遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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カテゴリ:「遠野物語考」20話~( 10 )

「遠野物語28(早池峯登山道と白髭水の伝説) 其の二」

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始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりし也。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りて居りし頃、或日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頬に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り来り、さも珍らしげに餅の焼くるを見てありしが、終いこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らも亦取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日も又来るらんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日の如し。餅尽きて後其白石をも同じよやうに口に入れたりしが、大に驚きて小屋を飛び出して姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。

                       「遠野物語28」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「奥々風土記」には、下記のように記してある。

「白髭神社、早池峯山の山中河原の坊という處にあり寛治元年(1087年)六月の頃雨降続きて此邊の川々大洪水せり當時髪髭眞白なる翁丸木に打乗て水上より流れ来て云けらく我れは白髭水の翁なりと告給へり故白髭の大明神と美稱て妙泉寺てふ寺の鎮守に崇奉れりとなん。」

妙泉寺とあるが、これは遠野妙泉寺ではなく、大迫妙泉寺である。「遠野物語28」では大坊主、大迫の伝説では山姥となっているが、本来は白髭の老翁が普通である。この伝承は、遠野・大迫だけでなく、全国に分散し、その白髭の老翁を祀る白髭神社の総本山は、近江国にある。
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白髭神社の祭神である白髭の老翁の正体は、比良明神であるという。その比良明神が登場する古い縁起は、白髭神社ではなく、石山寺の縁起であった。

奈良時代、聖武天皇が推し進める東大寺の大仏の鍍金の為に膨大な量の金が必要であった。その当時、金は輸入に頼っていた為に難儀をしていた。その時、聖武天皇の命を受けた良弁僧正は金峯山に籠り、黄金発見を祈願したところ、蔵王権現が現れ、近江国の瀬田に霊地の山があり、そこで祈願すれば良いと告げられた。良弁は近江国へ赴くと、そこで釣りをしている比良明神に出会った。画像は、その良弁と比良明神の出逢いである。それから比良明神に石山が霊地であると教えられ祈願したところ、陸奥国から黄金の発見され、聖武天皇に献上されたという縁起である。良弁を導いた事から、天孫族を導いた猿田彦と比良明神は習合したようで、現在の白髭神社の祭神の表向きは猿田彦となっている。

また社伝では、垂仁天皇25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。倭姫命の遠征は以前「荒御魂」で書いた様に、武力制圧の旅であった。その時に一緒に回った神とは、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、瀬織津比咩の異称であった。琵琶湖の瀬田の付近には大石と呼ばれる地があるが、元々「お伊勢」が変化して「大石」になったと伝えられる。そしてその大石の傍に土地を所有していたのが、俵藤太の末裔である小山氏であり、遠野を統治した阿曽沼の祖であった。

何故早池峯に白髭明神が祀られているかと考えれば、共通するのがその場所であろう。早池峯には瀬織津比咩が祀られているが、琵琶湖の瀬田とは七瀬の祓い所であり、俵藤太が竜宮へと出向いた場所である。桜谷(佐久奈谷)に祀られる桜明神とは瀬織津比咩の事であり、そのたぎつ落ちる水の場所が瀬田の竜宮の入口であった。その瀬田で良弁が出遭った比良明神は、まさに導きの明神であった。どこか塩椎神とかぶるその性質は、猿田彦というより、やはり塩椎神の変化と考えた方が良いかもしれない。その塩椎神が祀られる、陸奥国一宮の塩竈神社があるが、本来祀られていたのはどうやら水神であったらしい。その水神の元へと導いた塩椎神と、白髭老翁=比良明神とは本来、同じではなかろうか。そして、この白髭明神を早池峯の麓にもってきた者とは、俵藤太と瀬田との繋がりから恐らく、阿曽沼氏関係の人物であろうと思えるのだ。
by dostoev | 2015-07-12 20:46 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語28(早池峯登山道と白髭水の伝説) 其の一」

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始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりし也。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りて居りし頃、或日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頬に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り来り、さも珍らしげに餅の焼くるを見てありしが、終いこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らも亦取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日も又来るらんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日の如し。餅尽きて後其白石をも同じよやうに口に入れたりしが、大に驚きて小屋を飛び出して姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。

                                    「遠野物語28」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まず「早池峰妙泉寺文書」の年表を読むと、下記の様に記してある。

来内村の人、藤蔵、始閣宮本と改名、さらに薙髪して普賢坊となる。

大同元年三月八日、早池峯山頂に於て尊霊を拝し、同年五月、御坂を開き、
六月山頂に神宮(本宮)を創建す。



普賢坊が御坂を開きとあるが、これは遠野からの登山道というものだろう。そして、貞観九年(867年)に大迫口御坂開始とあり、天暦五年(951年)江繋御坂開始とある。これをそのまま信じて良いかはわからぬが、「遠野物語28」に記されている、初めて早池峯に山路をつけたのが南部入部の後というのは間違いであろう。南部入部を「遠野市史」で確認すれば、寛永四年(1627年)の事になり、遠野御坂が開かれた時代から760年もの開きがある。ただ別に、元禄年間に新しい楽な登山道が開発された事を、ここでは言っているか。

早池峰の伝説に関しては、南部時代になって、かなり南部の影響を受けているようだ。例えば早池峯を東岳としている説は、東が太陽の昇る形から出来た漢字の事から、あくまで盛岡南部の意向を汲み、盛岡南部側から見た名称というのは、あきらかであろう。この「遠野物語28」の話も、早池峰の歴史に南部によって捏造された歴史が介入した残存ではなかろうか。それが混雑一体となって「遠野物語」に語られたというのが真実であろう。それを裏付けるのは、次に続く早池峰山中に現れる大坊主の話は、大迫側の河原の坊で伝わる話であるが、但し現れるのは大坊主では無く、山姥となっている。

ところで南部の介入による早池峯の歴史の改竄もだが、遠野側の歴史も怪しいと言えるだろう。まず藤蔵が早池峯に登ったとされる大同元年三月八日だが、遠野はまだ冬が厳しく、早池峯は樹木が殆ど無い岩山の為に、冷たい風がまともに当り、三月の早池峯は氷山となっている。現代では、氷壁登りに必要な装備が無ければ登れないが、それを平安時代に一人で登ったなどとは考え辛い。ましてや祀られる神が竜蛇神であるならば、今は廃れた諏訪の御室神事のように、三月までは足を踏み入れる事は無い筈である。

また明治以降、天皇の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めたとあるが、「早池峰妙泉寺文書」では、大同元年に山頂に神宮を創建すとあるのは有り得ない話だ。その当時の神宮を名乗っていたのは、伊勢神宮か石上神宮しかなかった。その後の延長五年(927年)に成立した「延喜式神名帳」で、鹿島神宮と香取神宮が追加されたに過ぎない。ただ、神宮の定義に「大和平定に功績のある特定の神」とある事から「蝦夷平定」を成し遂げ、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる瀬織津比咩の宮を神宮としても違和感は無いだろう。

次の大坊主の話は、其の二で書く事とする。
by dostoev | 2015-07-10 17:03 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語23(幽霊と出逢える期間)」

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同じ人の二十七日逮夜に、知音の者集りて、夜更くるまで念仏を唱へ立帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。其うしろ付正しく亡くなりし人の通りなりき。此は数多の人見たる故に誰も疑はず。如何なる執著のありしにや、終に知る人はなかりし也。

                                                        「遠野物語23」

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文中の同じ人とは「遠野物語22」での死去した佐々木喜善の曾祖母の事であり、その曾祖母は、その死んだ晩に幽霊として、その姿を現している。そして逮夜は死後十四日の前夜であり、そこにも姿を現している為「執著のありしにや」と語られている。

葬式儀礼の中、その死んだ筈の人物が幽霊となって現れる話は「遠野今昔 第四集」阿部愛助氏「わが遠野物語」にも記されている。幼い子を残して死んだ28歳の女性が、葬式の前夜に集まっている人々の前に喪主の肩の辺りに覆いかぶさる様に追いかけて入って来たと記されている。これを記した阿部愛助氏は、幽霊についてこう書いている。

「人間の目に幽霊として見ゆる時期は、息を引き取る一、二日前より葬式にて引導を渡される時までにて。それ以降はより人前に現れ、或は音をたてる等のこと、まず無きものとなりと。」

俗に、幽霊を見える人、見えない人と等と云われる。それを霊感の強いなどとは言うが、この阿部愛助氏の言葉を借りれば、普通の人が幽霊を見る事が出来るのは死ぬ二日前から葬式までだという事になる。死ぬ二日前という意味は、遠野で云われるオマクであり、死ぬ寸前というのは魂が肉体から抜け出やすくなるからだという認識に基づいているのだろう。

昔、家の婆様が死んだ通夜の晩に「夢枕に立ってくれればいいね。」などと云われたのも、今考えれば、幽霊と出逢える期間であると信じられていた為の言葉であったのだろう。そして葬式の後は、特別な人以外は見えなくなってしまうものだと。日常の中に潜む怪異、霊異がいつしか定義づけられて語られているのは、生者と死者の接点を引きずり、永遠に死者を弔い尊重する仏教的概念が染み渡っているのだなと認識するのであった。
by dostoev | 2014-09-30 05:51 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語26(仏師)」

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柏崎の田圃のうちと称する安倍氏は殊に聞えたる旧家なり。此家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一郷の神仏の像には此人の作りたる者多し。

                                                        「遠野物語26」

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「注釈遠野物語」によれば、この仏師は安倍氏ではなく、田中円吉氏であるという事だ。常堅寺の二十世禅知徹定和尚が、京都から仏師を招いて十六羅漢や延命地蔵を作らせた時に、その弟子として見習って仏像彫刻の技術を修得したという。田中円吉の作品として、山口部落薬師堂の十二神像、常堅寺の地蔵菩薩、早池峯神社の神門の随神像などが判明しているという。また明治時代となり、神仏分離で早池峯妙泉寺が神社として成り立つ為、山門の仁王像を常堅寺に運んだのも田中円吉の仕事であったよう。早池峯妙泉寺の山門にあった仁王像は当初、草むらに捨てられていたそうで、それでは居た堪れないと盛岡の業者にも売る話があったのが、急きょ常堅寺に納める事となったそうである。仁王像を運んだ時はやはり、猿ヶ石川を利用し筏に仁王像を載せて川を下り、近くまで運んでから陸揚げし、常堅寺の山門に修復して納めたと云う事だ。
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ところで「遠野物語拾遺55」に琴畑の塚の上の仏像が野火の為に焼けて「京都の姉この処さ飛んで行くべ」という箇所がある。当初は、京都の二体あった仏像が一体だけ遠野に持ち込まれたのかとも考えたが、なるほど常堅寺の和尚が京都の仏師を招いた事実があったのならば、その仏師が彫った仏像は確かに兄弟にも成り得る。ただ、姉と言っている事から菩薩系であろうか?琴畑の仏像はオクナイサマとも聞いているが、果たしてどうであったのか。現在は、その塚の上には御堂の残骸が残るのみとなっている。
by dostoev | 2014-09-14 16:41 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語25(片門松)」

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大同の祖先たちが、始めて此地方に到着せしは、恰も歳の暮にて、春のいそぎの門松を、また片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたまゝにて、標縄を引き渡すとのことなり。

                                    「遠野物語25」

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昔、遠い国からの落人と伝える人達の中にはキリスト教に対する迫害を逃れての落人ではなかったかと思われるものがある。大洞を拓いて定着した人に菊地三左ェ門、吉左ェ門と云う兄弟がある。彼等は甲斐の国からの落人と云われるが、実は今の東磐井郡大原町から逃れて来たキリスト教徒であったことは確実な様である。その他、村内では家によって、葬式の時の一杯飯に立てる箸を普通二本揃えて立てるのを一本は横にして十字の形にするところがある。これはその先祖のキリスト信仰の遺風を、それとは知らずに受け継いでいるものであると云われる。又、片門松と云って、門松を一方だけ立てる家も村内処々にあるが、昔はその根に寄せて地上に他の一本を横たえて置いたと云われ、これも十字の形となる。

                                  「定本附馬牛村誌」

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三浦佑之「古代研究」において、この「遠野物語25」と「定本附馬牛村誌」の上記を比較し「他の家々とは違う家筋であることを保証する儀礼的表現となる。それは、自家の、他家に対する優位性の主張に他ならない。」という論考と共に「定本附馬牛村誌」において"キリシタン"である事が、この旧家に対する蔑みや妬みという感情が込められているであろうという事を述べている。
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上郷町赤川の現戸主は菊池某と云い、先祖は関東の武士塚原帯刀と云われ、この地に来たのは平家全盛の為、源氏が追われた当時の事であると云い伝えている。

時はまさに年の暮れで、一方の門松たけ立て終わると、暁を告げる鳥の鳴き声がした。それでもう片方の門松は立てる事を止めて新年を迎えたといっている。その後、つい最近まで先祖の遺風を継いで門松は片方を立て、他の一方は横にする習わしであったそうだ。

                                   「上閉伊今昔物語」

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「定本附馬牛村誌」においては、門松の片方を横にするのがキリシタンの遺風であるかのような記述であるが、この「上閉伊今昔物語」では、たまたま正月に間に合わなかったから、片方の門松だけを立てる事にし、その後にもう一方を横にするようにしたという。しかし、それがキリシタンの習俗であるとは記されていない。ただし、関東の武士である家柄と云う特異性は伝えている。
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遠野市青笹町菊池某氏と云えば、この町きっての豪農であるが、この家では正月の門松を立てるに、片方は普通の様に立てるが、一方は横に寝かせて置く事を習慣としている。

その訳は、同家の先代の主人が賭博で儲けた人で、ある日賭博でしこたま儲けて帰って来たという。この日は大晦日であり、その時はまさに晩であった。そこで慌てて、例年の通り門松を立て、越年しようと立てはじめたが、半分立て終わったところが、元日になってしまったと云う。それからというものは、毎年毎年方一方だけ門松を立てる事になったと伝えられる。

尚、同家では寒三十日、土用一週間は家内中餅だけを食べる事を習慣としている。それが又特殊な健康法ともなり、前戸主が八十余歳になって亡くなるまで、その戸主が十七八歳の当時、家中の誰かが死亡して葬儀を出した事があるが、それ限り同家から死人を出した試しなく、又病人があっても医者を招いたとの話も無かったと云う。

尚又、同家では子が生れても孫が生まれても、一切他家へくれる事無く、必ず嫁を迎え婿を取り、夫々分家に出し、前戸主時代だけでも十四の分家を出したといって、一門の繁栄を誇っている。

                                   「上閉伊今昔物語」

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この話には、門松だけでなく土用の一週間に餅を食べる習慣を紹介し、結局それらが一門の繁栄に繋がっている旨を語っている様。つまり、門松はたまたまであり、そのたまたまの出来事から幸運が舞い込んで来たという、縁起担ぎであり、ゲン担ぎとされている。そしてここには、キリシタンであろうという、周囲の蔑みも妬みも無い。
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青笹の菊池といえば、熊野神社を熊本から持ってきた山伏であった菊池氏から広まったと云われている。これらが全て迫害から逃れて来た落人であったのかは分らぬが、恐らく「遠野物語25」の大同家も含めて、全て菊池氏であったのではなかろうか?確かに時代の混同があって伝えられているようだが、門松の片方を横にする事をキリシタンでは?という見方は、江戸時代頃の比較的新しい時代のものであろう。そして門松だが、最後の「上閉伊今昔物語」で紹介したように、また「遠野物語25」でも記されているように、たまたまの事が吉兆となった為、それを継続したのであろうが、どの家でも同じような事が起こる筈も無い。恐らく、菊池家筋で伝わる方法が広まったのではなかろうか。落人であった塚原氏も菊池氏に改姓した事から、吉兆の方法を草分け的菊池氏から授かり、いつしか家伝となったのかもしれない。

「定本附馬牛村誌」に記されている東磐井郡大原町とは大東町とも云い「大同(だいどう)」と「大東(だいとう)」の濁点の有る無しの違いこそあるが、もしかして語源で繋がっている可能性はある。大東町を含む一関市から奥州市にかけて、やはり菊池が分散し、奥州市の菊池氏は、遠野市の菊池氏と同じ三女神神話を有し、後に現在の花巻市大迫へ移転したとも伝えられる。これらの菊池氏はやはり九州の菊池氏と繋がりが深いらしく、遠野に移り住んだ菊池氏も、大迫に移り住んだ菊池氏も、移り住む理由は、迫害から逃れただけでは説明できないだろう。ただ言えるのは、この東磐井郡大原町から附馬牛に移り住んできた菊池氏も、元々片門松の習俗があったという事で、キリシタン説は後付けとなるだろう。

移り住んだ理由は、いずれの機会に書くとしようが、片門松の話は、遠野には菊池氏以外にも広まっている事から、菊池氏から始まり、遠野の間で広まった吉兆譚である事は、否定できないだろう。
by dostoev | 2013-08-19 19:39 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語20(大蛇)」

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此兇変の前には色々の前兆ありき。男ども苅置きたる秣を出すとて三ッ歯の鍬
にて掻きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしを
も聴かずして打殺したりしに、其跡より秣の下にいくらとも無き蛇ありて、う
ごめき出でたるを、男ども面白半分に恙く之を殺したり。さて取拾つべき所も
無ければ、屋敷の外に穴を掘りて之を埋め、蛇塚を作る。その蛇は蕢に何荷と
も無くありたりといへり。

                        「遠野物語20」

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大蛇伝承は、全国に多く分布している。ただ大蛇で有名なのは八岐大蛇となるが、大抵の場合は青大将程度でも大蛇と呼ぶようである。

画像はヤマカガシだが、ヤマカガシにも俗信があり、人間に見られないと大蛇になるというものだ。雨上がりの山道を車で走っていると、その道を蛇が横切るシーンに、かなり出くわす。そしてその大抵が、ヤマカガシである。ヤマカガシの「カガ」「カガシ」は蛇の古語の「カカ」であり、「カガシ」は「案山子」でもあり、「輝く」という「カガチ」にも通じる。そのヤマカガシは山奥に多い。その為なのか、里に少なく人になかなか見つからなかったヤマカガシが大蛇になるというのも、昔は山へと用事が無い限り滅多に入らなかった為であろう。
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竜蛇信仰が盛んな古代日本では神木を蛇として見立てていた。吉野裕子「蛇」によれば、藤・竹・梛・梶・松・杉などであったよう。蕢は竹製の籠であり、つまり蛇の依代みたいなもの。また塚を作るというのは、蛇を安眠させるという諏訪の御室神事の影響を受けているものと感じる。これは以前「遠野物語拾遺56(篠権現)」で書き記した。つまり蛇塚も蕢も、蛇に縁の深いものであった。この「遠野物語20」では、やれ大蛇を殺した、やれ小さな蛇を殺したと記されているが、要約すれば最後の塚を作って蛇を祀るという蛇信仰の根深さを伝えているのだろう。それは、蛇は祟る存在でもあるからだ。
by dostoev | 2013-04-02 18:57 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(2)

「遠野物語22(よみがえり)」

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佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族集まり来て其夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心の為離縁せられたる婦人も亦其中に在りき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡の両側に座り、母人は旁に炭籠を置き、折々炭を継ぎてありしに、ふと裏口より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かゞみて衣物の裾の引きずるを、三角に取上げて前に縫附けてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の座れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさはりしに、丸き炭取なればくるくるとまはりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打臥したる座敷の方へ近より行くと思う程に、かの狂女のけたゝましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。其余の人々は此声に睡を覚まし只打驚くばかりなりしと云へり。

                         「遠野物語22」

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不思議な話だが…自分も直接聞いた事があり、また数人の人から、土淵の人は幽霊を見たという話が非常に多いという。土渕といえば佐々木喜善に代表されるように、菊池照雄「遠野物語をゆく」において佐々木喜善を、こう評している。「現実と裏側の世界との聖域に注連縄を張れない人であった。境界に霧がかかり、その切れ切れの間にあの世が見え、ついふらふらと踏み込んで行き、現実と幻想を混同してしまう人だった。」と。また本山桂川の佐々木喜善に対する印象は「いつも茫洋とした眼で夢か幻想の方を見ていたのじゃないかな。」

佐々木喜善の生きている山口部落の時代は、良くも悪くも喜善中心であったろう。東京の大学へ行き、村長までした喜善は、周囲に対する影響力は、かなりあったものと思われる。集団妄想(集団ヒステリー)という言葉があるが、喜善はその影響力を持って、周囲の人間を集団妄想、もしくは共同幻想の世界に引きずり込んだ可能性も考えてしまう。ましてや佐々木喜善の住む山口部落の傍には、デンデラ野という"あの世"という地が、山口部落から見上げれば、すぐに見る事が出来た。そう、死とあの世が身近な存在として生活していたのである。

喜善の家には、旅人がよく泊ったという。境木峠を越える場合、喜善の家に一泊して早朝に立つか、夜中にそのまま進むかであったという。旅人が峠の夜の恐怖を拭い去る為に歌いながら峠を進んだというが、山口部落で家の寝床に臥して聴く歌声は、それこそ闇に蠢く亡者の歌声であったろうか。
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ところで「遠野物語22」では曾祖母の通夜であったろうか。その曾祖母の死体が棺に納められている時に、その曾祖母の幽霊が現れた。「小栗判官物語」を読むとわかるが、昔は土葬の方が火葬よりも手厚い葬り方だった。肉体が残っている為に、魂が復活する可能性を持たせていたからだ。「日本霊異記(閻羅王の使の鬼、召さるる人の饗を受けて、恩を報ずる縁)」では、肉体が火葬され魂が戻れず別の人間の肉体に戻る話があるが、今でも死んで火葬までに時間を置くのは"よみがえり"を期待してのものだ。しかし「遠野物語22」では魂が死体に戻るのではなく、肉体とは別に曾祖母が姿を現わす。これは別の話では狐狸の悪戯にも例えられる話となってもおかしくないのだが、あくまでも幽霊譚として語られているのが「遠野物語22」である。

実は、似た様な話が「遠野今昔(第四集)」で綾織に住む阿部愛助氏が紹介している。美代という女性の葬式の前夜、親族が集まっている中、死んだ美代の幽霊は姿を現わしている。「とどが今、この部屋に入って来たるに、その肩のあたりに美代が、覆いかぶさるようにして追いかけ入り来たりたり。我ら驚き騒ぎたれば、闇に吸わるる如く消えたり。」この話も「遠野物語22」と同じような共同幻想であるが、共通点としては親族が目撃しているという点だ。

狐筋や犬神筋などという言葉があるように、ある特殊な信仰などに携わる一族を「何々筋」という表現を使う場合がある。「遠野物語」は喜善の住む土淵の山口部落を中心に語られる話でもある。日常から逸脱した不可思議な出来事の多くが、佐々木喜善や、その周辺の人々のの目や耳に入って来て語られ、それらを全て共有し日々を暮している集落の人々。人の細胞とは、食べ物から作られ、家族であればいつも同じものを食べているから細胞もまた同じであるという。つまり佐々木喜善が育った風土は、食べ物も含め、視覚や聴覚で捉えた物を全て共有してきた共同体であった。ある意味それは一つの家族の集団としても捉える事ができ、いわゆる「何々筋」と呼ばれてもおかしくはないだろう。この「遠野物語22」は「喜善筋の者達」が共有体験した物語でもあるのだろう。
by dostoev | 2013-02-16 06:12 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語24(南部氏)」

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村々の旧家を大同と云ふは、大同元年に甲斐国より移り来たる
家なればかく云ふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代な
り。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざるか。

                    「遠野物語24」

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南部氏は、各地の伝承をまめて南部氏に有利になるよう改竄した疑いがあり、それが大川善男「遠野の社寺由緒考」でわかりました。遠野の歴史と伝承の真実は、本当のところはよくわからないというのが現状です。つまり、この南部氏が曲者である。

奥州藤原氏が滅ぼされ、今の青森県の殆どは北条氏の所領となった。しかし何故か、その青森の一部である糠部と呼ばれる八戸地域に南部氏が進出した。建久二年(1191年)、源頼朝から糠部郡を賜った甲斐国の南部光行が、由比ヶ浜を出港し八戸港に到着したと云われる。

南部氏は、清和源氏系で、新羅三郎義光(源三郎義光)を祖先とし、その出身地は、金山に囲まれた富士の裾野であったよう。新羅三郎義光は、安倍貞任と戦った源頼義の三男で、甲斐源氏の祖となった。新羅という名からわかるように、義光が崇拝したのは新羅明神だった。義光が元服する際、わざわざ滋賀県大津の園城寺(三井寺)の新羅明神堂の前で新羅義光と自ら名乗ったとされている程、新羅明神を崇拝していたようだ。

新羅明神は、天台宗の円珍を海路において嵐から救ったとされ、その新羅明神の導きで円珍は貞観元年(859年)三井寺に至ったとされている。この新羅明神は別に"鉄"を意味するとも云われているようだ。確かに南部氏は遠野においても鉱山の開発を手掛けており、伊達氏ととの金山争いは有名な話となっている。古来「金」は「きん」と呼ばず「かね」であって、「黄金=金」「白金=銀」「赤金=堂」「黒金=鉄」「青金→鉛」と認識されていた。それらの総称として「金」と呼んでいたに過ぎない。その金の開発と結び付く信仰に、妙見信仰があった。蝦夷をしきりに攻め立てた桓武天皇も、妙見信仰を崇拝し、この妙見信仰を民が信仰するのを禁じたのも桓武天皇だった。それだけ重要だった妙見信仰は、やはり「金」と結び付いていたせいなのだと思う。

その妙見信仰を南部氏も崇拝していたのは、家紋を見れば理解できる。一般的に南部氏の家紋は「向い鶴」であり、上の画像を見れば、その向い鶴の胸には、小さいながら九曜紋が刻まれている。これから南部氏は、新羅明神と共に妙見信仰を崇拝していたのが理解できる。
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八戸地域の長者新羅神社で南部氏が伝える「えんぶり」と云われる正月に行われる"豊作祈願"の行事がある。写真は去年の五月の連休に、鍋倉山にある遠野南部神社の祭に駆けつけた八戸の「えんぶり」である。

鉄に関係が深い新羅神社で、何が"豊作祈願"であろう?恰好も、立烏帽子を被っているというのも、豊作は豊作でも"金"の豊作ではなかろうか?
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示した画像は出雲に伝わる「金屋子神とたたらの図」で、タタラに携わる人間というものは皆、立烏帽子を被る。画像の中で唯一立烏帽子を被っていないのは、飯炊き女だけである。タタラ作業は聖なるるもので、立烏帽子を被って作業するのが習わしでもあったようだ。しかし農作物の豊作を祈願するもので、立烏帽子を被るとは聞いた事が無い。

「えんぶり」とは、農作業の道具「えぶり」から生じたと云われているが、「えぶり」と呼ばれる道具の殆どは、タタラに関係するものが多い。鈴木卓夫「たたら製鉄と日本刀の科学」には、10項目の「タタラえぶり」が紹介されている。「えぶり」とは「柄振り」であり、柄を振る動作からきているようだ。

この南部氏に伝わる「えんぶり」の起源は、甲斐国の南部実長の家来である橘藤九郎守国から始められたとされているが、刀匠の多くは名前に「国」が付く事から、この橘藤九郎守国も本来、刀鍛冶に携わる人間では無かったのだろうか?

タタラ製鉄の技法は門外不出の重要機密であり、それを知る為に伊達藩が、遠野の南部の経営する上郷町の佐比内鉱山にスパイを放った話「喜助沢」が伝わっている程、藩の生命がかかっていたのが製鉄の技術であっように、簡単にタタラに関するものを表には出せない。しかるにその文化の一つを"豊作祈願"と称して祭の一つに組み入れる事は、南部氏が世間を欺く行為であったのだろう。歴史を改竄し捏造した南部氏は、どうも強かな一族であったようだ。
by dostoev | 2011-02-18 03:49 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(2)

「遠野物語29(鶏頭山)」

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鶏頭山は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にては又前薬師と
云ふ。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決して此山は掛けず。山口
のハネトと云ふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友り。極めて無法
者にて、鉞にて草を苅l鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ
多かりし人なり。

或時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語曰く、頂上
に大なる岩あり、其岩の上に大男三人居たり。前にあまたの金銀を広
げたり。此男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光極め
て恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷ひて来たるなりと言えば、然らば
送りて遺るべしとて先に立ち、麓近き処まで来り、眼を塞げと言ふまゝ
に、暫時そこに立ちて居る間に、忽ち異人は見えずなりたりと云ふ。

                      「遠野物語29」

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薬師を鶏頭山と呼ぶに、少々違和感がある。確かに頂には天狗岩と呼ばれる巨石があり、それが鶏の鶏冠のようであるという説明は、何度となく聞き及んでいる。しかし薬師岳の山全体に及んだ場合、頂の巨石など、小さなイボ程度の大きさでしかない。

寛政生れの、野澤武右衛門という人物がいる。この野澤氏は寺子屋を開き、子供達に学問を教えていたようだ。その教えの教本らしきに「御山先立往来」というものがあり、早池峯への登山の情景などを伝えている。その中の記述に「薬師ヶ嶽」と記されており、その当時は「薬師岳」は「薬師ヶ嶽」と呼ばれていたようだ。文中は淡々と早池峯に関する事が記述されているが、早池峯は松島や敷島など名高い地よりも、早池峯の方が比べ物にならないくらい素晴らしい景観の山だと説いている。また早池峯の七不思議をも紹介しているのだが、その一つの「鶏頭山の鶏の聲」が記されている。

現在の早池峯に連なる山の一つに、やはり鶏頭山があるのだが、この寛政時代の「御山先立往来」でもやはり、鶏頭山とは薬師岳では無く、独立した鶏頭山という山として紹介されている。「遠野物語」は明治時代に柳田國男が編集し記述した書物であり、例えば「サムトの婆」の「寒戸」の実際は「登戸」であった事実があり、他にもいくつかの話に混同や間違いが見受けられる。もしかしてそれを話し聴かせた、佐々木喜善の間違いもあるかもしれないが、「遠野物語」の基本時代とは、明治時代であり、その時代に伝わる伝承であった。明治時代となると、現代から100年ほど前になるのだが、寛政時代とは、その明治時代から更に100年遡る時代である。その100年の間に混同があったのではなかろうか?

「川井村郷土誌」によれば、川井にある鶏頭山大円寺(曹洞宗)の開山は、応永元年(1394年)。その開祖である奥の正法寺から来た月泉和尚は早池峯寄りの「鉄胎の室」という岩窟で修業し、早池峯や鶏頭山に祈願し、早池峯大権現から支峰の鶏頭山から鶏頭の名を授かり、大円寺の山号が鶏頭山となったという。「注釈 遠野物語」では、その月泉和尚の修行した山は現在の早池峯剣ヶ峰であろうという見解を示している。ただ自分としては、山の形状や山の性質からして多分、その手前の安倍ケ城という岩山であったのだと考える。あくまで剣ヶ峰の形は薬師岳に似ている為、薬師岳が鶏頭山と呼ばれていたという意識から、薬師に似ている剣ヶ峰の岩窟で修業したとなったのではなかろうか。また「”支峰”の鶏頭」からの山号を授かったというのも、素直に現在の鶏頭山(1445m)から授かったと考えて問題は無いだろう。鶏頭山も薬師岳も、どちらも早池峯の前に立つ山である。簡単に表現すれば、どちらの山も”早池峯連峰”の一つの霊山となる。どこかで薬師岳と鶏頭山が混同して伝えられた可能性は、当然あるものだと考える。

それと「遠野物語29」の舞台となった山は、やはり薬師岳であろう。何故なら遠野に住む人間が、わざわざ更なる奥に立つ鶏頭山に登るとは思われないからである。また、遠野の町にには、本来の鶏頭山の風評は届いていない筈であるからだ。更に、本来の遠野三山は早池峯・薬師岳・天狗ヶ森の三山と呼ばれ、どれにもやはり天狗の伝承が伝わる事から、この「遠野物語29」の舞台は薬師岳であり、鶏頭山という山の名は、薬師岳と混同されて伝わったものであると考える。
by dostoev | 2010-12-21 19:48 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)

「遠野物語21(ダキニ法と薬師)」

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右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取寄せて
読み耽りたり。少し変人と云ふ方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得
んと思ひ立ち、先ず庭の中に稲荷の祠を建て、自身京に上りて正一位の神
階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚げを欠かすことなく、手づから
社頭に供へて拝を為せしに、後には狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばし
て其首を抑へなどしたりと云ふ。村に在りし薬師の堂守は、我が仏様は何物
をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、度々笑ひごとにした
りと也。

                                   「遠野物語21」

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或時蓮台野にして、大なる狐を追出し、既に射んとしけるに、狐忽ち黄女に
変じて、莞爾と笑ひ立向て、我命を助け給はば、汝が所望を叶へんと云けれ
ば、清盛矢をはづし、如何なる人におはすぞと問う。女答て伝、我は七十
四道中の王にて有ぞと聞ゆ。さては貴狐天王にて御座にやとて、馬より下り
て敬屈すれば、女又本の狐と成て、コウゝ鳴て失せぬ。清盛案じけるは、我
財宝にうゑたる事は荒神の所為にぞ、荒神を鎮めて財宝を得んには、弁才
妙音にはしかず、今の貴狐天王は妙音の其一也。さては我陀天の法を成就
すべき者にこそとて、彼の法を行ひける程に、又返して案じけるは、実や外法
成就の者は、子孫に伝へずと云ふものを、いかが有るべとき思はれけるが、
よしよし当時の如く、貧者にて長らへんよりは、一時に富みて名を揚げんには
とて行はれけども、行く末が後いぶせく思ひて、兼て清水寺の観音を憑み奉り
て御利生を蒙らむとて、千日詣りを始められたり。

                                   「源平盛衰記」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山口孫左衛門は、ザシキワラシが出て行ったために没落した家として有名である。しかしこの「遠野物語21」を読むと、実はザシキワラシとは関係無かったのではとも思ってしまう。「遠野物語21」と一緒に紹介したのは「源平盛衰記」からの抜粋であり、事実はどうであれ平清盛がダキニ法をおこなっていたとの記述となっている。

ダキニが習合された白狐信仰は外法であり、それよにって福を成しても永続しない。平清盛の栄華も永くは続かなかったのも、ダキニ法を信仰したからなのだと「源平盛衰記」は訴えているのである。

ところで山口孫左衛門の父は、当時その一帯を支配していた白狐が蓮台野に没していた為、その蓮台野に塚を造り、その白狐を埋葬したのだと。今でもその白狐の墓石は蓮台野に存在し、また同じ蓮台野には山口孫左衛門が祀ったであろう稲荷の祠がある。新物好きの日本人の性格から、陰陽道の発展型とも思えるダキニ法は、平安貴族の間で広まったのは即効性があるとの事で、昇進を狙う者達に好まれたようだ。平清盛しかり、藤原道長しかり、後醍醐天皇しかり、ダキニの虜となったのは仕方のない事に思えてならない…。

山口孫左衛門の取寄せた和漢の書とは、狐と親しくなり富を成す術と記されている事から、ダキニ法であったのは確実だ。しかし先に書き記したように、ダキニ法は永続的ではなく、飯綱使いの占いと同じように、後半は効果が無くなってしまう。つまり、築いた富は衰退し無くなってしまうものであった。

「遠野物語」一連の流れは、ザシキワラシが家を出た為に没落したとあるが、根本の流れはダキニ法に手を染め夢中になった山口孫左衛門が、そのダキニ法が効力を失って没落したのだともいえる。

しかしだ、ダキニ法なるは幻想であり、実際に効果があるものではない。ただし、山口孫左衛門がダキニに狂ったのは確かで、蓮台野の誰も行かない山中に自らの稲荷の祠を建て祀るという事は、一般的な家の守り神であり商売繁盛、家内安全を願って敷地内に祀られた稲荷とは、まったく性質を異ならせるものだ。そのダキニ法に夢中になった為に、孫左衛門は変わり者というレッテルを貼られてしまう。

だから村内の人物に「村に在りし薬師の堂守は、我が仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、度々笑ひごとにしたりと也。」と言われる始末だ。ダキニ法という邪法など、ご利益があるものか!という村民の言葉ではあるが、村の薬師もまた邪法というか外法でもある。目糞鼻糞を笑うではないが、村民が信じている薬師仏もまた、外法であったという互いの強力なアンチテーゼの物語が「遠野物語21」でもある。。

ところで薬師は、インド密教からきている。薬師仏出自は「リグ・ヴェーダ」のヴァルナ神からきており、実はヴァルナ神=ヤクシャでもあった。ヤクシャは仏教で夜叉と捉えられたが、日本に伝わった夜叉の本来の性格は羅刹の性格からきており、ここに夜叉と羅刹の混同がみられる。ヤクシャは薬叉→薬師と音韻転訛され、今に伝わるのだが、本来は魔族であった。ヤクシャは樹木の神霊てあり、森林に棲むという。その為なのか水神とも繋がっている。京都の鞍馬寺は毘沙門を祀る寺なのだが、毘沙門はヤクシャの王であり、つまり魔王だ。鞍馬寺の奥の院は魔王殿である。この魔王殿を含む一帯の地主神は本来貴船神社の祀る水神であったようだ。

樹と水の関係は深いので、遠野の早池峰の手前にある前薬師と呼ばれる薬師岳は、岩山である早池峰に対比するかのように樹木に覆われている山である。その為なのか、鶏頭山と呼ばれた後に薬師岳と呼ばれるようになったのは、ヤクシャの本義も重なったものなのかもしれない。

「遠野物語21」で薬師の堂守がダキニを祀っていた孫左衛門を笑ったとの記述があるが、元々ダキニもヤクシャもインドの魔族であり、外道な宗教でもあった。山口部落に祀られている俗に「おやくし様」と呼ばれる薬師堂には、薬師と並べて十二支を頭に飾る神像が祀られているが、本来はヤクシャに仕える十二神像の魔族が十二支の動物と呼応し重なる事から、布教の上において禍々しい魔族を隠し、親しみやすい十二支の動物達を前面に出して祀られたのだろう。まさに「遠野物語21」は「目糞鼻糞を笑う」物語でもあった(^^;
by dostoev | 2010-12-09 18:57 | 「遠野物語考」20話~ | Comments(0)