遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
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カテゴリ:「遠野物語考」60話~( 12 )

「遠野物語65(巌の女神と安倍氏)」

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早池峰は御影石の山なり。此山の小国に向きたる側に安倍ヶ城と云ふ岩あり。険しき崖の中程にありて、人などはとても行き得べき処に非ず。こゝには今でも安倍貞任の母住めりと言云ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆと云ふ。小国ね附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんと云ふ。

                                                        「遠野物語65」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず、早池峯は蛇紋岩の山で、御影石の山では無い。宮沢賢治は、早池峯の蛇紋岩に夢中になり、かなりの蛇紋岩を採集したという。

「注釈遠野物語」では、佐々木喜善は早池峯を御影石の音韻で包みたかったのかもしれないと書いているが「御影石の音韻」とは言い得て妙である。例えば「日本書紀」で伊邪那美は軻遇突智を産んだ時にホトを焼いて死んだのだが、そのホトを「御陰」と記している。「御陰」「御影」とも、女陰を意味する事から女神を意味し、早池峯に祀られる女神を彷彿させる。また「播磨風土記」での御陰大神が降り立った御陰神社には玉依姫が祀られる。これは、御陰大神という神名が、実は女神であるという意が含まれている。そういう意味を考えれば、早池峯は蛇紋岩ではなく、冒頭の「早池峰は御影石の山なり。」という言葉は、まさに早池峯とは女神が祀られている山であると暗に、そして意図的に紹介している気がするのである。
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安倍ヶ城は、麓から直接登るとなると大変であろうが、早池峯に登ったのなら、後は剣ヶ峰方面を尾根伝いに歩いて行けば、いずれ到着する場所でもある。一般庶民が山に登る様になったのは明治時代に西洋のアルピニズムの文化が入り込んだ以降である。しかし、遠野にその文化の流入したのは恐らく、半世紀は過ぎていただろう。つまり「遠野物語」が書かれた時代に山に登る一般庶民、まず居なかったであろう。それが何を意味するかというと、明治時代に霊山である早池峯に登る人間は、宗教者かマタギに限定されたのだと思う。つまり殆どの人間が、早池峯から安倍ヶ城へと行く経路をよくわかっていなかったのではなかろうか。

ところで「注釈遠野物語」では「安倍ヶ城の錠の音」を雷の音であろうとしている。これは「明日は雨ならんなど云ふ」文に続くのだが、雷の音を錠の音に見立てて、天気予報代わりにしているのだろうとの判断によるものだろう。しかし、遠野は思った程に雷は少ないのが気になる。ただ早池峰連峰の岩は脆くも崩れやすい蛇紋岩である為に、岩の崩落による音が雷の音に聞こえた可能性はあるだろう。そういう意味では、麓から直接安倍ヶ城に登るのは危険な行為となろう。
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安倍貞任の母が住むという安倍ヶ城とは別に、早池峯山頂から少し下ったところに、上の画像の「安倍窟」がある。戦に敗れた安倍貞任が三日間隠れ潜んだ窟だという伝説が残っている。安倍貞任に関係する岩などの伝説は多く、どうしても冒頭の「早池峰は御影石の山なり。」を意識せざる負えない。早池峯を信仰した安倍氏が、その早池峯の岩肌に守られる様な伝承が多い事から、安倍氏と早池峯の強い結び付きを感じる。蛇紋の名称より、御影の名称は神功皇后の頃まで遡る。澤之井という泉に神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」の名の起こりであるとされている。その御影の北に位置する六甲山に花崗岩が産出した事により御影石という名が付いたのだが、その御影石の算出した六甲山に祀られる神とは、早池峯の女神であった。その御影石を産出した御影町は、兵庫県武庫郡に属し、その武庫の港を武庫津といい、それは向津であり、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を意味するのだと。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは早池峯の女神の異称である事から、御影石の音韻に包まれるようという意図を佐々木喜善が持っていた事は、御影と早池峯の女神と安倍貞任の結び付きを知っての事であったろうか。
by dostoev | 2015-04-14 18:56 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語68(安倍屋敷)」

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土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈に館の址あり。八幡沢の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是なり。これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡沢の館の方に向へる峯にも亦一つの館址あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十余町を隔つ、矢戦をしたりと云ふ言伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝と云ふ部落あり。戦の当時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動揺せり。或時八幡太郎こゝを通りしに、敵味方何れの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るゝ小川を鳴川と云ふ。之を隔てゝ足洗川村あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ。

                                                        「遠野物語68」

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現在の遠野の町は17世紀の後半から人が住みだし、それ以前は光興寺の辺りにあったのは奥州藤原氏が滅ぼされ、阿曽沼氏が遠野を統治してからであった。それ以前の遠野の中心となれば、それはやはり土淵から附馬牛にかけてであっただろう。蝦夷の豪族安倍氏の伝説が多いのも土淵から附馬牛にかけてであり、似田貝に鎮座していた神明神社の変遷が九重沢から六日町へと移ったのも、それを裏付けるものだろう。
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「注釈遠野物語」によれば、安倍貞任の弟で頼時の六男、北浦六郎重任ともいう者がここに屋敷を構えた遺跡と伝えられているという。この地は昔から平らな土地で屯館ともいい、周囲には濠の跡があって、西側には的場があったようだ。屋敷全体は三つに分かれ、中心を屯館、西側が西門、東側を脇館と呼んでいた。そしてその敷地内には稲荷神社と狼神を祀る小さな社がある。この安倍屋敷の稲荷神社は恐ろしい神様で昔、村の若者が肝試しで泊ると、夜中にガタガタ揺れたり、寝ているとドーン!と投げ飛ばされたりして、朝まで無事に居た者は無いと云う。稲荷と狼で思い出すのが、金沢村だ。金沢村にもやはり安倍一族の伝承が、またある。前九年の役で敗れた安倍一族の小松太郎秀任と共に大槌へ逃れたうちの一人が金沢村に住み付いたと云われる。その金沢村で村民の総鎮守として氏子の崇敬する社が稲荷神社であり、その鎮座地を古舘と唱え、古舘稲荷とも称すのは安倍氏との関係があるのではとも云われる。また、金沢村で有名な祭にオイノ(狼)祭があり、金沢村には安倍氏と稲荷と狼がセットであるのが、この安倍屋敷と似通ってはいる。
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ところで河童狛犬がある常堅寺の並びに、この安倍屋敷がある。遠野で一番古い寺と呼ばれるのが常堅寺であり、現在は曹洞宗となっているが、当初は天台宗であった。常堅寺の山号が「蓮峰山」となっているのも、早池峯と関係している事の表れであろうか、早池峯を信仰した安倍氏との縁は深い。事実、常堅寺の歴史では、康平元年(1058年)、安倍貞任の弟である北浦六郎重任が天台宗鉄桐山常堅寺として創建されたとあり、当時は安倍氏の菩提寺と伝えられている。鉄と桐といえばマヨヒガを思い出してしまうが、安倍一族も採掘・治金に秀でた一族であったようだから、意外にマヨヒガとの関係もあるのかもしれない。
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この安倍屋敷の辺りから、八幡沢の館、もしくは八幡座と呼ばれる土渕と松崎を分断するように突き出した丘陵が見える。源義家が陣を置き、安倍氏と戦ったと云われるものと、源義家の家来であった大井実氏の居城であったとも伝えられる。その山中には、既に信仰が廃れてしまったかの不動尊の石碑が誰知る事無く佇んでいる。
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「亦一つの館址あり。」は、五日市館と呼ばれる小山で、今では観光パンフレットに記されている狐の関所のオブジェが建つ場所である。ここは、阿曽沼氏の家臣であった五日市氏の居館であったとされる。しかし、この五日市館からもまた早池峯がよく見える。安倍屋敷からも早池峯は北に聳え、先人である菊池氏と荻野氏が残した館調査書を読んでも、安倍館と云われる場所からは、早池峯がよく見えるという事だ。そういう意味から、五日市氏が館を築く以前に、安倍氏の館があった可能性もあるのではなかろうか。

今回は、安倍屋敷の話であったが、思い出されるのは先代の河童淵の主と呼ばれた、阿部与一さんだった。観光向けの河童淵傍に家がある為、観光客が来ると、どこからともなく現れて河童の目撃譚を話し出すと有名になり、いつからか河童淵ではなく、「阿部与一さんに会いに来ました!」という観光客が増えたのが印象的だった。どこからともなく、あのお爺さんの正体が、実は河童なのでは?と噂されるほどの、自然と醸し出される怪しさが、阿部与一さんにはあった。その阿部与一さんが亡くなった後に、今は二代目河童淵の主という方が遠野市の要請により就任したらしいが、阿部与一さんの何とも言えぬ怪しさは、誰にでも表現できるものではないだろう。しかしその阿部与一さんが安倍貞任の末裔であったと知ると、そのギャップに驚くばかりであった。似田貝については、語源も含め別の機会に書こうと思う。
by dostoev | 2015-04-13 16:41 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(8)

「遠野物語63(マヨヒガ)」

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小国の三浦某と云ふは村一の金持ちなり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少し魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るゝ小さき川に沿ひて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。其庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多く居り、馬舎ありて馬多く居れども、一向に人は居らず。終に玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されども終に人影は無ければ、もしは山男の家では無いかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。此事を人に語れども実と思ふ者も無かりしが、又或日我家のカドに出でゝ物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、之を食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器と為したり。然るに此器にて量り始めてより、いつ迄経ちてもケセネツ尽きず。家の者も之を怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。此家はこれより幸運に向ひ、終に今の三浦家と成れり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガと云ふ。マヨヒガに行き当りたる者は、必ず其家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でゝ来べきものなり。其人に授けんが為にかゝる家をば見する也。女が無欲にて何物をも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしと云へり。

                                                      「遠野物語63」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「遠野物語」を読んで遠野に来る人の中で、一番の人気がこのマヨヒガの話である。この場所に行きたいとの声を多く聞くのも、やはり遠野らしい幻想的なイメージを強調する話であろうと思う。実際に、このマヨヒガの地は頻繁に霧が発生する為、マヨヒガの伝説が作られ易かったのだと思える。特に夏近くになると、海上で発生した濃霧が遠野の東側の山を覆う場合が多く、昼間でも濃霧に覆われマヨヒガの情景を頻繁に体験できる。

このマヨヒガの伝説は、何故か遠野側にだけ伝わるものであった。「遠野物語63」の舞台である小国の三浦家では、このマヨヒガ伝説を否定している。恐らく、遠野側から伝わったマヨヒガ伝説を、後から三浦家に結び付けて語られたものという想定が成される。

ところで佐々木喜善が「聴耳草紙」に「隠れ里」という題名で「遠野物語64」に似たマヨヒガらしき話を掲載しているが、佐々木喜善はマヨヒガ=隠れ里という意識で考えていたのだろうか?「遠野物語63」と共通するのは、主人公が魯鈍か頭の足りない人であるという事か。この感覚は、座敷ワラシにも通じるところがある。遠野だけでは無いだろうが、頭の足りない子は幸福を呼ぶとされ、大事に育てる旨が伝わっている。思い出すのは、仙台四郎という知的障害者が訪れる店は繁盛するという事から福の神と持て囃され、その死後は完全に福の神に祀られた人物がいた。知的障害者とは、通常の人間が持っていないものを持っていると考えられたのかもしれない。それが能力であるのか、それとも神に近い存在として祀り上げられたのかは断定しかねるが、足りないものとは、別の何かが補足されているのだという意識があれば、それが座敷ワラシであり、マヨヒガの話に通じるのかもしれない。
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マヨヒガの伝説は、あくまで遠野側に伝わるものであるならば、それが財を成す夢物語、もしくは一攫千金を夢見る山師的な感覚や願望が遠野の民にはあったという事かもしれない。事実、佐々木喜善の住む山口部落から貞任山に向かう途中に白山様と呼ばれる大岩があり、そこに立って願えば長者になれるというものがある。それは、貧しい生活から脱却したいという切なる願いでもあるが、やはり一攫千金的な願望であると云わざる負えない。不景気な世の中、早池峯神社に年に一度、座敷ワラシ人形が10体ほど販売されるが、藁をも掴む思いで、その座敷ワラシ人形を求める人が殺到し、最低でも3年以上は待たないと購入出来ないそうである。貧しい=不景気も、その時代を繁栄しているものであり、ましてや遠野は飢饉で苦しんだ歴史が深く、長者に対する憧れは強かったのだろうと思う。その想いが、座敷ワラシでありマヨヒガなどの伝説を作り上げたのでは無かろうか。山中他界、そこには竜宮が存在するとされ、「浦島太郎」のような夢物語が現実にあるのではないか?という幻想を抱くのは、当然の帰結であったのではなかろうか。
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佐々木喜善は、死んだ娘と早池峯の山中で出逢う夢話を、柳田國男に話している。土淵の常堅寺の入り口の前には、早池峯古参道の鳥居が今でも残っているが、この春を感じさせる四月の半ば近くになる遠野でも、未だに白い山肌が輝く早池峯に対する想いは、かなりのものであっただろう。死んだ魂は、早池峯に昇るとされる伝承も、早池峯の神秘的な姿が、そう思わせたのだと思う。マヨヒガの文中に登場する黒き門も、もしかして早池峯神社の黒門を意識して描写されたのでは無いかとさえ思えるのだ。そう黒き門を潜れは、そこは異界であり、竜宮の様な貧しさの無い富の栄える空間であると。ただし山中である為、それが畏れ多い神の棲家なのか、恐ろしい山男の棲家なのか定かでは無かっただろう。黒き門という異界の門を潜った時に感じる恐ろしさがあったからこそ、何も取らずに逃げ出したのだろう。人々が苦しんだ平安末期に広がった末法思想に、マヨヒガ伝説が意識の根底の中に通じるのではないかと思えてしまう。
by dostoev | 2015-04-12 17:32 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(2)

「遠野物語64(迷い神)」

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金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にても殊に山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前此村より栃内村の山崎なる某かゝが家に娘の聟を取りたり。此聟実家に行かんとして山路に迷ひ、又このマヨヒガに行き当りぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとする所のやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちて在るやうにも思はれたり。茫然として後には段々恐ろしくなり、引返して終に小国の村里に出でたり。小国にては此話を聞きて実とする者も無かりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来り長者にならんとて、聟殿を先に立てゝ人あまた之を求めに山の奥に入り、ここに門ありきと云ふ処に来たけれども、眼にかゝるものも無く空しく帰り来りぬ。その聟も終に金持になりたりと云ふことを聞かず。

                                                        「遠野物語64」

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「小国にては此話を聞きて実とする者も無かりしが」と書き記している事から、小国村ではマヨヒガに対する認識が無く、土淵村では、その認識が強い事が理解できる。だが、「遠野物語63」でのマヨヒガの話は小国村での話となっているのだが、実際はその小国村のマヨヒガの伝説は伝わって無いという。そして金沢村でも同じくマヨヒガの伝説は無く、あくまで土淵村だけに伝わるのがマヨヒガであるようだ。白望山を中心として土淵村が西に位置し、小国村は北に位置し、金沢村は東に位置している。南側だけは山々が続く為に白望山からかなり離れてしまう事から、マヨヒガの話が伝わる筈も無いか。では何故にマヨヒガは、遠野の土淵村だけに伝わるのだろうか?
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松橋暉男「遠野上郷大槌物語」を読むと"家"の読み方が記してあった。「大槌では屋敷っていえば、代官屋敷のことを指しそれ以外はみんな「家(や)」」と呼ぶのがならわしなんすよ。」と。例えば小槌川沿いに南部を名乗る家があり、それを南部家(なんぶや)と呼んだそうだ。南部家(なんぶけ)と呼べば、南部藩の家系か?と勘違いする為、あくまで屋号としての南部家であったのはわかる。それは大槌だけではなく、遠野でもそうであろう。

そこで疑問なのは「マヨヒガ」が「迷い家」と訳される事だ。一般的に家が「や」であれば、単純に「マヨヒヤ」と呼ばれるのではなかろうか。それが「マヨヒガ」と呼ぶというのは、単に語呂合せからきてるわけはないだろう。「注釈遠野物語」には、「今昔物語」に記される「迷神」との関連性も指摘している。ただ「今昔物語」巻27「左京属邦利延、迷はし神に値ふ語、第四十二」を読むと、マヨヒガの話とは違い、狐に化かされたような内容であった。だが狐の化かす話にも、人を家に招いてもてなす話も多い事から、マヨヒガも狐に化かされた話だとしてもおかしくはないだろう。

「ガ」の訓だが、確かに古代の氏族である大神氏は「おおみわ」もしくは「おおが」と読む。九州の宇佐神宮に関係する大神氏などが有名だが「神」は「ガ」と読む場合が多々ある。そういう意味では「マヨヒガ」が「迷ひ神」として、人を惑わす神だとしても違和感はない。ただし「今昔物語」での「迷神」は「まどわしかみ」と訓ずるようだ。しかし、「惑わす」とは相手の判断や考えを混乱させ欺く意でもあるので「惑わす」も「迷わす」も同じであろう。山中に登場する、有る筈の無い家に遭遇した時、それを見た者がどう判断するのか。ある意味、神の与えた試練の様にも思える。聟が一人の場合にマヨヒガが現れ、大勢で行くと現れないのは、聟の判断が間違っていたという事だろう。「遠野物語63」を読んでも、あくまでマヨヒガは、一人の時に現れるものであり、その人なりの判断を惑わせる為の試練のようでもある。ただし、現れたマヨヒガの家から何かを持ってくるよりも、何も持たずに帰った者の方が、幸運が寄ってきている。この「遠野物語64」の聟は、その幸運を待ってないで、大勢を引き連れてマヨヒガ探しをした為に、神にそっぽを向かれたのかもしれない。

ところで、先に紹介した松橋暉男「遠野上郷大槌物語」でもマヨヒガについて書いているが、それはマヨヒガとは「はぐれ家」の意味だと断定しており「群れからはぐれた家、つまり、人里はなれたところにある家 隠れ住まいした家のことである。」と。具体例として金沢村の更なる上の長井集落がそうであったと書いている。明治の初めに人家調査の役人が勝手な判断から金沢村の上にはもう人家は無いだろうと、役人の怠慢から「はぐれ村」になってしまったそうな。しかし、「はぐれ家」と「マヨヒガ」とは、やはり違うであろう。これが土淵にしか伝わらない伝承であるならば、土渕にそれを伝えた者がいるという事になる。菊池照雄氏が指摘しているが、朱塗りの椀文化は秦氏から来る木地師のものであった事から、やはり朱塗りの椀文化の無い遠野にマヨヒガ伝説を持ち込んだのは、木地師ではなかろうか。
by dostoev | 2015-04-11 19:25 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語69(十字架のイエス・キリスト)」

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今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れまる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。

昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を悪みて斧を以て後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首にたるまゝ天に昇り去れり。

オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村に在りと云へり。

                                                      「遠野物語69」

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鈴鹿千代乃「神道民俗芸能の源流」を読むと、著者はオシラサマの本質を徹底して追及していた。オシラは白山信仰とも繋がるとしてはいるが、東北では「オヒナ」が転化して「オシラ」となったのは、N・ネフスキーの調査などによるものだった。確かに自分が子供の頃、「ひろ子」という名前の女の子は意外に多く、その「ひろ子」という名前を「シロ子」と発音する人が多かった。それ故に「オヒナ」が「オシラ」に転化するのは納得するものである。

鈴鹿千代乃は、日本人は穢れに対する意識が過敏であると考えていた。1年の中で、6月と12月に行われる穢祓の行事の他に、民間で行われる穢祓の行事は節句となる。

人日(じんじつ)1月7日七草の節句
上巳(じょうし)3月3日桃の節句・雛祭
端午(たんご)5月5日菖蒲の節句
七夕(しちせき)7月7日七夕
重陽(ちょうよう)9月9日菊の節句


これらの節句により、人々は少なくとも1年のうちに5回は、身の祓いをしなければならなかった。ところで知らなかったのは、3月3日が桃の節句であり、雛祭りであるのは有名な事ではあるが、それ以外の呼び名に「磯アソビ」「浜降り」という呼び名があった。これは本来、雛祭りが流し雛から始まった名残であろう。遠野の魔所に"人形森"があるが、穢れた人形が流された場所であった為に、穢れるので近付くなという意味の魔所であったのだろうと自分は介錯している。

衣は、天女の羽衣の様に、神との繋がりを持つ物ではあるが、それとは別に穢れの象徴にもなる。「古事記」において黄泉国から現世に帰還した伊弉諾が禊をする時に、真っ先に身に着けているものを次々に体から外していった。御杖・御帯・御嚢・御衣・御褌・御冠などを投げ捨て、その都度に神々が誕生していくのだが、御衣を脱ぎ捨てて誕生した神が和豆良比能宇斯の神(ワズラヒノウシノカミ)という病気の神である。衣には、病気と云う穢れが付着するのだという事だろう。「罪を着る」という言葉がまさに「穢れを着る」であり、衣そのものが罪や穢を吸収するものであった。つまり、オシラサマに衣を重ねていく行為とは、罪を着せ、罪を重ねる行為でもある。着せ替えでは無く、着重ねのオシラサマは、人々の穢れを溜め込む人形であった。
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鈴鹿千代乃は、古代貴族の出産時に用いられた天児(あまがつ)を紹介している。上の画像の右側が、その天児となる。天児の頭部は綿を白布で覆って作るのだが、意図的に皺を作り首のところでまとめて縛るという。その天児を出産の時まで、うつ伏せに寝かせて置くのだそうだが、皺とは苦悶を意味し、首で縛るのは絞め殺そうという意志の表れでは無いかと説いている。この時、梅原猛「隠された十字架」に紹介されている秘仏であった救世観音の頭部に光背が釘で打ち付けられているのは「呪詛の行為であり殺意の表現である。」という言葉を思い出した。出産は「あの世がこの世に突出する瞬間」であると云われる。母体の中の赤ん坊は、母親のお腹が大きくなるたびに、その成長度合いが理解できるのだが、あくまでこの世には生れていない存在である。つまりまだ赤ん坊は、人間の世である"この世"の者では無く"あの世"に生きる者であった。あの世とは、浄土であろうし黄泉国であろうし、常夜国であるかもしれない。つまり異界の住人である赤ん坊がこの世に誕生する時とは、生と死の狭間であると言っても良いのだろうか。だからこそ、その赤ん坊の身代わりとなる天児を置き、無事に赤ん坊が無事に生きて生まれて来る様に、その身代わりとして天児を殺すのが、古代の出産の呪術であったようだ。

この天児と同じ様にオシラサマもまた祓の呪具であろうから、人の罪や穢れを纏った衣を重ねていくのだろう。「大祓祝詞」には「畜犯らる罪」が記されている。これは、オシラサマ縁起での娘と馬の結び付きでもあるのだが、敢えてその罪を意図的に犯し添い遂げた娘とは、人々の罪を一身に引き受けた神に近い存在である。罪や穢を受けるとは、その娘に罪や穢を祓う能力があった事にも繋がるのではないか。養蚕の神であり、御知らせの神であり、狩の神であり、祟り神でもあるオシラサマと娘が結び付くのであれば、本来のオシラサマとは娘そのものであり、馬であり男神であるのは、その罪と穢を象徴するものではなかろうか。
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画像は七夕雛であるが、両手を左右に広げている姿は、天児と同じ十字の形になっている。紙で作られる流し雛もそうだが、雛人形の一番古い形は立雛であり、この様に両手を左右に広げている形で作られていた。室町時代から、座り雛が登場したが、それでも座っていながら両手を左右に広げている。

七夕説話もいろいろな解釈があるが、七夕もまた「大祓祝詞」での、娘と牛との「畜犯らる罪」であったとも云われる。その七夕の源流を訪ねると、宗像の多岐都比売命を祀る大島であるようだ。その大島には七夕宮があり現在は、その七夕宮の前に流れる天の川に二枚の短冊に想う人の名を別々に記して流し、それが並んで流れると神が夫婦の契りを許した印であるとされている。想い人と添い遂げるとは、片思いでもあろうが、周りから認めて貰えない相手でもあった。その想い人と結ばれるのは罪と云われようが、それを振り切っての願いでもあり呪詛でもある。それが、牛であり馬との「畜犯らる罪」であろうともだ。つまり、願いを成就するという事は、罪と穢を着る行為であったのかもしれない。

その雛人形だが、両手を広げ十字の形を作っている。天児もまた、木を十字に組んで作っているのは、まるで十字架そのものではないか。木偶であり、偶人の発生は「十字形に齊串を交叉した形」が原型であるという事から、本来は神事から発達したもののようである。その十字の形の木偶であり、お雛様について鈴鹿千代乃は、こう語っている。

「ともあれ両手を真横に挙げた姿は、穢れに苦しむ神の姿であり、それは当然のことながら磔刑の姿である。ここまでしなければ、人間は気がすまない。いや、それほど穢れが積もっている存在ととるべきなのであろう。雛流しと言い、流し雛と言う民俗をみても、いずれにせよ、神を苦しめ、遂には殺す行為にほかならないのである。しかし、神を殺すことは、同時に復活せしめることだと信ぜられていた事も考え合わさなければならない。神は、苦しみ殺されるという試練の後に、より偉大な神・真の大神として復活する。」

この言葉を読めば誰しもが、いや恐らく鈴鹿千代乃自身も思ったのではなかろうか。それが、人の罪を一身に受けてゴルゴダの丘で磔刑になって死んでいったイエス・キリストの姿を。ただ、日本における歴史は、それを否定する。あくまでフランシスコ・ザビエルが伝えてからのキリスト教であったという歴史。ただ、今では架空の人物として捉えられている聖徳太子が、そのイエス・キリストと同じ逸話を持つのだが、何故似てるのか?という疑問を誰も言及はしていないし、証明もされてはいない。だからこそ鈴鹿千代乃も、敢えてイエス・キリストの名を出さなかったのではなかろうか。ただ、流し雛の歴史が平安時代まで遡り、それ以前が不明であるのは、人の罪や穢れを一身に受け止めて磔刑になって死んでいく神の概念が、どこからか持ち込まれて、神事から民間信仰へと流れて行った歴史は確実に存在している。お雛様も、オシラサマユもまた、イエス・キリストに近い概念の神である事は確かなのだろう。
by dostoev | 2014-11-26 10:51 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(6)

「遠野物語60(狐の仕業?)」

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和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐屡出でゝ雉子を追ふ。あまり悪ければ之を撃たんと思ひ狙ひたるに、狐は此方を向きて何とも無げなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元の処までいつの間にか悉く土をつめてありたり。         「遠野物語60」
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雉子小屋とは、萱や葦などで作る、人ひとりが入るくらいの簡単な三角形の小屋であり、覗き穴が付いている。例えば、鳥を撮影する場合、生身でカメラを鳥に向けても逃げる場合が多いが、意外に車の中でカメラを構えても警戒されずに撮影しやすいと同じで、この雉子小屋は雉子の警戒を和らげるのに有効である。

ところで「遠野物語」「遠野物語拾遺」には、かなり人間と狐の化かし合いが語られている。これは、かなり不思議な事である。何故なら、狐の捕食する獲物と野鼠や野兎の小動物などであり、稲作を中心とする農家では、逆に益獣として祭り上げても良いのだと思える。昔は畑を荒らす野鼠や雀を捕食する蛇が畑の守り神として確立され、その蛇の依代として案山子などが登場した。しかし、何故か狐にはそれが無い。例えば稲荷信仰が普及し、稲穂の色と狐の体色が同一視され、稲荷は五穀豊穣を願う神とされ、狐はその使役とされた。それにも関わらず「遠野物語」では、その稲荷の神威なぞ影響せず、人間と狐の争いが語られている。

まず考えられるのは、狐とは化ける、化かすという迷信が真っ先に流布した可能性が強い。いくら稲荷神の使役だとしても狐は獣である。仏教的には畜生類に属する。人間様を化かす畜生類とは何事だ!と、なってしまった可能性はあるだろう。よくよく調べてみると、狐は確かに野鼠や野兎などの小動物を捕食するのだが、それとは別に共食いをもするようだ。更に死肉を漁り、墓地を暴くという習性が人間社会から嫌われた要因でもあったようだ。
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更に、狐の人相が嫌われたようである。世界中の童話などで悪賢い代名詞のような狐の顔は尖った三角形の顔に大きな瞳で、人をじっと観察しているかのよう。確かに、狐に遭遇しても一旦はその場から逃げるが、ある程度の安全な距離を確保すれば、立ち止まってじっとこちらを観察している事が多々ある。この狐の習性が、人間にとってはずる賢さを感じたのかもしれない。

狐が墓を暴くで有名な話は、農夫が草刈りへ行った時に、草陰に雉子が隠してあったのを見つけ、それを家に持ち帰ったそうな。その時、見知らぬ男が家を訪ねて来て「この兎と、その雉子を交換してくれ。」と言うので了承し、その見知らぬ男に雉子を渡し、農夫は兎を料理しようと皮を剥ぎ、その兎の腹に包丁をあてようとしてハッと気付くと、それは人間の赤子だった。そこで先程剥いだ兎の皮を見ると、それは赤子の衣服であり、先日埋葬したばかりの自分の赤子であったのがわかったという。狐が墓を暴くという習性から作られた話であると思うが、「遠野物語101」では狐が死体を操る様が語られているが、これもまた狐が墓を暴くという習性からのものであろう。ただ、キツネの語源で有名なのは「日本霊異記」の「狐女房」の話で「来つ寝よ」からキツネの語源が起きたともされるが、通常は「キは黄色」「ツは助詞」「ネは美称」とされ、やはり五穀豊穣に繋がる。ただ江戸時代の国語辞典でもある「和訓栞」によれば、キツネの「ネ」は、猫の略とされている。土淵の山口部落には化け猫のキャシャと狐が習合したキャシャ稲荷があり、また葬儀の習俗においても、棺桶に刃物を載せるのは、猫が棺桶に近づかないようしてる為だともいうのは、猫が死体を操るからであった。つまり、狐も猫も同一視され、死体を操ると思われたのだろう。その混同がいつから始まったのかは定かで無いが、キツネが死体と結び付くのは狐の墓地暴きもあるだろうが、恐らくダキニと習合してからの事ではなかろうか。
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ところで、この「遠野物語60」に登場する和野村の嘉兵衛爺は、別の話にも登場している。つまり、土淵界隈では有名な狩人であったのだろう。つまり「遠野物語」で、町の話は町人、里の話は農夫などが伝えるが、山の話はこういう狩人が伝えたのであろう。狐もまた雉子を狩る事から、しばしば狩場で狐との獲物争いが発生したのではなかろうか。その為に、逆に狐を利用し、自らの狩の失敗を狐の仕業に擦り付けた話が「遠野物語60」であったのではなかろうか。

昔は、田畑の周辺には多くの肥溜めがあり、それに落ちたのを狐に騙された為とした話が異様に多い。また、自分の父親はアル中になった時があり、強制的に入院させようとした時に、家の婆様が「それは、アル中ではない。狐に憑かれた為にそうなったので、お祓いすれば治る筈だ。」と言った。今考えれば、アル中と認めれば、それは本人が悪い為だとなる。しかし、それが狐の仕業となれば、その本人が救われるのだ。ある意味、遠野の里では昔からこういう考えが広まり、自分の失敗を狐の仕業として、人々の心を救ってきたのかもしれないと考えるのだ。
by dostoev | 2014-10-06 16:35 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語61(鹿の夢)」

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同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢へり。白鹿は神なりと云ふあれば、若し傷けて殺すこと能はずは、必ず祟りあるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ。

                                  「遠野物語61」

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知人のところに鹿による、農作物の被害調査が来たという。歴史的にも鹿が多い土地であったが、原発のセシウム問題から、遠野周辺の牧場である牧草地では牛の放牧が止められた代わりに、草原を好む鹿が多量に増え続けている。ましてや鹿を撃っても、その肉を市場へと流す事も出来ず、猟師そのものの数が激減しているのが大きい。猟銃の維持費がかかる事から、東北と云う低所得地域で、どれだけの者が猟師になろうというのか?ましてや昨今の猟銃事件により、狩猟免許の拾得自体が更に厳しくなっている。鹿の天敵は、かっては狼であった。その狼は明治の半ばで滅び、その代りに猟師が天敵となってはいたが、この時代となって猟師自体が絶滅危惧種になっている。

この「遠野物語61」の話も、捉えようでは年老いた猟師が、石と鹿を見誤ったようにも思える。視力が衰えた猟師は、現代においても引退している事から、この物語の嘉兵衛もまた、この事をきっかけに引退した様であった。
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「人と動物の考古学」を読むと、縄文時代の食料としての肉は、猪と鹿が全体の約60%を占めていたようだ。残りはタヌキとウサギが占めるのだが、ウサギよりも若干タヌキの方が上回っているという。タヌキはまだ食べた事は無いが、子供の頃に見た漫画ではタヌキ汁は、何となく美味しそうに思えていた。昔、現在の鍋倉山の入り口付近、まだ消防署がその側にあった頃、遠野の野鳥や野生の獣を飼っている場所があり、そこにタヌキがいた。近付くと、とても臭く、調べても雑食のタヌキは食べても美味しくないと聞いていたが、ある猟師に言わせると「冬のタヌキは美味いぞぉ!」と言う。

ところで鹿だが、鹿は神の使いというのは春日信仰から来ている。現代においても奈良公園に生息している鹿は神の使いであると伝えられており、昔であれば、その神聖な鹿を過って殺しても石子詰の刑に処せられたという。「遠野物語61」に登場する鹿は白鹿だが、白い獣は鹿だけでなく全てが神の使いと云われる事から、白い鹿は神の使いの中でも更に神聖なものであったのだろうか。

徳川綱吉「生類憐みの令」は、あまりにも有名だが、それ以前にも似た様な令が発布されていた。「続日本紀」天平宝字二年(758年)七月四日に、光明皇太后の病気平癒を願って、年末まで殺生を禁じ、永く猪や鹿の類の進御をやめる勅令がくだされている。その後の承和八年(841年)三月一日には春日大神の神山内での狩猟と伐採が禁じられている。つまり、神の使いである鹿は、人間が殺してはならぬとなり、その鹿の命を奪って良いのは、同じ神の使いである狼に委ねられたという事なのだろう。

小友町の堂場稲荷社脇には、鹿の足跡が付いたような奇妙な鹿除けの石があり、その足跡らしきを墨で紙に象れば鹿除けになると昔の百姓は、それを信じていたらしい。つまり、鹿を殺すのではなく、鹿除けの呪いに頼っていた文化が遠野にもあった。その鹿を撃つのは、やはり猟師だけであったからだ。
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藤原頼長「台記」久安四年(1148年)九月二十五日の条に、夢に鹿を見たのは吉祥であり、春日明神の加護であるとしている。その時代、春日信仰は夢見をことのほか霊験として珍重していたよう。鹿の背に榊を立てた有名な図の「春日鹿曼陀羅」も夢見によった得たものからの図であるようだ。

「遠野物語61」が現実の出来事であったのか、それとも作り話であるのはわからない。ここに登場する嘉兵衛は「遠野物語3」でトヨという若い女を撃っているが、読んでいるとそれが夢か現かわからない状態で話を綴っている。この「遠野物語61」でも、どこか白日夢的な話になっている。

白昼夢は、目覚めている状態で見る現実味を帯びた非現実的な体験や、現実から離れて何かを考えている状態を表す言葉であり、願望を空想する例が多い事から、これを「遠野物語61」に当て嵌めて見れば、嘉兵衛がそろそろ猟師を引退しようとしての想いが見せた白日夢であったか、もしかして、多くの神の使いである鹿を撃ち殺してきた嘉兵衛を神である白鹿が、もうそろそろ引退しなさいと勧める為に見せた白日夢であったのか。すでに名誉の猟師であった嘉兵衛であるから、その名誉を抱いて幸せに余生を過ごせという白鹿の見せた吉祥夢が、その正体であったのかもしれない。
by dostoev | 2014-03-04 21:28 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(15)

「遠野物語62(くくり)」

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又同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとま無くて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄をおのれと木とのめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を堅に抱へてまどろみたるしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽ばたきして、某木の梢に蔽ひかかりたり。すはやと銃を打ち放せばやがて又羽ばたきして中空を飛びかへりたり。

此時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかゝる不思議に遭ひ、其度毎に鉄砲を止めんと心に誓ひ、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思ひ返して年取るまで猟人の業を棄つること能はずとよく人に語りたり。

                       「遠野物語62」

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サンズ縄は「三途縄」で、あの世の縄を意味する。この三途縄は、棺桶を結んだ紐か、もしくは葬儀の参列に使う竜頭にかかった紐を使う。そしてこの三途縄を呪文を唱える様に「一尋、二尋…。」と言いながら長さを量るように結界を張る。しかし、この三途縄が何故に魔除けとなるのかわからなかった。結界を張るにしろ、他にも方法があるのだから。

ところで「遠野物語拾遺246」で掘返しの婆様が埋められる前に「縊られる時に一方の眼が潰れたので」と記されている。「縊る」「くびる」で、首を絞めて殺す意がある。つまり、掘返し婆様は首を絞められて一時殺され埋められたのだ。それは、直接手で絞め殺したのではなく、紐によって絞め殺したのではなかろうか。この「くびる」には、紐で縛る意もあり、全国には「しばる・くくる・きびる・ゆう・ゆつける・いわく・くびる」などと紐で結ぶ言葉が転訛などしながら広がっている。

これらの言葉の中「くくる」で思い出すのは、菊理媛(くくりひめ)となる。菊理媛神は黄泉国にいて、伊弉諾に対して謎の言葉を伝える役目を果たすシーンにのみ登場している謎の女神だ。ただ「ホツマツタヱ」では、伊弉諾の母親という事になっているので、母親が息子に言い聞かせるのであれば、すんなりと受け入れる事はできるが、それでも何を言ったのかはわからない。その菊理媛神は「ホツマツタヱ」において、「くくり」とは読まずに「ここり」と読む。つまり菊理媛神(ここりひめ)という呼称となる。

ところが遠野で昔、首吊りをした場所を「ココリコ」と呼ぶ地がある。聞くと「カカリコ」であったり「ココリコ」であったりして一定しない。地域の古老に聞くと「ココリコとは木こりの事か?」などと定かでは無いようだった。だが「ココリコ」だろうが「カカリコ」だろうが、語尾に着く「コ」は、この地方で「娘っこ」とか「べごっこ」などと、語尾に「コ」を付けるのと同じのようだ。つまり、首吊りがあった地は「ココリ」であり「カカリ」である。だが「カカリ」であっても「紐がかかる」と同じように、やはり首吊りなど「縊る」に通じる。
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「生ける世に迷い出ぬよう、括りまする!!!」

現在の棺桶は一般的に横に寝る事ができる形で寝棺(ねかん)とも呼ばれるが、弥生時代から伸展葬(しんてんそう)とも呼ばれる埋葬の形となる。ところで数年前、遠野の恩徳という地では土葬が行われ、それは屈葬(くっそう)とも云われる縄文時代から最も普通に見られる埋葬方法だった。或る場合には、屍が外に出ない様紐でくくったとされるが、途中で蘇生した場合を考慮に入れ、紐でくくらなくなったともいう。この恩徳での屈葬では、紐ではくくらなかったそうである。

「遠野物語22」に登場する狂女の名はトヨと言って、その後に死んで埋葬されるが、翌日には埋葬した筈の土に穴が空いており、棺の蓋も開いていて死体は無かったと。それが後に「遠野物語3」において、嘉兵に鉄砲で撃たれたトヨとなる。死んだ筈の人間が生き返れば嬉しくもあるが、逆にゾンビなどのように恐怖を伴う場合もある。それは「古事記」において、黄泉の国で黄泉醜女においかけられる伊弉諾のイメージが付き纏うからではないか。

地面の穴は黄泉国と繋がっていると云われる。洞窟であり、井戸や厠にも全て地面に穴が空いている為に、黄泉国の入り口と思われた。そして当然の事ながら、地面に穴を掘って埋葬する行為は、黄泉の国への入り口を開ける行為でもある。ひとたび埋葬すれば、その屍は黄泉の住人となってしまう。それがこの世に這い出ない様、紐でくくったとも云われる。

つまり、屍を"くくる紐"とは、黄泉国の住人を縛る呪具でもあるという事ではないか。魔物とは異界からの侵入者であり、それは黄泉国をも含めての事だろう。黄泉に棲む菊理媛神が黄泉醜女と違い生者である伊弉諾にアドバイスできたのは、菊理媛神自体が黄泉国の本当の住人でない事を意味しているのだろう。それでは何故に、菊理媛神が黄泉国を自在に行き来出来るのかは、その黄泉国の住人が恐れる呪具である「くくる紐」を扱うからではなかろうか。恐らく三途縄には、菊理媛神の威光が降り注いでいる為に魔除けの効果があるのだろう。
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ところで、この「遠野物語62」登場する「大なる僧形の者」とはムササビだろう。「遠野物語拾遺118(補足)」で書いたように、ムササビは人の言葉に言葉を返す動物だ。それがあたかも仏教の問答にも感じて、ここでは僧形という表現としたのだろう。遠野では、ムササビを「バンドリ」と呼び、これは晩に飛ぶ鳥からきている。その当時は、動物など体系化されておらず、飛ぶものは全て鳥であり、赤茶けた翼をもって夜に飛ぶ鳥とはムササビ以外に有り得ないだろう。
by dostoev | 2013-10-24 13:27 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(0)

「遠野物語69(オシラサマ縁起)」

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今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞と云
ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の
姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れまる鳥を落しな
どするを佐々木君はよく見せてもらひたり。

昨年の旧暦正月十五日に、此老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。
妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩
舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日
に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘
は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、
死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父は之を悪みて斧を以て後より馬
の首を切り落せしに、忽ち娘は其首にたるまゝ天に昇り去れり。

オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて
其神の像を作る。其像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。之を
姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎と云ふ人の家に在り。佐々木氏
の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作り
し妹神の像は今附馬牛村に在りと云へり。

                       「遠野物語69」

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オシラサマ研究は盛んであるが、様々な要素を見せるオシラサマに、これといった決定打が無いのも実情ではある。確かに、遠野だけでなく北関東から東北にかけて広がるオシラサマの話を集めて分析しても、まとまりを欠く。ただ「遠野物語69」の話は、あくまで他のオシラサマの話は関係無く、単独に伝える話であると考える。何故なら、この話は神社などに伝わる縁起に近いものだと思うからだ。

大同年間といえば、岩手県内に多くの神社が建立された年代でもあ。早池峯神社は大同元年となるが、大同二年建立の神社仏閣は星の数ほど散らばっている。この大同年間は岩手県というより蝦夷国の確立された信仰の始まりの年代でもあるのだと考える。そして、この土淵村の大同という家こそ、遠野の信仰の始まり象徴となるだろう。ただ本当に大同元年からの家かは定かでは無いが、名乗るという事は、それだけの意味を有しているという事だろう。

つまり、オシラサマの縁起は大同元年に始まったと解釈しても良いのだろう。これは恐らく、早池峯神社に重複して伝えられるものでは無かっただろうか。何故なら、後半のオシラサマ三姉妹の話はそのまま遠野三山の三女神伝説に対応するのは偶然であろうか?三女神伝説では、末の娘は早池峯に鎮座したが、その早池峯の麓は附馬牛となる。オシラサマの末娘もまた附馬牛に在るという事は、偶然にしては出来過ぎであろう。
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また桑の木から三体のオシラサマの像を彫ったとあるが、これは遠野七観音もそうだが、広く神木・霊木か神像・仏像を彫った話は伝わっている。桑の木は、古くは宮中において、お産の際に邪気などを祓う狙いで桑の木で作った弓が使用された。元々桑の木には邪気を祓い、魔を除ける力があると信じられた樹木であった。その桑の木で彫ったオシラサマ像とは、そのまま霊力を持っている像なのであろう。

オシラサマ像は何枚もの着物を重ね着している。毎年、着せ替えるのではなく重ね着だ。つまり、オシラサマそのものは穢れを溜め込む存在であるのだろう。よく"障り"というのを耳にするが、普通であれば穢れを祓うのであれば流し雛のように毎年一度、川に流すだけで穢れを祓う事が出来る。しかしオシラサマ像はいくつもの穢れ纏っても尚霊力を保ち続ける事が出来るのは、桑の木にそれだけの穢祓いの強い霊力があるという事。そして、その前に娘と馬とを贄として奉げている桑の木で彫ったという事も付け加えるべきだろう。
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例えば「遠野物語拾遺28(母也明神)」における人柱は、夫婦だけでなく白馬もまた贄とされている。白馬は蒼前様と同じく神馬としての存在でもあり、竜神とも結び付く。まだ明らかではないが古来、呪術の発動には贄を奉げたものだと言う。絵馬もまた本来は、雨乞いなどの呪術に生きている馬を奉げたのが代用として絵馬に変わっただけである。絵馬もまた、古代の贄であった。そして馬の毛並が絹糸に例えられるのは、古くから蚕との結び付きが伝えられていたのだろう。

天降るというと空から降ってくるイメージが現代ではあるが、古代では天は空よりも、天に近い高山であった。「遠野物語拾遺3」での天人児の話は、天から舞い降りるのではなく六角牛山からである。この「遠野物語69」においては、斬り落とされた馬の首と一緒に娘は天へと昇るのだが、オシラサマ伝承の多くは、剥がされた馬の皮に巻かれて天へと昇っている。その馬の皮をそのまま羽衣に置き換えれば、このオシラサマの話は天女の羽衣の話と同じになる。この前に書いたように、馬の毛は絹糸に例えられている。つまり馬の皮、いや馬そのものは蚕の出す絹糸と同じで、それはそのまま天女の羽衣に成り変わる。そして娘が馬と昇り詰める先は、早池峯山であろう。
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中国に伝わる「山海経」は秦国から加筆され漢代に成立した奇書と云われる。その「山海経」の扶桑の伝説には、三本足の烏が止る桑の木は太陽の象徴でもあった。

「日本書紀」において軻遇突智を生んだ為にホトを焼かれた伊弉冉が亡くなる直前に生んだ埴山媛は、後に軻遇突智と結ばれ稚産霊を生むが、出産の際に稚産霊の頭の上に蚕と桑が生じ、臍の中に五穀が生まれたとあるが、蚕は後から付け足したものであると云われている。更に稚産霊は「古事記」で水神でもあり食物神である豊受比売神を生んでいるのを重ね合わせれば、五穀豊穣を意味し太陽の恵みとの結び付きを意味しているのだろう。

オシラサマのその他の信仰を考え合わせれば、それは全て山神に行き着く。何故なら山は、雲を生み風を生み、水を生み出し樹木を生み出し、獣さえも生み出す母なる神である。その山神とは、白山とも結び付きの深い早池峯山であろう。穢れを祓うと信じられていた水の神は「大祓祝詞」で現在も広く全国で唱えられる穢祓神でもある早池峯大神でもある。

早池峯神社大祭において、早池峯大神の御霊を乗せた神輿は、山門を潜る前に駒形社へ寄るというのも、早池峯大神である女神と馬の結び付きの深さを意味するものだ。そして山門を潜り祓川で神輿に水をかけ(現在は、榊などを水に濡れさせ、その水滴を神輿に払う)再び山門を潜り、駒形社へ寄ってから、神輿は本殿へと向かう。つまり、娘+馬=女神+馬でもある。早池峯の女神を民間レベルに落して娘としたのだろう。

ただし蚕や桑の木に関する細かな内容までは、この末端の遠野までは伝わってないだろう。せいぜい桑の木は穢祓の霊木であり、それは先に記した様に遠野の氏神である早池峰大神と結び付くとセットで伝えられたのが、この「遠野物語69」である「オシラサマ縁起」であるのだと考える。
by dostoev | 2013-07-11 20:39 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(4)

「遠野物語69(物部氏の魔法)」

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今の土淵村には大同と云ふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞
と云ふ。此人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏
の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止れま
る鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。

                    「遠野物語69(抜粋)」

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この「遠野物語69」には「魔法」という言葉が出て来るが、本に付属の補注を読むと修験の行者や民間の見者にも似たような法力を使えるとある。しかし蛇を呪いで殺すとか、木に止まっている鳥を落とすなど、法力を持った修験者であっても、実際には出来る筈の無い事である。ただし「蛇除け」とか「鳥除け」を札などで呪いを施すというのはある筈だ。

古くは「古事記」で大穴牟遅が根の国でスサノヲからの試練の一つに蛇の部屋に入ったのを須勢理毘売から貰った「蛇のヒレ」で助かるくだりがある。この「蛇のヒレ」は学者によれば、物部氏に伝わる「十種の神宝(とぐさのかんだから)」のうちにある「蛇比禮(へびのひれ)」であるという。この物部氏に伝わる「十種の神宝」には他に「蜂比禮(はちのひれ)」「品物比禮(くさぐさもののひれ)」などがあり、これらにより様々なモノから除ける事ができるようだ。つまり蛇を殺すという非現実的なものではなく、殺すを"除ける""抑える"と理解すれば、この「遠野物語69」の"殺す魔法"というのは納得するのだ。ところでこの話に登場する佐々木喜善の祖母の姉"おひで"は、こういう呪いをどこから覚えたのか…。
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ところで気になるのは、遠野市松崎駒木の高瀬遺跡から上記のような「物」もしくは「物部」と書かれた墨書土器が出土されている事だ。また「地子稲得不」と読める墨書土器も出土しているが、専門家によれば「地子稲」とは、菅のを農民に貸与して得る地代の稲であり、東北においては国家に服属した蝦夷の食料にあてるような名目のものであったという説明が成される。

ただ「東日流外三郡誌」によれば「大化丁未三年(647年)、物部一族東日流大里を拓田し稲を植しむる」とある。また「白雉甲寅五年(654年)、東日流入潤郡酋長乙部と物部氏合族し、茲に天地八百万神崇拝弘布伝はる」とある事から、蝦夷の地に物部氏が移り住み、物部氏の持つ文化と技術が広がったものだと考えて良いのだろう。水沢の天台宗の妙見山黒石寺にある薬師如来坐像(862年)の胎内銘にも「物部」とある。ただ黒石寺での物部氏は関東から流れた物部氏であろうという事であるが、遠野の高瀬遺跡の物部氏は、年代からすればやはり蘇我氏との争いに敗れた物部氏の流れでは無かったろうか。「東日流外三郡誌」の記述から察すれば、蝦夷は物部氏の技術と文化を受け入れたという事だろう。

進藤孝一「秋田「物部文書」伝承」を読むと、物部氏の哀しいまでの中央志向の意思が読み取れる。本来は蘇我氏に敗れるまでは朝廷の中心にいたのだが、蝦夷の地に逃げ延びて尚、戦の度ごとに朝廷側に付き武功をあげて、あわよくば中央に戻りたいという意思の元に、益々衰退していった物部家の歴史のようでもあった。

その物部氏の末裔が遠野にいたという事は当然、稲作の技術を伝えただけでなく、祭祀や呪いをも伝えたのだと考える。しかし物部氏は東北各地に逃げ延びて名を変え移り住んだようで、秋田県のように大きな神社の祭祀を司っているならば、その歴史もわかるのだが、それ以外の地における物部氏の痕跡は定かではない。当然の事ながら、遠野における物部氏の痕跡も不明瞭だ。しかし、もしも物部氏の痕跡があるとすれば祭祀や呪いに関するもの…つまり「遠野物語69」における"魔法"と呼ばれるものがもしかして、物部氏が伝えたものである可能性は否定できないものであろう。
by dostoev | 2011-02-08 04:40 | 「遠野物語考」60話~ | Comments(0)