正確な場所は定かでは無いが、だいたい現在の風の丘の裏側に流れる猿ヶ石川に沿った場所にあったらしい。
南部の時代、殺傷場は以前は、今の来内ダムの付近だった。その後、南部利直が「今後は遠野領の科人について、こちらに伺いを立てなくとも、拷問でも死刑でもそちらの役人で執行してよろしい。」という事から。宮の目に殺傷場が設けられたと云う。
女殿様と呼ばれた清心尼公の行使した処刑で有名なのは、お六という女性の磔刑である。清心尼公曰く男女の不貞操の原因はまず女の側にある。」と述べていたようである。そういう時勢に、お六という女は仙台領の旅商人とねんごろの仲となり、ついには仙台領へと駆け落ちしてしまった。
清心尼公は激怒して「これは日頃から、女の操について自分が求めている事に、真っ向から反逆した行為である。これを見逃しては、今後の為にならぬ。」と、役人を通じて仙台領と交渉し、お六を引き取り処刑を命じた。姦通による磔刑は、おそらく遠野だけであったろう…と、世間はその厳しさに恐れ入ったと云う。
この宮の目の殺傷場で、最後に磔にされたのは、お沢という絶世の美人であったという。裸馬に乗せられ、町中を引き回しにされるまでは、化粧した顔に薄ら笑いを見せていたが、いざ磔台にさらされた時の言葉は
「ああ!なんともならぬものか!魂は止まってこの里の活け大根を一本残らず腐らせてみせるぅ!」と叫んだと云う。
が…今も昔も、大根は腐る事なく、育ったという(^^;