阿曽沼の時代の家臣に板沢平蔵という人物がおり、武器の調達役であったという。この板沢の才覚によって、出雲出身のタタラ業者である太田宗晴一族を説き伏せ、遠野は上郷の森の下へと呼び、居住させたそうな。
太田一族は、蹉跌業者でもあり、古代製鉄法に秀でていたが、いわゆる山師的な性格で、族長であった太田宗晴は、その採鉱治金技術によって阿曽沼へ多大な鉄材資源を供給する一方、伊達藩とも繋がりを持ち、鉄材の闇取引をして莫大な利益を上げていたのだという。鉄資源に乏しい伊達藩は、太田一族を優遇し、その組織力をもって「霞組講中」の中心となり、鉱山労働力供給の元締めとして威をふるっていたのだと。
太田一族は、伊達藩から扶持を受けて、箱根峠、赤羽根峠をフリーパスで往来し、森の下に広大な館を築き、平倉平左右衛門と共に、阿曽沼家臣の板沢平蔵と並んで重鎮をなしたのだった。
また南部の時代となっても、いち早く南部に取り入り、その身分や領土は保証されていたというが、それでも伊達との繋がりは幕末まで切れる事は無かったそうな。太田宗晴が組織化した「霞組講中」の「霞」とは「縄張り」「領域」を意味するという。
この霞組講中とは、子供等を含めた農民の男女の組織で、特に婦女子はタタラにより出来上がった鉄製品(鎌・鉈etc)を売り歩く行商組織であったという。その婦女子等は「大和流」という御詠歌を歌いながら歩いたという、労働と土俗信仰が結びついた組織であったようだ。森の下の慶雲寺境内にある写真の石燈は、その霞組講中により献上されたものだという。