本丸の北よりの下手に、沢里氏の屋敷跡がある。沢里氏は、内丸上部北郭の防衛を担っていたのだという。そして、この沢里屋敷跡には以前、尾崎神社を祀っていた。
遠野南部氏が八戸根城より転封後、釜石の尾崎神社に参詣し、海防の海岸警備及び巡視したのだという1635年に幕府は鎖国令を発し、全国に行き渡ったのは1639年。事件として1643年にオランダ船ブレスケン号が飲料水補給のために山田湾に浮かぶ大島に入港した事件があったという事実以外に、江戸時代には、かなりの外国船の往来や難破などがあり、三陸の人々と外国人の交流があったという話もある。中には外国人と結ばれ、その子供を産み落とした女性もかなりいたのだとか。もしかして、聴耳草紙に紹介される「島の坊」の話も、それに関わるのかもしれない。
内丸上部北郭の防衛を担っていた沢里屋敷跡には、海岸の防衛を担っていた尾崎神社を祀っていたという事は、内陸と沿岸両方の防衛を意識してのものとして、沢里氏に期待してのものだったのだろうか?