遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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2018年 01月 10日 ( 2 )

化け物馬

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伊能嘉矩「遠野くさぐさ」に、「南部大馬の事」という題名で、他の多くの馬を喰い殺した大馬の話があった。大馬とあるが、それは七尋の馬であったとされる。一尋は約180センチであるから、とんでもない大馬の伝説であるが「三戸手引草」では、尋では無く尺の誤であろうという訂正記事が載っているようだ。ただ林田重幸「中世の馬について」を読むと、古今要覧によれば「四尺(121センチ)の馬を世の常の馬とするがゆえに是を子馬といい、四尺五寸(136.4センチ)を中馬、五尺(151.5センチ)を大馬といい、五尺より上の馬は得がたがるべし」とある。であるから例え七尋が七尺の馬になったとしても、有り得ない大きさの馬の話という事になる。ちなみに、遠野市小友町にある源義経の愛馬の墓とされている小黒だが、恐らくは源義経の愛馬の大夫黒が、小黒になっているのではなかろうか。その大夫黒の大きさが五尺六寸であった事から、鎌倉時代の馬の殆どが四尺から四尺六寸であったとの記録から、源義経の愛馬小黒は、その時代ではかなりの大型馬という事になるのだろう。

ところでこの大馬、他の馬を喰い殺したので、さぞかし残虐かと思えば、さにあらず。悪馬種を絶やす為、明神の命を受けてのものとされ、今でも有戸村に大馬塚があって祀られているらしい。その明神の正体は不明だが、どうやら仏教思想の入り込んでいる事から、仏教説話として広まったものだろうか。ただその明神の正体だが、南部駒の産地としての六ヶ所村は、南部氏の本拠とは目と鼻の先である。その南部氏が信仰していた櫛引八幡宮であるが、その八幡大神が御神輿にてまず、御前神社の明神に挨拶に伺う神事がある事から、明神の正体とは御前神社に祀られる水神であろう。その水神の正体は「早瀬川と白幡神社」に書いている。
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中村禎里「ウマの神性と魔性」読むと、藁馬は、豊穣の神を招く馬であろうとしている。盆の行事で、祖霊を送迎するのが藁馬の元来の役割とされているが、時代を遡ると馬とは特権階級の象徴であり、もしくは神が乗るものとされていたようだ。それ故に仏教的に悪事を働いた人の堕ちゆく先は、馬では無く牛であったようだ。ただ室町期になって、人が馬に堕ちる話が登場するようになったという事であるから、遠野の善明寺に伝わる牛になった男の話「真似牛の角」は、鎌倉時代以前に作られた話であろうか。

それ以前の古代では、馬は水神と結び付いていた。水を支配し、水田耕作の豊凶を左右する神でもある水神と馬が結び付いていた。その豊穣神が馬に乗って、山と里を行き来する信仰が生まれた。これは山神が春になり田に降りて田の神になり、秋に山へと帰り、山神になるという話と同じである。早池峯神社の大祭では、神輿が担がれ、境内の外に出る前に駒形神社に寄るのは、早池峯大神が馬に乗る為でもある。つまり早池峯大神と馬は、セットでもあるという事。
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この大馬の産地は、陸奥国上北郡六ヶ所村は、古来から名馬を生産する地であり、源頼朝が所有した名馬”生食(いけずき)”の産地であるとしているが、生食の産地は、他地域の説もある。「いけづき」という名に生食という漢字があてられているが、池月という名が別にある。ただ「生食」は”生き物をも食らうほどの猛々しさ”を意図している事から、もしかしてこの六ヶ所村の仏教説話が「生食」の名の出所であろうか。草食の馬が肉をくらう事は無いのだが、人を喰らう馬の話は「小栗判官」の話にも登場する。この「小栗判官」に登場する人を喰らう馬は死後、馬頭観音として祀られる事から、もしかして有戸村の大馬塚には同じく馬頭観音碑があるのではなかろうか。遠野市小友町に入り口には、沢山の馬頭観音碑が並んでいる。ただこれは道路工事の際、散らばっていた馬頭観音碑をまとめたものであるというが、大抵の場合、馬頭観音碑は村境に置かれるものだとされる事から、元々は小友の町の入り口に建てられたものを一ヶ所にまとめられただけなのだろう。遠野市二日町の駒形神社の御神体は、巨大な石の男根である。一般的に勃起した男根は魔除けの力があるとされるが、人間の男根よりも巨大なのは馬の男根である。それ故に、二日町の駒形神社の御神体である男根は、馬の男根を意識しているものと思える。その疑似馬の男根が馬頭観音碑となるのならば、村境に魔除けとして置かれるのは当然の事だろう。コンセイサマで有名な山崎のコンセイサマもまた、より大きな自然石の男根が発見されれば、その御神体の座を譲るとも云われる。世に大きな男根は魔除けであるなら、人間よりも大きい馬。その馬の中でも巨大な馬はもはや神の領域であろう。先に紹介した大馬の話は、元々神馬の話が歪曲され伝わったのではとも思えてしまうのだ。そうでなければ、明神の意を汲んだ大馬が、その死後に塚が作られ祀られる筈もないではないか。
by dostoev | 2018-01-10 22:23 | 民俗学雑記 | Comments(0)

「遠野物語拾遺237(山の神)」

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この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産ま
れぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じ様にしつらえ、
山の神様をお迎えに行く。その時はすべて馬の往くままにまかせ、人は
後からついて行く。そうして馬が道で身顫いをして立ち止まった時が、山
の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。場合によ
っては家の城前ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても
馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産
があるのが常である。

                   「遠野物語拾遺237」

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山の神が馬に乗るというのは、暗に馬とは神の乗り物という意味合いを示している。上記の写真は、柳久保遺跡から出土したもので、馬に乗っている神をあらわしているという。それが征服した騎馬民族の姿なのかどうかわからないが、古代の東北には馬がいなかった。考古学的には、弥生時代以前には馬は日本に存在しなかったとの事。「魏志倭人伝」においても、日本に馬はいないとの記述がある事から、3世紀に日本には馬はいなかった…。

では、いつから馬が東北に入り込み、神の乗り物として存在するようになったのだろうか?「遠野物語拾遺237」では出産にかかわる話である事から、山の神が人の生死に関わる存在であり、それに繋がりを持つのが馬という事なのだろう。
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遠野の駒木という地域に、蒼前神社というのがある。こここで祀られているのは馬であり、それも葦毛の馬だ。この神社の創建の由来は、八幡太郎義家が桔梗が原で狩りをしている最中、愛馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀り「脛折り蒼前」と名付けたという説と、この神社の北東の方向にマンコという長者がいて、その愛馬が倒れ死んだ為に、供養する為神社を建立したという説の二つがある。ただしいずれにせよ「蒼前」という名前が付く。ところで蝦夷の歴史を調べると、渤海との交流が盛んであったようだ。

これは偽書と云われる「東日流外三郡誌」の記述ではあるが「安部一族遠征録」という項目に、貞応元年(1222)5月7日に、粛慎国に渡り、太刀と交換して、17頭の名馬を船積みして、8月16日十三浦に帰港したという記述がある。実際に安部氏一族は、十三湊を拠点として貿易に従事していただろうと云われる事から、この「東日流外三郡誌」もあながち嘘を書いていないのだと思う。


神亀4年(727年)9月に渤海使節団が初来日したという。出羽国北部に着いた後、宝亀2年(771年)やはり渤海の使節団325人が17隻の船で野代湊に着いたと、平安時代前期まで、何度も出羽に来航している。当時の朝廷は、何度も九州に来航するよう勧告したようだが、渤海側の意図は、安全な航海という意図から出羽への航路が伝統的に安全であったようだ。だからこそなのか、当時の朝廷との交流よりも渤海は蝦夷との交流を深めていったようだ。何故なら、いつも温かく出迎えていたのは蝦夷の民であったのだろうから。

遣唐使や遣隋使が合計12回しか行われなかったのだが、渤海の使節団は200年間に渡って、分かっているだけで35回もの来航を果たしている。もしかしてだが、歴史に残らない蝦夷との国交を含めれば、かなりの数の来航を果たしていたのかもしれない。渤海は、高句麗滅亡後に建国された国だ。つまり高句麗の息吹を受け継いでいる国であったという事だ。渤海は馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていた事が知られている。そしてそれ以前の高句麗もまた馬の生産を重視していた。
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平壌近郊に徳興里古墳があり、壁画には流鏑馬の場面が描かれている。様々な馬の壁画の中で際立った1頭の馬が描かれているという。それは、他の馬よりも馬体が大きく、姿態も躍動的な葦毛馬だという。高句麗でも渤海でも、葦毛の馬が尊ばれた歴史というか信仰に近いものがあったと伝えられている。その伝説の葦毛馬の名前を「騣騚(そうぜん)」と呼ばれる。

先に記した「蒼前神社」など、何故か東北には「そうぜん」と音読する神社などが鎮座している。高句麗て神秘の馬とされた騣騚は、日本国…いや、蝦夷の国の中で神の馬として信仰された。この「そうぜん」は、中世以降、馬頭観音と結び付き、明治時代の神仏分離で駒形神社と改名したりと、本来の実名である「蒼前(そうぜん)」という実名を失ってきてはいるものの、未だに…例えば遠野の駒木地域の蒼前神社のように本来の名前を保っているのもある。
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ここからは仮説になるのだが、とにかく日本に馬が入ってきたのは漠然としているが弥生時代以降という事。また渤海との交流が深かったと記したが、蝦夷の馬を考えた場合、それ以前の高句麗との関係があったと考えるのが普通だと思う。高句麗でも馬を神聖視する信仰があった。だから柳久保遺跡で出土した絵は、やはり神が馬に乗っている姿であると考える。

つまり、蝦夷の国に馬が登場した時の蝦夷の民の馬を見る眼差しというものは、既に神がかっていたのではないだろうか?オシラサマの話の原型は、中国の「捜神記」と云われる。確かに遠野などに伝わるオシラサマの話とそっくりだ。オシラサマの話は獣婚という国津罪に加え、娘を抱いて天に昇るという龍との結び付きも見られ、神がかり的である。そこに登場する蚕は、養蚕の奨励とも取れるが、日本古来から続いている穢れ祓いの人形の元でもある這子という人形に辿り着く気がする。これは「古事記」においてイザナギとイザナミが最初に産み落としたヒルコと同じもので、足の立たないもの。つまり、足の立たない這子をヒルコと見立てたもので、やはり人の罪の深さを示すものであると考える。その人の罪を運ぶものは馬であり、それも葦毛の馬だ。馬の最高位は龍となるのだが、オシラサマの話を考え合わせても、その人の罪を運ぶものは白馬であり白龍となるのだと考える。

馬は人を”乗せる”ものであるのだが、実は人を”運ぶ”ものだという考え方も成り立つ。人の罪を運ぶ媒体としての白馬。つまり神の使いとしての白馬は白龍でもあり、だからこそオシラサマの話は受け入れら蝦夷の国であった東北に根付いた。つまりそれ以前には既に、神の乗り物、もしくは神そのものとしての神馬として蝦夷の国に馬は訪れたのかもしれない。

ところで「遠野物語拾遺237」に立ち返るが、遠野だけでは無いのだが祖霊信仰というものがあり、人は死んだら御山に帰るというものがある。だから神と云えば大抵の場合、山神となってしまう。また山に対して豊穣を願うのも、山そのものが生命の根源であると信じられていたからだ。

山というものは、樹木を生み出し、木の実やキノコを生み出し、獣を生み出し、また水をも生み出す。その山から生み出された水が里に注ぎ、人々の命を育んでいる。つまり、山そのものが、生死を司る存在である。だからこそ、その山に鎮座する山神に認められてこそ新たな命が育まれるのだという信仰心が芽生えたのだと考える。その山神を乗せる生き物が、やはり神の乗り物としての馬であり、白馬だ。そして遠野の場合、山神といえば、遠野の北に聳える早池峯という御山であり、その姿として表わされるのが、白馬に乗った女神の姿となる。いや、馬は姿を変えて龍となる事もあるのだ。
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ところで山を生活の生業とする者にマタギというものがいる。このマタギを漢字表記すると”股木”となって、山中で二股に分かれた木は山の神の神木として扱うからきている。例えば、動物を殺生した場合、股木の塔婆を立てて供養する。つまり、山から生まれたモノの生き死にに関わる者としたのマタギという意味となる。二股の木というものは、女性の股を意味し、そこから生命が生まれる。つまり、生き物を殺しても供養する事によって再び生まれ変わる儀式を行うのがマタギという生業に携わる者達の掟でもあった。ただし山の神信仰には二通りあり、山に携わる者の山の神信仰と、農民等の信仰する山の神信仰だ。山に携わる者の信仰は産に関する信仰が無く、女を避け、男だけが祀るものとなる。

また何故か六という数字を山の神が好むのは、山の神を助けたのが6人のマタギであり、それ以来1つ増えての7という数をマタギは嫌うのだと。もしもマタギが7人いる場合は、同行した犬の数を数え足して7人では無いという事を山の神に示すという。

マタギの妻などが出産した場合”赤不浄”と云い、タギは7日間猟を休んで山に入ってはいけない。この七日間は先ほどの7という数字が忌み嫌われる数字だからだ。また現在も遠野では、妻の出産に伴い、旦那は仕事を休まなければいけないとの決まりがあるのだが、これは建築系の仕事に携わる人にだけ今尚伝わっている。

現在の遠野では、大抵の場合、山の神とは女神であるという認識の元に成り立っている。ただし、遠野にはいくつか山神神社なるものが山裾などに建立されており、大山祇神を祀っている場合がある。

ところで大山祇神だが「古事記」において木花之佐久夜毘売は大山祇神の娘という事になっている。

「あはえ白さじ。わが父大山津見の神ぞ白さむ。」

木花之佐久夜毘売の別名は、神阿多都比売といい「神」は”神聖”な意味を表わし「阿多」は地名だ。これと似たような呼び名の姫が一人いる。阿蘇神社に祀られている健磐龍命に嫁いだ阿蘇津姫だ。やはり嫁いだ為に阿蘇という地名を受けて阿蘇津姫となっているようだが、どうも神阿多都比売と同じ方式で名乗っている気がするのだが。ところで嵯峨天皇は810年に、こう述べている。


「素尊はすなわち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇めたまいしなり」


ところが愛媛県の大山祇神社には「記紀」の成立以前に建立されているのだが、社記には、こう記されている。


「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神であるので

     日本民族の 総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。」



嵯峨天皇の記述と、愛媛県の大山祇神社の社記の意味を考えると、大山祇神も素戔男尊も同列になっているのだが、本来伝わっているのは皇国の本主は天照大神であり、日本の総社は伊勢神宮となるのが一般的だ。

九州のある地域での山の神とは、素戔男尊であるという。ところが東北では漠然とただ「山の神」と記されて、たまに大山祇神が祀られているのだが、素戔男尊が山の神として祀られている例はまったく無いと思われる。だがどちらにしろ、山の神のイメージとしては男神になるのだが、何故か東北では女神とされる。しかし、山神神社で祀られている神像の大抵は男神であるのは何故であろう?

山神は、男か?女か?という話となっているが、吉野裕子著「山の神」では、何故「古事記」と「日本書紀」においてのヤマトタケル記で登場する山神の使いは、イノシシであったりヘビであったりするのか?という疑問に答えている。

十二様とも呼ばれる山の神を十二支に例えれば、十二番目が亥となる。亥とは陰陽五行に照らし合わせると全陰となり、女を示す。その対極にあるのは巳であり、全陽を示し男となる。そしてもう一つ、吉野裕子は提言している。ヤマトタケル記の背景には、古代日本を動かしていた二つの信仰があると。その一つは、男に対して持つ女の力と、もう一つは山の神の巨大な力だと。ヤマトタケルは姨である倭姫命から贈られた贈り物によって難を次々と逃れているいるのは、オナリ神の典型的なものであり、山の神に唯一対抗する手段が女の力でもあった。

またヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣は山の神の象徴でもあり、それを携えなかったヤマトタケルは命を落とした。つまりこれこそが、最終的強者であり、絶対的存在とは山の神であったろうと語っている。

東北での山の神とは、女神であるから山で男根を露出したり、海のオコゼを見せると願いが叶うとされた。これは後付けだろうが、オコゼとは月偏を使用する漢字で「鰧」と書き表し、音読みでは「トウ」と読む。これは「刀」からの変化した漢字であるようだ。「刀」の本来は、あの反った形が三日月をイメージしており、月の変若水とも結び付き、いわゆる地母神を現し、山の神と深い関わりを持つ。またオコゼは「虎魚」とも書き記すのは、聖なる山の守護獣の資格を持つものであり、金の鯱(シャチホコ)が城の守護を果たすのと同じ意味を持つ。ところで何故に後付けかというと、以前の
朝廷側の剣は両刃の直刀であり、後に蝦夷の角度のついた蕨手刀の技法を取り入れ日本刀の原型となった為、時代的に山の神を考えた場合、オコゼと刀と三日月を結び付けたというのは、やはり後の時代からだと思うからだ。

また熊野を有する和歌山の沿岸区域では、ヒメオコゼを「イザナギ」と呼ぶというのは、イザナギそのものが海人族の信仰する神であり、それがいつしか山の神と結び付いたのだと思う。オコゼを調べると、海オコゼと山オコゼという二種類ものがあるのがわかった。海オコゼは、海のオコゼそのものであるが、山オコゼとは気味の悪いもの全般を称して山オコゼと言ったらしい。そしてその山オコゼの中に、実は”蝮(マムシ)”が含まれていた。マムシは頭が三角形という、ヘビの典型的な象徴であり、まさに山で男根を露出するというものと、オコゼを捧げるとは同義であった。

そうなれば、気持ち悪いものとして後に海のオコゼが注目を浴びて、いつしか山の神に供えるものとして成り立ったのだろうが、何故海の魚を「オコゼ」と呼ぶようになったのか?「オ」は敬称だとしても「コゼ」とはと調べたら、希望を表わす接尾命令形の古語として、「…シテクレヨ」というものがある。例えば…「それ、よコセ!」というものは、正しくは「それをよこシテクレヨ!」となる。つまり、希望・願望を叶える言葉としての「シテクレヨ」=「コセ」が山の神に対する願いを託す時の「オコゼ」として広まったのではなかろうか?
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「日本書紀」の五十猛の登場する神代の第八に、こうあった…。


素戔男尊の曰はく、「韓郷の嶋には、是金銀有り。若使吾が兒の所御す國に、
浮寶有らずば、未だ佳からじ」とのたまひて、乃ち鬚髯を抜きてた散つ。即
ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是柀に成る。
眉の毛は是櫲樟に成る。巳にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち稱して曰
はく、「杉及び櫲樟、此の两の樹は、以て瑞宮を爲る材にすべし。柀は以て
顯見蒼生の奥津棄戸に將ち臥さむ具にすべし。夫の噉ふべき八十木種、皆
能く播し生う」とのたまふ。



つまり、素戔男尊の体の毛を放ち、毛という毛から、様々な樹木が生えて、また樹木の神でもある五十猛命も素戔男尊の息子であるから、日本国に樹木植えて、緑を広げたのは素戔男尊だった。その素戔男尊の息子である五十猛命はやはり「日本書紀」の神代第八段で…。


初め五十猛神、天降ります時に、多に樹種を將ちて下る。然れども韓地に殖
ゑずして、ことごとくに持ち歸る。遂に筑紫より始めて、凡て大八洲國の内に、
播殖して靑山に成さずといふこと莫し。所以に、五十猛命を稱けて、有功の
神とす。即ち紀伊國に所坐大神是なり。



これより、日本国中を森林の国にしたのは素戔男尊と、その息子である五十猛命によるものだったのがわかる。そしてその森林が発生する山の神として素戔男尊が祀られるというのは納得するものだった。

この「日本書紀」を読むと、まず筑紫から森林を植え始めたとある。現在の九州だ。だから原初の山の神は素戔男尊であった可能性はあり、九州の一部で山の神は素戔男尊であると祀られているのは、日本古来の原初の信仰が残っていたからなのだろう。つまり、だんだん北上するにしたがい、素戔男尊の名前が薄れてきて、単なる山の神という呼称になさって伝わっただけなのかもしれない。いや、今でも東北にはかなりの素戔男尊を祀る神社があるというのは、古代の東北においての山というものは絶対的な信仰の対象であった為、その山の神である素戔男尊の名前だけが残って信仰されてきたのかもしれない。

ここで気になるのは、素戔男尊の毛から生えていない松の木の存在だ。古代日本には松の木は無かったという。それが弥生時代となって輸入されたのが松の木だった。中国・朝鮮半島では松の木は、常緑樹であり、不変の木、神の依代として信仰された木だった。だから、神話や伝承、もしくは能楽などにおいても松の木が珍重されているのはある意味、古代日本の樹木信仰文化を大和朝廷が乗っ取ったという証なのかもしれない。

「日本霊異記」や「今昔物語」などでも、町を覆う大木によって農民が困る為に伐採する話が数多くあるのは、農民=弥生人という文化である為に、縄文文化の駆逐の意味合いが深かったのかもしれない。つまり素戔男尊が山の神であるというのも、大和朝廷にとっては隠しておきたいものであったのだろう。だからこそ祭神を隠し、古代からの信仰された樹木から、新たに輸入された松の木に、その信仰を移動させたのだろう。それは例えば「天女伝説」を普及させ、天女の羽衣が松の木にかけてあるのは、神の依代であるという意識を持たせての伝説の伝播となったのではないだろうか?本来、天女伝説などは全て日本古来の伝説では無いのだから…。
by dostoev | 2018-01-10 22:07 | 「遠野物語拾遺考」230話~ | Comments(0)