以前、早池峰の神と出雲の神は同じなので、早池峰周辺は神在月と書いたけれど、遠野と出雲の関係を調べると、新しいところで、奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされ、現在の栃木県から阿曽沼という人物が、遠野を統治しにきた。まあ、現代でいうところの左遷なんだろうと思う…。
その阿曽沼の時代の家臣に板沢平蔵という人物がおり、武器の調達役であったという。この板沢という人物は、出雲出身のタタラ業者である太田宗晴一族を説き伏せ、遠野は上郷の森の下へと呼び、居住させたそうな。
太田一族は、蹉跌業者でもあり、古代製鉄法に秀でていたが、いわゆる山師的な性格で、族長であった太田宗晴は、その採鉱治金技術によって阿曽沼へ多大な鉄材資源を供給する一方、伊達藩とも繋がりを持ち、鉄材の闇取引をして莫大な利益を上げていたのだという。
また太田一族に関しての憶測だけれど、上郷町にあったと云う太田館の元々は、この出雲から来た太田一族の居城だったのではないか?
「遠野物語拾遺130」では、この太田館の殿様は石田宗晴という名と記しているが、太田一族の長である太田宗晴とは一字違いだ。また板沢館が同じ時代の板沢平蔵の居城である事から、その可能性はあるのかもしれない。
話は飛んでしまったが、つまり中世の鎌倉時代において、製鉄法の先端をいっていたのは出雲の技術だったのだろうという事。そしてその技術を欲して出雲と結びついたという事なのだろう。しかし古代において、出雲と遠野の繋がりはハッキリ言えない。関連があるとすればやはり「ヤマタノオロチ」の話になってしまうのだと思う。足名椎と手名椎の言うには
「わが女は、本より八稚女ありしを、この、 高志の八俣のをろち年ごとに来て喫へり。今、しが来べき時ゆゑに泣く」とあって、この中の”高志”とは、遠い異郷を示す言葉でもあるので、越の国なのだという。越の国は蝦夷の地でもあったので、その越の国の八俣のをろちを退治する下りは、出雲と蝦夷は敵対関係にあったのか?とも思わせる。
時代は進み、大国主神の時代になって、大国主神は越の国の沼河比売に惚れてしまい、恋の歌を歌う。これは敵対関係か?と思わせるヤマタノオロチ退治の話から急展開で、蝦夷の地である越の国と出雲が結びつく話になっている。そしてこの時、大国主神という名ではなくて、八千矛の神として大国主が現されているのは、製鉄の結びつきができたという意味を含んだのか?とも思ってしまう。