自分の見解だけれど、この地が遠野で一番地吹雪が美しいと感じてしまう場所だと思ってしまう…。
雪の花咲き乱れゆく平原の妖しく美(は)しき踊る雪姫
風を巻きまばゆく踊る雪舞の冷たき息吹闇を呼び寄せ
雪はただ冷たき歌を歌いして見る者どもの心を奪う雪の舞う冬は、生という厳しさを感じさせる季節である。その冬の中、風に舞う雪を見て、昔の人達は何を思ったのか?美しくもあり、冷たい雪の存在は雪女という、ひとつの妖怪を生み出したのかもしれない。雪女の特徴に、白い肌というのがある。まあそれ以外にも白い衣装というのがあるのだけど、問題はこの白。白という感じの意味は広く、これを「皓」と「素」にわけてみる。「皓」は、自然界の雲や雪。さらに霜・水などから発想された、白い色らしい。皓月や皓雪というのは「白く光って明らか」という意味で、光沢のある白と思えばいい。
そして「素」は、楮などの木の皮を川の流れや雪の上で晒して白くした素糸とか、素絹とか、本来の地の色の白く美しい表現に使うものとされるようだ。つまり素肌という表現は、本来白く美しいものとなるのだが…。「皓」「素」どちらにしろ、いずれも清潔、潔白、高貴、などのイメージがつきまとうものだと思う。そして民俗学的に白色は、生と死を現す色である。死んだ時の死に装束とか、婚姻の時に纏う白無垢の花嫁衣裳。また産室の壁は、白であった。「紫式部日記」に中宮彰子の出産に際して「白き御帳にうつらせ給ふ」と、白い産室に入った事が記せられている。また、「増鏡」では、中宮佶子の出産の描写に、こうある。
「その御けしきあれば、殿の内たちさはぐ。白き御装ひにあらためて、母屋に移らせ給ほど。」
とある。この時代の産室とは実際、十二畳の座敷に北が上座であったそうだ。そして畳のへりには白布が使われ、襖、障子、などは全て白い紙で統一されていたという。元々白は浄化作用もあるので、新たなる生命が誕生する場合、白い壁に囲まれた部屋でお産するというのは当然だったらしい。また自然界でも、白い雪が大地を覆って浄化し、そして春が到来し、新たなる生命が宿るという図式がある。生と死の両方に白が登場するというのは、雪女もまたこの関連性があっての事かと考えてしまう。人間を凍死させる力を有し、また人間の男と結ばれ出産という生をも発生させる雪女。生の発生というか、人間の子供を出産するという話しに関しては、昔も今も存在しえる禁じられた恋という、タブー破りがあったのかもしれない。
雪女の話しは、基本的に異類婚である。その典型的なパターンは、男にタブーを課すのだけれど、男はそれを破ってしまい、女の正体が発覚するという内容である。しかし雪女の場合、高貴な女性がなんらかの出会いにより恋に落ち、出産までいったと考えてしまう。実際、そのような禁じられた恋という出来事は、皆無ではなかったようだ。それかはたまたプッチーニ作曲の「トゥーランドット」におけるカリフが高貴な女性に一目惚れしたように、庶民の高貴な女性を想う願望も含まれていたのかもしれない。
そして、ここでまた白に戻ろうとしよう。白い肌というのは女性の憧れではあるけれど、昔は高貴な女性だけが白い肌を保っていた。何故かというと、大抵は野良仕事をする女性が圧倒的に多く、太陽の日に当って、肌が黒くなってしまう。ところが高貴な女性は普段お屋敷の内部で過ごし、外へと出る時も牛車などに乗って、太陽にあたらないよう努める。先にも触れた、
プッチーニ作曲の「トゥーランドット」というオペラがある。登場するのは、残酷な王女。これを「氷に覆われたお姫様」と称されていた。考えてみると、一般庶民にとっては、優雅な暮らしをしている高貴な女性というものは、肌の白さもあいまって、庶民にとっては冷たき者という存在だった筈である。山の神しかり、嫉妬心も大きく、ある意味庶民に害を成す存在というものは、高き存在にある者達であった。ここで考えるのは、庶民が持ちえない白い肌を所有し、生と死を与える雪女の存在とは、庶民の心から発生した高貴なる女性に対する写し鏡としての雪女では無かったのだろうか?
冷たい雪が舞い散る冬というものは、庶民には冷たいもの。その冷たさが、高貴な女性のイメージと重なり、具現化したのが雪女という妖怪の登場ではと考えてしまう。神の零落したのが妖怪であるならば、それと重複するように、高貴な女性が零落して雪女となったと考えても、なんらおかしくはないのである。