不思議空間「遠野」 -「遠野物語」をwebせよ!-
2024-01-08T21:47:46+09:00
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遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
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「現代遠野物語」 第百二十話(笛吹峠の人骨)
http://dostoev.exblog.jp/33777747/
2024-01-08T21:47:00+09:00
2024-01-08T21:47:46+09:00
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「現代遠野物語」120話~
宮守町の女性が嫁いだのは、昭和時代の事であった。その当時の呪い屋敷の姑は、まるで西洋の童話に出てきそうな赤毛の魔法使いのお婆さんの様であったそうだ。実は、その姑の血筋は、笛吹峠の鉱山で働かされていた外国人であった。そしてその姑は、巫女でもあった。ある日、その姑が能舟木から笛吹峠へ抜ける旧道を歩いている時、とある方向を指さして「あそこは、恐ろしい。」と怯え、家に帰った事があった。その後、その姑が怯えた辺りが大雨で流れた時に、おびただしい人骨が出てきたそうである。ただ、その人骨がどういったものなのかは、わからないそうである。
処刑場跡地から、おびただしい人骨が出てくることは、よくある事である。しかし、歴史的に笛吹峠の一角に処刑場があったという話は知らない。恐らく、旅人が殺され埋められた場所の可能性があるだろう。「遠野物語5話」に笛吹峠を避ける話が載っているが、もしかしてこの人骨との関連もあるのかもしれない。
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「現代遠野物語」 第百十九話(処刑場跡 其二)
http://dostoev.exblog.jp/33777676/
2024-01-08T21:14:00+09:00
2024-01-08T21:14:37+09:00
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「現代遠野物語」110話~
ところでその発見された人骨だが、そのあたり一帯は宮の目の処刑場と呼ばれる場所であった。文献には処刑場の名前は載っているが、詳しい場所は不明であった。その事から、恐らく宮の目の処刑場で処刑された罪人が埋められた地であったと思われる。
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「現代遠野物語」 第百十八話(処刑場跡 其一)
http://dostoev.exblog.jp/33777665/
2024-01-08T21:06:00+09:00
2024-01-08T21:06:09+09:00
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「現代遠野物語」110話~
たましいの歩く街
http://dostoev.exblog.jp/33720904/
2023-12-19T10:53:00+09:00
2023-12-19T10:53:23+09:00
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遠野怪奇場所
「遠野町古蹟残映」に「たましいの歩く街」という記事がある。内容は、下記の通りである。
「遠野町の一日市の下角、大工町と鍵町、新町と続く所に、旅館がある。遠野町の西側一帯の地に寺院が八か寺もある。遠野の人達が死亡すると必ず、ここを通りそれぞれの檀家寺に納ることになっている。霊魂も同じようである。旅館の仏間に就寝しているお婆さんに真夜に仏達が立ち寄る、お婆さん独り言、「くやくやと」一晩語る声がすると必ず誰かが死んでいた。また昭和十九年頃のことである。遠野町の政界を二分していた一方の雄、M氏が死去したので、その旨を、常に政治的に対抗するK氏も病気で伏していたのでM氏が死亡したのを告げると、昨晩M氏の霊魂が寺に行く途中、立ち寄り、「一緒に行くべ」と言うから、私はまだ行かれないと言ったら淋しく立ち去ったと、既にM氏は死亡を知っていた。」
新町という名が出て来るが、新町は寛永四年(1627年)に「多賀の里」及び「六日町」と「一日市」とを結ぶために「新町」を作ったとされる。ところで、その新町には私の檀家である時宗の常福寺がある。新町からその常福寺への入り口のところに、以前はT医院があった。そしてそのT医院が建つ以前は、今は無くなった菊善工務所の一族が住んでいた。元々の土地の所有者は、どうなのかわからないが昭和40年代になり、遠野市で利用するので菊善工務所の一族はその住んでいた土地から立ち退き、代わりに建ったのがT医院だった。
ところで菊善工務所一族が、そこに住んでいる時に、頻繁に幽霊を見たそうである。冒頭の「たましいの歩く街」の解説にあるように、霊魂もそれぞれの檀家の寺に集まって来ていたのだろうか。もしかして、菊善工務所一族の住んでいた地は、常福寺へ集まる霊魂の通り道だったのだろうか。
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夜泣きと乳の粉
http://dostoev.exblog.jp/33716979/
2023-12-17T19:44:00+09:00
2023-12-17T19:44:59+09:00
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dostoev
民俗学雑記
遠野高校の敷地内の一角に、夜泣き神様(夜泣稲荷)の社が鎮座している。赤ん坊などが夜泣きすると、夜中でも行って参拝すると、不思議に夜泣きが止んだという。夜泣きは、今も昔も赤ん坊がするものだが、神様にすがるほど昔は夜泣きに苦労したのだろうか。赤ん坊の夜泣きの原因は、単純に言えば赤ん坊にとっての不快感だろう。蒸し暑い、寒い。煩い。お腹が減った。体調不良etc。不快感を親に訴える為に、泣く。そういう意味では、現代よりも昔の方が不快感は多かったろうと思う。沢山美果子「江戸の乳と子供」には、乳の出ない母親の代用品としての「乳の粉」の事が書かれている。「乳の粉」とは、寒ざらしにした米の粉を水で溶いで煮沸した乳の代用品との事。その乳の粉の宣伝文句は「ちゝなき子をそたてる薬」と書かれており、現代での過大広告を思い出す。値段を現代に換算すると、一袋が約563円になるそうである。それが高いのかどうかは、なんとも言えない。ただ成分に着目すれば、米問屋あたりが販売すれば、ぼろ儲けになったのではなかろうか。こういう乳の粉というものが売り出される自体が、それだけの需要があっての事なのだろう。この乳の粉は江戸を中心に、四国や東北まで広まっているようだ。「仙台郷土研究」には、一関藩(現在の一関市)の武士が、妻の産後の肥立ちが悪い事から、藩に対して乳の粉の支給願いを提出している事が記されている。遠野は南部藩であるが、恐らく遠野にも乳の粉は伝わっていたのではなかろうか。ところが、明和生まれの江戸時代後期の絶対主義的思想家である佐藤信淵が、その著である「経済要略」の中で、「世間で「乳の粉」と言って、乳の乏しい家で用いるものがあるが、これを長く用いると背中に酸汁を生じ、或いは癇癪を発す。必要の良法に非ルナリ」と乳の粉に警鐘を鳴らしている。事実、林俊一「農村の母性と乳幼児」によれば、貧しい東北の農村では昭和期になっても乳の粉が用いられ、それが乳児死亡の原因とする調査もなされているようだ。
医療技術の発達した最近では、あまり聞く事が無くなったが、昔は産後に死亡する母親もかなりいたらしい。そうなると、残された父親や、その祖父母が赤ん坊の面倒をみなくてはならない。そんな中、泣きわめく赤ん坊に取り敢えず乳の粉を与える人達がいたのではなかろうか。
以前某テレビ番組で、ある部屋に置かれている物を少しだけ移動して、それをそれぞれ複数の男女にそれを見つけてもらうという実験があった。そして、それを発見するのは全て女性であったと。その番組では、女性は"空間把握能力"が男性に比べて遥かに高いのは、赤ん坊の微妙な表情を読み取って判断できるからだと。だから子育ては、女性が適していると。ところが、それが江戸時代であれば、その母親が亡くなれば、その赤ん坊の死亡率がかなり高まるという事だろう。
もしかしてだがこの夜泣き神様には、貧しい遠野の民が様々な理由から乳の粉に手を出して、癇癪を頻繁に起こした赤ん坊が多く連れて来られたのではと想像してしまうのだった。泣き止んだのは、親に抱っこされ散歩した事から、その赤ん坊の機嫌が良くなったなどの可能性もあるだろうか。
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イルミネーション
http://dostoev.exblog.jp/33713871/
2023-12-16T19:31:00+09:00
2023-12-18T18:33:23+09:00
2023-12-16T19:31:59+09:00
dostoev
遠野情報(雑記帳)
平成の、いつからだったろうか。画像の様に、遠野駅前の公園を電飾で飾るようになったのは。それ以前は、こういう公共の場所ではなく、遠野の街で店を営んでいる人達が各々クリスマスの商戦を意識して飾っていた。とは言っても、こんな大々的なものでは無くこじんまりとしたささやかなものだったと記憶している。こういう派手な電飾が行われるようになったのも、LEDの登場が大きいだろう。東京では、こういったイルミネーションがあちこちで飾られ、イルミネーションツアーなるものもあるらしい。まあそれも人口に比例するものだから、遠野はこのくらいで丁度良いのかもしれない。12月18日に、銀杏の木にもカラフルな照明が当たるようにバージョンアップ。
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天国に召されそうになる曲
http://dostoev.exblog.jp/33681927/
2023-12-11T21:31:00+09:00
2023-12-11T21:31:27+09:00
2023-12-11T21:31:27+09:00
dostoev
よもつ文
昔、CDショップを眺めていたら、一枚のCDに目が止まった。「グレツキ交響曲第三番(悲歌のシンフォニー)」という表題が付いている。作曲家のグレツキ…『知らないなぁ…。』。古典的な作曲家は、いろいろな場面で名前を聞く場合があるが、現代音楽の作曲家は、余程じゃない限り記憶に残らない。その当時、現代音楽の枠組みであっただろうストラヴィンスキーでさえ、もう古典的作曲家みたいに感じる。このグレツキの交響曲の三番が作曲されたのは1976年。恐らく、日本という土壌から、このグレツキの交響曲は、かなり遅くなってから宣伝されたと思われる。まあとにかく、このCDを購入し、家に帰って聴いてみた。
自分は、クラシックをじっくり聴く時は、部屋を暗くして聞く場合が多々ある。しかし今回は、布団に入って寝ながら聴くというだらしない格好をしてみたのだった。冒頭、低弦の音が響いている。ボリュームを低く設定していたので、よく聴き取れない。そこで、そこそこにボリュームを上げてみた。しかし、オーケストラ演奏の音楽は、ボリューム設定が難しい。ピアニッシモに合わせれば、フォルテッシモの時に大変になる。ただ、こういう音の強弱が胎児に刺激を与えるので、クラシックが胎教に良いと云われる所以だ。
冒頭の低弦は、ラヴェル「ボレロ」のむように同じメロディーを繰り返し演奏している。それが幾重にも結びついていき、クライマックスへと繋がるのだが、この響きが錯覚を呼び起こす。何と言うか、低弦の響きは重い響きではあるが、とても暖かく心地よい響きなのだ。そして先に書いたように、この曲を寝ながら聴いていたが、いつのまにか自分の体が浮遊し始めたかのように感じてしまう。いやこの時は実際に、体がフワ~ッと浮くような感じになった。
作曲家のグレツキは、ポーランドのアウシュビッツ収容所のある地で生まれたようだ。そして、この「悲歌のシンフォニー」で採用された詩は、アウシュビッツ収容所での少女の詩である事からも、恐らく魂の救済を意図したものだろうか。とにかく単純に表現すれば、体が浮遊し天国に召されていく感覚。実際、天国らしき場面では、美しいソプラノと、悲痛な叫びのような歌も交えていた。説明から想像するに恐らく、アウシュビッツ収容所で非業の死を遂げた少女の悲しみと、天国に召された安らぎが同居しているかのような音楽。
ところで、この曲を最近また聞き始めている。ただ出来ないのが、寝ながら聴くという事。いつの間にか自分自身が、死を意識する年代に突入した。実際に、すでに何人かの同級生も亡くなっているのだから、意識しない筈も無いだろう。ただ逆に、意識するからこそ、この曲を寝ながら聴けなくなっている。何故なら、寝ながら聴いていると、そのまま天国へ行きそうになる曲だからだ(^^;
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遠野不思議 第九百四十三話「見返しの滝」
http://dostoev.exblog.jp/33623239/
2023-11-23T20:04:00+09:00
2023-11-23T20:04:36+09:00
2023-11-23T20:04:36+09:00
dostoev
遠野各地の滝
「上郷聞書(地名編)」に、大正二年頃に撮影された見返しの滝が紹介されていたので、ここでも記録として紹介しておこうと思う。
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本当は恐ろしい東北六県の謎
http://dostoev.exblog.jp/33611026/
2023-11-19T20:30:00+09:00
2023-11-21T00:42:20+09:00
2023-11-19T20:30:04+09:00
dostoev
民俗学雑記
往時は今の土淵村を中心とし、松崎村の一部、附馬牛村の一部を総称してキタガメ(Kitagame)といへり。キタガメは、蓋し「日高見」即ち「北上(Hitakami=Kitakami)」と同源の夷語に出でたる地名として見るべき如し。
「遠野くさぐさ(キタガメ)」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー遠野から車で107号線を走り北上市へ行く場合、北上の街の手前に北上川が流れている為に、珊瑚橋を渡っていた。ところが後から、日高見橋が造られ、今では普通に日高見橋を渡っている。日高見橋の完成は、平成五年(1993年)。翌年の平成6年には鬼の館がオープンしているので、この頃は北上市が大々的に歴史と民俗を宣伝し始めたのだと思う。ところで「北上(キタカミ)」は確かに伊能嘉矩の言うように「日高見」の可能性はあるだろう。しかし、その前に「北上」は「ホクジョウ」と読む。
例えば「上京(ジョウキョウ)」という言葉がある。以前の都は、平安京のある京都である事から、都を中心とした考えから上京とは、京都へと行く事だった。ところが、徳川幕府が江戸城を構え、中心が江戸へと変わっり、明治時代になり皇居がその江戸城となった事から、今の都は東京という事になり、「上京」するという事は、東京へ行くという事になった。ところが、紀元前から中国の定説であり、日本に輸入された考えが「天地玄黄(てんちげんこう)」であった。これは、東西南北を守護する四神という四方に拡がる水平軸の考えよりも単純な、天と地という垂直軸により成り立っているという観念。そして天とは玄であり、黒。これは陰陽五行において、北を表す。また地とは、黄で示すのだが、これは地面の更なる下の黄泉をも含むものとなる。つまり古代中国の天とは、北の事であった。厳密にいえば、北に聳える山。そして古代中国における玄武とは、水神を意味すると云う。これを日本に当て嵌めれば、北上とは東北・北海道へと向かう事でもある。辞書で「北上(ホクジョウ)」と調べても、ただ単に「北へ向かう事」とだけ述べている。ところが先程述べた「天地玄黄」に則って作られたものが地図である。地図の常に上は、北となっている。これはむ北が天を意味しているからであった。しかし、それでは面白くない人達が大勢いる。例えば、河北新報社の名称の由来は、明治時代の政府の人に「白河以北一山百文」と、東北を軽視した発言に奮起して名付けた社名となったのは、余りにも有名。そんな言葉を吐く明治政府の人間が「北上」が天を示す言葉であるのを、許せる筈も無かっただろう。
東北が軽視されていた明治16年、上野に駅が開設された。明治24年には、青森まで26時間で到達する線路が開通し、"東北の玄関"とまで言われた。しかし"東北の玄関"とは、奇妙な言い回しである。何故なら、風水により鬼門の玄関は不吉とされていたからだ。何故なら、江戸城(皇居)から上野の地は鬼門として扱われていた。その鬼門に"東北の玄関"を設置したのは明治政府だった。わたしはこれに対し、常々違和感を抱いていた。そしてもう一つの違和感は、何故に東北六県だったのか。明治四年(1871年)に、明治政府の行政改革である廃藩置県によって、東北の地は六県となった。
ところで遠野市小友町に、「六地蔵と冥道」という名所がある。謂れは明確でないが、全国に広がりを見せる話から来てるものと思われる。その話とは、「昔ある人物がに夜道を歩いていると、道の分岐点に差しかかったという。ところがどちらの道へ行って良いのか迷っていると、六体の地蔵さんが現れ、行くべき道を指してくれたという。」である。「遠野物語拾遺223話」に六道の石碑の事が書かれているが、"六道"とは「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上」であるとされる。または、第六天魔王などがいる事からも、六という数字は不安をあおる数字である。これが西洋となれば、666は悪魔の数字となる。何故、東北六県なのだろうか。例えば個人的見解だが、津軽と南部の争いから、青森と八戸を分けても良かったのだろうが、同じ青森県に属したのは地形だけの話だったろうか。
東北六県の一般的な説は「陸奥(むつ)」だから「六つ(むつ)」に分けたとの事。しかし「六つ」という用法は、「暮れ六つ」「明け六つ」などで、酉の刻から卯の刻。つまり「六つ」とは、暗くなってから明るくなるまでの"闇の時間帯"に使用する。思えば古代、常陸の国から蝦夷国の境界に、境の明神と呼ばれるものが設置された。常陸国側には、「伊弉諾」が祀られ、蝦夷国であり現在の福島県側には、「伊邪那美」が祀られた。これは何を意味するのかと言えば、「古事記」では"千引きの石"によって、生きている人間の世と黄泉国である死者の世が分けられた。そう、伊邪那美が祀られた側は、黄泉国である闇の世であるという意味となる。まさに六つの時間帯は闇の世である。
東北の玄関である、上野駅に戻ろう。江戸城(皇居)から上野駅は、鬼門である。その鬼門からやって来るものとは誰か。それは、鬼である。さんさ祭の謂れは、坂上田村麻呂が悪い鬼を退治して、村人が「さんさ、さんさ」と喜んび踊った事からと伝えられるが、その悪い鬼とは蝦夷であった。宮元健次「江戸の陰陽師」によれば、青森県には北斗七星型に、七つの神社が建立されたという。神社そのものが、都の文化であった。その七つの神社から、蕨手刀が出土したという。蕨手刀は、蝦夷が使用した刀と認識されている。平安時代、神社は現世利益を唱えて、人を集め利益を上げようとした。現代でも、御利益を期待して神社を参拝する人が、後を絶たない。それが迷信の横行する古代ともなれば、それを信じてどれだけの人が訪れたのか。
「鬼を以て鬼を制す」という言葉がある。例えば、前九年の役で安倍氏が破れたのは、古代東北の蝦夷直径の在地豪族である清原氏の裏切りが大きかった。ある意味、清原氏の裏切りも、鬼を利用して鬼退治した話、つまり「鬼を以て鬼を制す」であった。相撲の四股とは、地鎮祭の原初でもある。つまり地面を踏み固めるとは、その地を鎮める行為である。それでは、青森県の神社に埋められていた蕨手刀は、どう意味だったか。つまり、現世利益を信じて神社に集まって来るのは、蝦夷国の住民。その大勢の住民が訪れる事により、その地が踏みしめられ鎮まる。その下には蕨手刀が埋められているという事は、蝦夷の反乱を鎮める意図があったと思われる。これもまた「鬼を以て鬼を制す」である。
そして、上野駅に戻る。明治政府の人間により「白河以北一山百文」と東北が軽んじられた時代、東北(鬼門)の玄関である上野駅に、何かしらの呪術が仕掛けられた可能性を考えてしまう。文明開化の時代に呪術?と思う人がいるかもしれない。しかし、昭和時代に建立された遠野市の福泉寺の初代和尚は、戦時中に日本軍に呼ばれ、その当時の対戦国であるアメリカのルーズベルト大統領を呪い殺す事を行っていた人物であった。福泉寺の和尚は、呪いという観念が、昭和の時代にも続いていたという生々しい事実の生き証人でもあった。古くは、蝦夷の反乱を恐れて。また新たな時代には、東北の民が常に従順であるように、何かの呪術を上野駅の下に埋められたと考える。ゆえに私は思う「上野駅の下には、何かが埋められている筈だ。」と。
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琴畑と妙見(其の五)
http://dostoev.exblog.jp/33606870/
2023-11-18T08:09:00+09:00
2023-11-18T08:16:56+09:00
2023-11-18T08:09:08+09:00
dostoev
琴畑と妙見
ここで、もう一度「琴畑」という地名を考えてみよう。菊池輝雄「山深き遠野の里の物語せよ」では琴畑の地名の語源説を「先祖は琴の名手で、慣れない畑仕事の合い間に琴を弾き、はるか故郷の加賀の国をしのんだ。」と記している。しかし琴という楽器は、畑仕事の合い間に奏でる楽器ではない。琴は出雲神話での「天の召琴(あまののりこと)」でわかるように、降神楽器であった。これにより、琴の別名は「神懸かり板」とも呼ばれたのは、「琴」そのものの意味が"特別な呪力を発揮する"であった。その琴の響きが神聖な空間を作り出すものと。そして「琴畑」の「畑」は「ハタ」と読む。「ハタ」は秦氏の「ハタ」でもあるが、八幡神社などの「幡(ハタ)」でもある。この「ハタ」とは、神の依り代であり、幡(ハタ)そのものが神としてみられていた。つまり「琴畑」を言い換えれば「神を降臨させる地」とでも言おうか。ただ、その神とは何かという事になろう。琴畑渓流を遡上し、広又沢方面へ行くと、白望山の登山口がある。「遠野物語」では、多くの怪奇譚が語られる山である。この白望山は、以前は朝倉山と呼ばれていた星見の山であった。それは、過去の記事を参照に「朝倉トイウモノ」。その、星見の朝倉山が、何故に白望山となったのか。ただ、星と白とは関係が深い。白を当初、白山信仰だけの関係で考えていたが、妙見信仰を調べるにしたがい、「白」は鉱山に関わっていたのがわかった。鉱石を「白(シラ)」という事からも、白望山という山名は鉱石を求めた人による命名であろう。「日本書紀纂疏」の記述「星堕ちて石となる」の「石」とは「鉱石」の事を云う。そして、その鉱山との縁の深い妙見信仰と関係する氏族が秦氏である。
以前、琴畑での早池峯遥拝所の場所を聞いたのが、琴畑の奥に住む、俗に「熊吉(クマキッツアン)」と呼ばれる人物だった。その熊吉さんの名字は、現在は琴畑だが本来は「阿蘇」だと述べていた。それが正しいのかどうか、またはどこまで遡れるのかどうか。ところで阿蘇氏と聞くと九州と思いがちだが、土淵が諏訪明神の働きによって開発されたとの話から浮かび上がるのが、信濃国造の系譜に繋がる阿蘇氏の可能性もあるだろうか。
琴畑の集落は、ある意味白望山の麓でもある。琴畑が神を降臨させる地という意味であれば、その神とは白望山と関係が深い神であろう。大和岩雄「続・秦氏の研究」によれば、大分県南海郡の白谷の「白(シラ)」という意味は、穴・洞窟を意味すると。そして、同じ大分県海部郡の白山もまた、洞窟を意味している。また対馬の白岳は、山頂が二つに分かれ、南の山頂を男岩、北を女岩と呼び、その女岩には洞窟があり、女神が鎮座していると云われている。天照大神が天の岩戸に篭ったように、古来から岩屋などの洞窟に入るものは、女神と信じられてきた。伊邪那美も、洞窟を通って黄泉国へ行っているように、洞窟は女性のホトを意味する。つまり、「白(シラ)」が洞窟を意味するのであれば、白望山の神とは女神という事になる。その琴畑には、早池峯の遥拝所が二ヵ所。そして、琴畑渓流の白滝傍の白滝神社は早池峯の方向を向き、早池峯の女神が祀られていた。その早池峯は、白山と重ねられる女神であり、その白山を開山した泰澄は、秦氏である。始閣藤蔵が金を見つけたらお宮を建てると誓ったのは、早池峯の女神に対してであった。そして琴畑もまた、恐らく金を見つける為に移り住んだ秦の民であった可能性があるだろう。
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照井さん
http://dostoev.exblog.jp/33589711/
2023-11-12T09:32:00+09:00
2023-11-12T09:32:56+09:00
2023-11-12T09:32:56+09:00
dostoev
民俗学雑記
千城央「エミシとヤマト」に、阿弖流為(アテルイ)の事が書かれていた。
「山道のエミシの代表は、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏し、延暦二一(802年)年に母禮とともに処刑された大墓公阿弖流為で、その本拠地は岩手県奥州市水沢の辺りにあって、実名は「照井」であったと推測されます。」
わたしは、阿弖流為(アテルイ)という名前に関しては調べる事も無く、ただ古代蝦夷独特の名前であり、単純にそうなのかと思っていただけだった。それが実名が「照井」となれば、遠野市にも何件かの照井さんがいる。遠野市の電話帳で確認すると、36件の照井さんがいた。その照井さんを悪く言うわけではないが、天平年間以降国家反逆罪を犯した首謀者は、斬首や島流しに加えて侮蔑的な姓名に改められた事から、阿弖流為(アテルイ)は「大馬鹿の頭領で安保の照井」という姓名に改められたとみられているそうである。
阿弖流為(アテルイ)という名前だが、以前に読んだ及川洵「蝦夷アテルイ」において、「アテルイ」の名前について述べていた。元は「アテリィ」という名かもしれないと。またアイヌ語で解釈しようと「アッテルイ(気前のいい)」ではないかなどと。また他には「アクルイ(弓の名人)」など、アイヌ語で試みるもどれもしっくりきていない様子。アイヌ語解釈は金田一京助「アイヌの生活と民俗」から、遠野にもかなり影響を及ぼしている。
また千城央は、他にも"照井"に関するものを示した。宮城県の迫川の昔は「照井川」だった。宮城県栗原市若柳に「照井様」という祠がある。宮城県大崎市小野田には「照井」の地名と6世紀後期古墳とみられる「照井塚古墳」。宮城県登米市南方町・東和町・東松島市赤井に「照井」の地名。岩手県一関市に「照井堰」。岩手県奥州市前沢区な「照井館」。これら照井の名のある場所から推察するに、照井は馬牧を持つと共に馬を使って船を上流に曳いていた可能性があると述べている。
この照井の元々は、物部系熟エミシに属していたとみられると述べている。坂上田村麻呂がアテルイを河内国へと連れて行ったのは物部の祖先神磐船神社の饒速日神に誓いをさせて助命嘆願させる為だったと。しかし、それも叶わず斬首され、そのアテルイの首は故郷である北へと飛んで行ったとの伝説が残っている。つまりアテルイにとっての故郷は、物部の祖先神を祀る地ではなく、東北の地であったという事か。しかし、アテルイの魂を引き継ぐ照井さんは、未だに東北に多く存在している。
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物部氏と遠野(其の二)土淵の始まり
http://dostoev.exblog.jp/33588630/
2023-11-11T19:50:00+09:00
2023-11-18T08:17:30+09:00
2023-11-11T19:50:57+09:00
dostoev
物部氏と遠野
土淵町の地域誌である「土渕教育百年の流れ」によれば「土渕の地名は、大字土渕小字土渕を通称土渕といって、土淵はここから出たという。ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」と記されている。この記されている住所は、常堅寺と観光地となっている、俗に土淵の河童淵と呼ばれる場所となる。「まつざき歴史がたり」の「猿ヶ石川物語」には、濁った淵だから土淵とは書かれているが、常堅寺の裏を流れる足洗川は構造上、元々は濠であったと考えられている。しかしそれでも水源はあった筈である。
「土渕」の「渕」であるが、河原ではよく禊や祭祀が行われていた。同じ土渕の小烏瀬川と琴畑川の合流地点「一の渡」は、カテゴリの遠野地名考「一の渡」で書いたが、一(イチ)が神子(イタコ)を意味する言葉で、河原の祭祀場があったと思われる。そして「渕(フチ)」という名の付く場合、大抵の場合禊場であった可能性を見出している。例えば、霊峰富士山は、火の山で有名になってはいるが、本来は霊峰富士(渕)山であった。天応元年(781年)桓武天皇時代に、富士山が噴煙を上げたのが最古の記録か。それから富士山は火山としての認識が持たれているが、富士の語源の本来は、その麓の水からであった。麓には奇麗な水が湧いており禊場として始まった「渕(フチ)信仰」が本来の富士信仰であった。
諏訪を調べていくと、"諏訪の春日姫"が「大祓祝詞」の女神であった。それが浅間大明神であり、富士(渕)信仰と繋がる浅間信仰になる。また、知らない人が多いが、富士の山頂に"白山"があるのも、元々富士山が水を意識した山であるという事。
「大祓祝詞」に登場する女神とは、早池峯の姫神の事である。その早池峯妙泉寺の末寺としての常堅寺は、ある意味早池峯妙泉寺であり、早池峯山の遥拝所として建てられたのではなかろうか。その早池峯の古くは"東峯"と呼ばれたと記録にある。しかし、"東"とは太陽の昇る方位を意味する漢字である事から、それは恐らく盛岡南部の意思から早池峯を東峯と呼んでいるものと考えていた。しかしだ、物部氏を調べていくと諏訪の"守屋山を東峯"と云う事がわかった。そして物部氏にとっての東(あづま)とは、単に東の方角を意味するものでは無く、特別な意味を含んでいるらしい。
遠野の早池峯を東峯と名付けたのが南部氏ではなく、物部氏であったのならば、それは早池峯が物部氏の崇敬する山である守屋山を重ねた可能性がある。諏訪の守屋山であるが、"諏訪明神は元来守屋山から降臨する"と伝えられている事から、土淵が諏訪明神によって開発されたと伝わるのであれば、土淵の地名の発生した常堅寺の建つ一帯が、早池峯の神の降臨地とみるべきだろう。つまり言葉を置き換えるならば「諏訪明神は東峯から降臨する。」または「早池峯明神は東峯から降臨する。」である。白山中居神社の由緒も、白山の女神が降臨する地であった。それと同じ構図を持った伝承が、上郷町の中居に伝わる伝説。その伝説には南部の殿様が登場しているが、恐らく南部氏が早池峯の遥拝所である上郷町の中居の伝説に自身を組み込んだものと思える。その白山を開山したのが、物部氏の同族である秦氏の泰澄。ともかく、土渕の渕は水神の信仰であり、早池峯の神の降臨地であった可能性がある。
ところで「渕」を「水」として考えた場合、陰陽五行において「土」と「水」は相克の関係である。土が水を汚すとされるので、「土渕教育百年の流れ」の「ここには淵があって、常にその水が濁っており、その渕の底を見る事が出来なかったそうだが、アイヌ語で「河の穴」という意である。」との記述はある意味、陰陽五行に則っている。ただ別の可能性として、足洗川が濠だとされるように、土によって川の水を抑制した事から土淵となった可能性もある。何故なら、物部氏の同族に秦氏がいる。秦氏は、土木作業に秀でており、平安京の治水を含めた土木作業を行っている。土渕という地名が、川を制圧した地名である可能性もあるのだろう。
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駒木の周辺(妙見と秦氏)
http://dostoev.exblog.jp/33576483/
2023-11-06T15:03:00+09:00
2023-11-06T15:03:13+09:00
2023-11-06T15:03:13+09:00
dostoev
民俗学雑記
松崎町駒木であり、遠野馬の里の側に「マンコ長者の愛馬供養の…。」という標柱があり、その奥にマンコ長者の愛馬を祀った駒形神社(蒼前堂)がある。
この駒形神社には謂れが二つほどある。一つが、マンコ長者の愛馬が倒れ供養の為に神社を建立し、旧1月16日を縁日として参拝したとの説。もう一つは、八幡太郎義家が桔梗ヶ原にて狩をしている際に、秀馬が脛を折った為にこの地に神社を建立し祀ったので「脛折り蒼前」と名付けたという、どちらも信憑性に欠ける伝説となっている。
ところでこの「マンコ」だが、現代ではいささか口に出し辛い名称となっているが、本来は目の上の女性に対する尊称であったようだ。また有名な「曽我物語」での曽我兄弟の母親の名は「満江(まんこう)」で、四国の果てまで旅をし伝説を作った事から、あちこちに「まんこ屋敷」と呼ばれる跡地があるらしい。民俗学者の松山義雄は「"まんこ"は、童子の霊の口寄せの巫女の名前であったかもしれない。」と述べている。可能性として、"まんこ"という女長者はいなかっただろうが、"まんこ"と呼ばれた高名な巫女は、この駒木の地にいたのかもしれない。この駒木の地に住んでいた巫女であるまんこの、一頭である愛馬を祀った蒼前堂であるならば、八幡太郎義家の馬を祀ったという話よりも信憑性は高くなるだろう。
ところで、この駒木の地に館跡がある。「遠野市における館・城・屋敷跡調査報告書」によれば、この駒木地域では「館」とだけ伝わっており、地域を考慮して「駒木館」とはしているが、情報は一切不明としている。この報告書の調査員は、その理由として南部藩時代に「語部」を禁止した事をあげている。この語部とはつまり、敗者の伝承を禁止したという事。ここでの場合、南部氏以前に遠野を支配していた阿曽沼という事になるだろうか。しかし、それ以前となると奥州藤原氏や、その祖である安倍一族まで遡るのかどうか。ただ事実として、この駒木の地に誰かが住んでいた事が、調査でわかっている。
また、地域紙である「まつざき歴史がたり」でも「駒木の人々でさえ"駒木館"の存在を知る人は少ない。」と述べている。気になったのはその駒木館のある地形の記述だった。「後ろに高栖山を背負い」とある。これは「琴畑と妙見」でも書いたが、鷹は鍛冶の神でもあり、産金・冶金に深く関わる。その鷹をシンボルとしているのが、古代の豪族である秦氏である。大和岩雄「秦氏の研究」「河内・山城の鷹巣山。鷹尾山・鷹ヶ峰」の項で、「"鷹巣を名乗る氏族が秦氏系"であることからみても、秦氏が鷹をシンボルとしていることは明らかである。」と述べている。とにかく全国の、鷹巣・鷹尾の付く地名・山名に関係しているのが秦氏である。恐らく、駒木館の背後の山の本来の名は、鷹巣山であろう。
この駒木の駒形神社の額には「蒼前堂」と書かれている。この蒼前(そうぜん)は「勝善(しょうぜん)」とも言われ、福島県相馬地方の妙見信仰は、勝善神と習合し牛馬の守護となっている。この蒼前堂の狛犬が牛であるのも、その影響によるものだろう。そして馬は妙見の化生、使徒であるともされた。
恐らくだが、遠野で有名な旗屋の縫の「旗屋」も、秦氏の秦ではなかったか。「旗屋の縫物語(山の祟り)」に登場する暗い夜道に現れ、旗屋の縫を家まで導いた白馬は、暗闇から目的地へと導く星の役割を担っていた。その旗屋の縫の観音堂手前に白馬を祀る駒形社の根底は、妙見と馬との結び付きを意図したものであろう。駒木の地の蒼前堂も含め、鷹巣山など、ちらほせと秦氏の顔がチラつく。実際、阿曽沼氏が横田城を築く以前に、近くには奈良時代の遺跡とされる高瀬遺跡がある。その高瀬遺跡からは「物部」と記された須恵器が出土している事から、その物部氏の同族ともされる秦氏が遠野に来ていてもおかしくはない。いずれ言及するが、横田という名称も「横田物部」と云われた物部氏が遠野に移り住んでのものではないかと考えている。同じ、横田村である陸前高田に「猿楽」という地名があるのだが、猿楽の祖は秦氏である事からも、陸前高田の横田村も秦氏が移り住んだものと考えている。
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笛吹峠
http://dostoev.exblog.jp/33574036/
2023-11-05T11:26:00+09:00
2023-11-05T19:45:28+09:00
2023-11-05T11:26:06+09:00
dostoev
遠野・語源考
現在「笛吹峠(ふえふきとうげ)」とは呼ばれているものの、大正時代の「上閉伊郡誌下閉伊郡誌」によれば、「吹雪(ふぶき)」が転訛されて「ふえふき」になったと云う。吹雪を意図した笛吹峠の話に、吹雪の日に峠を誤って転落し、助けを呼ぶ為に笛を吹いたが発見されず、死んでしまった盲人の話がある。
ただ、鉱山などの金属に関係する集団と関わる地に「笛吹」という地名が付く事から、やはり世界遺産登録になった橋野溶鉱炉址を意識せざるおえない。「笛吹」は、鉄を吹く、フイゴを吹くという仕事を意図している言葉になる。フイゴを吹くという行為は、そこに伊吹を伝えるという事で、神霊との結び付きを意図する行為でもある。
北限の海女で有名な岩手県の久慈市に伝わるものとしては、海女が海面に上がって吹き出す息を「常世の風」を招く風招きの風習である。また遠野市の綾織地方では、夜に口笛を吹くと嵐を呼ぶと伝えられている。また同じように青笹地方でもまた、夜に口笛を吹くと大風が吹くと云わっている。綾織地方では、稲刈り後の稲などのゴミが溜まった頃を見計らって、夜に口笛を吹いたものだと云う。そうする事により、収穫後の汚いゴミが全て吹き飛ばされて綺麗になるからだと。だから逆に、普段の日は決して夜に口笛を吹くものじゃないと戒めているそうである。
そもそも、人間の頭という名称の発生は「天の霊(あまのたま)」であり、神霊が降りた部位でもある。その天の霊から生える「髪」は「神」でもあり、「毛」は「気」である。つまり「髪の毛」とは、「神の気」を意味している。そして天の霊の部位である口から吐き出る息は「伊吹」であり、神の霊を吹き入れる行為である。それがタタラのフイゴと連動して考えられている。「上閉伊郡誌下閉伊郡誌」の「吹雪(ふぶき)」が転訛されて「ふえふき」になったという説は、有り得る話ではあるが、遠野の冬は、それこそあちこちで吹雪が発生している。となれば、吹雪を意識した地名がもっと多い筈である。しかし、この笛吹峠の「笛吹」という名を有するのは、橋野溶鉱炉址がある笛吹峠だけである事から、溶鉱炉のフイゴの風を意識した「笛吹」ではないかと考える。
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琴畑と妙見(其の四)
http://dostoev.exblog.jp/33564502/
2023-10-31T22:36:00+09:00
2023-11-18T08:18:04+09:00
2023-10-31T22:36:12+09:00
dostoev
琴畑と妙見
菊池輝雄氏は「山深き遠野の里の物語せよ」において、「落ち武者伝説をもち」「加賀からおちのびて」とは述べているが、それを示す文献(古文書)を示していない事から、それは恐らく口伝だろうと思える。また菊池輝雄氏は、朱塗りの文化の無かった遠野に、マヨヒガ伝説を持ち込んだのは木地屋(木地師)であろうと説いている。また琴畑には長者屋敷が二か所あるという事に言及している。柳田國男もまた、琴畑の長者屋敷について「金山師の屋敷だろう。」と述べている。そして、菊池輝雄氏が指摘しているもので興味深いのが、琴畑の総本家が大向という屋号の家と"鷹巣"という屋号の家であると述べている。
この鷹巣だが、「遠野物語拾遺17」の冒頭に「小友村字鷹巣の山奥では、」と記されており、金山で栄えた小友町にも鷹巣という地名がある。鷹は鍛冶の神でもあり、産金・冶金に深く関わる。その鷹をシンボルとしているのが、古代の豪族である秦氏である。大和岩雄「秦氏の研究」「河内・山城の鷹巣山。鷹尾山・鷹ヶ峰」の項で、「"鷹巣を名乗る氏族が秦氏系"であることからみても、秦氏が鷹をシンボルとしていることは明らかである。」と述べている。その鷹巣の屋号を持つ人物が、琴畑の総本家であるという。秦氏だが、現在の京都である平安京を造ったのは秦氏によるものとされている。その平安京が完成された後、秦氏は桓武天皇に追われた。その秦氏の一部が北陸へ逃げ延び、輪島塗の祖となっている。恐らく、菊池輝雄氏の述べている「落ち武者伝説」「加賀からおちのびて」は、平家ではなく秦氏を意図しての言葉とであったと思われる。その秦氏は全国に散らばり、幡・波多・旗・畑などが付く地名には秦氏が住み着いている場合が殆どである事からも、琴畑は秦氏が移り住んだ地であるだろう。
ところで前回、白山と早池峯が重なっている事を述べた。その白山という「白い山」の意味だが、鉱山を白山という例もある事からも、白山が単なる「白い山」では無いようである。若尾五雄「金属・鬼・人柱」において若尾氏は「白山の「白」は鉱石と関連があるのではないか…。」と述べている。
白山の頂に「御宝蔵」というものがあり、別に「権現の金蔵」と呼ばれている。早池峯にも似たようなものがあり、小田越から登っての五合目には「御金蔵」と呼ばれるものがあるのは、早池峯そのものが疑似白山でもあるからだ。白山の「白」が鉱石と関係あるとされた場合、それは琴畑渓流を遡って到達する白望山の「白」もまた、同じ意味を持つのだろう。その白望山の金沢寄りには、金糞平と呼ばれるタタラ場があった。そもそも白山を開山した泰澄は、秦氏であった。秦氏であるからこそ、白山に拘るのは当然の事である。ところで琴畑ではなく、同じ土淵の山口から登る境木峠の旧道には、白山様と呼ばれる長者祈願の小高い岩山がある。これは、琴畑の長者屋敷と重なるもので、長者=金の発見という意味になろう。これはつまり、始閣藤蔵が早池峯に向かい「金を見つけたらお宮を建てる」と祈願したものと同じであろう。
秦氏の信仰は、白山信仰であり、稲荷信仰(伏見稲荷)であり、八幡信仰であり、愛宕信仰である。遠野には、これら秦氏の信仰していたものが数多く残っている。そしてこれらに加え、もう一つの信仰が妙見信仰である。「琴畑と妙見(其の三)」で慈覚大師円仁が海上で荒れ狂う嵐の中、妙見に祈願した事からも、海上であり水上の安全に妙見が信仰されていた。ただ、先に紹介したように遠野では、水上の安全を願って金毘羅を信仰しているのが殆どでありながら、琴畑には金毘羅の石碑が無い。しかし「遠野物語拾遺119話」でわかるように、琴畑川で木流しの仕事が行われていた。
植野加代子「秦氏と妙見信仰」読むと、秦氏は機織り、鉱物、酒などを扱う氏族であり、木地師でもあった。そしてそれら物資を輸送する手段として船も扱っていた事からも、水上の安全を願って妙見をも信仰していたようである。「日本霊異記」から、大和川流域に於いて妙見菩薩が祀られている土地には秦氏の存在が確認されている。その妙見神は、白山の女神でもあり、早池峯の女神でもある事から、琴畑の入り口で祀られていた神が、琴畑川での安全を祈願された神であったろう。その一つが、白滝神社であった不動堂の早池峯信仰。もう一つが、琴畑の入り口であり北の早池峯を向いていた地蔵端の神。これらが、金毘羅の神に代わって琴畑の水上の安全を守ってきた妙見の神であるのだろう。
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