阿曽沼の家臣で、平清水駿河守平十郎が晩年に発心し平清水禅門として、ここ
に草庵を建てたと云う。頂上は平らで、日当たりは良いという。この草庵に家臣
数人と住んでいたと伝えられている。
南側に頂へと登る兵糧坂というのがあり、現地ではヘオロウと呼んでいる。ただ
し、この道は殆ど無く、今では炭焼きの人間が使った山道があるが、これも今で
は使用する者もおらず、今では道も失せたのでは?という事である。また熊が多
い事から、近所の人々は今ではこの寺地山に登る事は無いのだという。
慶長五年(1600年)に、長子である平右衛門が謀反の後、農夫の礼や態度
が悪いと惨殺したのに対し、父である禅門は、この寺地山を降りて息子を惨殺
し、写真の二基の墓石に甲冑のまま葬られているという。もう一つは南無阿弥
陀仏と刻まれた経塔である。この墓石は、寺地山に向けられて立てられている。
また昔、近所の古老は五色の旗を掲げて寺地山に向かって拝んでいる人々を
見つけて、あれはなんだったのだろう…と述べている。