高校時代に、与謝野晶子の「みだれ髪」を知った。 当時、歌人には興味が無かったけど、与謝野晶子の詩には何故か興味をそそられたものだったなぁ。取り分け印象に残ったのは、当時の担任のテストであった。白紙の答案用紙に「与謝野晶子の詩を、誤字脱字無しに知っている限り書け!」というものだった。更に付け加える事に、1問不正解ごとに竹刀でお尻を叩くという。結果として、自分の点数はマイナス86点…。結局竹刀で86発分お尻を叩かれ、身に染みて晶子の詩を覚え様としたものだった…(^^;
晶子の詩に頻繁に出てくるのは”髪”。髪には、神心な意味がある。ヨーロッパやアフリカをはじめとして、多くの民族では、髪が何らかの霊魂の宿る場所だと考えられていたようだ。ことに古代人は髪に対して強い関心を持ち、霊的な恐れさえ抱いていた。そう、伸長する髪は常に生命力のシンボルでもあったのだ。結びという言葉にも、意味が込められている。ムスビを分割して考えると”ムス”は、ムスコやムスメのムスと同じく草みたいに増えて繁殖する意味。”ヒ”は日と同様、太陽の霊力と同一視された原始的な観念として、生物が増えるように、万物を生み出す不可思議な霊力とされた。 ところが似ていながら”結い”には、また違う意味がある。これは、ある区域に標を立てて垣根を作るなど、印となる物を用いて他人の接触と立ち入りを禁ずるという呪法に近いものがある。
晶子の詩には女の霊力と、それを更なる昇華を示す呪法的な髪を用いて詩を作っている。そして、出来た詩の全ては情熱的で、言霊と捉えてもおかしくないほどの”情念”を感じる。これがまさに、人を魅了し今尚輝ける屹立とした存在を示す晶子の詩なのかと考えてしまうなぁ。
写真の絵は、遠野物語で紹介されている”オシラサマ”の絵において、女を髪だけでを表現している。これは女の髪が霊的な象徴として扱った、一つの例であると思っている。髪は女の命というが、女性そのものを生き様と情念を表現する髪は、まさにうってつけのシンボルだよなぁ。
夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
堂の鐘のひくきゆうべを前髪の桃のつぼみに経たまへ君
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花のあぶら
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾さはりてわが髪ぬれぬ
とき髪に室むつまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜の淡紅色よ
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴と聞きし春の夜の夢
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
紫に小草が上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝
春三月柱おかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪