が「遠野物語拾遺55」となる。
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【手負蛇】

東武の東在所の「さかたい」という村で稲荷の宮を建てた時の事である。地を掘っていたところ、長さ一尺ばかりの蛇を彫り出した。子供がたくさん集まって、この蛇を捕え石の上で小刀にて二三寸ずつに切り、竹の串に刺してもてあそんだ。村長がこの所を通りかかり、この様子を見て大いに恐れたが、その夜、一丈ばかりの蛇が村長の寝間に入り来て枕元で息をついていた。村長は大いに驚き、人を呼んで追い出させたが、他の者の目には蛇の姿が見えなかった。それ以来、村長は病となり久しく患ったが、医療を受けた後にやがて癒えた。しかし、子供らの家には蛇の祟りは少しも無かった。これは、村長が恐ろしいと感じたため、それに応じて蛇の念が来たのである。求めなければ鬼神といえども来ることはないのである。
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こうして「手負蛇」の話を読むと、仏像が叱った大人の方を祟る話と同じである事がわかる。子供は仏像を単なる玩具として見ていたが、大人にとっては、仏罰、神罰、祟りという事が頭に過ったのだろう。「病は気から」と言うように、祟りを意識した大人が無意識に祟りを自らに呼び込んで病となったという事だろう。B級SFホラー映画「恐怖の惑星」に、こういうセリフがあった。

「恐怖は、勇気の無い者の心の中に忍び込む。」

まったく仏像も蛇も玩具だとしか思わない子供は、そういうモノを跳ね返したのだが、祟りを意識して恐怖してしまった大人が、自然とそういうものを、自らの意識に取り込んだ為の話であったのだろう。ある意味、変に知識や見識が増えると、こういう事に陥り易いという例え話でもあろうか。
by dostoev | 2014-04-03 19:25 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語78(来訪神)」

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同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。曾て夜遊びに出でゝ遅くかへり来たりしに、主人の家の門は大槌往環に向ひて立てるが、この門の前にて浜の方より来る人に逢へり。雪合羽を著たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみて之を見たるに、往還を隔てゝ向側なる畠地の方へすつと反れて行きたり。かしこには垣根ありし筈なるにと思ひて、よく見れば垣根は正しくあり。急に恐ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、此と同じ時刻に新張村の何某と云ふ者、浜よりの帰り途に馬より落ちて死したりとのことなり。

                                  「遠野物語78」

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田尻家での幽霊騒動は、かなりあったという。ここで登場しているのは雪合羽を来た人物が、幽霊ではないかとされている。合羽や蓑笠の格好、または深編笠を被った虚無僧の格好などは、その人也の顔が見えない為に不気味に感じるものだ。罪人や隠密行動をとる者にとっての格好のアイテムが蓑笠であり、深編笠を被る虚無僧の姿である。

小松和彦「異人論」の中に「マレビトと蓑笠」の項があり、そこで蓑笠=祖霊という考えが語られている。確かに、秋田のナマハゲなども、蓑を身に纏った年に一度だけ訪れるマレビトである。ただナマハゲは霊というよりも、リアルな物の怪としてのイメージが強いだろう。笠こそ被ってはいないが、代わりに鬼面を被り、やはり顔を隠している。年に一度訪れるマレビトは御歳神とも捉え、蓑笠の衣装は「山に生きた人々の日常の姿」とされ、山神との結び付きがあるとの考えを示している。吉野裕子「蛇」でも御歳神に触れており、出雲の正月の歌を紹介している。

正月さん、正月さん、どこからお出でだ。三瓶の山から。
蓑笠着て、笠かべって、ことことお出でだ。


その他にもいろいろな事例を出し、その共通点を下記の三点としている。

1.一本足である。
2.海、または山から来る。
3.蓑笠を付けている。

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奇しくも、蛇を祀るとされている綾織から小友へ抜ける小友峠に鎮座する二郷神社の社殿には、笠こそ無いものの蓑が飾られている。社殿内部が竜蛇に関連するもので溢れているのが二郷神社であった。吉野裕子は御歳神は蛇であると考えているが、確かに出雲での来訪神は海蛇とされている。まあ、この「遠野物語78」での雪合羽を着た者が蛇であるとするわけではないが、姿を隠す合羽でありマレビトの衣装である蓑笠に対して、定住民は、どこかで恐怖の意識を抱いていたのではないかと考えている。

最後に新張村の者が浜よりの帰り道に馬から落ちて死んだと結んでいるのは、山で死んだ者が雪合羽を着て現れたと感じている事に注目したい。馬から落ちてとあるが、落馬なのか、それとも馬共々崖下に落ちたのかはわからない。

例えば「佐野円次郎家文書」には、小川新道で1824年(文政七年)八月十三日に大雨洪水があり、遠野馬八疋死と記録にある。これは大雨による道の崩壊事故によるものだったらしい。また、笛吹峠では広い道は馬で行き、細い道は牛で行ったと伝えられるが、現在の車が通れる広い道ではなく、昔は足を踏み外せば崖下に転落するような狭い峠が多かったようである。

人は死ぬと、魂は山へと昇るとされる山岳信仰は、遠野でも根付いていた。山で死んだ者は、そのまま山神に魂を委ねるのだが、その魂が具現化し、来訪神として里に降りて来る場合は、それは生身の人間では無くなっている。有る場合は蛇であり、ある場合はナマハゲのような恐ろしい鬼となっている場合もあったのだろう。誰でも着る筈の合羽であり蓑笠ではあるが、果たしてそれを身に付けた存在が生身の者では無いと知った時の恐ろしさが、この「遠野物語78」で語られているのだと思うのだ。
by dostoev | 2014-03-29 21:22 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語79話(怪しきモノ)」

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この長蔵の父をも亦長蔵と云ふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕
へてありき。若き頃夜遊びに出て、まだ宵のうちに帰り来り、門の口より入りし
に、洞前に立てる人影あり。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく
見えず。

妻は名を、おつねと云へり。おつねの所へ来たるヨバヒトでは無いかと思ひ、
つかゝと近よりしに、裏の方へは遁げずして、却つて右手の玄関の戸の方へ
寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懐手のまゝ後
ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり。

されど長蔵は猶不思議とも思はず、其戸の隙に手を差し入れて中を探らんと
せしに、中の障子は正しく閉ざしてあり。茲に始めて恐ろしくなり、少し引下ら
んとして上を見れば、今の男玄関の雲壁にひたと附きて我を見下す如く、其
首は低く垂れて我頭に触るゝばかりにて、其眼の球は尺余も、抜け出てゝあ
るやうに思はれたりと云う。 此時は只恐ろしかりしのみにて、何事の前兆に
ても非ざりき。

                                 「遠野物語79話」

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「遠野ことば」の中に「オドキギ」というものがある。「オドキギ」とは「音聞き」であり、新婚初夜の音を聞く役目の人の事をいう。昔は仲人などが、確かに”結婚”したのかどうか確かめる責任があったと云われる。現代でも、天皇家ではそうだという話を聞いた事があるかどうなのだろう…。現代と違い、昔は楽しみというものは少なかった。現代と違い”多趣味”という言葉は存在しなかったのだと思う。そんな楽しみの中で、性に関する話や行為は、楽しみの一つであったのだろう。だからこそ、夜這いやそれらに関する逸話が、多くの物語を形成しているのだろう。だから夫婦間だけの性だけでは無く、他の家の性事情に聞耳を立てる輩も多かったのだろう。

ただしこの「遠野物語79」に登場する覗いている者とは、体から”目の玉が尺余”も飛び出した妖怪みたいな存在だ。しかしだ、ここで考えたいのはドッペルゲンガーというもの。「遠野物語拾遺」には”ノリコシ”という影のような妖怪の類を紹介しているのだが、影とは実態があってこその存在。ノリコシも実は、その人の持つ恐怖や願望が具現化したものとも伝えられている。

性に対する関心が深かった昔も、こういったデバカメ的な覗きを意識している者達も多かったのかもしれない。ましてや惚れた妻であるならば、留守している間というものは、何かと不安が大きかったのだと考える。その愛する妻に対する不安要素がこういった物の怪的な存在を具現化させたのではないか?と考えてしまう。
by dostoev | 2010-12-09 11:38 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語77&23(門口の石)」

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【金子富之氏作品】

山口の田尻長三郎と云ふは土淵村一番の金持ちなり。当主なる老人の話に、
此人四十あまりの頃、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終
わり各帰り行きし跡に、自分のみは話好きなれば少しあとになりて立ち出でし
に、軒の雨落の石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて
死してあるやうなり。

月のある夜なれば其光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。此人大胆者に
て足にて揺かして見たれど少しも身じろぎせず。道を防げて外にせん方も無
ければ、終に之を跨ぎて家に帰りたり。

次の朝行きて見れば勿論其跡方も無く、又誰も外に之を見たりと云ふ人は無
かりしかど、その枕にしてありし石の形と在どころとは昨夜の見覚えの通りなり。

此人曰く、手を掛けて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければ唯足にて触れた
るのみなりし故、更に何物のわざとも思ひ付かずと。

                        「遠野物語77」

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この門口の石が登場する話は「遠野物語23」にもある…。

同じ人の二七日の逮夜に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱へ立帰
らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付正しく
亡くなりし人の通りなりき。此は数多の人見たる故に誰も疑はず。如何なる執
着のありしにや、終に知る人はなかりし也。

                         「遠野物語23」

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雨落ち石は通常、雨の雫がしたたり落ちる屋根の下に置くものであり、門口に置くという事は、まずありえない。すると「遠野物語23」「遠野物語77」での門口の石は幻想なのだろうか?遠野の新町の某所に住んでいた者は、毎晩幽霊に悩まされていたのだと。そこで、檀家である寺の住職に相談したところ、そこは霊の通り道であると告げられたという。

「遠野物語23」の話の舞台は、佐々木喜善の生家である。この喜善の家を挟む様に、デンデラ野とダンノハナがある。遠野での一般的に、ダンノハナとデンデラ野はセットである場合が多々ある。小友町でのデンデラ野とダンノハナの関係は、死者が出た場合ダンノハナで狼煙をあげて、デンデラ野へと死体を運んだのだという。つまり、ダンノハナからデンデラ野への道というものは、ある意味霊の通り道なのだと考える。

「遠野物語77」での葬式の場所は”おひで老人”の家となっているが、この”おひで老人”の家の場所はやはり、同じ山口部落内で、「遠野物語69」に登場する魔法に長けた婆様であり、佐々木喜善の祖母の姉の事である。やはりデンデラ野とダンノハナの間にある為、霊の通り道であったのかもしれない。それか、佐々木家の血筋が、そういうモノを見せたのだろうか?

ところで「遠野物語77」の視点は田尻長三郎のものであるが、「遠野物語23」の視点は、果たして誰の視点から見たものであろうか?思うにこれは、佐々木喜善の視点からの話だったのだろう。

佐々木喜善と会って話した本山桂川という人物が、喜善をこう評している…。

「喜善君は変わってはいたが、変人ではない。狂的なところがあったが狂人
ではない。瞬間的に幽霊かオシラサマ、ザシキワラシの話になると常人では
無くなった。彼は健康に恵まれ、意志が強かったら変人・奇人で通したろうが、
普通の生活では病弱の為か、その異常を抑えて周囲と妥協していた。」


恐らく「遠野物語23」における門口の石に座る老婆は、そういう喜善が見たものであろう。とにかく、霊が存在するか否かはさて置いて、迷信が深く信じられていた時代であれば、葬儀という人の死に接した後である為に、そういう幻想的な光景を見易い状況でもあった筈だ。ましてや門口の雨落しの石という非日常の物があったというだけで、もうその時点で、その時間は異次元世界となっていたのだろう…。
by dostoev | 2010-12-09 11:29 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(0)

「遠野物語76(長者屋敷と白望山)」

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長者屋敷は昔時長者の住みたりし址なりとて、其のあたりにも糠森と云ふ
山あり。長者の家の糠を捨てたるが成れるなりと云ふ。此山中には五つ葉
のうつ木ありて、其下に黄金を埋めてありとて、今も其うつぎの有処を求め
あるく者稀々にあり。

この長者は昔の金山師なりしならんか、此あたりには鉄を吹きたる滓あり。
恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。

                    「遠野物語76」

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遠野郷には長者の話が多いが、その地の特定がまだされていないのが現状でもある。この問題は、まず佐々木喜善が場所の確認をしないまま、話として紹介しているという事。また古来、「金」は「鉄」とも言われたという事。ところが長者という、いかにも金持ちらしい響きに「金」とくれば、当然黄金伝説となってしまう。

内藤正敏「聞き書き遠野物語」では、長者屋敷は琴畑から6キロほど登った道路際の、いかに平らな場所だったが、残念ながら鉄滓が落ちていたというころは、道路工事のためにけずられていて鉄滓を見つける事はできなかったとある。ところが実際は「長者屋敷」とは「屋鋪」であり、「鋪」とは鉱山の坑道の一区切りであり「屋鋪」とは、一つの建物を何軒かに区切った長屋の事であるという。つまり「長者屋敷」と云われたものは、鉱山を経営する長の下で働く人足の住む屋鋪であったのだと。そしてその云われる金山とは、黄金の採掘ではなく、鉄鉱石を採掘し製鉄、製錬する働く場所だったのだと。

実際は、新山に本当の長者屋鋪と呼ばれる跡があり、ここには津滓が層を成し積もっている。また別の炭焼き窯跡からの林道にも鉄滓がある。そう、白望山一帯は、金山ではなく鉄の山だった。白望山は信仰の山だったようで、地元の人々が集まり、白望山から「二十六夜様信仰」の石碑を見つけ出したのだという。その他にも「見真大師」と「南無阿弥陀仏」の碑を発見したのだという。古来、白望山を信仰する人々は旧暦の7月26日の夜に白望山に登り、海を拝んだのだと云う。
by dostoev | 2010-12-09 11:24 | 「遠野物語考」70話~ | Comments(17)